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三論学綱要書の流通を通してみた百済仏教学の日本仏教への影響

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三論学綱要書の流通を通してみた

百済仏教学の日本仏教への影響

︿ 目 次 ﹀ 四 論 玄 義 記 ﹄ と 一 冗 暁 の ﹃三論玄義︵宗要︶﹄が確認される。この はじめに つの文献は、七四

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年代から七六

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年代まで頻繁に筆写されて広く 奈 良 時 代 の 三 一 論 学 綱 要 書 流通されている。反面、後代日本仏教界において三論学の基本綱要 平安時代に流通された三論学綱要書 書として広く読まれていた吉蔵の ﹃ 三 論 玄 義 ﹄ と ﹃ 大 乗 玄 論 ﹄ な ど 四 日本古代三論学に及ぼした百済仏教の影響 は流通された痕跡がみられていないのである。﹃二諦義﹄と ﹃ 三 弘 一 酬 五 おわりに 略章﹄など、吉蔵のほかの著述も七六

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年代以降にはじめて流通さ れ て い る 。 ︿ 要 約 ﹀ 八世紀末以降には以前とは違い、士口蔵をはじめとする中国僧侶た 日本の仏教は百済を通して伝来されたのであるが、日本古代仏教 ちの三論学綱要書が多数流通されている。ところで、この時、新た 界に及ぼした百済仏教学の影響は具体的に知られていないのであ に流通された文献の中にはそのアイデンティティーが不分明なもの る。ところで、最近、百済で撰述されたものと知られる﹃大乗四論 が少なくない。僧肇や法朗のような三論学祖師たちの名前に仮託さ 玄義記﹄が日本古代三論学の発展に大きな影響を及ぼしたことと確 れた文献が少なくなく、吉蔵の著述と伝わるものの中にも吉蔵本人 認 さ れ る 。 の著述でない後代に編集されたものがある。このような様々な文献 奈良時代に流通された主要三論学綱要書としては、慧均の﹃大乗 の中でも吉蔵の著述と知られる ﹃三論玄義﹄と﹃大乗玄論﹄は奈良 コ一論学綱要書の流通を通してみた百済仏教学の日本仏教への影響

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時代の代表的文献である﹃大乗四論玄義記﹄と﹃三論玄義︹宗要︺﹄ に代わって、代表的三論学綱要書として流通されたのである。 ﹃大乗玄論﹄は、既存の﹃大乗四論玄義記﹄をモデルにしながら、 これを簡略に整理した文献にして、土口蔵の著述に基づいて日本で新 たに編集されたものと考えられる。三巻八篇で構成される﹃大乗玄 論﹂は、二十三篇の主題を十二巻に収録する﹃大乗四論玄義記﹄に 比べ活用するのに便利であったろう。﹃三論玄義﹄は、本来、三論 に対する吉蔵の注釈書中、 一部を再整理したもので、特に三論学論 書のほかの経論に対する優越性を強調するところに特徴がある。こ れは諸経論の思想的違いを会通する和誇を重視していた元暁の﹃三 論宗要﹂とは異なる性格である。奈良時代後期以降、日本仏教界は 学派閥の競争と宗派意識が強くなった結果、このような文献が登場 するようになったと考えられる。 このように日本の三論学︵派︶は、初期には韓半島︹朝鮮半島︺ で撰述された﹃大乗四論玄義記﹄と﹃三論告示要﹄を土台にして形成 されたのであり、以降、宗派として発展する段階には、吉蔵の著述 を土台に日本で再編集された﹃大乗玄論﹄と﹃三論玄義﹄を土台に 独自的な性格を整えていった。ところで﹃大乗玄論﹄は、体制のみ ならず、内容においても﹃大乗四論玄義記﹄をモデルにして、これ を変形させたものであった。このような点において﹃大乗四論玄義 記﹄は、日本古代三論学︵派︶ の形成と発展の土台になった最も重 要な文献であるということができる。そして﹃大乗四論玄義記﹄ このような位相を考慮する時、既存の日本三論学︵派︶ の形成過程 を改めて検討する必要があると考えられる。 日本の三論学は高句麗僧侶と中国に留学した日本僧侶によって伝 来されたと知られている。しかし﹃大乗四論玄義記﹄が奈良時代に 頻繁に筆写され、さらに平安時代までも持続的に影響を及ぼした事 実を考慮する時、このような認識は歴史的事実を正しく反映したも のとは言い難いのである。﹃大乗回論玄義記﹂が撰述された百済の 三論学が日本三論学の形成と発展により大きな影響を及ぼしたとみ る べ き で あ ろ う 。

百済は日本の仏教受容と初期仏教の形成に大きな影響を及ぼした ことと知られている。六世紀中葉、外交的努力を通して日本が公式 的に仏教を受容するようにしたのであり、仏教受容が決定された六 世紀末以降には、数回にわたる僧侶及び技術者の派遣を通して仏教 思想と文化が定着できるように助けてあげたのである。これは高句 麗及び新羅との関係が悪化された状況において日本との政治、経済 的協力を強化して難局を打開しようとした政策の所産であると評価 することができる。仏教が定着された七世紀以降にも百済と日本の 仏教界は緊密に交流したのであり、百済が滅亡した以降にも、百済 の 出身の僧侶たちが日本の仏教界において活発に活動したのである。

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また、日本初期仏教界において活動した人たちの中にも百済系流移 民とその子孫たちの活動が目立っているのである。 このように百済仏教が日本初期仏教の形成と発展に重要な影響を 及ぼしたのであるが、日本初期仏教に影響を与えた百済仏教の具体 的様子は確認し易くないのである。日本仏教が発展するにつれて初 期の様子が相当失われたばかりでなく、百済仏教自体も関連資料が ほとんど浬滅され、その具体的様子を把握し難いからである。幸い に寺利建築と仏教彫刻の側面においては現存する寺院遺跡と古代仏 像を通して百済仏教と日本古代仏教に対する比較研究が進行されて きたのであり、これを土台に百済仏教が日本古代仏教に及ぼした影 響に対する基礎的理解が可能になったのである。しかし、関連資料 が皆無である仏教思想と仏教学分野においてはこれに対する理解が ほとんどなされていなかったのである。日本で活躍した百済出身僧 侶たちが少なからず確認されるが、彼らの思想と教学に関する資料 はほとんど残っていないのであり、したがって百済の仏教思想と仏 教学の影響も彼らが属していたとする学派の思想に対する理解程度 にとどまっている c 幸いに最近、日本仏教界に伝えられる百済出身 僧侶たちの︹散逸した︺著述の逸文を蒐集してその思想的特性を検 討する研究が提示されたのであるが、日本仏教に及ぼした百済仏教 学の具体的様子を示す貴重な成果であるということができる。た だ、逸文資料が非常に断片的であるため、百済仏教学の具体的様子 とそれが日本仏教界に及ぼした影響に対する具体的理解には限界が 三論学綱要書の流通を通してみた百済仏教学の日本仏教への影響 少なくない。今後、さらに進展された資料発掘と思想内容に対する 検 討 が 要 望 さ れ る 。 このような点において、最近、百済で撰述された文献として確認 された﹃大乗四論玄義記﹄ の日本仏教界への影響は特に注目される 必要がある。たとい完本でなくとも全体の半分を超える七巻分量の 内容が伝えられているため、思想内容を具体的に知ることができる のみならず、百済仏教学の中でも日本仏教界に最も大きな影響を及 ぼしたと考えられる三論学派の文献であるからである。日本仏教界 の伝承によると、百済から日本に渡ってきて活躍した僧侶たちの絶 対多数は三論学者と現れているが、彼らの思想的特性と日本仏教界 に及ぼした思想的影響については具体的に語られていないのであ る。日本コ一論学の形成と発展においても百済出身三論学者たちの影 響はそれほど強調されていないのである。むしろ、中国留学僧と高 句麗出身僧侶たちがより大きな影響を及ぼしたことと語られてい る。しかし、日本古代の仏教資料を検討すると、日本初期三論学に おいて﹃大乗四論玄義記﹄は非常に重要な位相を持っていたことと 現れているのであり、これは百済の三論学が日本古代三論学の形成 と発展に重要な役割を果たしたことを一不すものであるということが できる。この論文では日本古代仏教界における三論学綱要書の性格 と流通状況に対する検討を通して﹃大乗四論玄義記﹄の位相を探つ てみて、これを土台に日本古代仏教界に及ぼした百済三論学の影響 について考えてみようとする。

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奈良時代の三論学綱要書

コ一論学︵宗︶は日本仏教界において最も先に成立された学派と伝 えられている。伝承によると、推古天皇の時に日本にやってきた高 句麗出身の慧潅と百済出身の観動によってはじめて伝えられたと し、奈良時代初期にすでに学派としての体制を整えたとする。奈良 時代中期以降には、法相宗と共に最も有力な学派として仏教界を主 導 し て い た の で あ る 。 日本の=一論学ははじめて伝来されて以来、中国三論教学の完成者 である吉蔵の教学に依拠したことと伝えられている。実際に奈良時 代以来、多くの吉蔵の著述が日本仏教界に伝えられたのであり、こ れらの文献を土台にして日本の三論学が発展したのである。しか し、奈良時代の主要=一論学文献の中には吉蔵以外の人物の著述も少 なからずみられている。特に経典と論書の注釈書でない三論学の基 本内容を整理する綱要書中には、土口蔵の著述よりも吉蔵以外の人物 による著述がより多く流通されている様子が現れている。これは奈 良時代の三一論学に対する理解が吉蔵のみならず、多様な人物たちの 著述と思想に依拠していることを示すものであるということができ る 。 奈良時代に流通された三一論学文献を総合的に整理した目録はない が、奈良時代の古文書にみられる写経記録及び仏典目録などを通し 四 て当時流通された文献に対する概略的な理解は可能である。奈良時 代の古文書においては、吉蔵の著述である﹃華厳︵経︶疏﹄﹃勝重 経 疏 ﹄ ︵ H ﹃ 勝 重 宝 窟 ﹂ ︶ ﹃ 金 剛 般 若 経 義 疏 ﹂ ﹃ 仁 王 経 疏 ﹄ ﹃ 無 量 義 経 統 略 ﹄ ﹃ 法 華 ︵ 経 ︶ 義 疏 ﹄ ﹃ 法 華 玄 論 ﹄ ﹃ 法 華 経 遊 意 ﹄ ﹃ 法 華 ︵ 経 ︶ 統 略 ﹄ ﹃ 浬 繋 経 疏 ﹄ ﹃ 中 論 ︵ 義 ︶ 疏 ﹄ ﹃ 百 論 疏 ﹄ ﹃ 十 二 門 論 疏 ﹄ ﹃ 法 花 論 疏 ﹄ ﹃ 二 諦 義 ﹄ な ど を は じ め と し て 、 元 康 の ﹃ 中 論 疏 ﹄ ﹃ 三 論 疏 ﹄ ﹃ 肇 論 疏 ﹂ 、 元暁の﹃三論宗要﹄と﹃三論玄義﹄、慧均の﹃大乗四論玄義記﹄︵ H ﹃ 一 二 論 広 章 ﹄ ︶ 、 そ し て 撰 者 未 詳 の ﹃ 中 論 記 ﹄ ﹃ 中 観 論 記 ﹂ ﹃ 中 観 論 宗 要 ﹄ ﹃ 中 論 遊 意 抄 略 ﹂ ヲ 一 一 論 略 章 ﹄ な ど 、 二十余種の文献が確認されてい る。全体の文献中、半分以上が吉蔵の著述であることからみて、当 時一二論学に吉蔵の影響は絶対的であったと考えられる。しかし、注 目されることは、経典と論書の注釈書でない三論学綱要書の中には 吉蔵の著述がそれほどみられないという点である。 右の文献の中で三論学綱要書とみることができるものは、吉蔵の ﹃ 二 諦 義 ﹄ 、 元 暁 の ﹁ 二 一 論 玄 義 ﹄ と ﹃ 三 論 宗 要 ﹄ 、 慧 均 の ﹃ 大 乗 四 論 玄 義 記 ﹄ ︵ U ﹃ 三 論 広 章 ﹄ ︶ 、 そ し て 撰 者 未 詳 の ﹃ コ 一 論 略 章 ﹄ な ど 四 種である。これらの文献の性格と具体的写経状況について探ってみ る こ と に し よ う 。 三論学綱要書中、最も先に写経の事実が記録された文献は吉蔵の ﹃ 二 諦 義 ﹄ である。この文献は三論学の基本概念中の一つである一一 諦、すなわち俗諦︵世諦︶と真諦︵第一義諦︶という二つの真理の 関係について論じたものにして、二諦を主題にして三論学の基本的

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立場を体系的に整理している。奈良時代の古文書の中には、天平 十二年︵七四二︶三月に作成された仏典目録にはじめてこの文献の 存在が確認されている。その後、天平宝字七年︵七六三︶と、神護 景雲二年︵七六人︶の記録にもこの文献の筆写の事実がみられてい る。奈良時代の古文書において三回確認されているのである。とこ ろで、七四二年の仏典目録と七六

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年代の写経関連記録にみられる この文献の名称と巻数には違いがある。前者は﹃二諦義﹄ 一 巻 で あ る の に 反 し て 、 後 者 は ﹃ 二 諦 章 ﹄ 三 巻 に な っ て い る 。 ﹁ 義 ﹂ と ﹁ 章 ﹂ は書名において互いに五換されているため、大して問題にならない が、巻数の違いは単純︹な問題︺ではない。 一 巻 と 三 巻 と い う 分 量 の違いを考慮する時、二つの本を同じものとみることは難しい。現 在 伝 わ っ て い る 吉 蔵 の 著 述 ﹃ 二 諦 義 ﹄ は 一 一 一 巻 本 で あ る た め 、 七 六

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年代に筆写された文献は吉蔵の﹃二諦義﹂とみることができるが、 七四二年の目録にみられる﹃二諦義﹄は吉蔵の﹃二諦義﹂とは異な る 文 献 と み る べ き で あ ろ う 。 二 諦 は 一 一 一 論 学 の 基 本 概 念 中 の 一 つ に し て、三論学の基本内容を説明する時、優先的に説明されるべき内容 であった。現存する三論学綱要書中にも﹁二諦義﹂という篇目を含 んでいる文献が少なくない。七四二年の初出現以降、二十年が経つ てから再び姿が現れることも二つの文献がそれぞれ異なる文献であ る可能性を示すものであるということができる。吉蔵の﹃二諦義﹄ に先行して同一タイトル︹同名異書︺の著述が流通されたと考えら れるが、この本の著者や具体的性格については知り難吋。 三論学綱要書の流通を通してみた百済仏教学の日本仏教への影響 ﹁ 二 諦 義 ﹄ の 次 に 古 文 書 資 料 に み ら れ る 一 一 一 論 学 綱 要 書 は 慧 均 が 撰 述 し た ﹁ 大 乗 四 論 玄 義 記 ﹄ ︵ H ﹁ 三 論 広 章 ﹄ ︶ である。この文献は六 世紀末から七世紀初めの時期に百済地域で撰述された文献にし也、 本来、十二巻二十三篇から成っていたのである。現在九巻十一篇 ︵一部欠落︶が伝えられているのであ問、伝わらない篇目の一部の 内容がほかの文献に引用され確認されている。三論学に関する多様 な主題を総合的に整理した綱要書にして、三論学の全体的様子を示 す 文 献 で あ る と い う こ と が で き る 。 奈良時代の古文書においてこの文献がはじめてみられるのは天平 十 二 年 ︵ 七 四 二 ︶ である。この年の七月に写経所で作成した筆写す るべき文献の目録に﹁均章﹄︵十二巻︶という書名がみられてい る。﹃均章﹄は撰者の名前を取った﹃慧均師章﹄の略称にして、後 代にもしばしば使用されている。以降、この文献は頻繁に筆写され ている。天平十五年︵七四三︶ の筆写を終えた仏典文献目録中に ︷ 却 ︶ ﹁ 大 乗 四 論 玄 義 記 ﹄ ︵ 一 般 十 二 巻 ︶ が み ら れ 、 天 平 十 六 年 ︵ 七 四 四 ︶ に写経所で筆写した文献目録中にも﹁大乗四論玄義記﹄︵十二巻︶ ︷ 忽 ︼ がみられている。また、天平十七年︵七四五︶と、十八年︵七四 ︿ 泊 ︸ ︹ 担 ︸ 六︶、十九年︵七四七︶、天平勝宝五年︵七五ヨ︶、神護景雲二年 ︵七六局︶の写経文献目録にも﹃均章﹂或いは﹃大乗四論玄義記﹄ と い う 書 名 と し て 現 れ て い る 。 一 方 、 神 護 景 雲 二 年 二 月 に 奉 写 一 切 経 司 で 蒐 集 し た 文 献 目 録 中 に み ら れ る ﹁ 一 一 一 論 広 章 ﹄ ︵ 一 部 十 二 都 ︶ も﹁大乗四論玄義記﹄と同じ文献である。同年十一月に奉写一切経 五

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司から造東大寺司に送った文献目録の中において﹁三論広章十二巻 ︵ 詔 ︶ ︵ 均 正 撰 こ と 記 録 し て い る 。 このように﹃大乗四論玄義記﹄は、七四二年から七六八年の聞の 古文書に計九回、筆写の対象、或いは筆写された文献目録に現れて いる。かなり頻繁に筆写されたことを知り得る。 奈良時代の古文書資料において﹃大乗四論玄義記﹄ の 次 に み ら れ る三論学綱要書は元暁の ﹃ 三 論 宗 要 ﹄ と ﹃ 一 二 論 玄 義 ﹄ で あ る 。 ﹃ 三 論宗要﹄は現在伝わっていないのであるが、三論学の基本文献であ る ﹁ 中 ︵ 観 ︶ 論 ﹄ ﹃ 百 論 ﹄ ﹃ 十 二 門 論 ﹂ の 思 想 的 要 点 を 整 理 し た 一 一 一 論 ︵ 却 ︸ 学の綱要書と考えられている。奈良時代の古文書には、天平勝宝二 ︵ 却 ︶ ︵ 剖 ︶ ︵ 担 ︶ 年︵七五

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︶ と 、 四 年 ︵ 七 五 二 ︶ 、 六 年 ︵ 七 五 四 ︶ に ﹃ 三 一 論 宗 要 ﹄ ︵一巻︶を筆写した事実が記録されている。一方、天平勝宝五年 ︵ 担 ︶ ︵ お ︶ ︵ 七 五 一 ゴ ︶ と 、 天 平 宝 字 七 年 ︵ 七 六 三 ︶ 、 八 年 ︵ 七 六 四 ︶ 、 神 護 景 雲 ︵ 描 ︶ 元年︵七六七︶には似たようなタイトルの﹃三論宗要記﹄が筆写さ れた事実が記録されているが、この本は元暁の﹃三論宗要﹄と同じ 本であると把握される。本のタイトルが似ているばかりでなく、筆 写に使用された紙の分量も十六張と一致するからである。この場合 ﹃三論宗要﹄は七五二年から七六七年の聞に計七回筆写されたこと と み る こ と が で き る 。 一 方 、 奈 良 時 代 の 古 文 書 に は 、 元 暁 の コ 一 論 学 綱 要 書 と し て ﹃ 三 論 玄義﹄もみられている。神護景雲二年︵七六八︶二月に奉写一切経 司から造東大寺司に送った仏典目録に元暁の﹃三論玄義﹂がみられ ノ 、 てい封。この資料においては、この元暁の﹃三論玄義﹄がほかの 二十九種の文献と共に、日本に華厳学をはじめて伝えた審詳が持つ ︵ 却 ︶ ていた仏典中に含まれていたことを明記している。一方、天平二十 年 ︵ 七 四 局 ︶ 、 天 平 勝 宝 二 年 ︵ 七 五 侃 ︶ 、 四 年 ︵ 七 五 ゴ ︶ の 文 書 に も ﹃ 三 論 玄 義 ﹄ が み ら れ て い る が 、 こ の 本 も な お 、 元 暁 が 撰 述 し た ~『

論玄義﹄を指すものと把握される。既存︹の説で︺は、この本を現 在伝えられている吉蔵の同名の本として理解したのである時、これ ら の 資 料 に み ら れ る ﹃ 一 一 一 論 玄 義 ﹄ も な お 、 先 の 神 護 景 雲 二 年 二 月 の 文書にみられる﹃三論玄義﹄と同様に、審詳が所蔵していた文献中 に入っていたものと理解されるため、元暁の著述とみるのが妥当で あろう。すなわち、これらの文書はすべて写経などのために仏典の 貸出を要請する文書として、収録される文献の内容と順序がほぼ同 じように現れているが、該当文献のほとんど、特に﹃三論玄義﹄の 前後にある数十余種の文献はすべて審詳が所蔵していた文献目録に ︵ 叫 ︸ おいてそのまま確認されている。このような前後の事情からみる と、これらの文書に収録される﹁三論玄義﹄は、審詳が所蔵してい た本にして、元暁の著述とみるのが妥当であろう。 一 方 、 天 平 十 八 年︵七四六︶四月の資料にも﹃一二論玄義﹂の筆写と関連される事実 が記録されている料、ほかの古文書資料にみられる﹃三論玄義﹄が すべて元暁の著述であるという点から、この本も元暁の著述を指す も の と 考 え ら れ る 。 こ れ ら の 資 料 を 参 照 す る と 、 元 暁 の ﹃ 三 論 玄 義 ﹂ は七四六年から七六八年まで五回ほど筆写されたこととみられる。

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このように奈良時代の古文書には、元暁が撰述した三論学綱要書 として﹃三論宗要﹄と﹁三論玄義﹄の二種の文献がみられている。 ところで、この二種の文献は、実際には同一文献であったのではな いかと考えられる。宗要や玄義というタイトルが似たような意味を 持っているのみならず、古文書及び仏典目録などに、二つの文献が 同時に現れる事例がみられないからである。二つの文献が同じよう な時期に筆写、流通されたのであるから、それぞれ異なる文献であ れば、資料に同時に現れるべきであるが、そのような事例がないこ とからみて、二つの文献は同一文献の異称とみるのが妥当であろ ぅ。実際に二つの文献の分量も同程度に現れている。天平十八年の ﹃三論玄義﹄関連資料は、写経のために紙を準備する装演の作業量 ︿ 岨 ︸ を記録した文書であるが、﹃三論玄義﹄の筆写のために二十張の紙 を準備したことと記録されている。ところで、奈良時代の写経作業 においては、筆写上の誤謬に備え︹ると同時に︺、本の表紙用途に 一定程度の余分の紙を事前に準備したこ国を考慮 使 用 す る た め に 、 すれば、実際の分量が十六張であった﹃三論︹原文は華厳︺宗要﹄ と、分量がほぼ同じであったとみることができる。このように元暁 の﹃三論宗要﹄と﹃三論玄義﹄が同一文献であれば、この一巻本の 元暁の三論学綱要書は、七四六年から七六八年の聞に十二回ほど筆 写されたことになるであろう。 奈良時代の古文書に現れる三論学綱要書中、写経記録が最も遅い ものは﹃三論略章﹄ である。この文献の筆写記録は神護景雲二年 三論学綱要書の流通を通してみた百済仏教学の日本仏教への影響 ︵ 七 六 八 ︶ の文書にみられている。この年の十一月十日に奉写一切 経所[司]から造東大寺司に写経の勘経のために要請した文献目録 中に﹃三論広章﹂、すなわち﹃大乗四論玄義記﹄十二巻と共に﹁三 ︽ 岨 ︶ 論略章﹄三巻がみられている。これに対して造東大寺司では、同月 二十五日に一次的に七種の文献を奉写一切経司に送ったのである が 、 そ の 中 に こ の ﹃ 三 論 略 章 ﹄ が 入 っ て い 打 開 。 一方、奉写一切経司 は十二月二日に再ぴ造東大寺司に文献を要請しているが、その中に ﹃ 大 乗 四 論 玄 義 記 ﹄ 十 二 巻 、 す な わ ち ﹃ 一 一 一 論 広 章 ﹄ が 入 っ て い 封 。 そして、これに対して造東大寺司は、同月二十日に﹁大乗四論玄義 記﹄十二巻を含む様々な文献を奉写一切経司に送り届けている。こ れにより、奉写一切経司は勘経に必要な﹁三論広章﹂と﹃三論略 章﹄をすべて蒐集することができたのである。 ﹁三論略章﹄は、このように七六八年の写経関連資料にはじめて みられるが、撰者ゃっ一論広章﹄との関係などについてはなんら言 及がない。ただ、この本が﹃三論広章﹄と同様に、図書寮に所蔵さ れていた本であるという事実だけが言及されている。ところで、こ の ﹃ 三 論 略 章 ﹂ のまたのタイトルは、﹃三論広章﹄と同様に、﹃︵無 依無得︶大乗四論玄義記﹄であったこととみられる。七六八年十二 と 月 巻 日 本 に の 呑 『 写

鉦 柱

祥 事

長生

玄 八 寺 義 ョ

一 送 種

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れ は て い 十 る 二 が喜巻 、 本 十一月十日に送った文書と比較してみると、各々﹃三論広章﹄と﹃三 論略章﹄を指すものと把握される。神護景雲二年二月三日に奉写一 七

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切経司から造東大寺司に送った文書にも、図書寮に所蔵されるヲ一一 論 広 章 ﹂ 十 二 巻 と 共 に ﹃ 無 依 無 得 大 乗 四 論 玄 義 記 ﹄ 一 一 一 巻 を 要 請 し て いるが、情況からみて、後者は ﹃ 一 二 論 略 章 ﹂ を 指 す も の と 考 え ら れ る こ の よ う に 七 六 八 年 の 文 書 に は じ め て み ら れ る ヨ 一 一 論 略 章 ﹄ は 、 ﹃ 一 二 論 ︹ 原 文 は 大 乗 ︺ 広 章 ﹄ と 同 様 に 、 ﹃ ︵ 無 依 無 得 ︶ 大 乗 四 論 玄 義 記 ﹄ という書名を持っていたのである。ところで、このような書名から みると、この本は後代の仏典目録にみられる浄秀の﹃三論略章﹄で ︷ 臼 ︶ ある可能性が高い。平安時代前期に筆写された法金剛院蔵﹃大小乗 経律論疏記目録﹄と十二世紀に撰述された﹃三論宗経論章疏目録﹄ ︵ 日 社 ︶ ︵ 日 ︸ には、各々浄秀が撰述した﹃三論略章﹄三巻と﹃四論玄義﹂三巻が みられているが、撰者と巻数が一致してタイトルが似ていることか ︵白羽︶ らみて、二つの本は同一丈献であると考えられる。すなわち、浄秀 が 撰 述 し た 三 巻 本 の 三 論 学 綱 要 圭 一 日 は ﹃三論略章﹂或いは﹃四論玄 義 ﹄ と 呼 ば れ た の で あ る 。 と こ ろ で 、 こ の よ う に ﹃ コ 一 論 略 章 ﹄ と ﹃ 四 論玄義﹄という書名を持つ三巻本の三論学綱要書は、七六八年の資 料にみられる﹃二一論略章﹄と同一の性格を持つのである。このよう な点において七六八年の資料︹にみられる︺﹃三論略章﹄は、後代 の 文 献 目 録 に み ら れ る 浄 秀 の ﹃ 二 一 論 略 章 ﹄ と 同 一 の 本 に し て 、 ﹃ ︵ 無 依 無 得 ︶ 大 乗 四 論 玄 義 ︵ 記 ︶ ﹄ と い う 別 称 を 持 っ て い た と 推 定 さ れ る 。 浄 秀 の ﹃三論略章﹄は、現在伝えられていないため、その内容を 知ることはできないが、名称上の類似性からみると、﹃三論広章﹄ }\ すなわち、慧均の﹃大乗四論玄義記﹄と似たような性格の本であっ たと考えられる。分量が多い ﹃ 三 論 広 章 ﹄ を 要 約 し た 縮 約 本 か 、 で なければ、慧均の本を模った似たような形式の本であるとみること ができるが、奉写一切経司で勘経のために二つの本がすべて必要で あったことをみれば、前者よりは後者の可能性が高い。浄秀の出身 地域や活動時期は知り得ないが、彼の ﹁ 三 論 略 章 ﹄ が ﹃ 三 論 広 章 ﹄ より遅れて現れることからみて、慧均より後代の人物にして、慧均 の影響を受けた地域、すなわち百済や新羅、或いは日本の出身であ る と 考 え ら れ る 。 これまでみてきたように、奈良時代の資料に筆写及、び流通の様子 がみられる三論学綱要書は、吉蔵の﹃二諦義﹄と、慧均の﹃大乗四 論 玄 義 記 ﹄ 、 元 暁 の ﹃ 三 論 玄 義 ﹄ ︵ H ﹃ 三 論 略 ﹃ 三 論 宗 要 ﹂ ︶ 、 浄 秀 の 章 ﹄ 、 そ し て 撰 者 未 詳 の ﹃ 二 諦 義 ﹄ な ど で あ る 。 こ の 中 、 ﹃ 大 乗 四 論 玄義記﹄と﹃三論玄義﹄は、七四

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年代以降七六

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年代まで頻繁に 筆 写 さ れ て 広 く 流 通 さ れ た 反 面 、 士 口 蔵 の ﹃ 二 諦 義 ﹂ と 浄 秀 の ﹃ 一 二 論 略章﹄は、七六

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年代以降にはじめて資料に姿が現れている。そし て 撰 者 未 詳 の ﹃二諦義﹄は、七四二年の目録に一度みられた後、以 降には現れていないのである。これにより、奈良時代の仏教界にお ける代表的な三論学綱要書は、慧均の ﹃ 大 乗 四 論 玄 義 記 ﹄ と 元 暁 の ﹃ 三 論 玄 義 ﹄ であったということができるのである。 一方、奈良時代の古文書資料には、後代日本仏教界において三論 学の基本綱要書として広く読まれた吉蔵の﹃三論玄義﹄と﹃大乗玄

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論﹄などがみられていない点が注目される。この二つの文献は中世 以 降 、 日本三論学の最も基本的文献として認められてきたのであ り、現在までも三論学に対する理解は、この二つの文献に基づいて いる。しかし、奈良時代の資料には、これらの文献の姿は全く確認 されていないのである。奈良時代に撰述された三論学文献である智 の﹃浄名玄論略述﹄と﹃般若心経述義﹄な どにも、これらの文献は全く言及されていないのである。もちろん 光︵七

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九|七八

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頃 ︶ 古文書資料が当時流通されたすべての文献を網羅しているとは言え ない将、写経担当機関において当時の主要仏典を総合的に整理した 目録にも全くみられないのであり、同時代の日本僧侶の文献にも言 及されていないことからみると、これらの文献が当時に広く流通さ れたとみることは難しい。果たしてこれらの文献がいつから日本仏 教界において主要な文献として流通されるようになったかについて は 再 検 討 す る 必 要 が あ る 。

平安時代に流通された三論学綱要書

奈良時代に筆写、流通された痕跡がみられる三論学綱要書の数が 四、五種に過ぎなかったこととは違い、平安時代には遥かに多様な 三論学綱要書が確認されている。平安時代に編纂された︵法金剛院 ︵ 抽 ︶ ︵ 曲 ︶ 蔵 ︶ ﹃ 大 小 乗 経 律 論 疏 記 目 録 ﹄ 、 ﹃ 三 論 宗 章 疏 目 録 ﹄ 、 ﹃ 三 論 宗 経 論 章 疏目劇﹄、﹃東域伝灯目鰯﹄などには、次のような三論学綱要書がみ 三論学綱要書の流通を通してみた百済仏教学の日本仏教への影響 ら れ て い る 。 O ︵ 法 金 剛 院 蔵 ︶ ﹃ 大 小 乗 経 律 論 疏 記 目 録 ﹄ ﹃均章﹂︵十二巻四八

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紙 ︶ 、 ヲ 一 ゴ 論 広 章 ﹂ ︵ 均 正 師 、 十 二 巻 六 一 O 紙 ︶ 、 ﹃ 三 論 玄 義 ﹂ ︵ 四 巻 一 六 O 紙 ︶ 、 ヲ 一 論 略 章 ﹄ ︵ 吉 蔵 師 、 三 巻 一 三

O

紙 ︶ 、 ﹃ 二 一 論 略 章 ﹄ ︵ 浄 秀 師 、 三 巻 一 二

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紙 ︶ 、 ﹃ 山 門 玄 ﹄ ︵ 四 巻 二 三

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紙 ︶ 、 ﹃ 無 依 無 得 大 乗 四 論 玄 義 記 ﹄ ︵ 十 四 巻 七

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紙 ︶ 、 ﹃ 大 乗 玄 義 ﹄ ︵ 五 巻 一 一

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紙 ︶ 、 ﹁ 大 乗 玄 義 ﹂ ︵ 五 巻 一 二

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紙 ︶ 、 ﹃ 四 論 玄 義 ﹄ ︵ 一 巻 三 五 紙 ︶ 、 ﹃ 二 諦 義 ﹄ ︵ 一 巻 一 一 一 一 紙 ︶ 、 ﹃ 二 諦 章 ﹄ ︵ 三 巻 九 九 紙 ︶ 、 ﹃ 二 諦 義 ﹄ ︵ 六 巻 一 八

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紙 ︶ 、 ﹃ 八 不 義 ﹄ ︵ 一 巻

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紙 ︶ O 三 一 論 宗 章 疏 目 録 ﹄ ﹃ 四 論 玄 義 ﹂ ︵ 均 正 、 十 二 巻 ︶ 、 ﹃ 大 乗 玄 論 ﹂ 五 巻 ︵ 士 口 蔵 ︶ 、 つ 一 論 玄 義 ﹄ ︵ 元 康 、 一 巻 ︶ 、 ﹁ 三 論 玄 枢 ﹄ ︵ 元 康 、 二 巻 ︶ 、 空 一 論 玄 記 ﹄ ︵ 元 康 、 一 巻 ︶ 、 空 一 論 宗 要 ﹄ ︵ 元 暁 、 一 巻 一 七 紙 ︶ 、 ﹃ コ 一 論 遊 意 ﹄ ︵ 碩 法 師 、 一 巻 ︶ 、 ﹃ 二 諦 章 ﹂ ︵ 士 口 蔵 、 三 巻 ︶ O ﹃ 三 論 宗 経 論 章 疏 目 録 ﹂ ﹃ 二 諦 章 ﹂ ︵ 吉 蔵 、 三 巻 ︶ 、 ﹃ 大 乗 玄 論 ﹄ ︵ 士 ロ 蔵 、 五 巻 ︶ 、 ﹃ 八 科 章 ﹄ ︵ 吉 蔵 、 一 巻 ︶ 、 ﹃ 大 乗 四 論 玄 義 ﹄ ︵ 慧 均 、 十 二 巻 ︶ 、 ﹁ 四 論 玄 義 ﹄ ︵ 浄 秀 、 三 巻 ︶ 、 空 一 論 宗 要 ﹄ ︵ 元 暁 、 一 巻 ︶ 、 つ 一 論 玄 枢 ﹄ ︵ 元 康 、 九

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二 巻 ︶ 、 ﹃ 三 詳 細 玄 記 ﹄ ︵ 元 康 、 一 巻 ︶ 、 ﹃ 二 一 論 玄 観 ﹄ ︵ 元 康 、 一 巻 ︶ 、 ﹃ ︵ 三 論 ︶ 遊 意 ﹄ ︵ 崇 法 師 、 一 巻 ︶ O ﹃ 東 域 伝 灯 目 録 ﹄ ﹃ 三 論 遊 意 ﹄ ︵ 肇 法 師 、 一 巻 ︶ 、 ﹃ 三 論 遊 意 ﹄ ︵ 碩 法 師 、 一 巻 ︶ 、 ﹃ 二 一 論 遊 意 ﹄ ︵ 崇 法 師 、 一 巻 ︶ 、 ﹃ 三 論 玄 義 ﹄ ︵ 元 康 、 一 巻 ︶ 、 ヲ 一 論 玄 枢 ﹄ ︵ 元 康 、 二 巻 ︶ 、 ﹃ 三 論 玄 記 ﹂ ︵ 元 康 、 一 巻 ︶ 、 ﹃ 三 論 宗 要 ﹄ ︵ 元 暁 一 巻 ︶ 、 ﹃ 三 論 略 章 ﹄ ︵ 吉 蔵 、 コ 一 巻 ︶ 、 ヲ 一 論 広 章 ﹄ ︵ 均 正 師 、 十 二 巻 ︶ 、 ﹃ 二 一 論 略 章 ﹄ ︵ 浄 秀 、 三 巻 ︶ 、 ﹃ 三 一 論 玄 義 ﹂ ︵ 四 巻 ︶ 、 ﹃ 四 ︵ 田 ︶ 論 玄 義 ﹄ ︵ 禅 [ 浄 ] 秀 法 師 ︶ 、 ﹃ 四 論 玄 義 記 ﹄ ︵ 均 正 、 十 二 巻 ︶ 、 ﹃ 二 諦 章 ﹄ ︵ 士 口 蔵 ︶ 、 ﹃ 八 科 章 ﹄ ︵ 士 口 蔵 ︶ 、 ﹃ 大 乗 玄 論 ﹄ ︵ 吉 蔵 、 五 巻 ︶ 、 ﹃ 八 不 義 ﹄ ︵ 一 巻 ︶ 、 ﹃ 八 不 義 記 ﹂ ︵ 一 巻 ︶ 一方、平安時代初期の三論学者である安澄︵七六三|八一四︶ ︵ 制 ︶ ﹃中論疏記﹄にも、次のような三論学綱要書が引用されている。 ﹃ 大 乗 玄 論 ﹄ ︵ H ﹃ 大 乗 玄 ︵ 義 ︶ ﹄ 、 土 口 蔵 ︶ 、 ﹃ 山 門 玄 義 ﹄ ︵ 法 朗 、 五 巻 ︶ 、 ﹃ 均 正 玄 義 ﹄ ︵ 慧 均 ︶ 、 ﹃ 均 正 十 二 巻 章 ﹄ ︵ 慧 均 ︶ 、 ﹃ 一 巻 玄 義 ﹄ ︵ 士 口 蔵 、 一 巻 ︶ 、 三 一 論 略 章 ﹄ ︵ 士 口 蔵 ︶ 、 ﹃ 遊 意 ﹄ ︵ 碩 法 師 ︶ これらを撰述者別に整理すると次のようになる。 僧 肇 法 朗 吉 蔵 慧 均 JC 暁 JC 康

﹃ 一 二 論 遊 意 ﹄ ︵ 一 巻 ︶ ﹃ 山 門 玄 ︵ 義 ︶ ﹄ ︵ 四 巻 或 は 五 巻 ︶ ﹃ 二 諦 章 ﹄ ︵ 三 巻 ︶ 、 ﹃ ︵ 三 論 ︶ 玄 義 ﹂ ︵ 一 巻 ︶ 、 ﹃ 大 乗 玄 論 ﹂ ︵ H ﹃ 大 乗 玄 ︵ 義 ︶ ﹂ 、 五 巻 ︶ 、 つ 一 論 略 章 ﹄ ︵ 三 巻 ︶ 、 ﹃ 八 科 章 ﹄ ︵ 一 巻 ︶ ﹃ 大 乗 四 論 玄 義 記 ﹄ ︵ 日 ﹃ 三 論 広 章 ﹄ 、 十 二 巻 或 は 十 四 巻 ︶ ﹃ 三 論 宗 要 ﹄ ︵ 一 巻 ︶ ﹃ 三 論 玄 枢 ﹄ ︵ 二 巻 ︶ 、 ﹃ 三 論 玄 記 ﹄ ︵ 一 巻 ︶ 、 三 一 論 玄 義 ﹄ ︵ 一 碩 法 師 ﹃ 三 論 遊 意 ﹄ ︵ 一 巻 ︶ 巻 ︶ 、 ﹃ 三 論 玄 観 ﹄ ︵ 一 巻 ︶ 浄 秀 崇法 師 ﹃ 三 論 遊 意 ﹄ ︵ 一 巻 ︶ ヲ 一 一 論 略 章 ﹄ ︵ 川 ﹃ 四 論 玄 義 ﹂ 、 三 巻 ︶ 未 詳 の ﹃ 三 論 玄 義 ﹄ ︵ 四 巻 ︶ 、 ﹃ 二 諦 義 ﹄ ︵ 一 巻 ︶ 、 ﹃ 二 諦 義 ﹄ ︵ 六 巻 ︶ 、 ﹃ 八 不 義 ﹂ ︵ 一 巻 ︶ 、 ﹃ 八 不 義 記 ﹄ ︵ 一 巻 ︶ 奈良時代に比べて文献の種類が遥かに多くなったのであり、撰述 者も多様になったことをみることができる。特に土口蔵の著述が多く なったのであり、そのほかにも、法閉、元康、碩法師など、中国三 ︵ 田 ︶ 論学者たちの著述が多くなったのである。中国との交流を通して新 しい文献が多様に受容されたこととみることができる。これらの 中 、 奈 良 時 代 の 資 料 に お い て 確 認 さ れ た ﹁ 二 諦 義 ﹄ ︵ 一 巻 ︶ 、 ﹁ 二 諦 義 ﹄ ﹃ 三 論 広 章 ﹄ 、 慧 均 、 十 二 巻 ︶ 、 ︵ 吉 蔵 、 二 一 巻 ︶ 、 ﹃ 大 乗 四 論 玄 義 記 ﹄ ︵ 川

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﹃ 三 論 宗 要 ﹄ ︵ 元 暁 、 一 巻 ︶ 、 ﹃ 三 論 略 章 ﹄ ︵ H ﹃ 四 論 玄 義 ﹄ 、 浄 秀 、 三 巻︶以外の残りの文献について探ってみることにしよう。 ま ず 、 僧 肇 の ﹁ 三 論 遊 意 ﹄ ︵ 一 巻 ︶ は 、 後 代 に 三 論 学 者 た ち に よ っ て尊崇された僧肇の著述という点で注目される。しかし、この本は 中国と韓国の仏教文献に全く現れていないばかりでなく、日本でも ﹃東域伝灯目録﹄以前の仏典目録や文献にはみられていないのであ 円 師 ︼ る。また、僧肇の伝記にも、この本に対する言及がみられていない のである。後代に彼の名前に仮託して撰述された文献である可能性 が 高 い 。 現 在 伝 わ っ て い な い の で あ る 。 法朗の﹁山門玄︵義︶﹄は、吉蔵の師匠にして、三論学の基本体 系 を 完 成 し た 法 朗 の 著 述 と い う 点 で 重 要 な 意 味 を 持 つ が 、 僧 肇 の ﹃ 一 一 一 論遊意﹄と同様に、中固と韓国の仏教界には知られていない本であ る。法朗の弟子である吉蔵と慧均の著述にも全く言及されていない のである。後代に彼の名前に仮託して撰述された文献である可能性 が 高 い と 考 え ら れ る 。 吉蔵の著述中、﹃三論玄義﹄︵一巻︶は、現在一巻本︹原文は二巻 ︻ 剖 ︼ 本︺として伝わっている﹃三論玄義﹄と同一の本であると把握され る。安澄の﹃中論疏記﹄において吉蔵の﹃一巻玄義﹄と引用してい る内容が、現在の一巻本︹同右︺﹃三論玄義﹄においてそのまま見 ︵ 曲 v 出 さ れ て い る 。 一 方 、 こ の 本 は 後 代 の 珍 海 ︵ 一

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九 一 一 一 一 五 二 ︶ の 著 述 に お い て は ﹃ 三 論 玄 ︵ 義 ︶ ﹂ と い う 書 名 と 同 時 に ﹃ 中 論 玄 ︵ 義 ︶ ﹂ という書名でも引用されているが、﹃中論玄︵義︶﹄が本来の書名で 三論学綱要書の流通を通してみた百済仏教学の日本仏教への影響 ︻ 叩 ︶ あったものと考えられている。実際に平安時代の仏典目録には、士ロ 蔵 の ﹃ 三 論 玄 ︵ 義 ︶ ﹄ は 確 認 さ れ な い の で あ り 、 そ の 代 わ り に ﹃ 中 ︵ 観 ︶ 論 玄 ︵ 義 ︶ ﹂ ︵ 一 巻 ︶ が 吉 蔵 の 著 述 と 収 録 さ れ て い る 。 本 来 ﹃ 中 論 ﹄ の注釈書であったものが、後に三論学綱要書として流通されたので あ ろ う 。 吉蔵の﹁大乗玄論﹄は、仏典目録に記載された通り、五巻本とし て完全な形で伝わっている。三論学の主要な主題に対して論じた、 二 諦 義 ︵ 巻 一 ︶ 、 八 不 義 ︵ 巻 二 ︶ 、 仏 性 義 、 一 乗 義 、 浬 繋 義 ︵ 巻 三 ︶ 、 二智義︵巻四︶などと、三論学の立場から様々な経典と論書の位相 を整理した、教遮義、論遮義︵巻五︶など、八つの篇で構成されて いる。独立された個別の篇を集めておいた義章形式の本にして﹃大 乗四論玄義記﹄と似たような体裁である。﹃大乗四論玄義記﹂に比 ベ て よ り 核 心 的 な 主 題 、 だ け を 扱 っ て い る の で あ り 、 後 ろ の 部 分 に 経 論 全 体 を 対 象 と す る 教 遮 義 と 論 遮 義 を 配 置 し た 点 が 特 色 で あ る 。 ﹃ 大 乗四論玄義記﹄に比べてより整理されて進展された様子であるとい うことができる。ところで、この本が実際に吉蔵本人が撰述したも のかについては長い間論難があったのである。それはこの本の内容 が吉蔵のほかの著述と重複される部分が少なくなかったからであっ 的。特にそれまで伝えられなかった﹃大乗四論玄義記﹄八不義の発 見により﹃大乗玄論﹄と﹃大乗四論玄義記﹄入不義の内容が互いに 一致するという事実が知られるようになり、この本を吉蔵の撰述と みることができるかという疑問が提示され問。しかし、現在までも

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学界においては、本全体の内容からみると、土口蔵の著述とみること に問題がないのであり、八不義の内容が﹃大乗四論玄義記﹄と重複 されることは、吉蔵死後の編纂過程において生じた問題とみること ︵ 市 ︶ ができるという見解が一般的に受け入れられている。しかし、最近 一乗義の内容に対する検討を通して吉蔵の著述とは認 め難い様子が見受けられるという見解も新たに提起されている。奈 ﹁ 大 乗 玄 論 ﹄ 良時代の資料にみられなかったこの文献は、八世紀後半に﹃大乗四 論玄義記﹄をモデルにしながら、より簡略に体系的に編纂されたも の で あ る 可 能 性 が あ る 。 ﹃ 三 論 略 章 ﹄ ︵ 三 巻 ︶ は 、 現 在 同 じ 書 名 の ﹃ 三 論 略 章 ﹄ ︵ 一 土 口 刊 威 の ︵ 市 ︶ 巻︶が彼の著述と伝わっているが、巻数が異なるため、同じ本とは ﹃中論疏記﹄に引用されている吉蔵 見難いのである。ただ、安澄の の﹃三論略章﹄の内舗が、現在伝えられる﹃三論略章﹄︵一巻︶の 内容と非常に類似するため、両者の聞に一定の関連性があるものと 考えられる。﹃中論疏記﹄に引用される内容がより詳しいことから み る と 、 現 在 伝 わ る ﹃ 二 一 論 略 章 ﹄ ︵ 一 巻 ︶ は 、 本 来 の つ 一 巻 本 三 一 論 ︷ 田 ﹀ 略章﹄を簡略に抄録したものと考えられる。ところで、現在伝えら れる一巻本吉一論略章﹄は、吉蔵のほかの著述﹃八科章﹄と同じ本 である可能性もある。十二世紀に活動した珍海は、当時吉蔵の著述 と 流 通 さ れ て い た 一 巻 本 ﹃ 一 三 世 叩 略 章 ﹄ に 対 し て 、 八 科 、 す な わ ち 八 ︵ 田 ︶ つの項目で構成されているとしながら、前の時代の文献目録にみら ︵ 制 ︶ れる﹃八科章﹄と同じ本であろうと述べている。この場合、本来の 三 一 巻 本 ﹃ 一 二 論 略 章 ﹄ を 抄 略 し た も の が ﹃ 八 科 章 ﹄ 在 伝 え ら れ る ヲ 一 五 耐 略 章 ﹄ ︵ 一 巻 ︶ で あ る と し、

こ で と あ が り で き そ るされ 。 が し 現 か し 、 三 一 巻 本 ﹃ 三 論 略 章 ﹄ と そ れ を 抄 略 し た ﹃ 八 科 章 ﹄ が 、 実 際 に 土口蔵の著述であるかについては疑問の余地がある。現在の雪一論略 章 ﹂ ︵ 一 巻 ︶ ほかの文献に提示されている吉蔵の ︵ 師 ︶ 学説とは矛盾する内容がみられているからである。これに対して の 内 容 の 中 に は 、 は、三巻本を抄略する過程において発生した誤謬と解釈することも できるが、本来の意図とは反対する内容で抄略した可能性は高くな いと考えられる。本来の三巻本もなお、現在伝わる﹃三論略章﹄と 同様に、吉蔵のほかの著述とは矛盾する立場を取っていたのではな いかと考えられる。すなわち、平安時代に吉蔵の著述として流通さ れ た ヲ 一 五 柵 略 章 ﹂ ︵ 三 巻 ︶ と 、 そ れ を 抄 略 し た は、実際 ﹃ 八 科 章 ﹄ には士口蔵の著述ではなく、ただ彼の名前に仮託した文献であった可 能 性 が 高 い 。 元 康 は 唐 の 貞 観 年 間 に 長 安 で 活 動 し た 一 一 一 論 学 者 に し て 、 三 論 、 す な わ ち ﹃ 中 論 ﹄ ﹃ 百 論 ﹄ ﹃ 十 二 門 論 ﹄ な ど に 対 し て 注 釈 し た の で あ り 、 三論の要点を整理した﹃一二論玄枢﹄を著した。奈良時代の資料にも ︵ 回 ︶ 彼が撰述した三論の注釈書と、僧肇の﹃肇論﹄に対して注釈した﹃肇 論 疏 ﹄ が み ら れ て い る 。 ﹃ = 一 論 玄 枢 ﹄ を は じ め と す る 三 一 論 学 綱 要 書 も比較的早い時期に日本に伝えられることができたと考えられる。 ︵ 回 ︶ 彼 の 著 述 の 中 で は ﹃ 肇 論 疏 ﹄ 士 一 一 巻 ︶ だ け が 伝 え ら れ て い る た め 、 彼が撰述した三論学綱要書の内容は知り得ない。

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碩法師は中国や韓国の資料にはみられないが、日本仏教界では吉 蔵の正統な弟子と知られていたのである。奈良時代の資料にはみら れないが、平安時代の文献目録には﹃中論疏﹄︵十三巻︶も記録さ は現在伝わっているのであり、 れている。彼の﹃三論遊意︵義︶﹄ 三論学派の基本的立場を簡略に整理している。ところで、この本の 本論部分においては論書の名称を説明しながら﹃中観論﹂、すなわ ち ﹃ 中 論 ﹄ の名称だけを説明しているが、このことからみると、こ の 本 は 本 来 、 三 論 全 体 に 対 し て 説 明 す る も の で は な く 、 ﹃ 中 ︵ 観 ︶ 論 ﹄ ︵ 回 ︶ に対して解説する本であった可能性がある。この場合、この本は彼 の ﹃ 中 論 疏 ﹂ の序論部分を別途に独立させたものであるかも知れな しミ

崇 法 師 の ﹃ 三 一 論 遊 青 山 ﹄ ︵ 一 巻 ︶ の場合、撰者である崇法師がいか なる人物であるか知り得ず、本も伝えられないため、その性格を推 定し難い。撰者未詳の﹃三論玄義﹄︵四巻︶もなお同様である。 ﹁ 一 一 諦 義 ﹄ ︵ 一 巻 ︶ と ﹃ 三 諦 義 ﹂ ︵ 六 巻 ︶ は 、 二 一 論 学 の 主 要 概 念 で あ る 二 諦 に つ い て 論 じ た も の で 、 分 量 か ら み る と 、 土 口 蔵 の ﹃ 一 一 諦 義 ﹄ ︵三巻︶とは異なる本とみられる。二諦が三一論学の核心思想であっ ただけに、これを主題とする書物が多数あったかも知れない。 本の場合、先にみた七回二年の仏典目録に言及されたものと同じ本 であるかも知れないが、明確ではない。或いは現在の﹃大乗四論玄 義記﹄や﹃大乗玄論﹂中の二諦義の部分を独立させた別行本である か も 知 れ な い 。 三論学綱要書の流通を通してみた百済仏教学の日本仏教への影響 ﹃ 八 不 義 ﹄ ︵ 一 巻 ︶ と ﹃ 八 不 義 記 ﹂ ︵ 一 巻 ︶ も な お 、 = 五 嗣 学 の 主 要 概念である八不について論じた著述であるが、実体は知り得ない。 分 量 か ら み る と 、 先 の 一 巻 本 ﹃ 二 諦 義 ﹂ と 同 様 に 、 ﹃ 大 乗 四 論 玄 義 記 ﹄ や﹃大乗玄論﹄中の八不義の部分の別行本である可能性もあると考 え ら れ る 。 以上、平安時代に流通された=一論学綱要書について探ってみた。 この時期には、慧均と元暁の著述が主に流通された奈良時代とは大 きく状況が異なっており、流通された文献の種類が遥かに多様に なったのであり、また中国の三論学者たちの著述が多数であった。 し か し 、 平 安 時 代 に 新 た に 登 場 し た 一 一 一 論 学 綱 要 書 の 中 に は そ の ア イ デンテイティーが不分明なものが少なくない。伝えられないものは 論外にしても、吉蔵の著述と伝わる﹁大乗玄論﹂と、﹁三論略章﹄、 ﹃八科章﹄などはすべて吉蔵本人の著述ではなく、後代に編集され たものである可能性が高い。また、吉蔵の﹃三論玄義﹄と碩法師の ﹃三論遊意﹄は、元々は ﹃中論﹄について論じた本であったが、後 代 に ﹃ 中 論 ﹄ ではなく、三論学全体の綱要書のように流通されたも 巻 のである。伝えられないものの中でも、僧肇の﹃三論玄義﹄と法朗

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﹃山門玄義﹄は、後代に三論学初期祖師の名前に仮託して撰述、 或いは編集されたものである可能性が高い。 このように平安時代には奈良時代にはみられなかった新しい三論 学綱要室田が多く出現したのであるが、これらは既存の文献を真似て

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新たに撰述されたか、既存の著述の名称を変えて新たに編集された ものがほとんどであった。それにもかかわらず、これらが広く流通 されたのは、既存の文献とは異なり、当時の仏教界の要求事項をう まく反映したからであろう。 新たに流通された文献の中で﹃大乗玄論﹄と﹃三論略章﹄などは、 既存に広く流通されていた﹃大乗四論玄義記﹄に比して扱う主題を 制限することによって分量を大きく縮小したのである。﹃大乗四論 玄義記﹄が二十三篇の主題を十二巻に収録していたのに対して、﹃大 乗玄論﹂とヲ一一論略章﹄は八篇の主題を各々五巻、或いは三巻に収 めたのであり、﹃八科章﹂はさらにこれを一巻に抄略したのである。 三論学の核心的主題だけを選ぴ取って簡潔に整理したこられの文献 が既存の﹃大乗四論玄義記﹄に比べ活用するのに便利であったろう。 一 方 、 ﹃ 三 論 玄 義 ﹄ と ﹃ ゴ 一 論 遊 意 ﹂ な ど は 、 三 論 、 す な わ ち ﹃ 中 論 ﹄ ﹁ 百 論 ﹄ ﹃ 十 二 門 論 ﹄ 及 、 び こ れ ら と 緊 密 な 関 係 に あ る ﹃ 大 智 度 論 ﹄ 思想的要請を説明する文献であると同時に、これらの論書のほかの 経論に対する優越性を強調している。これは奈良時代に広く流通さ れた元暁の﹃三論宗要﹄とは異なる性格であると考えられる。﹃三 論宗要﹄自体が伝えられないため、その内容を知ることはできない が、諸経論の思想的違いを会通する和誇を重視した元暁の思想的傾 向からみると、この本がほかの経論に対する三論の優越性を強調し たとは考え難い。奈良時代後期以降、日本仏教界は学派閥の競争が 激しくなったのであり、この過程において宗派意識も強くなったの 四 である。このような状況においてつ一論学の優越性を強調する内容が 盛 り 込 ま れ た 吉 蔵 の ﹃ 中 論 玄 ︵ 義 ︶ ﹂ と 碩 法 師 の ﹃ 中 論 遊 意 ﹄ が 、 各 々 ﹃ 二 一 論 玄 義 ﹄ と ﹃三論遊意﹄に名称を変えて、三論学の思想的特性 と優越性を知らしめる丈献として位置付けられるようになったもの と 考 え ら れ る 。 一方、このように新たに登場した様々な文献の中でも、特に﹃大 乗玄論﹄と﹃三論玄義﹄が最も広く流通されて、後代に最も権威の ある文献として定着された背景には、これらが吉蔵が撰述した綱要 書 と し て 流 布 さ れ た と い う 事 実 も 重 要 に 作 用 し た の で あ ろ う 。 一 一 一 論 学派の宗派意識が深化されるにつれて宗祖に対する尊崇意識も強化 されたのであるが、この過程において宗祖である吉蔵が撰述した ﹃大乗玄論﹄と﹃三論玄義﹄が、傍系の祖師である慧均と元暁の﹃大 の 乗四論玄義記﹄と﹃一二論宗要﹄に取って代わるようになったのは白 ︵ 担 ﹀ 然の流れであったということができる。

日本古代三論学に及ぼした百済仏教の影響

これまでみてきたように、日本古代仏教界において流通された三 論学綱要書は時代によって違いがあった。奈良時代には、百済で撰 述された慧均の﹃大乗四論玄義記﹄と、新羅僧侶元暁の﹃三論宗要﹄ ︵ 川 ﹃ 三 論 玄 義 ﹄ ︶ が 主 要 な 文 献 で あ っ た の に 反 し て 、 平 安 時 代 に は 、 これらのほかに中国三論宗祖師たちの丈献が多数流通されたのであ

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り、その中でも吉蔵の ﹃ 大 乗 玄 論 ﹂ と ﹃ 一 二 論 玄 義 ﹄ が 主 要 な 綱 要 書 として位置付けられるようになったのである。ところで、このよう な流れの中で注目されるのが﹃大乗四論玄義記﹄ の位相である。こ の本は奈良時代の主要な三論学綱要書であったのみならず、平安時 代に新たに出現した主要文献、特に士口蔵の著述と知られる ﹃ 大 乗 玄 論﹄﹃三論略章﹂﹃八科章﹄などのモデルになったのである。日本古 代の主要な三一論学綱要書は﹃大乗四論玄義記﹄とそれの変形文献で あ っ た と い う こ と が で き る 。 ﹃大乗四論玄義記﹂をモデルにした変形文献のはじまりは、七 六八年の資料にみられる三巻本﹃三論略章﹄ であったものとみられ る。先に見てみたように、この文献は慧均の著述と同様に、﹃大乗 四論玄義記﹄という書名を持っていたのであるが、このことからみ ると、この本は慧均の著述をモデルにした似たような性格の文献で あったと考えられる。この文献の出現からいくらか経たない時期 に、再び似たような性格を持つ吉蔵の ︵ 著 述 と 知 ら れ る ︶ ﹃ 大 乗 玄 論 ﹄ と ﹃三論略章﹄などが出現したのである。これは当時の仏教界 においてこのような文献に対する要求が幅広かったことを示すもの である。このように似たような性格の文献が共に流通されていき、 最終的には﹃大乗玄論﹄が代表的文献の地位をつかんで、ほかの文 献は次第に消えるようになったのである。安澄の ﹃ 中 論 疏 記 ﹄ に お いて﹃大乗玄論﹄はほかの文献に比べ圧倒的に頻繁に引用されてい るが、これはすでに八世紀末頃に﹃大乗玄論﹄が三一論学綱要書の代 三論学綱要書の流通を通してみた百済仏教学の日本仏教への影響 表的位相を確保していたことを示すものである。﹁大乗玄論﹄がこ のように短い聞に代表的文献の位相をつかみ取ることができたの は、ほかの文献に比べより体系的でありながらも、三論宗の正統な 祖師である吉蔵の思想に最もよく符合されたからであろう。既存の 研究において明らかになったように﹃大乗玄論﹄には吉蔵のほかの ︵ 町 ︸ 著述に出てくるものと同一の文章が少なくないが、これはこの本の 編纂者︵たち︶が吉蔵の著述を土台にしてこの本の内容を構成した ことを示すものであると考えられる。 このように八世紀末以降、ゴ一論学綱要書の代表的文献という座に 就 い た ﹁ 大 乗 玄 論 ﹄ は 、 そ れ 以 前 に 出 現 し た ﹁ = 一 論 略 章 ﹄ と 同 様 に 、 奈良時代の代表的三一論学綱要書であった﹁大乗四論玄義記﹄をモデ ルにして撰述されたものであった。﹃大乗四論玄義記﹄に比べて主 題と分量を削り、教迩義と論誠一義などを追加したのであるが、基本 的には=五柵学の主要概念に対して各々の独立された概説を著し、こ れらを一まとめにした﹃大乗四論玄義記﹂ の構成形式を踏襲したも のであった。このような点において﹃大乗玄論﹄は ﹃ 大 乗 四 論 玄 義 記﹄の改良文献であるということができる。 ﹂のように日本の三論学︵派︶は、初期には ﹁ 大 乗 四 論 玄 義 記 ﹂ を土台にして形成されたのであり、以降、宗派として発展する段階 l土 ﹃大乗四論玄義記﹄を変形、改良する過程において独自的な性 格を整えていった。このような点において﹃大乗四論玄義記﹄は日 本 古 代 三 論 学 ︵ 派 ︶ の基盤になった主要な文献であるということが 五

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できる。そして﹃大乗四論玄義記﹄のこのような位相を考慮する時、 既 存 の 日 本 三 論 学 ︵ 派 ︶ の形成過程を改めて検討する必要があると 考 え ら れ る 。 日本仏教界の伝統的理解によると、三論学の伝来と三論学派の形 成は三次の過程を経てなされていたとする。すなわち、中国で吉蔵 に 修 学 し た 後 、 六 二

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年代に日本にやってきた高句麗僧侶慧潅[観] が、孝徳天皇二年︵六四六︶に元興寺ではじめて三論を講義したの ︵ 描 ︶ であり、以降、彼の教えを継承した智蔵が、唐に渡り三論学を学ん できたのであり、最後に智蔵の弟子である道慈が、再び中国に修学 して、帰ってきでは多くの門徒たちを養成することにより、三論学 ︵ 師 ︸ 派 が 隆 盛 す る よ う に な っ た と い う の で あ る 。 こ の よ う に 日 本 の 一 一 一 論 学形成に対する伝統的理解においては、高句麗出身慧潅と七世紀後 半の入唐留学僧たちの役割だけが強調されているばかりで、百済仏 教の影響は注目されていないのである。七世紀前半、日本で活躍し た慧聡、観勤などの百済出身僧侶たちについて、三論学の宗匠たち ︷ 岨 ︸ であったとは言及しながらも、日本三論学︵派︶形成に関連しては 特別に重視されてはいないのである。 しかし﹃大乗四論玄義記﹄が現在確認される最も古い三論学綱要 書として奈良時代の全般にわたり頻繁に筆写されているのであり、 さらに平安時代までも持続的に影響を及ぼした事実を考慮する時、 このような認識は歴史的事実を正しく反映したものとは言い難いの である。高句麗や中国よりも﹃大乗四論玄義記﹄が撰述された百済 ム ノ、 の仏教がより大きな影響を及ぼしたとみるべきであろう。実際に古 代の伝承において三論学の最初の伝来者と重視している高句麗出身 慧 潅 の 場 合 、 ﹃ 日 本 書 紀 ﹄ のような公式文書には全く言及されてい ないのであり、二回目の伝来者である智蔵もなお、当時の資料には 現れていないのである。三回目の伝来者である道慈の場合も、当時 の資料には三論学者としての様子はそれほどはっきりとはみられて いないのである。彼らは実際に三論学を伝来、弘布した人物たちで あるというよりは、後代に三論学の系譜を体系化する過程において 召喚された人物たちである可能性が高い。智蔵は奈良時代の代表的 三論学者である智光の師匠であったのであり、道慈の弟子もなお、 奈良時代の有名な三論学者にして、その門下において平安時代初期 の代表的三論学者である安澄を輩出した善議であった。智光と善議 の系譜は、後代に各々日本三論学の二大系譜である元興寺三論宗と 西大寺三論宗とに発展するが、智蔵と道慈は、これら二大系譜の始 祖の師匠であったという点から、三論学の伝来者と尊崇されたので は な い か と 考 え ら れ る 。 一方、高句麗慧潅が最初の伝来者と語られ たのは、三論宗の正統な祖師である吉蔵から直接教えを受けること ができる時代の人物が必要であったからであろう。 日本仏教界は百済と緊密な関係を結んでいたのであるが、日本仏 教界の正当性と正統性を付与する存在としては重視されていなかっ たのである。そのような側面においては、むしろ高句麗仏教が重視 されたのである。聖徳太子の仏教に関連しては、共に元興寺におい

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て活動した高句麗の慧慈と百済の慧聡のうち、慧慈だけが重視され ているのであり、三論宗の受容に関連しても、同じような時期に活 動した高句麗の慧潅と百済の観勤のうち、慧潅だけが重視されてい る。実際に七世紀中葉に三論学が日本に伝来されたのであれば、そ の伝来者は当時の資料に現れない、それほど有名ではなかった慧潅 よりも、優れた学問僧にして、最初の僧正として当時の仏教界にお ︷ 開 ︸ いて多大な活躍をした観動がより適切であったろう。それなのに、 観勤よりも慧潅が重視されたのは、後代の日本社会における高句麗 と百済に対する認識の違いからであったと考えられる。自分たちの 藩国として認識していた百済から水準の高い思想を受容したとする よりは、決して無視することのできない存在であった高句麗から受 け容れたとするのが、国家的自尊心に傷がつかないと思っていたの ではないかと考えられるのである。

おわりに

これまで奈良時代と平安時代の仏教界において流通された三論学 綱要書の性格とそれらの流通状況について探ってみた。その結果、 既存の一般的理解とは違い、三論宗の基本文献として認められてき た吉蔵の﹃大乗玄論﹂と﹃三論玄義﹄などは、奈良時代にはみられ ないのであり、平安時代に入ってきではじめて流通され出すように なったという事実を知るようになったのである。また二つの文献 三論学綱要書の流通を通してみた百済仏教学の日本仏教への影響 は、吉蔵の本来の著述ではなく、後代に新たに撰述されたか、再編 集された文献であるということも確認できるようになったのであ る 一 方 、 ﹃ 大 乗 玄 論 ﹄ と ﹃ 三 論 玄 義 ﹄ な ど が 重 視 さ れ る 以 前 に は 、 百済と新羅で撰述された﹃大乗四論玄義記﹄と﹁三論宗要﹂が重視 されたのであり、特に﹃大乗四論玄義記﹄は﹁大乗玄論﹄のモデル にして、後代までも日本三論学に持続的な影響を及ぼしたのであ る。日本三論学において﹃大乗四論玄義記﹄がこのように重要な役 割を担当していたということは、日本初期の三論学が百済仏教の影 響下に形成されたことを示すものであるということができる。 後代の日本仏教界の伝承では、三論学が高句麗出身慧潅の紹介と 彼に修学した僧侶たちの入唐求法活動を通して伝来、発展されたと するのであるが、これは当時日本仏教界の発展に最も重要な影響を 及ぼした百済仏教の影響力を正しく反映できていない観念的歴史認 識であると言わざるを得ない。奈良時代の古文書資料と﹃大乗玄論﹂ などの後代文献にみられる﹁大乗四論玄義記﹄の流通状況及び影響 力は、日本三論学に及ぼした百済仏教の影響力を再認識せしめる端 緒 に な り 得 る で あ ろ う 。 注 1 百 済 仏 教 が 日 本 に 及 ぼ し た 影 響 に 対 す る 概 括 的 叙 述 と し て は 、 中 井 [ 一 九 八 五 ] ︵ 中 井 [ 一 九 九 四 ] に 再 収 録 ︶ が あ る 。 ︵ 2 ︶ 金 東 華 [ 一 九 七 一 ﹂ 、 田 村 [ 一 九 九 四 ] 参 照 。 七

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3 崖 [ 二 O 一 二八一|八八頁。 4 井 上 [ 一 九 四 三 ] ︵ 井 上 [ 一 九 八 三 ] に 再 収 録 ︶ 参 照 。 5 金正基[一九八六 J 、張[一九九三]、金東賢[一九九八]、金理 那 [ 一 九 九 一 * ] ︵ 金 理 那 [ 二 OO 三 ] に 再 収 録 ︶ 、 文 [ 一 九 九 八 ] 、 李 煩 鏑 [ 二 O

一 ] ・ [ 二 O 一 三 ] 、 趨 [ 二 OO 二 ] 、 佐 川 [ 二 O 一O ] 参 照 。 6 李 蔦 [ 一 九 九 四 ] ︵ 李 高 [ 二 000 ] に 再 収 録 ︶ 、 金 天 鶴 [ 二 OO 八 ] 参 照 。 7 崖 [ 二 OO 七 ] 参 照 。 8 ﹃ 大 日 本 古 文 書 ﹄ ︹ 以 下 、 ﹃ 編 年 ﹄ ︺ 第 一 冊 | 第 二 五 冊 に 収 録 さ れ る 古文書を対象として検討したのである。ここには大宝二年︵七 O 二 ︶ から宝亀十年︵七七九︶までの古文書が収録されている。文献の検出 には、石田[一九三 O ] 、 木 本 [ 一 九 八 九 ] 、 東 京 大 学 史 料 編 纂 所 の ホ l ム ペ l ジ ︵ 宮 け 匂 に \ 当 者 宅 担 − E −E 片 c r u s −

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﹄ ロ \ 田 区 匂 印 \ ︶ ︹ に 公 開 さ れ て い る ︺ 奈良時代古文書フルテキストデータベースなどを参照したのである。 9 元康の﹁三論疏﹄は後代の文献目録などを参考してみると、﹃中論 疏 ﹄ ﹃ 百 論 疏 ﹂ ﹃ 十 二 門 論 疏 ﹄ を 総 称 し た も の と み ら れ る 。 ︵ 叩 ︶ 現在﹃大正﹄四五︹・七七

i

一一五頁︺に収録されている︵ぬ 一 八 五 四 ︶ 0 11 ﹃ 編 年 ﹂ 七 ・ 一 一 一 一 一 一 頁 。 天 平 十 二 年 に 写 経 所 で 作 成 し た 経 巻 納 植 帳 に含まれている。この経巻納植帳はある特定の場所に所蔵されていた 仏典の目録とみられる。﹁編年﹄では、天平十年︵七三八︶と編次した の で あ る が 、 こ の 文 書 の 末 尾 に ﹁ [ 天 平 ] 十 二 年 三 月 十 七 日 ﹂ ︹ ﹃ 編 年 ﹄ 七 ・ )1、 一 一 一 一 一 頁 ︺ の 日 付 が 記 録 さ れ て い る 。 天 平 十 年 に 写 経 し た 仏 典 の 目 録 と把握したのではないかと考えられる。 12 ﹁ 編 年 ﹄ 一 六 ・ 四 O 六 頁 、 ﹃ 編 年 ﹂ 一 七 ・ 七 九 頁 、 八 四 頁 。 ︵ 日 ︶ 現 在 伝 え ら れ て い る ﹃ 大 乗 四 論 玄 義 記 ﹄ と 、 ﹁ 大 乗 玄 論 ﹄ 、 ﹃ 三 論 略 主 早 ﹄ な ど に す べ て ﹁ 二 諦 義 ﹂ が 収 録 さ れ て い る 。 14 義 天 の ﹃ 新 編 諸 宗 教 蔵 総 * 録 ﹄ 巻 下 に も 、 一 巻 本 ﹁ 二 諦 章 ﹄ 二 種 ︵ 一 種は元暁撰述二種は撰者未詳︶が収録されているが︵﹁韓国仏教全書﹄ 四 ・ 六 九 六 頁 ︹ ﹃ 大 正 ﹄ 五 五 ・ 一 一 七 七 頁 ︺ ︶ 、 こ の 中 の 一 つ で あ る 可 能 性 も あ る 。 15 崖 [ 二 OO 七 ︺ 一五二一頁。 16 伊 藤 [ 一 九 七 一 a ] 一 四 三 頁 。 17 ﹃ 続 蔵 ﹄ 第 一 輯 * 第 七 四 套 * に 、 二 諦 義 、 感 応 義 、 断 伏 義 、 金 剛 心 義 、 仏性義、二智義、コ一乗義、荘厳義、三位義などが収録されており、価 人が所蔵する筆写本に、初章中仮義と八不義が収録されている。これ ら十一篇は、最近刊行された校勘本にすべて収録されている︵崖 [ 二 O O 九]参照︶。夢覚義、十地義、五種菩提義、成壊義、開路義、 十四音義、四悉檀義、三宝義、湿繋義、法身義、浄土義、般若義など は 伝 え ら れ て い な い の で あ る 。 ︵ 同 ︶ 伊 藤 [ 一 九 七 四 ] 参 照 。 19 ﹃ 編 年 ﹄ 七 ・ 四 九 O 頁 。 20 ﹃ 編 年 ﹄ 二 四 ・ 二 五 一 頁 。 ﹁ 占 云 * 均 章 ﹁ 六 百 七 十 五 張 J ﹂という細 注 が 付 い て い る 。

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︵ 幻 ︶ さ れ て い る 。 ﹁ 編 年 ﹄ 八 ・ 五 三 五 頁 。 ﹁ ︵ 均 僧 正 撰 ︶ 百一紙﹂という内容が追加 22 ﹃ 編 年 ﹂ 八 ・ 五 八 七 頁 。 ﹁ 大 衆 四 論 玄 義 記 九 巻 ﹂ 0 23 ﹃ 編 年 ﹄ 二 四 ・ 四 O 二 頁 。 ﹁ 均 章 一 朕 十 二 巻 ︵ M ︶ ︵ 亦 名 大 乗 四 論 ︶ ﹂ 。 ﹃ 編 年 ﹄ 九 ・ = 一 八 二 頁 。 ﹁ 大 乗 四 論 玄 義 記 十 二 巻 ︵ 均 正 僧 ︶ ﹂ 、 三 九 O 頁 。 ﹁ 大 乗 四 論 玄 義 記 十 二 巻 ︵ 亦 日 十 二 均 章 ︶ ﹂ 0 ︵ お ︶ ﹃ 編 年 ﹄ 二一・五二三頁。﹁大乗四論玄義記十二巻︵均僧正撰︶ 一 七 ・ 七 人 頁 。 ﹁ 大 乗 四 論 玄 義 記 十 二 巻 ︵ 均 僧 正 撰 軟 六 百 七 十 五 張 * ﹂ 。 26 ﹃ 編 年 ﹄ 一 七 ・ 一 O 六 頁 。 ︵ お ︶ ﹁ 編 年 ﹂ 義 天 は ﹁ 三 論 宗 要 ﹄ の 三 論 が ﹁ 中 ︵ 観 ︶ 論 ﹄ ﹁ 百 論 ﹄ ﹃ 十 二 門 論 ﹄ 一 七 ・ 一 四 一 頁 。 29 五 五 ・ 一 ︵ お ︶ ﹃ 編 年 ﹄ 畿 二 ﹂ 0 ︵ 幻 ︶ ﹃ 編 年 ﹂ であることを具体的に述べている︵﹃新編諸宗教蔵総*録﹄巻下三一論 宗 要 一 巻 ︵ 中 百 門 固 定 ︶ 31 ﹃ 編 年 ﹄ ﹃ 編 年 ﹄ 二 五 ・ 一 七 六 頁 。 ﹁ 三 論 宗 要 一 巻 十 六 紙 ﹂ 0 32 33 ﹃ 編 年 ﹄ 元 暁 述 ﹂ ﹃ 韓 国 仏 教 全 書 ﹄ 四 ・ 六 九 五 頁 ︹ ﹃ 大 正 ﹄ 一 七 七 頁 ︺ ︶ 。 一了三 O 四 頁 。 一 二 ・ コ 一 六 二 頁 。 用 十 ノ 、 二 一 ・ 五 四 一 頁 。 ﹁ = 一 論 宗 要 記 一 巻 二 ハ ・ 四 O 四 頁 。 三 論 学 綱 要 書 の 流 通 を 通 し て み た 百 済 仏 教 学 の 日 本 仏 教 へ の 影 響 一 六 ・ 四 一 七 頁 。 ︵ 鈍 ︶ ﹃ 編 年 ﹂ ︵ お ︶ ﹁ 編 年 ﹄ 36 ﹃ 編 年 ﹂ 一 七 ・ 九 九 頁 。 37 ﹃ 編 年 ﹄ 一 七 ・ 一 O 八 頁 。 ﹁ 三 論 玄 義 一 巻 ︵ 一 冗 暁 師 白 紙 無 軸 帯 ︶ ﹂ 0 38 ﹃ 編 年 ﹄ 一 七 ・ 一 O 六 | 一 一 O 頁。審詳の新羅華厳学伝授の経緯及 ぴ彼が所持していた仏典目録などに関しては、堀池[一九七三]︵堀池 [ 一 九 八 O ] に 再 収 録 ︶ 参 照 。 39 ﹃ 編 年 ﹄ 二 一 ・ 八 七 三 貝 。 40 ﹃ 編 年 ﹄ 一 一 ・ 四 二 九 頁 。 41 ﹃ 編 年 ﹄ 一 二 二 二 八 二 頁 。 42 石 田 [ 一 九 三 O ] 一 二 八 頁 、 木 本 [ 一 九 八 九 ] 一 三 八 頁 。 43 特に﹁三論玄義﹄のすぐ前後の文献は、三つの資料すべて﹁初章 観 門 ﹂ と ﹁ 六 十 二 見 義 ﹄ で 正 確 に 一 致 し て い る 。 ︵ M H ︶ 堀池[一九七三]に整理される﹁大安寺審詳師経録﹂︵堀池 [ 一 九 七 三 ] 四 一 一 一 一 一 | 四 三 一 頁 ︶ 参 照 。 ︵ 必 ︶ ﹃ 編 年 ﹄ 二 ・ 五 O 五 頁 、 ﹃ 編 年 ﹂ 九 ・ 一 九 七 頁 。 ﹁ 長 官 宮 三 論 玄 義 一 巻 打 紙 廿 張 ﹂ 。 46 写経作業における装演作業の内容と担当者及びそれに対する報酬 などについては、栄原[二 O 二 己 一 二 六 | 一 三 O 頁 参 照 。 47 栄 原 [ 二 O 一 一 一 ] 一二三頁。普通、筆写上の誤謬に備えるため 作業量の六%程度の余分を考慮したのであり、表紙は一紙で二巻分を 作 っ た と い う 。 48 一 七 * ・ 一 四 一 頁 。 ﹁ 編 年 ﹄ 49 一 七 事 ・ 一 三 人 頁 。 ﹁ 編 年 ﹄ 九

参照

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