【エナヒイ】
クリスト芸術の構想と展開をめぐって
一生いたちと初期作品にふれて ‑
TheConceptionsandEvolvementsofChristo'sW orks 一 mainlyfrom theEarlyW orks‑
㊨‑ 太 田牌勝 otaMasakatsu
1 まえがき
一昨年、アメリカ ・インディアナ州チェスタ トンでク リス トとその夫人であるジャンヌ ・タロウ ドの講演を聞 く機会に恵 まれた。講演終了後、会場の通路で、夫妻に 2 ・3の質問をさせていただいたが、その場で明快 ・簡 潔なコメン トを受 けることがで きた ことは幸 いであっ た(1)。
クリス トは激動する世界大戦前後の世界史 をまさに 世界規模で苦闘の中に生 きぬいてきたが、その生 きざま は微妙に作品に反映 し、通常の意想 を超 えた大掛か りな 仕事 と着想に世界の関心が寄せ られていることは、よく 知 られるところである。唐突な私の質問の答 えとして、
多少過激な部分を含む内容の談話を期待 していたが、主 として答えて くれたジャンヌ ・クロウ ドの言葉には、明 噺ではあったが、いかにも枯れた、温厚 ・穏当な所感が 披渡 された。
しか しなが ら、 この数分のや りとりの中で、私 はふ と、 この芸術家たちは人権や生死にかかわる根本的、極 限的な事象以外の、日常的なものに関 しては、極力優 し
く肯定的に対処 しようと努めているのではないか、 とい う一人 よが りな感想を抱いた。そして、時間が経過する につれ、 この感懐が ます ます心の うちに広がっていっ た。
本年3月、本誌編集委員会か ら原稿執筆の相談があ り、表記の作家についての所感なら4‑ 5頁を埋めるこ とは可能だろうと、お引 き受けした。新学期の多忙期が 去 った4月16日、ようや く作家についての資料 を読み始 めたが、翌17日、あろうことか、夫妻か ら私 に宛てた、
今年のプロジェク トの 日程表のプ リン トが送 られて き たのである。旧版 クリスマスカー ドのや りとりはした が、クリス ト夫妻か ら私にあてて、そうした文書が届 く とは予想だにしてはいなかった。偶然だったが、私にとっ て神秘の感す らあ り、奇跡でさえあったのだった。
この感動 と感謝 をしたため、4月19日、夫妻 あてに ファクスを打電。直後、電話で説明 ・依頼 に及んだ。私 が、作家について日本語でエッセイをまとめたいこと。
できれば、資料 も頂戴 したいことを述べ、その場で直ち に承諾 を得、空輸で送 られた資料 を5月18日晴れて落手 したのである。本稿 は、如上の経緯か ら、クリス トの初 期作品を中心に、その根底にあるコンセプ トに触れ、そ れ らを踏 まえて、今後の展望について、私見 と所感 をま とめたいわばエ ッセイである。クリス ト夫妻への友情 と 尊敬 を込め、まだ日本ではかならず Lもポピュラー とは 言いえないクリス トの仕事 と経歴 について ご紹介 した い思いか ら、発表 させていただ くものである。
2 生い立ちと背景
クリス ト・ウラデイ ミロフ ・ジャヴァシェフは、1935 年6月13日、ブルガ リア北部の工業地帯ガプロヴォで生 まれた。奇 しくも、 この同じ日、後に生涯を貫 く芸術上 の協力者で伴侶 ともなるジャンヌ ・クロウ ドがカサブラ ンカで生 まれている(2)0
父ウラデイ ミールは、祖父 (父の父)設立になる化学 工場 を経営 してお り、父方の血脈 については、チェコ‑
ブルガ リア系 と伝 えられている。
母ツヴェタ ・デイ ミトロヴァは、31年の父 との結婚 ま で、ソフィア美術 アカデ ミーの事務責任者 を務 めてい た。 この母 は、彼女が7歳だった13年、祖母 (母の母) や助かった叔父叔母 らとともに、 トル コ人の迫害 を免 れ、マケ ドニアか らブルガ リアに移住 してきたいわば難 民である。祖母 は砲火をくぐりぬけ、 トルコ婦人に変装 し、偶々停泊 していた英国船に乳幼児のわが子 と乗 り込 んで、ソフィアに難 を逃れたのである。母はこのソフィ アの地で高校教育を終えている。祖父 (母の父)は、か ってサ ロニカの大商人 として その名 を知 られた人 で あったが、13年、多 くの同胞 らとともに トルコ人の殺戟
上越教育大学美術教育研究誌「美と育」art良educationno.41998
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21の犠牲者 となったのだった(3)0
今次大戦中、クリス トは、いまブルガ リアで俳優 をし ている兄 アナニや化学者である弟ステファンら家族 と ともに、田舎の別邸で過 ごしている。その屋敷は日々連 合国の砲撃を浴びた市街地か らは離れてお り、芸術家や 友人たちの避難所にもなっていた。幼少期のクリス トの 記憶 には、街路で処刑 されたパルチザンの死体や44年の 赤軍のブルガ リア進駐が生々 しい。
西側の教育 を受けた科学者たる父は、共産主義の新体 制下では疎外 され迫害 された。化学工場 は共産主義者の 手で接収 ・国有化 され、父は収監 されたのである。
3 美術への志向
のちクリス トは、幼児期、家族たちと毎年夏場過 ごし た とある村での生活を回想 しているが、すでに6歳の頃 その地の村人たち複数を写生 している。
1953年20歳の頃、首都 ソフィアの美術アカデ ミーで美 術の勉強を開始 した。56年23歳 までその学校で絵画、彫 刻、建築、デザインを学 んだが、当時、ブルガ リアで は、社会主義 リア リズムの国家的要請が圧倒的だった。
時あたか も、オ リエン ト・エクスプレス鉄道がブルガ リ アを縦断 ・敷設 され、学生たちはこれに乗せ られ、各地 の農業共同体に送 り込 まれた。美術系学生は、農業従事 者の傍 らにあって、資本主義国か らの旅行者たちに、ブ ルガ リアの農業機器や農業現場の実態がいかに進 んで いるかを効果的に印象づける実写的な図版 を描 く作業 を命ぜ られた。 この情宣活動は学校の履修単位 として認 め られたが、 こうした体験 は、彼ののちの活動 におい て、さらに価値あるものを生むきっかけとなった。すな わち、プロジェク トを、協力者 を得つつ、公開的に展開 する技術 ・方法や大 自然の中で巨大な作品を展開する手 法、プロジェク トを計画 ・集約する的確な ドローイング の技法なども、こうした体験 とまった く無縁ではない と 思 う。
やがて彼 は社会主義 リア リズム と衝突す る。ある日、
師であるパナヨ トフ教授 らアカデ ミアの教官が、彼がコ ンテで描いた小品の習作を不穏当であると謹責 した。そ の作品には、 とうもろこし畑で憩 う4人の農夫たちが描 かれていたが、1人は飲酒 し、農夫たちのすみれ色やグ リーンのシャツも好 ましくない というのであった。総 じ て、画面に見 る精神 は非生産的、反体制的であるという のである(4)0
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4 西側への脱出 とパ リ時代‑ク リス トの名の使用 と [梱包]の創始
ブルガ リアは共産主義国中 もっとも熱心 にスター リ ニズムを信奉する、文化的に遅れたヨーロッパの僻国で あった。すでに彼は西側 に移動する思いを募 らせてはい たが、間 もな く行動を開始 し、パ リを夢見て、ひそかに 祖国ブルガ リアを出発 したのである。最初 に下 り立 った のはプラハであったが、 ここで初めて近代美術のオ リジ ナル作品を見たのだった。
56年1月10日、18人の仲間 とともにチェコ国境 を突 破、列車で一路 ウィーンへ と向かった。所持金 もな く言 葉 もしゃべれない彼は、駅で一人タクシーを拾い、ウィー ンで唯一住所の手掛か りある父の知人宅へ と向かった。
町名地番は35年前の ものであったが、知人はまだその地 に住んでお り、幸いにしてクリス トを招 じ入れて くれた のだった。
翌 日クリス トはウィーン美術アカデ ミーに行 き、入学 の手続 きをとった。 こうして学籍が生 じた ことにより、
繁雑な難民登録の手続 きを回避できたのだった。
アカデ ミーでは、フ リッツ ・ヴォ トルバが彫刻科長、
ロベル ト・アンデルセンが指導教官だったが、クリス ト は1学期のみ在学 し、ジェノヴァに移動、そこか らパ リ に向かったのだった(5)d
1958年3月、 クリス トはパ リに着 き、イル ・サン ・ル イに小 さな部屋 を借 りた。サン ・セノック通 りにはア ト
リエ用の小部屋を借 りた。
ジェノヴァでは、上流婦人や子女の肖像 を油彩で描 き 生活の資を得たが、 こうしたことはパ リで も続 けた。彼 の仕事 を、上流社会のヘアー ドレッサーだったルネ ・ブ ルジョアが注 目し、 ドゥ ・ギルボン夫人に引 き合わせて くれた。夫君である ドゥ ・ギルボンは、パ リを解放 し、
のちヒ トラーのベル ゴフやア ドレホルス トでの敗退 を 余儀無 くさせたベル ヒテスガデンの要地 を得た軍団指 揮の英雄だった。
クリス トは ドゥ ・ギルボン邸 に呼ばれ、夫人の3態の 肖像画一通常の写実、印象派風、立体派風‑を描 いた が、その折、 ドゥ ・ギルボン夫妻の令嬢 ジャンヌ ・クロ ウ ドと知 り合い、 まもな く恋仲 となったのである。夫妻 はクリス トの才能 を認めたが、娘の結婚相手 としては相 応 しくない との判断を下 した。
しか し、やがて2人は所帯 を持ち、のち華燭の典 を挙 げた。花婿側の仲立ちは、後に述べるヌーボー ・レア リ ス トの芸術運動 を創始 し、評論活動をしている友人、ピ
エール ・レスタニーだった。
クリス トの西側への脱出は彼の生活 を激変 させ るに 足るものだった。鉄のカーテンの背後で創造的な仕事 を 持続させようとする場合、その条件環境 というものは頗 る苛酷なものではあった。いかなる芸術家 も希求する[自 由]を得るということにおいて、クリス トの場合はかな りの努力 と勇気 とを必要 としたのである。
パリにおいて、クリス トは、容易ならざる時代の流れ のただなかにあって、彼 自らの本質を発見すべ く、思索・
内省することか ら始めたようである。 この期間に彼のし た、2つのことを挙げておきたい。それは、彼の芸術家 としての後半の人生 を方向づ ける大 きな出来事 で は あった。
その第1は、彼のスラヴ系の姓 ジャヴァシェフを捨 て、彼のファース トネームであるクリス トのみを作品の 作者名に用い始めたことである。その名によって、彼は
いま世界的にも知 られるようになった。
第2は、[梱包]の開始である。それは、パ リ時代の初 期に遡 るものであ り、彼の芸術の本質にかかわるもので ある。缶、瓶、椅子、自動車や、何の変哲 もない日用品 など、手当た り次第なんで も梱包する。キャンヴァスに 描いたその同じ物体 を梱包 し、糸や縄や紐で結ぶ。それ
らに色彩を施す こともある(6)0
5 [梱包]の意味 と展開
‑さまざまな物の梱包 ・小オブジェの梱包 ・巨大な建 造物等の梱包‑
1950年代末以来、数年の間、彼は種々様々な物体の梱 包をし続けた。猫車 (手押 し一輪車)、オー トバイ、 フォ ルクスワーゲン車などなど。折 りにふれ、彼はカタログ に梱包 した物品の項 目を掲 げている。『缶 と瓶の梱包』
(1958‑59)には、初期の梱包作品が搭載 されている(7)。 梱包すること、覆 うこと、隠す ことについての原理 は、驚 くほど多様多彩な可能性 を秘めている。「椅子の梱 包」(61)「オー トバイの梱包」(62)は、それ までの不透 明な布に代わって、半分透 けた素材 をまとう。「包み」
(61)のように、中身を確認 されぬよう全体が袋の中に入 れられた ものもある。
これに続 くもの として、小オブジェの梱包が挙げられ る。コレクターを対象に数を限定 して制作 した小物品の 梱包は、クリス トの制作歴上、かな り重要な意味を持ち 始めている。 当時それ らは、彼の大切な収入源ではあっ たが、徐々に規模拡大 し経費 もかさみつつある彼のプロ
ジェク トに要する資金源の一部 ともなった。か くして60 年代には、雑誌、花、蓄蕨(68)、油絵(70)、ケルン大聖 堂の模型の梱包。他に、梱包 された樹木の版画(70)など があった。 こうした小オブジェは、時にふれ、気前良 く 多 くの人々に配 られたが、それ らはいつもコレクターた ちの注意をひき、間接的にはクリス トの大掛か りなプロ ジェク トを可能にするための一役を担 った。
後年クリス トは、多 くの公的建造物の梱包を行 ってい るが、相当早い時期に、 この種の大規模なプロジェク ト を構想 していたことが知 られている。61年、彼は 「公共 建物の梱包」への最初の [研究]をし、写真をコラージュ した り、図面や計算書を作成 した りした。「(梱包 しよう とする)その建物 は、大 きな、左右対称の土地に建 って いる。長方形の土台、正面の無い建物。建物 は完全に閉 じている。すべての側面が梱包 されている。その建物に 到達 す るには地下 か らもぐる方法が あ り、建物 か ら 15‑20メー トルの ところに入 口がある。建物の梱包 に は、幅10‑20メー トルの防水布や ビニール布、金属ケー ブルやロープを用いる(8)」と。まもな く、クリス トは、パ リ陸軍士官学校や凱旋門 を梱包す る最初の計画 を提示 した。が、いずれ も実現には至 らなかった。士官学校の 梱包は、タール防水布 に鉄製ケーブル とマニラ ・ロープ を使 っての包み込みが含 まれる。クリス トが、管理当局 への説明資料に述べたように、梱包は、「外壁補修や洗浄 のような、維持 ・管理作業の間、建物の保護に利用され ることもあるだろう。建物が取 り壊 される場合には、梱 包は足場 として有効だろう」 と。 しか しながら、 こうし た提案を受けた当局は当然のように拒絶 した(8)0
6 ヌーヴォ一 ・レア リスムとのかかわ り
クリス トのパ リ時代、パ リの美術の現場は、1960年 ピ エール ・レスタニーによって設立 されたグループ、ヌー ヴォ一 ・レア リス トによっていわば取 り仕切 られてい た。このグループの1員 としてのクリス トの位置づけに ついては、時折、特にクリス ト自身によって論議が巻 き 起 こされてきた。運動の起点 となった宣言文に署名 した 8人の創立会員は、イヴ ・クライン、マーシャル ・レツ セ、フランソワ・デユフレーヌ、レイモン・エン、ジャッ ク ・ドゥ ・ラ ・ヴイレグレ、ジャン ・ティンゲ リー、ア ルマン、ダニエル・スポエ ツリであ り、続いてこのグルー プに加わったのは、ジェラール ・デシャン、 ミモ ・ロッ テラ、ニキ ・ド・サンファール、セザール とクリス トで あったが、後の5人は、その宣言文に決 して署名はしな
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23かった(9)0
ク リス トは出品招待 を受 けてはいなかったが、63年 ミュンヘ ンや ミラノでのグループのショーには出品展 示 した。 レスタニーは、 このことをもってクリス トがメ ンバーであることを示す もの と主張 したが、クリス ト自 身は否定 した。ブル ドンは 「クリス トの出品介入は重要 でな く、一過性 の もの」 と述べ るが、い ま、ク リス ト は、̲広い意味でヌーヴォ一 ・レア リス ト13人の1人 と考 えられ、ニース (81年7‑ 9月)やパ リ近代美術館 (86 年5‑ 9月)でのグループの企画に参加 している。
クリス トが最初 に物を梱包 し、初期のオイル ・バ レル (ドラ ム缶)・プ ロ ジェク トを推 進 した の は、ヌー ヴォ一 ・レア リス トが生んだ状況下での ことだった。61 年彼は最初の個展をケルンのハロ ・ロハス ・ギャラリー で開いたが、そこで彼は初めて戸外での ドラム缶展示を 行 った。当時ケルンは、すでに今知 られるような、生 き 生 きとした美術の現場 を実現 してお り、クリス トはその 地で彼の最初のコレクターである実業家デイテル ・ロー ゼ ンクチンツや ジョン ・ケージ、ナ ム ・ジュン ・パ イ ク、マ リー・パウエルマイスターらに出会 っている。「波 止場の包み」(61)や 「積み上げられた ドラム缶」は、 こ の展覧会に並行 し、ケルンにおいて、同市のために制作 されたものだった。これ らの作品はいずれ もケルンのラ イ ン河畔で得 られ る資材 を単純 にア レンジ し直 して 造 ったものである(10)0
7 ク リス ト芸術のオ リジナ リティー と方向
梱包についてのクリス トの関心に先行するものは、ほ とん ど無い。ヘンリー ・ムアの ドローイング 「締め上げ られた物体 を見 る人たち」 (1942)やマ ン‑レイの写真
「イシ ド‑レ ・ドゥ‑カスの謎一梱包 された ミシン‑」
(20)は影響関係 を暗示 はするが、ク リス トはこれ に答 え、自分はこれ らの作品をずっと後になるまで見たこと がない、自分が梱包 を始めたのはもっと以前の ことだ、
と語る(ll)0
た とえ、クリス トと先行2作品の特徴が似ていたにし て も、 どっちみちクリス トは60年以降、[梱包王]たる伝 説的ステータスを確立 しているのである。「渓谷のカーテ ン」 (コロラ ド、ライフル、70‑72)、「走 るフェンス」
(72‑76)、「囲 まれた島」(80‑83)、「アンブレラ‑日本・
アメリカ」(84‑91)など、クリス ト後期の主要プロジェ ク トの多 くは、特 に布 を用いることに関心が示 された。
ライ ヒタ‑ク(ドイツ国会議事堂)の梱包 をさらに超
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えた現行のプロジェク ト 「河の彼方 に」において もま た、彼がアッピール したいものは、梱包ではな く、布や 動勢、光の効果 とともに、自然環境 を利用 し、新 しい形 やイメージを創造することとその、「強化 ・増大 ・発展」
であるとする。
デイヴィッド・ブル ドンは、クリス ト伝の中で、クリ ス トがケル ンの河畔 に立てた ドラム缶の大 きなアッサ ンブラージュは、あらゆる波止場で見 られる資材 とほと んど区別できない、 とした。 しか し、クリス トは現に自 ら資材 を組み立て、彼の思考 どお りに資材 を配置すべ く、巻 き上 げ機、クレーン車、 トラクターを使 って い る。 このことは、クリス トの芸術追求において、折々 ミ ニマ リスム と見 られるものの核心に触れている。
芸術家は、伝統的に、与 えられた現実のなかで何 を選 択するか、選択 した素材 をどう扱 うか、それ ら2つの自 由を主張する。クリス トは、過去の活動 を通 し、与 えら れた ものに素早 く対応 し、ほとん ど修正 ・加工 ・変更す ることなしにそれ らに従 うことを通 し、いつ もこの伝統 的なコンセプ トへの挑戦 を試みてきた。
61年8月13日、東西の壁が東ベル リンの共産主義体制 によって築かれたが、無国籍の亡命者 であるク リス ト は、 この動 きに深 ぐ憤った。同年10月、ケルンか らパ リ への帰国途中、この壁の建設に対する個人的抗議表明の 構想 を練 り始めた。それは、「ドラム缶の壁 ‑ 鉄のカー テン」プロジェク ト(61‑62)に結実 したが、具体的には 河埠 にある一方通行のヴイスコンテイ通 りを204の ドラ ム缶でふさぐという計画であ り、まもな くこれに関連 し た詳細 にわたる文書が発表 された。
このフォ トコラージュや兵端学的 (プロジェク トの輸 送 ・補給 ・通信など)予想分析 を伴 う精密文書は、数年 を経て、クリス トのプロジェク トがさらに野心的に拡大 されるにつれ、より複雑精微 に改められてい く。同時に これ らで裏付 けられるプロジェク トの目的は、 ますます 揺 るぎないもの となる。
その目的 とは、(1)プロジェク ト続行 を許認可する関 係当局への説得。(2)プロジェク トの本質を明 らかにす べ く広報宣伝すること。 (3)批評家たちの関心を、芸術 評価か ら技術的、社会的、環境的データーの検討へ とそ
らせること。しか しなが ら、「ドラム缶の壁一鉄のカーテ ン」プロジェク トでは、願い出は拒否 され、目的 (1)に おいて、失敗 した。
が、無許可のまま、クリス トたちは、「ドラム缶の壁 ‑ 鉄のカーテン」プロジェク トを (妨害な しに)進 めた。
62年6月27日、8時間をかけ、彼 らは、ヴィスコンテイ
通 り‑ 昔、ラシーヌ、 ドラクロワ、バルザ ックが住ん だ‑ を204の ドラム缶で閉鎖 した。クリス トも、ドラム 缶 を自ら運んだ。後年、 この芸術 プロジェク トの目覚 ま しい呼び物 として知 られる支援者軍団が、 この時に限っ て、現れなかったか らである。か くして4.3×3.8×1.7
メー トルのバ リケー ドが、予告 どお りに交通 を遮 断 し
た 。
クリス トは警察に呼び出され、交通妨害のか どで取調 を受 けた。当時、パ リでは、アルジェリア戦争反対のデ モが頻繁に行われ、そうしたデモに許可が下 りることは あ りえなかった。警察では、クリス トのプロジェク トが その種の抗議行動 と誤解 し厳 しく対応 した という。
クリス トは、道路、ドラム缶、通行人 を使 うことによっ て、[テンポラリー]なプロジェク トを実現 しようと少々 無理 を押 し通 しただけであった。クリス トの芸術 に対す るポス ト・モダンな行 き方にとって決定的なものの第1 は、いつ も、[テンポラ リー]ということにかかわってい る。
8 ク リス ト芸術の本質理解へのてがか り
クリス トの美学 は、特徴的である。すなわち、彼の言 葉を引 くなら、「伝統彫刻はそれ自身の空間を創造する。
我々は、彫刻に従属 しない空間を用いて、彫刻にとって 代わる (そうした空間の外に)彫刻 をつ くる。モネが し たことは、ルーアンの大聖堂にも似ている。モネはゴシッ クの聖堂の善 し悪 しを語 って はいないが、聖堂 を青、
黄、紫で見ていた(12)」となるが、 ここか らも、19世紀以 前の古い世界観 を多かれ少なかれ引 き摺 っているヨー ロッパを離れ、アメリカに移 り住んだ彼の気持 ちの深層 が読み取れる。
「1964年、私 はすでにアメ リカに行かねばならない こ とを自覚 していた。その地ではものごとが どん どん進展 していたか らである。62年 に、美術商 レオ ・カステ リ が、君の活躍の場 はアメリカだ、 と私に言 った(12‑2)」彼 はいつ もなにか を探 し求 め、なにか を見付 ける。旧時 代、旧体制 にまつわる価値観 を離れ、新たな芸術、新た
な芸術観 を希求 していたのである。
これ らに加 え、さらにい くつかの ことについて言及 し ておきたい。
第1に、クリス トは、芸術作品を物それ自体 を超 えた 社会的、政治的、道徳的、哲学的な役割 を担 うもの と見
る立場 には、 もっとも遠い。
第2に、クリス トは、何か (文学的なもの、情緒的な
もの)を意味する芸術 より、存在することに意義 を置 く 立場 に近い考 えを持つ。換言すれば、彼 は、芸術至上の 考 え方か らは、 もっとも遠い位置にあるであろう。クリ ス ト芸術 に関心 を もつバール ・テ シューヴァが、いわ ば、クリス トの立場か ら芸術至上主義について述べた一 文を次に引 こう。ナルシスムか ら来 る尊大 さが彼 らの芸 術の根底 にあ り、19世紀末か ら20世紀初頭にかけてのマ ラルメ、ニーチェ、ギュスターヴ・モロー、ステファン・
ゲオルグのように、市民生活 を見下げ、エズラ ・パ ウン ドのように、ファシズムを抑止することす らで きなかっ た、保守的聖職者のような人たちと無縁ではないか らで ある(13)」
第3に、クリス トは、いかなる物体や現象 も芸術の対 象たる価値あるもの との信念をもつ。そこには、 ヒエラ ルキーや差別 はない。 これ は、 ク リス ト芸術 を語 る上 で、 もっとも重要なことの1つである。
第4に、クリス トは市民 を疎外 しない。クリス ト自身 市民 として市民の感情 を大切 に考 えている。彼は作品に [美]を認 めようとはしないが、一般の誰 をも是認 しよ うとしているようである。
第5に、社会の制度やさまざまな装置は、本来、人の 福祉 ・福利 を支 えるための ものであるべ きはずが、個や 集団のエ ゴイズムの行使 を巧妙 に保障 している場合が 多い。規範や原則 を、一切の副次的、装飾的ファクター を除去 し、その本質の意味 を質 してい くことは、常に大 切 なことであろう。 クリス トは、ある意味で、一生 を賭 して、そうした問題の根本に迫 っていると言って過言で はなかろう。
デイヴィッド・ブル ドンは、70年発行の伝記の中で、
「隠蔽することを通 しての黙示」 という巧みな語法で、
そうした彼の芸術 に秘 め られ る逆説部分 を言い当てて いる。壮大な彼の作品は、「この時代 におけるもっとも不 気味 な光景の一つ」 (ブル ドン)を現出す ることであろ う(14)。クリス トは、[驚 き]を世界に与 え、世界 を揺 さぶ ろうとする。パ リにおける 「その控 え目な出発」か ら、
30年以上、あらゆるもの‑ブリキ缶か らオース トラリア の果て しない海岸線 まで‑を梱包 し続 け、共通分母のよ うに布 を用いる。常に 「梱包」に取組み、 [梱包]をはる かに超 えた仕事 を創造 し続 ける。国際舞台でのクリス ト の名声は、そうした経過のなかで生 まれた ものではあっ たが、声望それ自体は重要ではない。彼 自身の見識 を行 使する並外れた着実 さ ・的確 さが、作品の背後に働いて いる。すべては驚嘆に値する。
上越教育大学美術教育研究誌「美と膏」art良 educationno.41998
◆ ‑
25註
(日 筆者のDanielBurenの 日本 におけるインスタ レーシ ョンに立 会 った経験を比較 しなが ら、日本政府や関係省庁、県庁の対応 に ついて、印象を聞いた。
(2)ク リス トの年譜資料については、主 と して、次の書籍 を参照 し た。
Jacob Baa卜Teshuva."Christo&Jeanne‑Claude"
BenedictTaschen,1995 (3) Balkan Magazine′9月.1993.
(4) Jacob Baa卜Teshuva′"Christo&Jeanne‑Claude〝
BenediktTaschen,1995,p15 (5)前掲書.,p15
(6)前掲%.,p17 (7) 前掲書.,p17
(8) W rapped PublicBuilding,p21
(9) Yacob Baa卜Teshuva."Christo&Jeanne‑Claude〝
BenediktTaschen,1995,p18 (10)前掲書.,p20
(=)前掲書.,p24
(12) Balkan Magazine,9月,1993,p16 (12‑2)前掲書,9月
(13)YacobBaal‑Teshuva,"ChristoaJeanne‑Claude"Benedi‑ ktTaschen,1995,p26
(14)前掲書.,p26
謝 辞
本稿執筆 に関わ る ドイツ現代史関係の資料 について は、増 井三夫氏、
フランス関係資料 の単語の表記 に関 しては、MasureBlandine氏、英 語 テキス トの解読 に関 しては、John∫.W alsh氏 の ご指導 ・助言 を得 た。謹 んで謝意 を表 します。
Wr・appedM〟seum of Co〝temporaryArt,
ProjectforChL'cago Drawlng‑COllage,1969‑198t
Penc日,charcoal,crayonandtraclngPaper 107×83cm
NewYork.CollectionJeanne‑ClaudeChristo JacobBaalイeshuva."ChristoaJeanne‑Claude'' BenedictTaschen.1995,P38
図版(左、下)は、クリストの傾向 ・作風を示す典型例として、
紹介の意味で掲げた。
M〟se〟m of ConlempararyArt,Chic Wrapped,1969
Tarpau一inFabricandrope
YacobBaaトTeshuva,"Christo臥Jeanne‑Claude'' BenediktTaschen,1995,P39
26 → 上越教育大学美術教育研究誌 r美と育」arta educationno.41998