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戦後、国際政治の概観

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戦後、国際政治の概観

著者

山本 友博

雑誌名

鹿児島大学教育学部研究紀要. 人文・社会科学編

14

ページ

74-81

別言語のタイトル

Survey of the international politic after the

second world war.

(2)

戦 後、国 際 政 治 の 概 観

Survey of the international politic after the secnod

world war. 山  本  友  博 序    言 第一次大戦後,米国大統領Wilsonの提唱により国際連盟が誕生した。そして世界の平和と国際 協力が目的とされ始めて国際政治の面にその使命を果すべく企図されたのである。その結果,生れ たのがヴェルサイユ条約(1919. 6. 28)に塞く,ヴェルサイユ体制であった。勿論米国が参加しな かったことおよび日本が昭和8年に国際連盟を脱退したことはその前途に暗影を投じたのである が,後にソ連が参加することとなり国際政治に大きな影響を与-たことは事実である。しかるに第 二次大戦は1939年に勃発した。第二次大戦は世界の主要国が殆ど参加し国力を賭して戦ったのでそ の惨禍は測り知ることのできない程であるが,独白の枢軸国の敗戦となったのが夫々1945年5月お よび8月であった。戦後の国際関係は正に平和に立ち帰らんとして国際連合が結成されたが,平和 均衡の夢は束の間にして,懸て米ソ二大国は戦勝の結果国際政治の面に強く登場して二大超国家の 対立は冷戦を招くと同時に,米国はNatoを組織してソ連の進出を阻止しやうとし,ソ連はワルシ ャワ条約を中心としてソ連の衛星国家群を率いて対抗している。換言すれば 自由国家群と共産主 義国家群の対立緊重である。この他の諸国に於て,アジア,アフリカに於ける旧植民地は続々とし て政治的独立を獲得し,或は国際連合の一員として国際舞台に発言している。更に国際社会の一部 には中立主義的立場をとっている国もある。大戦後の激動せる国際社会に筆をとることは筆者とし て余りにも大きな問題であるが国際政治の動向を知るためには是非とも必要であり,また,国際政 治研究にも稗益するところがあると考えられるので資料不足にも拘らず起稿した次第である。勿論 国際政治は各国のNational interestを基調とするものにして,その対立は緊重と緩和,並に冷厳 を意味するものであることを前提として第二次大戦後の国際政治を概観することとする。 本    論 (I)国際政治の変遷-(欧洲を中心として) 第二次大戦中,米国ソ連の関係は緊密にして独乙打倒のため戦略物資を米国がソ連に輸送した し,ソ連は1943年,突如として第三inter即ちゴミシテルを解散したのである。かくて戦後,戟 勝国は敗戦国の管理にあたることとなったのである。穀に平和の黎明は訪れ,国際連合(1945)が 正式に発足したのである。しかるに西欧諸国即ち英仏独伊等の諸国は何れも経済的疲弊が甚だしく 自国の力のみにて復興も覚つかない状態であり,東欧諸国は独乙軍敗退後にはソ連軍の進駐があり 反Fascism的政党の台頭が見られることとなった。戦勝国は占領政策を開始することとなった

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が,戦後,暫らくすると米ソの間に見解の相違が露呈したのである。それを早くも指摘したのは英 国の政治家Churchillで奉る.彼は1946年3月米国のフルトンに於ける演説で「北はパルチック 海のシュテツテンから南はアドリア海の下りヱストまで欧州大陸を横切って鉄のカーテンがおろ されている」と述べたのである。また,米国大統領トルーマンは1947年3月12日にはトルーマ ンdoctrineを発表したが,蜜に,米国の対ソ協調政策を一変させ,公然と反ソ反共の政策が明か にされたことを示すのである。 (A)共産圏の駄犬と米ソ二大超国家の対立 戦後,共産圏諸国は非常に拡大されることとなったが,ソ連勢力の海外浸透に対して, 1947年 3月米国はトルーマン主義を発表して,希臓,土耳古に4億ドルの援助を与えた。この援助は浸透 するソ連勢力に対するContainment policyと称せられるのであるが,希臓の共産党を支持するソ 連に対抗する結果となったのである。さらに1947年6月米国々務長官マーシャルは欧洲の経済復興 のため強力な援助を行う用意があることを声明し,ヨーロッパ諸国の間で復興計画を立てることを 要望した。これがマーシャル・プランと呼ばれるものである。その経済復興計画は欧洲自由諸国だ けの共同計画であるが,これが実行に移されたのは1948年4月からであった。これにて欧洲の復興 は急速に行はれたが,ソ連及び東欧諸国はこれを「アメリカ帝国主議の反ソ政策」と断じて,これ に対抗し共産主義勢力の団結連絡を目的として1947年10月コミンフォルムを創設したのである。 扱,東欧6ヶ国は戦後人民々主々義国家-と変貌してゆくのであるが.コミンフォルムは1947年 9月にポーランドに於て会議が開かれたが,これに参加した国は,ポーランド,チェコスロバギ 辛, -ンガリー,ルーマ-ヤ,ブルガリヤ,アルバ-ヤの諸国であり,後に東独乙も参加すること になったのである。チトーの率ゆるユーゴースロバギヤの共産党はソ連の利益に反する態度を示し たので1948年6月コミンフォルムから除名されたのである。 西ヨーロッパ連合, 1947年末に仏国と伊太利に於て大規模なストライキがあったがこれに刺戟さ れて, 1948年1月に英国は仏国その他の西ヨーロッパ諸国と政治的車掌的連合を結ぶことを提案し た。 1848年3月に白耳義のブラッセルに於て英,仏,白,和蘭,ルクセンブルグの間に「社会的, 経済的,文化的協力と集団自衛のための条約」が結ばれた。それは之等5ヶ国の間で外部からの攻 馨に対して共同防衛の政治的軍事的な協力と共に経済的,社会的,文化的協力のためのものであっ た。このブラッセル条約(1948. 3. 17)は英国の首唱にて独乙の侵略に備えようとしだものである 那,東西冷却の結果,後に1955年西独乙を加えて西欧連合へと改称されて事実上はNatoと一体 となるのである。 戦後,独乙は4ヶ国管理のもとに置かれた。英米仏の支配する西独乙とソ連の支配する東独乙と の間に大きな溝が作られた。東独内部にあって孤立する伯林は,独乙の統一問題につき米ソの意見 が対立し, 1948年西側の単独通貨改革によって最大の危機を迎えた。ソ連は西独乙と西伯林の間の 地上交通を遮断し(侶林封鎖)西欧側も西伯林-の空中輸送によって強く対抗したが, 1949年5月 ソ連は伯林封鎖解除を行い事態は平和となったが対立は緩和されず,同年5月西独乙はボンを首都

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として独乙連邦共和国が成立し,栗独乙は同年10月独乙民主共和国の成立を宣言し,ここに束西独 乙に分割されることになった。 1948年から1949年になると東西両陣営の対立は緊重の後に,明確な姿にて対立の様相を呈する ことになった。米国は1949年頃まで唯一の原爆所有国として欧州問題に対処してきたが,鼓に登場 することになったのが北大西洋条約機構(Nato)の成立である。尚,ソ連を中心とする共産圏の拡 大については後に述べる東南アジアの情勢とも関連して,一考すべき問題と考えるのである。 (B)北大西洋条約桜構(Nato)の成立 1949年北大西洋同盟条約として西欧12カ国によって締結されたが,その後,希臓,土耳古を加 え西独乙をも加えて陣容を整えることとなった。成立当時,ソ連は原爆を所有していなかったか ぽうだ√ ら,米国の原爆による圧倒的軍事的優位のもとにNatoはソ連の彪大な在来兵力に対してのみ対抗 すればよかったので, Natoの最初の任務はソ連軍を討ずるということにあった。しかるにその 後,ソ連軍の原子兵器所有の急速な発展に伴い〔1949年ソ連の核兵器所有宣言, 1953年水爆所有宣 言, 1957年人工衛星打上成功, ICBMの実験成功等〕米国がニュールック政策(1954年)をとる至 ってNatoもその線に沿うてソ連に対する抑制阻止戦略の一環を担うことになったのである。それ は防禦的なボーズから前進戦に転ずることになったのであるが,更に重要なことは1954年の決定 の結果, Natoが核武装にふみきったことである。 西欧諸国もNato成立当時には経済的疲弊から抜け切らずに米国の経済的援助を必要としていた そくばぐ 那,経済力と政治的安定を回復し,アメリカ依存の皮を低めてきたのでその束縛から離脱しようと するのは当然である。 Natoの危機と云はれるのがそれである。かかる傾向はNato構成諸国内に その離反の誘惑を引き起こした。原子兵器による"脅怖の均衡"が存する限り米ソ両国のみならず 同盟国もその全面的破懐を恐れるからである。それ故,西欧諸国が安全を求めて生き残ろうとする なら米国と深入りすることを避けることが必要になってくるのである。西欧諸国の反応は米国との 深入りをさけて中立主義に走るということになるのである。 Natoの主導力は英米2ヶ国が握って いるが,原子兵器の発展によって欠陥を露呈するので奉る。 真の平和を達成するためにはNatoを解消すると同時に,赤いNato即ちワルシャワ体制をも 解消することが必要であるとは英国労働党ヒユーズ議員の論説でもある。 (C) ワルシャワ条約穣樺の成立 1953年Starlinの死後,マレンコフが就任,マレンコフが水爆所有の宣言を発したが,ソ連の タト交政策は「雪解け平和攻勢」をとることになった。 1954年10月西欧9ヶ国は仏国の拒否権に よって流産したEDC (西欧連合)に代って,西独乙の再軍備と Nat0 -の加入を実現するため London Pari協定を締結した。この協定は1955年5月(昭30年)に西欧諸国に批粧され西独乙の 再軍備と Nat0 -の加入が実現することとなった。これに対応するかの如く1955年5月14日東欧 7ヶ国に於てはワルシャ ワ条約の調印が成立したのである。この条約の加盟国は次の如くである。 アルバ-ヤ人民共和国  ブルガリヤ人民共和国  -ンガリー人民共和国

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ポーランド人民共和国  ルーマ-ヤ人民共和国  チェコスロバキヤ人民共和国

独乙民主々義共和国

米国大統領Eisenhauerは1952年就任後,所云「捲き返し政策」 Roll back policyによって

ソ連に対し強硬に当ろうとしたが,而し国内の与論とソ連,アジア諸国の平和外交によって次第に 中立政策に戻された。 1955年のジュネーブ会談に於て米,英,仏,ソの4巨頭が国際紛争を平和的 に解決しようと約束したのはその表われである。また,オーストl)ヤはこの年に永世中立国として 主権を回復したのである。 1955年以降に於てはNato対ワルシャワ条約加盟国の対立,即ち西欧自由国家群対共産圏8ヶ 国の両陣営の対立として了解されるのであるが,かかる背景のもとに於て, 1961年8月13日勃発 の伯林問題も考慮さるべきではなかろうか。 次に1956年になると新しい国際緊張が加はった。第一はEgypt政府のスエズ運河国有化の宣言 に対する英仏の出兵事件であり,第二はソ連の雪解け平和政策に端を発した-ンガリーの暴動に対 するソ連の軍事的干渉であった。これ等の事件は1957年には解決されたが何れも両陣営の自己強化 に向ったと考えられる。また, 1957年米国は中東欧諸国-の援助と共産主義勢力の排除を約束しバ グダード条約機構の強化を狙ったがイラン,イラクはこれを歓迎し, Egypt,シりヤは反対したの であるが,ナセルのアラブ連合が積極的中立政籍を主張して,その指導権がのびつつある。 1957年 ソ連のICBMの実験成功,人工衛星打上成功の寧実は世界政治に於ける大きな比重を加えている とも考えられるが,西欧諸国の経済復興に関するEECの問題を次に検討することとする。 (D)欧州経済共同体(EEC)

EEC に加盟する国は西独,仏,伊太利, Benelux 3カ国の6カ国である。 1944年9月Benelux

3カ国はロンドンに於て関税同盟を結んだが,終戦後,欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)創設に関す る条約が1951年4月18日6カ国間に締結された。以後, 1953年石炭,鉄鉱石等の共同市場の設定, 1957年欧州経済共同体設立に関する条約(一名ローマ条約) -1958年1月1日発効(昭33年)関 税4割引下-が締結されて6カ国間の提携は緊密化されて1958年以来,独乙,仏国を中心として 清瀬な経済取引が行はれることとなった。このローマ条約は関税や輸出入制限を撤廃する関税同盟 であり農産物及び運輸の面に特殊共同政策を確立することとなった。関税の撤廃や低下は経済取引 又はその繁栄を意味することとなる。 1962年共通農業政策につき協定が成立したと伝えられる。こ の共同体は経済的統合を意味するものであるが1961年8月伯林問題以来,政治的統合へと発展する 気運があるもそれはなかなか困難な事業であると考えられるので奉る。このEECは1958年以来, 異常な成果を収めつつあるが,英国は始め1959年3月にはEECに参加せずその外側に欧州自由貿 易連合(EFTA)一英国が主でSwiss,スウェーデン,オーストりヤ等7カ国にて結成一を結成し たのであったが, EECの発展を見て自らも参加したい希望を1962年になってもつようになった。 米国はEEC 6カ国と欧州自由留易連合の7ヶ国が対立している現状は好ましくない印象をもつこ とになり,両者の対立調整に努め, 1960年以降EECの再編成をめざす大西洋会議を強力に推進し

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か鳩植 た。そして経済協力開発機構(OECD)を作り加奈陀を誘ひ自らも参加することによって両ブロッ クの対立解消の場を作り出すと共に復興した西欧諸国にも低開発国援助の分野で一役買はぜ彼等と 平等の立場に立つことこれが新機構-の米国の期待でもあった。 EECの経済的繁栄はEECが経 済の国境を除去しようとして実施された結果であるが,これに対し英国が参加したい希望を1962年 になって持出したが,英国としては英連邦諸国との間に特恵条約があり,英連邦諸国の承認がなけ れば出来ないので交渉中であると伝えられる。米国も本年になって参加したい希望が出ている。米 大統領は通商拡大法案を議会に提出したが議会は9月に可決されたと伝えられるので,今後米英両 国の参加が問題である。 扱,このEECと対既的なものがコメコン(栗欧経済相互援助会議)である。この加盟国はソ 連,ブルガリヤ, -ンガリー,ポーランド,ルーマ-ヤ,チェコスロバギヤの原加盟国にアルバニ ヤ,東独,モンゴールを加えて9カ国である。今から13年前に建設されたのであり,その目的は西 欧市場との貿易(農産物,工業原料の輸出,機械設備の輸入)であったが,これも関税障壁の打破 をEECが実施したため完全な頭打ちになっている。コメコンが真に相互援助的な経済体制として 進んだなら大きな発展をしただろうと考えられるが,実際にはソ連の利益に奉仕する機関に止って きたと云われるが,ここにEECとコメコンの本質的な差異がある。 (E)申立主義の台頭 欧州に於ける中立国として瑞西の歴史は余りにも有名であるが,スウェーデン,オーストリヤ (条約による)の3国が存する。弦にいう中立主義とは東西両陣営対立の結果,核兵器の異常な発 展により,若し戦争となれば人類文明の壊滅を蘭らす故に核武装反対,平和主義,中立主義の型と なって表われた現象を言うのである。西欧諸国にも東欧諸国にもかかる中立主義の見解はある。ポ ーランドのラバッキー外相によって中欧非核武装地帯設定に関する提唱がなされたのはそれであ る。また,スウェーデンの中立は伝統的なものである。かかる Europe型に対してAsia, Africa 型の中立主義-ネール首相の第3勢力として中立主義,カンポジヤの中立等-というべき型が ある。ネール首相は平和5原則に依拠しつつ帝国主義-の反抗,即ち反植民地主義を唱えているの である。従って単なる中立主義ではなく積極的中立主義と解すべきものであろう。 頼りみるに,戦後,国際連合が出発して国際政治の面に大きく登場してきたが,国際政治の実状 は米国を中心とする自由国家群とソ連を中心とする社会主義国家群とに大別される両国家群の対 立,緊張と緩和に存する。換言すればNato加盟国とワルシャワ条約加盟国との対立にあると考え られる。 Nato発足当時は米国の原爆所有の優位のもとに展開されたが,その後,ソ連の核兵器の 所有宣言(1949),水爆所有宣言(1953),人工衛星打上成功(1957)とICBMの実験成功等によ って均衡も変りつつある現在,国際間に中立主義の台頭もあるが, 1958年以来, EECの発展は関 税障壁を打破して経済的繁栄を麗らすものであるが,その政治的統合は今後の大きな課題である。 而し国際問題の先決,緊急な問題は核兵器絶対禁止と軍縮問題であると確信される。 吾々は世界の政治の動向を察知すると同時に日本はまた如何なる位置づげにもるかを知悉し,国

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際連合を通じての外交方針により世界平和に貢献すべきであると考えるのである。 (Ⅱ)植民地主義の崩壊 十九世紀の下半期に於ける列強の植民地獲得の競争,即ち帝国主義時代に於ける旧植民地が第二 次大戦後,続々として政治的独立を獲得することとなったことは戦後に於ける大きな特徴である。 勿論それは民族主義の台頭,植民地に於ける原住民の自覚等と相待って完成されることとなったの である。 第一に印度,東南アジア方面から観察すれば,印度が1947年8月独立,英連邦内の自治領とな り, 1950年1月から自らの憲法を実施して共和国となったのを始めとし,パキスタンが1947年独 立を完成して英国の自治領として出発した。その他の独立国家を示せば次の如くである。 ブ ー タ ン(1947年 旧英領)      セ イ ロ ン(1948年 旧英領) ビ ル マ(1948年 旧英領)       ラ オ ス(1945年 旧仏領) 北ベトナム(1945年 旧仏領)       南ベトナム(1949年 旧仏領) カシポジヤ(1953年 旧仏領)       マ ラ ヤ(1957年 旧英領) インドネシャ(1949年 旧オランダ領)    フイ りツピン(1946年 旧米領) この他,中華人民共和国,台湾,朝鮮,モンゴール等の独立があったことは大きな変化であった。 第二にアフl)カ方面を観察すれば アフl)カにはl)ベ))ア,挨及,南アフl)カ共和国,エチオピ アの4つの旧独立国家があったが,戦後に於ける独立国家は29カ国にも遷した。その内訳は1951年 から1959年迄に6つの独立国家が完成され, 1960年には17の独立国家が登場し,その後6つの独 立国家が完成されている。 従って1960年はアフリカに於ける民族国家独立の年とも言えるであろう。これ等の新しい独立国 家は旧仏領,旧英領,旧伊領,旧ベルギー領国家から夫々独立を完成した訳である。何れも嘗ては 櫨民地として本国の支配下にあった国民がその政治的独立を完成したので奉るが,二十世紀後半期 に於ける顕著な現象として理解すべきであり,植民地主義は過去のものとなりつつあることを実証 するものである。今後の政治として国際民主々義を基調として集団安全保障制によって,各国の主 権の尊重,相互平等の立場に於て,経済的繁栄を享受しつつ進むものと考えられるのである。 (ⅡI)東洋に於げ ろ変遷 戦後に於ける大きな変貌としては,中華人民共和国の成立,朝鮮に於ける南北両鱒の独立,日本 国の変貌,北ヴェトナム人民共和国の成立,モンゴール国の独立等で奉る。 戦後,中国に於ては中国共産党と中国国民党の対立,即ち毛沢東と蒋介石との対立があり,米国 はその間の斡旋に乗り出したが功を奏せず遂に内戦となったのである。国民党の方には米国から軍 籍物資の援助があったにも拘わらず,清洲から華北,華中-と主導権争ひの形で内戦が展開され遂 に中共軍の勝利となった。毛沢東は1949年10月1日に中華人民共和国の成立を世界に宣言したの である。 1950年2月には中ソ友好同盟相互援助条約を結び,ソ連との関係の強化を図り, 1954年に は憲法を制定したのである。新しい国家は人民々主々義国家として労働者階級が指導し,労農同盟

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を基礎とし,民主諸階級と国内諸民族を結集した人民の民主主義的専制を実行し,帝国主義,封建 主義及び官僚資本主義に反対し,中国の独立,民主,平和,統一,富強のため斗うものである, (中 国人民政治協商会議共同綱領第1条)と国家の性格を規定した。旧来の国旗である青天白日族を廃 止し五星紅旗を採用し,国家の制度を改革すると共に,土地改革法,婚姻法の制定によって新しい 国家として誕生したのである。従来の封建主義,大家族制度の廃止,婦人の解放,学制改革等によ り新しい国家は生れることとなったのである。 朝鮮は約半世紀に亘り日本の支配下におかれていたが, 1945年日本軍の敗退,ソ連軍の満州, 北朝鮮-の進駐は,北朝鮮に人民々主々義国家の成立に決定的な影響を与えたのである。南朝鮮に は米軍の進駐が行われたが, 380線を境界とすることとなった。朝鮮共産党の成立は1925年でちつ たが,その解散という過程を経て民族解放運動は1930年代以降に於て金日成将軍を指導者とする抗 日遊磐武力斗争の段階にあった。彼等は長白山脈と松花江流域に根拠地を有していたが,日本軍の 敗退後,朝鮮に於ける人民々主々義的発展をになう力となったのである。 米国はモスクワ外相会議の決定によって設置された米ソ共同委員会の仕事を遂行せず更にソ連の 提出した米ソ両軍の同時撤退と朝鮮問題の解決を朝鮮人民自身に-任せよとの提案を拒否して,朝 鮮問題の審議を国連に持ち込み南鮮単独選挙を強行することに決定したのである。その結果, 1948 年8月15日大韓民国(南鮮)が成立し,李承晩政権が確立したのである。北鱒の方は同年9月9日 朝鮮民主人民共和国として誕生し金日成が初代首相に選出された。弦に朝鮮は南北に二分された性 格の異る国家として発足することになったのである。 次は日本国であるが,敗戦後,米国の単独占領が開始された。米国の初期の政策は日本の非軍事 化と民主化を目標として1946-1947年の間に制度的構造的再編成が企図されたが,日本国憲法の制 定もかかる関連性に於て理解されるのである。 1950年6月に始まった朝鮮戦争は対日講和条約を促 進する結果となったのである。対日講和条約は1951年9月桑港に於て締結され,日本は主権を回復 し独立国となったが,日本国憲法の基調である民主々義と平和主義は戦前の様相を一変することに なり,日本の外交は国連中心主義の外交方針を採用しているのである。 戦後,東南アジアには独立国であったタイの他に7つの独立国が出現している。フイリツピン は1946年の夏,印度とパキスタンは1947年秋,ビルマとセイロンは1948年始めに夫々独立した。 これ等の諸国では主権の移譲は平和のうちに行ほれた。インドネシャほ和蘭の軍隊とインドネシャ 軍との間に軍事行動が展開されたが,結局, 1949年末に和蘭はインドネシャの独立を承認した。印 度支那では仏国軍とボー・チーミンのヴェトミン運動との間に戦争が展開されていたが,ヴェトミ ン運動は1950年以来,ヴェトナム民主共和国を建設するに至ったのである。 東洋並びに西欧方面の諸国を観察する場合,米国の反共政策とソ連の衛星国家群の拡大政策の何 れかに開通していることになるのであるが,自由国家群と共産圏国家群の緊張と対立はやがて中立 主義の台頭を促すことになるのである。而し20世紀後半の歴史は後進国に於ける民族主義,ナショ ナ7)ズムの運動は旧植民地体制が維持できないものでもることを実証するものである。人類の文明

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と科学の発達を基調に置き国際問題に対処すべき時代であると考えるのである。 あ  と  が  き 顧るに第二次大戦後,世界平和の黎明が訪れたと考えるのは束の間にして,米国を中心とする自 由国家群とソ連を中心とする共産国家群の対立抗争は1948年以来,明瞭となり, Nato条約機構と ワルシャワ条約機構の対立として結実したのである。他方に於て国際連合は世界平和と国際協力を 目的として発足して国際政治にその役割を果しつつあるも,国際関係の緊張と冷厳を緩和するのに 未だ十分の効果を挙げたとは言えない。東西両陣営の対立の中から中立主義の台頭,アジア,アフ リカ方面に於ける低開発国の民族主義は政治的独立-と発展したが,これは旧植民地体制の崩壊を 意味するものである。 更に,按んずるに,文明と核兵器の異常な発達は20世紀後半に於ける著しき現象であると共に人 類-の大きな課題でもある。人類はその理性に立ち帰り核兵器の戦争利用絶対禁止と軍縮問題を克 服すべきで奉る。かくて国際政治の基調は国際民主々義と平和主義とを支柱として,人類の平和と 繁栄に貢献すべきであるが,弦に20世紀後半に於ける人類への課題があると考えるのである。

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