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第 二 章

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(1)

第二章

と よ も す 開 校 十 周 年 I 

発 展

鈴 木 校 長 の 就 任

只見校長の栄転につれて新たに校長に任命されたのは︑彦根高等商業学校教到の鈴木弼先生であった︒先生は在外研究

員として外遊中であったため帰朝着任されるまでの間は︑蒲生教授が校長事務代理を勤められた︒

蒲生教授の代理期間中において特記すべきことは︑演出助教授の新任と新学科課程の実施であった︒白山助教授は富永

助教授に代って体操を担当するために来任されたのであるが︑高等師範学校在学中は柔道︑ボート︑ラグビー等の選手と

して活躍された方であり︑同氏を迎えて本校運動部は一段と飛躍が期待されたのである︒

新学科課程は只見校長在任中︑商業教育に対する時代の要求として︑殊に海外発展という国策に順応する必要上︑先ず

海外経済事情を必修科目とし︑南米への発展のためにスペイン語を増課︑その他科目全般にわたる改正を企図し︑改正案

を文部省に申請︑認可されたため早速新学年から実施されるにいたったのであ一る︒

鈴木校長は九月九日帰朝︑同十八日着任された︒氏は姫路に生れ︑明治凶十一年来京帝国大学法科大学を卒業︑一時文

部省に奉職されたが︑呑川県立商業学校に教育者として立たれ︑大正五年には市立高岡商業学校長として当地に赴任︑在

ノ、

(2)

六 回

任一年後に長崎高等商業学校教授に転出︑同十二年彦根高等商業学校の創設と同時に教頭として迎えられ︑昭和三年在外

研究員として渡欧中本校々長に任ぜられた︒

第二代目の校長としての任務は︑常識的には守成にあるといわれている︒鈴木校長の堅実にして先見の明に富む教育方

針 こ

そ ︑

まさに時宜に即したものであり︑本校は校長にその人を得たというべきであった︒

先生の教育方針は﹁智徳を研き身体を練り︑校風を発揚せよ﹂ということであった︒この教育方針は生徒に与えられた

訓辞のうちにも明白に表現されている︒当時スポーツが全盛であり︑生徒諸君がこの風潮に惑わされて勉学軽視に流れ本

末軽重を誤ることのないようにとの念願からであった︒すなわち︑先生の念慮されたのは︑パ門全校生徒は少くとも一︑二

種の適当なスポーツ活動を行ない占身体を鍛えること︑︒同時に文芸︑講演︑語学︑音楽のうちいずれか一つを選んで精進

す る

こ と

それによって︑文武両道の練成にいそしむことであった︒

教 官 の 異 動 と 課 外 行 事

新校長を迎えた初年次即ち昭和五年において特記すべきことは︑

かわづれ

まず教官陣の異動として川連教授の帰朝による片野講

師の解嘱︑伊藤正一教授の退任による不破貞春講師の着任︑ スペイン語科の新設による中村謹二講師の着任︑年末に及ん

での細野教授の帰朝︑域宝教授の在外研究員としての渡独などである︒

つぎに課外活動としての文化的行事を眺めるならば︑海外発展という国策に順応して前年度から引き続きこの主題を中

心に集中的に講演が行われた︒すなわち昭和四年十月に南洋協会の飯泉良二一︑堀口昌雄両氏︑シンガポール商品陳列所主

事多賀正作氏を迎えての南洋講演会︑十一月には大阪毎日新聞社の布施勝治氏による満蒙及びシベリヤ事情講演会︑十二

(3)

月には秦真治少将の﹁日本海の使命と満蒙事情﹂の講演︑周年の開校記念日おける枢密顧問官子爵石井菊次郎氏の﹁国際

聯盟の精神と帝国の使命﹂及び同五年開校記念日における法学博士斉藤良衛氏の﹁大陸を目指せ﹂の講演などがそれであ

る︒これと相呼応して︑生徒聞にも﹁国際聯盟協会支部﹂を中心として小寺︑土生︑長尾︑城宝︑高田の諸教授が指導

し︑国際法制︑金融︑労働︑経済事情の研究会が数年間連続して開催された︒これらは長年にわたる経済界の不況を打開

する対策を摸索する努力でもあり︑当時の社会情勢を反映する消息でもあった︒

学 友

ヨミ

活 動

学友会も講演部がかねての宿顕であった巡回講演を昭和五年七月中旬に決定した︒部員は矢口部長︑土生︑長尾の三教

授に引率され︑高岡を振出しに金沢︑小松︑大聖寺︑福井︑武生︑岐阜︑名古屋︑松本︑長野の六県下にわたる各都市を

いたるところで多くの聴衆を集め本校の存在を大いに誇示したのである︒

つ ら

ね て

長 駆

行 脚

し ︑

一方︑音楽部も着々と陣容を整え︑昭和五年には金沢放送局に招かれて放送しその声価を謡われたし︑毎秋の音楽大会

は︑語学部の﹁外語劇﹂大会と共に高陵における文化的呼物として市民の関心をあつめていた︒大会当日ともなれば志貴

野ケ原は珍らしくも市民男女が参集して絢欄の彩りを添えたのであった︒このことは今もなお同窓にとって懐しい思い出

の一つである︒また運動部では連日の猛練習が実を結び︑殊に庭球︑卓球は伝統的に強剛の名を天下に馳せ︑毎年連続し

て県下に覇を唱えた︒北陸地方を席捲すベく遠来した同志社高商庭球部も本校コ l トにおいて雄図を挫かれ︑本校の大勝

に帰したことなど部史を飾るトーナメントであった︒剣道部も県下三高専リーグ戦に連勝︑柔道部も偉材豊本の入部によ

って一層メンバーの充実を見た︒更に競技部も再び活力を取り戻し︑昭和五年には県下三高専大会に優勝した︒しかし野

六 五

(4)

六 六

球部は全国大会京北予選に優勝しうる実力を蓄えながらも福島高商に惜敗を喫したが︑秋の四高商リーグ戦には実力を存

分に発揮して制覇を遂げ︑全国高専の覇者と関与える強横浜高商の塁に迫って惜しくも敗れた︒これらのスポーツ戦の成果

は本校の士気高拐に大いに役立つものであった︒

就 職 状

これに反して︑卒業生の就職状況の不振は本校創立以来の難問題となっていた︒卒いにも初代校長の献身的努力によっ

て 最

初 の

J 二年は何とか卒業式当月迄には満足といえない迄も或る程度の就職内定者を数えることができた︒しかし︑

打ち続く世界的不況は昭和四年の金解禁につぐ緊縮予算の編成︑ 紐育株式市場の大恐慌に発する物価の暴落︑ 金利引下

げ︑貿易不調などによって年々深刻の度を加え︑本校卒業生の就職者数も減少の一途を辿った︒就職戦線はいよいよ苛烈

をきわめ︑昭和四年から六年にかけては全国一円に︑各高専・大学とも︑その卒業生の就職数は僅かに三 01 凹 O%

程 度

という低迷ぶりであった︒殊に本校のように創立日なお浅く︑先輩の支援も期し難く社会的地盤の未だ強固でない場合に

は︑全く惨めな苦境に立たされた︒祝福さるべき卒業式に際しても︑当日迄の就職内定者は僅かに十名にも満たない年さ

え あ

っ た

いきおい生徒の志気が妻鹿しがちとなるのも免れ難い傾向であった︒生徒同では往々にして卒業論

文の研究よりも就職戦術の研究が重大関心となり︑変則的な学生心理が看取された︒ここに至って学校当局も就職先の開

こ の

よ う

な 状

況 下

拓︑卒業生の斡旋に全力を傾倒することの緊急性を痛感し︑鈴木校長は学生の卒業後の職域開拓を目ざして新機構を企図

し︑庶務課を新設︑家口教授を課長に任じて就職事務を可掌させ︑それに加えて教官一般の応援を求めて極力就職状況の

(5)

好転に奔命されたのである︒

満 洲 事 変 の 勃 発

昭和六年九月十八日︑日支聞の角逐は柳憐溝の鉄路爆破を機に全面的武力衝突にまで発展した︒満蒙の地は万宝山事

件︑中村大尉事件︑が発火点となり端なくも戦火の柑壷と化し︑戦士の血をもって彩られた︒事変に先立ちドイツ財政は苛

酷な賠償のため破産に瀕し︑六月にはオlストリヤ国立銀行へ向け世界の十大銀行が外国為替クレヂットを設定したが及

ばず︑金融恐慌の狂欄は全世界に波及し︑英本国は金本位制を離脱︑世界的不景気のうねりは我国にもおしょせ︑誠に憂

うべき世相を描いた︒さらに︑米英両国は満洲事変を契機に国際聯盟を通じて徐々にわが国に圧迫を加えはじめ︑支那の

抗日思想も一段と強化︑内にあっては十月末わが正貨準備は七億円台を割り︑年末には金輸出再禁止の止むなき状態にい

たるなど内外頗る多事多難であった︒真相の把握は一部具眼の土に限られたにしても︑何か時代的な大転換が暗々裡に開

始されつつあることが感知され︑教育体制並びに精神面の転換も平行的に推進されることが不可避と思われた︒

本校はここに省みるところがあり︑昭和七年四月生徒主事の陣容を一新し︑矢口教授は生徒主事︑柏倉教授も兼生徒主

事︑関政雄氏は生徒主事補にそれぞれ任ぜられた︒この移動に伴って土生教授は矢口教授の後を継いで庶務課長となり︑

商品課長も依田講師に代って臼比野教授がその任に就いた︒なお︑これより先昭和六年十二月に大熊教授が帰朝されるの

を待ち︑矢口教授の調査課長兼務が解かれ︑大熊教授と交代するなど︑上席教官が総動員で学校事務を分掌したのであっ

た︒また山之内講師も寮務主任を命ぜられた︒

満洲事変は満洲国の建設によって一応の売はついたが︑支那側は失地回復の要求と日貨排斥をやめず︑昭和六年十一月

六 七

(6)

六 八

に天津暴動事件︑同七年一月に上海事変の勃発を見た︒わが第九師団も出兵したが︑地元部隊のこととて猪鹿倉前配属教

官をはじめ同窓生も少からず征途についた︒作戦行動は三月上旬に一段落したものの︑事件を日支聞のみの衝突に終泊施せ

しめることに失敗し︑全世界の平和を脅威するものとされ︑国際的な一大問題に発展してしまった︒内でも︑強硬派と平

和解決派とに分れて意見が対立した︒政治的不安動揺のうちに軍部強硬派の血盟団事件︑五・一五事件︑十月事件︑二・

二六事件などのテロ行為の頻発は完全に平和解決派を沈黙させ︑遂に昭和八年三月二十七日には国際聯盟脱退という非常

手段が講ぜられ︑世界を敵としようとも対支政策を強行するとの基本国策が決定された︒かくて列国の出方を不安な緊張

をもって見守っていたが︑遂に何事も起らず︑却って支那の排日抗日の気運が表面的には薄らぐかに見えた︒これに加え

て昭和七年上半期を底に︑景気回復の兆しが見られるようになった︒同時に︑金輸出再禁止による為替安と生産費安とに

乗じて本邦製品が列国の関税障壁を突破し︑日本のダンピングと非難する戸さえ高まった︒したがって時勢の変遷に伴う

学科課程もさらに増設強化の気運となった︒

学 科 課 程 の 改 正

学科課程の改正については︑鈴木校長自身の文章が適切に物語っている︒それを左に掲げよう︒

一︑本校ハ今回学科課程ヲ改正シ新学年ヨリ之ヲ実施スルノ方針ニテ目下其手続中ナリ新学科課程ハ商業−一関聯スル学

術ノ分化発達ト時勢ノ進運トニ適応スル選択科目ノ増加ノ外語学ノ研究ヲ一一層有効ナラシムル為其時間ノ一部ヲ選択

− 一

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中 略

一︑本校開校以来調査課ニ於テ調査ニ従事セル富山売薬史料ノ編纂ハ幸ニ近ク其大部ノ完了ブ告グル予定ナルブ以テ本

(7)

年度−一於テハ恐ラクハ其刊行ヲ見ルヲ得ベシ

一︑日本海航路及貿易ノ発展ハ吉会線ノ完成雄基及羅津−一於ケル築港事業ノ竣功ト伏木港第三期拡築工事ト相伐ツテ必

ズヤ近キ将来ニ於テ大飛躍ヲ試ムベク従ツテ裏日本産業ノ全盛時代を招来スベキハ期シテ待ツベク我校ノ天下ニ於ケ

ル重要性ヲ数倍ニ増大スルノ日モ亦決シテ遠カラザルモノト信ズ︑本校ハ此時期一一備フベク先ヅ指ヲ日本沿岸各地ノ

産業調査ニ染メントス︵下略︶

︹ 以

上 ︑

同 窓

会 誌

第 七

号 ︵

昭 和

八 年

︶ 巻

以 の

U

﹂れによって︑当時の活動状況を察知することができる︒

この外ここにうたわれていないが︑鈴木校長の若手された事業に﹁校内美化﹂の問題がある︒元来志貴野ケ原は起伏に

富む丘陵性の土地であったものを︑平撚に地均したため︑表面の沃土が削り去られ︑地味が府せてしまい︑植物の生育を

そこなう結果となった︒鈴木校長は校地の土地改良計画を土生教授を中心に雨宮書記︑ 五島嘱託に一任され︑三輪高岡市

技手を顧問とし︑数カ年の継続事業として実施した︒そこで︑土法︑の交換をまって回目が一新された︒

教 官 の 研 究 活 動

この数年間における教官の学的活動および移動について一言しよう︒先ず昭和六年従来一回発行の﹁研究論集﹂が年三一

回に改められた︒それは年一回では到底諸教官の活瀧な研究の一端をも収め得ないので︑この処置がとられたのである︒

殊に諸教官の研究業績として︑大熊教授には改造社版・経済学全集の一巻としての﹁配分理論﹂及び﹁文学のための経済

学﹂︑佐原教授には﹁マーシャルによる経済学講義﹂の著があり︑さらに向井助教授にはホフマンの﹁経営学﹂︑

ド・マイヤ l の﹁倉庫業の経営経済学﹂の醗訳及び﹁配給市場論概要﹂など︑柏倉教授も文学論パンフレットの一巻とし

レ オ

ポ ル

六 九

(8)

七 0 

て﹁反動としての浪漫思想﹂の著を公にされた︒ このように諸教官の学的活動は陸続として著述の公刊に結実して行つ

た︒ただ不幸な凶報として︑昭和八年における打田講師と三保教練教官の相つぐ急逝がある︒春秋に富む両先生には︑将

来の御雄飛が期待されていたのに︑惜んでも余りある御早世であった︒打田先生については︑同窓会において遺児教育基

金の募集が行われ︑師弟愛の床しさをしのばせた︒教官陣の移動として︑小川講師およびヴェナプルス︑ ク リ ス ト ア ァ l

の両外人教師が惜しまれて退任され︑その後任として横田辰男氏が講師に︑

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l 卜の両氏が傭外悶

人教師に任用せられた︒また在校生として本校柔道部の践将だった山崎︵旧豊本︶弘君が︑卒業後に及んで莱道担吋の数

師︵のち助教授︶として母校に迎えられた︒

運 動 部

の 活 躍

つぎに昭和六年以降の学友会活動について触れることにしよう︒当時は昭和七年の北米ロスアンゼルスにおけるオリン

ピック大会をひかえ︑国をあげてまさにスポーツ全盛期であった︒本校運動部も創立以来六年を経てそれぞれ陣容が然備

され︑運動精神も高揚されたが︑当時はなお北陸に覇を制しえても全国制覇の域までには達していなかった︒学作一スポ!

ようやく高専もしくは高商全国大会の機構が出来︑あるいは全国を関東・関西の二フロックに分け︑あるいは

ツ 界

で は

東京帝大・京都帝大・東北帝大・九州帝大を中心とする四ブロックに分けて地方大会を行い︑その優勝者によって全同優

勝︑が争われるようになった︒本校はスキ l 部が関西高専大会において優勝し万丈の気焔を吐いた︒しかし︑それ以外の

J

は︑ブロック大会においても栄冠を得る迄には今一息の状態であった︒そこでまず地方大会における優勝を寸耐の日傑と

し︑いずれは全国制覇に乗り出す日のあることが待望されていた︒

(9)

さて野球部の活躍から筆をはじめる︒昭和六年六月富山において北信高専野球大会が開催され︑本校はよく四高・富山

薬専・松本高校を連破して優勝するに至った︒高田投手の鉄腕は見事に冴え︑敵の打線を完封し︑佐藤・高旧・安出等の

パ ッ タ

l ラインは連係プレ l の妙よろしく大量得点につながり︑本校野球部創設以来初めて四高を破るという戦績をあげ

ることができた︒昭和六年度は準決勝戦に進出し︑全国に強剛ぶりを唱われる桐生高工に惜敗したが︑本校の敢闘振りは

賞讃に値するものがあった︒昭和七年度も同じく準決勝戦に出場し︑相手も同じ桐生高工に再び恨をのむ結果となった︒

庭球部は県下三高専リーグ戦には五年連続して制覇を遂げたが︑京都における全国高専大会ではついに名を成すに至らな

かった︒しかし昭和七年から東北予選に出場することとなり︑同九年には名投手山田のあざやかなマウンドさばきに物を

言わせ目出度く優勝を遂げた︒競技部も往年の元気を恢復し︑久しく遠ざかっていた県下高専大会において昭和六・七・

九年と三カ年の優勝を記録したが︑北陸全体としては福井高工・四高などに一日の長を認めざるを得なかった︒水泳部は

昭和六年に懸案となっていたプ l ル新設が実現し︑プール利用の猛練習が効を奏して彦根高商との定期戦に早くも勝利を

おさめた︒卓球部も伝統の強みを維持し︑北陸高専大会では昭和六・七年の二年間にわたり団体でも個人でも優勝を遂

げ︑昭和九年に再び優勝した︒相撲部も我れ劣らじと頑張り︑昭和六年の北陸高専大会に全勝し︑個人戦においては木校

の大寺・辻井開の勝負となり︑すべて優勝の栄冠が本校に輝き︑金石海岸に高らかな校歌をひびかせたのであった︒スキ

l 部も昭和六年︑神鍋山に連続優勝し︑石黒・芝の活躍は控目に値し︑爾来︑常に本校は優勝候補に数えられた︒弓道部

も昭和七年に県下において優勝︑昭和九年には遂に全国高商関東ゾ l ンに優勝し︑その長足の進歩が賞讃を浴びた︒比較

八・九年には連続優勝するなど︑各部は轡 的新しい寵球部も般若・吉田の闘土を得て昭和七年の北陸高専大会に次勝し︑

を並べてその優勝を競う盛況を呈した︒

(10)

文 化 部 の 活

これに対応して講演部︑音楽部︑語学部などもそれぞれの分野において活躍し︑堂々たる実力を示した︒講演部は昭和

七年には県下は元より︑直江津︑高田︑長野︑土旧︑小諸︑高崎︑前橋︑宇都宮と五県下にわたっての大講演旅行を実施

して︑本校の存在を誇示した︒また︑ オーケストラ演奏のスタッフや設備に閉して︑本校音楽部は北陸随一と称された︒

語学部の外国語演劇も開校祭の呼び物として満都の人気を博し︑英・露・中・西の各国語に亘っていた︒その他︑広告研

究会は栗原︑細野︑向井諸教授の指導の下に︑市内店頭の陳列装飾を指導し︑経営診断に類する助一一首にも及んだ︒文芸部

の活動も見るべきものがあり︑同人雑誌﹁おにはす﹂というユニークな機関誌も編まれた︒大熊教授の主宰する木曜会も

純アカデミックな研究に精進し︑仏教青年会や基督教青年会も宗教函の啓蒙に努めた︒写真の会などの同好会も盛んであ

っ た

I l   創 立 十 周 年 記 念 式

十周年記念式の準備期

昭和十年の開校式にあわせ十周年記念祝典が挙行されることは︑僚校たる各高商の前例にも合致するものである︒昭和

九年六月の発行による同窓会誌をみると︑記念行事の多彩なプログラムが記載され︑十周年記念歌の募集もされている

o

(11)

その準備に先立つ学内情況について一一一長しよう︒開校以来教授として祖厚にして古武士的な人格の柴官先小は︑長らく

英語科主任としてまた語学部長として英語科の存在を荒からしめ︑生徒には身をもって語学指導に当られたが︑川和九年

度を以て本校を去られ︑千葉県市川市附近の海岸に悠々自適の生活に入られた︒また︑その後任としてお店講削が来任さ

れ た

つ︑ぎに長尾教授が在外研究の途に就かれた︒総じて学園は無風平穏に推移したといえる︒しかし同全体としては満

洲事変以来きわめてリスキ!な同際的緊張の渦中に投︑ぜられ︑前途の視界も定かでなかった︒不況対策としての海外市場

獲得︑資源確保は次第に非常時的気分を濃厚なものにした︒ドイツにおいてもヒトラーが総統に就任し︑

プフ﹂の語録に物を言わせ︑その闘争的態度は︑

﹁ マ

︐ 寸

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カ ン

﹁持たざる同﹂の権利主艇を民︑げ︑西欧に緊張を醸し山していた︒それ

わが国においても従来の国際協調的態度を捨てて︑日主独往のいわゆる焦土外交政治が採択さ

れた︒但しその割に貿易は伸張し︑そのため列国の嫉視が募り︑各同との通商交渉は行悩むことになった︒他方︑日英米 に

相 呼

応 す

る か

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聞に聞かれた海軍軍縮予備交渉においても︑ わが国の正当と信ずる要求は容れられず︑遂にワシントン市縮条約の応来通

告を余儀なくされる羽目に陥った︒まさに雨至らんとして風楼に満つる状態を思わせるものがあった︒

それにも拘わらず奇蹟的な引易の好調が︑国際政治の暗雲をよそに蚊行的ながらも持続し︑国民に久方の安哨感をもた

らした︒このような状況を背景として︑本校卒業生の就職事情は︑記録的な好結果を見た︒さきに日銀︑

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有力会社が在学中に鈴衡採用することは人心を刺戟し学生の勉学を妨げるものとし︑卒業試験以後まで針術しないとする

2 ハ社協定﹂は本年度からは自然消滅し︑各社の採用申込みが早まったことも一挿話として−心しておく価値があろう︒

この間本校においては十周年式典の準備が着々と進められていた︒本校に先立って中橋構想︵大正七年原敬内問の文

相︶によって創設された高専はいずれも十周年を迎え︑それぞれ特徴ある祝賀式を挙行したので︑鈴木校長は努めてこれ

(12)

七 四

らの式典に参列し︑都合の悪いときは佐原・矢口・土生の諸教授を参列させるなど資料の収集につとめ︑本校十周年記念

式ならびに祭典を出来るかぎり望ましいものにしようと努力された︒

富 山 売 薬 業 史 史 料 集 の 刊 行

昭和十年三月末には十周年記念事業の一つとして﹁富山売薬業史史料集﹂の大作が出版に漕ぎ付けた︒これは鈴木校長

の﹁序﹂にもあるように︑最初広く富山売薬業の各般にわたる経済︑商業︑法律を担当する各教官の共同調査として着手

された事業であるが︑計画は余りにも彪大で理想に走りすぎ︑半歳ほどにして見込外れとなり︑

緯がある︒その後は専ら史料の収集整理という方針に切りかえ︑幾多の粁余曲折を経て︑前後八年に亘る日子を費したも

のである︒殊に只見前校長︑鈴木現校長︑矢口教授らの外部的援助︑直接編纂に当たられた上原前教授︑増田四郎︑村松

祐次︑上原栄吉三商学士の骨折りならびに本事業の現職責任者である城宝教授︑援助者であった正木助教授の努力によ

って昭和九年末に及び漸く編纂が完了するに至った︒そこでこれを十周年記念事業として刊行配布する運びとなったも 一旦は挫折したという経

のである︒この史料集はなみなみならぬ関係諸教官の努力の賓に他ならない︒これについて上原専禄教授のコメ γ

ト を

に 掲

げ た

い ︒

日本では未曽有のことであると思うが︑菊版二千

頁の大冊が近く公刊せられるといふことには関係者として涙が出る程に悦しい︒此の企てが機縁になって方々の学校で ﹁此の種の編纂及出版が学校事業の一つとして遂行せられたのは︑

も同様の事が敢行せられることを希う次第だが︑実は並々ならぬ困難を伴う性質の事業故一般の風潮になることを期待

するわけにもゆくまい︒或る意味では︑不思議な現象が奇蹟的に行われたのだといふ風にも考えられる︒しかし此の不

(13)

思議が実現されるために︑実に多数の人々が永年己を空うして配意努力せられたのだと思えば︑当然のことであるとも

思 は

れ る

︵中略﹀此の史料集が学界でどう評価せられるであろうかは予想され得ないことであるし︑史料出版の理想

から云えば完全なものではないが︑本邦に於ける史料編纂及び出版の水準を一段高める丈けの成果はあった筈だ︒表題

一地方産業の史料にとどまるが︑内容には徳川中期から明治初年に及ぶ全国的な経済及び法律史料として

利用せられうるという点で広く学界を利しうる筈だが︑吏に編纂の方法及版行の形式が従来のものとは異るという点が だ

け 見

れ ば

注目されていいと思う﹂

︿ 同

窓 会

誌 第

十 号

右の注釈によっても明らかなように︑この価値ある史料集を十周年記念事業の一つとして採択されたことは意義深く︑

一 面

本 校

の 特

色 を

示 す

も の

で あ

る ︑

十 周 年 記 念 歌

かねて募集中であった十周年記念歌の当選発表と賞品授与が昭和十年二月十一日の紀元の佳節を卜して行われた︒その

当選歌詞は左の通りである︒またその作詞者は二年次の角尾秀治君であった︒

)  

高陵の園に錦鶏鳴いて

欝 勃 と !

彩雲立ちこむる長

霊峯太万の精を享け

高鳴る血潮の道りもて

七 五

(14)

七 六

敢然! 集ひし我等の心に

溢るるものは!

﹂ れ

ぞ け

若人の覇気! 覇気日

( 二 1

ヘン ポン

独立自尊の旗嗣翻と

見 ょ

楓爽進む雄姿を

高き理想の明星目指し

燃ゆる闘志の明きをもて

決然! 起ちたる状等の心に

湧きたつものは!

﹂ れ

ぞ け

選進の意気! 意気日

︵ 以

下 略

四月二十一日同窓会臨時大会を閃き十周年祝賀の宗主爪し︑記

念事業については詳細説明の上予算収入不足分に対する同窓会の援助を要請した︒また商事研究会では評議員会を聞き十

周年を期してかねての希望にもとづき研究論集の発行を年四回とし︑記念論文集をも刊行することに決し同窓生からも原

稿を募集することとなった︒ 二月十八日の職員会議において予算案が本極りとなり︑

五月には同窓会誌第十二号が発行され︑同誌には鈴木校長の﹁開校十周年に際して﹂の辞と只見前校長の﹁閃校十周年

に際して﹂の辞が掲載されて︑早くも十周年気分が横溢するかの感があった︒只見前校長の辞の一部を市内録すれば

(15)

﹁本年出向高商は十周年を迎え予期の如く其存在と其戸仰は内外に確認され卒業生就職も好転して又満州同建設と共

に日木海の時代も近づきつつあることは喜しき限りである︒しかし創設の当時学校の敷地が唯荒れ果てたる草原に過ぎ

ざりしことを思ふとき今日の車出は勿論国家川町市の援助に依るとは中しながら教官各位が和衷協同共同市に当られたる

功労は内岡高商の存する限り後世に伝えてよいと忠う︒私は満五ヶ年半在勤し長崎高商に転任せるも市岡高向の当時を

忘れることは出来ることでない︒私は一片岡を去りて五ヶ年の今日に於ても高岡高商卒業生の為めに開拓したる地盤に触

れることは私の槌えざる処であり又話会社訪問の際本年より

めて高岡高商の卒業生を採川することに決めたという様 l m

な話を聞く度に蛇しさの余り常に謝意を表して店り全く鈴木校長初め諸教官の御品川誠と学生詰討の昭一史なる歩みの然ら

しむる処であって学校の前述右衷心より祝福したい c

と 述

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このように十周年祝賀の準備が若々と進められていたが︑川和十年五月に王り︑突如として青天の

校事件が勃発した︒こうした騒動には仕掛人が伏在しがちだが︑本件は単なる誤解に起因していたので程なく解決した︒

これを機に土生庶務課長︑柏倉兼生徒主事が教授専任となり︑小寺教授が庶務課長︑小山教授︑杉田助教授が生徒主事兼

任となった︒少しおくれて U 比野教授も生徒主事兼任に補せられ︑人心の刷新が計られた︒心情席中の矢口教授の後任とし のように同開休

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記念式典と祝賀行事

ところで十周年祝典の準備は着々進められ︑予定通り十月二十日を皮切に祝賀日程に入った︒

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(16)

十周年記念式典並びに祝賀日程

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(18)

0  八 言 己

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一︑富山売薬業史史料集の出版

一︑記念会館の建設

一︑十年以上勤続職員の表彰

一︑開校記念論文集の出版

開校十周年の記念祭は十月十九日午後一時から行われ︑開校以来の職員︑卒業生︑生徒中の物故者の慰霊祭に始った︒

開校以来の物故者は八木津教授︑三棟中佐︑打田講師外教職員三名︑卒業生三十七名︑生徒二十八名︑計七十一名に及ん

だ︒また同窓会大会に馳せ参ずる者数百名︑午後三時から開催され︑記念撮影︑延対寺における懇親会を終って午後五時

半提燈行列に合流するため散会した︒

記念式典は予定されていたように二十日午前十時から行われた︒折柄の快晴に忠まれ︑参列する者文部大臣代理三遺文

部次官を初めとして四百名に上り︑さすがの講堂も立錐の余地もなく︑式は同歌斉唱に始まり︑校長式辞︑商工大臣︑来

賓︑卒業生代表︑生徒代表の各祝辞朗読︑祝電披露があって校歌合唱に終った︒引き続き表彰式に移り︑只見初代校長に

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野 双

山 氏

原 型

工芸学校山本雲濡氏の鋳造による高さ一尺二寸純白大理石台付きの胸像を贈り︑ 十年以上勤続の佐

原︑小寺︑栗原︑日比野各教授︑蒲生︑林両講師︑加須屋︑大門尚書記ならびに坪問︑羽岡︑吉政の三小使諸民には青銅

製瓶かけを表彰状と共に贈呈し︑それぞれの功を称え︑労を謝し︑十周年記念歌を高らかに斉唱して式典が終った︒

なお記念式における鈴木校長の式辞を掲載しておこう︒

(19)

本日開校十周年記念式ヲ挙行スル一一当り文部省ヨリ三透次官閣下カ事務御繁多ノ折柄特ニ御繰合ハセ御臨席下サレ又

朝野多数ノ貴賓各位カ態々御参列下サイマシタノハ本校ノ誠−一光栄ニ存スル所テアリマシテ厚ク御礼ヲ申上マス

抑々当校ハ大正十三年九月二十五日勅令第二百二十二号ヲ以テ設置セラレマシタカ事ノ弦マテ運ヒマスニハ県及市ノ

当局高岡商工会議所並前田侯爵閣下ヲ始メ当地方有志各位ノ厚キ御配慮ヲ煩ハシ殊ニ当時ノ文部次官南弘閣下ノ一方ナ

ラヌ御好意ヲ辱グ致シマシタ事ヲ回想致シマシテ今日ノ佳辰ヲ迎フルニツケ右ノ各位一一対シ悲ニ改メテ深厚ナル感謝ヲ

捧クル次第テアリマス

而シテ翌月八日口ハ見徹先生カ当校々長ニ就任セラレテ面倒ナ創立事務ニ当ラレ翌大正十四年一月二十一日文部省令第

一ニ号ブ以テ本校規定カ制定セラレマシタ次テ入学試験ヲ行ヒ四月二十五日第一回ノ入学式カ挙行セラレマシタノテ本年

月ヲ以テ当校ハ恰モ十周年一一注シタ次第テアリマス

開校以来口ハ見校長ハ本校教育ノ基礎ヲ確立スルコトニ努力セラレ生徒ノ日夜服唐スヘキ教訓トシテハ

一︑学業ニ精励シ心身ヲ鍛練シ質実剛健ノ気象ヲ振起スへシ

二︑言行ヲ戒慎シ忠村山ヲ堅実−一シ醇厚真撃ノ日間性ヲ養成スヘシ

三︑校則ヲ遵守シ加友ヲ敬愛シ和衷協同ノ風習ヲ馴致スヘシ

トペムメラレ身ヲ以テ教職員生徒ヲ率ヰラレ和気道々ノ内ニ教化薫陶ヲ行ハレマシタ而シテ昭和三年三月九日第一回卒業

生百三十一人ヲ社会一一送リ出スニ当ツテハ其就職ノ為ニ苦心惨憎セラレ当時実業界ノ景気愈悲況一一傾ムキッ︑アリシ際

北陸ノ地ニ最新シク設立セラレタ丙等商業学校トシテ就職上最不利ナ立場ニアッタニ拘ハラス各方面一一其進出口ヲ開拓

セラレタ御指力ノ程ハ誠ニ多トスベキモノカアツタノテプリマス

(20)

昭和五年三月只見先生カ長崎高等商業学校長一一御栄転一一ナリマシタニツキ不肖私カ乏ヲ以テ其後ヲ享ケマシタカ唯先

生ノ樹テラレタ前緒ヲ失墜セス之ヲ実現スル為一一柳駕鈍ヲ掲シ来ツタニ過キマセン而シテ満洲国ノ建国以来北鮮ノ開発

ト相前後シテ際内水力発電事業ノ急激ナル勃興ト豚下産業特一一工業ノ輿隆トカ目覚マシイノニ加へテ日本全般ノ景気モ

漸ク挽回ノ曙光ヲ示シ一面ニ於テハ本校卒業生ノ着実勤勉ナル勤務振カ実業界ニ好感ヲ以テ迎へラレ当校ノ聾価カ漸次

官同メラレタ結果ト相倹ツテ最近−一至ツテハ就職率ノ如キモ一一モ他校ニ遜色ヲ見ナイ程度ニ進ミマシタカ其基礎ハ之亦只

見先生ノ功組−一帰セナケレハナラナイト感謝致シテ居ル次第テアリマス然ルニ其只見先生カ長崎高商ノ三十周年記念式

ノ日取ノ都合上此意義深イ式ニ御臨席下サルコトカ出来ナイノハ誠一一遺憾至極テ同先生モ亦此事ヲ非常ニ残念ニ思召サ

レ去月七日態々当校ニ御出ニナツテ御挨拶カアツタ次第テアリマス今ヤ当校モ卒業生ヲ出スコト実ニ千百二十七名︵内

物故者三十六名︶ ニ上リ既ニ創業時代ヲ経過シテ之ヨリ将ニ飛躍発展ノ時期一一入ラントシッ︑アル際時恰モ国家非常ノ

時期−一際シ我躍進日本ノ産業界一一ハ益人材ヲ要スルノ秋私共教職員生徒一同ハ今後一層発憤勉励各其本分ニ精進シテ明

ニテモ邦家ノ進運二貝献シ一ハ以テ君国ノ思寵ニ報ヒ奉リ又以テ従来種々ナル点ニ於テ当校ノ為一一絶大ナル御好意ヲ寄

セラレタル各位ノ御芳情−一答へ奉ランコトヲ誓フ次第一アプリマス

五ニ重ネテ来賓各位一一厚ク御礼ヲ中述へ式辞ヲ終リマス

学術講演会は東京帝大教授我妻栄氏の﹁家族団体の社会的作用と民法の改正﹂と題するものと神戸商大教授丸谷喜市博

士の﹁静態概念の理論的及実践的意義﹂と題するもののこつであった︒この講演会は式典参列の方々にも異常な学問的満

足を与えて︑前後三時間にわたる会を閉じたのであるが︑講壇の人と聴衆とが完全に呼吸の合った姿を目のあたり見るこ

とができたの

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(21)

展覧会は学校概況展覧会ハ創校以来の校勢発展状況を統計図表化し︑あるいは実物の出陳によって一目瞭然︑理解を深

めるに便なもの l 主任城宝教授︶︑日本海時代展覧会ハ満洲国の成立発展と北鮮開港に伴って一大飛躍を期待される日本

海通商に大いに貢献しようとする的をもつもの︑交通機関の部︑諸港産業のの部︑日本海部|細野教授担当︑ソ聯邦の部

!横田助教授担当︑鮮満の部 i 小寺・杉田両教授担当︶︑写真絵画展覧会︵主任正木教授﹀に分かれ︑いずれも苦心がこ

らされたもの︑その他映画会︑音楽会︑ポスター展︑寮祭︑児童劇︑寮生劇と各自粋を集め︑趣向をこらし︑連日にわた

って高岡の秋を飾ったのである︒

十 周 年 記 念 論 文 集

つぎに各教官の真撃な研究がもられた開校十周年記念論文集の内容を示しておこう︒

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(22)

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船内店舗の商品と共同海損・

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株主総会の議事進行と延会・継続会::・

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越中五ケ山における家族の変遷:・:

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英国古代キリスト教詩歌の誕生とその特質について::

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英国十八世紀小説勃興期の四大小説について

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なお記念事業の一つであった記念会館の建設の設計監督を文部省建築課金沢出張所に委嘱し︑木造二階建総坪数六十八

坪余︑着工は遅れて翌十一年四月となり九月に竣工した︒同窓会の寄付金は三千八百余円︑総経質は六千百三十三円を要

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支 那 事 変 下 の 学 園

十周年祝賀の行事も目出度く終った︒校長の式辞にもあったように︑本校は一時代を劃すべき時期に到達︑今や壮年時

代に入り︑飛躍発展すべき時が来たのである︒顧れば国運の隆盛を象徴するかのように高等教育機関の大拡張が行われ︑

そのプロセスの殿を承わる第十三高商として弧々の声をあげた本校は︑大戦の景気も冷え不景気に賜る世相の中に誕生

(23)

し︑既に世相の転換を見た後であり︑吐界的不況に沈んで妻鹿した史業界に放り出さわ︑決して刻々とした大泣か︶辿った

ものではない︒昭和二年の金融恐慌︑同凶年の金輸出解禁と緊縮政徒︑物価暴落による企業倒斥さらに投村の不況などに

よる失業苦と就職難︑それらの川い材料にもかかわら︑す若々しい生活力は注しく育って行った︒業成って祉に羽山こうと

する矢先︑犯同は重大な難局に突入した︒木校はその胤吹きすさぶ非常同下の任務を遂行しなければなら仕かった︒そし

て学園の新体制がここに発足を見たのである︒

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昭和十一年から同十三年のコ一年間における学闘の店山を問中に述べておこう︒

昭和十一年には学科課程の改正をみたが︑その限目とするところは従来時間外の必修であった山党指導な選択科口と

し︑毎週二時間の指導時間を置いたことたらびに満州凶の出現に基づく担業科目を増設したことである︒

教官の移動として問和十一年には小山教授は長崎両商へ︑横山助教授も広島幼年学校へそれぞれ栄転︑ その後任として

高木党教授および屯井弥兵衛講師を迎え︑竹内作一将一郎講師は教授に昇任された︒またスチュアlト︑ ︑︑ア/−

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R ・ C −一フイ卜︑パートンの川氏と交代された︒十二年には日比野生徒主ー引の在外研究且任命に

よって大熊生徒主事は学生課長を命ぜられ︑教務課長制貯教授︑初来課長城宝教授︑商品課長依田講師という同容の安一史

を見た︒また︑水年百字を受け持たれた林義幹講師が去られ︑一日川同商業学校内禅野左馬太郎講師が新たに迎えられた︒新し

く加えられた商業美術は森川波講削の一担任するところであったが︑この年から県立工業試験場の我妻栄氏を迎え︑日比昨

教授外遊中の商業数学は金沢山工の広出光家教授にお問いすることになった︒昭和十一一一年には創校以来の部生教授が還問

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(24)

八 六

を機として晴耕雨読の余生を全うされるべく︑東京は多摩川の畔に隠栖のため︑住みなれた高岡をあとにせられた︒

教 官 の 研 買 業 績

及び﹁文芸の日本的形態

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諸 教 官 の 学 的 業 績 に つ い て は

︑ こ の 年 は 頗 る 多 収 穫 で あ っ た

︒ 大 熊 教 授 の

﹁ 経 済 本 質 論

土生教授の﹁概説民法第百七十七条﹂︑栗原教授の﹁最新由業簿記﹂︑

佐 原

教 授

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小寺教授の﹁越中五回

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研 究

﹂ ︑

日 比 野 教 授 の ﹁ 最 新 商 業 算 術 教 科 書 ﹂ ︑ 今 井 教 授 の ﹁ 外 国 貿 易 英 文 商 業 通 信 ﹂ ︑ 柏倉教授の﹁エル・オンブ﹂

﹁シェイクスピア序説﹂︑長尾教授の﹁金融要論﹂︑向井教授の﹁商業通論新議﹂

﹁ 倉

庫 概

論 ﹂

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﹁ 倉

業 法

論 ﹂

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給 理

論 ﹂

﹁ 日 本 商 品 配 給 解 説 ﹂ ︑ 高 田 教 授 の ﹁ 広 告 法 論 ﹂

﹁ 証

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独 裁

主 義

株 式

会 社

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﹁ 新

商 法

総 則

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竹浬教授の﹁高等英作文新講﹂と枚挙に涯がない程であった︒各教授の研究がいかに旺盛であり︑研究生活にいかに忠実

であったかを物語るものといえよう︒

学 友 会 各 部 の 活 躍

学友会各部もよく活躍した︒庭球部も昭和十年度の全国高専大会ゾ l ンにおける優勝︑昭和十一年度の北日本庭球選子

権大会における山田の選手権獲得︑弓道部の全国高専関東ゾ l ンにおける昭和十年︑同十三年の両年度の優勝とそれぞれ

伝統の強味を遺憾なく発揮した︒さらに寵球部は昭和十年から同十三年まで︑同年間にわたり連続優勝して北陸に覇を唱

ぇ︑京都の大会においても強剛を謡われ︑筏井︑蒲田︑浅野の各選手が名声を馳せた︒卓球部もまた木谷︑河端︑金等の

名選手を得て伝統に栄耀を加え︑ いわば無敵の慨があった︒昭和十二年度には中部日本学生卓球大会および全国高商卓球

(25)

大会に決勝を争うまでの実力を具えるにいたった︒競技部も柔道部も相撲部も互に我れ劣らじと昭和十二年度には何れも

北陸に覇を唱えたのであった︒

一方研究︑修養︑趣味の各部においても講演部の新潟・佐渡への巡回︑立日楽部が専門家を招鴨しての﹁ピアノと独唱の

タ﹂を催すなど︑この外各種の集いを数えれば師友会︑ ハイキングクラブ︑広告研究会︑国際協会学生支部︑木曜会︑松

風会︑書道会︑仏教青年会︑写真の会︑絵画の会︑吟詩会の諸活動と十指に余る盛況を況出し︑械めて充実した内容を各

方面から評価されるようになった︒

支那事変勃発と教官の応召

昭和十二年七月支那事変勃発するや︑休暇明けの九月六日︑鈴木校長は全職員生徒に対して大要つぎのような訓示がな

された︒先ず隣邦支那は帝国の和平解決方針を認めず︑徹底的に武力抗日を宜し︑交渉に誠意を一不さなかったので︑

オ コ カ 1

国は万止むを得ず干支を採り︑将来相携えて東洋永遠の平和と発展とを図ることのできるまで戦い妓かなければならない

ようになった旨︑悲壮な面持をもって語られた︒

天皇陛下にはいたく御良襟を悩まされ︑臨時国会に親臨されて︑ つぎのような勅語を賜った︒

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口口

朕五三帝国議会ノ開院式ヲ行ヒ貴族院及衆議院ノ各自ニ告ク

帝国ト中華民間出トノ提携協力ニ依リ東亜ノ安定ヲ確保シ以テ共栄ノ寅ヲ挙クルハ是レ朕カ夙ニ斡念措カサル所ナリ中華

民国深ク帝国ノ真意ヲ解セス佐一一事ヲ構へ遂−一今次ノ事変ヲ見ルニ至ル朕之ヲ憾トス今ヤ朕カ平人ハ万難ヲ排シテ其ノ

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(26)

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忠勇ヲ致シッ︑ァリ是レ一ニ中華民国ノ反省ヲ促シ速一一東亜ノ平和ヲ確立セムトスルニ外ナラス

朕ハ帝国臣民カ今日ノ時局ニ鑑ミ忠誠公一一奉シ和協心ヲ一ニシ賛嚢以テ所期ノ目的ヲ達成セムコトヲ明ム

朕ハ国務大臣一一命シテ特一一時局−一関シ緊急ナル追加設算案及法律案ヲ帝国議会一一提出セシム蜘等克ク朕カ窓ヲ休シ和衷

協賛ノ任ヲ塙サムコトヲ努メヨ

この勅語は一般臣民に対してお下しになったものであるから︑戦場に立つ者も立たぬ者も持その職分にゆ附伺して︑陛下

の御信任に応え奉らなければならない︒そして今次の事変は相当長年月にわたり︑学生坐徒も直ちに銃合把って戦場に立

つの覚悟を促されたものである︒ところで昭和十二年七月七日に至り︑中丙との問に﹁支那事変﹂という不幸な由民戦なき

戦争状態の勃発を見るに至ったが︑之に関連して文部省は七月十二日と二十三日の三回にわたって通牒な発し付従来より

も一層真面目に生徒各自の本分を守り風紀を蒸し浮華軽侠に流れ遊惰に陥る如きことな矢様注意することけん

1

徒の集会団

体行動を慎み言論並雑誌の記事等に付ては時局に鑑み特にその内容に注立合払ふこと同時局に関する認訓常深め率先同日

情軍等の事に参加し国民精神の昂揚に努むることを示達している︒

もとより大正末期以来の学生界の動向には確かに戒心すべきものがあった︒或いは軽桃浮薄に流れ掲ぐべき理想もな

く︑利那的享楽をむさぼり勤労をいとうもの︑或いは懐疑や虚無の思想的混迷に陥るものなどがそれであって︑同家とし

て憂慮すべき状態にあった︒そこで聖上陛下には診念ただならず︑昭和九年四月には五帝大総長を宮中に召されて学作の

学習︑思想などにつき御下聞があったほどである︒

支那事変が起るや一般に憂慮された学生界の低迷した気分は一掃され︑教育の日的は職域による挺身報国︑ 一切なあげ

て国家に帰一する至誠の酒養にあるとされ﹁国民精神総動員運動﹂が展開された︒相次ぐ教職員の出征は如実に生徒の士

(27)

気を鼓舞した︒本校初代の配属将校卯野少佐は加納部隊の部隊長として上海に一初戦︑ ついに呉制クリーク渡河肢に壮烈な 戦死をとげられ︑前配属将校佐々木大佐も部隊長として河北︑ 山西方面に転戦された︒また向井︑宮腰︑小

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妹︑山之内の

各教官も相ついで出征されるなど︑東亜の風雲はまさに急を告げるものがあり︑生徒の一百字にも決然たる非常時の覚悟︑か

看取されるようになった︒

学校においては質実剛健の士気高揚︑ポ一大時局への認識強化︑社会への奉仕出動︑体力の一向上練肝︑同体的訓練なとの

目的を達成するため︑昭和十一二年の夏季休暇には最初の集団勤労作業が実施されることになり︑教育方針も大きく転問し

た︒この集団勤労作業は校長以下全校の職員生徒︑か寮に起店を共にし︑行住併以修養一につとめ︑

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鈴 木 校 長 の 退 任

ところが勤労作業を終えて間もなく昭和十一一一年九月二十八日付で俄かに鈴木校長は退任された︒思えば昭和五年一一一月二

十八日に就任されて以来ここに丁度八カ年半︑鋭意校運の隆昌のため尽序された校長は︑願に依り本官を免ぜられ︑財団

法人鹿児島高等商業学校々長として本校を去られることになった︒時局豆大の折長年にわたって育成された学校在日せら

れる心情は査し無量のものがあったであろう︒

高岡高商の盛名が全国に調われるようになった背後で︑いかばかり先生は血の惨むような心労を人知れず主ねられたか

分らないと思う︒教職員も在校生も卒業生も先生の御功績− V

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(28)

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N  軍 国 主 義 と 学 園

堀 池 校 長 の 就 任

第三代堀池英一校長は昭和十三年十二月二十二日付を以て本校々巨大に任ぜられ︑翌二十三日に着任︑二年二ヶ月後の昭

和十六年一月十五日付で文部省教学局企画部長に栄転された︒︵教学局は昭和十二年に新設︑終戦で廃止された︶

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先生は明治三十年滋賀県大津市に生を享けられ︑大正十一年京都帝大法学部政治学科を卒業︑行政科試験に合格︑行政

官として千葉︑兵庫︑京都︑大阪などの諸府県を歴任︑昭和九年文部省書記官として文部省入りされて以来普通学務局学

務課長︑大臣官房文書課長︑同秘書課長を経て本校々長に着任されたときは︑数え年四十二才の壮齢であった︒

一方︑鈴木校長の退任後は︑佐原教授が校長事務代理を三カ月にわたって勤め︑その校長空位時代を経て︑元気穣測し

かも明朗な校長を迎え︑新たな躍進が始まる︒

堀池校長は前述したように学校教師の経歴はなかったが︑教育内容や研究のことについて︑極めて謙虚な態度で教官を

信頼された︒このことは先生の就任・離任の挨拶の辞のうちにも明確に披歴されている︒就任の辞を簡単に記しておこう︒

﹁私は学校卒業以来︑地方行政官吏として三府二県に勤務し︑昭和九年以来文部省に於て其の行政に携った者でありま

ずから︑行政方面の仕事でありますれば︑年の功に依りまして多少の自信と申しますか︑安心があるのでありますが︑

教育の実際に従事することは今回が始めてでありますので︑内心阻慌たるものがあるのであります︒然し私は従来より

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﹃真心は天に通ずるものである﹄との信念を持って居りますし︑殊に青年は純真でありまずから︑必ずや私の真心に共

鳴してくれるものと信じて居るのであります︒従って私はあらん限りの力を尽して同家に御奉公中し上げ度いと存じて

居りますから御鞭捷の程お願ひ申し上げます︒

私は生徒に対して就任の挨拶として日本商人と成るべく努めよと申しました︒一−一両葉は頗る奇でありますが

人多き人の中にも人ぞ無き人となれ人人となせ人

と中される通り︑商人の中にも真の日本商人は少いことと存じます︒殊に現在の如く東亜新秩序の建設に当りまして

は︑国家的の商人︑大日本帝国の商人が要望せられること切なるものがあります︒国

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家の方針に従ひ同家の一発展に資す

る商人の要虫は非常なるものがあると信じます︒私は微力ではありますが此の要虫に副ふ商人の養成に最善の努力を致

し度いと存じます o

以上の就任の辞についで︑離任の辞はつぎの如きものであった︒

﹁私が高岡高商に赴任したのは昭和十三年十二月であった︒従って在職期間は二年二ヶ月に過ぎない余りに短い期間で

あった事を心からお詑び致し度い︒

而も吐界史的転換期であったので︑尖際目まぐるしい心持がし

た︒之が為に毎日﹃何とかせねばならぬ﹄と責め立てられ︑自分としては精一杯︑国家の為︑学校の為に働いて来たつ 然し此の二年間は支那事変の最中の二年間であり︑

もりだ︒之がせめてもの心やりであり︑諸君も之を諒とし且学校と特に関係の多い教学局に転じた事であるから︑必ず

や之を諒承して下さる事と思って居る︒

私は私立の大学で講師として一週数時間の講義をした事はある︒然し白己の職分として学校に専ら勤務したのは高岡

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参照

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