行為内意図をめぐって
佐
藤
広
大
∗On an Intention in Action
Kodai SATO
∗ AbstractThe topic of this paper is an intention. John Searle distinguished two types of intention: a prior intention and an intention in action. Subsequently, Hubert Dreyfus and Elisabeth Pacherie presented their views of intention in action. This paper places importance on Dreyfus’ view among three views of intention in action. In my view, on the one hand, Searle and Dreyfus discussed a propositional intention in action. Regarding this discussion, I argue that Dreyfus’ view is superior to Searle’s view. On the other hand, Pacherie presented the view of non-propositional intention in action. I argue against her view by invoking Dreyfus’ insights about a propositional intention in action.
1.
序論 本稿の主題は「意図」である。標準的には、意図こ そが意図的行為を意図的行為たらしめるものだと想定 されてきた。それでは意図とは何だろうか。まず、意 図を計画と同一視してみよう。たとえば、私はこの論 文を書くことを意˙図したので、つまり、私はあれこれ˙ 思案してこの論文を書くことを計˙画したので、今論文˙ を意図的に書いているとしよう。 ところが、意図を計画と同一視することに対して、次 のような反論がある。その反論とは、我々が意図的に 行為しているとき、事前に計画しているとはかぎらな いという反論である1。たとえば、私が指導教授にばっ たり会い、事前に計画することなくとっさに会釈した ∗慶應義塾大学・日本学術振興会特別研究員 DC E-mail: [email protected] 本稿は、科学基礎論学会 2019 年度講演会の口頭発表に 基づく。有益なコメントをくださった、Istvan Zoltan Zardai氏、加藤龍彦氏、中崎紘登氏、丸山望実氏、八木 沢敬氏、アプリオリ研究会の方々、柏端ゼミの方々、鴨 川メタ倫理学読書会の方々、行為論勉強会の方々、科学 基礎論学会講演会発表会場の方々、査読者の方々に感謝 いたします。なお、本研究は JSPS 科研費 JP19J13593 の助成を受けたものである。 1Setiya (2018)など。 としよう。もし意図が計画であり、かつ、この会釈が 意図的行為であるならば、意図なしの意図的行為が存 在することになってしまう。 この反論に答えるために、J・サールによってなされ た区別を用いることができる。サールは、意図を「先 行意図(prior intention)」と「行為内意図(intention in action)」に分ける2。先行意図は、ここまで用いら れてきた「計画」に相当し、行為に先立って「ある行 為をしよう」と計画することである。一方、行為内意 図とは、行為者が行為中に持つ「私はある行為をして いる」という経験のことである。サールによれば、先 行意図ではなく行為内意図こそが意図的行為を意図的 行為たらしめる3。 この二種類の意図を使って、意図を計画と同一視す ることに対する先程の反論に応答しよう。反論によれ ば、意図を計画と同一視すると、意図なしの意図的行 為が存在することになってしまうのだった。たしかに、 指導教授にとっさに会釈する例には、計画に相当する先 行意図は存在しない。しかし、行為経験に相当する行 為内意図ならば存在するかもしれない。なぜなら、指 2Searle (1983), p.84.〔邦訳 p.118.〕 3Searle (1983), p.85.〔邦訳 p.119.〕導教授に会釈しているとき、私は自分が会釈をしてい るという経験をしているだろうからである。したがっ て、初めは意図なしの意図的行為に思えたものが、意 図を二種類に区別することによって、実は意図ありの 意図的行為だったと説明できるようになる。 サールが意図を二種類に区別したのち、H・ドレイ ファスやE・パシェリーも行為内意図に関してそれぞ れ独自の見解を提出している。本稿は、行為内意図に 関するこれら三人の見解のうち、ドレイファスの見解を 主軸とする。なぜなら、サールの見解とパシェリーの 見解は同型の二つのドグマに基づいているからである。 2節と3節では、行為内意図をめぐるサールとドレ イファスの論争について取り上げる。私の見立てでは、 彼らは命˙題的な行為内意図について争っているが、ド˙ レイファスの見解のほうが優れている。4節と5節で は、パシェリーが近年擁護している非˙命˙題的な行為内˙ 意図についての見解を取り上げて批判する。そのさい に、命題的な行為内意図についてのドレイファスの洞 察を援用する。
2.
命題的な行為内意図に対するドレイファスの代案 サールは意図的行為には必ず行為内意図が存在する と考えていたが、ドレイファスは行為内意図なしの意 図的行為が存在すると考える。そのような行為の例と して、ドレイファスは何も考えずになんとなく行う行 為や熟練した行為などを挙げて、次のように説明する。 たとえば、自然にベッドで寝返りをうつとき、人 は体の表面に広がった緊張にその都度反応し、望 ましい均衡状態に達するまで動きつづける。この 事例や類似の事例で、人は、自分がどこに向かっ ているかや何をしているかを自分自身に実際に表 象してはいない。その人は、作用してくる局所的 な力にその都度反応しながら、ただ行為をしてい るだけである4。 ただし、ドレイファスは意図の役割を完全に否定し ているわけではない。状況が新しいときや複雑なとき などには、意図が必要なこともあると認めている5。 ドレイファスによれば、行為内意図なしの意図的行 為を意図的にするのは、身体状況の知覚によって生み 出される緊張が緩和されることについての感覚、つま4Wakefield & Dreyfus (1991), p.263. 5Wakefield & Dreyfus (1991), pp.264f.
り、知覚と行為の調和についての感覚である6。 ところで、ドレイファスは、行為内意図なしの意図 的行為を、作用してくる力に対するその都度の反応だ と説明していた。そのような反応と、意図的行為では ないもの(瞳孔が開くことや気泡が形成されることな ど)との違いは何か。ドレイファスによれば、作用し てくる力に対する反応は学習され文脈に応じて変化す るが、気泡の形成などは結果が固定されている。たと えば、気泡はいつも球の形になる7。 また、ドレイファスは、行為内意図なしの意図的行 為を意図的にするのは、知覚と行為の調和についての 感覚だと説明していた。そのような感覚を持つことは、 行為内意図(目標の持続的な表象)を持つこととどのよ うに異なるのか。ドレイファスは次のように説明する。 人は事前に設定された目標からそれたとき「誤っ ている」という感覚や緊張にぼんやりと気づき、そ の目標に向かって進むとき正しいという感覚に気 づく。しかし、このことは、目標の持続的な表象 を持つことと同じではない。せっけんの膜の動き が球を生み出すのに必要な動きのパターンときれ いに一致するように、我々の行為はある結果を生 み出すように状況ときれいに一致するかもしれな い。気泡の形成と同じく我々の行為は最終的な状 態の表象によって引き起こされつづけないかもし れない8。
3.
命題的な行為内意図をめぐるサール-ドレイファ ス論争 本節では、行為内意図に関するサールとドレイファ スの見解を三つの点で比較する。そして、ドレイファ スの見解のほうが優れていると論じる。 第一に、サールは、意図的行為には必ず行為内意図 が存在すると主張していたが、その根拠を述べていな い。そこで、ドレイファスはサールの主張の根拠を次 のように推測する9。我々は意図的に行為しているとき 自分たちが何をしているか答えることができるので、 意図的行為には必ず行為内意図が存在するとサールは 主張している。このサールの考えを本稿では「第一の6Wakefield & Dreyfus (1991), pp.263f; p.267. 7Wakefield & Dreyfus (1991), p.264. 8Wakefield & Dreyfus (1991), p.264. 9Wakefield & Dreyfus (1991), p.268.
ドグマ」と呼ぼう。たしかに、たとえば私がテニスを 意図的にしているとき、「何をしているんですか」と尋 ねられれば、「テニスをしています」と答えることがで きる。 一方、ドレイファスはサールに対して次のように反 論する10。意図的に行為しているとき自分たちが何を しているか答えることができるのは、行為内意図が存 在するからではなく、何をしているか尋ねられたさい に、行為を中断して考え、「行為内意図」を事後的に措 定するからである。 私もドレイファスに賛成したい。意図的に行為して いるとき自分たちが何をしているか答えることができ るという現象を、行為内意図を用いずに説明でき、か つ、説明に不必要なものはそり落とすというオッカム の剃刀に従うならば、行為内意図を用いないドレイファ スの説明のほうが優れていることになる。 第二に、ドレイファスによれば、「明確にされていな い特徴に反応しているレヴェルが、わたしたちの行為 にはほとんどつねにある11」。たとえば、私が巧みにテ ニスをしているとき、ラケットを振る手首の角度を言 語を使って明確化できるとはかぎらないし、明確化で きたとしても明確化しようとするとラケットがうまく 振れなくなるだろう。つまり、ドレイファスは、行為 に命題的でないレベルが存在することを指摘し、命題 的な行為内意図なしの行為が存在することを導きだそ うとしている。 サールも、明確にされていない特徴に反応するレベ ルが存在することを認め、そのレベルのことを「背景 (background)」と呼ぶ12。背景とは、意図することを 可能にする心的な能力の集合である13。私が巧みにテ ニスをする例では、立ったり、走ったり、手首を立てた りする能力が背景に該当するだろう。しかし、サール によれば、背景能力の発揮である運動も意図的である。 なぜなら、そうした運動も行為内意図によって統制さ れているからである14。たとえば、巧みにテニスをし ているとき、私は手首を立てることを意図したりはし ないが、手首を意図的に立てている。なぜなら、テニ スをするという行為内意図が手首を立てることを統制 しているからである。つまり、サールは、行為に命題
10Wakefield & Dreyfus (1991), p.268.
11Dreyfus & Taylor (2015), p.84.〔邦訳 p.138.〕 12Searle (1983), pp.141–159.〔邦訳 pp.196–221.〕 13Searle (1983), p.143.〔邦訳 p.199.〕 14Searle (1991), p.293. 的でないレベルが存在することを認めるが、そうした 行為が意図的であるかぎり命題的な行為内意図によっ て統制されていると主張する。 このときサールはある前提を置いている。その前提 とは、もしある行為が意図的になされているならその 行為を統制する命題的な行為内意図が存在しなければ ならないという前提である。ところが、まさにこの前 提をめぐってサールとドレイファスは争っている。な ぜなら、もしこの前提が真であれば、意図的行為には 必ず行為内意図が存在するというサールの主張も真に なるからである。したがって、この主張に反対するド レイファスに対して、ある行為が意図的になされてい るならその行為を統制する命題的な行為内意図が存在 しなければならないという前提をサールのように置く のは論点先取である。 第三に、サールは、行為内意図に対するドレイファ スの代案も意図の一種だと反論する15。ドレイファス によれば、意図的行為に必要なのは、行為内意図では なく、知覚と行為の調和についての感覚だった。サー ルは、ドレイファスのこの代案にも行為の成功失敗が あるので、意図の一種だと考えている。この考えを本 稿では「第二のドグマ」と呼ぼう。 たしかに、ドレイファスの代案にも行為の成功失敗 はある。たとえば、向かってきたボールに対してとっ さにしたスイングが上手くできていたか評価すること ができる。しかし、私の考えでは、そうした成功失敗 は命題的な行為内意図なしに存在しうる。サールは、 もし行為の成功失敗があるならば命題的な意図が存在 すると考えていた。なぜなら、サールにとって、行為 の成功失敗は、命題的に表象された行為(意図された 行為)と実際に為された行為との差によって測られる からである。一方、ドレイファスは、熟練した行為な どにおける成功失敗は知覚と行為との調和によって決 まると考えていた。なぜなら、ドレイファスにとって、 熟練した仕方などで行為するときの行為者は、行為を 命題的にあらかじめ表象することなく、試行錯誤を通 じて調和をもたらす行為を探っていくからである。ド レイファスが指摘するような行為の成功失敗も存在し うる。したがって、行為の成功失敗の存在は、命題的 な行為内意図が存在することの根拠にはならない。 15Searle (1991), p.294.
4.
非命題的な行為内意図についてのパシェリーの 見解近年の因果説の中心的な論者の一人であるパシェリー は、「遠位意図(Distal intention)」と「近位意図( Prox-imal intention)」に加えて、非命題的な行為内意図で ある「運動意図(Motor intention)」を導入するDPM モデルを提案した16。遠位意図はサールの先行意図に、 近位意図はサールの行為内意図におよそ対応する。 パシェリーは、DPMモデル、遠位意図、近位意図 について次のように説明する。 DPMモデルは、行為を特定する過程の三つの主 要な段階を区別する。三つの段階それぞれが、異 なるレベルや層の意図に対応している。そして、 それぞれのレベルの意図は、行為を誘導し監視す るさいに果たすべき独自の役割を持つ。だから、 DPMモデルは、遠位意図、近位意図、運動意図 (D意図、P意図、M意図と省略する)の三つに 区別することを提案する17。 D意図は以下のようなものとして機能する。目的 についての実践推論の終点や、手段や計画につい ての実践推論の促進物や、個人内や個人間の調整 物として。そして、D意図は実践的合理性の規範 に従う。目標を決めたのであれば、その目標を達 成するための計画を立てるべきである。その計画 は、内的に一貫し、世界についての信念と一貫し (外的一貫性)、すでに決めている他の意図やプロ ジェクトと一貫する(大局的一貫性)18。 P意図は、いつもではないが多くの場合、D意図 から行為の計画を引き継ぐ。そして、P意図の仕 事は、行為する場面にその計画をつなぎとめるこ とである。時間に関してつなぎとめること、つま り、行為を今始めると決めることは、この過程の 一側面でしかない。行為者は、行為する場面と知 覚情報を介してつながると、行為の計画がその場 面において実行されることを保証しなければなら なくなる。つまり、行為者は、D意図から引き継
16Pacherie (2006); (2008); Mylopoulos & Pacherie
(2019)など。Pacherie (2006) では、遠位意図は未来 指向意図と呼ばれていて、近位意図は現在指向意図と 呼ばれていた。
17Mylopoulos & Pacherie (2019), p.2. 18Mylopoulos & Pacherie (2019), p.2.
いだ詳細と一致する行為の指標的表象を生み出さ なければならない。その表象を目の前の場面につ なぎとめながら19。 運動意図について、パシェリーは次のように説明す る。第一に、我々は自分たちが行為を選択したり制御 したりしていることには気づいているが、行為を生み 出すために用いられる運動命令の詳細には気づいてい ない20。運動意図と近位意図はどちらも、行為を誘導 し監視する機能を持つが、運動意図の機能のほうが近 位意図の機能よりも低次で21、素早く働く22。第二に、 運動意図の内容は非命題的で23、合理性制約に従わな い24。合理性制約によれば、行為者の欲求や信念や意 図同士は互いに整合しなければならない25。 パシェリーは、このような運動意図も依然として意 図の一種だと考えている。なぜなら、運動意図が意図 の三つの中心的な特徴を持っているからである。第一 に、運動意図も目標や手段を表象する26。第二に、世 界が運動意図の内容に適合する。つまり、世界と意図 内容が一致しなかったとき、意図内容に適合するよう に世界の側が変化させられる。第三に、運動意図も意 図内容を引き起こす27。 C・ブロゾはパシェリーのこの考えを批判する。な ぜなら、ブロゾは、意図が満たすべき条件を満たさな い運動意図が存在すると考えているからである。その 条件とは次の三つである。第一に、意図内容に意識的 にアクセス可能であるべきである。第二に、意図と他 の命題的態度が統合可能であるべきである。第三に、 意図は合理性制約を満たすべきである28。運動意図の うち無意識で非命題的で合理性制約に従わないものは、 これらの条件を満たさない。 このブロゾの批判に対して、パシェリーは次のよう に応答する。たしかにブロゾの指摘するとおり、「運動 意図」における「意図」という語の使い方は伝統的な
19Mylopoulos & Pacherie (2019), p.3. 20Pacherie (2006), pp.153f; (2008), pp.187f. 21Pacherie (2006), p.149; (2008), pp.187f. 22Pacherie (2006), p.154; (2008), p.188.
23Pacherie (2008), p.189; Mylopoulos & Pacherie
(2019), p.8. 24Pacherie (2006), p.153. 25Pacherie (2006), p.148. 26ただし、運動意図は、遠位意図や近位意図と違って、目 標や手段を非命題的に表象する。つまり、絵のように きめ細かく表象する。 27Pacherie (2008), pp.189f. 28Brozzo (2017), p.240など。
ものではない。しかし、問うべきなのは、ここで「意 図」という語の使い方以上のことが問題になっている かである。運動意図がブロゾの強調する三つの条件を 満たさないせいで、運動意図が引き起こす動作と近位 意図が体系的に食い違うことになるなら、語の使い方以 上のことが問題になっているだろう。しかし、パシェ リーは、意図についての自分のモデルではそのような 体系的な食い違いは起きないと主張する。なぜなら、 パシェリーは、近位意図が運動意図の内容を制約する と考えているからである29。
5.
運動意図に対する批判 本節では、運動意図についてのパシェリーの主張を 二つ取り上げて批判する。そのさいに、命題的な行為 内意図についてのドレイファスの洞察を援用する。 第一に、パシェリーによれば、通常、運動意図は対応 する動作が実行されるとすぐに消えるので、意識にの ぼらない。しかし、行為が妨害されるなどすると、運 動意図は意識にのぼるようになる30。 この考えは、3節で「第一のドグマ」と呼んだ命題的 な行為内意図についてのサールの直観と同型のもので ある。サールは次のように主張していると考えられて いた。すなわち、我々は意図的に行為しているとき何 をしているか答えることができるので、意図的行為に は必ず行為内意図が存在する。この主張に対して、ド レイファスは、意図的に行為しているとき何をしてい るか答えることができるのは、行為内意図が存在する からではなく、何をしているか尋ねられたさいに「行 為内意図」を事後的に措定するからだと反論していた。 この反論をパシェリーの直観に対しても向けることが できる。行為が妨害されると意識にのぼる運動意図は 事後的に措定された可能性がある。よって、行為が妨 害されると運動意図が意識にのぼるというだけでは、 意図的行為に運動意図が存在するということは帰結し ない。 第二に、パシェリーによれば、運動意図レベルにおけ る行為制御では、行為者によって望まれた状態と行為 によって生み出された実際の状態などが比較される31。 つまり、行為を制御するために、運動意図の内容と実際 の行為とが非命題的なレベルで無意識に比較され、行29Mylopoulos & Pacherie (2019), p.4. 30Pacherie (2006), pp.158f. 31Pacherie (2008), pp.191f. 為の成功失敗が判定される。 パシェリーのこの直観は、3節で「第二のドグマ」と 呼んだサールの直観と同型のものである。サールは、 行為内意図に対するドレイファスの代案も意図の一種 だと反論していた。その理由として、サールは、ドレイ ファスの代案にも行為の成功失敗があることを挙げて いた。たしかに、命題的か非命題的かにかかわらず意 図が存在すれば、行為の成功失敗が存在する。しかし、 サール的な命題的意図だけでなくパシェリー的な非命 題的意図すら伴わない成功失敗の条件も存在する。そ の条件とは、知覚と行為の調和である。行為者が、自 分の身体状況についての知覚が生み出す緊張を行為に よって緩和していくとき、たとえば、より快適な姿勢に なっていくとき、行為は成功している。そのさい、行 為者は行為を非命題的に表象(意図)しているとはか ぎらない。なぜなら、どの行為が成功するかを行為者 が非命題的なレベルで事前に知らないことがあるから である。そのとき、行為者は試行錯誤を通じて、成功 する行為を探っていく。よって、行為に成功失敗があ るというだけでは、意図的行為に運動意図が存在する ということは帰結しない。
6.
結論 本稿は、行為内意図に関するドレイファスの見解に 軸を置いて議論を進めた。 命題的な行為内意図に関するサール-ドレイファス論 争について、私は、サールの主張が二つのドグマに基 づいていると論じた。サールは、意図的行為には必ず 命題的な行為内意図が存在すると主張していた。第一 のドグマによれば、何をしているか行為中に尋ねられ たら答えることができるので、意図的行為には必ず命 題的な行為内意図が存在する。第二のドグマによれば、 行為の成功失敗があるので、命題的な行為内意図が存 在する。これら二つのドグマはドグマにすぎない。な ぜなら、二つのドグマが命題的な行為内意図が存在す る理由として挙げている事実を、ドグマとは異なる仕 方で解釈できるからである。よって、これらのドグマ だけでは、意図的行為に必ず命題的な行為内意図が存 在するということは帰結しない。 私は、非命題的な行為内意図についてのパシェリー の主張も同型の二つのドグマに基づいていると論じた。 第一のドグマによれば、行為が妨害されると非命題的 な行為内意図が意識にのぼるようになるので、非命題的な行為内意図は存在する。第二のドグマによれば、 行為の成功失敗があるので、非命題的な行為内意図が 存在する。これら二つのドグマもドグマにすぎない。 よって、これらのドグマだけでは、意図的行為に非命 題的な行為内意図が存在するということは帰結しない。 以上を通じて、命題的な行為内意図に関するサール -ドレイファス論争の教訓が、非命題的な行為内意図に 関する近年のパシェリーの主張に対して依然として有 効であることを示した。ただし、非命題的なレベルの 行為を主題化したパシェリーの貢献自体を否定してい るわけではいない。非命題的なレべルの行為について より深く論じるためには、本稿で言及した以外の運動 意図の存在根拠を探すか、運動意図の代案である知覚 と行為の調和という概念をさらに洗練させていく必要 があるだろう。 参考文献
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