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明治期における近江商人外村宇兵衛家の経営

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明治期における近江商人外村宇兵衛家の経営

はしがき        ︵1︶  近江国神崎郡五個荘の近江商人外村宇兵衛家については、すでに家訓・店則が公刊され、安政三年︵一入五六︶∼明治四        ︵2︶ 二年目一九〇九︶の店員名簿を用いた雇用形態の分析も行なってきた。さらに、外村宇兵衛家の江戸期の経営については、       ︵3︶ 初代宇兵衛嘉久と二代目宇兵衛元成の業績を中心に次のようなことが明らかになった。  初代外村宇兵衛は、安永六年︵﹁七七七︶に近江国神崎郡金堂村の近江商人外村与左衛門浄秋の末子として生まれ、享和 元年︵﹁八○︸︶には与左衛門家から元手金一〇〇〇両︵六〇貫目︶を譲り受けて分家した。しかし、この資金はそのまま 本家に預け、本家の資金五〇〇貫目との共同出資で事業経営を行ない、利益は三分の二を与左衛門家が、三分の一を宇兵 衛家が受け取ることとした。共同事業の期間は、享和二年より五年間としたが、五年が過ぎた文化四年︵一入〇七︶にはさ らに継続する旨を申し合わせた。そして、毎年一五一五〇貫目程の利益を上げ、文化九年には譲り受けた元手金六〇貫目 が三五九貫余にまで増加した。文化九年になると、宇兵衛も独立して事業を行なうように本家の与左衛門から勧められ、 明治期における近江商人外村宇兵衛家の経営 五五

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明治期における近江商人外村宇兵衛家の経営 五六 京都や上州から呉服類を仕入れ、大坂・堺・和歌山へ登せ商売を行なうようになった。そして、嘉久は文政三年︵一八二〇︶ に亡くなるまで、毎年四〇∼一〇〇貫目程の利益をあげ、九三九貫余にまで資産を増大させた。  文政=年には、二代目宇兵衛元成が、長浜の商家から養子として迎えられた。元成も始めは関東で仕入れた商品を紀 州・大坂へ持ち登る商いを行なっていたが、嘉久のこのような商法から、桐生店を始めとした関東に店舗を構えて商売を 行なう経営への転換を試みようとした。そして、天保六年︵一八三五︶より江戸への呉服持ち下り商いを始め、最初は瀬戸 物町の伊勢屋五兵衛方を旅宿にし、その後新乗物町や本銀町へ移り、天保=一年まで旅宿で商売をしていた。しかし、旅 宿では商業上不便なため同年一二月にはついに堀留二丁目に店を構えた。天保一四年には不勘定のため桐生店を売却し、 弘化二年︵一八四五︶には橘店を開店し、江戸店を二店舗とした。嘉永二年︵︸八四九︶には伊勢町に店を設け、堀留店を 移した。このようにして設けた江戸店は、安政二年︵一八五五︶の橘店の類焼を機に伊勢町店と橘店とが合併し、新大坂町 に新たな支店を設け、翌年から営業を始めた。新大坂町店は、外村宇兵衛家の江戸での拠点として以後重要な役割を演じ ることとなった。また、新大坂町店が開店した安政三年には、外村宇兵衛家では﹁家訓﹂と﹁条目﹂が定められ、この年 は外村宇兵衛家の経営にとって画期となった。さらに、慶応二年︵一八六六︶には京都の大坂材木町に京都店を開店し、東 西の拠点が確立したのであった。  このように外村宇兵衛家の江戸期における経営については、ある程度把握されるようになったのであるが、本稿はその 続きとして特に三代目以降の外村宇兵衛家の経営について見ることにしよう。時期的には明治期が中心となるが、﹁店勘定 帳﹂の分析など江戸期からの連続性のある問題については、明治期にこだわることなく、江戸期にまで遡って検討するこ とになる。

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3 2 1 五個荘町史編集委貝会編﹃五個荘町史資料集1一近江商人外村家の家訓・店則集成一﹄︵滋賀県神崎郡五個荘町、一九八九年︶。 拙稿﹁近江商人外村宇兵衛家の雇用形態﹂︵滋賀大学経済学部附属史料館﹃研究紀要﹄第二三号、 一九八九年九月︶。 拙稿﹁近世における近江商人外村宇兵衛家の経営﹂︵滋賀大学﹃彦根論叢﹄第二六二・二六三号、一九八九年﹁二月︶。 三代目宇兵衛元明  二代目宇兵衛元成には、初代宇兵衛嘉久の長女みほとの間に子供がなく、天保一五年︵一八四四︶七月一一日にみほが三 三歳で亡くなって、後妻となった神崎郡川並村塚本久蔵の二女さととの間にも子供がなかった。そのため、元成は外村同 族の外村宗丘ハ纂から養子を貰い受ける,︺ととな・た・天保一三年︵天四三一二月の・家義しによれば・・外村宗門ハ 衛義信三十九才、妻もよ三十六才、惇久丘ハ衛十六才、二男仙次郎十一才、三男与三郎六才、娘まさ十四才、二女もん八才、 三女ちせ三才﹂とあり、当時二代目外村宗兵衛義信には、三人の男子がおり、長男も︸六歳に成長していた。そこで、﹁天        ︵蛇の目︶ 保十四年癸卯九月廿日、四男生子、右出生心置◎宇兵衛方へ養子に遣し候﹂とあるように、天保一四年九月に誕生した四 男をそのまま宇兵衛家の養子としたのであった。これには、すでに本家の与左衛門家を含め両家で話し合いがなされてい たようであり、この養子に関して次のような一札が両家から与左衛門家へ提出された。          ︹3︶     入置一札之事 一宇兵衛方今年迄相続人之一子無之二付、七左衛門殿を以て宗兵衛霜曇四男出生之儘宇兵衛相続人二貰ひ請度義申入候所、 双方納り方之儀脚付相調ひ申候、然る上者名流を始め、村方之次第宇兵衛出生之取扱二可隠里、七左衛門殿右具二被弾呉 候ゆゑ此儀双方承知二御座候、若黒総日二宇兵衛方二男子出生有之忠節者、兄之方為致分家、次男に宇兵衛名跡相続可影 回様宗兵衛申居其約定脳髄、然者分家繁昌子孫末々迄納り方と血糊、其他御卑官之御沙汰二相成候而者無益之至り出座、 明治期における近江商人外村宇兵衛家の経営 五七

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明治期における近江商人外村宇兵衛家の経営 兄元服之節貴殿方δ御申渡し可被下候、  天保十四年卯十九月三日 為其入置証書如件 五八 分家養父宇兵衛印 同  実父 ︷示丘ハ衛印 御本家与左衛門殿  そこでは、後日字兵衛家に男子が誕生した際の処遇まで取り決められており、それを一族の長である本家与左衛門家に 提出しているところが、分家しても相続においては本家の指示を受けるという当時の商家制度の一端を示しているものと して注目される。  このように同族外村宗兵衛から誕生とともに宇兵衛家に養子として迎えられた元明は、明治七年に家督を相続し、同三 九年に六四歳で亡くなる前年の同月並等に長男へ家督を譲るまで三〇年余りにわたり三代目宇兵衛として外村宇兵衛家の 経営に携わった。ただし、二代目宇兵衛元成は長命であったため、明治二三年に入三歳で亡くなるまで三代目宇兵衛を補 佐したであろうことは十分考えられる。それでは、次に三代目宇兵衛元明の人物・業績について、明治二〇年に取り調べ た記事があるのでそれを紹介しておこう。   一神崎郡金堂村 外村宇兵衛    志操行為方正誠実ニシテ常二義侠ノ風アリ、明治八、九年ノ頃村民等ノ挙りテ学事ヲ無用視セル時二際シ、率先シテ巨金    ヲ出シ校舎ヲ新築シ、完全ナル教育ヲ受ケシムル事トセリ   商業幽光年間ノ経営ニテ、呉服太物生糸等ヲ販売シ、雇人数十名ヲ召使ヒ、両京横浜二店騨ヲ設ケ、其店毎二管理人ヲ置    キ、各店相競ウテ事業二励精セシメ、身ハ監督トシテ毎年=一次巡視ス、而シテ店員ハ未タ一回ノ葛藤ヲ醸シタル事ナ    シ、縦令遊惰ナル者アリトモ陽二責メズ、謹直ナル者ヲ賞シテ常二反省スルニ努メタリ、横浜支店ハ明治十三年一月十日   国産興隆ヲ謀ル云々ノ旨ヲ以テ、神奈川県令ヲ経テ内務卿ヨリ銀盃ヲ賞賜セラレタリ

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   先代ヨリ村内窮民二施与スル例ヲ守りテ常二賑仙二怠ラズ、其他公共ニカ・ル道路橋梁官署等へ義据セル金員等ハ挙グ    ルニ邊アラズ    明治入年八月戸長拝命、全九年七月辞職、明治十五年七月戸長拝命準十七等、全十六年八月辞職   右ハ本人平素ノ敷績履歴等取調上申仕候也     明治廿年七月廿八日      滋賀県神崎郡金堂村外六ヶ村  ︵4︶        戸長  塚本久蔵印       ︵5︶  外村宇兵衛家の営業内容は、呉服・太物・生糸の販売であり、数十名の店員を雇用し、東京・京都・横浜に店舗を構え、 各店には支配人を置き、当主は毎年一∼二回監督に赴くという近江商人によく見られる制度をとっていた。営業も順調で、 戸長にも就任し、村内はもちろんのこと数多くの社会事業にも尽力した姿がうかがえる。さらに、元明の事歴については、 一部重複するところも見られるが、別の史料では次のような紹介もなされている。   天保十四年九月廿日生、外村宗兵衛義信の四男、生れて外村宇兵衛元成二君はる、幼名与一郎、安政六年三月元服し孝兵衛と   いふ、実名は元明、明治七年三月家を承け宇兵衛と称す、先世二開きし東京新大坂町、横浜弁天町、京都堺町通大阪材木町等   なる店舗を経営発展せしめたり、就中横浜支店者明治十三年一月﹁国産ノ興隆ヲ謀り専精製生糸売込方二尽力シ共進会二陳列   品ヲ出ス等一般ノ模範国産ノ拡充﹂云々との旨を以て神奈川県令を経て内務卿より銀盃を賜へり   賑価義掲等二か・る褒賞謝状等百十数通省略二従ふ   明治八年七月金堂村戸長拝命、全九年七月辞職、明治十五年全戸長拝命、全七月学務委員拝命、全十六年入日共二辞職、明治   廿年九月二十一日置旨を以て従六位自叙せらる、全年九月廿九日有海事業を賛し金壱万円献納せし二より金製黄綬褒章下賜、   全廿三年四月三日叡旨を以て名古屋場内の夜会二召さる、全年四月九日滋賀県行幸、県庁二於て拝謁仰付らる、全三十一年十   一月十八日叡旨二より大阪城の宴会二召さる、全光五年十月目一日日本赤十字社特別有功社員二列せられ、其十二月六日滋賀   支部商議員を嘱託せらる       ︵6︶   明治光八年二月家名を嗣子二譲り実名を称ふ、全三十九年五月廿日病ミて残す、寿六十四 明治期における近江商人外村宇兵衛家の経営 五九

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明治期における近江商人外村宇兵衛家の経営 六〇  すなわち、元明は天保一四年︵一入四三︶に外村宗兵衛の四男として生まれ、外村宇兵衛家の養子となり、明治七年に家 督を相続した。東京・横浜・京都の支店を発展させ、特に横浜支店の経営には力を入れ、金堂村の戸長・学務委員を務め、 社会事業にも尽力し、明治三入年には家督を譲り、翌年六四歳で死亡したとある。  ところが、明治二二年には本家外村与左衛門家においては、資産の減少や家業の危機を迎えることとなり、﹁各分家一同        ︵7︶      ︵8︶ 井出勤ノ者集議シ、従前家法制則ス﹂として、安政三年︵﹁八五六︶に制定した﹁作法記﹂﹁心得書﹂の主旨を新たに確認 し、次のような定書が外村宇兵衛等分家を中心に取りまとめられ、外村一族の結束を誓ったようである。        ︵9︶     行定之事 ︸自七歳至十歳 尋常科卒業ノ事、 一自十一歳至十四歳 高等科卒業ノ事、十五歳ヨリ商業見習他ノ勤仕 ↓相続人ハ嫡子タルベク、若病身亦自軍器量ナク及不身持ノ者ハ隠居為致次男二相続算定、万一該兄弟二其事ノ者無急転  ハ、分家ノ内ヨリ其器量ヲ見立家督候事 一相続人ハ廿五歳ニテ嫁取結婚候事、但席順ハ嫁取候迄支配副支配ノ恋盛 ﹁相続人ハ廿七歳ニテ家督相続ノ事、但勤仕者如簾、出勤ノ者殿付、他ハ亜流シ 一相続人家督雪上ハ両親隠居賄方、都テ該係リ役差配可為、尤モ家法中ノ積立金モ有之、必ズ不自由無想様、当主ハ勿論係 リノ者能々気ヲ付可申事、関空家法中不取締ニテ隠居為致候分野、其次第ニテ賄料厳寝相定メ二審 ︸基本財産ハ家ノ世襲タルニ付、仮令主人タリト錐モ必ズ自己独断ノ取買主間敷、且年度嘗胆リ其増補亦ハ変換為ザルヲ不 得場合タルモ、都テ主人出勤重役決議ヲ不遂中、狽二進退致間敷事 一本家奥向諸入費ハ一切諏係リ役ノ者ノ差配二相定メ、主人自儘等一切環海敷事 一主人家督中家法勤務トシテ、年々サヤ宛年六利子ヲ以テ積立可申事、是主人ノ文庫金也、隠居後手当ト相心得弔事、但主 人支店へ勤務料ハ諏当主ニヨリ出勤支店協議ノ上取極メ候事

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  一嫡子二男二不拘、堅人有之業平、出生ヨリ年々カヤ宛廿才早年六朱利子ヲ以テ積立候、以後本人器量二応ジ別段積立、二    男者ヨリ分家廿七歳二相定本家へ出勤ノ事   一女子出生ヨリ年々カヤ宛年六利子ヲ以テ積立可申事、其積金ヲ以テ縁付持方万端取斗、片付判子入用都テ章章リノ者ヨリ    差配可致事、但シ無謂女子分家ノ義ハ決シテ致間敷候事   右ノ条々堅ク相心得、決シテ無益ノ連単之様専ラ勤テ倹約可致、若時ノ主人心得違致シ家法不取締ノ義有之時ハ、分家出勤   ノ者ヨリ急度相論シ、不用着筆ク隠居為致ベシ、家ノ主入貢ル者ハ領家法則二身ジ自信教入信ノ意ヲ深ク思慮シ、家業二於   テハ兼々控書ノ通り自利々他ノ道理ヲ分別シ、以テ永遠ノ良策ヲ計ルベシ、会商内向不引合ニテ勘定相立兼、不都合ノ節ハ   本家都テ身分手当急度減少致スベシ、誰其節二至リ万一過分ノ人数ハ減ジ候トモ、給金等当今メノ通り決シテ減ジ間貸吉事  これは、相続人や家督相続に関する細かな取り決めを行ない、主人が家法を守らないような事態には、分家等が申し諭 し、もし聞き入れられない場合には隠居させるようにという主人に対し厳しい内容をもつものであった。さらに、明治三 四年には次のような心得書を定め、主人としての心構えを述べている。       ︵10︶     心得書 一平生ハ我好ム処ヲ慎ミ、専ラ我意二嫌ヘル所ヲ可務事 一倹約細辛ヲ守ル基ナレバ、古風ヲ忌レズ万事二障ヲ附ケ、柳ノ品タリトモ廃り物之ナキ様相心得可申候、身ノ廻り衣類等 ノ義ハ常二申渡候通リ屹度相守リ可申事 一上下ノ差別ヲ相弁へ、兼々申渡置候通リ出勤者ヲ始、子供二言ル迄、上ヲ敬ヒ下ヲ憐ミ、行儀正敷盤勲二可工事 ︸人ヲ誹り、告ケ言中言堅ク申間敷、常二蔭日向無之様相嗜ミ単三、正シカラザル心得有之バ人ノ道二不叶、末難儀ノ基ニ ナレバ急度相慎可申事 二胡末々二七ル迄、分限ヲ半弁へ家ノ道ヲ堅固二相勤メ、我身々々ノ行末善ヲ好ムト悪ヲ好ムトノ其報アルコト深ク知ル ベシ、亦一ツ家二住合シ王事ハ深キ因縁有ル事相常々教ノ通り、三儀陰々相弁へ、家内和熟ヲ本トシテ何事モ堪忍取合可 明治期における近江商人外村宇兵衛家の経営 六一

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明治期における近江商人外村宇兵衛家の経営 六二 申ハ勿論、我二器量アリトモ必ズホコリ申間敷候、是ヲ慎マザレバ不和合ノ基、禍乱下ヨリ記ルト申事、常二相心得急度 相慎可申事 一商内不入精ニシテ此上ハ致方無シ杯ト存候者ハ、役柄引下ゲ可申事 一取引向二於テ或ハ親類縁者ノ儀ヲ以テ、依枯贔屓ノ取斗決シテ矢間敷候、惣テ取引向平等心ヲ以テ、柳差別無之様急度相 心得可申事 一惣テ源平リ々十二片寄候事アルベカラズ、諸向共我身ノ手元同様二相心掛ケ、決シテ隔意ナク一味二相心得、二河子供二 至ル迄諸事油断ナク相心掛候様申諭スベク、我身ノ為忠勤怠ルベカラザル事 一重役ノ者ハ万事二心ヲ配り、差障リ無下様身心堅固二持ツベシ、在勤中自然心得違ノ者出来候ヘバ、重役ノ不行届キニモ 可相成道理、必ズ無油断人ノ性質ヲ見立、忠孝明徳ノ道理ヲ相心得、皆々順当立身致候様言々申諭スベシ、若シ家風二相 背キ心得違ノ者有之候ヘバ、決而用捨三間敷淫事、惣テ重役ノ者ハ尚々店一同ノ見習ニモ相成候ヘバ、着用手廻リ万事目 立不申様相慎ミ、古風堅ク相守り申スベシ 一世評風説何二寄ラズ人ヲ誹り人ノ豪儀タル中言ヲ申参リ候共、必ス一応ノ儀信ズベカラズ、人口恐ルベシ、何事モ家事家 業ノ外ハ若シ聞クトモ、無益ノ事ハ聞流シ可致事 一家相談ハ守ラザルニ在リ、必ズ其家ノ作法仕来リノ儀ヲ心得違無之様大切二相守り、精勤ヲ致シ、君ヲ思フハ我身ヲ思フ ナリ、能々思慮シ只家法ヲ守り、専ラ勤メテ無事長久ノ計怠ルベカラズ 一家ノ乱ハ奢ヨリ起ルト申事二丁ヘバ、重タル者ハ尚更深ク相心得、増長致サ“ル様銘々相慎ミ申スベシ 一得意先ハ勿論、取引先出入方二至ル迄、必ズ慢心ノ言バ遣ヒ急度相慎ミ申スベシ、惣テ我身ヲ誇り高ブル事増幅ニシテ不 徳ノ基ナレハ、必ズ我身ヲ忘レ岬㌫様常二相心掛ケ可申事  右明治三十四年一月廿一日㊤有慶老人御携被下し二より写取置候也       元 明 誌 これらは、いずれも外村与左衛門家の後身役を務めていた分家の外村市郎兵衛家が、同じ分家の宇兵衛と相談して本家

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外村与左衛門家を中心とする商家外村一族の団結をはかったものとして注目される。宇兵衛元明がこれを書き留めたのも、 自らを律する意味もあったのであろう。  宇兵衛元明は、前述したように明治七∼三八年の相続期間にさまざまな公務や社会事業に関係した。明治八年七月には 神崎郡第四区金堂村戸長に任命され、同九年には一旦免除されたが、同一五年には再び戸長と第一五小学区の学務委員を 申しつけられ、それも同一六年には願いにより再度免除された。元明は、当時の社会的地位から第1表のように近江の地 元を中心に寄付・救済を数多く行なった。内容は、風水害等の自然災害による窮民救済がほとんどであるが、ほかに道路 の修築や警察署・学校・役場の建築等にも資金を提供している。対象地域は、近江地方なかでも五個荘周辺地域が多かっ たのであるが、滋賀県だけでなく、京都府や岐阜県さらには東北地方にまで及んでいる。これらの中には、つきあいによ る寄付等も十分考えられるが、それにもかかわらず広く救済要請に応じることができた点は高く評価できよう。  次に、宇兵衛家の明治二〇年代における資産状況を貴族院議員多額納税者名簿の控えによって見てみよう。第2表に示       ︵12︶ したのが、明治二二年と二九年の﹁土地及商工業二付納付シ、傍引続キ納付スベキ直接国税額﹂の内訳である。土地は、 神崎郡の南五個荘村・単果見村、愛知郡の稲村、犬上郡の河瀬村・磯田村・南青柳村という本家の所在する南五個荘村を 中心とした地域に所有していた。地租総額は、明治二二年には=七一円三四銭六厘、同二九年は一二五二円二即戦九厘 であり、あまり大きな変化はない。また、商業による税額は、地租に比べればわずかなものであった。  前述したように明治三四年には、外村一族の危機的状況の中で、分家である市郎兵衛家や宇丘ハ衛家慈は、協力して同族 の結束を固める中心的役割を演じたようであるが、同年には、﹁外村嘉兵衛氏廃業丁付、信州上州武州得意ヲ引受、九月ヨ        ︵13︶ リ巡廻取引ヲ始タリ﹂とあるように、外村嘉兵衛家の廃業に伴いその商圏である信州・上州・武州の得意先を引き継ぐこ ととなった。外村嘉兵衛家は、外村宗兵衛家の分家であり、二代目外村宗兵衛義信の次男千次郎が安政三年︵一入五六︶に 明治期における近江商人外村宇兵衛家の経営 六三

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第1表 外村宇兵衛元明による寄付金等一覧 年代 寄付金額等 内  容 明治13・11 80円 中仙道愛知川板橋維持 14・12 33円 風災二罹ル貧民救助 18・9 50円 愛知川警察署建築 19・1 15円 和田村火災ノ節、罹災ノ貧民へ救助 19・4 15円 水害者救助(京都) 19・3 40円 水害二二リシ貧民へ救助(滋賀) 20・2 200円 明治18年洪水ノ際、罹災ノ救助 20・3 25円 蒲生叩上出村ヨリ石寺村二丁目ル里道改修費 20・5 50円 犬上郡多賀道改修費 20・10 5円 流行病予防費(京都) 20・10 10円 大日本農会滋賀町会建築費 20・11 25円 入日市警察署建築費 21・7 20円 上京警察署建築費(京都) 21・10 300円 滋賀県庁舎建築費 23・12 30円 愛知郡愛知川村愛知川郵便局創立費 26・6 5円 八風街道修繕篤志金 26・10 20円 犬上郡南青柳村道蕊取拡費 26・12 40円 明治24年10月震災被害者救助 26・12 10円 明治24年10月愛知川御幸橋墜落被害者救助 27・10 60円 明治24年10月震災ノ節、岐阜県下被害者救助 28・8 6円50銭 唱道法寺道路修繕費 30・1 10円 黒質改良組合員特別精励者賞与 30・4 150円 翌秋大風水ノ際、罹災者救1血(愛知郡稲村) 31・3 10円 当郡内組合貝中小作者へ奨励ノ為賞与 31・3 35円 入日市清水道路改修繕費 33・5 150円 明治27年神崎郡南五個荘村里道改修繕費 33・5 15円 明治28年8月洪水ノ節、一般窮民 33・5 20円 明治28年12月神崎郡入二村失火ノ節、大字種窮民 33・5 50円 明治29年9月暴風洪水ノ節、犬上郡青柳村窮民 33・ユ2 150円 明治29年9月滋賀県風水害ノ節、罹災窮民 33・12 500円 明治29年10月滋賀県風水害ノ節、罹災窮民 34・8 300円 明治29年中滋賀県暴風洪水ノ節、一般罹災窮民 34・8 200円 同神崎愛知町郡罹災者 34・8 150円 元神崎郡葉枝見村罹災者 36・11 40円 大字呈出今野道橋梁新調 36・12 50円 入日市警察署自転車設備 38・2 整理公債4000円 学校基本金(金堂区) 38・2 整理公債1000円 神輿修繕基本金 38・9 100円 明治35年県下凶作二困ル窮民救憧(宮城・岩手・ 福島・富山・青森) 39・7 35円 明治32年6月川並道清水道改修繕費 39・7 4円50銭 明治32年10月栗見村大字栗熱暑田火災救助 39・7 20円 明治33年3月愛知郡稲村東尋常小学校新築費 39・7 10円 明治35年5月同郡稲村役場建築費 40・9 畑2畝13歩 明治32年度犬上川堤防修築二要スル敷地 42・3 20円 愛知郡立物産陳列場備品費 (註)「外村氏家乗資料 別記第二」(外村宇兵衛家文書)より作成。  年代は、直接寄付が行なわれた年月を示すのではなく、後日寄付行為によって表彰等を  受けた年月を指す。 明治期における近江商人外村宇兵衛家の経営 六四

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分家したものである。二代目外村宗兵衛義信の四男が外村宇兵衛元明であるから、初代外村慕兵衛と三代目外村宇兵衛元        ︵14︶ 明とは兄弟となる。初代外村嘉兵衛は明治九年に亡くなり、当時は二代目嘉兵衛の世代になっていた。したがって、叔父 である宇兵衛元明に廃業後の商権を譲ったのであろう。明治三四年は、宇兵衛家においても経営上の一つの転機となった       時であったようで、詳細な店則である﹁規則書﹂﹁細則書﹂が制定されてい       ︵15︶       ることにも注意しなければならない。        元明は、六四歳で亡くなる前年である明治三八年に長男元亨に家督を譲 第2表外村宇兵衛家の直接国税納付額 税額 種類 納税地 明治22年 明治29年 地租 神崎郡南五個荘村 227円83銭8厘 289円77銭9厘 地租 神崎郡葉枝見村 310円96銭 61円38銭5厘 地租 愛知郡稲村 61円58銭3厘 365円13銭2厘 地租 犬上郡河瀬村 179円58銭7厘 156円58銭9厘 地租 犬上郡磯田村 81円71銭1厘 70円75銭6厘 地租 犬上郡南青柳村 309円66銭7厘 308円64銭8厘 所得税土地 神崎郡南五個荘村 33円8銭 68円84銭 所得税商業 神崎郡南五個荘村 70円 58円96銭 総納額 1247円42銭6厘 1379円88銭9厘 (註)前掲「外村氏家乗資料 別記第二」より作成。 ることとなった。元亨は、明治八年生まれで、当時三一歳であった。家督 を譲るに際し、元明は一族の前で次のような﹁告文﹂を披露したようであ る。   ︵包紙X16︶   ﹁告文﹂   今般家督相続届改名許可二付、一族を弦二会し祝意を表す、是偏に祖先   の余光なれは努忘れす、各自倍和協親睦正実質素を旨として任務を尽   し、永遠大切に保持併て将来の隆昌ならん事を希望す    明治参拾入年二月吉辰       元 明  この告文には、自分の寿命を察知していたかのように、宇兵衛家の行く 末を案じる元明の姿がうかがえよう。  このように、三代目宇兵衛元明は、天保一四年︵一入四三︶に外村宗兵衛 家より誕生と同時に宇兵衛家に養子として迎えられ、明治七年に家督を相 明治期における近江商人外村宇兵衛家の経営 六五

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明治期における近江商人外村宇兵衛家の経営 六六 続し、同三入年に元亨へ家督を譲り、翌年に亡くなるまで宇兵衛家の経営に携わってきた。しかし、ここで注意しなけれ ばならないのは、二代目宇兵衛元成が明治七年に元明へ家督を譲り渡したものの、同二三年に亡くなるまで八三歳の長寿 を全うしたことであり、元成の存在は宇兵衛家の経営の舵取りを行なう元明にとって心強いものであった。そして、元明 は、東京・横浜・京都の各支店の発展に努めたのであるが、特に横浜支店の経営には力を入れた。また、戸長を始め公務 にも関わり、その社会的地位からさまざまな社会事業等にも援助協力を惜しまなかったのである。        ︵ひ︶   ︵1︶外村宗兵衛家については、﹁与左衛門元分家浄下様ノ父照教様ノ御楽に長次郎蛍蛾様ノ御子栄信様と申方あり、浄秋様御子そみ様と申を為縁付、其御子        ︵千︶     二男に仙次郎と申子あり、此人言入二相成候時、従兄与左衛門方へ奉公し宗兵衛と改名、勤功ありて聴罪従兄与左衛門様と兄弟の盃有之、与左衛門     入替新屋の相続入として従兄弟夫婦即もん女の夫となり候、家名を宗兵衛と申者この時より相称へ候事﹂︵﹁外村氏家乗資料 入﹂外村宇兵衛家文書﹀     とあるように、五代目外村与左衛門照教の弟長次郎栄華が享保一九年︵一七三四︶に分家して、その子長次郎栄信の二男千次郎が、第七代外村与左     衛門浄教の二女もんと結婚し、初代外村宗兵衛義長となった︵﹁外村氏家乗資料 天﹂外村宇兵衛家文書︶。なお、﹁外村氏家乗資料﹂の性格・内容に     ついては、拙稿前掲﹁近世における近江商人外村宇兵衛家の経営﹂参照。   ︵2︶前掲﹁外村氏家乗資料人﹂   ︵3︶同右。   ︵4︶﹁外村氏家乗資料 別記第二﹂︵外村宇兵衛家文書︶。   ︵5>東京・京都・横浜店の雇用形態については、拙稿前掲﹁近江商人外村宇兵衛家の雇用形態﹂を参照。   ︵6︶前掲﹁外村氏家乗資料 人﹂。この記述は、﹁大正五年秋十月、滋賀県教育会長なる理事官内務部長堀田義次郎よりの依託を以て、留年十二月神崎郡     長神崎郡教育会長平塚分四郎の調査報告せし翁が経歴概要の案文を得たれは、菰二是を採録して聯その小伝に充つ﹂とあるように、大正十五年に神     崎郡へ提出した経歴概要の控えである。   ︵7︶前掲﹁外村氏家乗資料 別記第ニレ。   ︵8︶前掲﹃五個荘町史資料集1﹄六一五四頁。なお安政三年﹁作法卜書抄﹂については、仲村研﹁外村与左衛門家所蔵﹃安政三年 作法記書抄﹄﹂︵同志     社大学人文科学研究所編﹃社会科学﹄第四二号、一九八九年三月︶参照。   ︹9︶前掲﹁外村氏家乗資料 別記第二﹂。   ︵10︶同右。   ︵11︶九代目外村与左衛門文成の長女うのの配となった愛知郡中下村梅本藤兵衛の二男が分家して外村市郎兵衛家を構え、その養子として愛知郡高野村

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  上田源左衛門二男が二代目外村市郎兵衛有慶となった。有慶は、天保七年生まれで、明治二九年には退隠し、同四八年八月に七二歳で亡くなってい   る︵前掲﹁外村氏家乗資料 天﹂︶。外村市郎兵衛家については、﹃創業百十年史﹄︵外位株式会社、一九七三年目・﹃外市株式会社百十五年史﹄︵同、   一九七七年︶の社史が刊行されている。 ︵12︶明治二一二年の﹁互選名簿摘要﹂には、付記として﹁当時ノ互選者ハ外村氏ノ外、長浜町下郷伝平、河路重平、豊椋村小林吟右衛門、北五個荘村猪田   五兵衛、藤井善助、山中利右衛門、高宮町吉田与三郎、馬場庄蔵、北里村井狩弥左衛門、河西村杉本利三郎、田中兵治郎、守山町南喜右衛門、大津   町藪田勘兵衛、北比都佐村鈴木忠右衛門ノ諸氏ナリ﹂とあり、また明治三〇年の﹁互選名簿摘要﹂には、同じく﹁当選互選者ハ外村氏ノ外、長浜町   下郷伝平、河路重平、高宮町吉田与三郎、前川善三郎、北里村井狩弥左衛門、豊椋村小林藤右衛門、草津町平井綱男、山本善六、北五ヶ荘村藤井善   助、北岳都佐村鈴木忠右衛門、葉山村里内藤五郎、河西村田中兵治郎、杉本理三郎、大津町藪田勘祐ノ諸氏﹂とあり、近江商人の名前が見られる︵﹁前   掲﹁外村氏家乗資料 別記第二﹂︶。 ︵13︶ ﹁記録﹂︵外村宇兵衛家文書V。 ︵14︶前掲﹁外村氏家乗資料 天﹂。 ︵15︶明治三四年の﹁規則書﹂﹁細則書﹂については、前掲﹃五個荘町史資料集Il近江商人外村家の家訓・店則集成一﹄に全文掲載されている。 ︵16︶明治三八年﹁元明告文﹂︵外村字兵衛家文書︶。 二 横浜店の経営  元明は、前述したように支店経営の中で、特に横浜店の経営には熱心であった。それは、東京・京都支店がどちらも先 代宇兵衛から継続して経営がなされたのに対し、横浜店は元明自身が宇兵衛家の当主として直接関与したことと深い関係 があったからであろう。ここでは、そのような横浜店について見てみよう。  横浜店については、すでに明治一六年の雇用形態から次のようなことが明らかになっている。当時の店員数は一七名であ り、東京店が二六名であったところがらして、その三分の二程度の規模であった。そのうち一四名が近江出身者であり、東京 店や京都店に比べ三〇歳以上の入店者が多く、勤続年数もほとんどが五年未満で短く、年齢構成もかなり高くなっている。 支店廃止に伴い、=名が退身し、六名が他支店へ転勤した。退身者は、勤続年数もやや長く、年齢も高いのに対し、転 明治期における近江商人外村宇兵衛家の経営 六七

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明治期における近江商人外村宇兵衛家の経営 六八 勤者は勤続年数も短く、年齢も低い若年層が中心であったことなどがわかったのであるが、ここでは、さらに経営内容に まで立ち入って見でみよう。       ︵与左衛門家︶  横浜店の顛末については、﹁去ル明治六酉年三月ヨリ横浜弁天通壱町目、外村三章名義ヲ以、本家介合併生糸売込業相始 メ、亡八半年六月介分離夫ヨ阪嘩の一目乳機齢艶之処、都合ニヨリ︵磯鵡肥限脈碗光景殿へ相譲リ儂製﹂とあり、明治六年に 本家外村与左衛門家と共同で生糸売込のための横浜店を外村両面名義で弁天通に設けた。同夷布には本家の手を離れ、単 独で営業を行なっていたが、同一六年には都A口により小野光景氏へ売り渡した。  しかしながら、横浜店は元明が力を入れた甲斐があって社会的にも評価されたようであり、明治=二年には神奈川県令 より生糸売込に尽力した功績によって次のような賞状をもらっている。   其方儀、平素国産ノ興隆ヲ謀り、専ラ精製生糸売込方二尽力シ、該業ノ進歩ヲ助クル不紗、且今回共進会場へ額面其外陳列   スル等、↓般ノ奨励模範ノミナラズ、自然国産拡充ノ 分トモ相成奇特ノ至り撫付、恩讐賞銀盃一個下賜候旨、内務耶ヨリ        達二付、其旨可相心得事 額       ︵2︶ 第3表 明治14年横浜店給料 年齢 金額 役料 20歳 20円 21 25 一 22 25 一 23 30 20円 24 30 20 25 40 40 26 50 40 27 65 60 28 65 60 29 80 80 30 100 80 31∼34 120 100 35∼ 150 120 註)明治14年7月「横浜店給料  定」(外村宇兵衛家文書)よ  り作成。     明治十三年一月十日       神奈川県令 野村靖  したがって、横浜店は東京店とは異なり、生糸売込という業務に 特化した支店のようであり、明治一六年に譲り渡したのはもはやそ のような機能が薄ちいだことによるものであるかも知れない。この ような経過を辿った横浜店であるが、明治↓四年には第3表のよう な給料を定めている。中途採用者については、﹁中年勤仕人ハ其時約

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  ︵3︶ 定スベシしとあり、経歴や年齢などによって決められたようである。二〇歳から給料を定めているところがらすると、そ れまではいわゆる御仕着が行なわれ、給料は支払われていなかったようである。宇兵衛家の給料については、ほかに明治        ︵4︶ 三四年と四〇年玉が明らかになる。明治三四年の﹁俸給定﹂によれば、二〇二四〇円・二五歳七〇円、三一歳以上二〇〇 円とほぼ倍額になっており、四〇年には二〇歳七五円・二五歳 二〇円・三︸歳以上二七五円に増額された。  横浜店は、外村不平の名義で運営されていたのであるが、外村両君は明治二一年に宇兵衛家より独立したようで、その 際横浜店に関し迷惑がかかちないように次のような証書を宇丘ハ王家へ差し入れている。     謹 一横浜弁天通一丁目二開店已来明治十六年中之営業者、本家之都合二寄拙者名儀ナリシト錐モ、其実一切本家之資産ナル事 確実也、故二該店二関スル従来之貸金ハ本家之所属ナレハ、貸金受取之件貸金請求之件、揮テ本家二三テ御所弁可有之、 万一拙者名義之委任状等要スル儀有之時明、応命自記調整可奉捧呈候、為合証明如件  明治廿一年+月四日      外村両平㊥    外村宇兵衛殿       ︵6>     差入証 一今般拙者分離独立之儀御許尊君願候二野而ハ、拙者従来勤務中取扱候事件二関シ、後事処弁及証明等ヲ要スル儀有之候得 ハ、一切御指揮二従ヒ、拙者罷出担任処弁可仕候、為後日誓書如件  明治廿一年十月四日      外村両平㊥    外村宇兵衛殿 明治期における近江商人外村宇兵衛家の経営 六九

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明治期における近江商人外村宇兵衛家の経営 七〇       ︵7︶        証   ﹁今般分離相願独立相成候早飯而ハ、掛銭借貸毫モ無事、若シ如何様之証書類纂出スルモ無効之事、憶念証書如件     明治廿一年十一月六日       外村両平㊥       外村宇兵衛殿  すなわち、横浜店は明治一六年に小野光景氏へ譲り渡すまで外村両平名義であった。それは、支店経営が破綻した場合 にも宇兵衛家に迷惑がかからないようにするためであったが、支店宛のあらゆる書類が外村愈愈名義となっていたので、 宇兵衛家から独立するにあたっては、自分は単なる名義人であり、実態は宇兵衛家の財産であったこと、支店の債権は甚 平名義でも宇兵衛家にあること、もしそのようなことを証明する必要がある場合には自分がいつでも出頭することなどを 外村両立が独立するにあたって誓ったのである。そして、次のような独立の資本金三万円と田畑・宅地一二反一四歩およ び建物・仏壇・諸道具が宇兵衛家より与えられた。     ︵8︶      証 一金参万円也 右者拙老今般左勝手分離独立之儀、堀越角次郎氏之御取扱ヲ以情願仕候所、特別寛大之思召ニョリ、拙者資本金トシテ御賜 与拙悪下品二面仕候、就而ハ将来吾々勉励シ、此金之増殖維持ヲ謀り永ク奉酬高思度霧三自誓仕候、又万一不運ニシテ減損 スルコトアルモ、後来本家二対シ決テ御助鐙骨相願離間敷候、侃テ拝受感謝、且後日証拠単為自記調印仕候事如件   明治廿一年第十月四日       外村両平㊥     外村御尊老父様     外村宇兵衛様

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      ︵9︶        証   一今般御厚志ヲ以テ御分与被成下候下賜之品目左二    一田畑宅地反別壱町弐反拾四歩  合計廿筆    一瓦葺二階建本家壱棟土蔵弐ヶ所井二付属之建物周囲之屏及樹石    一仏壇井二諸道具壱式   右正二譲受拝戴致候、然ル上ハ将来子孫二進工永久保掌記致可仕候、為後日御三礼証蝉茸如件     明治廿一年十一月六日      外村両平㊥       外村宇兵衛様  以上は、三代目宇兵衛元明によって経営された横浜店について見てきたのであるが、ここで少し横道にそれるが、明治 四一年に定めちれた各支店の店員に対する興味深い取扱書について紹介しておこう。          ︵10︶     0通勤者取扱 一毎月弐回休暇ヲ与フ 一一統起ヨリ後三十分迄二出勤スベシ ﹁正午○時迄二帰宅セシ者ハ欠勤トス 一正午○時後帰宅セシ者ハ半勤トス ∼退出ハ午後九時トス 一欠勤者ハ出勤前其旨届出ズベシ     ○在勤者取扱 一定期帰国回数ハ便宜トス 明治期における近江商人外村宇兵衛家の経営 七一

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明治期における近江商人外村宇兵衛家の経営  但シ旅費ハ三回分ヨリ支給セザル事 一日曜日ニハ外出ヲ許ス  但シ事務二差支ヘザルヨウ注意スベシ     ○追加覚書 一束店定期帰国二等旅費支給者ハ九円、三等ハ六円トス  但シ京店へ出張ノ義務アル者トス ﹁福井店全上、弐等者ハ四円五拾銭、三等ハ弐円七拾銭トス  但シ京店へ出張ノ義務アル者トス 一西店全上、弐等者ハ壱円入拾銭、三等ハ壱円四十銭トス  以上  明治四拾壱年致改正 ︵追筆︶ ﹁明治四十二年一月︸日ヨリ店所互三宅持通勤者二対シ、壱ヶ月七円宛家賃ノ補給ヲスル事二相成、 宅ヨリ指命有之申候   以上  明治四十二年致改正﹂ 七二 本年一月六日置御本  これは、当時存在していた宇兵衛家の支店である東京・京都・福井店の店員に対し、休暇・勤務時間・定期帰国・旅費 等を定めたものである。ここでは、通勤者と在勤者とに大きく分けており、それは通勤者の比重が高くなったことによる ものであろう。通勤者は、月二回の休暇が与えられ、勤務は在勤者の起床より三〇分以内に出勤すること、退出は午後九 時とされた。在勤者は、日曜日には外出が許されたが、店は開店していたようであり、事務に支障のないようにとの但書 がある。定期帰国の三回分までは旅費を支給するが、回数は便宜とあり、近江商人に特有の在所登り制度が崩れ始めてい

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る様子がうかがえる。また、明治四二年には、通勤者に対し月七円の家賃補給を行なうようになっており、ますます通勤 者の待遇改善に努力している。明治末年になるとしだいに近江商人の雇用形態から近代的な雇用形態への転換が見られる       ︵11︶ ようになっていったのであり、この店員に対する取扱書は、まさにそのような変化の一端を示しているものといえよう。 ︵1︶前掲﹁記録﹂。 ︵2︶前掲﹁外村氏家乗資料 別記第二﹂。 ︵3︶明治一四年七月﹁横浜店給料定﹂︵外村宇兵衛家文書︶。同年一月の﹁改定年給定﹂︵外村宇兵衛家文書︶も存在するが、それは役料と三五歳よりの  給料が区別されていないだけで、ほぼ同じ内容である。 ︵4︶明治三四年﹁細則書﹂︵前掲﹃五個荘町史資料集1﹄︶二〇二頁。 ︵5︶明治二一年一〇月﹁横浜店に付差入証﹂︵外村宇兵衛家文書︶。 ︵6︶明治↓=年一〇月﹁外村両平分離独立に付差入誓書﹂︵同右︶。 ︵7︶明治一=年一 月﹁外村両平分離独立に付証書﹂︵同.右︶。 ︵8︶明治二一年一〇月﹁外村両平分離独立に付資本金賜与証﹂︵同右︶。 ︵9︶明治二一年︼一月﹁外村両平分与下賜品受取証﹂︵同右︶。 ︵10︶明治四]年﹁通勤者在勤者取扱規定﹂︵同右V。 ︵11︶近江商人の雇用形態の特質については、拙稿﹁近江商人の雇用形態﹂︵安岡重明編﹃近江商人史の再検討﹄同文舘、一九九一年刊行予定︶参照。 三 店勘定帳の分析  ここでは、明治期に限ることなく、天保一五年︵一八四四︶∼明治一六年︵一こ入二︶の店勘定帳を分析することによっ て、外村宇兵衛家の江戸期から明治期にいたる経営について見ることにしよう。ただし、例えば天保一五年の店勘定帳の 記載内容は、前年の天保一四年分のものであり、実際は天保一四年一明治﹁五年の経営内容が明らかになる。 明治期における近江商人外村宇兵衛家の経営 七三

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明治期における近江商人外村宇兵衛家の経営 七四  天保一四年は、共同経営の桐生質店を売却し、江戸堀留店を八郎兵衛から譲り受けた年であり、堀留店は天保=一年半 設けられた。したがって、二代目宇兵衛元成による江戸における店舗経営政策が本格化する年に、このような勘定帳が作 成されはじめたようであり、それが横浜店が廃止される明治一五年まで継続している。ただし、ここで検討するのは現存 する史料のみであって、当然このような店勘定帳は明治一六年以降も作成されたであろうし、天保一四年をもう少し遡る 可能性もある。また、店勘定帳としてここでは一括したが、表題には﹁店おろし附丁丁﹂﹁申年分調書﹂﹁附立帳﹂﹁勘定帳﹂ ﹁店卸勘定帳﹂﹁勘定附立帳﹂などとある。しかし、安政四年︵一八五七︶分以後はすべて﹁勘定附立帳﹂の表題で統一さ れており、帳簿の表記上からも安政三年の江戸新大坂店の開店が宇兵衛家の経営において一つの画期となっていたことが 確認できる。  店勘定帳の記載方法について見ると、そこでは複式簿記の原理である損益勘定と資産勘定が行なわれている。基本的に は、まず﹁潮﹂として、収益から費用を差し引いて損益をだす損益計算が行なわれ、次に﹁附立﹂として資産から負債を 差し引く資産計算をしている。収益としては、各支店の利足・利益・貸付金利足・売買益・紅花利潤:永続講利足等が、 費用としては、奔預り金利足・利払・一ヶ年諸雑用〆高・別家手当金・道具代・屋敷代・田畑買得等があげられており、 資産としては、貸付金・預け金・布代渡・糸代・正金・有物等が、負債としては、本家預り・預り金・積金・賞賜金・別 宅手当金・給金当・臨時手当・普請手当出師があげられている。したがって、前年の期末正味財産である差引額から当期 期末正味財産である差引額を差し引けば、当期純利益額と一致するようになっている。  まず、天保一四年から明治一五年にいたる損益勘定を第4表によって見てみよう。利益は、文久三年置一八六三︶までは 年間ほぼ三〇〇〇両以下であったが、それ以降は約五〇〇〇両を、明治期に入ると一万円を越え、明治一四年には六万一 〇二一円余となる。費用は、天保一四年の六二三七両余を除けば、明治六年までは四〇〇〇両以下であったが、それ以降

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はほぼ一万円を越え、明治=二年には二万九三五三円座に及ぶ。天保一四年の費用が高いのは、﹁江戸方引落し﹂の三=二        ︵1︶ 七両三分二朱余が含まれていることによるものであった。純利益は、天保︼四年と文久三年の損失を除いて、いずれの年 においても見られる。天保一四年の損失は、江戸店の創設に伴う費用であり、文久三年の損失は心入両三分余とわずかで あるが、これは﹁本家預ヶ井江裏店奥帳貸無利足二致兼候故、元金之釣合二者利益無量、伊勢三方二唐金壱万六百両損失点        ︵利︶      ︵2︶ 相成候二品店主冠り益、猶此後の分奥帳場之利益金を以右損失埋合可申事、依之本宅勘定難立論惜別御座候﹂とあり、利 益が例年に比べ一一六九両三分三尊・二貫四四匁七分五厘と少なかったことによる。純利益は、文久三年以前では年聞ほ ぼ五〇〇∼一〇〇〇両であったが、それ以降はほぼ三〇〇〇両以上に増加し、明治四年には一万一六三〇両余、同=二年 には二万二三二八三余、同一四年には三万三六二六円余にまで達した。文化一〇年︵一八一三︶から文政三年︵一八二〇︶        ︵3︶ までの宇兵衛家の年間利益額は、四四一一一七貫目であったことからすると、順調な利益額であった。利益として、嘉永       ︵4︶ 元年には﹁紅花方利足﹂二貫入︸五匁九分、﹁紅花利潤﹂六三両三分∴匁入落七厘が、明治八年には﹁奥州至聖応丸利足﹂     ︵5V       呉服・太物等の繊維製品だけでなく、場合によってはさまざまな商品を取り扱っていたことがわかる。費用 五円があり、 項目としては、明治期以降田畑の購入費が目立ってくる。明治入明には﹁茶畑入用井地面代共﹂一七二円九九銭五厘、同九 年には﹁田畑代井茶畑入用共﹂四五七円五七銭四厘、同一〇年には﹁田畑買得﹂八〇二円六三銭、同一一年には﹁田畑買 得﹂四八四八円三四銭四厘、同一二年には﹁田畑買得﹂三〇〇七円、同=二年には﹁地所買得﹂二二五二円二〇銭二厘、        ︵6︶ 同一四年には﹁地所買得﹂一二〇三円二〇銭、同一五年には﹁地所買得﹂入〇九円入歯八厘とあり、明治一〇年代になっ て田畑の購入を積極的に行なっている様子がうかがえる。  次に、同じく天保一四年一明治一五年の資産勘定を示したのが第5表である。資産は、嘉永元年︵一八四八︶までは三万 両以下であったが、それ以降慶応三年︵︼八六七︶までは三∼六万両となり、明治期に入ると一〇∼二〇万円台へと急速に 明治期における近江商人外村宇兵衛家の経営 七五

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嵩ぱおお目さ㊤QQ HらQ曽①切旧一㊤臨⑰ゆ㊤画 =器念E刈Q。臨αゆ 置O臼O旧。◎恥灘圃ゆ㎝画 嵩OOω①E㊤聾◎。ゆ 嵩ω一曽ヨδ聾鼻ゆ 巳きω幽旧幽り臨Q◎ゆ Nbっ直8軽E繕QQ臨HΦ 卜。ゥ一心◎。刈ヨト⇒顛臨一ゆ ωO刈Ob∂お¶刈臨H串ω画 心刈①q①羽悼切臨 心bこ㊤富刀﹃N臨  QO陶 Oq朝ゆα羽ωN臨らゆω画 ①08トの泪らH臨Oゆ¶画 α詮O刈E=臨①ゆω画 α巽8羽㊤O臨らゆ刈画 2一トの噛羽軌卜Ω臨刈ゆO囲 逡OOω旧HO臨  ①画 ⑩﹃αoooo旧切9◎臨窃ゆ 属OQ9①O﹃旧自臨O串¶囲 一〇αO直Oヨ﹃刈臨G9ゆ圃晦 一一お①Q。旧謹臨らゆGQ團 一ω胡O刈旧繊臨Hゆ刈囲 ︸謡N嵩E鵠臨OゆQ。繭 一Q。O①9泊Obの臨ωゆ 臨 ︵群︶黙幽熱π画σ。        ︵京呉服︶     ︵9︶       ︵8︶ 間に大幅な資産増加が見られなかったということになる。また、資産項目には、﹁三管渡﹂﹁右染入染代払分〆高﹂などと あり、単に呉服・太物等の販売だけでなく、その加工をも指揮していた様子がわかる。  このように、天保一四年∼明治一五年の﹁店勘定帳﹂の分析より、この帳簿が複式簿記の基本原理である損益勘定︵損益 計算書︶と資産勘定︵賃借対照表︶を備えたものであること。天保一四年の資産額は、初代宇兵衛嘉久の亡くなった文政三 年の資産額から大きく増加していないこと。純利益は、文久三年以前では年間ほぼ五〇〇∼一〇〇〇両であったが、それ 以降はほぼ三〇〇〇両以上に増加し、明治四年間は一万一六三〇両系、同一四年には三万三六二六円余にまで達したこと。 それに伴い差引資産額も安政二年まで二万両弱であったが、それ以降着実に増加し、元治元年には四万両、明治元年には 五万両、同六年には九万両、同一〇年には一〇万円を越え、同一五年には一八万九六六一円余となったこと。外村宇兵衛 家の経営は呉服・太物等の販売だけでなく、その加工も指揮しており、明治一〇年代には田畑の購入を積極的に行なうよ うになったことなどが明らかになった。 明治期における近江商人外村宇兵衛家の経営 七九

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明治期における近江商人外村宇兵衛家の経営 入○ ︵1︶天保一五年正月﹁癸卯店おろし﹂︵外村宇兵衛家文書︶。 ︵2︶文久四年正月﹁癸亥店卸勘定帳﹂︵同右︶。 ︵3︶拙稿前掲﹁近世における近江商人外村宇兵衛家の経営﹂一八二頁。 ︵4︶嘉永二年正月﹁申年分調書﹂︵外村宇兵衛家文書︶。 ︵5︶明治九年二月﹁乙亥勘定附立帳﹂︵同右﹀。 ︵6︶前掲明治九年二月﹁乙亥勘定沼目帳﹂。明治一〇年二月置丙子勘定附立帳﹂︵外村宇兵衛家文書︶。同=年二月﹁丁丑勘定附立言﹂︵同︶。同一二年   [月﹁明治十﹁戊午年勘定附立帳﹂︵同︶。同=二年二月﹁明治十二年勘定附立帳﹂︵同︶。同一四年二月﹁明治十三歳勘定附立帳﹂︵同V。同一五年一   月﹁明治十四年勘定附立帳﹂︵同︶。同一六年一月﹁明治十五年勘定附立帳﹂︵同﹀。 ︵7︶拙稿前掲﹁近世における近江商人外村宇兵衛家の経営﹂一入二頁。 ︵8︶嘉永三年正月﹁嘉永二己酉年附立﹂︵外村宇兵衛家文書︶。 ︵9︶嘉永六年正月﹁嘉永五壬子年勘定帳﹂︵同右︶。 四 呉服木綿問屋と外村宇兵衛家  ここでは、外村宇兵衛家が属した呉服問屋仲間と木綿問屋仲間について、見てみることにする。外村宇兵衛家は、嘉永 四年︵一八五一︶の株仲間の再興に際しては、年間仕入高が一万両を越えたため呉服問屋元組に加入した。しかし、木綿類       ︵1︶ の仕入高は八○○○両余であったため木綿仮組への加入に甘んじていたが、安政二年︵一八五五︶には木綿問屋白子組へ加          ︵2︶ 入することができた。  したがって、外村宇兵衛家は文久元年︵一八六一︶二月から八月の間には白子組の行司を伊豆蔵吉右衛門・蛭子屋八郎右       ︵3︶ 衛門・松居久左衛門とともに務めることになった。そこで、外村宇兵衛家は開港以降の呉服・木綿の流通に対して、次の ような興味深い提言を行なっているので紹介しておこう。

参照

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