叫 序
︵こ ﹁人間は生れつき自由であるが︑あらゆる場合に鉄鎖にしばられてゐる︒﹂将にTひとは近代の世銀においては︑
︵二︶ すべて或る三の国象に属してゐる︒かれほ法律によつて国象ノの命令正従はされてゐる︒﹂かくて︑人間は自己の選
志によらずして︑生れながら国家の住民となり︑その法律の下にある︒それは彼にとつて第忘自由の束縛︑即ち
強制である︒しかも︑我はその国家と︑法律とによ︒つて行動を規制される︒それに服従しない場合は不利益を受け る¢
′ かくして︑国衆と淡待とによつて︑頚の意味に於て強制を受ける︒特に︑近代に於ては︑それが淀々管しい︒国
象と法礫とは︑益々人間生誕の重要な部分に介入する様になつてゐる︒
それ故にこそ︑国象とは何か︒法とは何かといふ間が人生にとつて︑木簡的な問題なのであり︑古来より多ぐの
人人が常に考へて来たのであるが︑∴近代社会にとつては︑特に重要な意味をもつのである︒ ′しら︑ 併乍この二つの課題は各竺別々に提出され︑別是答へらるべき性質のものであらうか︒否︑既に両者が
共転︑人間生活転とつての独制である点に放て︑予想されてゐる′〆であるが︑国家の本質の考察に当つて︑ラ〟ス
キが﹁かれの生酒の外貌は国家の設定した規範によつて制約される︒この規範は訟樺である︒国家の本髄は何のな 第二十五巻 第三昏
法と国家.の・関係について
特 に 近 代 に 於︑け る1
陽
稽 田
一 山大のみがこのイデオPギー的闘争の終止符をうつことが出来る如くである︒
∴法と国家の関係について ︵三︶ かに見出されるであらうか︒﹂と問うたとき︑或は文殊琴証主義が放とほ何か︒それは実定法に外ならないと述べた とき︑両者の密接な関聯性︑更に不可分性を洞察してゐるのである︒
それ故に︑この国象及び法の本質如何といふ問題は両者の関聯性︑或は不可分性に於て答へられねばならぬ︒
こ・ゝに於て︑兜づ我々はその不可分性︑関聯性の意味如何︑即ち法と国家とが如何なる関聯をなすかを考姦しな
ければならぬ︒ここに問題抱起の意味があるのである︒
而してこの間題ほ昔から︑法が国家に﹁優先する﹂か︑又は国象が法に﹁優先する﹂か︑といふ形式で間はれて
来た︒
所謂実力説なるものは︑国家特に国家権力の法に対する優位を主張し︑之に対し自然放論者は国象構成の原理を
社会契約に求めることに於て法のー1それは淵蕗を究極に於て個人の意志に置く1の国家に対する究極に於ける
傍位を説いて来た︒なほ且︑国家法人説は国家を糠利立錐とすることたよつて国家を法の中に入れ︑或ほ法主権現
は汝による国衆極力の制約を主張することによつて︑解決の道を見出さんとするのである︒
然し乍ら︑これらの見解は︑一方国家は実在なり︒他方法は規範なりとの認識を前提としつゝ︑なほ一方より他
方を導き出さんとする如くに見える︒さればこそ︑布衣と当為︑従って事実と規範の対立を無視するものとの非難
︵四︶ を免かれ待ない︒蒋に︑実力説的見解に対して新カント学派は実力は必然を生じ得るが当為をば惹起し得ないと非
難する︒
かくして︑以上の諸兄解は論理上︑方法論上の難点に遭遇しなければならぬ如くである︒それにも拘らず︑実際
において之等の見解は︑政治勢力の背敏の7に常に自己の主張を貫徹せんと瓦に相争ひ︑政治的勢力の絶対的傑琴
一七
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第三十草巻∴第二専 一八
かくの如く︑存在と当為との﹁超え難き港﹂に加ふるに科学的客観的認識態度の困難性は︑問題の解明にとつて
の容易ならざる障碍であらう︒・我々ほ何よりも先づこの事を銘記すべきである︒
之に対して︑純粋迭学の首唱者︑ケルゼンは政治的倫麗的立場からの絶縁︐窒息し︑乱文問題を規範的対象として
蝕める寄によつて解決を求めんとした︒然し乍ら︑かゝる彼の所謂不偏不党の立場そのものが客観的に見ればh白
由主壷的政治勢力のイデオPギ一に他たらぬナ
規範倫理的立場が淡が規範であることから出発したことほ︑添が単なる魂範であるに過ぎぬかどうかは問題である
にせよ︑この前提は自明の理であるが故に︑我々も亦ケルゼンと共に法の規範なる事より出発しよう︒
こ 法の規範性
ケルゼンによれば︑︵規範科学たる︑︶迭学の対象としての国家は︑法秩席でなければならぬ︒即ち国家は実定法稗
序そのものであると結論する︒
即ち彼によれば︑法は制約的要件と被制約的効典から成り︑その本質は従って一定の條件に強制行為を効典とし
︵こ てゐる命数に於て表はされる︒而して前者と後者とは自然法則軋於ける原因精兵と同様な意味に結合されずに︑特
︵l一︶ ︵三︶ に法的な意味に於て結合されるだけである︒この法の矧有法則性を表すのに︑﹁べし﹂といふのが用ひられる︒従つ
てそれほ㌦の当為判断であり価値判断的評価であ㌃︒且つそれ故に︑法規範叉ほ法を命令として特色づけるは許し ︵四︶
撞いことである︒かくて法は当為であり︑規範であると共に何よりも強制規範である︒
彼ほ強廟規範を以て︑第一次規範とし︑それに対する制約要件申︑人間の行態は︑その矛盾対当が強制制裁に眼
︵五︶ する︑即ち⁝或る隠制宥為の制約である限り於てのみ︑或法義務の内容である︒こゝに第二次規範の概念が生ず
る︒更に第二次規範の概念からそれの内容の矛盾対当を表はす要件ほ違迭不漁として特色づけられる︒
かゝノる法規の分析から始めて︑彼ほ個々の漁規範の妥当性の根拠をその上位規範に求め︑即ち命令は法律に︑殊
辟ほ憲添によつて魂範的妥当性を与へられる︒最後に︑繁治はその妥当性の根拠を根本規範に求める︒かくして︑
計らゆる法規範の妥当性の棋拠は︑終局に於いて根本規範に淵源することになり︑かうして統一的法体系として琴
牽法秩序が成立する︒
かゝる根本又は始涯規範の典型的内容は︑その衆甥するところが添上拘束力あるものと認めらるべき或る権威︑
或法線が設定されることである︒即ち︑凍本規範は汝等ほ法権威Ⅷ敷菖︑領民会議︑琵会等が命ずるやうに行態す
︵六︶ べしといふ︒この根本規範はー前根上−これ以上間肇にされない︒それは仮設であう︑それ自身は条定されるもの
︵七︶ ほなく︑添認識によつて前擁されるものである︒
湖上は汲の法及び国衆に就いての所論の要旨である︒
1かくの如く︑彼は純粋汝学的立場より︑根本規範を頂点とする法の段階樺竃を説いたのであるが︑ノ彼の学説の中
心点である親木規範そのものが既に暖昧である︒
蕾し﹂フードブルフが批判するやうに﹁特定の汝秩序の申に捕はれ閉ぢこもつてその意味を探索することを唯一の
佐治とする限り︑法秩序の効力をば常に喉自己の効力の要求に従って測恋し得るが︑一の法秩序の効力の要求につ
︵八︶ いて︑他の秩序との関係に於てこれを公正に決定することは︑到底不可能である︒ケルゼン自身﹁所謂義治の衝突︑
︵九︶ 規範の衝突に降ることがないといふやうな思想ではない﹂ことを自認する︒︵然し乍ら=この否認し嫌い事実は︶
︵十︶ ﹁当為命題として親祭する立場からは坐ぜぬ﹂と述べて問題を打切る︒
かくして︑あらゆる規範の街爽を公平に裁判する為には︑意味の世界から存在の世界へ飛躍することが不可快の
︵サニ やうに息はれる︒我々は﹁事実の規範カ﹂︑へ進まねばならぬ︒
法と国琴の関係につ︑いて 一九
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窮二十五巻 第三葛 二〇
併し乍ら︑具してケルゼンは規範論理を徹底せしめてゐるであらうか︒彼の放本規範はこれ以上問題にされ得な
いであらうか︒併し﹁法権威が命ずる様に行態すべし︒﹂との命題は当為命題である︒その限りに於て︑価値判断であ
り︑彼の峻別せんとする道徳的規範と何等形式に於て異る所がない︒しかも︑それは現存の国家秩序を批判する寧
がない故に︑﹀結具に於て是認する事になる︒従つて彼の主観的意図に拘らず︑客磯的には一つの政治的なる世界観
である︒それは−醍の自然法であると批判されるのも当然である︒
それ故に亦︑純粋法学を棲接する彼が︑根本規範を法認級に於ける仮設であり前提であるとして︑問題を打切っ
たのも︑彼としては止むを待ない︒然し乍ら︑それによつて彼は法の規範たる所以を究明する寄を放棄したのであ
∵=
かくて我々はこゝに於てケルゼンを超えて論理を進めねばならない︒
抑も︑当為SO−−e出とは何であるか︒当為の意味が間はれねばならない︒
発づ何よりも︑当為が人間にとつて︑其の意味で当為たる為には︑論理必然的に主体的なる人間の自由を前抱し
なければならない︒
︵三︶ カント日く︑﹁自由ほ云ふ迄もなく︑道徳法の存在根拠であり:⁚:⁚・﹂と︒それ故に︑>当為ほ自由を離れてあり碍
ないわけである︒かくて人間の意志の外部的表硯としての行態に対す右価値判断︑即ち評価の可能なる為には︑﹁自
由意志﹂が存轟しなければならない︒あらゆる社会規範ほそれが人間の行態に関する限り︑評価規範として︑価値
判断の尺度であらねばならぬわけである︒
従って︑法もそれが規範として妥当し得る為にほ︑前提として白鼠的存凄としての︑自主的人格が確立されねぼ
ならぬことは論理必然的帰結であり︑後述する如く近代市民社会の成立に於て歴史的にも契現されたのであつ五︒
、\、
\
かゝる最小限慶の意味に於ける抽象的な﹁自由意志﹂すら認められぬ場合は↓法は法的に何等義務づけない﹂こ
とになるであらう︒かくの如く︑﹁最小限慶の自由﹂が認められる限り︑少くLも法義務の主体としての意味でも︑
\人間は儀の主体である
かくして︑法が規範として人間を拘束し得る為の前提として︑自主的人格の白l由意志が存在すべきことは明かで
あるが︑然らば次忙入間にとつノて按は如何なる意味ぬ於て規範であり︑当為であるのか︒
元来︑客観的なる価値としての規範は価値判断主観︑従って人間を離れて考へる事は出来ない︒もし各人の利寄
′
二一 港と国家の関係について かぐして︑法はとりわけ︑倫理によつて姦づけられねばならず︑且現実に於て基付けられてゐる︒
か′ゝる見解ほ︑迭と倫理を峻別するカント的立場に反する如くである︒即ち︑その立場によれば︑法ほ他律的規
範であり︑倫理と典り義務に基いて行為をなすべきことを要求するのでなく︑たぐ二定の童務に混合した客観的な
︵十き 容態を寮求するに過ぎず︑即ち法ほ合添性のみを要求するのであ牒と主張する︒それは即ち︑道徳は個人とその動
機を対象とするが︑これと反対に添は共同生括︑個人の外部的な︵唯間接にのみ叉内部的な︶行態のみあらほれ︑ ︵苗︶
その動機そのものが表はれて来ないところの共同生活を対象するという事実を意味するに他ならぬ︒併し外部的行 ︵十聖
廟も道徳的評価を︑内部的行熊も添的評価をうけ得る︒放と倫地に於ける上述の区別ほかくの如く相対的である︒
それほ兎も角︑倫理的意味で︑自主的主体的人格が観象的にせよ︑認められてゐる社会に於てはその主体の添的
行為ほそれが自重的主体の意識作用の所産として把捉される限り︑彼が合法的態度を如何に外部より強制されよう
ともrl十例へば刑罰を恐れて法に服従するにせよーそこには受動的であることもあらうが︑なほ最小限慶の自発
性が存在することは否定することは出来ぬ︒即ち︑白主独立の人格の行為たる限り︑抽象的な自由の一片が残され
てゐると観念することが出来る︒
︵十豊
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二二 第二十五巻 第三膏
要求︑目的が対立し矛盾せる現実社会に於て︑一つの妥協点も見出せぬなら社会は存立出来ぬ︒こゝに各人の変凍
の鎮火公約数が求められる︒それほ﹁秩序の安定﹂である︒﹁秩序の安定﹂ほ社会の存続上不可快である︒かくし
て︑この最小限魔の︑併し乍ら最も普遍的な社会の憂求が客観的な価値︑︑当為として人間の眠に映ずるのである︒
而して法ほ如何なる法といへどもそれは其の内容を離れて存在自体によつて秩序の安定に奉仕するといふ一つの
︵芸︶ 価値を有する︒社会存立の最低要件としての秩序安寧﹂そ︑法の雄水理念である︒ラードブルフは富ふ︑﹁その第一
︵十︵︶ の任鋳捺法的安定性︑平和秩序である﹂かくの如く︑迭的安定性といふ価値を法はその中に内轟せしめるが紋に︑
自主的な人間にとつて当為たり︑規範たり絹るのである︒そこで実定法に従ふことも道徳上の義治となる︒誠に道
︵十九︶ 徳のみが︑法の義務づけるカを基礎づけることが出来る︒
かくの如く︑道徳ほ英定法に服従すべく︑人間を義路づけるが併し乍ら︑添が単なる一部分領域として道徳に合
併され︑法規範が.∵党内容の道徳的規範にされることは決してない︒むしろ道徳はこゝに放て︑立法に服従し︑汝
︵亭︶ の領域転於て初めて確定さるべき義務内容を︑いはば白地引受の署名によつて承認する︒即ち︑その内容の確定を
立法に委ねるのである︒かくて︑立法者は道徳より白紙委任状を与へられる審になつた︒﹁或る共同体の申に山つ
の最高の権力所持者が存泰するならば︑彼の命ずることは服従されるべきである﹂慧し︑彼のみが法的安定性を安
︵亭こ へ得る︒前述せるケルゼンの根本規範もこれと同じ事を表したものと考へ得られる︒今や我乍はエリネックの寄実
の規範カへの契機を見出す︒
供し乍ら我々ほ︑以上に於て迭の規範性を努めて法的安定性忙辿りついたが︑厳密虹髭へるなら︑それは単なる
爽定殊に内在する目的とか︑理念とかに過ぎぬものでない︒むしろ実定法こそ法的安定性の英甥そのものである︒
それ故に︑実定津は当為そのもの︑規範そのものたり得るのであり︑且人間の行態の評価の尺度たり待るのであ
︵手ニ︶ る︒併し乍ら決して塁高なる規範でなべ︑飽迄も社会の存立にとぅて必要な倫理的讃規範の最小限である︒
かくして法の規範性の根拠は道徳と自由浅相互依存関係に於て︑各Aの最小限度に求めることが出来ると結論
し得る︒
琵一︵一︶
︵二︶
人三︶
︵四︶
︵五︶
︵六︶
︵七︶
︵八︶
︵九︶
︵十︶
︵十ニ ラードブルフ 前掲雷 二四貰
︵十二︶ 雷nl⁚空■雲SP FassnO−S・畠続いてカントは﹁だが道徳得は自由の認識根拠である﹂.と述べて両濱が相互に
前提し合ふこと従って両者の不可分性を認めている︒
︵土二︶ 舛anl⁚欝1ap首ikd雪Sl−−en−Einl・ind芦d・S・胃情意博士訳 三一貫
︵十四︶ ラードブルフ 前掲 五入貰
︵十五︶ 固石 五玉東
法と国家の関係について ケルゼソ 山般国家学 漕嘗四郎訳一〇大貫 同石 岡某 国名 聞貰 同恕 二一二貰 固石一二九貫 圃石⊥茅入京 同石 二三〇貰参照 ラードブルフ 法曹学 田中朝太郎訳 二三貢 ケルゼソ 前掲 二三∵貰 前掲 二三二賽
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三 溝の国家への依存性
前述の如く︑我々は添の規範性わ根拠を﹁捻的安定性﹂と﹁最小限虔の自由﹂に求め︑更に法の内容を立法者の/
決定に委ねたのであるが︑然らば及法着たり得るものは誰か︒
矛盾対立せる人間社会に於ては︑我こそほ立法者なるべしと各々が相争ふ︒併し乍ら共同の生活の秩序は争によ
ぅて維持出来ぬ︒かくて何人かが何が法であるべきかむ確定する審を要する⁚その為には法の制定は∵切の抵抗す
る添庸観に対して︑自己を薯徹し得る意志の権限に属しなければならぬ︒添を実現し椙る者はその轟によつて︑添
︵二︶ を制定する梅限を有する寄を証明してゐるのである︒かくて英カを有するものが王となる︒こゝに実力説の一面の
寅理がある︒
およそ法にして政治的権力を智恵としないものはな・い︒鳶し法よりそれを覆ふ規範のベールを取去れば︑凍裸か .
なるカが環ほれる︒故にイエーリングは﹁英カのない法ほ︑何らの現実性を滝持たぬ塞虚な名前である︒何となれ
は︑汝の渚規約を実現するところの実力があつて始めて︑法ほ法として在ることが出来︑汝として凝るべきところ 象二十五巻 第三尊 ︵十六︶ J■ Bindeり⁚憎邑○筈pFiのdes ReeFts S.∞−pf︐
/ ︵十七︶ 田中耕太郎 法と道徳 五二貢
︵十八︶ ラードブルフ 前掲 二二じ支
︵十九︶ 同石 六±貰
︵二十︶ 同石 六三軍参照
︵十こ 帝石 二七〇貫
︵二十二︶ C・l告in巾k⁚DiesONiO−¢tFisc訂Bedeutunm苫nRecぎ亡nr采どundStra訂−00遥S畠 ニ四
︵三︶膚 のものとなることが出来るから︑である︒﹂と述べた︒汝は窮極に於て詳cど的なるものに基礎づけられねばならぬ︒
こゝに於て︑洪が命令であり︑カの秩序であるといほれる根拠がある︒叉オースチインによれば法は命令でなけれ
ばならぬ︒命令とは命令を窮する者がこれを拒む薯に対tて︑制裁を加へることによつて碓真に実現せしめて行か
︵四︶ うとするところの欲求の表示である︒故に命令はカを背景とし︑強制を手段として実現される︒これを評撃してい
へば︑Macぎi∽1RecF−といふ寄になる
ある寄を注意しなければならない︒讃し単なるカの秩序︑命令の秩序が法により神教化される︒しかもそれは添の
規範性に負うてゐるのである︒ それほ兎も角︑我々が法の窮極にカを求めてゆく場合最強のカのあるものほ詐であらうか︒中世社会忙放ては教
会や︑封建諸侯も亦立法者たり待た︒然し乍ら近世に於けるプんジョアジーの接頭は今や信教の自由の挺得︑封建
制壕の打破を完成し︑自主的個人人格の上に近代国家を打ち立てた︒かくて近代に於て︑国象が社会の敢高の寛配
/者である︒多元的国家論考アスキすら︑﹁国衆は近代の社会機構における頂冠である︒国衆の特質は実に国家が国
︵五︶
豪を除く他の一切の社会的団体に対して︑断然優佗を占めてゐるといふ点にある﹂と指摘せざるを得なかつた︒ ヽ 一\ノ
かくの如く︑法ほとうわけ近代に於て国象に礫存せざるを得ない︒前述のオースチンの命令説も︑具体的にほ主
︵七︶ 纏薯の命令を以って放であると考へた︒近代社会に於ける主撞着は国家に他ならない︒ ︵
八︶ 勿論エゝに於ける国家とはラスキのいふ如く︑権力組織としてのそれを意味すうしとは当然である︒巨大なる権
力機構こそ︑他の如何なる社会的カをも摺伏し得るのである︒かゝる国家は︑それが支配を目的とするが故に︑概
念必然的に支配の対象たる国民︑領土を内包するわけであるが︑かゝる支配の客体を求心的に支配する権力主 故に法は国家を前根とする︒法は国家に先立つて轟るものでなく︑
法と国家の関係について
国 象 の 申 に 於 て 始 め て 凝 絹 り る も の で
二五
あ(
る六
0、J
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第二十五巻 堅二尊 山ごハ
体︑従って国衆概カが中枢ななしそれが本贋たるのである︒されば︑国衆極力こそ国毅を構成する原助力であり︑ ノ
中心である︒従つて厳密にいへば︑汝が由毅に依存するとは︑国家の中枢たる国衆権力︑即ち国家の主権者に依存
すや審を意味するに他ならぬのである︒
かくて添は国家級カを骨法として自己を貫徹し︑法的琴定性を実現し︑真の意味で突先放たり得るのである︒
然し乍らかゝる見解に対して近来︑淡社会学の立場より︑﹁国家法のみが放でない︒社会ある所に法あり亡bisOCi
史a00γ ibi i宏との反対がある︒
︵九︶ エーリツヒによれば︑蕗甥の大部分は︑歴史的にこれを見れば︑栽判所の判決規範から形成された︒けれども判
決がはじめて法を作るのでない︒法は争に兜立つて︑現実の社会生活自体のうちに︑一定の秩序として行はれてゐ
る︒法の大部はたとへば婚姻︑親族︑団体︑占有︑契約︑相続のような社会関係の内部的甥葎として︑直接に成﹂且
し法規の形とはならないのである︒それは国家によつて制定せられたのではなく︑社会団体の内部的秩序inne蒜
昏dnungdergese目許訂2ic訂β宕rba已eとして︑おのづから存凄するものである︒これこそ現実の社会における ︵十︶
生きた法−e訂nde00RecFtといふべきものである︒
ところでこの生きた法は社会の内に自然発生的に生じた平和の秩序であり︑平和が破れんとするとき社会の中心
蓼カによつて︑再び秩序薗夜されねばならない︒そのために中心勢力即ち権力者によつて︑栽判が行はれる︒その
際極力薯による志茂的不公平を防ぐ為には栽判規範を生息するにしくはない︒かような事情によつて︑判決の基準 ︵十こ
とすべきものが形式化せられ文字の蓑甥せともなふと︑それが法規となる︒
従つてエーワッヒによれば︑ケルゼンとほ道に︑生きた法としての行為規撃﹂そ︑第一次の添の存在形態であり
判決規範従ってケルゼン的に衆甥すれば強制規範は行為規範の侵嘗を防止し︑或は侵奪された場合に︑秩序を回復
する為の第二次的な治の布衣形態に過ぎない︒
更にエーリツヒは﹁生ける絵﹂を束に具体的な一定の事実関係︑彼の所謂丁墨UFendesRecどに率先した︒
かくそ法社会学によれば法規の終極的根拠乃至調濾ほ現実の社会的諸関係の申にあり︑添規を作る人間の精神括
︵三︶ 勧ほその単なる媒介的契機にすぎない
併し乍ら︑エーワッヒ等の法社会学の立場は宗教道徳習俗等の他の社会規範と︑法規範とを分つ基準が明かでな
い︒従って生ける法を法とし︑て局番づけることは︑汝の概念を歴味ならしめる︒之ほ法社会学の方法論上砂難点
である︒
更に︑エーリム/とほ﹁生ける法﹂一を平和な社会関係の前に於て把へる傾きがある︒然れども社会の現実は矛盾に
みちてゐる︒生ける法の布衣そのものが社会諸個人の問に存在する対流矛盾関係を倉み︑かつ対抗矛盾関係の結晶
︵十讐 ︵十三︶ 嶽のである︒生ける法は相対宜し相矛盾する当時者の問に於て自己を賞徹する︒しかもかゝる社会的強制ほ倫埠の
如き社会規範も有する︒
しかも社会の発展は矛盾対抗関係を益々激化せしめる︒もはや﹁生ける津﹂を以ては︑規律し得なくなる︒こゝ
に於て︑社会に内在する秩序安定の寮求はかゝる対立を抑庄するものを求める︒かくして独力な組織的政治権力が
社会の上に現れる︒それほ社会の矛眉の深刻化に伴ふものであり︑従.って盈より質への転化が生じたわけである︒
かぺして生じた政治権力.︑従って国家権力は﹁生ける法﹂をそのまゝ認証するのでない︒﹁生ける法﹂は添規の
素材として立法者の立法治効虹直接間隊形響を与へるが︑立津薯ほ自己の主体的立場より合目的︑意識的に取捨選
択を加へ︑﹁年ける汝﹂を或ほ放任し或は胡制し︑或ほ助長し或は禁圧する︒
かくの如く訟が窮極に於て国家権力によつて保障されねばならず︑現実にそうである番は明かである︒法社会学
二七 法と国家の関係について
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第二十五巻 第二高 一山八
の貴大な誤りは︑兜述の螢より貿への転化を見逃し︑従って法よりかゝる権力関係な拍象して了つた点にあるので
ある︒
とりわけ︑近代社会は商品の等価交換社会であり︑そこでは商品交換の円浦に行はれるを維持し保証せんとする
︵志︶ 社会意識の下に一定の秩膚が形成せられる︒
かゝる等価原理転基く客観的秩序ほ資本主義社会に於ける﹁生ける法﹂である︒かゝる﹁生ける津﹂は資本主義
経済が順調である限り︑国家総力の保証を要しない如くに見える︒
アダムスミス時代のイギリスを例にとつて見ても︑そこでは﹁国家からの白由﹂が謳ほれた︒﹁夜瞥国家﹂の語
が生れた︒併し乍ら︑彼等は国象を挟殺しようとしたのでない︒我等の主張ほ国衆の干渉の﹁最小限慶﹂を期待し
た︒彼等にとつて︑国表は﹁必襲なる惑﹂であつた︒苦し︑資本主義社会はそれを破壊せんとする内外の敵から国
象権力によつて保証されねばならぬ︒︵特にこの段階に於ける資本主義の正面の敵は今日の如く労働階級でなく︑
反動的封建勢力であつた︒︶ ↓
かくしてフランス革命に勝利せるブルジョアジーは内外わアンシャン㌦ジームと戦ひ︑封建的桓桔を打破し︑或
はナポレオン法典を制定して︑国家権力を背教として封憩的慣習を麒逐したのであつた︒
かくの如く︑近代実定法秩序は︑国家権力を媒介として︑資本主義社会の上に築き上げられたものである︒
鞋 二︶ ラードブルフ前掲一−九買
︵二︶ 同着 同質 参照
︵三︶ R已︒︼↓J訂Hど耶⁚㌘りNw采k im寧乳ど︼監㌢A已.−竺石S.−芸
︵四︶ l︒FA邑inいLe︒言e⁝nJu計p2denc言ft訂pgOSOpざOf冒siti諾︼芸邑1.いthed.−∞∞∽句.声望
︵五︶ ラスキ 前掲 二貰
人六︶ 欝xSeydel⁚G⁝dz厨eeine⁝亡gemeinのStaat−e訂e﹀ヨぴS・−∽
︵七︶ l︒FロAustin⁚i訂d−諾∽○
︵八︶ ラスキ 国家1理論と現実1 石上良平訳 十二貰
︵九︶ EhHic訂Grundle警n∽d雪S︒Ni︒l︒gied票Rec貫S−舎
︵十︶・E訂c訂 Gr音d−eg呂g deH S︒計−︒慧des Recぎ S−∽00
︵十一︶ EFic訂DiのS︒Zi︒l︒giedesRecFts 嵩柳教授訳 十五買参照
︵十二︶ 川島教授 法社会学に放ける法の存在構造ニ○叩貰
︵十三︶ 同石 三二見
︵サ四︶ 同着 三三京
︵十五︶ 戒開通孝触 法社会学の課題一〇七賞 金山正信教授著同窮
潤ノ国家権力の法への依存性
法︑特に近代汝が国象権力によつてその英効性を保証されるべきであり︑且現実に於て保証されてゐる寄は明降
されたがそれでほ法と国家権力の関係は︑′かゝる一方的なる依存関係に尽きるであらうか︒
かの実力説的見解を徹底せしむれば︑﹁カは音義なり﹂といへる如く︑法ほ支配者にとつて無用であり\せ賞将に
すぎざる如く見える︒バシ言−ニスはいふ︑﹁階級支配の組織としての︑及び対外戦争指導の組織としての国家
ほ︑決して法律的解釈を賓求するものでほない︒香かゝる解釈を許容することさへしない︒これは︑赤裸々な合目 ︵こ
′
的性の戚別に他ならないところの所謂国家毯件の支配する韻域である﹂かゝる織底したカの世兆転於三片の漁な
ニ九 法と国家の閑係について
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発配階数ほ自らをかゝる強風なる権力槻続に軽んで︑被支配階数に対し支配を︑従つて強制を行ふ︒かゝる強制
ほ血織規範の7に規定され規則的に行はれるが故にそれをケルゼンの用語を借用すれば﹁強制規範﹂と呼ぶ轟が担 ︵四︶ 来る︒然し乍ら︑かゝる強制ほ自由なき人民にとつてはもはや規範的意味をもつもノのでなべ単なる命各であり︑縫
職に言へば嶺カとしか映らぬであらう︒
我々が居室別の︼つの典型とする所の苗代ギリシャのアテネの都市国家も亦かくの如きものでしかない︒そこに
於ては支配階級たる奴隷所有者達の民主制があるのみであり︑彼等の数倍に当る奴隷達ほその支配の下にあつたの
であることを忘れてはならない︒ 併し乍らかゝる支配関係はウイザーの指摘する如く︑少数による多数への支配として行ほれてゐる︒かくの如 く︑一見自然法則笹反する現象は何によるか︒それは何よりも兜づ小数が組織されて最大限のカを発揮L︑多数が 個々に孤立されて屠らねばならぬ︒支配階級は団結しなければ︑多数なる被支配者を支配することが出来ぬこと膵 自明の現である︒
かくして兜づ支配階級の階級組織が必然的忙生じてくる︒それほ階級支配を達成する為の権力組織であり︑支配
階級を構成する各成員にはその相互の地位と任務とを指示しそれを通じて支配階級を組織するが故に︑しかも各成
員には互に相対的なる自由が認められてゐるが故に1反面被支配階級にほ自由の山片だに与へられて屠らぬ ー
識的自然発生的であるのと異なり︑意識的︑目的的であり従つて後者よりもより組織的であり緊張 三〇 第二十五巻 第三葛
く︑汝は無用の長物に過ぎない如くである︒苗代の妙義畠の奴隷支配︑申せの封建的領主の農奴女配の関係ほ正院
更融階級の内面的秩序としての組織規範である︒併し︑それほエーワッヒの﹁生ける添﹂ かうであつたといへる︒かゝる秩序ほカの秩序であり︑権力の秩序であるにすぎぬ︒
と し て せ の
る 組 も繚 の 規 で 範
あ が
る二無
0章意
︵二︶
従って発に述べた組織規範︑強制規範を十全なる意味で津と呼ぶ葦は躊躇しなければならぬ︒それが完全なる苛
味で法となる為忙は︑すべての人民が形式的にせよ︑﹁最小限虔の自由﹂・を挺得すること︑及びこれらの人々も奇
めた全体的社会組織が成立することが必襲である︒かゝる前提が充されて始めて規範としての添がすべての人間を
把握することが出来︑社会のすべての人を構成員とする国象が成立するのである︒かゝる条件は労働生産物の交換
に基礎を置く所の近代資本主義社会に於て始めて達成されるのでぁる︒
それは屈も角︑私はパシュカーニスに対して︑苗代の奴隷支配︑申せの農妖支配といへども︑以上述べたる如き意味
に於て︑支配晩飯自体のみの法を要するものであり︑それなくし七支配ほ不可能である番を主張するものである︒
之︑即ち国家極力の法に礫存する岱二の場合である︒
然し乍らかゝる組織された権力による支配も単に物理的カを基礎とする限り︑カと力の関係に過ぎず︑常に不安
党なるを免れぬであらう︒かのナポレオン一世はロシヤ遠征に失敗して︑﹁この世に於て余を驚嘆せしめたものを汝
は知るか︒それは物理的なるカの無力なり︑この世竪一着あり剣と精神これなり︒永き目を以て見れば︑剣に勝つ
︵五︶ ほ常に精神なり︒﹂と慨嘆せざるを得なかつた︒先のオーステインも﹁放射は人民の服従によつて存続するものであ
るから︑そうして︑人民の服従は自発的であり︑または自由であるからすべての政府は人民︑讃しくは大多数の同
︵六︶ 薯によつて存続するのである︒﹂美述べた︒ヒゝに彼の実力説より︑所謂承認説への転機を見出す︒
支配の基礎を抜支配者の下よりの精神的支持に求める承認説は︑それにも拘らず一面の薬理に過ぎぬ︒
それほ承認といふ心規約事実に拘泥する限り琴址的に反戯されるであらう︒それは承認をすべての人に迄拡大せ
んとする限り1﹁強制された承認﹂﹁無意戚の承認﹂Lをも承認の申に食めぎるを得なかつた︒けれどもかゝる惨苦も
承認する対象すら認識し掲ない蔦痴や幼児がこのせに仔布するといふ事実の前にほ遂に破れざるを得ない︒それを
三山 法と国家の関係に√ついて
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然し乍ら︑承認説の説く所は全部間違つてゐるのでない︒其の主張は一部の現実と合致する︒即ち∵初発配著の
仝部でないが一部の人が現在存続亘る一定の度配秩序を不凍︑々々にせよ︑承認してゐる笥は否定出来ない事実であ
る︒かゝる事実はその秩序の申に少くとも何等かの意味叉ほ目的が内在してゐる笥を物語つてゐる︒我等は色々の
動機で承認するが︑薇等に於て共通なものほ交配秩序がその海衣自体によつて︑共同生活の秩序を維持安定せしめ
ると判断するからに他ならぬ︒かゝる判断のある所には︑当然秩序に内在する客観的価値即ち理念を予想すること
が出来る︒苦し自由に判断しうるほ自曳的人間のみであり︑載等は崇高な理念に従はんが為に止むなく秩序に反な
しょぅとも︑常遍的な倫埋的最小限としての秩序の価値は否定しないであらう︒︵−秩序なくして社会ほ存立し得
ない1︶その他の理念と並んで﹁秩序﹂の理念はかくてすべての白鼠的人間にとつて当為として妥当する︒従つて
﹁秩序﹂の理念は被風とつて︑一つの価値判断の尺度である︒
白兎的人間は盲目的他樺的に行激することを欲しない︒常に何等かの価値判断によつて︑行為しなければ承知担
来ぬ︒彼は何等かの理念に従ふ場合にのみ︑自且的人間の誇りを発すことが出来る︒蟄念の表象が洩を行励へと駆
り立てる︒それによつて彼は自己満足する︒かゝる人間に対して︑単なるカの支配は不可能である︒かくて国衆礫
カほ﹁秩序﹂の理念を媒介として︑規範の型態をとることによつて︑彼等に客観的に適用し︑服従義捧な生ぜしめ ︵八︶
る外ない︒その結典︑叉承認説の説く如き心理的実効性を待ることが出来る町である︒
こゝで述べた﹁秩序の理念﹂とは即ち法的安定性に他ならぬ︒もはや独立自由なる近代的人間に.とつて︑単なる
暴力の支配ほ耐え罫ぶ寄は由来ぬ︒近代国家極力ほ訟といふ規範のペールを被らねば人間を支配することは出来ぬ
のである︒ 窮二十五巻 第≡尊
︵七︶ も無視するならば︑擬制たる紅終るであらう︒
︵九︶ ﹁最も強い薯でも腕力を法に︑服従を童路に変化せなければ充分強くない︒﹂︵ルツリー︶
かくして国衆はこの意味に於ても︑法に依存しなければならぬ苺は明になつた︒
︵十︶ 然るにかゝる法の機能はパシュカーニスによれば﹁純粋な物神崇拝﹂に過ぎず︑申せに於ける宗教的神学的思惟
と区別されない︒
ロ.マ書十三輩竺′節に日く﹁人各上に放てる諸梅に服すべし︒蓋し棒にして神より出でざるなく︑規鑑ある所の
纏ほ神より定められたるものなり︒﹂云ふ迄もなく︑宗教はかく神の前にひれふす所の︑現世的には価値の認められ
ぬ人々に教へることによつて︑権力支配を神聖化した︒終れども之に反し近代人ほ﹁自由意志﹂の粗ひ手として韓
の前に対決する︒
この明白なる相違を忘れ︑放と宗教との作用を同視してほならない︒歴史は自覚的人間が宗教的イデオ︒ギーの
受配を打破して改の支配を確立した寄を教へるのである︒
琵 ︵こ パシュカーニス マルクス主義と法埋学 佐藤染訳 ㌦四入貢
三︶ Fried−icF窯es買Das G認elN deH MgFt︸¢芦S−・参照
︵三︶ かゝる組拍規範は対外的予蘭の結果であるが同時に階野党配なるが故にその利益の配分の為に党紀陀紋内部の乳轢も
発生しうる︒そこに彼等自身に対する強制親範も必要とされる︒それほ場合蔽よつてほ個々の支配者を荊へ︑被安野
者を保惑する︒
︵四︶:﹂の強制親範は先行する行為規範をもたぬ︑恋し被支配者は自由を認められぬ点で家督と異ならぬ︒従ってこの悪時
でも法としては不完全である︒
︵五︶ ラードブルフ 前掲 \㌦二四貫
法と国家の関係について 三≡
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第二十五巻 第一二尊 三四
︵六︶ Austin⁚Lectur語呂l仁ユ蒜pr已昌Ce︒叫tFのP邑OSOp首¢↓吋OSiti諾Law苫−H㌫tF監.−∞00∽諾宗
︵七︶ 尾嵩朝雄博士 実定法秩序翰 二一貫以下を照
承認説は支配階級の相互信頼に基く組紹に放て真の処を得るのであらう︒
︵八︶ 従って結論として最小限度の菖由もつた入間以外には法童務はないという軍になる︒
︵九︶ ルッソ一社会契約論 井伊遼太郎訳 九貰
︵十︶パシュカーニス 前掲鬱 山喜二∴艮
語 五 結
かくして我々は国家と汝の関係の解明に当つて︑添の規範性といふ周知の事柄より出発し︑添的安定性を契機と
して︑事実のせ界に飛躍しながら︑帯び法的安定性を媒介として再び規範の世界に帰らざるを梅なかつた︒
然し乍ら︑かゝる﹁さすらひ﹂は決して無駄ではない︒苦し︑かくして国象特に国豪権力といふ﹁存在﹂Sei巨が
添といふ規範S01−enと相互軋依存し合はねばならぬことを見出した︒しかもそれほ特に自由なる人格の確立され
︑てゐる所の近代社会に於て実現されたのであつた︒
一 従つて我々が両署の併存関係を具体的に如実に把擾せんとする場合︑どうしても近代社会との聯関に於て把握し なければならぬのは当然であらう︒
等価交頻を媒介として成立する所の︑近代的品社会︑特に資本主義社㌫に於て︑交顔が成立する為には︑分党の
成立へ そして人間が何者にも束縛されず彼の自由に生産物を処分し得る賽と︑人間が相互に尊貴し合ひ︑その労働が
同篤同等︑従つ
を必要としこれを作り上げる︒歴史的︑発生的には生産力の発展に伴ひ︑人間は労働生産物の商晶への転化の社余
︵四︶ かくして︑国家に立法の使命を輿へる法的安定性の思想は︑′同時に国衆自身の拘束をも要求する︒我々ほ﹁準霊
触説﹂夢ほ﹁国象の自己嚢治づけ﹂の学説に於て︑一層よくそれを見ることが出来る︒ ︶ 的過程に於て法的人格たり得る︒更に具体的忙いふなら︑この社芝於て︑すべての人間ほ商品の所有苧jして現 れる︒即ち︑言には資本家が巨大なる資本の所有者として︑他方には無所有者も自己の蒜なる労働力の所有者 として︑その限りに於て自由︑平等なる対等の立場で関係し合ふ︒云ふ迄もなくかゝる法主体は兜述せる如く︑ブ ルジョアジーの政治施カを妖介として成立した︒
︵二︶ かくして︑ブルジョアジ1ほ自ら国鳥すべてのために自由平等の法秩序をつくりあげたのである︒即ち︑フラ㌢
スや命に於て国民主権︑天賦人穐︑所有権の不可侵をかかげる悪法を﹁悪法制定極力﹂として制定した︒かくして
我ほ近代国象の主人公となつた︒
しかも彼ほかうる形式的なる自由︑平等の秩序が安定してゐる限り︑禎は資本の利潤を確保出来る故に︑国家極
カが等価交換を保証するこの添秩序を乱すことを欲しない◇従って自由平等の法秩序の保護者を以て自任する国家
権力ほその型態及び内容迄も法によつて厳塵な規制をうける︒之れ︑即ち﹁悪法制定権力﹂より﹁被制定極力﹂へ
の転化である︒かくて︑三極分立︑立汝府の優越が成文怒添に規定されることによつて︑所謂﹁法治国象﹂の理愈
ほもはや動かし難いものとなる︒
かくて︑更に法の下に立つことになつた近代国家はぃ実質粧には支配の下にある他の法主体に対しても平等の立
場で現れぎるを緒ぬ︒即ち自由平等なる法秩序に放ける丈格として登場する︒私法に於ては﹁国庫﹂として︑公
法虹於ては﹁国象法人﹂として︒国象人格化の礎暫は人間の人間に対する支配といふ︑民辛重義の︑理想に反する覇
︵三︶ 英を擾ふものである︒
法と国家の関係について 三五
、 溜
OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
第二十五巻 第三号 三六
以上に於て我々は特に近代社会に於て︑国衆と添とが不可分の関係にあ惹かを見た︒近代に於てもはや法皇国賓
を離して認識し得ぬ︒之れ︑即ち国衆と訟との同一なることが唱へられる所以である︒
琵 ︵一︶ Radb⁝C訂D誓M昌S︒Fim Re註−−−還↓︸S.㌢ 参照
︵二︶ 尾嵩胡撼博士著 法の鰐確にあるもの 二〇七貰
︵三︶ ケルゼソ 前掲琶一五二貰
︵四︶ ラードブルフ 前掲習 二七〇貰