81
≪Aurelia≫ 未定稿について 岡隆
(38.10)
1962年1月18日号のLes Nouvelles Littsraires紙に, Gerard de Nervalの遺作ォAureliaサの未発表原稿7枚が発表された.以下その大訳 を掲げる.なお文中⊂コの部分は,原稿においてNervalにより抹消さ れているものである.但し訳文で抹消部分を充分に示し得ない個所は原文
を添えておく.
「私にとって,このvita nuovaが始まったのは⊂私が残酷な私の病に 初めて襲われたのは〕1840年のことであった.私は当時ブリュッセルに滞 在し,ブリュレ街の大市場の近くに住んでいた.夜は大ていMontagne de la Courにある,私の女友達のある美しい婦人の家に食事に行き, そのあと,私が作者として自由に入場できたモネ‑劇場に行くのが常であ
った.そこでは,私が以前パリで知り合い,当時ブリュッセルでオペラの 主役を演じていたある魅惑的な歌姫と再会できる喜こびで夢中になるので あった.時として一人の別の美しい婦人が桟敷から私のいる平土間席に合 図を送り,私が彼女のそばまで上って行くこともあった.私達はその歌姫 について話し合い,婦人は彼女の才能を愛していた.彼女は心の優しい人 で,この昔のパリの熱情に対して寛大であり,ほとんどその都度スカルベ
‑クの町に近い彼女の家まで送って行くことを私は許されたのである.
一夜私はmagnstismeのある会合に招かれた.私は始めてsomnanbule (magnetismeにおいて腫眠透視をする女)を見た. (⊂C'芭tait⊃ Pour la premiとre fois Cque⊃ je voyais une somnanbule.)その日は丁度ノIOリでナ
ポレオンの葬列が行わなれる日であった.その女は式典の模様を事細かに̲
語ったが,その通りのことを翌日私達はパリからの新聞で読んだのであっ, た.ただ彼女は付言して,ナポレオンの遺体が誇らかにLes Invalidesに 入った時その魂は枢を脱げ出し北国に向って飛び去り,ワーテルローの平 原に憩を求めて飛び来ったのだと語った.
この偉大な想念は私を感動させたが,その会合に出席していた人達,そ‑
の中にMalinesの司教の姿も見られたが,彼らも同様であった.それか ら二日後Ia Salle de la Grande Harmonieで華やかな音楽会があった.
それには二人の女王が出席していた.歌の女王は以後私がAurelieと呼ぶ ことになるひとであった.いまひとりの女王は,ベルギーの女王であり, 前者に劣らず美しく,また彼女より年若であった.彼女たちは同じ髪形で,.
編んだ髪のうしろ,項のところにメディチ風の金の髪かざりをつけていた.1 この夜は私に強烈な印象を残した.この時以来私は,フランドル地方‑
再来した際私を一層際立たせるようなある使命を与えられることを希みな がら,ひたすらパリに帰ることのみを考えたのである.
帰国して六週間の間,私は当時文部大臣であったVillemain氏のすす めに従って研究していた若干の商業的な問題について不断の研究に従事し た.私の研究が目的を達したかに見えた時,私が仕事にそそいだ不断の熱 中が一種の興奮状態を私に惹き起し,しかも私はそれに気がついた最後の 男であった.カフェ,友人達の家,あるいは街で私はPicdelaMirandole に倣って,あらゆる事柄について‑de omni re scibili et quibusdam alns,長広舌をふるった.三日間私は,種の親和力,数の力,色彩の調和 について‑体系のあらゆる資料を集め,それをいささか雄弁に論じ立てた ので多くの友人はそれに感動したのであった.
私は夜になると,いつもカフェLepelletierにビールを飲みに行き,その
くくAurelia》未定稿について
83
二あと当時住んでいたNavarrin街まで町を上るのが常であった.ある晩12 時頃私は幻覚を見た. 12時が打っていた時,私はNotre‑Dame de Laurette 衝37番地の前を通りかかり,その家の入口にまだうら若い女性を見たが, その様相は私を驚ろかせた.その顔は蒼ざめ,眼が凹んでいた. 「これは 死だ」と私はひとりごちた.私は世界がまさに終ろうとしているのだと考 えながら,帰って床についた.
しかし眼が覚めた時,夜はあげていた.私はいささか安心し,その日は p友人に会うことで一日を費やした. ⊂私が定食を食べに行ったそのテーブ ルで,私が様々な時代に起った事柄について語って聞かせた友人達の一人 は,私にこういった. 「僕は君が誰だかよく知っている. ‑・君はSamt‑
ゆGermain伯だ.」と.コ
衣,行きつけのカフェに行き,友人のPaul CChenavardコ, Auguste s⊂Moreletコの二人と長い間,絵画と音楽について話し合った. 12時が鳴 った.それは私にとって運命の時刻であった.しかし私は天の時計と地上 のそれとは一致しないことも大いにあり得ることだと考えた.私は,これ
から出発し,私の祖国である東邦に向うのだとPaulにいった.彼はCadet Lの交差点まで私について来た.そこで,幾つかの通りの合流点に出た私は,
不安になって立ち止り, Coquenard筒の角にある境界石の上に腰を下ろし た. Paulは私を動かそうとして超人的な力を奮ったが無駄であった.私は 釘ずけにされているように感じた.彼は遂に午前一時頃私を置き去りにし て行ってしまった.ひとりになったのを見て私は,二人の友人Thsophile
!rGautierコとAlphonse CKarrコに助けを求めた.私は彼らの横顔をまる で影のように⊂通り過ぎるのをコ見たのである. (Theophile CGautierコet Alphonse CKarr], que je vis CpasserU de profil, et comme des ombres.) 一仮面をつけた人達をのせた多数の馬車が往き来していた.というのはその
夜は謝肉祭だった.私は好奇心に駆られて馬車の番号に注意し,数の神秘 ̄
的な計算に没頭するのであった.遂にHaute‑Ville衝の上に青白い環で囲 まれた一つの赤い星が上ってゆくのが見えた.私は遥かな星Saturneを認 めるように思い,努力して立ち上り,その方向へ向った.
私はその時から何かしら神秘的な讃歌を歌い始め,その歌は私を得もい えない歓喜でみたしたのである.同時に私は地上の衣服を脱ぎ,私のまわ・
りにまき轍らした.荷の中程まで来た時,私は巡羅兵の一隊にとりまかれ ていた.私は自分が超人的な力を与えられているように思われた.私はそ‑
の磁気的な力を奮うことは望まず, ⊂Cadet広場の詰所にコ連行されるに まかせた.
⊂そこでコ私の服がストーブの上で乾く間,折り畳み式のベッドに寝かさ れた.私は幻影を見た.空が神の栄光のように私の眼の前に開け,古代の・
神々が私に姿を現わした.彼らの絃い許りの空の彼方にインドのBrahma.
の七つの空が輝くのを見た.朝がこの夢に終止符を打った.
幾人かの新来の兵士が,私を収容した兵士達と交代した.彼らは同じ夜 収容された自分自身の名前すら知らないように見える奇妙な男と一緒に私
を留置場に入れた. 」
(ここで,これまでの原稿と全く様子が異なり,非常に推稿された跡を 留める一枚の原稿が挿入されているが,その内容は最初の三行を除いて決一 定稿舞1部第3章の終りの文章と全く一致しているので敢えてその訳文を 掲げない. 1952年のPleiade版Nerval全集(I)においてp.365の下 から9行目より最終部まで参照.原稿中,決定稿と異なった部分だけ原文 ̄
で示しておく.
Des amis vinrent me chercher et Petat de vision continua toujours.̲
《Aurelia》未定稿について
85
以下La seule difference de la veille au sommeil ‑ ・は決定稿と同じで ある.その後原稿は再び前と同じ筆致にもどり,以下の内容が続く)
「眼を閉じると,私は自分がライン河のほとりのJohannisbergの城に運 ばれるのを見た.私はひとりごちた.私の叔父⊂Metternich〕 Fredsricが 食事に私を招いてくれるのだと.彼が私を招じ入れた素晴らしい広間に, 夕日が一杯射しこんでいた. ⊂私はその後自分がウィーンのシェンブラン 官に運ばれるのを見た.コその夜の間,私は地球を貫く深淵に投げ入れら れたように思えた.世界の一方の端から出た私は,ある楽しげな島の岸に ついた,そこでは一人の老人が葡萄の木の下で働いていた.彼は私にいっ た. 「お前の兄弟たちが食事にお前を待っているのだ.」と.私はその時, 地球の中心に向って降りて行くのを感じた.私の体は何の苦痛もなく⊂熔 解したコ銀色のはげしい流れに運ばれ,その流れは私を地球の中心部まで 運んだ.私は地球のあらゆる部分に生気を与えている熔解した金属を運ぶ 静脈と動脈とを,その時はっきりと認めたのである.私たちの集まりは広 大な広間を占領し,素晴らしい饗宴が用意されていた.聖書の族長および 東邦の女王たちが主要な席を占めていた.アジアの最も美しい装身具で身 を飾ったソロモンとシバの女王がその集まりを統べていた.私は私の家族 の神聖な顔立ちを認めて,優しい共感と,正当な誇りに満たされるのを感 じた.人々は私が地上に帰るべく定められていることを私に教え,私は彼 らすべてを涙を流しながら抱擁したのである.
眼が覚めた時私は,私が嘗てそこで養育された村の古い歌がくり返し歌 われるのを聞いて嬉しかった.私を看護していた若者が,胸に泌み入るよ うな声で歌っているのであった.それで若し格子さえ見えなければ,私は, あれほど私に優しかったその村の叔父の家にいるのだと思ったであろラ.
ああ,残酷なそして優しい思い出よ.お前たちは私にとって,平和な,再 生された生への復帰であった.愛は私の魂の中に整えり,私の周りの一切 を美イとするのだった.
幾人かの友人が午前中私に会いに来た.私は彼らと庭を散歩しながら私 の試棟を語った.彼らの一人は涙を流しながら私にいった. 「或る神が存 在するというのは本当ではないだろうか.」私は彼にその通りだといい,私 たちは穏やかな感激のうちに相擁したのである. ⊂以後は一切が私に好都 合だった.私は昼間外出し,父に会いに行った.そのあと私は内務省に向
った.そこで幾人かの友人に会わねばならなかったのだ.私は美術局長の 部屋に入り,長い間立ち止って,一枚のフランスの地図に見入った.彼は 私にいった. 「首府はどこにあるべきだとお考えですか. ・‑と申すのも, ノn)は余りにも北部に位置していますので.」私の指はBourgesの上に止
った.彼は私に「貴方の仰言る通りです.」といった.⊃
この時期から,より平静な一連の日々が始まる.軽い再発の後,私はモ ンマルトルの病院に運ばれた.」
Les Nouvelles Litteraires紙に発表された未発表原稿は,以上であるが 末尾に付された注によると,以上は発見された7枚の内6枚の内容であり, 最後の7枚目は他の原稿とは異なった書体で,その内容はォAurelia》決定 稿の第II部のプロローグと同一であるそうである.そしてLesNouvelles Litterairesにはその内容は掲載していないので,プロローグのどの部分ま でを含むか明らかにし得ない.その内完全な文章で紹介されるであろう.
× ×
以上のォAurelia》原稿は, Les Nouvelles Litteraires紙にフランス国 立図書館のJean Porcher氏(conservateur en chef au Cabinet des
くくAurelia》未定稿について
87
manuscrits)によって紹介されたものであるが,氏の紹介によると1962 年Mme Lticien‑Grauxより国立図書館に寄贈された約80枚の原稿(そ の内容は16世紀より19世紀に至る様々な手記原稿を含むというが)の中 に,これらォAur61ia))原稿7枚が発見されたということである.これまで ォAureliaサに関しては,その決定稿から削除されたと見られる四種の原稿 断片が発見されており, 1952年出版されたPleiade版Nerval全集第一巻 に, Fragments du manuscrit d'Aureliaとしてテキストに続いて収録さ れている.但しその中で記載順序第三の原稿断片は,その後,それに続く 原稿2枚が発見され補足されているが,これら四種の原稿断片と, 1962年 発見された原稿とは内容的に大きな相違があることが認められる.即ち, 前記四種の原稿断片の内容は,その名称の示す通りォAurslia》の秘教的 世界に直接連なる秘教的imageの断片的なノートと見られるのに対し, 後者は,先に紹介した通り極めて直接的に語られる自伝を内容とし,更に
これを決定稿と此故した場合,その間多くの変形をうけながら相対応する 内容を決定稿の中に見出し得る点,従来の原稿断片が所謂削除原稿として, その秘教的Iinageによって, 《Aurelia》の作品構造の解明には重要な資 料となりながら,作品形成について即ち,その形成過程については明確な 資料となり得なかったのに対し,新たに発見された原稿はォAurelia》の形 成途上の‑原型を示すォAurelia))未定稿として極めて注目される資料とい わねばならない.
さて,これら未定稿の内容は,第II部のプロローグに一致するという最 後の一枚を除いて,大体決定稿第I部第2章より第5章に相当するもので
あるが,両者を此改して全般的にいえることは,未定稿においては極めて 明確な状況描写が記され,具体的な地名,人名,あるいは日時などの指定 がなされているのに対し,決定稿においては,それらの名称はほとんど抹
消されており,この点から考えると, NervalのォAurelia》制作の当初の意 図は,でき得る限り忠実な自伝の再生,あるいは少なくともその印象を与 えようとしたとみられるのである.この意味で先ず未定稿の内容に示され る自伝的内容を検討し,それが如何に決定稿において変形され,あるいは 発展しているかを考察してみよう.
×
未定稿冒頭に語られるBruxellesにおける三つのspisodesは,従来知 られていないこの時期のNervalの行動の一端を示すものとして,決定稿 への発展もさることながら,伝記的にみても興味ある資料といえる.
1840年10月Nervalは,嘗て(1837) Dumasとの共作によって執筆し たオペラくくPiquillo》のBru耳elles初演を機として,その上演に立ち合うた めノlOリを出発した.しかし上演は予定より遅れ,彼はその間の事情を10月 22日Anversより父に宛てた書簡において次のように記している. Je
comptais voir la representation de Piquillo k Bruxelles, mais la
′
plupart des acteurs sont indiposes, et l'on ne jouera peut‑etre pas avant un mois, de sorte qu'il est peu probable que je le voie, meme
en repassantlしかし彼はそのままベルギー旅行を続け, 11月17日 にはLiとgeから再び父に宛てォPiqmllo))上演が来週に迫っていることを 伝えている.なお彼はその手紙の中でJ'ai profite de mon sejour k
Bruxelles pour faire un travail sur la contrefagon2);と,ォPiquilloサ上演
を待つ間を利して,フランスの文学作品のベルギーにおいて蒙っている版 権或いは著作権侵害,の事実について調査をしていることを記し,さらに
Y trouverai‑je matiとre k une mission comme celle dont j'ai ete charge
′
Fannee derniとre* ‑・と,この問題についての政府から正式の調査を委嘱 されることを期待している.事実12月7日には時の内務大臣Duchatelの
《Aurelia》未定稿について
89
秘書であり, Nervalの友人でもあったEdmond Leclercに,官房長Mallae に口添えを依頼しながら詳細にその問題を報告し,その対策の腹案が自分 にあることを記し,何らかの政府からの援助を期待した書簡を送ってい る4).さらに錯乱直後の,父に宛てた書簡には,この事件(錯乱による入 院)によって,期待していた使命が他人に委ねられることを恐れて‑・ Le
ministre ignore meme que j'ai ete gravement malade, ce qui l'aurait pu decider de confier mon travail a un autre. II faut que, dans‑
huit jours au plus, je puisse reprendre mes occupations, scure ou
dieter aumoins5)‑・と記している.また本稿の終りにも触れるが, 1841 年3月31日付の内務省美術局長Auguste Caveに宛てた書簡には,さら にこの間超についての調査旅行に対する政府の資金援助を要請している.
これらの事実は,未定稿に記されているBruxellesを去るに当って,フテ ンドル地方‑再来するための政府より与えられることを期待した使命の内 容,さらにパリにおける錯乱の原因と彼みずから指摘するある種の商業問 題に関する彼の不断の研究の対象が如何なるものであったかを示すと同時 に,未定稿の内容が,当時のNervalの関心を直接的に伝えるものである ことを明らかにするのである.ともあれ,その間,このような問題の調査,.
あるいはHeineの訳詩などに日も過ごしながら, 《Piquillo》上演を待ちわ びたNervalの心には,その上演によせる一つの大きな期待があったと思 閥giKSl
即ち, 1837年Dumasとの合作によって執筆したくくPiquillo》は,もとも と当時の彼の意中の女性Jenny Colonを主役にあてるべく予定されて書 かれたものであり,その年10月31日予定通りJennyを主役として幕を あげられたのであるが, Nervalはこれを機会に,かねての思いを彼女に
打ち明けたものと推察され,彼のJennyに宛てたと思われる所謂Aurelia 書簡は, 1837年より1838年の冬の間に書かれたもーのと推定されている.
.しかしその直後二人の間は,原因不明の理由によって不和を来たし,彼女 rは一座のフリュ‑ト奏者Louis Leplusと1838年4月11日結婚し,二人 の恋は終ったのである.
さてNervalがォPiquillo))上演に立ち会うためBruxellesを訪れた当時, JennyColonもBruxellesに来演しており6),さらにパリの初演と同じく
《Piquillo》の主役を演じることになっていた.恐らくNervalはパリ出発
 ̄前にその事を知っていたと思われるが,彼の《Piquillo》上演に寄せる関心 には,その機会を利用して, JennyColonとの和解を果すことができるか も知れないという期待が含まれていたであろうと推察される.この事はそ の上演に立ち会うべく示されたNervalの執着の深さを説明するに充分で あろう.彼はEdouard Ourliacに宛てJennyとの再会を伝え‑ J'ai
perdu du temps & Bruxelles pour voir Mme Jenny C⊂olon⊃7)‑・と 述べ,さらにHippolyte Lucas宛の書簡に次のような言葉が見られる.
On vient de representer Piquillo et je n ai pas besom de vous dire
・que j'en ai profite pour revoir une charmante dame que vous con‑
naissez. Je vous ecrirai encore dans quelques jours, et je vous
・demanderai quelque service semblable pour elle8).この中の魅力ある 女性がJenny Colonを指すことは容易に推察できるのであるが,彼女の ために助力を頼んだNervalの言葉は,彼女との和解を暗示するものであ ろうか.
さらにNervalはBruxellesにおいて,今一人の女性,即ち彼が1839 年11月から翌年3月までのウィーン滞在中知り合った,当時美貌と天才を うたわれた女流ピアニストMme MariePleyel93に偶然再会した. 1840年
ォAurelia》未定稿について
91
12月23日父の書簡において・Je ne sais si je t'ai ecrit dej& que j'avais rencontr芭k Bruxelles Mme Pleyel, qui faisait les dsIices de nos belles soirees a Pambassade de Vienne, et qui est nee dans ce pays‑Cl. ‑ J'ai fait aussi, chez Mme Pleyel, la connaissance de M.
Lebeau, medecin, frとre du ministre des Affaires etrangとreslO)...と,,
彼女との再会を語り,さらに彼女の家を訪れたことを記している.
未定稿中La Monnaie劇場の魅惑的な歌姫が, Jenny Colonを示し,さ‑
らにNervalの昔の恋の寛大な聞き手であった桟敷の女性がMme Pleyel であることが推察される.なおMmePleyelであるという推論は,決定稀 の内容と対此したとき一層明確に示されるのである11)ともあれ以上の書 簡と未定稿と対此すると,未定稿に示されたNervalの二人の女性に対す‑
る記述の内容は,その直接的な性格からして,極端に事実を曲げたものと は考えられず,大体事実を伝えるものと見てよいのではなかろうか.
さらにJenny Colonに関するepisodeとして,未定稿に語られる二人 の女王の出席した音楽会の印象を記した第三のepisodeが挙げられる.文 中,以後Aurelieと呼ぶことになる歌の女王がJennyを示すことは容易に 推察できるが,一方の本当の女王,即ちベルギーの女王は, Louis Philippe の娘で,時のベルギー王Leopold一世の王妃Marie‑Therとse‑Caroline‑
Isabelle‑Louise d'Orl芭ans (1812‑1850)を指すと考えられる.この二人の・
女王がNervalに強烈な印象を残したと語られているのであるが,果して このような事実があったのであろうか,あるいはNervalの創作であるの か・この点に関して当時の彼の書簡には何も記されておらず,直接的な判 断の資料はない.しかしここで想起される興味ある事実が存在する.即ち NervalがBruxellesよりパリに帰り,1841年2月最初の精神錯乱を経験し た直後, Picpus街のMme de Saint Marcelの病院からPaul Bocage
に宛てた,種々の書体の奇妙に混交した謎のような書簡12)の中に‑‑ une
・consuyne sIoygnee, di Riojuα ‑M.V.L, d'0‑の語句が見えるが, Pleiade 版においてJean Richerはその注に,これはベルギー女王Marie Louise
<T Orleansを指すものと推定しsans doute Gerard avait‑il eu l'occasion 蝣d entrevoir la reme13),と記している.未定稿の内容はこのJean Richer の推定を裏づけるものであると考えられる.
さらに,このベルギー女王に対してNervalの捧げた詩が発見されてい る. 1854年小説集「火の娘」に収められた「幻想詩篇」中《Horus》は東邦 神話にもとづき牧世主として新しい神Horusの誕生をうたったものであ
るが, Jeanme Moulinは詩篇の内容の未熱さからいって他の幻想詩篇よ りも以前に書かれたものであり,恐らく1842年の終りから1843年にか けての東邦旅行の時期に書かれたものではないかと推論している14)とこ ろでこのくくHorus》には,内容的に若干の語句の相違がある別の手筆原稿 が残されている.その原稿には題名はなくPleiade版によるとALouise d'OR., Reine (但しJeanine Moulin評釈のォLes Chimとres)), Librairie Droz1949.によるとALouised'0. Reine.)となっている.先程引用した 錯乱後の書簡に現われた名前といい,さらに《Horus》の別稿に見られる 献辞,さらにごの詩篇の制作時期についてのJeanine Moulinの推定を総 合すると, NervalがBruxelles滞在中,あるいは未走稿に語られるような 状況でMarie Louise d'Orleansを垣間見ることがあったと推定され,こ の女王がNervalの心にある強い印象を残したことも事実であろラ.また 未定稿に語られる事が事実とすると,この女王のimageがその後深く心 に灼きつけられていた理由も推察できる.即ち当夜のJennyと女王の髪 かたち,髪飾りが同じであったことによって暗示される二人の女性の内面 的な同化作用がそれである.東邦旅行中のノートCarnetdeNotesに記さ
ォAureha》未定稿について
93
れていて,以後のNervalの作品の重要なテーマとなる語句‑ Poursuivre les memes traits dans des femmes diverses./‑Amoureux d'un type eternel./La fatalite153は,その反映の一つをJennyとMarie Louise d'Orleansの中に見ることができるのではなかろうか.
以上,未定稿に記されたBruxellesにおけるepisodesの内,決定稿に 関係のあるJenny ColonとMarie Pleyelに関する二つのepisodesが, 果して過去の忠実な再現であるかどうかを検討した訳であるがMarie Pleyelに与えられた寛大なconndenteの役割, JennyとLouise d'Or‑
leansとの暗示的なressemblanceの中に多少の作意が感じられるので あるが,全体的には, Nervalゐ個人的体験が勝るように思われ,決定稿 におけるAurelia‑Jennyのイシス的変貌によるAureliaの((永遠の母》
‑の移行を示すまでの象徴的変化を見せていないことが指摘される.
× ×
次に,未定稿に記されたmagnetismeの会合について,その自伝的性 格を検討したい.文中Nervalは,その日がNapoleonの遺体がSainte‑
Hslとneよりパリに凱旋した日であることを記しているところから,彼の magnetismeの会合に招かれた日が1840年12月15日であることが判明 するのである.一方,この日はそれまで順延に順延を重ねた《Piquillo》が, ようやくLa Monnaie劇場で初演の幕をあげた日であった.この奇妙な 一致は当夜Nervalがmagnetismeの会合に出席したという未定稿の内 容に,いささか疑問を持たせるのである.約2カ月の間,その上演を待ち わびていたNerval,さらに前述した彼とJennyの関係を考え合わせる と,その初演の当日の行動としては肯けないものがある.この点について の疑問は, 1840年11月17日Liとgeより父に宛てた書簡を参照する時, 一層濃厚になると思われる.即ち,その中でNervalはベルギーにおける
magnetismeの流行を語って・On s'occupe beaucoup de magnetisme dans ce pays. J'ai assiste a une seance od une dame magnetisee donnait des consultations ; il parait que les femmes ne veulent plus d'autres medecins: elles y ont une foi imperturable. Du reste, je nairienvudetrとssurprenant16).と述べている.従って, 12月15日こ
の種の会合に出席して,初めてsomnanbuleを見たという記述は,上記書 簡の日付11月17日を考慮すると事実に反することになり,このepisode 自体の真実性についても疑問を抱かせるのである.一万1841年2月11日 Fritzの仮名でLa Presseに発表された紀行文ォUne journee JI Lisge))の 中で,Nervalはベルギ‑におけるNapoleonに対する人々の強い関心の例 を,新聞の広告,酒場のブリキ製の皇帝の像,あるいはパイプ,煙草入れ, 菓子などに現わされた皇帝の絵姿などを引用し指摘しているが17)その文 章から受ける印象は多分に話語性が感じられ,未定稿の一種の宗教的な神 秘性は認められない. (なおこの文章が1852年,紀行集《Lorely》に収録さ れた際, Napoleonに関する記事は削除されている.)その意味では,後 1845年6月29日La Presseに発表された《Les Dieux inconnus)),さらに 1849年ォL Almanch cabalistique》の中のLes Prophとtes rouges, III Michiewitz et Towianskyの中に語られている当時パリに非常な反響を呼 び起した神秘思想家,イタリヤ生れのポ‑ランド人Andre Towiansky
(1795‑1878)のNapoleonに関する神秘的な夢想の中に,未定稿の内容 の原型を見るように思える.例えばォLes Dieux mconnusサの中で, Towianskyがメシアニスト達によって,神の使徒と見撤され, Napoleon.
の魂が彼の肉体にのり移ったと信じられていることを語り, ‑‑ Cette
incarnation a eu lieu quelque temps aprとs le retour des cendres de
Napolson. Les messianistes supposent que Tame du grand homme,《Aurelia》未定稿について
95
ayant profits de l'ouverture du cercueil faite k Sainte‑Helとne, avait accompagne le corps jusqu'aux Invalides et choisi pour nouvel asile
Penveloppe de Towiansky185.とNapoleonの魂の移行がパリ‑の帰還を 期に果されたことを記し,さらにワ1‑テルローが彼らメシアニスト達によ って聖地と見倣されている旨を記している.さらにくくLes Proph比es rouges》では, Towianskyの体験として次のように記されている. ‑・
A l'epoque oh son cercueil fut ouvert k Saint‑Helとne, Tow主ansky alia faire un pとIerinage a Waterloo. La, il vit le fantome du grand empereur meditant sur les destinees du monde futur, et refaisant la
carte de "Europe pour un avenir prochain19).この二つの文章の内容が 示すNapolsonの魂の転移についての神秘的な想念は,未定稿のSom‑
nanbuleの語るNapoleonの神秘的なimageを想像させ,さらにその想 念に感動した同席の人達の伝える雰囲気は, Towianskyの語る神秘的なメ
シア思想に感動するその信奉者達の姿を連想せしめる.ポーランドの偉大 なる詩人Mickiewiczの友情を得て,このA. Towianskyの思想は, 1841 年頃からパリに大きな反響を呼び起し, 1841年8月27日にはTowiansky は,パリの大司教よりNotre‑Dameの講壇で説教することを認められてい る20)しかしながら, NervalのBruxelles滞在中Napoleonの遺体の凱 旋の日,あるいはその後,日ならずして既にメシアニストたちのこのよう な想念が語られていたのであろうか.その点明らかにし得ない.因みに, Towianskyは,ノマリにそのメシア思想を広める前に, Bruxellesにいたこ
とが知られている・しかし,前出の1842年より1843年にかけての東邦旅 行中のノートを記したCarnet de Notesには次のような語が記されてい
る. Les races. Sommanbule./Napoleon (Bruxelles). Echape du plomb.
/ Ere nouvelle. Retour des dieux21).さらにその11行目には, L'anr 40.
Le ills de NapoZe<m22).このCarnet de Notesの性格は,旅行中得た知 識のノ‑トでもあるし,また以後の作品のテーマの覚え書でもあると見ら れるが,繰り返し記されている1840年, Bruxellesに関連したNapoleon の名前は,未定稿の事実を裏書きするものと考えられないであろうか.さ らに引用したNotesの最初の数語は,詩篇ォHorus))の別稿ォA Louise d'Or., Reine》にその内容的発展を見るのである.即ち詩篇に於て古き悪 しき時代が去り,新しい神の誕生を告げるイシスの言葉, sonnetの第一の tercet,に新しい神としてのNapoleonの名を見出すのである.
))L'aigle a deja passe : Napol芭on m'appelle ; J ai revetu pour mi la robe de Cybとre,
C'est mon epoux Hermとs et mon frとre Osiris‑・))23)
なおくくHorus》においては, Napoleonの名は消され1'esprit nouveau と変えられている24)さらに,この詩篇の献辞に見えるベルギー王妃 Louise d'Orleansの名は, NapoleonのimageをBruxellesに結びつける ものと考えられ,Carnetde Notes中,詩篇のテーマを暗示する語句の前に 記されたNapoleon (Bruxelles)を反映するものであると思われNerval におけるNapoleonとBruxellesとの内面的連関性を示すものと考えられ る.
さらにCarnetのl'an 40. le fils de Napoleonの語は, 1841年2月の 錯乱直後のNapoleonに対するNervalの直接的な関心を反映するものと 思える.即ち, 1841年3月16日, MmedeSaint‑Marcelの病院からJules Janinに宛てた書簡には, NervalはG. Nap. della torre Brunya25)と 署名し, Napoleonの一族であることを自任しており,さらに入院中の Nervalを見舞ったAlexandre Weilは, Nervalが彼に語った言葉とし て次のように記している・Moi, je descends de Napolson, je suis
くくAurelia》未定稿について
97
fils de Joseph, frとre de l'Empereur, qui a regu ma mらre A Dantzig26).
Jean GaulmierによるとJoseph Bonaparteは,一時Nervalの養育の 地Mortefontaineの領主であったことがあり27)その事実がNervalの 錯乱した脳裏にJosephとの血縁を幻想させたと考えられるのであるが,
さらにMortefontaineが母方の祖先の地であることから,母Marie LabrunieとJosephのimageがMortefontaineを媒介として奇妙な結 合をとげたのであろう.しかしNervalがその錯乱を機に突如として母 親のimageを想起していることは注目すべきであろう.ともあれCarnet
‑de NotesのLe fils de Napoleonの語は,錯乱時のこのIinageを原型
、として持つと考えられ,さらに,その前に記されたL'an40.という語は, その幻想の淵源が1840年のBruxelles時代にあることを示すものと考え られる.
以上の点を総合すると, 12月15日にmagnetismeの会合に出席したこ とは信じ難いのであるが,それと余り隔たらぬ時期にこの種の会合に出て, あるいは未定稿に記されたような事実を経験し, Napoleonに対して新た に強烈な印象をうけたことが推察され,その後Towianskyの影響もあっ てNervalの心の中でNapolsonのIinageは徐々に彼の神話世界に組み 入れられたものと考えられる.なお決定稿においては, magn邑tismeの会 合については削除され, Napolsonに関する記述が第II部第5章において 且られ,その中でNapoleonの魂が自分にのり移ったような印象を語っ ているのであるが28)>この想念については明らかに前述したAndre Towianskyの神秘思想の反映を見出すのである.
× ×
BruxellesよりノlOリに帰ったNervalが,その最初の精神錯乱を経験し たのは, 1841年2月下旬(21日か23日と推定されている)のことである.
未定稿においてこの間の情況が語られているのであるが,これが真正の首 伝であるかどうかを決定する資料はないのである.この内容は,決定稿に おいても,さらに秘教的なimageが付加されてはいるが,具体的な事件 についての内容は大体未定稿と大きな相違は見られない.従来くくAurelia)) の錯乱当時の状況は, Nervalが記憶によって書いたものではなく,錯乱 当時のNervalの行動を記したJules Janinの文章を参照して記したもの であろうと推定されていた.即ちNervalが錯乱後Picpus街のMmede‑
Saint‑Marcelの病院に入院中Jules Janinは3月1日のJournal des, DebatsにNervalによせた文章29)を掲げ,その中で錯乱当時の状況を 記している. Nervalは後1850年,紀行集ォLorely》を発表するに当っ て,その冒頭にJules Janin ‑の献辞を付しその中に前記Janinの文章‑
(但しくくAurelia))に関係ある錯乱時の状況に関する部分は故意に削除され ている)を引用している.このことは,晩年Janinの文章を再読する機会‑
があったことを示し,さらに故意に削除したことは,その文章に対する Nervalの関心を示すものとして,くくAurelia》制作に当って, Janinの文 章を参照したものと推察されている.しかし,未定稿とJanmの文章を此 較すると,一見してその与える印象は非常に異なるのである.即ちJanm の文章においては,具体的な場所の名前,さらには人名などが全く見られ ないのに対して,未定稿では丹念にその名を挙げていることが注目される.
カフェLepelletier,当時Nervalが住んでいたNavarrm荷,彼が若い 女性の幻影を見たというNotre‑Dame de Laurette街37番地(決定稿に おいても,このvisionは語られているが,町名はなく,若い女性の幻影 を見た家の番地は自分の年令と同じ番地(即ち33)であったと変えられて いるが30)これはォAureliaサの内容に極めて重要な関係を持つ変形である ので,注目される.この問題に関しては後,未定稿‑の発展について者
《Aurelia》未定稿について
99
察する場合論じる予定である.),行きつけのカフェで会った友人Paul ChenavardとAuguste Morelet, (決定稿に於てもPaulと指定があり, Pleiade版の注ではPaul Bocageであると推定されている3in彼が釘づけ になったように感じ一歩も動かなかったCadetの交差点, Coquenard通 りの境界石Paulが彼を置きざりにしたのが午前1時頃,さらに助けを 求めたThsophile GautierとAlphonse Karr,謝肉祭の夜(これはJanm の文章にも暗示されている),さらに遥かな星Saturneの上るのを見た Haute‑Ville街,連行されたCadet広場の詰所,これらの内容すべてが Janmの文章に語られているのではないが,何れにしても, Janinの文章 にはその名を見ないのである.このことからすると,未定稿の記述は,当 時の情況を詳細に直接的に語ったものであり, Janinの文章を参照したこ とを否定させるような印象をうけるのである.しかしこれを以てNerval が完全に記憶にもとづいて忠実な自伝を再生したと見るのは早計であろう.
即ち,前述した《Lorely))にJanmの文章を引用した際の故意の削除,更 にその削除された文章が,具体的な指示には欠けながらも,全体的な内容 が未定稿の内容と類似している点を考慮すると,断定は避けるが,やはり 従来の推定通りォAurelia》制作に当ってJaninの文章を参照したことは, いなめないのではなかろうか.しからば,この丹念な名前の羅列は何を意 味するのであろうか.恐らくNervalは,それが少なくとも忠実な自伝の形
̲態をとることに意をそそいだのだと見るべきであろう.前述したBruxelles のepisodesにおいても検討した通り,くくAureliaサ制作に当ってのNerval の初めの意図は, 《Sylvie》 《Octavie》などと共に,直接的な自伝の形で作 品を示すことであったことが,改めて理解されるように思える.このこと は次に語られる錯乱時のvisionにも反映している.このvisionはォAurelia》
決定稿に見られる祖先の国訪問の原型を示し,ここにおいて未定稿は
Paradis perduを求めてのNervalの魂の遍歴というくくAurelia))的発想を 初めて示しているのであるが,その夢想の中で,彼が食事に招待された人 物として,原稿中抹消されてはいるがMetternichの名を見出す.さらに ライン河畔のJohannisbergの城,ウィーンのシェンブラン宮など,彼の
ドイツ旅行さらにはウィ‑ンの思い出がその夢想に連なることを示してい る.決定稿において,この部分は一世紀も前に死んだ叔父の家を訪問し, そこで象徴的な女性の画布を見たことが記され,次の祖先の国訪問の導入 部として重要な意味が与えられているのであるが,未定稿において最初の 夢想が直接的なウィーンの思い出に連なるimageが現われることは,あ くまで未定稿においてNervalの個人的体験が大きく位置を占めているこ とを示して面白い.さて,ここで彼がMetternichによって食事に招待さ れているという幻想は前出JulesJaninの文章との関係を示すように思え るので,この点につきいささか考察してみよう.
1838年夏から秋にかけNervalはドイツ旅行に出かけているが, 9月 14日Francfortより父に宛てた書簡の中でドイツにおいてフランスの文 学者が如何に敬意をはらわれているかを報じ,翌年はウィーンに行くつも
りであることを述べた後M. Durand (筆者註: directenr du Journal de Franc fort) me promet une recommandation pour M. de Metternich,
qui est un de ses amis diplomatiques, ⊂ceコqui me ferait accueillir dans la plus belle societe de la ville et pourrait peut‑etre me servir davantage en me faisant Conner quelque⊂Sコmission⊂Sコlitteraire⊂Sコ
de traduction ou de recherche323とMetternich ‑の紹介を約束さ れたことを記している.その後の彼の書簡にはMetternichとの交渉を示 すような文章は見られない.翌1839年から1840年にかけて冬の間Nerval はウィーンに滞在していたのであるが,その間の書簡には,彼がMetternich
《Aurelia》未定稿について
101
に会ったということも見られず,ただ前述した1841年のJaninの文章で Nervalが《Lorely》の冒頭に引用した部分にNervalとMetternichにつ いてのJaninの記事があり,それによるとNervalはウィーン滞在中 Metternichの再三の食事の招待を受けながら,多忙のため招待を受けるこ とができず,漸やく一ケ月後それを果すことができたが,その席上Nerval の控え目な様子がMetternichの日にとまり,その賞譲のまとになったと いうことである33)^しかしNervalは,このJaninの文章を引用しながら,自 分がMetternichと懇意であったように彼は思っているがそれは間違いだ と指適しIci se trouve une erreur dans votre article biographique. J'ai rencontre bien des fois ce diplomate eelとbre, mais je ne me suis jamais rendu chez lui. Peut‑」tre m'a‑t‑il adresse quelque phrase polie, peut‑etre Pai‑je complimente sur ses vignes du Danube et du Rhin, VOM tout34).と記している.恐らく彼のいうところは事実に近いものであろう.彼の父に宛てた書簡のほとんどは,自己の文学者としての評価を 父に確認させるため,時には誇張に過ぎる位いに高位高官との交際を記し ているところから見て, Metternichの自宅に招待されたならば,何を措 いても父親に報告したであろうがその事実はない.従って未定稿には抹消
はされているがMetternichによって食事に招かれたというvisionは, 前記Janmの文章の反映と見ることができるであろう.この点を考慮す
ると前述した錯乱時の情況にづいてJaninの文章の果した役割について は,さらにその可能性が強まると思われる.
×
未定稿はさらにvisionにあけた一夜を過したNervalが,眼を覚まし た時,彼が嘗て育てられた村Mortefontaineの古い歌がくり返し歌われる のを聞いて感動したことを述べている.しかしながら, NervalのValois
地方に対する郷愁の念が俄かに高まったのは1850年秋のくくAngelique》制 作のためのValois旅行を機としてであることは通説でありNervalの作 品に微してもその事はうなずかれることである.従ってValois ‑の郷愁 を示すこの一節は, 1841年当時のNervalの心境とはかなり隔絶したもの であると見られる.因にォAurelia》決定稿においては,同様のepisode が第II部終章35)に語られ,その中で歌うのはNerval自身となり,ある知 的生活を失なった若者に聞かせることになっているが,恐らく時代的には 決定稿に示されるように1841年より遥かに後になってのepisodeであ るか,またはNervalの創作によるものであろう.そのことは,このValois の古い歌を聞き,それに続いて,思い出に対するNervalの感慨が語られる が,それと内容的に全く対応するものを1850年発表された《Angelique)), あるいは1854年から1855年にかけて発表された《Promenade et Souvenir》
の中に見出すことができるところからも推論できよう.
なお最後に,原稿中抹消されている美術局長の部屋での謎のようなやり とり,これは時の政府より何らかの公的使命を与えられたいという当時の Nervalの関心より生れた幻想であろう.事実Nervalは錯乱後, 3月31 日内務省美術局長Auguste Caveに宛て,ベルギーにおけるフランスの書 物の不正出版についてか,あるいは新たに西ゴ‑ト族および東ゴート族の
民族の歴史の調査について,政府からの公的な援助をうけたい旨の書簡36) を送っている.この事実は, Auguste CavsとNervalとの交渉があった ことを示し,原稿中の美術局長室への訪問を裏づけるように思えるが,首 都移転についての美術局長の問に対してBourgesを示したこの謎のよう な対話は如何に解すべきであろうか.この点に関して前述したLesDieux inconnusの中に面白い文章が見える.フランス到る所に自称,神と名乗
る人物の横行する現状を語り,その自称神の一人について,
ォAurelia》未定稿について
103
Le Dieu Chesneau est en quelque sorte la propriete d'Alphonse Karr, qui en decrit fidとIement les mceurs et la doctrine. Ce dieu, fabricant de boutons, se tient a Bourges, sur la borne milhaire centrale de la Prance. II parait rattacher de grandes idses mystiques & cette position pivotale37).と記している. Bourgesの町に住み,フランスの地 理的な中心に,重要な神秘的意味を与えているボタン作りのChesneauな る人物のepisodeの中に, Nervalと美術局長との間に交された奇妙な問答 の発想を見出すことができるように思われる.従って,未定稿に記された 局長との問答の内容は,前記Chesneauに関するepisodeをもとにした 甲ervalの創作と考えられ,さらに訪問それ自体も,あるいは前述の書簡 の存在によって示される当時のNervalの局長への関心が産んだ想像的産 物と考えられないこともなく,この二つのimageが, Nerval特有の夢想 によって結び合わされ,さらにこのような自伝的性格が与えられたと解さ れるのである.
×
以上Les Nouvelles Litteraires紙に発表された原稿の内容を,主とし てその自伝的性格について検討した訳であるが,その全般的印象からいえ ば,決定稿と此べて極めて直接的な記述が多く,さらにその内容も,忠実 な過去の再現と呼ぶにはなお多くの疑問はあるが,少なくとも何らかの個 人的体験が基礎となっていることは,うかがわれるのである.従って
NervalのォAurelia》制作に当っての意図は,忠実な自伝あるいはそのよ うな印象を与えることにあったと見られるであろう.一面,決定稿に見ら れる統一的発展は充分に果されていないことが,僅かな資料ながら指摘で きるようで,なおこの間超については,未定稿と決定稿との詳細な比故検 討が必要であるので,改めて論じることにする. (未完)
⊂法コ テキストとして,次のものを使用した.
La premi占re version d'Aurelia: Les Nouvelles Litteraires, 18 Janvier 1962.
G. de Nerval: Oeuvres t. I. (Biblioth占que de la pleiade, 1952)同じくOeuvres
t. II. (Biblioth占pue de la pleiade. 1956)以下PL I.及びPL II.と略号を使用 する.
1) PL I., Correspondance, 70 Au Dr血ienne Labrunie. Anvers, le
22 octobre3 1840.
2) Id., 72 Au Dr血ienne Labrunie Li占ge, ce 17 novembre 1840.
3) Id., ibid.
4) Id., 73‑丘dmond Leclerc‑Bruxelles, ce 7 decembre 1840.
5) Id., 79 AuDr血ienneLabrunie 5mars1841.
6) Jean Richerによると, Jennyは1840年9月14日BruxellesのLa Monnaie 劇場にデビュしている. cf. Gerard de Nerval, par Jean Richer (editions Pierre Seghers, " Poもtes d'aujourd'hui ") p. 49.
7) PI. L, Correspondance, 75‑丘douard Ourliac decembre [1840.]
8) Id., 76 A Hippolyte Lucas [decembre] 1840.
9) Cf. Id., 48 A Jules Janin‑・‑Vienne, 23 decembre 1839. Id., 54‑
A Alexandre Dumas‑Vienne, le 25 fevrier [1840].
10) Id., 77‑Au Dr由ienne Labrunie‑23 decembre 1840.
ll) Cf. PI. L, Aurelia I, chap. I., chap. II., pp. 359‑361.
12) cf, Id., Correspondance, 83 A Paul liocage [14 mars 1841] Ce 14**,, 13) cf. Id., Notes et Vanantes, Lettres 83, note [1], p. 1271.
14) cf. Les Chim占res, exeg占ses de Jeanine Moulin, (Librairie Droz, 1949);
Horus, p.p. 28‑36.
15) PL II., Carnet de Notes du voyage en Orient, p. 706.
16) op. cit. (2).
17) cf. pi. II., Notes et Variantes, Lorely, III Li占ge, note (10), p. 1446.
18) Id., Textes divers, Les Dieux Inconnus, p. 1244.
19) Id., Almanach Cabalistique, Les Proph占tes Rouges, III Mickiewitz et Towiansky, p. 1225.
20) cf. Jean Gaulmier: Gerard de Nerval et les Filles du Feu (Librairie
Nizet, 1956). p. 143, note. 34.
《Aurelia》未定稿について
105
21) Op. cit., (15) p. 718.
22) Id., ibid.
23) PL I., Autres Chim占res, A Louise d'Or., Reine, p. 39.
24) cf. Id., Les Chim占res, Horus, p. 30.
25) cf. Id., Correspondance, 84 A Jules Janin‑16 mars 1841.
26) cf. Id., Notes et Variantes, Lettre 81, note (2), p. 1270.
27) cf. op. cit. (20), p. 144.
28) cf. PL I., Aurelia II, chap. V, p. 400.
29) cf. Pierre Audiat: L'Aurelia de Gerard de Nerval (Librairie Ancienne Honore Champion, 1926) pp, 15‑16, note (1), note (2).
30) cf. PI. I., Aurelia I., chap. II, p. 361.
31) cf. Id., Notes et Variantes, Aurelia I, note (6), p. 1183.
32) Id., Correspondance, 33 Au Dr血ienne Labrunie‑Franc fort, 18