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(1)

東洋心理学

著者名(日)

井上 円了[講述], 境野 哲[筆記]

雑誌名

井上円了選集

9

ページ

293-408

発行年

1991-03-20

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00002925/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

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1.冊数

  1冊

2.サイズ(タテ×ヨコ)   143×215mm 3.ページ   総数:128   本文:128 4.刊行年月日   不明。ただし,『妖怪学講義録」    (明治27年10月5日)の付録   に,正科講義録として「東洋   心理学 館主井#円了」とあ   り,この第8学年度講義録の   第1号が明治27年11月5日発   行と記されているので,この   ころと推測される。 5.句読点   なし 6.その他   (1)底本には「甫水井上氏蔵」   の印があり,見出しや誤植の   訂正と考えられる朱筆が加え   られていたので,本書はそれ   に従って訂正・統一を施した。   ② 底本にはまとめられた目   次がなく,また本文の見出し   も不統一であったが,原本の   125ページ以下の「全講の分   段」として表示されたもの(端   緒などは含まず)が適当と考   えられたので,これを用いた。 パ饗頼凝法o蕗灘撹連 一萄■.電畜く◎櫨本雷 ︸㍉顧蕪漸≧嘗あ在鯵 一●鷺庶すゐ嘗克を浪   ︵ご 、 鷺が響賀三 ;驚?『肇〉得      駕聾 イ茸緬 起 (巻頭)   隊 繋欝了 ㈲ 「心所法四十六種」「心所法 五十一種」の漢文などの引用文 は『仏教心理学」(本選集第10巻 収録)にもあり,校合と検討の 上,主に同書の引用文を用いる こととした。

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館主

井上 円了講述

境野  哲筆記

東洋心理学 端 緒  東洋心理学はシナ、インド、日本における心理説を比較的に講究するを目的とす。中において最もその説の開 けたるものはインドなるべし。インド哲学中、外道諸派にても数論︹サーンキヤoり画日犀耳巴のごとき、勝論︹ヴァ イシェーシカく巴⑳o曾書︺のごときは、最も参考すべき点多きものなり。しかれども仏教をもってインド諸学中、 心理講究の最も詳細なるものとなさざるべからず。故にまず仏教より始むべし。自余の心理は往々参照するをも って足れりとす。  心理学は西洋において最も近代に始めて起こりたるものにして、古代ギリシアの心理説のごときはいまだ一科 の学をなしたるものにあらず。これを称して心理学と名付くるは不当にして、むしろ呼んで精神学というべし。 仏教またしかり。その論中、心理に関することあるも、これに心理学の名称を与うべからず。しかれども、その 中につきて心理に関する諸説を集めきたりてもっぱらこれを講述するが故に、仮に名付けて心理学の称を用うる なり。しかして仏教中にて心理説として見るべきものは倶舎、唯識の二論これなり。しかれどもこの二論も決し        ㎜ て純然たる心理学にはあらず、むしろ純正哲学に属すべきものなりといえども、仏教中にてはこの二論を離れて

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講究すべき心理なきは明らかなり。しかして﹃倶舎論﹄のごときは心理上に立てたる物心二元論なり。もしその 論を再考すれば分析的多元論なるを知るべし。さりながらその説明の方法はいずれも主観的にして、いわゆる主 観的二元論あるいは主観的多元論と称すべきものなり。ただし仏教内部よりこれをみれば客観論と名付くべし。 その主観的と称すべきゆえんは、客観的説明に属する問題を主観的に解釈するを見ればなり。たとえば人身を五 蕊より成ると談ずれども、五蔽中ただ色緬の外︹のみ︺客観的にして、余の四すなわち受、想、行、識はみな主観 的の分類なればなり。また仏教にては客観的分類においても常に主観をもととするの風ありて、客観の境遇を視 聴等の五感に従い色、声、香、味、触の五境となすがごときは、これを主観的といわずしてなんというべきや。 かつその客観世界も、畢寛主観の力によりて成るものとなすなり。たとえば﹃倶舎論﹄には主観的因果をもって 世界を説明するがごとき︵因果に客観的と主観的との別ありて、仏教はこれを主観的として善悪因果をもととせ り︶、あるいは有情の業力によりて世界の成立を説明するがごとき、みな主観的にあらずということなし。﹃倶舎 論﹄分別業品に曰く、﹁有情世間および器世間に、おのおの多くの差別あり。かくのごとき差別はだれによって生        ユ        ずるや。﹂︵有情世間及器世間、各有二多差別べ如是差別由レ誰生︶︹*1U﹁有﹂なし *211由誰而生︺と。頒にいわく﹁世 の別は業によって生ず、思および思の所作となり。思はすなわちこれ意等にして、所作はいわく身と語となり。﹂  ノ  ハ       ク ト ト ︵世別由業生、思及思所作、思即是意等、所作謂身語︶と。すなわち身、口、意上の善悪の業によりて世界の差別を生 ずというものにして、すなわちこれ唯心論なり。故に仏教中の最も客観論なりと称せらるるものといえども、そ の論旨の帰するところは主観的にして、﹃倶舎論﹄のごときはよろしく主観的二元論、あるいは主観的多元論と称 すべきゆえんにして、その大いに西洋心理説と差異あるゆえんなり。西洋の心理学は客観的心理学なり、仏教の 294

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説くところは主観的心理学なり。これもとより偏廃すべきものにあらず、学者すべからくふたつながらこれを講 究することを要す。つぎに﹃唯識論﹄に至りては純然たる主観論にして、しかも一元論なり。すなわち倶舎の多 元より歩を進めてその説を成せるものというべし。今、東西心理の差異を比較するに左のごとし。

旦韓罐酬繍鯉籠川 ㈱︻川竃川鐸酬竃封繍封闘川鷲

 しかして西洋にてはその結果を教育上に応用し、仏教はこれを宗教上に応用したり。故にもし西洋の心理をも ってひとり心理学とすれば、仏教の説には到底心理学の名を与うべからざるべし。しかれども心理学研究の方法 に種々ありとし、仏教の研究もまたその一なりとなすことを得ば、仏教また一種の心理学を説くものとして不可 なることなかるべし。

心の名義

東洋心理学  仏教においては、心について、心、あるいは意、あるいは識等の名を与えり。もっともこの三者は、あるいは 同意味をもって用いらるることあり、あるいは異意味に用いらるることあり。梵︹サンスクリット︺語によれば、 心は質多︵質多耶︶といい、あるいは質帝、波茶等とも音訳す。意とは末那︵マナス呂き器︶という。︵英︹語︺のマ ン︵]≦①o︶すなわち人というは、これより出ず。マンとは思量の義にして、生物中思量を有するものはただ人のみ なるが故、マンをもって人とするに至りしなり︶。故に英語にこれをマインド︵]≦日△︶と訳す。識は毘若南︵ビジ 95        2 ユニャナー≦△甘①o①︹≦9謡墨︺︶なり、あるいは毘若底とも記せり。英語にこれをノーレッジ︵民oo旦江σq①︶と

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訳す。  心すなわち質多とは集起の義なり、意とは思量の義なり、識とは了別の義なり。﹃七十五法記﹄︵上巻一九丁︶        にいわく﹁心法はあるいは名づけて心となし、あるいは名づけて識となす。﹂︵心法者或名為レ心或名為レ識︶︹*11﹁惑 名為意﹂あり︺と。また﹃法宗源﹄︵四丁︶にいわく﹁心法はあるいは名づけて意となし、あるいは名づけて識とな す。集起の故に心と名つく、すなわち七心界なり。思量するが故に意と名つく、すなわちこれ意処なり。了別す        ノ      ノ るが故に識と名つく、すなわちこれ識緬なり。﹂︵心法者或名為レ意、或名為レ識、集起故名レ心、即七心界、思量故名レ意、 即是意処、了別故名レ識即是識緬︶と。その七心界とは﹃頒疏﹄︵巻一の六三︶にいわく﹁六識の外においてさらに意 界を加えて七心界と名つく。﹂︵於二六識外一更加一意界一名二七心界一︶とあり、﹃倶舎論﹄にては心、意、識を分かちて 六識となせども、その体もと一体なるが故に心、意、識もその名異なれども、また等しく同一体となすなり。さ れどこれを区別するがため、同一心の上に﹁過去を意と名づけ、未来を心と名づけ、現在を識と名つく。﹂︵過去名レ 意、未来名レ心、現在名レ識︶となし、心の過、現、未に変遷する上につきてその名を分かてり。また緬、処、界の 三に分かつあり。﹁心はこれ種族の義、意はこれ生門の義、識はこれ積聚の義なり。﹂︵心是種族義、意是生門義、識 是積聚義︶とせるうち、中種族はすなわち界にして、生門はすなわち処、積聚はすなわち顧なり。故にまた曰く﹁界 の中に心を施設し、処の中に意を施設し、緬の中に識を施設す。﹂︵界中施二設心べ処中施二設意ハ緬中施二設識︹︶と。 これ三科の区分法なり。つぎに唯識の上にありては八識の分類を設く。すなわち八識の上にて心、意、識を分か つときは第八阿頼耶を心となし、この心一切の種子を含蔵してすべて心作用を発起するものとなし、第七識は意 にして、前六識を識となすなり。故にこの法によるときは心、意、識をいちいち八識に配当するをもって、前の 296

(8)

東洋心理学 小乗に同じからず。しかしてこの前六識はいわゆる了別を義として、眼は色、耳は声、鼻は香、おのおのその了 別するところを異にす。第七識︵第六識を意識と呼ぶは第七識によるの識なるによる︶は思量の義にして、思量 によりて我執法執の妄想妄念を起こすが故に、これを意というなり。第八識は心にして、集起を義とし諸作用を 集め起こす根本識なり。﹃成唯識論﹄︵五巻八丁︶に曰く﹁集起を心と名づけ、思量を意と名づけ、了別を識と名 つく。これは三の別義なり。かくのごとき三の義は八識に通ずといえども、勝れて顕なるにしたがって、第八を 心と名つく。諸法の種を集めて、諸法を起こすが故なり。第七を意と名つく。蔵識等を縁じて、つねにつまびら かに思量して我等となすが故なり。余の六を識と名つく。六の別境の鹿動に間断するにおいて、了別し転ずるが 故なり。﹂︵集起名レ心、思量名レ意、了別名レ識、是三別義、如レ是三義錐レ通二八識ハ而随二勝顕一第八名レ心、集二諸法種一起二 諸法一故、第七名レ意、縁二蔵識等一恒審思量為二我等一故、余六名レ識、於二六別境鹿動間断一了別転故、︶とあり。つぎに唯識 より一段進みて起信に至るときは心、意、識の別をなさず、純然たる唯心一元論なり。﹃起信論﹄にては、真如と 生滅と合したるこの一心を阿黎耶識という。阿黎耶は阿頼耶︵≧自①︹≧①ぺ①︺︶と同一なり。その弁明は﹃起信論義 記﹄および﹃翻訳名義集﹄等に見えたり。﹃義記﹄の注によれば﹁阿梨耶および阿刺耶はただ梵の言説なり。﹂︵阿 梨耶及阿刺耶者、但梵言設也︶とあり、畢寛は同一物なりと知るべし。しかれども起信にありては心に生滅不生滅の 二を説き、この二和合して一にあらず異にあらざるを名付けて阿黎耶識とするものなれども、唯識にありていわ ゆる阿頼耶識とは生滅心の体に与うる名称なり。しかるに起信は更にその上に一歩を進めて、本体の上より論じ たるものなり。すなわち﹁いわゆる、不生不滅と生滅と和合して、一にあらず、異にあらず、名づけて阿黎耶識       初 となす。この識には二種の義あり、よく一切法を摂し、一切法を生ず。いかんが二となす。一には覚の義なり、

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二には不覚の義なり。﹂︵所謂不生不滅与二生滅一和合、非レ一非レ異、名為二阿黎耶識一此識有二二種義ハ能摂二一切法べ生一二 切法ハ云何為レニ、一者覚義、二者不覚義︶とありて、覚も不覚もただこの一心より起こるというなり。阿黎耶識は ここに訳して無没識といい、また蔵識という。そはともあれ、この心、意、識の字はもと梵語の訳名にして、も とよリシナに適当の文字なかりしが故に便宜上当てはめたるまでにして、決してシナ固有の心、意、識の文字と 同一の意義を有するにあらず。シナにて﹁心﹂とは心、意の総称にして、筍子の﹃解蔽編﹄には﹁心なる者は形 の君にして、神明の主なり。﹂︵心者形之君也、而神明之主也︶とあるは、心は身を支配する根本なるが故にかく解釈 したるまでなり。﹃礼記大学疏﹄には﹁総じて万慮を包む、これを心という。﹂︵総包二万慮一謂二之心一︶とある。これ 真に心の定義なるべし。﹁意﹂はシナ本来の意味に従うときは西洋にいわゆる綱一一一とはなはだ相近しというべし。 ﹃正韻﹄には﹁志の発なり。﹂︵志之発也︶といい、﹃礼記大学疏﹄には﹁情を意念する所となす。これを意という。﹂ ︵為三情所二意念べ謂二之意一︶とあり。すなわち心の発動帰向せるいわゆる﹁心ばせ﹂を指すものなり。﹁徐錯曰く、 これを外にあらわすを意という。﹂︵徐錯日見二之於外一日レ意︶と、またこの意なるべし。これを﹁心ばせ﹂というは、 心の発動して外にはせ出ずるが故なり。つぎに﹁識﹂には種々の意義あり。﹁﹃玉篇﹄にいわく、識認なり。﹂︵玉篇 云識認也︶とは認識の義なり。また詩の﹃大雅﹄に﹁識らず、知らず、帝の則にしたがう。﹂︵不レ識不レ知順二帝之則一︶ というは無意識をいうなるべし。あるいはまたこれを記憶の義にも用うるなり。今日普通に使用する意味は認識 の義なり。以上、仏教の心、意、識とシナの心、意、識との相違を見ることを得べし。その他、心に関したるも のにては情と性との二あり。情はシナおよび仏教はともにこれを悪しき意味のみに用うるは人の知るところにて、 董仲寄の﹁人欲これを情という。﹂︵人欲之謂レ情︶と説ける、すなわちこれなるべし。また﹃白虎通﹄には﹁喜怒哀 298

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東洋心理学 楽愛悪を六情という。﹂︵喜怒哀楽愛悪謂二六情一︶とあり、あるいは一般に喜怒哀楽愛悪欲を七情となす。仏教にて も情は一般にその悪しき意味に用いて、これを迷悪の根本となすものなるは人の知るところのごとし。故にこれ らは、今日心理学上にいわゆる情とは意義大いに異なるものなり。また性は﹃中庸﹄に﹁天の命ぜる、これを性 という。﹂︵天之命之謂レ性︶とあり、﹃通論﹄には﹁性とは生なり。﹂︵性者生也︶とありて、人の生まれながらの性質 なり。仏教にても仏性、心性等というは心の本性を意味するがごとし。シナにありて古来心理上最も議論の盛ん なるは、実にこの性論にありき。性善説は孟子これを唱えてより一大論端を開き、あるいはこれを悪とし、ある いはこれを混とするあり。しかして悪の起源はこれを情に帰し、その情のいかにして起こるやの問題は、はしな く宋朝諸学者の一論題となりたり。西洋にては︵英語によるに︶心の総称をζ日ユといい、またQ力巳葺︵精神︶、∪。o巳 ︵心魂︶等の名称あり。スピリットは心の最も純精なるところを指すものにして、ソウルはこれをマインドに比す るに一個人の心を指し、マインドは心全体を指すの別なきにあらず。また心の種類は仏教上通例六識八識となせ ども、あるいは八識に真識を加えて九識となすことあり、あるいは一〇種あるいは=種となすことあり、よろ しく﹃華厳孔目章﹄唯識編を見るべし。﹃宗鏡録﹄には四種の心を左のごとく示せり。   一、絶利陀耶、ここに肉団心という︵身中の五臓の心なり︶。   二、縁慮心、これはこれ八識にして、ともによく自分の境を縁慮するなり。   三、質多耶、ここに集起心という。   四、乾栗陀耶、ここに堅実心といい、また真実心という。これはこれ真心なり。 299

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一、 二、 三、 四、 絶利陀耶、此云肉団心︵身中五臓心也︶ 縁慮心、此是八識、倶能縁慮自分境、 質多耶、此云集起心、 乾栗陀耶、此云堅実心、亦云真実心、此是真心也、 300  なお種々の分類あれども、不必要なるが故に略すべし。以上、心の意義を略弁したるのみ。もしその各種のこ とはくわしく七十五法、百法等につきて研究すべし。  以上、心につきその解釈を挙げたるが故に、進んで更に心理学上に説き入ることとすべし。今これを説かんと するには、まず二元論一元論の二に分かつを要す。物心二元論とはすなわち﹃倶舎論﹄の説これなり。唯心一元 論とはすなわち唯識宗これなり。実大乗もまた名付けて一元論となさざるべからずといえども、これ真如一元の 説にして、普通の唯心一元とはその意義大いに異なり、かつ直接に心理学上に関係すること少なきが故に、これ を省略すべし。

第一門 物心二元論すなわち﹃倶舎論﹄の心理

 ﹃倶舎論﹄にては万有を分かちて七十五法となす。 の知るところにして、更に十二処十八界等となすも、 上、いささかここに二言すべし。 また色、受、想、行、識の五種︵五緬︶となすこともみな人 また煩わしく述ぶるの要なかるべし。ただし、ことの順序

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物 心 西洋の複性二元論 色 東洋心理学 心 仏教の複性二元論  七十五法は大いにこれを分かてば有為法無為 法の二となすことを得べし。有為法はまたこれ を色心の二法に大分す。故に倶舎宗は二重の二 元論の性質を有するものにして、有為無為二元 の外に、更に色心二元を立つるものなり。これ を複性二元論という。西洋にも神と物心の二元、 更に物と心の二元を立つる複性二元論あり。こ れすなわち仏教倶舎とその性質を同じうするも のなり。左に二者の比較を図示すべし。  しかれども倶舎にて呼びて無為法となすも、これに対して無為と称すべき物柄ありて存するにあらず。たとえ ば浬築の寂静なるありさまのごとき、これを名付けて無為となす。故にその無為はただ消極的のものにして、積 極的の解釈にあらず。しからば倶舎の複性二元において無為有為の二元ははなはだ力なきものにして、形は複性 に似たりといえども、実は単性の色心二元論というて不可なることなきなり。しかしてこの色心二元を分かつと きは多元にして、いわゆる色心二法を細分して七十二法となすときは七十二法ことごとく実有の体とするが故、 名付けて多元論となすも不可なることなし。されどこの多元は実は一、二の本源より出でたるものなりと説明す るものありて、この説によるときはたとえば数論の二十五諦において自性我知を本源とし、変易の二十三諦はす        皿 べてこの自性の一元より出で、自性の外に存するものはただ我知のみと説くがごとしという。

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二+五諦㌫∵諦

 故にこの説によるときは、﹃倶舎論﹄は一元論あるいは二元論ならざるべからず。されど普通にはこれを多元論 とみなすもの多し。しかるにこの七十二法のうち、実体ありとすべからざるもの少なからず。たとえば物の関係 あるいは作用に属すべきもののごときこれなり。故に結局ついに二元論に帰するに至るべしといえども、倶舎宗 は多く七十五法の実有を本意とするが故に二元にして多元なるものとみなさざるべからず。これを一個人の上に 考うるときは五穂となる。五緬はこれを開けば十二処となり十八界となる。十二処十八界等は、これを七十五法 と対合することを得。すなわちただ分類の方向の異なるのみにして、その体もとより異なるにあらず。その詳密 なる対合図のごときは、長ければ今これを略すべし。         五位  つぎに三科の法を略図すれば、第一に五稿の原語左のごとし。 302

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東洋心理学  これを七十五法に比するに、 応行一四を含み、 一なり。        十二処    六根⋮⋮眼、耳、鼻、舌、   {   六境⋮⋮色、声、香、味、  右のうち法に心所不相応行三、        十八界    六根⋮⋮眼、耳、鼻、舌、

  {

   六識⋮⋮眼、耳、鼻、舌、    六境⋮⋮色、声、香、味、 五猛︵塞建陀︶白o冨oα庁①︵ロロ白合Φ切o﹃﹀σq噌Φσq讐窃︶ 閃毛①︹問暑巴︵ブo﹃日︶むしろ呂c。口o﹁の方適当なるべし く⑦合口①︹<o△①昌︺︵勺o﹃08⇔δコ︶ウΦo一日σqの方適当なるべし oり @目△冒①︹㊤力①且富︺︵ひoコ゜力6合已。カコo白力ω︶これこそ勺①﹁∩8亘oコとすべきか 民曽∋図o︵>o吟一〇コ︶ ≦△=8目︹≦唱画8︺︵民昌〇三&σqo︶        色には五根、五境および無表色を含み、行には五八ありて、中に心所四四、不相  識に六ありて眼、耳、鼻、舌、心、意識これなり。受と想とは心所有法の一なれば、おのおの 心、意処 触、法処 無為および無表色を含むなり。 心、意根 触、法境 心、意識 303

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 右のうち法境に心所不相応三、無為無表色を含むこと前に準ず。故に五葱の分類法のみひとり三無為を欠くこ       04

と知るべし。      3

 以上﹃倶舎論﹄の万有分類の法を示したるが故、つぎに物心の二元につき、外界および内界の二部に分かちて 更にこれを詳論すべし。なかんずきて外界論は物理、天文、生理に関して心理上に関したるものにあらずといえ ども、仏教は元来唯心的の考えあるものなれば、外界の説明もまたはなはだ心理的なり。すなわち客観的説明に あらずして主観的説明なり。故に仏教の心理を明らめんと欲せば、まず仏教の外界論より始めざるべからず。故 に今講述の順述を分かちて、   第一段 物質論   第二段 世界論   第三段 人身論 となすべし。今はまずその物質より始むべし。

第一大段 客観論

第一段 物質論

物質とはすなわち色にして、原語﹁ルーパ﹂なり。色とは﹃翻訳名義集﹄に﹁倶蘭咤はここに色といい、質磯

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東洋心理学 なるを色という。﹂︵倶蘭叱此云レ色、質顧日レ色、︶とあり。色につき、その義解に変壊と質擬の二あり。これまさし く西洋の物質すなわち﹁マター﹂に相当す。物質とは延長団×9コω﹂oコを性とするものなりとはデカルトの下した る解釈なり。その他、物質の解につき﹁哲学字書﹄には種々の説明あり。あるいは空間を占領して延長を有し、 吾人の五官によりて覚知するものなりといい、あるいは物質に客観性および主観性の二あるものとす。 (HケO㊦宕︷8ひ︷=蔓︶ ︵団×[①コω一〇づ︶ (一 l凶 ュ一ω一ぴ一一一けく︶ ︵ぎ①﹁け這︶ ︵綱①︷σq宮︶  これあたかも仏教の解釈と符合するものなり。 りとし、五根、五境、無表色これに属す。   一は可見有対色  すなわち色塵の一法にして、   づけて有対となす。   二は不可見有対色 いわく眼等の五根にして、これ勝義根なり、   るところにあらず。みな極微にかりて成ずるところなり。   三は不可見無対色 すなわち無表色なり。    もしまた色の種類を考うるに、七十五法にては色法に一一種あ また阿毘曇に三種の色を明かせり。      眼の見るところとなす。極微にかりて成ずるところを、名 声等の四塵とはこれの九法にして、眼の見 305

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  一者可見有対色  即色塵一法、為二眼所見べ仮二極微一所レ成、名為二有対一   二者不可見有対色 謂眼等五根此勝義根也、声等四塵此之九法非二眼所見一皆仮二極微一所レ成   三者不可見無対色 即無表色  この三者中、第一第二はこれを物質と名付くべしといえども、第三に至りては全く仏教特殊の説あり。仏教中 にもまたこれを色中に加うると加えざるとにつき争論ありといえども、倶舎にありてはこれを色中に加うるの説 を取る。しかれどもその実、無表色は非物非心となすべし。これより物質論を﹃倶舎論﹄の説明に基づき、一は 極微所成説、二は四大所成説となすことを得べし。        一 極微所成説  極微とは物質を分析して最小の極に至り、再び分析することあたわざるものをいう。すなわち﹁もろもろの色 を分析して一極微に至るを色の極少となす。極微はこれ最細の色にして断裁すべからず、乃至、分析すべからず。﹂ ︵分二析諸色一至二一極微一為二色極少ハ極微是最細色、不レ可二断載︵乃至不レ可二分析一︶︹*11﹁故一極微﹂あり︺といい、あ るいは﹁色の極少にしてさらに分かたるることなきが故に極少の名を立つ。﹂︵色之極少更無分故立二極少名一︶といい、 あるいは﹁極微はこれ最細の色にして長、短、方、円等にあらず。﹂︵極微是最細色非二長短方円等一︶という。故に極 微はすなわち理学上に分子元素これなり。しかるにこの極微なるものは、すでに目これを見ることあたわざるも のなれば、変磯の義なきが故に色と称すべからずといえる問いに答えて、極微相集まれば変擬の義生ず、故に極 微にも変擬の義ありと称するも不可なることなしという。﹃倶舎論﹄中には﹃婆沙論﹄を引きてこれに関する数個 の問答を挙げたり。このことは西洋分子論においてもまた一問題とするところにて、分子元素は延長を有するか 306

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東洋心理学 有せざるか、もし延長なき分子ならば、なにほどあつむるも延長ある物質となるの理解すべからず。零に零を加 うるも同じく零なり。故に分子元素というも、ただ最細小と称すべきも延長なきものとはいうべからず。しかる にもし延長あるものとせば、分割することを得るものならざるべからず。果たして分割し得る以上は元素という べからず。故にあるいは曰く、分子は延長なく、あたかも数学上における点と同一のものなりといい、あるいは 分子とは力の中心なりといい、その他種々の説をなすものありといえども、要するに元素相あつまりて延長的物 質をなす以上は、細微なりといえどもなお多少の延長あるものとするは穏当なるべし。故に極微もまた変磯ある ものとして可なり。  ﹃婆沙論﹄によるに、極微の物質を組成するや、七極微集まりて一微をなし、七微集まりて一金塵をなし、漸 次七数をもって相増加するものとす。けだし七とは四方上下と、および中心の体とを合するが故なり。すなわち 曰く、﹁四面上下の六方、および心を七となす。﹂︵四面上下六方及心為レ七︶と。今、七数増加のありさまは左のご とし。       べ薗薄11一 薄       べ 藻 11﹂齢 睡11︵﹃×ぺUお蔵薄︶       べ齢 蹄11一洋 隠‖︵お×﹃11ωお薗薄︶       べ汁 睡‖一畑出睡11︵ω岳×べ1ート。さ一商薄︶       べ柵出隠11声枯市畑11︵ぱO一×﹃11一Φ゜。Oべ蔵薄︶       ﹃枯出圏11﹂弼嵩隠‖︵一〇°。Oべ×べH一﹂まお蘭薄︶ 307

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等にして、以下七隙遊塵を一蟻とし、七蟻を一風とする等、なお限りなしと知るべし。これらはひとり仏教のみ の説なるや、あるいはインド古来の所説なるや、なお考うべし。インド外道中にありては、その分子派あるいは 物理学派と称せらるる勝論︵すなわち衛世論師︶にありてもまた、実に世界万有の極微所成なることを説けり。し からばこれ、果たしてインド古代より存せるところの説なるか。今、勝論に従うに、その十句義を立つるうち第 一句義の実︵0り已ぴω吟①﹃﹁nΦ︶に九性ありとし、すなわち日地、⇔水、日火、四風、㈲空、㈹時、㈹方、㈹我、㈹意を実 の九種とし、なかんずきて地水火風はすなわち極微所成のものなりとなすなり。故に欧州人は呼びてこれをイン ドの分子学派あるいは物理学派といえり。これ、はなはだ仏教小乗の所説と相似たるものなり。しかるに欧米に おいて分子論と称せらるるものは、みな多くは唯物一元の説を持するものなりといえども、この勝論にありては 全く二元論にして、ただその極微を立つるは客観の物質上のことのみ。これまた仏教とその説を同じうするもの というべし。西洋の分子論は紀元前四〇〇年代、ギリシアにおけるレウキッボス、デモクリトスの説に初まる。 インドの分子論はるかにこの以前にあり、勝論はその年代つまびらかならざれども、少なくとも仏教同時ごろに これを唱えしものありて、決して西洋分子論以後のものにはあらず。これ人をして、あるいは西洋分子論はイン ドより入りきたりしものにあらずやとの疑いを起こさしむるゆえんなり。しかれども史上もとより確証なきが故 に、到底これを断言することあたわざるはもちろんなり。ギリシア最初の分子論によるときは、宇宙万有は分析 すべからざる最微の分子より成るところにして、およそ宇宙間には空虚の場所と充実せる場所との二あるうち、 そのいわゆる充実せる場所とはすなわち分子の占領せる場所をいう。ただその分子の体はなはだ微細なるが故に、 目見るべからず、手感ずべからず。しかれども他の充実せざる場所すなわち空所の存するによりて、その間に動 308

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東洋心理学 揺することを得。したがって互いに集散離合して、もって諸種の現象を呈すという。しかれども各一分子の中に はもとより空所なきが故に、到底分割することを得べからず。すでに不可析的物体なるをもって、所造もしくは 所成の物体にあらず、いわゆる不生不滅、不変不化の体なり。しかして変化生滅あるは集散離合の結果に外なら ずという。デモクリトスの想像説によれば、分子の性質はみなことごとく同一にして、わずかにただその形とそ の大小とを異にするに過ぎず。しかるにすでに形に大小あるが故に、大なるものは重くしてはやくおち、小なる ものは軽くしておもむろに下がる。故をもって同性質の分子もその動揺するに当たりては、互いは相衝突し集散 して、万差の現象を呈すとなす。故に分子に軽重の差あるゆえんは全くその形の大小によるものにして、一物一 体の軽重はその分子集合の粗密の度により、空所を有するの同じからざるによるとなす。この想像の今日より見 るときは、その誤謬たるもとより明らかにして、余が弁解を待たざるなり。ただデモクリトスは、我人に分子所 成の原理を指示するにおいて西洋哲学問の元祖たるのみ。また同氏はひとり物質の分子所成を説けるのみならず、 心もまた分子より成るものとなし、心を組成するところの分子は火の分子と同一にて、極めて精微に、かつその 形円状なりとなしたり。故にこれを西洋唯物論者の元祖とす。これインドニ元的分子論者と同じからざるゆえん なり。デモクリトスにつぎ、ギリシアにおいて分子論を主張したるものはエピクロスなり。エピクロスはデモク リトスのごとく分子の数はもとより無限なりとなすも、形状には限りありと説く。かつその説のデモクリトスに 異なるは、分子自体の運動衝突は大小軽重の差のみによるにあらずして、その体の墜下するに当たり直下せずし て横斜の運動をなすゆえんは、分子自体の性質として特に意志のごときものありて、自らこれをなすものなりと       09       3 説きたり。後れてローマの詩人エクレシウスもまた分子論者として名あるものなり。また近世初年に至り、フラ

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ンスのガッサンディまた分子論を唱う。これを近世分子論の初祖となす。その説はもっぱらエピクロスを祖述し たるものにして、分子の回旋運動は分子中に存する勢力によりて起こるものにして、分子はあたかも活動物のご とき作用を具するものなりとせり。その後にニュートンに至りて分子の説始めて大いに明瞭となり、ここに想像 の範囲を脱して確実の学説をなすに至れり。その後、学者続々輩出して研究に研究を重ね、客観的物質の説明は すでにその理を尽くせりといえども、心性精神のいかんに至りてはいまだ明らかならざるところあり。かつ物心 万有の本源実体を論ずるに至りては、ニュートンの碩学大家すら天帝造物の想像を唱うるなり。しかるに三千余 年前におけるインドの分子論は、もとより西洋今日の分子論と同一のものにあらざれども、西洋よりははるかに 古き以前に起こりしことは疑いなし。  西洋の分子説に従うときは、分子︵パーティクル︹田a巳o︺︶の更に小なるものを小分子︵モレキュール︹日o一〇− 6巳m︺︶といい、小分子の更に細なるものは微分子︵アトム︹陪o∋︺︶という。微分子とはすなわち化学上のいわゆ る元素なり。小分子は物質としての最小なるものなり。更に進んでこれを細分するときは微分子となりて水素お よび酸素に分かれ、もはや水め性質を有せざる別物となる。しかれども分子の大小すら、もとよりこれを計算す ることを得るにあらず。ただ一水滴をもって地球の大に比せば、小分子は弾丸の大に比すべきとの説あるを聞け り。もし微分子の大小を算定するに至りては、到底想像の及ぶところにあらず。すでに微分子は有形の体なるや 否やは一大問題なり。他語にてこれをいえば、物質的延長性のものなるや、またただ力の中心に過ぎざるかにつ いて古来異説あり。もし延長あるものとせば、微分子なお分割すべきものならざるべからず。もし力の中心にし て形体なく延長なく、なお数学上の単点のごとしといわんか。その相集まりて延長的物質を成すの理解すべから 310

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東洋心理学 ず、延長なきもの積んで延長をなすといわば、零に零を乗じて有数を生じ、無に無を乗じて有を生ずべしといわ ざるべからず。これ論理の許さざるところなり。ここにおいて、ライプニッツの想像説のごときもの自然に起こ りきたるに至る。その説によるときは、物質といい心性というも、もとより実に二あるにあらず、ともに同一種 の元子にして、ただその発達の度の異なるによりて有形となり無形となるという。しかれども、かくてはなおい まだ元子そのもののなんたるや、物心そのもののなんたるや、いまだ了解し得たりというべからず。これ、その 物心二元論の古来世に存するゆえんなるべし。欧州にありても物質論は、古代と近世とにおいてその意決して同 じからず。すなわちギリシアの当時デモクリトス等の説によるときは、元子の数は無限無量なるも、その性質は ことごとく同一なりとなせしといえども、近世の分子論は元素の数をもって六〇ないし七〇種ありといい、中に おいて金属非金属の二類を分かち、各種みなその性質を異にするゆえんを知り、もっていかにして千差万別の万 有を構成することを得るやとの疑問を解釈することを得たり。これをインドの勝論および仏教倶舎の説に考うる に、インドの説はすべて分子をもって性質の同じきものとなさざるなり。すなわち各種の極微はみな同一に地水 火風四大より成るといえども、四大の分量に差異あるが故に、分子の性質もまたおのずから相異ならざることを 得ざるなり。また西洋古代の分子は近世のいわゆる小分子の謂︹いい︺にして、今日に至りては小分子の上に更に 微分子の存することを発見したり。しかるにインドのいわゆる極微もまた、決して今日の化学的元素の謂にはあ らずして、物質的小分子の考えなるがごとし。たとえば極微の七数増加のごときを見るも、その体は延長的物質 分子なることは明らかなり。しかれどもまた極微は分割すべからずと考うるときは、化学性のものとも考うべき       釦 か。﹃倶舎論﹄には極微の変磯性のものなるや否やの問答を掲げ、相あつまりて変磯の物質を成ずる以上はまた変

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磯性のものとせざるべからざるゆえんを説明せるを見れば、むしろ極微は物質的延長性分子とせん方穏当なるべ し。また西洋にては分子の説はもとより一般の許すところなりといえども、分子論本来の性質としては唯物的一 元論に帰着せり。しかるにインドの分子論はこれに異なりて、心性をも分子所成なりとするギリシア古代の説に も同じからず。また心性は物理的勢力の変態なりとするの説にも同じからずして、物質以外において心性の説明 をなせり。故にインドの分子論は物心二元論者の一種なりというべし。しかるに、西洋の分子論は学者累代輩出 してその説漸次に発達し、ついに今日の域に達するを得たりといえども、惜しむかな、インドの分子論は後学い たずらにいにしえを墨守して、かつて一歩を進めたることなきが故に陳腐の説となるに至る。しかれども、なお 大いに講究思考するにおいては、またあるいは発明するところなしというべからず。学者あにゆるがせにすべけ んや。        二 四大所造説  四大所造の説は、インドにおいて最も古くよりすでに存したるものにして、西洋にてもギリシアの学者は早く これを唱出したるものあり。これまた東西の暗合というべし。仏教の四大説は広く諸経諸論に談ずるところなり といえども、最も精細なるものを﹃倶舎論﹄となす。論の頒いわく、   大種はいわく四界にして、すなわち地、水、火、風なり。よく持等の業を成じ、堅、湿、媛、動を性となす。   大種謂四界 即地水火風 能成二持等業一堅湿媛動性  何故にこの地水火風を四大と名付くるや、﹃倶舎論﹄に説くところによるに左のごとし。 312

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東洋心理学   一、   二、   三、   四、   一、   二、   三、   四、 一切の余の色の所依の性なり 体の寛広なり 地等の増盛なる聚の中における形相の大なり。 あるいは種々の大事の用を起こすなり。 一切余色所依性︵性︶ 体寛広︵体︶   於二地等増盛聚中一形相大 或起二種々大事用一︵用︶ ︵相︶︹*‖或於︺ あるいは大を名付けて界ともいう。その理また論に出でたり。なおその四大の作用および性質は左のごとし。  ︵体︶    ︵相︶   ︵用︶   地⋮⋮⋮⋮⋮堅⋮・・⋮⋮・⋮持   水⋮⋮⋮⋮⋮湿⋮・:⋮⋮⋮摂   火⋮⋮⋮⋮⋮媛⋮・⋮・⋮⋮・熱   風⋮⋮⋮⋮⋮動⋮・⋮⋮⋮:長  以上の四大はいかなる極微、いかなる物質にありても決して離るべからざるものにして、これに仮実の二種を 分かつべし。仮の四大とは吾人が平常見聞するところの地水火風にして、実の四大とは万有に通じて遍在するも 13        3 のをいう。たとえば目前の火にも実はこの四大を具し、水にも実にこれを具備す、ただその具するところの分量

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の多寡によりてその別ありとなす。﹃倶舎論﹄には種々の例証を出だしてこの理を説明したり。すなわち水の寒に よりて氷となるは水に地の性あるを証し、金銀の熱によりて溶解するは金銀︵地︶に水の性あるを証し、またその 撃ちて熱を生ずるは火の性あるを証すといえり。﹁﹃︹倶舎論︺慧暉︹抄︺﹄いわく、四大によるが故に、まさに色身 等あり。水の摂むることあるが故に散せず、火あるが故に媛かなり、風によって出入息あり、云々。﹂︵慧暉云由二 四大一故方有一色身等一有二水摂一故不レ散有レ火故媛由レ風有二出入息一云云︶とあり。この例証はもとより今日の学説に合す るものにあらず。しかれども四大のごときは、これをもって地水火風そのものをいうにあらずして、一般に万物 に通ずる性質なりとするときは、すこしも怪しむべきものにあらず。なお今日の理学において固体、液体、気体 の三を分かつに等しかるべし。しかして液体は寒によりては固体となり、熱によりては気体となるというは、あ たかも一物に三性を具するものにして、火にも四大あり、風にも四大ありというに同じ。ただ後代﹃倶舎論﹄を 解するもの、四大をもって今日の固、液、気の三性に配合することを知らざるが故に、これを西洋の学説に対し て説明するに大いに困難を感ずるなり。しかるにもしこの四大を西洋の固体、液体、気体の分類に比するときは 左のごとくなるべし。   地⋮⋮⋮⋮⋮堅⋮・⋮:⋮⋮固体

駆一一一⋮︸一 一一縫流体

 ギリシアにてもこの四大説の行われたるは前にいうがごとし。すなわちタレスの水をもって万有の原体となす 314

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に始まり、エンペドクレスの四大をもって万有の元素となすの説を生ずるに至るも、これあたかもインドにおけ る地論師、服水論師、火論師、風論師等の説を合して、勝論もしくは仏教が四大所成説を立てたるに似たり。し かれどもエンペドクレスの四大説は、いわゆる現実の四大をもって万有の元素となしたるものにして、仏教の四 大所造説と同じからず。この点においてはインドの思想はるかにギリシアの上にありというべし。  シナにもわが四大説に類似せる一種の説行われたり。これを五行説となす。五行の中には四大中に存せざる一 物を加えたり。すなわち木これなり。 一 二 三 四 ﹁木﹂ 火 火 東洋心理学

鉦∀地

五 水 水 ﹁風﹂  五行を四大に比するときは、﹁木﹂は四大の中になくして五行の中にあり、﹁風﹂は四大の中にありて五行の中 になし。五行はギリシアの四大の比にあらずして、また仏教の四大とも異なれり。仏教は物質の上にこれを説く のみにして、精神には別にその元素あるものとす。しかるにシナの五行は物質のみならず、精神の上にもこれを 説き、木の性、火の性、土の性等ありという。けだし太極分かれて陰陽となり、陰陽は五行の気となり、その気 形を取りて万物となるものなりと知るべし。古代の説として、また実におもしろき思想ありといわざるを得ず。 315

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ただ五行中に木を加えたるに至りては、比較上異様の感なきにあらず。木は生活物の一種にして、もしこれを五 行中に加えれば動物も人間も加えざるべからず。いわんや五行中に別に心と称すべきものなきをや。かつ五行中 に風を加えざるもまた精密なるものにあらず。これらの点より考うるときは、五行の分類はむしろ四大説に劣れ るものと称すべきなり。  以上、地水火風の四大説につき、これをシナの五行説およびギリシアの四大説に比較して論じたるが、これよ り物質の体相につきて論ぜざるべからず。その体相論を分かちて変遷論、恒有論の二段とす。すなわち変遷論と は物質の現象につきて論じ、恒有論とは本体につきて論ずるなり。          甲 変遷論  まず変遷論を考うるに、事々物々変々化々してとどまらざることはだれもみな知るところなるが、仏教にはそ の状態を四段に分かつて生、住、異、滅の四相となす。この四相の変化を有するものを名付けて有為法となす。 有為とはすなわち変遷生滅を有する状態をいうなり。故に﹃倶舎論﹄第五にいわく、﹁もしこれ︵生住異滅︶あれ ば、まさにこれ有為なるべく、これと相違すればこれ無為法なり。﹂︵若有レ此︵生住異滅︶応二是有為ハ与レ此相違是無為 法︶と。また曰く、﹁よく起こすを生と名づけ、よく安んずるを住と名づけ、よく衰えしむるを異と名づけ、よく 壊せしむるを滅と名つく。﹂︵能起名レ生、能安名レ住、能衰名レ異、能壊名レ滅︶と。これ有為無為および生、住、異、 滅の義解なり。これにまた本相、随相の二種あり。あるいは本相を大相といい、随相を小相という。本相とは生、 住、異、滅の四相をいい、随相とは生生、住住、異異、滅滅をいう。その義すなわち生を生ぜしめ、住を住せし め、異を異せしめ、滅を滅せしむるをいう。換言すれば、四種の本相のいちいちをあるいは生ぜしめ、住せしめ、 316

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東洋心理学 滅せしめ、異ならしむるをいう。故に﹃倶舎論﹄第五にいわく、﹁諸行の有為なるは四の本相により、本相の有為 なるは四の随相による。﹂︵諸行有為由二四本相’本相有為由二四随相一︶とありて、本相は随相により、随相は本相によ り、二者相まちて有為変遷の状態を見るなり。また本随二相の別は、本相は一相にしてよく四相を生ずる力を有 するも、随相は一相にしてただ大の一相のみを生ぜしむるなり。すなわち生生は大の生のみを生ぜしめ、住住は 大の住のみを住せしむる力あるのみ。この二種の四相によりて、世界万有は時々刻々互いに因となり果となりて、 変化してやまざるものなり。その状態を﹃原人論﹄に述べて曰く、﹁身はすなわち生、老、病、死にして、死して また生ず。界はすなわち成、住、壊、空にして、空じてまた成ず。﹂︵身則生老病死、死而復生、界則成住壊空、空而 復成︶と。また同書にその変化の窮まりなきゆえんを示して曰く、﹁念々に生滅して、相続して無窮なるは、水の        ボ        泪々なるがごとく、焔の談々なるがごとし。﹂︵念々生滅、相続無窮、如二水滑々︵如二焔談々一︶︹*111念 *211滑︺ と。また曰く﹁劫々生々に、輪回すること絶えず、終わりなく、始めなきは、井を汲む輪のごとし。﹂︵劫々生々、 輪回不レ絶、無レ終無レ始如二汲井輪し︹*11劫劫生生︺と。その説たるや、ギリシアのヘラクレイトス氏の転化論に似 たり。これによりてこれをみるに、仏教は進化論にあらず、また退化論にあらず。生住二相は進化にして、異滅 二相は退化なり。しかして生、住、異、滅、四相循環して終わりてまた始まり、生滅相続して窮まりなきゆえん に至りては、これを循化論といわざるべからず。循化論とは、進化退化前後循環して転化するをいう。シナの変 遷論は多く退化論により、西洋の変遷論は近ごろ多く進化論によるも、おのおの一方に偏するところありて、い まだ変化の実相を尽くすに足らず。今これを退化論に考うるに、人間社会ともに退化してその結局に至らば、天       釦 地万物ことごとく滅尽するのときなかるべからず。もしそのひとたび滅尽したる後を考うるに至らば、到底退化

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説の説明し得るところにあらず。また西洋進化論は実験をもって証明したる確説なりというも、動植物学者が論 定するところのものと、物理学者が算定するところのものと、その結果全く相反するを見る。動植物学者は生物 全体に進化して無限に向かいて発達するごとくに論ずれども、物理天文の学説に考うるに、将来永遠の年月を経 たる後は、地球も太陽も世界全体が破壊して、その組織を滅尽するときありという。果たしてしからば、天文学 者は退化説を主張し、生物学者は進化説を主張すといわざるべからず。この両説を合考せば、進化極まりて退化 あること明らかなり。もしその説を仏教に考うれば、世界の変化は進化にもあらず退化にもあらず、いわゆる循 化なることを知るべし。  しかれどもかくのごときは、仏教中の生滅界すなわち現象界につきて与えたる説明なり。もし不生不滅界すな わち浬葉界に対していうときは、進化をもって目的とせざるを得ず。なんとなれば、吾人の目的は生滅界を去り て浬薬界に入るにあり。けだし仏教にこの世界の変遷窮まりなき状態を示したるは、畢寛その裏面に不生不滅の 安楽界あることを告げんためなり。すでにこの世界は生滅界なる以上は苦界なり迷界なり。これに対して浬藥は 楽界なり悟界なり。吾人もし苦界を去りて楽界に至らんことを望まば、必ず生滅界を去りて浬薬に入ることを期 せざるべからず。かくして吾人の目的すでに生滅の苦界を去りて浬薬の楽界に入るにありとせば、これ決して退 化説にあらず循化説にあらず、いわゆる進化説なり。  これを要するに、仏教の世界観は表面に変遷生滅の状態あることを示して、裏面に不生不滅の楽界あることを 示し、もって吾人に早くこの世界を去り浬薬に入ることを勧めたるものなり。これそのいわゆる宗教たるゆえん なり。 318

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東洋心理学          乙 恒有論  以上、すでに世界変遷論を述べたり。故に以下、これより恒有論を説かざるべからず。そもそもこの世界の事 物は変々化々して際涯なしといえども、その変化中におのずから常住恒存の理ありて存するを見る。これ畢寛世 界の裏面に不生不滅の浬磐界あるを証すべし。まず変遷生滅中に不生不滅常住の体あるゆえんを示さんに、﹃倶舎 論﹄には変遷相続の状態を示して曰く、﹁たとえば灯焔が刹那滅といえども、しかしてよく相続して、余方に転じ 至るがごとく、諸緬もまたしかり。﹂︵警如下灯焔錐二刹那滅一而能相続転中至余方い諸菰亦然︶と。そのことは後に﹃五 緬論﹄を説くときに述ぶべし。かくして世界の変化が相続して間断なきゆえんを考察しきたらば、必ずその中に 不滅の理の存するを知るべし。これをもって﹃婆沙論﹄三九巻に曰く、﹁自体は改易することなく、功能が転変す。﹂ ︵自体無改易、功能転変︶と。また同書二一巻にいわく、﹁われ作用を説いてもって因果となす。諸法の実体はつね に転変することなく、因果にはあらざるなり。﹂︵我説二作用一以為二因畏諸法実体恒無二転変一非二因果一︶と。また﹃倶       ユ 舎論﹄第一にいわく、﹁自宗に十八界はみな三世に通ずと許し、体は三世において改易することなし。﹂︵自宗許三十           八界皆通二三世べ体於二三世一無二改易一︶︹*111違自宗許十八界皆三世通、続く二〇字省略 *211相於三世無改易故︺と。 これをもって倶舎宗は﹁三世は実有にして法体は恒有なり。﹂︵三世実有、法体恒有︶の原理を唱うるなり。すなわ ち諸法の体は過去、未来、現在の三世にわたりて実有恒有なりとするなり。これすなわち今日理学上説くところ の物質不滅、勢力恒存、運動永続の理法に合するなり。        三 五境成物説  以上、物質に対する客観的説明を示したれば、これより主観的説明を述べざるべからず。すなわち主観的説明 319

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とは物質をわが感覚に従って分類するをいう。たとえば物質を分かちて色、声、香、味、触の五境となすは、い わゆる主観上の分類なり。これ仏教の物質分類の眼目にして、まず吾人の官能を分かちて眼、耳、鼻、舌、身の 五根となし、これに対する境遇を色、声、香、味、触の五境となす。かくのごときの分類法はシナ学者のいまだ 唱えざるところにして、西洋心理学者とインド心理学者中にのみ存するなり。かつまた物心二元の分類も、西洋 とインドとにこれを見るも、シナにありては聞くあたわざるなり。ただシナ学者は陰陽二元説を立てて、一切万 物の体相変化を論ずるのみ。今ここに仏教の五根五境の分類を示さんとするに、五境の第一なる色は色心二法の 色とはその意義を異にし、色心二法の色は物質にして、五境の色は眼界に属する色なり。その解釈にいわく、﹁五 根五境これ色といえども、差別をなすことこれ勝なるが故にひとり色処の名を立つ。﹂︵五根五境錐二是色一為二差型 是勝故独立二色処名一︶と。知るべし、眼界に属する色は色中最勝なるものなることを。しかしてこの色を大別して 顕色形色の二種となし、細別すれば二〇種となる。その表左のごとし。

三︰竺㍉誘赫︰“ 魂騨帝一﹃:霧

 ﹃倶舎頒疏﹄にこれを解していわく、﹁日焔を光と名づけ、月、星、火、薬等の諸焔を明と名つく。光明を障え て生ずるものあり、中において、余色の見るべきを影と名づけ、これに翻ずるを闇と名つく。﹂︵日焔名レ光、月星火 薬諸焔名レ明、障二光明一生、於レ中余色可レ見名レ影、翻レ此名レ闇︶と。また形色の正不正を解していわく、﹁形の平等な るをこれを名づけて正となし、形の平等ならざるを名づけて不正となすなり。﹂︵形平等名レ之為レ正、形不二平等一名為二 不正一︶と。また﹃宝疏﹄にこれを解していわく、﹁火によりて煙と名づけ、いまだ散らざるを塵と名づけ、地より 320

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東洋心理学 水気ののぼる、これをいいて霧となす。﹂︵因レ火名レ煙、未レ散名レ塵、地水気騰謂レ之為レ霧︶と。また顕色は全く眼の 感覚に属するも、形色に至りては多少触覚に関係を有するなり。しかれども吾人が視覚上にこの二種の別あるこ と明らかなり。故に色を分かちて顕色形色の二種となすに至りては、おもしろき分類法というべし。また、これ に空一顕色を加うれば総計一二色となる。その空一顕色とは空界の色をいう。あるいはこれを明闇の中に摂すれ ば、別にその一種を設くるを要せず。もしこれを西洋分類法に考うれば、二者大いにその別あるをしるべし。今、 西洋心理学の一書によりてこれを考うるに、視覚を分かちて光覚筋覚の二種となす。その光覚は全く視覚にのみ 属すれども、その筋覚は筋肉の感覚と関係するものなり。図表すれば左のごとし。  つぎに声境につきては八種を分かつ。その表左のごとし。 321

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 すなわち有執受とは有心のもの、無執受とは無心のものをいうなり。また可意声とは好声をいい、不可意声と

は悪声をいう。今﹃有宗七十五法記﹄上巻にいわく、﹁心心所法は共に執持するところを摂めて依処となし、有執

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東洋心理学 受と名づけ、これに翻ずるを無執受と名つく。この有執受の中の語業を有情名と名つく。よく詮表するが故に。 拍手等の声を非有情名と名つく。詮表するあたわざるが故に。風、林、河等の発するところの音声を無執受大種 を因となすと名つく。無執受の中の有情名は化人の語声をいうなり。﹂︵心々所法共所二執持一摂為二依処一名二有執受ハ 翻レ此名二無執受べ此有執受中語業名二有情名バ能詮表故拍手等声名二非有情名ハ不レ能二詮表一故、風林河等所レ発音声名二無執 受大種為。因、無執受中有情名者謂花人語声一︶︹*n心︺と。この説明によりて知るがごとく、有執受大種に属する ものは言語および拍手等の声にして、言語はよく思想を詮表するをもってこれを有情名の声と名付け、拍手は表 詮するあたわざるをもって非有情名に属するなり。無執受もこれに準じて知るべし。また可意声とはわが意に適 する声にして、歌讃等のごときこれなり。不可意声とはわが意に適せざる声にして、罵署等のごときこれなり。 しかして大種とはこれを解していわく、コ切の声はみな、四大によってあい撃発するが故なり。﹂︵一切声皆因一西 大一相撃発故︶︵遁麟︶と。すなわち地水火風の四大によりて一切声を発するによる。以上は仏教の声境に関する分 類なるが、もしここに西洋の聴覚に与うる分類を挙ぐれば左のごとし。

聴燕

 すなわち情覚とは、音響の感覚にわが感情の加わりて苦楽を感起するをいう。音覚とは聴覚の本分にして、音 響の高低軽重を感ずるをいう。智覚とは、智力の聴覚に加わりて距離もしくは位置を判定し得るをいう。その分 類は仏教の分類ももとより異なるところありといえども、もしその二者を比較すれば、仏教の分類のかえって細 323

(35)

密なるを知るべし。  つぎに、香境につきて仏教の分類を考うるに左のごとし。  すなわち好香とは沈︹香︺欝︹香︺の類をいい、悪香とはネギ、ニラの類をいい、等香、不等香とは曰く、増益を 等香と名付け、損減を不等香と名付くと。すなわち﹃頒疏﹄に解するところによるに、﹁沈檀等を好香と名づけ、 葱莚等を悪香と名つく。好、悪香の中、依身を増益するを名づけて等香となし、依身を損減するを不等香と名づ け、損増なきものは好悪香と名つく。﹂︵沈檀等名二好香一葱薙等名二悪香ハ好悪香中増司益依身一名為二等香ハ損コ減依身名二 不等香ハ無二損増一者名二好悪香べ︶と。また一説には香に三種を分かつ。曰く、好香、悪香、平等香これなり。﹃有宗 七十五法記﹄にこれを解していわく、﹁依身を増益するを名づけて好香となし、依身を損減するを名づけて悪香と なし、前の二用なきを平等香と名つく。﹂︵増コ益依身一名為二好香べ損コ減依身一名為二悪香べ無二前二用一名二平等香一︶と。 もしまた西洋分類によるに、嗅覚を分かちて肺覚、嗅覚、触覚の三となす。肺覚とは香臭の種類に応じて、ある いは胸を悪くし呼吸を圧するがごとき類をいう。触覚とは鼻孔内の皮膚を刺激して、針にてつくがごとき感覚を 生ずるの類をいう。  つぎに、味境に対する分類は六種あり。すなわち左のごとし。 324

(36)

東洋心理学   味境六  苦、酢、鍼、辛、甘、淡  その解釈は別に説明を要せずして知るべし。もしこれを西洋の分類に対照するに、西洋にありてはそのいわゆ る味覚を分かちて胃覚、味覚、触覚の三種となす。たとえば人の胃において好まざるものはその影響を味の上に 及ぼし、あるいは胃において好むものはまたその影響を味の上に及ぼすの類をいう。触覚とは、舌面の皮膚に感 覚を与うる一種の触覚をいうなり。  つぎに、触境につきて左のごとく一一種に分かつ。

  触境= 

地、水、火、風、軽、重、滑、渋、飢、渇、冷  これを﹃︹倶舎︺頒疏﹄に解していわく、﹁堅なるを地となし、湿なるを水と名づけ、媛なるを火と名づけ、動な るを風と名づけ、はかるべきを重と名つく。これに翻ずるを軽と名づけ、柔煙なるを滑と名づけ、麓強なるを渋 と名づけ、食欲を飢と名づけ、媛欲を冷と名づけ、飲欲を渇と名つく。﹂︵堅為レ地、湿名レ水、媛名レ火、動名レ風、可 称名レ重、翻レ此名レ軽、柔煙名レ滑、鹿強名レ渋、食欲名レ飢、媛欲名レ冷、飲欲名レ渇︶と。これを西洋分類に比較するに、 冷、飢、渇は有機感覚すなわち体覚に属するものなり。およそ西洋の触覚に関する分類は、第一を触覚とし、第 二を圧覚とし、第三を温覚とす。そのいわゆる触覚は物の形状大小を感別するをいい、圧覚とは重量を感知する をいい、温覚とは寒暖を感知するをいう。このうち圧覚と温覚とは体感および筋感に関するところにして、通例 これを触覚外に一類を設くるなり。  以上、仏教分類と西洋心理学の分類を掲げたれば、二者の同異を示すため、更に感覚全体に対する西洋分類の 全表を示すときは左のごとし。 325

(37)

 この表によりて対照するに、西洋分類と仏教分類ともとよりその性質を異にせりといえども、またおのおのそ の長所あること明らかなり。もっとも西洋分類は学者その意見を異にして種々の方法あるも、余はもっぱらべー ン氏心理書に表示するところによれり。  つぎに、仏教の色法中無表色と名付くる一種あり。これ西洋心理学者のいまだ説かざるものにして、これを物 質の一種となすは西洋諸学者の決して許さざるところなり。しかるに仏教にこれを説きたるは、宗教の善悪の作 用を説明するに必要なるところあるによる。かつこの一種を色法中に加うるは仏教中においても異説あり。もし

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東洋心理学 これを色心二法に配するときは、色法にも心法にも属せざるが故に、むしろこれを非色非心の一法として置かざ るべからず。しかるに今、倶舎により色法の一種としてここに掲ぐ。﹃倶舎論﹄巻一にその字義を解していわく、 ﹁無表は色業をもって性となすこと、有表業のごとしといえども、しかも表して、他をして了納せしむるにはあ        ボ          らず。故に無表と名つく。﹂︵無表錐下以二色業為レ性如中有表業上而非三表令二他了納一故名二無表一︶︹*1n表示錐 *2‖了 知︺と。﹃倶舎﹄の頒にいわく、﹁この身と語との二業は、ともに表無表を性となす。﹂︵此身語二業倶表無表性︶と。        ニ アリ      ト     ト またいわく、﹁無表に三あり。律儀と、不律儀と二にあらざるとなり。﹂︵無表三律儀、不律儀、非二︶と。﹃倶舎論﹄         にその律儀を解していわく、﹁よく身と語とを防ぐが故に律儀と名つく。﹂︵能防二身語一故名二律儀一︶︹*U大正蔵には この文なし︺と。またいわく、﹁悪戒の相続をよく遮し、よく滅するが故に律儀と名つく。﹂︵能ヨ遮能コ滅悪戒相続一故 名二律儀一︶と。つぎに非二を解していわく、﹁二にあらざるとは、いわく律儀にあらず、不律儀にあらざるなり。﹂ ︵非二、謂非律儀、非不律儀︶と。その意義を﹃倶舎七十五法大意﹄に説きていわく、﹁無表色とは何とも其様子の見 せられぬもの故に表示が出来ぬと云ふことにて無表色と云ふ其体は強き善悪の身語業の四大種の気分がうつりて 身語の作業を離れて善悪の身語の業を作せし通りの功能が始終其の身につきて離れぬものが無表なり四大の勢力 にてできる故に色に属す左れどもうつり香の様なるものにて急度したる物体なければ極微の所成にあらず極微に       シテ    ニ て造らねば体質ありて物を磯へざれば色とは云へども質碍の性にあらず﹁質碍にあらずして色なり。﹂︵非二質碍 色︶となすは此の無表に限るなり故に無表は色の仲間にてはあれども常途の色にはあらずと意得べし﹂と。その他、 無表色につきて善悪に関する分類多しといえども、心理学として講ずる必要なければ、ここにこれを略す。 327

(39)

第二段 世界論

 上来、倶舎論哲学を客観論、主観論の二段に分かち、その客観論を更に物質論、世界論、人身論の三段に分か ちしが、そのうちすでに物質論は主観客観両方より論弁し終われり。故にこれより世界論につきて述べざるべか らず。  まず初めに世界の名義を考うるに、これ空間時間を合わせたる名称にして、なお宇宙というがごとし。すなわ ち﹃翻訳名義集﹄によるに、﹁﹃樗厳経﹄にいう。世を遷流となし、界を分位となす。汝今まさに知るべし。東西         南北、東南、西北、東北、西南、上下を界となし、過去、未来、現在を世となすなり。﹂︵籾厳経云、世為二遷流ハ界  ホヨ       ぷ  為二分位べ汝今当レ知東西南北東南西北東北西南上下為レ界、過去未来現在為レ世也︶︹*111﹁経﹂なし *211方 *311東 西南北、東南西南、東北西北、上下︺と。故にその界はすなわち空間にして、その世はすなわち時間なり。これをも って仏教には三世十界というなり。宇宙の解釈もまたこれと同じく時間空間を意味す。今これを﹃准南子﹄に考 うるに、その斉俗編にいわく、﹁往古来今これを宇といい、四方上下これを宙という。﹂︵往古来今謂二之宇︵四方上 下謂乏宙一︶と。これをもって知るべし。  つぎに世界分類を考うるに、仏教中に世界を分かちて、あるいは二種とし、あるいは三種とす。その二種の説 は左のごとし。

冬︰鷲霧蕾竃

328

(40)

東洋心理学  あるいはこれを衆生世間、器世間という。またこれを三種に分かつときは、一には五緬世間、二には衆生世間、 三には国土世間となる。あるいはまた世界を欲界、色界、無色界の三種に分かちて、これを三界という。またこ れを一〇種に分かつことあり。いわゆる六凡四聖なり。これを名付けて十界という。六凡をあるいは六道あるい は六趣あるいは六楊と名付け、これに対して四聖を四浄という。その表左のごとし。

+界齋川認雛籠囑人天

 この六凡すなわち六道を、あるいは分かちて五種とすることあり。そのときは修羅を略して、天もしくは餓鬼 もしくは畜生に摂するなり。また世界の大数を挙ぐるときは三千大千世界という。﹃倶舎頒﹄にいわく、﹁四大洲 と日月と蘇迷盧と欲天と梵世とおのおの一千を一小千界と名つく。この小千の千倍をいいて、一中千と名つく。

       トト トトト     

ノ   この千倍が大千にして、みな同一に成じ、壊するなり。﹂︵四大洲日月蘇迷盧欲天梵世各一千名二一小千界べ此小千々倍 謝名’二中千ハ此千倍.大も﹀皆同一成壊︶︹*1目千 *2U説︺と。すなわち世界の数が千に満つるを小千世界とし、 この小千世界の千倍を中千世界といい、中千世界の千倍を大千世界という。これを合して三千大千世界という。 故にもし数をもって表示すれば、吉80×一三8×吉OOO‖一三〇POOO三〇〇すなわち一〇億なり。これを総じて娑婆 という。﹃感通伝﹄には娑婆則大千総号という。実に世界の無量無数なるを知るべし。故にあるいは十方微塵世界 ともいうなり。これをもって﹃起信論﹄には﹁虚空は無辺なるが故に世界は無辺なり。世界は無辺なるが故に衆 生も無辺なり。﹂︵虚空無辺故世界無辺、世界無辺故衆生無辺︶と。故にもし仏教の世界論を述べんと欲せば、まず空 29       3 間論、時間論を述べざるべからず。

参照

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