前 411 年の寡頭派政変におけるアテナイ民衆の「受動性」について
堀 井 健 一
The Passiveness of the Athenian People in the Oligarchic R at 411 B.C.
Ken-ichi HORII
はじめに
トマス・アクィナスは『能力論』(1)第 9 問において神におけるペルソナについて問題とし ている。そしてこの第 5 項では神の一性や単純性と,神の内にペルソナの数を措定するこ とによる複数性の問題について考察している。
第 5 項 神の内にペルソナの数があるか。
Utrum mumerus personarum sit in divinis.
トマスはペルソナについてボエチウスの定義「理性的本性を有する個的実体」(rationalis naturae individua substantia)に基本的に従っている。ペルソナは自存するのであるから,
神のうちに複数のペルソナの存在を認めることは,神の一性や単純性と矛盾するようにも 思われる。
これは宗教的にはもちろん三一神論に関する信仰箇条の問題である。トマスは本文で,
先ず「神におけるペルソナの複数性は信仰の下にあり,人間の自然理性によっては探求す ることも充分に理解されることもできない。」(2)と述べ,自然理性による探究に限界がある ことを認めている。
しかしそれに続けて,トマスは聖なる教父たちが,信仰に反対する人々のためにこうし た問題について慎重にまた先入観なく敬虔な仕方で論じることを迫られたが,このような 探求は無駄ではないと述べている。何故ならそのことで人間の精神が一定の真理を獲得す るまでに高められ,また誤りを排除することが可能となるからである(3)。
トマスはこの項において,神の一性ないし単純性とペルソナの数が措定されることによ る複数性の間に矛盾が生じないことを,自然理性の立場から説明しようとしている。その 説明は基本的に二つの方向から行われているように思われる。
一つは第 5 項の本文におけるもので,知性認識の働き (intelligere) とその終点としての言 葉(verbum)の関係を一般的な仕方で考察し,それに基づいて神における知性認識の働き と御言葉(Verbum)の関係について明らかにする。そして御言葉が,神の本質と本性を 共有するものとして出生したもの(genitus)であり御子(Filius)であることを示す。こ のようにして,神におけるペルソナの数の複数性と,神の一性,単純性との関係について 明らかにしている。
神におけるペルソナの数についての一考察
―トマス・アクィナス『能力論』q. 9, a. 5 ―
飯 塚 知 敬
A Consideration on a Number of Persons in God
― Thomas Aquinas : q. 9, a. 5 ― Tomoyoshi IIZUKA
もう一つは幾つかの異論回答において試みられているもので,そこでは「数」(numerus)
について,数が何らかの「相違」(differentia)によって原因されていることが述べられる。従っ て神の内にペルソナの数を措定することは,神の内に何らかの相違を認めることになる。
しかしその相違は神の一性ないし単純性と整合的な仕方で説明されなければならない。ト マスは彼の存在論的・論理学的な枠組みに基づいてこれを明らかにしようとしている。
この小論ではトマスの二つの説明の方向に従って,それぞれの考察の主な内容をまとめ たい。そして二つの説明からトマスの考えを幾分でも明らかにしてみたいと思う。それゆ え第一章においては,第 5 項の本文におけるトマスの説明を順を追ってまとめる。第二章 では幾つかの主要な異論回答に即して,神における数を原因する区分や相違と,神の一性,
単純性との関係について,トマスの存在論的・論理学的な枠組みからの説明をまとめる。
最後に簡単な考察のまとめを行いたい。
第一章 トマスの本文における説明
ここでトマスは一般に知性認識の働きを分析し,それを神の知性にあてはめることで神 の御言葉(Verbum)と本質の関係を明らかにしている。以下,この本文におけるトマス の説明を順にまとめる。
1)神に知性の働きを帰すべきであること。
こうした問題の考察について,トマスは先ずアウグスティヌスの名前を挙げて,知恵
(sapientia)や善性(bonitas)など被造物において完全であるものを,全て神に帰すべき であるとする。ただしそれは被造物において見られるものとしてではなく,そのものの絶 対的な完全性なラチオに即して帰すべきである。
ところで被造物において知性認識の働き以上に高貴であり完全なものは存在しない。ま た知性により人間は神の似像として創られたと言われるのだから,神に知性の働きとその ラチオに属するすべてのものを帰すべきである。ただしそれは被造物とは別の,神に適合 する仕方においてでなければならない。
2)知性認識者(intelligens)と知性の対象(intellectum)
知性認識の働き(intelligere)のラチオには,知性認識者と知性の対象とが含まれている。
ところで自体的に知性の対象(intellectum)であるのは,知性によって認識されるところ のレス(もの)ではない(4)。例えば私達が石や動物やその他を認識する場合,それぞれの レスはある場合には知性認識者の外にあり,ある場合には認識に対して可能態にあるから である。
また,知性の自体的な対象は,それにより知性が知性認識へと形相づけられるところの レスの類似(similitudo)でもない(5)。知性はこの類似により知性認識の働きを現実態にお いて行うのであり,この意味で類似は知性認識の働きの根源(principium)である。しか し知性認識の終点(terminus)ではないからである。
3)内的言葉(verbum interius)
かくて自体的にそして第一に知性の対象と言われるものは「知性が知性認識されたレス に つ い て,知 性 自 身 に お い て 概 念 す る と こ ろ の も の」(Hoc ergo est primo et per se intellectum,quod intellectus in seipso concipit de re intellecta)であり,それは例えば定義 であり,命題である。そして知性によりそのように概念されたものは内的言葉(verbum
interius)と呼ばれる。何故なら,これは言葉によって意味表示されているものだからである。
実際,外的言葉(vox exterior)が意味表示するのは,知性の対象そのものでも,知性の 可知的形相でも,また知性認識の働きでもなく,知性の概念(conceptus intellectus)を意 味表示するのであり,知性の概念を仲介としてレスを意味表示するのである(6)。例えば私 達が「人間」とか「人間は動物である」と言うような場合である。
4)神における知性の概念
この内的言葉に関して,知性が自己自身を認識するか自己以外のものを認識するかは問 題ではない。他者を認識する場合,レスの概念を形成し,これが言葉により意味表示される。
同様に自己を認識する場合,自己自身の概念を形成し,これが言葉により表明されるので ある。
神に知性認識の働きがあり,神は自己を認識することにより他の全てを認識するのであ るから,神の内に知性の概念を措定しなければならない。そしてこれが知性の働きのラチ オのうちに絶対的に属している。しかしこの神における知性の概念について、人間は直接 に認識することはできない。私達は神の知性認識の働きについてその「何であるか」,「ど のようにあるか」を知ることができないからである。
5)神の知性の概念は御子と言われる。
神の知性の概念を,人間のそれと比較し「何でないか」「どのようにないか」によって、
神の知性の概念,御言葉(Verbum)について一定の範囲で理解することができる。
①神の知性の概念は一のみである。人間の知性の場合,例えば石を認識する知性認識の働 きと植物を認識する働きとは異なり,それぞれで知性の概念も多数化される。しかし神 は自己を認識することにより他の一切を認識するのだから知性の概念も一つのみである。
②神における知性の概念は完全であり,完全な仕方で全てのものを再現する。これは人間 の知性の不完全性との比較により明らかである。
③神の知性の概念は出生(genitus)したもの、御子(Filius)と言われる。人間の場合に は知性認識の働き(intelligere)と存在(esse)とは別である。人間知性の場合、知性の 概念としての言葉は,知性である限りの知性から発出するのであり,知性認識の働きに おいてのみ知性と合一し,本性に即して合一しているのではない。これに対して、神の 知性認識の働きはその存在であるから,知性認識者としての神から発出する言葉は,存 在者としての神から発出することになる。それゆえ,概念された言葉は概念する知性と 同一の本質と本性とを有することになる(7)。そして生物において本性を受け取るものは 出生したもの、子と言われるのだから,神の言葉は出生したもの、御子と言われる。こ れに対して人間知性における言葉は,比喩的にしか子と言われることができない。
6)神の内にペルソナの数を措定する。
人間知性の場合,言葉は知性と二つの点で異なっている。「知性から由来する」(quod est ab eo)ということと,「知性の本性と異なる本性に属する」ということである。しかし 神の知性の言葉の場合,後者の相違は消失するので,神の知性の言葉・御子と,知性とは「他 者 に よ る」(quod est ab alio)と い う 相 違 し か 残 ら な い こ と に な る。そ し て こ の 相 違
(differentia)が数を原因するのであるから,神の内には関係(relationes)による数のみし か存在しない。
ところで神における関係は付帯性ではなく,それぞれの関係が実在的に神の本質である。
かくて本質が自存するようにそれぞれの関係が自存することになる。神性(divinitas)が 神と同一であるように,父性(paternitas)は神と同一であり,従って御父(Pater)は神 と同一となる。このようにして神における関係の数は,神の本性において自存するものの 数ということになる。そして神の本性において自存するもの,とは神のペルソナであるから,
神の内に私達はペルソナの数を措定するとトマスは結論している(8)。
以上のようにトマスは第 5 項の本文において,知性の働きとその終点としての知性の概 念を考察し,知性の概念を内的言葉とする。そしてこの知性の働きと内的言葉の分析を神 における知性の概念・内的言葉を理解する手がかりとする。人間知性における内的言葉と 神の言葉を比較し,否定の途を通して神の知性の言葉,御言葉が一であること,完全であ ること,神と同一の本質,本性を持つこと,それゆえ神の知性の言葉・内的言葉は出生し たもの,御子であることを示してきた。
ところで神の内に数を措定するということは,その原因として神の内に何らかの相違や 区分を認めることであるが,御子は生まれたもの・御子として,神と本質,本性を共通に するのであり,御子の有する相違は「他者による」という関係以外にはない。しかしこの 関係は神において付帯性ではなく実在的に本質であるから,御子は自存することになる。
そして神の本性において自存するものが神のペルソナと言われるのだから,トマスは,私 達は神の内にペルソナを措定すると結論している。
第二章 異論回答におけるトマスの説明
本文でトマスが述べているように「相違が数を原因する」(differentia causat numerum)
のであるから,神の内にペルソナの数を措定する以上,数を原因する相違あるいは区分
(distinctio)について考察し,それが神の一性、単純性と矛盾しないことを示さなければな らない。以下,主な異論回答にそってこの問題についてのトマスの説明をまとめる。
1)量(quantitas)としての数と,多数性(multitudo)としての数
トマスは数を,量の種としての数と,エンスと交換可能な一(unum)と対立する意味で の多数性とに区別している。
トマスは第8異論回答で,「量の種としての数は連続体を区分することから原因される。(9)」 と述べている。そして連続的な量は感覚的な質料から存在(esse)に即してではなく,ラ チオに即して分離されるのであり,連続的な量はある意味で数学的であるとし,また,量 の第一の尺度は「一」であり,これは算術の基体であるとしている。しかしこのような量 の種としての数を非質料的な神の内に措定することはできない。
トマスは量の種としての数を非質料的なものについて排除し,非質料的存在の内には、
存在者(ens)と交換される一に対立する意味での多数性が存在するとする。そしてこの多 数性は形相的な区別により原因され,「多数性は対立する何らかの形相から原因される。そ れが絶対的なものであれ,関係的なものであれ。そしてそのような数が神の内に存在する。(10)」 と述べている。
2)神における絶対的なもの(absoluta)と関係的なもの(relationes)
トマスは,神において量の種としての数の存在を否定し,神の内に何かの形相的な対立,
相違を認め,それにより数が原因されるとする。
トマスは第5異論回答で,神において区分は絶対的なものに即して存在せず,関係によ
る区分のみが存在すると述べている。例えば善性や知恵といった神について絶対的で本質 的な属性に即して神に区分が生じるとすれば,神の内に複合を認めることになり,神の一 性や単純性と明らかに矛盾することになる。従って,トマスはこのような絶対的なものに 即して神の内に数を措定することはできないとする。
それゆえトマスは神において,関係的なものに即してのみ区分の存在を認め,複数性を 認めるのである。第4異論回答において,トマスは「関係的なものに即して区分が在る所 では,それらから複数性が構成されるところの一性は,関係的なものによってのみ相互に 区別される。(11)」と述べている。そして第 23 異論回答で述べられているように「その者か ら他の者が,しかしその者は如何なる者からも」(a quo alius et ipse a nullo)や「他の者 に由来するある者」(aliquis qui est ab alio)といった関係は,関係の種として相互に対立 関係にある。トマスはこうした関係に即してペルソナの区分が生じ,そこに数が認められ るとする。
3)ペルソナ相互の実在的区別と概念的な区分
トマスは第 14 異論回答において,異論で引用されたダマスケヌスの「神において御父,
御子,聖霊は実在的には一であり,概念的ないし認識において異なる。(12)」という言葉に ついて説明している。トマスはもしもこのダマスケヌスの言葉が,三つのペルソナの区別 が実在的ではなく,単に概念的なものに過ぎないと解釈されるとすれば,それはサベリウ スの異端となり,こうした解釈を退ける。
そしてアウグスティヌスの言葉を引用して,もしも三つのペルソナを関係的なものとし て理解すれば,それぞれ三つの互いに異なるものである。しかし三つのペルソナを絶対的 なものに即して理解すれば一なるものであると述べている。
トマスは三つのペルソナの区別が実在的なものであることを認めながら,同時にダマス ケヌスの概念的に異なるという言葉に関連して,「関係は対立する関係との対比を通して,
神の内に実在的な区別を形成するが,概念的にしか神の本質と異ならない。」と述べている。
それは関係が,全ての類の中で弱い意味でしかレスではないからと説明している(13)。 三つのペルソナは対立する関係としてある限りで,実在的な区分を形成し,それにより 神の内に数の複数性が認められる。しかし三つのペルソナを絶対的なものに即してみると,
三つのペルソナは神の本質に即して同一である。
4)ペルソナの固有性は種としてではなく基体としての位置にある。
三つのペルソナは対立する関係としてみる限り,実在的に区別される。しかしこの対立 は今述べられたように,各ペルソナにおいて実在的に異なる神性を形成するわけではない。
このことに関連して,トマスは第 18 異論回答で,父性(paternitas)と子性(filiatio) とい うペルソナの固有性により,各ペルソナが種的に異なるものとなるわけではないことを説 明している。
トマスは,ペルソナに対して種を付与する位置にあるものは神の本性であるとし,それ は御子が御父に類似するのは神の本性においてだからと述べている。つまり産む者は種的 に自分に似た者を産むのであって,個的な固有性に即して産むわけではないからである。
トマスは,ペルソナの関係による固有性はペルソナに対して,種を付与する位置にあると いうよりも,むしろ区別し構成する基体(supposita)としての位置にあるとする(14)。 以上のようにトマスは,主要な異論回答において,数を量の種としての数と,非質料的
なものにおける多数性に区分して考察している。神には可感覚的な連続体はないので量の 種としての数は認められない。非質料的なものにおける多数性としての数は対立する形相 から原因されるのであり,神において数はこのような仕方で認められるとする。そしてそ の対立する形相というのは絶対的なものに即してではあり得ない。その場合には神に複合 が認められることになるからである。そこでトマスは対立する関係によってペルソナの区 分が生じ,これが数を原因すると説明する。
このペルソナの区別は対立する関係としては実在的な区別であり,これは単に概念的な ものではない。しかし各ペルソナは絶対的なものに即して考えると,本質的に一である。
つまり関係は,関係としては実在的な区別を生じるが,しかしそのことにより異なる神性 を形成するわけではない。従って,ペルソナの固有性としての関係は,種差として加えられ ることで種的に異なる神性を形成するという位置にあるのではなく,むしろペルソナを区 分し構成する基体としての位置にあり,種を付与する位置にあるのは神の本性なのである。
考察のまとめ
トマスは本文における考察の始めに,自体的に知性認識の対象(intellectum)となるのは,
認識されるべきレスでもなく,そのレスの類似でもなく,知性認識の働きでもなく,知性 認識の働きの終点である知性の概念,内的言葉であるとしている。知性認識の働きの終点 が知性の内に産出される知性の概念,内的言葉であるということは,トマスがしばしば述 べているように「知性の働きは、働く者から外に出て行く働きではなく,働く者の内にと どまる働きである。(15)」(intelligere non est operatio exiens ab ipso operante,sed manens in ipso.)ということと深く結びついていると思われる。そしてトマスによれば,知性のこ のような働きは働く者にとどまり,働く者の現実態であり完成としてある。
知性認識の働きについてのこのような考え方に基づいて,トマスは神においても,発出 するのは知性認識の働きではなく,その結果としての内的な言葉であるとする。そして神 においては知性認識の働きはその本質でありエッセであるから,その働きから生まれた内 的言葉は、神と同一の本質とエッセを持つ御子になるのである。
異論回答において,トマスは相違ないし区分が数を原因すると述べた。神においては量 の種としての数は否定されるから,対立する形相による多数性が問題となる。しかし神の 絶対的なものに即して対立する形相は神の内に認められない。その場合は神の内に複合が 生じるであろう。しかし神において,存在の完成としての知性の働きは神の本質であり,エッ セであるから,その働きから内的言葉・御子の発出が認められる。御子は本質,存在にお いて神と同一であるが,ペルソナとして自存し他のペルソナと基体を異にする。このよう にしてペルソナの数が神の内に措定されることになる。
以上のように,トマスにおけるペルソナの数の考察において,働く者においてとどまる 働きとしての知性の働きという考え方が,重要な意味を持つことが理解されてくる。この 存在の完成としての知性の働き,存在,ペルソナ等についての考察はまた改めて行いたい。
註
1)テキストはマリエッチ版を用いた。
2) q.9,a.5,c. Dicendum quod pluralitas personarum in divinis est de his quae fidei subiacent, et naturali ratione humana nec investigari nec sufficienter intelligi potest;
3) Nec talis inquisitio est inutilis, cum per eam elevetur animus ad aliquid veritatis capiendum quod sufficiat ad excludendos errores.
4) De ratione autem eius quod est intelligere, est quod sit intelligens et intellectum. Id autem quod est per se intellectum non est res illa cuius notitia per intellectum habetur,…
5) Neque etiam intellectum per se est similitudo rei intellectae, per quam informatur intellectus ad intelligendum;
6) non enim vox exterior significat ipsum intellectum, aut ipsum intelligere, sed conceptum intellectus quo mediante significat rem:
7) Intelligere autem Dei est esse eius; unde verbum quod procedit a Deo in quantum est intelligens, procedit ab eo in quantum est existens; et propter hoc verbum conceptum habet eamdem essentiam et naturam quam intellectus concipiens.
8) et sicut divinitas est idem quod Deus, ita paternitas est idem quod Pater, et per hoc Pater idem quod Deus. Numerus ergo relationum est numerus rerum subsistentium in divina natura. Res autem subsistentes in divina natura sunt divinae personae,ut ex praecedenti articulo patet. Et propter hoc ponimus personarum numerum in divinis.
9) ad8, numerus qui est species quantitatis, causatur ex divisione continui;
10) Unde patet quod hic numerus non potest esse in rebus immaterialibus, sed est in eis multitudo, quae opponitur uni quod convertitur cum ente; quae quidem causatur ex divisione formali, quae est per quasdam formas oppositas, vel absolutas vel relativas. Et talis numerus est in divinis.
11) ad4, ubi autem est distinctio secundum relationes, oportet quod unitates ex quibus consistit pluralitas, solum relationibus ab invicem distinguantur.
12) arg.14, dicit enim Damascenus, quod in divinis Pater et Filius et Spiritus sanctus re quidem sunt unum, ratione autem et cogitatione differunt.
13) ad14, Nam relatio etsi, per comparationem ad relationem oppositam, distinctionem realem faciat in divinis, tamen ab essentia divina non differt nisi ratione; cum hoc etiam relatio inter omnia genera debiliori modo res est.
14) ad18, Non enim istae relationes se habent ad divinas personas ut speciem dantes, sed magis ut supposita distinguentes et constituentes. Illud autem quod se habet ad personas divinas ut speciem dans, est natura divina, in qua Filius est similis Patri:
15) Ⅰ,q.14,a.4,ad1