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『教行信証』撰述の意図をめぐる研究の展開

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はじめに   親鸞(一一七三~一二六二)の主著は、『顕浄土真実教行証文類』(通称『教行信証』)と見做される。そしてその思想内容の研究は、特に近世以降これまで膨大に積み重ねられている。そこでは『教行信証』に現れる言葉の意味や出典、そこに示される救済の論理的構造など様々に議論されてきた。しかし、何故親鸞は『教行信証』を書いたのかという 極めて単純かつ重要な問題については、いまだはっきりとしていないのではないだろうか。

  奇しくも同じ二〇一六年三月、日本仏教史が専門の末木文美士と作家の五木寛之が、それぞれ親鸞に関する本を出版した。両者ともに、著作の終わりに『教行信証』に関して記している。

・末木文美士親鸞は決して邪説や誹謗正法を許さない。その点、き 1

《研究論文》

『教行信証』撰述の意図をめぐる研究の展開 ──元仁元年の意義を中心に──

大谷大学真宗総合研究所東京分室PD研究員

          

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わめて断固として一貫しており、たとえ相手が為政者であっても、身内であっても変わらない。親鸞は闘う念仏者である。

  その念仏を思想的に深めたのが主著『教行信証』である。

・五木寛之『教行信証』はある意味では、親鸞がそれまでに自分が比叡山で二十年近く修行し、学び、そうして得た様々な教養なり知というものをひとまとめにして、『教行信証』の中に葬り去ろうとしたのではないか、

『教行信証』は大知識人親鸞が己に向けて書いた訣別の書ではないのか。

『教行信証』を通して末木は「闘う親鸞」を、かたや五木は「知を放棄する親鸞」を描く。その是非は別として、この二人の意見に象徴されるように、親鸞とその主著『教行信証』は、現代においても人によって随分と異なる印象を 与えている。そこには、研究の蓄積にもかかわらず、いまだ『教行信証』が十分に読解されていないということがあるだろう。それと共に、我々それぞれの中に何らかの親鸞のイメージがあり、『教行信証』から親鸞の思想を読み取るというよりも、むしろそのイメージを『教行信証』に見出そうとするということもあるのではないか。  そこで本稿は、「何故親鸞は『教行信証』を書いたのか」「『教行信証』とはどのような書物なのか」が研究史上でどのように受け止められ、議論されてきたのかについて整理し考えてみたい。そうして今日の我々の『教行信証』に対する認識がいかなる経緯を辿ってきたのかを明らかにすることが、結果として『教行信証』の解明へと繫がるであろう。  さて、歴史学者の家永三郎(一九一三~二〇〇二)は、一九七一年時点であるが、親鸞研究に二つの画期点があったと言う。

大正デモクラシー期の批判的精神が宗教王国の神秘のとばりを破ったのを、親鸞研究史上第一次の画期点で 2

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あったとすれば、敗戦に伴なう日本史の科学的研究への呪縛が解けた戦後を第二次の画期点というべきであろう。

こうして家永は、親鸞が宗派の中に閉ざされていた前近代に対し、大正期と敗戦後との二点に親鸞研究の大きな画期を認めている。その大正期の批判的精神による親鸞研究を代表するのが中沢見明(一八八五~一九四六)『史上の親鸞』(文献書院、一九二二年)である。その中沢が主として問題にしたのが、それまで『教行信証』の成立年が元仁元年(一二二四)とされてきたことであった。そして、中沢の問題提起以後『教行信証』の撰述については、この元仁元年の意義が常に問題とされるようになる。また『教行信証』の独自性という意味では、『浄土三経往生文類』、『浄土文類聚鈔』など他の著作と共通しない論述を考察する必要があるだろう。そして、この「元仁元年」の一節を含む「化身土巻」後半(いわゆる三願転入より後)の論述はそれに当たると言える。そのため、本稿もこの「元仁元年」に注目しながら、家永の前近代・大正期・戦後という大枠に 従いつつ、それぞれの時期に親鸞と『教行信証』がどのように語られたのかを見ていきたい。

一  近世における『教行信証』研究

  1  覚如『親鸞伝絵』と『教行信証』

  さて、議論の前提として『教行信証』の執筆と関わるとされる「元仁元年」について確認しておきたい。「元仁元年」とは、『教行信証』「化身土巻」において、現在が末法であることを論証するための計算の基点とされた年である。

三時教を按ずれば如来般涅槃の時代を勘ふるに周の第五の主穆王五十一年壬申に当たれり。その壬申より我が元仁元年甲申に至るまで二千一百八十三歳なり、又『賢劫経』『仁王経』『涅槃』等の説に依るに、すでにもって末法に入りて六百八十三歳なり

もちろん、この文は『教行信証』の完成を示すものではな 6

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い。しかしここに現れる「元仁元年」が、やがて『教行信証』成立の年と理解されていく。その手掛かりとされたのが、親鸞の曽孫の覚如(一二七〇~一三五一)が製作した親鸞の伝記、いわゆる『親鸞伝絵』である。

  『親

鸞伝絵』で、後に『教行信証』撰述と関わって語られるのは、いわゆる六角夢想の段と稲田興法の段である。まず六角夢想の段では、若き親鸞(善信)が、生涯師と仰ぐ法然(一一三三~一二一二)と出会うとともに、観音菩薩から「此是我誓願也、善信この誓願の旨趣を宣説して、一切群生にきかしむべし」という夢告を受けることになる。やがて親鸞は、法然とともに流罪になるが、その意義について「われ二菩薩の引導に順じて如来の本願をひろむるにあり、真宗因茲興し、念仏由斯煽也」と述べたとされ、観音と法然の二人に導かれて真宗を興すのが親鸞の使命だったと覚如は描くのである。

  そして稲田興法の段では、壮年期の親鸞の姿が描かれるのであるが、そこには多くの人々が集い、この関東稲田の地において、観音菩薩の夢告によって与えられた衆生利益の念願が果たされたのだとされる。この稲田興法の時期が、 後代ではちょうど『教行信証』に登場する「元仁元年」

(親鸞五十二歳)に当たると解釈され、それゆえその使命を果たす=立教開宗の為に著されたのが『教行信証』だと位置付けられていくことになる。

  ただし、以上の二段で覚如自身は『教行信証』の制作には言及していない。この稲田興法と元仁元年を結びつけたのは、高田派良空(一六六九~一七三三)の『親鸞聖人正統伝』(一七一七年)に「五十二歳元仁元年甲申正月十五日ヨリ、稲田ニ於テ教行信証ヲ書揃タマフ」とあるのが初出とされる。それゆえ先の中沢は、『正統伝』以前には元仁元年が『教行信証』執筆時だという理解などなかったと、厳しく批判していくことになる。とはいえ『正統伝』は、発表当初は批判されたが、江戸後期になるとこの点が疑われる様子はない。

  2  近世大谷派学僧の視点

  『教

行信証』研究の先鞭をつけたのは、覚如の子存覚

(一二九〇~一三七三)の『六要鈔』(一三六〇年)と、覚 8

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如・存覚どちらかの作とされる『教行信証大意』である。また蓮如(一四一五~一四九九)以来の学びとして「相伝教学」もあるが、それらの影響を受けつつ近現代に直接する形で『教行信証』研究が本格的に進められていくのは、江戸時代になり、東西本願寺などにおいて学寮・学林が整備されていってからであろう。

  親鸞の『教行信証』撰述について、まず『教行信証大意』には「くはしくこの一流の教相をあらはしたまへり」と、真宗の教えを表すものと述べられている。しかしその後、江戸期大谷派の学僧に限定すると、親鸞の『教行信証』撰述意図に関して、その総序や別序、後序に記されていると指摘する程度で、これを主題的に考究しようとはしていないという指摘がある。細川千巖(一八三四~一八九

七)は『教行信証講義』(一八九一年)の冒頭で、『六要鈔』以下、慧琳(一七一五~一七八九)、深励(一七四九~一

八一七)、宣明(一七四九~一八二一)、鳳嶺(一七四八~一八

一六)など大谷派を代表する学僧の研究態度を通して、「今この聖教は真宗一家の本書なり。末学の私を以て一部にわたる玄旨を計るは恐れ入ることなり。」と記している。 つまり、親鸞の意図について個々人の見解を挙げることを「恐れ入ること」だとし、これを論じないのが大谷派の伝統だというのである。  これは細川の見立てであり、考察の端々には親鸞の意図について言及せざるをえない。江戸末期の占部観順(一八

二四~一九一〇)の『御本書拾穂録』(一八六二年)がまとめるところによるならば、それは大きく三つに分かれる。まずは外の事情として「聖道門の行証久しく廃れたるが正く此書製作の外縁」、次に親鸞の内因として他の著作にも通じる意味で「報恩謝徳の為の製作」、『教行信証』に限定する意味では「立教開宗の為の御製作」だとされる。もちろん、江戸期の学僧各人の考察をそれぞれ詳細に検討する必要があるが、さしあたりこれを当時の理解の一つの帰結と考えておきたい。

  問題は、その内実が掘り下げられているのかどうか、である。例えば、立教開宗のためというならば、その「立教開宗」とは親鸞にとっていかなる意味なのか。江戸期を代表する学僧深励は稲田興法の段を挙げて、『教行信証』の製作が今の「一天四海に比類なき御宗門」を開いたのだと 15

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言う。もちろん、親鸞は法然が興隆した浄土宗を「浄土真宗」としていよいよ明らかにしようとしたであろうし、またそれが現実的には「御同朋御同行」と呼ばれる念仏者の和合となることも望んだであろう。そしてその仕事を、後代の立場から敢えて「立教開宗」と呼ぶことも意義のないことではないだろう。しかしその親鸞が明らかにしようとした「浄土真宗」と江戸期の真宗大谷派という「御宗門」と同一視してよいかは、現代的観点からすれば当然疑問視もされよう。

  また外縁として聖道門の廃退が指摘されていた。これは『教行信証』のいわゆる後序の次の文によっている。

竊かに以みれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛なり。

この親鸞の言葉が、直ちに次の言葉へと展開していくことは周知の通りである。

興福寺の学徒、太上天皇、今上、聖暦・承 元丁の卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。主上臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨を結ぶ。これに因って、真宗興隆の大祖源空法師、ならびに門徒数輩、罪科を考へず、猥りがわしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜ふて、遠流に処す。予はその一なり。しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆえに禿の字をもって姓とす。

興福寺の学徒が、親鸞が身を寄せた専修念仏の教団を朝廷に訴え、それにより四人が死罪、師法然と親鸞を含む八名が流罪となった。親鸞が聖道門の廃退を語るとき、それは現実の専修念仏弾圧という形をとって現れていることへの厳しい批判と一つだと考えられよう。末木文美士がその著書の副題に「主上臣下、法に背く」とこの後序の言葉を用い、「闘う親鸞像」を描いたことはすでに示したとおりである。

  ただこのような親鸞の批判精神というべきものを、積極的に見出そうとしているだろうか。例えば、法然がその主著『選択集』で菩提心を撥無したとして厳しく批判する明 20

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恵(一一七三~一二三二)の『摧邪輪』(一二一二年)の存在は、各種の「法然伝」に記されるところである。とすれば、『教行信証』はその批判に応答しようとするものではないかと考えることもできよう。先の深励も一面その意義を認める。しかし「一天四海比類ナキ浄土真宗興行ノ書」である『教行信証』は、「盍ゾ区々タル摧邪輪ノ破文ヲ会通スルノミトセンヤ」と、明恵という一個人に応答するために書かれたものではないのだと断じていく。このような深励の発言は、現にある「御宗門」を前提としたものであり、『教行信証』がどのような歴史的状況のなかにあったのかを問う視点を落としていってしまうことに繫がるのではないか。

  これは深励一人の問題ではない。深励に先立つ慧琳は、浄土真宗の「真」とはいったい何に対するものかを問うて三義を挙げている。第一義は仏教外の思想に対して、第二義は浄土門外の思想に対して、第三義は浄土門内に対してである。そして慧琳は第三義を正義とする。それはつまり自分たちがいかに正しく法然を受け継ぎ、浄土教信仰を保持しているかというところに関心があるのであり、教団外、 仏教外に対して、その思想の在り様を問うというような関心は低いということではないか。

  聖道門の廃退のため、報恩謝徳のため、立教開宗のためとして語られた撰述意図は、大枠としては不当ではないにしても、それを語る際に宗門が前提とされている面が窺われよう。ただし、本節は近世のごく一部を見たに過ぎない。近世教学を語るには、幅広い視野から十分な検討が必要である。それは今後の課題としたい。

  3  了祥の歴史学的研究

  江戸期大谷派において、当時の研究の在り方に批判的態度を持ち、考察を進めた人物として了祥(一七八八~一八四

二)を見たい。彼はもともとは深励に師事したが、やがて自坊の三河で独自の研究を進めていく。彼の学問は、次のように指摘される。

不羈独立の見地に立ちて、元祖吾祖の関係より、他流及び宗内異計の歴史的考証的の学風を開き、祖典等の 22

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上に、他流及異計の交渉する所、簡濫せる所あるを、精細に研尋せんとするのである。…中略…当時に在つて、此の研究法を取りたるは、珍とすべきである。

こうして「該博にして緻密なる考証学」とも言われる、極めて歴史学的な研究を了祥は行っていく。

  まず注目したいのが『末法灯明記講義』(一八三一年)である。これは最澄(七六六・一説には七六七~八二二)の作とされる『末法灯明記』を講ずるとともに、それが引用される『教行信証』「化身土巻」の後半の意義も講じていく。そこには問題の「元仁元年」の箇所も含むが、特に『末法灯明記』引用以後から後序に至る、いわゆる「化身土巻」の「末巻」についての発言が注目される。

  この末巻の由来について、了祥は第一に次のように述べる。

日蓮書ノ三十六ニ。念仏者追払宣旨状ト云アリ。コレ敵ナレトモ調法ナ一巻テ。元祖今家御流罪ノ事ヲミルニハ。大ニ力ヲウル。爾ルニ人トンダモノユヘ。多ク 見ズ。其初ニ南都カラノ奏状ト。山門カラノ奏状ト。二通挙テアリ。是モ此一章ニ広本・略本アリ。日蓮書ニ出シタハ略本。

この「日蓮書」(録内御書)三十六とは、具名を『念仏者令追放宣旨御教書集列五篇勘文状』(以下『念仏者追放宣状』)という。この書は念仏停止に関する奏状・宣旨・書状などを日蓮(一二二二~一二八二)が編集したものである。その初めには「奏状篇」として、南都と山門の奏状からそれぞれ二箇条ずつ略抄されている。南都の奏状がいわゆる『興福寺奏状』であり、山門の奏状がいわゆる『延暦寺大衆解』である。了祥は、この書が法然や親鸞のことを知るのに非常に有用であるとしつつ、しかしほとんど参照されていないと指摘するのである。なおここでわざわざ「略本」と断っていることから、少なくともこの時点では了祥は『興福寺奏状』と『延暦寺大衆解』そのものは見ていないと考えられる。

  ではこれらの奏状に何が記されているのか。 25

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夫ヲミルニ。南都カラノ奏状ガ二箇条出シテ。一ニハ謗人謗法ノ事。二ニハ蔑如霊神ノ事ナリ。…中略…山門ノ奏状コレ又二箇条挙テ。一ニハ一向専修ノ輩神明ニ背ク。不当ノ事。二ニハ一向専修唐ノ例ヲ加ルハ不快ナルコト。…中略…此文ナト今家ニ知ラスンハアルベカラザル文ナリ。

了祥は、この二つの奏状それぞれに「霊神の蔑如」「神明に背く」とあることを指摘する。つまり、念仏者が神を敬わないということが諸寺から問題視されたのだとし、それが流罪の大きなきっかけであるとする。そして「それ、もろもろの修多羅に拠って真偽を勘決して、外教邪偽の異執を教誡せば、『涅槃経』に言はく、仏に帰依せば、終にまたその余の諸天神に帰依せざれ、と。」という言葉に始まる「末巻」などの親鸞の論述は、このような諸寺からの批判に直接応答するものだと強調するのである。

南北如此神ヲ敬ハサルヲ以テ流罪ノ由トス。…中略…此日蓮ノ二通ナクハ。化巻末ノ来意ヲシルコト不 能。

こうして、この二つの奏状を抜きにしては親鸞が「末巻」を執筆したいわれを知ることはできないのだと、その重要性を再度指摘する。その上で了祥は『正像末和讃』や「化身土巻」の意義について講じていくのである。

  このように了祥の研究は、『教行信証』を当時の歴史的状況の上に見ていこうとする。それは、了祥の卓見と言えよう。さらに了祥は、『一枚起請文講義』(開講年不明)において、より具体的に考察していくことになる。そこでは資料的な面でも、例えば南都の奏状が『教行信証』後序に出るものそのものだとする指摘や、曇鸞の『略論』が引用されているといった指摘がされる。これは『末法灯明記講義』には見えない。そのことは、一八三一年以降に本講義が行われ、この期間に広本である『興福寺奏状』を見た可能性を示唆する。後序への指摘は、この広本の題が『念仏者追放宣状』のように「南都 00奏状」ではなく『興福寺 000奏状』だったから可能となったものであろう。これは研究史上では非常に大きな差異である。 30

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  さて、『一枚起請文講義』で了祥は、親鸞の『教行信証』の執筆の由来について、これまでの研究では仏恩報謝のためという程度で十分に考察されてきていないとの強い不満を表明する。では了祥はどのように考えるのか。

先達テ年代ヲクリタ処カ。建暦二年元祖ノ御往生ヨリ十三年目ガ。元仁元年御本書御製作ノ年ニ当ルデ。コレハ元祖ノ御年忌ニアタリ。報恩ノ思召テ。御製作デモアロフカト思フタ…

ある時了祥は、法然が亡くなってからちょうど十三年目が『教行信証』製作の年とされる元仁元年に当たると気づく。そこから『教行信証』はこの法然の十三回忌を記念し恩徳に報いるために製作されたのではないかと思い付いたと言う。そうしてみれば、元仁元年の意義を含め『教行信証』製作の因縁として様々なことが思い合わされると述べて、ここから自論を展開していく。

  まず了祥は元仁元年と関連することとして、「法然伝」において、定照(生没年不詳)が『選択集』の批判書『弾 選択』を書き、隆寛(一一四八~一二二八)がこれに応答して『顕選択』を書いたことから起こったと伝えられる嘉禄三年(一二二七)の法難に注目する。ただし嘉禄三年は元仁元年(一二二四)、すなわち『教行信証』執筆より後であると注意しつつも、日蓮が『立正安国論』(一二六〇年)で嘉禄の法難について、元仁年間の延暦寺・興福寺からのたびたびの奏状がきっかけであったと記している一節に注目する。またこれと共に「偖皇代暦ニ。元仁元年八月五日。専修念仏禁制ノ宣下ガアリタトアル。コレテミルト。元仁ノ初メヨリ事起リテ。元年ノ八月ハ念仏停止。コレ御本書御製作ト全ク同年。由テコノ因縁スラ テ?オカレヌコトヂヤト思フテ。蚤取リ眼ニナリテ吟味ヲシタ」と『皇代暦(歴代

皇紀)』に元仁元年八月五日に専修念仏の禁制があったことに注目する。この両書を通して了祥は、元仁元年から始まる専修念仏への批判を注視し、特に定照が『弾選択』を著した場所が親鸞のいた常陸国稲田の隣国の上野国並榎であったということなどから、親鸞の『教行信証』執筆との関連を指摘するのである。さらに了祥は、元仁元年と関連付けてはいないが、『念仏者追放宣状』の奏状も紹介し、 36

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『教行信証』「化身土巻」末巻の論述はこれへの返答だとも指摘する。そしてその他に親鸞が意識していたものとして、栄西(一一四一~一二一五)の禅宗、明恵の『摧邪輪』、さらに浄土門の異流(一念義・西山・鎮西・諸行・多念)などを指摘し、それぞれ詳細に論じていく。

  こうして了祥は、専修念仏に向けられた様々な批判・弾圧を指摘し、「天子ノ勅命。マカリ違ヘハ死罪流罪」という只中で法然や親鸞の思索・表現はあったのであり、今の時代の学者たちはそのことを十分に考慮していないのだとして、「実ニ向フニ相手ノアル実論ナリ。如此因縁ニ闇クシテハ。コノ書の意味ガワカラヌ」と、『教行信証』研究には親鸞が対峙したこの歴史的状況をよく知っておかなければならないと注意を促すのである。

  4  了祥の学問の影響

  以上の了祥の研究は、現代に至るまで直接的な影響を与えているようには見えない。しかし彼に師事し、その知見から『教行信証』を講じた人物がいる。それが法住(一八 〇六~一八七四)の『教行信証金剛録』(一八四二年)である。

  さて、法住の『金剛録』はその冒頭に「来意」の一段を設け、なぜ『教行信証』が書かれたのかを論述していく。まず他の書物にも通じる広い意味で言えば、仏徳を讃嘆するためであるという。その上で『教行信証』独自の意義を尋ねていくが、そこをさらに二つに分ける。一つが破邪顕正のため、二つが師の恩徳に報いるためである。

  破邪顕正について、その対象をさらに「聖道難破」「浄土異流」「外教邪義」の三つに分ける。その聖道難破については、南北奏達、建仁寺栄西、栂尾明恵上人、並榎の定照という四つを挙げる。浄土異流については、一念義、西山義、諸行本願義、鎮西義、多念義の五つを挙げる。そして外教邪義については、「化身土巻」末巻に明かすところであり、具体的には日蓮の『録内書』三十六に出る南北の奏達状に、神を敬わないことが批判されているといったものである。

  師の恩徳に報いるためというのは、法然から付属を受けたという後序の記述から、元仁元年の執筆というのは法然の十三回忌の追善として、恩徳に報いるために作られたに 39

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違いないと指摘するものである。

  この法住の指摘は、一見してわかるように、了祥の主張をそのまま踏襲し、整理したものである。もちろんただ踏襲するだけではなく、例えば「此南都の奏達状には広略二本あり、日蓮の書に載するは略本にして、唯二ヶ条あり。広本の奏達状は具に九ヶ条の難を載せたり。」と、広本『興福寺奏状』の性格を詳しく説明しており、了祥の指摘を掘り下げていく面もある。なおこの点から、法住が『興福寺奏状』そのものを見ていたことは疑いえず、かつこれを詳しく紹介しなければならないと考えていたことが指摘できよう。この『興福寺奏状』については後で考えたい。

  こうして了祥の研究を受けた『金剛録』は、一九一四年に住田智見(一八六八~一九三八)によって「諸先輩の講録中最も異綵を有するもの」と高い評価をもって紹介される。けれどもこの『金剛録』も『続真宗大系』に収録刊行されるのは一九三八年であり、それまでは「現在世に伝る写本は極く稀であり、併も未刊」と言われているのであるから、住田のような一部の学者を除きその内容は知られていなかったであろう。   しかし、実はそれに先んじて『金剛録』を下敷きにしているものがある。それが一九〇八年・一九一一年の大谷派安居、吉谷覚寿(一八四三~一九一四)『教行信証六要鈔講讃』である。これは『教行信証六要鈔』が教団の公の場で講じられたという意味で「実に空前の事」と言われた。この『六要鈔講讃』を『金剛録』と比較しながら見ると、明らかに『金剛録』を踏襲したと見られる箇所がしばしば現れるのである。  『教

行信証』執筆の由来を論じている冒頭の「興由」の段を見てみよう。それには通別の二義があるとし、まず通の興由として「自身教人信念報仏恩故」と押さえる。次に、別の興由については「四意アリ」として、「立教開宗」、「判権実真仮」、「弘通真宗教行証」、「破邪顕正」を挙げる。そして特に「破邪顕正」については「聖道ノ難破」、「浄土ノ異流」、「外教ノ邪執」と細分するが、この「破邪顕正」についての分類は『金剛録』を受けたものであることはすぐに分かる。なかでも「外教ノ邪執」の一段は本文自体がほぼ同文であり、吉谷自身の言葉と言えるものはない。ただし、ここでの『金剛録』の主張から栄西・明恵・定照に 44

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ついて、また法然の十三回忌については外されており、そこに吉谷の判断があるのだろうが、その理由は不明である。また、『興福寺奏状』に関する言及もなく、その点では法住から後退していると言えよう。

  やがて一九一三年、無我山房から山辺習学(一八八二~

一九四四)・赤沼智善(一八八四~一九三七)『教行信証講義 教の巻行の巻』が出版される。この書は、現在でも『教行信証』研究において広く参照されるものである。その序講に「『教行信証』製作の縁由」の一章を設けているが、そこでまず出されてくるのが先に挙げた吉谷覚寿『六要鈔講讃』の興由の解釈である。そうして『教行信証』製作のいわれを歴史的に当時の模様から見ていこうとし、さらに「当時の教界と他力浄土教」、「浄土宗の五流と浄土真宗」と章が続く。これは『六要鈔講讃』の「破邪顕正」の内容を展開させたものとも見ることができる。

  こうして見ると了祥の学風が、法住から吉谷を経て、山辺・赤沼『教行信証講義』まで潜在的に繫がっていくことが分かる。この問題意識が近代の実証史学との接点となり、この書が近現代において参照され続ける一因となったとも 考えられよう。  続いてほぼ同時代、仏教の歴史研究に努めた村上専精

(一八五一~一九二九)の『真宗全史』(一九一六年)における『教行信証』製作の目的を見てみよう。

本書製作の目的は、内外相対の為めにあらず、又聖浄相対の為めにもあらず、唯是れ真仮相対の為めなり。…中略…されば本書製作の由来は、遠く之を尋ぬるに、聖人吉水入室の時、他力摂生の旨趣を受得せしに権輿し、或は又選択相伝、真影図画の恩許に濫觴すといふべきも、近くは法然上人門下、即ち聖人親鸞同窓間の安心分裂を以て一大動機と為せるなり。

ここで村上は、『教行信証』製作の目的を「内外相対」「聖浄相対」といった浄土門の外の思想との対応の視点も出しつつ、そうではなく法然門下の異義を正すためだと言うのである。これは先に見た慧琳の理解そのままと言える。近世以来のこの視点というものは、近代以降も極めて鞏固に存在し続けているのである。 50

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二  近代の批判的精神

  1  宗門を前提としない研究

  近代になって大きな変化は、宗門外部から様々な問題意識をもって親鸞に接触するものが出てきたということがある。福島和人の指摘によれば、特に一九一一年の親鸞聖人六百五十回忌記念大法要、一九二三年の親鸞聖人立教開宗七百年(『教行信証』撰述七百年)記念法要などの教団挙げての事業を通じ、一般人からも非常に親鸞へ関心が寄せられることとなった。学問の世界では、東大を中心とした実証史学の目が親鸞に向けられた。こうして宗門内部はもとより、宗門外部からも親鸞は語られ始めていく。

  その代表として夙に挙げられるのが、木下尚江(一八六

九~一九三七)である。キリスト教社会主義運動を展開していた彼は、一九〇六年にその運動から引退、その後一九一〇年十一月に『日蓮論』を、そして一九一一年二月に『法然と親鸞』を刊行する。そこで木下が見出したのは 「言う迄も無く僕は、今日我々が成さねばならぬ宗教改革の先覚者指導者として、満身の敬意を以て、此の二大人格の前に跪いて居る」と言うように「宗教改革者、法然・親鸞」であった。その内容をここで詳しく尋ねる暇 いとまはないが、本書の終わりに記された次の言葉、「親鸞は本願寺の先祖では無い。」は極めて印象深く彼の問題意識を表現している。それはすでに見たような江戸期以来、宗門内部で語られた親鸞とは全く異なるものであった。

  このような見方は、宗門内部でも広がっていく。一例として一九一四年、真宗大谷大学教授であった稲葉円成(一

八八一~一九五〇)の論文「『教行信証』撰述と其時代の教界」の冒頭を見てみよう。

『教行信証』六軸は宗祖聖人が自らの信を披瀝せられたもので、総序にの給ふが如く「慶聞嘆獲矣」本願慶嘆の聖典であるから、心を以て味読すべきもので、智を以て研究すべき書ではない。既に本願慶嘆の聖典である以上、立教開宗の為に撰述せられたものでもなく、当時の異解を破斥せんが為の述作でもな 53

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い。たとひそういふ結果があることは否むことが出来ないにしても、それは単に結果であつて、述作の当時に宗祖の御意趣に予想された結果ではない。

ここに「立教開宗のため」というこれまでの動かすべからざる動機が、あくまで結果論であって親鸞の意趣ではないと宣言されている。近世との『教行信証』観の大きな変容を見出すことができるであろう。そして、この親鸞像の変遷とともに『教行信証』研究も大きな転換を迎えていく。

  2  実証史学からの問い

  さて歴史学の分野では、科学的研究が進められた。いわゆる実証史学である。福島和人は親鸞の史的研究の先駆的作品として村田勤(一八六六~一九二一)『史的批評親鸞真伝』(教文館、一八九六年)を挙げる。本書は次のように呼びかける。

咄予輩は双眼を拭て、開山御聖人としてに非ず、弥陀 の化身としてに非ず、鎌足公の末孫としてに非ず、非僧非俗の禿として、情あり血ある一人物としての親鸞の真面目を観察せんと欲するなり、読者よ勇め請ふ予輩と共に彼の真相を穿たむ、

こうして村田は筆を進めていくが、特に『教行信証』の製作に関しては、「該書の編纂に就ては古来識者の間に疑団なしとせず」として、四つの疑問を挙げている。①『教行信証』には無数の引用があるが、それはどこから入手したのか、②手翰や法語などに、『教行信証』の学習を勧めたり引用したり、その編纂について記すことが少ないのはなぜか、③なぜ『教行信証』を書いたのか、要請があったのか、弟子へ教授のためならこの書は不適当ではないか、④『教行信証』は『選択集』に比しても遥かに難解であり、親鸞の布教の精神と平素の言説に背くのではないか。これらの疑問は、現代でも解決していないだろう。

  当時、①の疑問について一つの回答を与えていたのが、小栗憲一(一八三四~一九一五)『真宗興隆縁起』(哲学書院、

一八九二年)であった。この書は稲田西念寺の「所蔵ノ古 58

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記録文書」に基づいて制作されたものである。本書で小栗は、下野薬師寺・足利文庫を出し、「シバシバ両文庫に通ヒタマヒ。新古ノ典籍御披覧マシマシテ。経論ノ要文ヲ抄出シタマフ。コレ即チ教行信証の文類御起草ノ初ナリ」と記す。この小栗の記述に対して、村田は「此は弁護なり、史的研究に非ず、予は更に雄大なる明答を待つものなり、氏が第一の論拠と頼みし下野薬師寺の蔵書、及足利文庫の説は、充分の証拠なければ信用すべからず」と述べて一蹴し、真宗の学者に種々の疑問に対する明解を求めるのである。この村田の指摘を受けたのであろうか、やがて前田慧雲(一八五七~一九三〇)は、親鸞が下野薬師寺に通ったという説を挙げつつ「之も根拠のある説ではないらしい」と述べている。

  ただし、この下野薬師寺・足利文庫の説は、直ちに消えたわけではない。明治の終わりから大正にかけて、佐々木月樵(一八七五~一九二六)『親鸞聖人伝』や山辺・赤沼『教行信証講義』は、了波の『正保記』という書物からこの説を引用している。了波の『正保記』とは、おそらく小栗が記す西念寺の古記録文書であろう。しかしその後、山 田文昭(一八七七~一九三三)は「教行信証の御草本に就て」(『無尽灯』第十九巻第四号、一九一四年)で、親鸞がどこで典籍を見たのかという疑問が寄せられていることに触れ、次のように述べている。

古来、宗内でも批議者のやうに考へたものがあつたと見へて、近刊の書に引用してある了波の「正保記」に、…中略…斯うして教行信証六巻が出来たといふ。「真宗興隆縁起」にも亦これと同様のことが載つて居るが、多分この「正保記」によつたものであらう。此「正保記」がどれだけの史的価値があるか知らぬが、斯る都合の宜いことを言はねばならぬのは、本書御製作の由来を考察しないからである。

また日下無倫(一八八九~一九五一)も同様に、『真宗興隆縁起』の説について「之も亦史的根拠があるわけでない。」と指摘する。こうして近代の実証史学的観点から、伝承の類は根拠なきものとして退けられていくのである。 62

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    『興福寺奏状』という新発見   このような実証史学的見地のメスは当時、日本の歴史上の様々な伝説に彩られた人物を抹殺していこうとした。親鸞も例外ではなく、公の論文にはなっていないものの「親鸞抹殺論」というものが語られていたという。つまり、親鸞の存在を示す資料は、当時の記録に見えず、後世の人が親鸞という人物を虚構しているのではないか、と。

  そうした状況の中で親鸞関係の資料が発掘され、積極的に親鸞の存在が論証されていく。その一つが辻善之助(一

八七七~一九五五)『親鸞聖人筆跡之研究』(一九二〇年)、もう一つは鷲尾教導(一八七五~一九二八)『恵信尼文書の研究』(一九二三年)である。辻は、全国の真宗の法宝物を探査し、親鸞の筆跡と言われるものを鑑定した。そうしてそれらが同一人物の筆跡であることを証明することによって、親鸞という人物が確かに存在したことを論証したのである。鷲尾は一九二一年、西本願寺の宝庫を探索中、偶然にも親鸞の妻である恵信尼が、娘の覚信尼(一二二四~一二八三) に送った手紙を発見した。これにより同時代的に親鸞の存在を証明する資料が出てきたと同時に、親鸞の家族関係などが明らかになったのである。  このように近代になって親鸞に関する重要な資料が発掘されてくるが、その陰で『教行信証』研究に極めて重要なある資料が歴史の表に出てきたことを指摘したい。それが法然の専修念仏を厳しく批判した貞慶(一一五五~一二一

三)の起草とされる『興福寺奏状』である。

  現代において、法然や親鸞の思想を語る際、専修念仏に向けられた批判、特にその代表として『興福寺奏状』と合わせて考えることはほぼ常識である。しかし、そのような認識ができたのはそう古いことではない。作家の野間宏

(一九一五~一九九一)は一九七三年『親鸞』で、従来の親鸞研究者が『興福寺奏状』にあまり目を向けてこなかったと指摘をした。少なくとも野間の眼にはそう映っていたのであろう。

  これに直ちに異を唱えたのが古田武彦である。古田は野間の指摘に対し次の反論を述べる。 70

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多くの親鸞研究者は、これを見ると、反射的に「山田文昭」という名前を思い浮かべるのではないでしょうか。山田さんが『親鸞とその教団』の第五章復古思想の勃興と第六章師弟の処刑の項で、親鸞理解における「興福寺の奏状」のもつ意義の重大さを強調したのは、研究史上、有名な事実です。これは昭和三年、大谷大学真宗史講座における「講授原稿」です。少なくともそれ以後は、〝この奏状のもつ意義と、これに対する親鸞の教行信証における反論の正当性〟を説くのを、真宗史学のならわしとしているはずです。

  しかし、この古田の指摘から驚かされることは、『興福寺奏状』研究は「少なくとも山田以後は」と言わなければならないことである。

  親鸞研究史上で『興福寺奏状』を取り上げた早い例として、了祥の研究があることはすでに見た。しかし了祥も、『末法灯明記講義』の時点では略本しか見ることができなかったと考えられる。その後、弟子の法住は明らかに『興福寺奏状』を見、その特徴の指摘をしていた。江戸期にお いては、一般には流布しておらず、一部の学者が存在を知っていただけなのであろう。

  近代以降『興福寺奏状』が登場するのは、一八九五年の福井了雄『親鸞聖人』に全文引かれるのが恐らく初めてである。その翻刻の奥書には、華厳寺の鳳潭(一六五四~一 七三八)が南都の蔵中からこの草稿を得たと記されてある。その後は、一八九六年の村田勤『史的批評親鸞真伝』に部分的に抄出され、また一九〇五年に『精神界』第五巻第九号に掲載された佐々木月樵「解脱上人の弾劾」では全文が掲載されている。ただしこの二つは、ともに華厳の鳳潭が南都の蔵中から得たものと記しており、福井『親鸞聖人』からの孫引きであろう。そして一九〇六年、山田文昭は論文「解脱上人の念仏義」で興福寺の奏上について、「その奏上の如何は、古来之を知るに由なかりしが、鳳潭一度南都の蔵中に発見し、その草案を血写し来りて、之を天下に伝へしより、そを草せしものが果して貞慶なりしを知るを得たり。」と指摘している。この「古来之を知るに由なかりし」という指摘は、親鸞研究史上、極めて重要な発言であろう。正に福井『親鸞聖人』を俟って『興福寺奏状』は 73

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初めて世に公開されたのである。さらにその後は、一九〇九年に大内青巒所蔵本(原本一五三九年書写)が『大日本史料』第四編之九(東京帝国大学文科大学史料編纂掛)に収録、一九一七年の『大日本仏教全書』興福寺叢書第二(仏書刊

行会)にも「飛鳥御所御記録所」(一五二一年書写)とある写本が収録され、『興福寺奏状』の公開はひとまず完了する。

  こうした公開の動向のさなか、親鸞研究において『興福寺奏状』が取り上げられたかといえば、例えば先に見た一九一三年の山辺・赤沼『教行信証講義』、一九一六年の村上『真宗全史』などは、貞慶の弾劾があったことは記すものの、『興福寺奏状』の内容にまで踏み込むことはなく、重要視されたとは言い難い。けれども一九一四年の稲葉円成「『教行信証』撰述と其時代の教界」や古田の指摘する山田文昭による一九一六年及び一九二八年度の大谷大学の講座原稿(『真宗史稿』収録)を見ると、明恵と貞慶が専修念仏に対する二大批判として取り上げられ、『興福寺奏状』もその思想内容が一条ごとに検討されていく。そしてこの山田以降は『興福寺奏状』の存在は自明視されていく のであろう。けれども、次に見る中沢見明もそうであるが、大正期頃では新出資料たる『興福寺奏状』への言及を見ることはまだ少ない。

  4  中沢見明の問題提起

  さてはじめに示したように、大正期の批判的精神による親鸞研究として常に挙げられるのが中沢見明『史上の親鸞』である。彼の研究自体はその多くが後に否定されることとなるが、中沢の主張の最も大きな点は『教行信証』元仁元年成立説を否定し、帰洛後執筆説を唱えたことである。先に述べたように、『教行信証』の本文中に見える元仁元年(一二二四)の記述が、覚如『親鸞伝絵』と結び付けられ、江戸時代からずっと立教開宗の年とされた。中沢はこの説を否定することにより、『教行信証』が立教開宗の目的のために著されたものと理解されることを拒否したのである。『史上の親鸞』の後であるが、彼は次のように言う。

親鸞に開宗又は教団設立の意思ありとして、その著述 78

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の内容を考へる場合と、全くその意志なくたゞ師教を擁護のための著述だと見るのとでは大にその趣が異なってくると思ふ。

中沢が見据えていたのは「真宗教団の設立のために『教行信証』を著した親鸞」であった。そしてこの親鸞像の異なりによって『教行信証』を見る趣きも大きく変わるのだ、と言うのである。中沢は覚如の『親鸞伝絵』を、教団設立という覚如の目的のために著されたものとして、親鸞の教団設立の意志をどこまでも否定しようとした。それは、一九二三年に真宗十派が立教開宗七百年として記念法要を賑々しく勤修せんとするその前年末であった。

  では中沢の主張を見てみよう。まず彼は、元仁元年の元号は十一月二十日に貞応三年から改元されたのであり、関東にいる親鸞がそれを知り、かつ年内に「化身土巻」を脱稿するのは、まず不可能という。その上で、彼は発見されたばかりの『恵信尼文書』を鷲尾教導から特別に見せてもらい、そこにかつて衆生利益のために三部経千部読誦を思い立ったが、その後取り止めたことを寛喜三年(一二三一、 親鸞五九歳)の頃に親鸞が病中で思い返したとあることから、「聖人が化他即教化の方面に最も注意せられたのは、寛喜三年以後の事」として、『教行信証』撰述も寛喜三年以後、特に帰洛後の著述であるとする。そして、『教行信証』は法然門下の異義に対抗したものであり、親鸞がそのような異義に接したのは京都であったという。また、そもそも関東の門弟には晩年に仮名文を送っているのであって、『教行信証』のような著作は無用だから、その意味でも帰洛後だとする。では誰にこれを読ませたのかといえば、寛永本『教行信証』信巻本の奥書に寛元五年(一二四七、親

鸞七五歳)に尊蓮が書写したとあり、これが『七箇条制誡』に出る尊蓮だとして、同僚である法然門弟に向けたという。さらに後の論文では、文暦二年(一二三五、親鸞六三

歳)書写の『唯信鈔』の裏に『涅槃経』『五会法事讃』の抄出があり、それが『教行信証』執筆用のノートだともする。また、元仁元年を基点とした仏滅年代の計算において、二千一百七 0十三歳と記すべきところを二千一百八 0十三歳と十年誤記している点なども、実は親鸞がこの箇所を執筆したのが十年後の時期であることによるためとする推測もし 79

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ているが、これは後の小川貫弌(一九一二~二〇〇七)や笠原一男(一九一六~二〇〇六)、松野純孝(一九一九~二〇一

四)に通じる興味深い点である。

  こうして『教行信証』は帰洛後撰述であると中沢は決定するのであるが、では何故親鸞は末法算定に元仁元年を基点にしたのかが当然疑問になる。これについても新出資料『恵信尼文書』に基づき、この年が娘の覚信尼が生まれた年だとする。そして親鸞は覚信尼の身の上を案じており、『教行信証』に「悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し…」というのはこれらに対する慚愧の言だとして、それに関連して「己の分を思量して」元仁元年をもって三時の年代計算をしたのだという。ちなみにこの説は直ちに「穿ち過ぎ」などと指摘され、ほぼ顧みられることはない。

  以上のように中沢は元仁元年をもって『教行信証』の成立=立教開宗という、『親鸞伝絵』稲田興法の段に基づく江戸時代以来の定説を徹底的に批判する。この中沢の主張以降、親鸞の『教行信証』の撰述を語る際、「元仁元年」が何を意味するのかが常に問われることになっていくのである。ただし、元仁元年執筆が素朴に信じられてきたこの 時代にあっては、元仁元年への意義付けはかつて了祥・法住が述べた法然十三回忌説以外には見えない。けれども、この議論は戦後に引き継がれていき、やがて柏原祐泉(一

九一六~二〇〇二)のまとめによれば十一もの説が立てられることになる。

  5  親鸞真筆坂東本への注目

  中沢の批判以来、『教行信証』撰述については、関東において元仁元年頃になされたという立場と、帰洛の後の六十代以降になされたという立場との大きく二つに分かれる。しかし、一見同じ立場に見えても論者によってその主張の内容は異なり、実際にはこのように単純に分けられるものではないのであって、今日からすれば中沢の関東か京都かという二分法が不必要な対立点を生み出したとも見える。

  大正期は山田「教行信証の御草本に就て」や辻『親鸞聖人筆跡之研究』といった親鸞の自筆に基づいた研究が出されていき、やがて立教開宗七百年の記念事業として、「東京浅草の報恩寺に伝はれる『御草本』を複写して普く有縁 82

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の人々に頒つた」という。こうして親鸞自筆の坂東本『教行信証』に対する関心が高まるにつれ、「聖人は元仁元年以後、約二十年の間文類の推敲をなし改削添加されたことは現存する報恩寺伝来本に徴することが出来る」、「御草本を熟覧すると、聖人の苦心の跡が歴然としてあらはれ、決して短日月の間にできた著述とは思はれない。」などと指摘されてくるように、元仁元年に完成したといった素朴な元仁元年撰述説は姿を消すようになる。

  これらの研究を踏まえたうえで、山田文昭の一九二八年度の大谷大学講座原稿を見よう。

その類聚は可なり以前より着手せられたもので、それが大体纏まつたのは関東時代で、元仁元年の頃は正しく化身土を起草せられつゝあつたに相違ない。けれども本書も幾度も修正を加へて大成せられたもので、現に東本願寺所蔵の唯一の真蹟たる阪東本も、古来御草本と称してゐるが、これは決して初稿本でなく再三再四修正せられたもので…中略…七十五歳即ち寛元五年已前に一応完成し終つたものと見ねばならぬ。 こうして山田は、その製作は元仁元年以前から関東で始まったとし、元仁元年は「化身土巻」執筆時であり、そしてその完成は親鸞七十五歳で尊蓮に書写させた時点、つまり京都であったと結論する。古田武彦はこの山田の説を、晩年撰述説に近い表現で晩年完成説と呼んだ。それ自体は間違いではないが、何をもって『教行信証』の完成と見るかという問題もあり、何より元仁元年を山田が執筆時点と捉えていることは注意すべきである。結局のところ元仁元年の問題の焦点は、それがたまたま当該箇所を執筆していたその時点を示すだけのもので特殊な意味はないと見るか、執筆時点を直接示すのではなく仏滅年代計算の基点として元仁元年を選ぶ必然性があったという『教行信証』の内容に関わるものと見るか、という点にある。その意味では山田は、完成は帰洛後としたが、従来の元仁元年撰述説なのであって、古田の評価は議論を錯綜させるだけであろう。  こうして、中沢の指摘から問題となる元仁元年は、そこに特殊な意味が存するのか否かが焦点になってくる。しかしそれは日下無倫が「予としては従来先哲のとり来りし元 0

仁元年撰述説 000000は、他に有力なる史料の発見せられざる限り、 89

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強ちにすて去るべきではないと信ずる。」と述べたように、何らかの新資料が提示されない限り平行線である。そしてこの議論は戦後に持ち越されることになる。

三  敗戦後の親鸞研究と元仁元年

  1  元仁元年問題の動向

  家永三郎は親鸞研究において「戦後を第二次の画期点」だと指摘したが、その端緒として家永が位置付けるのは、マルクス主義歴史家の服部之総(一九〇一~一九五六)の『親鸞ノート』(国土社、一九四八年)である。この書の中心となる論文「いわゆる護国思想について」では、その冒頭で親鸞には立教開宗の意図がなかったという中沢の研究を紹介しつつ、「領家・地頭・名主にたいする親鸞の根本的不信と百姓にたいする絶対的信頼とは、わたしがそれを親鸞に期待しおしつけたものではけっしてない。」と述べるように、農民とともにある親鸞こそ歴史的事実であるとして服部は文章を綴る。家永は、この服部の仕事の意義を 「服部氏の問題提起によって親鸞の社会的政治的姿勢が親鸞研究の核心として大きくクローズアップされた。」と指摘する。そこから家永自身は『教行信証』後序の「主上臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨を結ぶ」という言葉に「峻厳なプロテスト」との意義を見出し、権力と対決する親鸞像を提示していくことになる。  このような戦後の親鸞研究の潮流の中、極めて重要な成果として現れてくるのが慶華文化研究会編『教行信証撰述の研究』(百華苑、一九五四年)である。本書後記に記されるように、ここに収められた七本の論文のうち、宮崎円遵(一九〇六~一九八三)の「親鸞の立場と『教行信証』の撰述」と大原性実(一八九七~一九七九)の「『教行信証』撰述年次の問題」との二論文が元仁元年問題を中心とする。そして宮崎が元仁元年に特殊の意義を認める主張をなし、大原が従来の元仁元年撰述説であって、いわば対の関係になっている。  その後、一九五四年から翌年にかけて坂東本『教行信証』の解体修復が行われた。そして一九五六年には親鸞聖人七百回御遠忌の記念事業として影印本の出版が行われる 94

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ことになり、監督の任に当たった赤松俊秀(一九〇七~一

九七九)による詳細な解説「教行信証の成立と改訂について」(影印本『顕浄土真実教行証文類』解説、大谷派宗務所、一

九五六年)が出されることになる。その重要な点は、坂東本は親鸞六十三歳前後に書写されたものであり(なお八十

代に至っても推敲された)、それ以前の原教行信証(初稿本)が想定されるという点である。そしてそれは関東で書かれていたことになる。古田武彦はこの赤松の解説が世に出たことにより教行信証撰述年次論争はいったん沈静化したとしつつも、実は真の解決を見ていないと指摘する。そこで古田自身は自ら坂東本を調査し、改めて元仁元年執筆説、より正確には原教行信証当該箇所執筆時現在時点説を主張していく。近年では末木文美士がこの古田の説を紹介し――少なくとも本文中ではその正否を検討せずに――最終的な結論だとしている。

  ではこの古田の議論は問題を解決したのか。筆者には、とてもそうは思われない。たしかに古田は、この問題に関する研究史を丁寧に追い、かつ様々な新知見を提示しつつ自論を展開しており、そこから教えられることは非常に多 い。しかし、古田説を承服することができないのは、古田が元仁元年に関する議論を行う中で宮崎円遵(及び直ちに

それに賛同した二葉憲香〔一九一六~一九九五〕)の説には全く触れておらず、いわば宮崎説を黙殺することで成立しているからである。そしてそれとは対照的に、その後には筆者を含め少なからぬ論者が宮崎説に基づいて『教行信証』を論じるようになる。しかしそこでは、逆に研究史の中での宮崎説の位置付けについて言及されることは少ない。

  そこで本章では、まず宮崎円遵がいかなる主張を行ったのかを確認する。その上で、宮崎の説が当時の議論のなかでどのように受け止められ、また批判されたのかを見たい。そうして親鸞の『教行信証』撰述に関して宮崎説のもつ意義を考察していく。なお、紙幅の都合上、宮崎以外の諸説の一々には言及できないことを予めお断りしておく。

  2  宮崎円遵説の展開

  宮崎円遵の説をごく単純に言えば、一二二四年(貞応三

年/元仁元年)に出された専修念仏に対する批判・停止の 98

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命が『教行信証』の契機となったのであり、元仁元年の記述はそのことを示すものだ、という主張である。そしてこの説を代表する論文としてしばしば挙げられるのが、一九五一年三月発行の「『教行信証』に現はれた元仁元年の年紀について」(『龍谷史壇』第三四号:一九五〇年十二月二六日 擱筆)と先に挙げた一九五四年の「親鸞の立場と『教行信証』の撰述」である。しかし、約三年を隔てたこの二論文には決定的な違いがある。それは、前者は『歴代皇紀』から八月五日に専修念仏の禁制が出されたことを指摘するのみであり、後者は貞応三年五月十七日に比叡山大衆が提出した六箇条の奏状を含む『停止一向専修記』を中心に論を展開しているという点である。それが意味するのは、宮崎は一九五〇年十二月時点で『停止一向専修記』を知らなかったということである。「『教行信証』に現はれた元仁元年の年紀について」において、「『歴代皇紀』(巻四)元仁元年八月五日の条に…中略…とある。この文は簡単でその委曲を詳かにせず、またこの問題について参照すべき文献も 000000000000000000

見出し得ない 000000」と記していることからも明らかである。

  この『停止一向専修記』が世に紹介されたのは、おそら く一九二八年の大屋徳城(一八八二~一九五〇)『日本仏教史の研究』第三巻(東方文献刊行会)「延暦寺の奏状に就いて」である。『停止一向専修記』は、叡山大衆の六箇条の奏状(『延暦寺大衆解』)と、それに関連する宣旨が合わさって成立しているが、ここで大屋は叡山無動寺伝来本から六箇条の奏状部分だけを翻刻し、これが嘉禄の法難に関わるものであり、かつ日蓮『念仏者追放宣状』における山門の奏状であることを指摘している。しかし、真宗史学を志した宮崎が一九五〇年時点でこれを知らなかったのであれば、当時はほとんど周知されていなかったのではないか。  では宮崎が『停止一向専修記』を知ったのはいつかといえば、おそらくその半年以内である。宮崎は一九五一年七月二八日の日本仏教学会大会で研究発表を行い、その内容が一九五二年六月に発行された『日本仏教学会年報』第十七号に「親鸞の時代批判と真宗の成立」という論文として掲載される。この論文で宮崎は『停止一向専修記』に言及し、そして先の論文とほぼ同じ文を「『歴代皇紀』(巻四)元仁元年八月五日の条に…中略…とある。文は簡略で、詳細を明かにしないが、先の叡山大衆の策動がこゝに及んだ 0000000000000000 105

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ことは云ふまでもあるまい 000000000000。」と記している。事件について参照すべき文献が見出せないと述べていたのが、『停止一向専修記』が記す叡山の策動だ、と変わったのであるから、この期間に知ったことは明白である。しかも、この論文では大屋が翻刻していない宣旨の内容にも言及しているため、何らかの写本を直接見ていると考えられる。

  その後、宮崎は『停止一向専修記』を念頭に「親鸞の帰洛」(『龍谷史壇』第三六号、一九五二年二月:一九五一年十二月

十六日擱筆)、「神仏交渉史の一齣―親鸞の神祇批判―」(『仏教史学』第三巻第二号、一九五二年十月)と立て続けに執筆し、それらの研究を踏まえて「親鸞の時代批判と真宗の成立」を補訂する形で著したのが、一九五四年「親鸞の立場と『教行信証』の撰述」なのである。『停止一向専修記』の発見が宮崎にとっていかに大きな出来事であったのかがわかる。

  『停止一向専修記』に触れていない「

『教行信証』に現はれた元仁元年の年紀について」の記述では、元仁元年と記す必然性に乏しく、いわば印象論に過ぎない。宮崎自身も、もし単に後年の追想により記されたのであれば承元元年や 嘉禄三年が選ばれたとしつつ、元仁元年はその時の念仏停止により末法意識を深めたのであろうと述べるに止まり、偶然的要素を含んだ推測であったのである。それに対して「親鸞の時代批判と真宗の成立」では、叡山の奏状の具体的内容に踏み込む。宮崎は、奏状が仏滅年代の異説を挙げ、貞応三年/元仁元年現在においていまだ末法ではないと専修念仏側の主張に反駁していることを示しつつ、親鸞が元仁元年を基点として仏滅年代を算定し、すでに末法に入って六八三年だと断じたのは「正しく如上の叡山の大衆に対したものであることは明白」と、その内容の対応性を主張し、かつそれ以外にも「化身土巻」の処々にこの奏状との対応関係が見られると論じていく。宮崎説はこの『停止一向専修記』の発見によって、偶然的要素の強かった推論から、その必然性について具体的証拠を伴った論証へ変わったのであり、後年宮崎説を支持する論者はみな一致してこの点を重視することになる。こうして宮崎は『教行信証』に現れた元仁元年の年紀の意義を追求し、親鸞は「国家権力に依存する既成仏教徒とそれを受容して専修念仏を弾圧する政府官僚」に対峙したのであり、「元仁元年の律令仏 106

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このフォ トコラージュや兵端学的 ( プロジェク トの輸 送 ・補給 ・通信など)予想分析 を伴 う精密文書は、数年 を経て、クリス