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ランドマーク商品に関する比較史的考察試論(1)―日本におけるオートバイの普及とその背景―

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Academic year: 2021

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はじめに  これまでに展開されてきたランドマーク商品に関する 諸研究1)を概観すると,単一商品が日本社会に定着した 経緯,商品普及を支える社会的背景(社会的条件)の解 明,商品が及ぼす多面的影響のプラス・マイナス両面か らの解明に注力する傾向が見られる。このことから,従 来のランドマーク商品研究では商品間や地域間の差異を 考察する比較研究が十分なされてこなかったと言える。 その背景には,従来のランドマーク商品研究では日本史 の画期(社会変容の起点)となった単一商品に注目して きたため,考察の対象や範囲が限定される傾向が見られ たことが挙げられる。このような研究傾向を踏まえ,昨 今のランドマーク商品研究では比較研究の重要性が強調 されつつある。ランドマーク商品に関する比較研究には 大きく二方向が考えられる。それは国内比較研究(同一 商品の普及実態と影響力について国内の地域間で比較検 討する研究)と国際比較研究(同一商品の普及実態と影 響力を海外諸国間で比較検討する研究)である。  特に後者(ランドマーク商品の国際比較研究)の重要 性を強く主張するのが川満直樹による一連のランドマー ク商品研究である。これらのなかで川満〔2011〕〔2013〕 〔2015〕では,イスラム社会におけるランドマーク商品出 現の可能性を考察し,ランドマーク商品が普及して商品 が持つ基本特性を発揮するためには,その国や社会に存 在するランドマーク商品の普及を抑制する「障壁」(経済 的・社会的・文化的・宗教的要因)を取り除くこと,ま たその商品の特性を発揮するための「基盤」(ある商品を 受け入れるための素地,あるいは商品特性を発揮するた めの必要条件のこと:鍛冶注)が整備されることが重要 であると指摘した。そのうえでランドマーク商品の出現 や普及を妨げる具体的な「障壁」として,①ランドマー ク商品の普及を支えるインフラの整備状況(特に,電力 あるいは人力以外の動力源の存在の有無),②宗教的戒律 やそれとの関わり方の程度,③カースト的要素の残存に 見られる社会制度や土着的慣習の有無,④商品購入を実 現できる生活者の所得水準(つまり貧富の格差)の程度 を挙げ,これらの「障壁」に注目することでランドマー ク商品の国際比較を展開し,海外諸国における商品を軸 とした社会と人間(生活者)との相互関係の実態にも目 を向けることの重要性を強調した2)。また川満は,商品 はグローバルに移動し特定の場所に止まらないが,同じ 商品でも国や地域が異なればその普及や定着の過程が異 なる。つまり社会の置かれた経済・社会状況やその社会 の固有の価値観などによって商品のありようは大きく左 右される。商品を中心に国や地域の違いなどを観察する ことを通じ,その差異の実態と含意を解明するための手 段として,ランドマーク商品の国際比較研究は重要であ り,その比較研究に向けた学術的な枠組み作りを今後進 展させる必要があると強調する3)  同志社大学人文科学研究所の研究部会として 1990 年 代半ばから設置される「ランドマーク商品」に関する研 究会(2016 年 4 月から 2019 年 3 月までは第 19 期第 9 研究会として,2019 年 4 月から 2022 年 3 月までは第 20 期第 7 研究会として活動)では,1990 年代より継続され るランドマーク商品に関する共同研究を踏まえ,ランド マーク商品に関する国際比較に注目した共同研究が進め  近年のランドマーク商品研究の課題のひとつとして,比較研究の重要性を指摘できる。特にランドマーク商品の国 際比較研究は,日本に偏重しがちであったランドマーク商品研究の多様化と深化を図るだけでなく,海外の視点から 日本社会を眺望するうえで重要な研究視点である。本稿はこの点を踏まえたうえで,交通の商品史的研究の事例分析 として,日本におけるオートバイの普及経緯とその背景を考察する。本稿第 1 章では,日本においてオートバイが出 現し普及した経緯について,明治期,大正期・昭和戦前期(∼ 1940 年代前半),終戦直後(1940 年代後半),1950 年 代前半,1950 年代後半∼ 1970 年代前半,1970 年代以降の 6 時期に区分して考察する。本稿第 2 章では,オートバイ が日本社会に普及した要因を 12 項目列挙して考察する。本稿で展開するオートバイに関する研究は,将来的なランド マーク商品の国際比較研究を見据えた基礎研究としての意味を持つ。  キーワード:ランドマーク商品,国際比較,オートバイ,普及

ランドマーク商品に関する比較史的考察試論(1)

―日本におけるオートバイの普及とその背景―

鍛  冶  博  之

総合政策学部総合政策学科

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られ,研究成果の蓄積が進みつつある4)  さて前述を踏まえ,本稿ではランドマーク商品に関す る国際比較研究に向けた事例分析5)を進める。試論とし てこの研究では,日本とベトナムにおけるオートバイ6) に注目した比較研究を行う。具体的には,①日本とベト ナムの両国でのオートバイの普及経緯とその背景,②両 国におけるオートバイ普及の類似点と相違点,③両国に おけるオートバイのランドマーク商品としての可能性, ④ ①②③の比較考察を踏まえたうえでランドマーク商 品の出現要因に関する考察,これら四点の考察を検討中 である。筆者がベトナムを対象とする比較研究を模索す る理由は,筆者自身がかつてベトナムを訪問し,ベトナ ムの市街地を縦横に走行する数多くのオートバイを目撃 し,その商品史的な意味の解明に関心を持ったためであ る。また,発展途上にある昨今のベトナム社会から日本 社会を逆照射することで,高度経済成長期の日本社会の 実態や現代的課題を浮き彫りにできるのではないかと考 えたためであり,本稿はそれに向けた一試論である。  本稿では紙幅の関係から特に上記①についてのみ考察 する(上記②③④は今後別稿で考察する予定である)。 第 1 章では,日本においてオートバイが出現し普及した 経緯を明らかにし,第 2 章ではオートバイが日本社会に 普及した要因を考察する。なお,ベトナム社会における オートバイの商品史的研究については,鍛冶〔2018a〕 〔2018b〕で考察済みであり,本稿はそれらの続編として の意味を持つ。  さて,日本のオートバイ(もしくは二輪産業)に関し て研究した書籍や論文は数多い。例えば,社団法人日本 自動車工業会編〔1995〕では,オートバイ産業の史的展 開だけでなく,オートバイをめぐる文化事情,インフラ (道路事情),制度(特に運転免許制度の変遷),交通教育 といった外部環境にも注目し,オートバイを社会的観点 から考察した。冨塚〔2001〕では,自身のオートバイ産 業界での勤務経験やオートバイ開発に関与した経営者や 技術者との直接交流をもとにして,オートバイの黎明期 から 1980 年代に至るまでのオートバイの産業史と技術 史を考察した。特にオートバイ技術の変遷に関する詳細 な記述がなされている。出水〔2002〕〔2011〕は,主に ホンダを取り上げてオートバイの産業史的もしくは経営 史的な考察を展開し,オートバイ産業の形成史,オート バイ関連企業の歴史と経営戦略,生産システムの生成方 法と管理方法,海外市場への進出,オートバイの製造開 発に関与した企業家の活動など,多様な観点からオート バイの史的展開を考察した。これら以外にも日本のオー トバイに関する諸研究は数多いが,これらに共通するの はオートバイの生産(開発・技術・製造)と流通(販売) に注目した経営学的もしくは経営史的な考察が圧倒的に 多いことである。そうした傾向を踏まえ,本稿では商品 史的観点からオートバイを捉えるために,オートバイの 出現経緯(本稿第 1 章)と背景(本稿第 2 章)について の解明を試みる。 1 日本におけるオートバイの出現と普及7)  本章では日本にオートバイが出現した明治期から現代 (2000 年代)までの史的動向を概観する。なお,あくまで 商品史の視角からの事例分析であることを意識し,オー トバイをめぐる生産活動を視野に入れつつ,オートバイ の消費(利用)や日本社会の動向にも注目して言及する。 1.1 明治期  1885 年,ドイツのゴーリック・ダイムラーは世界で初 めてオートバイを完成させた。それを機にヨーロッパ諸 国ではオートバイに関する技術開発が大きく進展し,多 種多様なオートバイの製造開発が進められていった。  外国製のオートバイが日本に初めて輸入されたのは 1896 年と言われる。日本におけるオートバイに関する最 古の記録として,1898 年に紫義彦が自身で組み立てて製 造した車両の写真が残されている。これは自動車工業振 興会のアルバムに収録されている。この写真が撮影され た 1890 年代後半には,東京や横浜にあるいくつかの商事 会社がヨーロッパ諸国やアメリカから二輪車を輸入して 販売を開始しており,当時の日本社会で僅かながらオー トバイが利用されつつあったことが窺える。一方で同時 期には,同じ二輪車である自転車が全国に普及し始め, 多くの生活者が自転車を実用的な交通手段として利用す るようになった。その普及速度が凄まじかったことは, 警視庁が「自転車取締規則」(1898 年)を制定して自転 車通行を規制せざるを得なかったことからも窺える。当 時のオートバイは自転車と比較されて「自動自転車」と も呼ばれた。  日露戦争(1904 年)前後から,日本国内では自動車や オートバイが徐々に生活者に目撃されるようになった。 とはいえ当時の日本社会で目撃されたオートバイにはま だ日本製は出現しておらず,全て外国製であった。しか し外国製オートバイはその維持管理が容易でなかったこ と,部品調達が困難だったこと,高度な修理技術が必要 とされたこともあり,生活者に幅広く受容される交通手 段ではなかった。加えて日本製オートバイの製造販売が 本格化する以前に外国製オートバイの輸入が本格化した ため,オートバイを製造開発できる国内メーカーは当時 ほとんど出現しておらず,オートバイの製造開発は技術 力を持つ個々の生活者が小規模に行う程度に止まった。 そのことが逆に,大正期以降の日本での外国製オートバ イの普及を後押しすることとなった。1910 年には,ドイ ツ車を扱う山田輪盛館,イギリス車やアメリカ車を扱う 山田勝蔵店などオートバイを専門に扱う輸入商がいくつ

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か出現して活動を開始し,外国製オートバイの販売と普 及に貢献した。  こうして外国製オートバイが徐々に普及するなかで, 国産オートバイの製造開発に向けた動きも見られた。 1908 年には大阪の島津楢蔵(当時 20 歳)が日本で初め てガソリンエンジンの製造に成功した。1909 年に島津は このガソリンエンジンを搭載した日本初の国産オートバ イ(NS号)の製造に成功した。とは言え,明治期のオー トバイは日本人の日常生活において日常性と実用性の高 い交通手段だったわけではなく,一部の生活者による趣 味や道楽の手段として消費されたにすぎなかった。この ことは近代日本社会において国産化が積極的に進められ ていた他産業の商品群と大きく異なる。こうした相違が 見られた背景として,①当時のオートバイには始動装置 や変速装置が装備されていないなど,基本的性能が欠落 した商品がいくつも見られ,運転の安定性と安全性が保 証されていなかったこと,②オートバイの修理や改良を 行える専門技術者が不足していたこと,③オートバイが 街中を走行する際には,当時の主要な交通動力であった 馬を回避しなければならず,オートバイが本来持つ高速 性や快適性を十分に発揮できなかったこと,これらが挙 げられる。特に②に関して,万が一オートバイにトラブ ルが発生した場合には,技術力が未熟なドライバーが自 身の技量で修理を行う必要があった。それでもオートバ イに強い憧れを抱く生活者のなかには,積極的にオート バイを購入し利用する者もいた。 1.2 大正期・昭和戦前期(∼1940 年代前半)  明治期が近代日本におけるオートバイの黎明期とすれ ば,大正期はその普及期(厳密に言うと第一次普及期) に当たる。特に第一次世界大戦(1914 ∼ 17 年)を通し て,オートバイの実用性と有効性が生活者に広く認知さ れるようになった。その契機となったのが,1914 年にア メリカから「スミスモーターホイール」が輸入されたこ とである。これにより自動自転車(オートバイ)の利便 性や快適性が日本社会で本格的に認識され始め,オート バイの国内普及を進める一因となった。また 1914 年以 降には,始動装置や変速装置を備えたオートバイが輸入 され,オートバイ運転の安定性と安全性が格段に向上し た。  外国製オートバイが全盛を誇った大正期において最も 普及したのが「ハーレーダビッドソン」(アメリカ製)で ある。1912 年には日本陸軍が初めて輸入したとされる が,日本での普及の契機となったのは 1917 年に大倉商事 がハーレーダビッドソンの輸入を本格的に開始したこと である。ハーレーダビッドソンの販売に際しては,日本 国内に販売所を設置し,都市部だけでなく地方へのハー レーの普及に尽力した。例えば,日本国内の販売店の店 員を集めて販売方法の伝授や整備講習を行うなど,ハー レーの販売管理方法を各地域へ伝搬し,日本国内での広 域的普及に尽力した。ちなみに 1932 年には三共の系列会 社であった「陸王内燃機」がハーレーとライセンス契約 し,ハーレーダビッドソンのマシンを国産の「陸王」の 名で大量生産することになった。陸王はその品質と性能 の高さから重宝され,第二次世界大戦下では日本国内の オートバイの販売と利用が制限されるなか,陸王のみが 製造販売を許可された。一方で 1920 年代になると,日 本国内にもオートバイ製造に関わるメーカーが小規模な がら出現し,国産オートバイの製造開発が進められた。  このように,大正期になると高性能な外国製オートバ イが日本社会で増加した。その一方で,大正末期になっ ても日本国内での国産オートバイの製造販売は十分進ま ず,オートバイの国産化は 1920 年代前半まで停滞した。 繰り返すが,大正期の国内に流通するオートバイの大半 は輸入車であり,オートバイの総需要は決して多くな かった。実際,当時のオートバイの販売価格は約 400 円 であった。1920 年代の大卒の銀行員の初任給が約 40 円 であった8)ことと比較しても,当時のオートバイが相当 な高額商品であったことが窺える。そのため当時のオー トバイの需要者には明治期と同様に資産家や上層階級が 多く,決して一般の生活者が手軽に購入できる商品では なかった。また輸入商社のなかには,オートバイが日本 国内でそれほど多く需要されなかったため,販売先とし て逓信省や警察庁などの官庁への納入を図る動きが見ら れた。  昭和期(1920 年代後半)には,各新聞社が業務用(情 報伝達や原稿輸送の手段)としてオートバイを利用する ケースが現れ,日本国内の情報伝達の高速化を図る交通 手段としてオートバイが注目された。『帝国統計年鑑』に 掲載された自動自転車(オートバイ)保有台数の推移を 見ると,1914 年から 1922 年までは年間 5,000 台に達せ ず,1923 年にようやく 5,000 台を突破した。そして 1925 年には 10,000 台,1927 年には 15,000 台,1929 年には 20,000 台,1932 年には 30,000 台をそれぞれ超え,1920 年代に生活者のオートバイ保有台数が急速に拡大したこ とが窺える9)  このことから,明治・大正・昭和初期のオートバイは, 生活者のステイタスシンボルを表象する,非日常性を追 求した奢侈品であった。つまり,オートバイは部分的に 業務用として活用されたに過ぎず,決して日常生活にお ける実用性や利便性が重視されたわけではなかった。戦 前期の需要者は戦後期と大きく異なり,軍部や公官庁が 主要な需要先であり,華族階級の子弟や医師などの限ら れた裕福な趣味人がわずかに民間需要を担うに止まった という10)  さて,同時期にオートバイの社会的認知と普及を促す

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うえで貢献したのが,全国各地で開催されたモータース ポーツとしての「オートバイレース」である。レースの 勝敗がその後の売上を左右したため,輸入商社や販売会 社はオートバイの技術的向上や技術者の育成に尽力し た。メーカーや商社では,自社製オートバイの販売促進 や製品差別化を図るためのプロモーション戦略,自社ブ ランドの確立,販売店網の拡大と販売店への教育など, さまざまなマーケティング戦略が展開された11)  1930 年代には,日本社会は軍事色を強め十五年戦争の 時代へ突入したが,そのことが逆にオートバイの国産化 を推進した。オートバイは日本軍の重要な交通手段とし て注目され国産化の動きが活発化し,さまざまな試作機 が生産された。そのなかで重要な役割を演じたのが宮田 製作所(現在のモリタ宮田工業株式会社)である。1933 年,宮田製作所は「アサヒ号A型」の製造販売を開始し た。これはもともと,東京高等工業学校(現在の東京工 業大学)の根岸政一の指導下で 1914 年に製造された車 両を改良・発展させたものであり,1935 年に量産販売さ れた。アサヒ号A型は,日本初のオートバイの大量生産 と大量流通を実現し,日本社会でのオートバイの広域的 普及を進める契機となった。  しかし,1936 年に施行された自動車製造事業法をはじ め,1930 年代後半には各種の統制策が展開され,オート バイの製造販売は大幅に制限された。その結果,オート バイの製造販売は軍需用としては認められたものの,民 需用としての製造販売は大きく減退した。軍事用のオー トバイを生産した陸王内燃機株式会社のみがオートバイ 生産を認められたのを除き,日本の民間用の二輪車メー カーは終戦を迎えるまで,生産活動の大幅縮小を余儀な くされた。戦時中にはオートバイ関連産業の多くが,戦 況の悪化とその長期化に伴い軍需品製造へ次々に転換し た。オートバイの大量生産と大量販売に伴う本格的な普 及は戦後まで待たねばならなくなった。また,戦前期 のオートバイの普及に一役買ったオートバイレースも 1940 年に全面禁止された。 1.3 終戦直後(1940 年代後半)  終戦(1945 年)直後には,戦前期に製造販売を展開し たメーカー数社が早々にオートバイ生産を再開した。し かし,本格的なオートバイ産業の復興は 1950 年代半ば (昭和 30 年代)まで待たねばならなかった。敗戦から約 5 年もの間,製造販売企業数や生産数量が伸び悩んだ背 景には,①空襲を回避した主要工場の多くが連合軍に接 収されていたこと,②オートバイの製造に不可欠な原材 料が決定的に不足していたこと,③オートバイの稼働に 必要な燃料の入手が困難だったこと。また入手できた燃 料の質的問題もあったこと,④オートバイの製造開発能 力を持った技術者が不足していたこと,⑤生活者の多く がオートバイを日常的に利用できるほどの物理的・精神 的余裕がなかったこと,⑥オートバイの販売価格が高価 なうえ,生活者が保有する現金の総体的不足も重なり, オートバイ自体や燃料の購入が著しく困難だったこと, ⑦統制経済下でのオートバイの販売先が医師・報道関係 者・進駐軍など特定の個人や組織に限定されたこと,こ ういった課題が山積していたことが挙げられる。  終戦直後のオートバイの普及を後押ししたのはGHQ (連合国軍総司令部)による諸政策であった。1945 年 9 月,GHQは日本における軍需生産の全面的禁止と兵器 生産工場の民間必需品生産への転換を指令した。これに よってオートバイ産業への日本人技術者の流入が進み, その復興を大きく進展させた。戦間期に軍用の航空機や 自動車を製造販売した日本企業の多くは,敗戦国となっ たことを受け,航空機や自動車の製造が禁止された。そ のためこれら諸企業の多くはオートバイの製造販売業に 転業し,そうした企業に所属した多くの技術者は自らの 技能を活かせる新たな活躍の場をオートバイ製造に求め た。とはいえ先述の通り,終戦直後には二輪車(特にオー トバイ)は製造に必要な資材調達が順調に行えたわけで なく,一方で生活者には生活必需品として十分認識され ていなかった。  その一方で同時期に,日本に駐留した連合軍がアメリ カ式やイギリス式のスクーターを日本に持ち込み,それ を国内で走行させるようになった。そのことが日本での オートバイへの関心を再び呼び起こす一因となった。特 にこのことは先述の多くの技術者をオートバイ生産へ誘 引する契機になった。その背景には,スクーターが簡素 な車体構造であったこと,またスクーターであれば原材 料を十分調達できない状況下でも容易に製造可能だった こと,さらに航空産業や自動車産業と異なりオートバイ 産業への規制が比較的緩やかだったことが挙げられる。 こうした事情もあり,オートバイ産業は新たな労働環境 を求めていた日本人技術者の関心を高め,彼等の多くが オートバイ生産に関与するようになった。そして 1946 年 にはさっそく国産のスクーターが市場投入された。この 時期に普及したスクーターとして,中島飛行機に源流を 持つ富士産業(後の富士重工業)が製造開発した日本初 の国産スクーターである「ラビット」,財閥解体で分割 された三菱重工業の自動車部門であった中日本重工業が 製造開発した「シルバーピジョン」などがある。また同 時期にはホンダや三菱重工業もオートバイ製造を開始し ている。これらの企業が製造したスクーターはアメリカ 製がベースとなっており,各社が独自開発したものでは なかった。しかし,エンジン製造技術や板金加工技術な ど,オートバイ製造に必要とされる基本的な製造技術と, 高度な生産力を有する技術者を有したこと,加えて戦間 期には軍需産業の一端として他産業に先駆け機械設備の

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増強が図られたことも作用し,短期間でのスクーターの 製造販売が実現できた12)。スクーターは戦前の軍需産業 で蓄積された高度な技術力が民間に転用された好例であ る。  1948 年には,GHQや官公庁との交渉を通してオート バイに関する規制撤廃を進める組織として「日本小型自 動車工業会」が発足した。この組織の活動により,オート バイ産業の将来的な有望性が認識され,多数のメーカー がオートバイ産業へ参入する契機となった。そのことは 同時に,オートバイをめぐる同業他社間での過当競争を 激化させ,1950 年代前半には 100 社を超えるオートバイ メーカーが乱立した。しかし徐々に,ホンダやカワサキ のように他社が持たない高い製造技術を有し自社内での 一貫生産が可能な数社に集約された。  当時のオートバイ製造で追求されたのは一次品質(商 品としての基本的機能)であった。つまり,出力・車速・ 乗り心地・車体スタイルといった要素よりも,安定的に 走行可能であることに主眼が置かれた。また当時の日本 には,基本的にイギリス製やドイツ製など外国製オート バイの模倣車両が多かった。しかし,日本ではこの段階 で外国製オートバイの特性を徹底的に研究したことによ り,後年のオートバイ製造において世界に通用する日本 独自の技術革新が構築されることになる。  戦後復興期にはオートバイの製造販売が活発化した が,一方で消費に関しては,生活者は比較的安価に購 入でき簡便に利用できる交通手段の出現を期待してい た。特に戦前期から広く普及した自転車を上回る交通手 段(自転車よりも容易に稼働でき,長距離を短時間で移 動し,かつ大量の荷物を運搬できる交通手段)を切望し た。そのひとつとしてオートバイへの期待は高まっては いたが,オートバイの普及は順調に推移したわけではな く,1940 年代後半はまだ生活者がオートバイを気軽に利 用できる状況ではなかった。その背景には,①生産資材 はGHQの統制下で割当てられたため,オートバイメー カー主体で生産計画が履行できなかったこと,②完成し た製品の大半が業務用(官公庁,医療関係,新聞社など) に振り分けられたため,一般用として流通しにくかった こと13),③戦後復興期で交通網の整備が十分進展してい なかった日本社会では,オートバイの走行に最適な道路 環境が十分には整備されていなかったこと,④オートバ イは極めて高価な交通手段であり,生産者による購入が 容易ではなかったこと,以上が挙げられる。このため, 発売当初のオートバイは一部の資産家にしか利用されな かった。しかし,徐々にオートバイが持つ利便性に関心 が集まり,一般の生活者からの人気が高まった。オート バイメーカーは生産台数を徐々に増加させつつ,日本社 会でのオートバイの普及に尽力した。また,戦後の数年 間で実質国民所得が急拡大したことも無視できない。実 質国民所得は 1941 年に 35.8 万円でピークを迎えた後に 戦中と終戦直後まで半分近くにまで縮小したが,終戦直 後からは回復基調となり,1956 年には戦前期のピーク を上回る実質国民所得が実現された14)。このように戦後 の 5 年間で実質国民所得が急拡大したことも,消費者の オートバイへの関心を高める一因となった。こうして戦 後復興期の日本において,オートバイは高価格でありな がら自動車の代用品としての機能を有し,最低限の高速 移動を実現できる交通手段として徐々に受容された。 1.4 1950 年代前半  1940 年代後半から 1950 年代前半にかけては,自動車 の代用品であったスクーターでさえも,生産数量の少な さと販売価格の高さを背景に,生活者は容易に入手する ことが困難であった。そこで生活者の近距離移動を補助 する交通手段として,バイクモーター15)の需要が高まっ た。スズキやホンダは自転車用補助動力の製造を通して オートバイ産業へ参入を果たした。しかしバイクモー ターは未舗装道路での走行に不向きで,故障や破損によ る事故が多発したことなど欠陥が多かった。加えて本稿 第 1 章 5 で後述するように,1950 年代半ばより本格的に 高度経済成長が到来して国民所得が上昇し,オートバイ が日本社会で急速に大衆化したことで,バイクモーター への関心は大きく低下した。生活者の多くは 1950 年代を 通して,バイクモーターのような所謂「偽物のオートバ イ」から,「本物のオートバイ」を求めるようになった。  1950 年代には,専用設計を有するオートバイが普及し た。普及の社会的背景として,① 1950 年に朝鮮戦争が 勃発し,その結果,日本社会に特需景気が到来し,日本 経済の急成長(いわゆる高度経済成長)が実現されたこ と,②①によりオートバイメーカーでは生産資材や燃料 の調達が容易化したこと,③戦前期に軍需生産に関与し た技術者の多くが,好景気のなかでオートバイ生産に意 欲を高めたこと,④原動機付自転車の場合,1952 年に道 路交通取締法が制定されたことで運転許可の無試験化と 運転許可年齢の 14 歳への引き下げがなされ,生活者の オートバイの利用に弾みがついたこと,⑤同時期には生 活者が日頃利用する自転車販売店でもオートバイ(特に 小型二輪車)が販売され,生活者の身近な場所でオート バイに直接接触する機会が増えたこと,以上が挙げられ る。こうした日本経済の成長・人的資源の流入・制度の 改変と,日常生活圏での直接的な接触頻度の高まりなど が作用し,1950 年代のオートバイの生産台数は急激に拡 大した(本稿第 2 章 5 で詳述)。またオートバイは戦後の 産業復興の中で貨物輸送手段としての利便性が高まり, 二輪の実用車両が次々に開発された。  一方で同時期のオートバイの急速な普及は,オートバ イメーカー間の市場競争を激化させた。その結果,オー

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トバイの製造販売に関わった企業のなかには,他企業へ の吸収,本業への集中化,さらには廃業など,オートバ イ生産から撤退する企業が続出した。その背景には,後 述するオートバイレースの開催による製造技術の向上が 参入障壁となり,オートバイ産業での継続的活動や新規 参入が困難になったことが挙げられる。こうした激しい 市場競争下にあった 1950 年代前半には,独自の製造技 術を確立したスズキ・カワサキ・ヤマハがオートバイ産 業に参入している。その一方で,1960 年代には目黒製作 所をはじめとする,戦前期から存続したオートバイメー カーのほとんどが消滅することとなった。実際,1950 年 代以降のオートバイ産業の急激な成長を支えたのは,戦 前から存続する企業や軍需産業から転業した企業ではな く,戦後新たに活動を開始した企業群であった。そして そのことが,民需を主体とするオートバイ市場を形成 し,戦前と戦後の市場構造の断絶をもたらしたのであっ た16)。こうした戦前と戦後の市場構造の断絶は,1950 年 代と 1960 年代における有力メーカーの「交代」によっ て劇的に進行した。  このような「交代」劇を伴った市場競争のもとで,オー トバイ販売では一次品質や二次品質だけでなく三次品質 のプロモーションも重要な要素として認識されるように なった。特に重視されたのが購買後のアフターサービス である。オートバイを継続して利用するには,購入後も 定期的なメンテナンスが欠かせない。原動機付自転車で はこの点が不十分だったために,1950 年代前半期には先 述の通り生産数量を減少させることとなった。オートバ イメーカーや販売店には,消費者の要望に応じられる技 術力と販売力(特にアフターサービスを充実させられる だけの全国的な販売店網の構築)が重要とされたのであ る。  ところで,日本では 1950 年代半ばまで,オートバイ の製造開発技術に関する革新的改良はそれほど見られな かった。その背景には,当時の日本の製造技術がイギリ ス製やドイツ製のオートバイの模倣を基本としたこと, また当時の技術者の多くが戦前期に確立されたオートバ イ技術に固執したために斬新な技術が出現しにくかった ことが挙げられる。このようななかで日本のオートバイ 技術の独自性を開花させる契機となったのが,オートバ イレースの再開であった17)。先述の通り,1950 年代前 半にはオートバイ販売をめぐる国内の市場競争が激化し た。そこでオートバイメーカーはオートバイレースに参 戦することで,自社製品のプロモーションを行いつつ他 社製品との性能の優位性を広く誇示し,自社製品の社会 的認知を拡大させる一手段とすることを目論んだ。一方 で消費者にとっては,オートバイが特に若者層の憧れの 乗物だったこともあり,オートバイレースへの関心は否 応なく高められた。とはいえ開催当初,日本には本格的な レース場が存在せず,学校の運動場や陸上競技場などを 活用した外周 400∼500 m程度の「草レース」が多かっ た。それでも会場は大盛況となり,徐々に本格的レース の開催が要望されるようになった。特にイギリスのマン 島で開催されるTTレース(Tourist Trophy Race)のよ うな,大規模かつスピード感の溢れるレース場の設置が 期待された。こうして,1949 年には全国モーターサイク ル選手権大会,1952 年には東京モーターサイクル選手権 大会,1953 年には名古屋TTレース,1955 年には第一回 浅間火山レースなど,日本国内でも本格的なオートバイ レースが開催され,1962 年には鈴鹿サーキットが完成し た。こうして 1950 年代には,オートバイは実用性(日 常性)と奢侈性(非日常性)の両面を兼ね合わせた交通 手段として,日本社会に認識され定着した。 1.5 1950 年代後半∼ 1970 年代前半  本稿第 1 章 4 で記した経緯の結果,オートバイの生産 数量は 1950 年代と 1960 年代に劇的に拡大した。日本自 動車工業会が発表した 1950 年度から 1970 年度までの二 輪車(オートバイとスクーターの合計)の生産数量の推 移を見ると,1950 年度は 9,803 台,1951 年度は 30,390 台,1952 年度は 98,375 台,1953 年度は 183,345 台,1954 年度は 160,801 台,1955 年度は 287,976 台,1956 年度は 352,039 台,1957 年度は 423,956 台,1958 年度は 563,516 台,1959 年度は 981,559 台,1960 年度は 1,683,300 台, 1961 年度は 1,651,526 台,1962 年度は 1,730,896 台,1963 年度は 2,037,091 台,1964 年度は 2,145,358 台,1965 年 度は 2,259,669 台,1966 年度は 2,452,021 台,1967 年度 は 2,249,001 台,1968 年度は 2,414,101 台,1969 年度は 2,612,928 台,1970 年度は 3,139,263 台であった18)。こう した生産数量の拡大に合わせて,全世帯における二輪車 (オートバイとスクーター)の普及率も上昇した。内閣府 が発表する消費動向調査によると,初めて統計がとられ た 1959 年 2 月時点で普及率は 8.4%だったが,その後は 増加傾向が見られ,1966 年 2 月時点では 30.1%(オート バイのみの数値)に達した。これらの数値の変遷から, 1950 年代と 1960 年代を通してオートバイの急激な生産 と消費の拡大が見られたことが窺える。  その一方,本稿第 1 章 4 で指摘した通り,それまで最 低限度の移動手段を確保することを目的に利用されてき たバイクモーターはその需要者数を激減させた。生活者 は高度経済成長のなかで,オートバイに対し基本的機能 以外の要素を求め始めた。高度経済成長期にオートバイ が急速に普及した要因として,生産(製品機能の向上, 国際競争力の拡大),消費(低価格化の実現,実質国民所 得の拡大,購買方法の多様化),社会(モータリゼーショ ンの進展,制度の改変)の各面から考察すると,以下 6 点が挙げられる。

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 第 1 に,高度経済成長期に製造販売されたオートバイ は,1950 年代以前までと異なり高性能化が実現されたこ とである。本稿第 1 章 4 で述べた通り,1950 年代前半 に展開されたオートバイ業界の過当競争の結果,小型・ 大型にかかわらず販売車両の高性能化・多品種化・量産 体制の確立が進展した。その一例として小型二輪車の場 合,1958 年に発売されたホンダの「スーパーカブ」が挙 げられる。スーパーカブはエンジンの高性能化と同時に 低価格販売(約 55,000 円)も実現し,かつ斬新なデザイ ンでも注目を高めヒット商品となった。その後,競合他 社は同価格帯での同型車両の販売に尽力した。スーパー カブに代表されるモペットの需要拡大は,自動車に先駆 けて日本社会へモータリゼーションを推進する駆動力と なった19)。一方で大型二輪車の場合,長距離走行を可能 にする二輪車の製造開発を望む海外諸国からの要請を受 け,ホンダ・カワサキ・スズキ・ヤマハなどの日本企業 が各種の大型二輪車の製造開発に尽力した。特にホンダ の台頭によってオートバイ産業(二輪車産業)に対する 生活者の社会的認識は大きく転換し,旧来の「自転車産 業の延長」から「自動車産業の一種」として認識される ようになった20)  第 2 に,国内でのオートバイでの製造開発力が格段に 向上し,国際競争力を持つオートバイが多数誕生したこ とである。その契機となったのは,海外で開催されるオー トバイレースで日本製オートバイが高成績を残すように なったことである。日本のオートバイメーカーが初めて 海外のレースに参戦したのは,1953 年にブラジルで開催 された「サンパウロ開市 400 年祭記念レース」と言われ る。この大会にはホンダと目黒製作所が参加したが,結 果は振るわなかった。この時の苦い経験が世界市場を見 据えた日本産オートバイの改良へ駆り立てた。1959 年に ホンダは,独自の精密加工技術を駆使して完成させたエ ンジンを搭載したオートバイで「マン島TTレース」に 参戦した。これは,日本の二輪車メーカーが初めて本格 的に参加した海外レースだったが,ホンダのオートバイ はその 125 ㏄レースで入賞を果たした。さらに 1961 年 の同大会では,125 ㏄レースと 250 ㏄レースの両方で 1 位から 5 位までを日本製オートバイが独占して完全優勝 し,日本のオートバイ製造技術が世界に十分通用するほ ど高性能で高水準であることが実証された。こうした実 績に感化された日本企業は,次々に世界的に権威のある ロードレースの世界選手権に参戦して欧米製のオートバ イを圧倒し,高成績を挙げた。そして 1960 年代には, 世界各地で開催されるグランプリレースでの日本製オー トバイの優勝が常態化した。そのことが日本製オートバ イの海外での評価を格段に向上させ,1960 年代には日 本製オートバイの国際競争力の高さが世界的に認知され るようになった。こうした海外での高い評価が作用し, 1960 年以降は日本製オートバイの海外輸出が加速した。 日本自動車工業会が発表した 1960 年度から 1970 年度ま での二輪車(オートバイとスクーターの合計)の輸出台 数の推移を見ると,1960 年度は 60,486 台,1961 年度は 95,965 台,1962 年度は 247,952 台,1963 年度は 497,729 台,1964 年度は 627,594 台,1965 年度は 1,017,148 台, 1966 年度は 892,063 台,1967 年度は 954,180 台,1968 年度は 1,255,886 台,1969 年度は 1,319,685 台,1970 年 は 1,929,341 台と推移し21),この時期にオートバイの輸 出台数が急激に上昇していることが窺える。輸出先はベ トナムなどの東南アジア諸国に限らず,欧米諸国の市場 開拓も実現した。また日本企業のなかには,海外諸国に 完成したオートバイを輸出するだけでなく,現地に組立 加工工場を設置するケースも見られた。  第 3 に,オートバイの大量生産と大量消費が実現され た結果,オートバイの低価格化が進んだことである。125 ㏄クラスの新車の場合,当時の販売価格は 12 ∼ 13 万 円程度,中古車の場合は 7 ∼ 10 万円程度に設定された。 当時のサラリーマンの平均月収は約 2 万円だったことか ら,劇的に安価とまでは言えないとしても,生活者が決 して購入を躊躇するほどの高価格ではなくなった。  第 4 に,日本人の実質国民所得が大きく拡大したこと である。1959 年の実質国民所得は 45.3 万円だったが, 1973 年には 174.8 万円まで急拡大し,高度経済成長期 には年率にして 10.1%という高成長率を 14 年間持続し た22)。つまり,安価になったとはいえ未だ高価格な商品 であるオートバイの購入を検討できるだけの所得が実現 されるようになったのである。  第 5 に,オートバイを分割支払いで購入できるよう になったことである。メーカー各社では販売戦略の一環 として消費者の負担軽減のために分割支払方式を採用し た。分割支払いでは現金一括支払いに比べ若干割高では あるが,一回での支払金額を低額化できるためサラリー マン層に広く支持され,彼等のオートバイの購入を促し た。オートバイ販売価格の低額化と分割支払い方式の採 用により,生活者は日常生活を圧迫しない範囲内で資金 計画を立ててオートバイを購入できるようになった。  第 6 に,高度経済成長を実現した 1960 年代には,都 市部と農漁村部を含めた全国規模でモータリゼーション 化が進展したことである。生活者は日常生活における移 動の短時間化や効率化を図り,活動範囲の広域化を実現 する交通手段として,自動車やオートバイを気軽に利用 する生活が一般化した。日常生活における実用的な交通 手段として自動車が急速に普及したため,オートバイは 実用的・実務的な交通手段としてよりも,奢侈的な交通 手段としての側面を強めて普及するようになった。日本 ではオートバイの性能向上に加えて,1950 年代半ばから 進展した道路網の整備(特に舗装道路の全国的敷設)を

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背景に,全国各地にツーリングを目的としたオートバイ 需要を発生させ,ツーリングを楽しむためのクラブ団体 が各地に多数出現した。一方でこうした状況が日本国内 でのオートバイの消費と普及を成熟化させる一因になっ た。そのため,各メーカーはその対策として上記「第 2」 で指摘した海外諸国に新市場を求め,1960 年代には輸出 が活発化した。  第 7 に,交通に関する制度改正がなされたことである。 例えば,1949 年には公定価格の撤廃,1950 年には燃料 統制の解除,1954 年には道路交通取締法の改正,1955 年 には道路運送車輌法の改正がなされ,オートバイの売買 を促進する制度的枠組みが確立された。特に道路交通取 締法と道路運送車両法の改正によって,無試験で運転可 能な原動機付自転車の範囲が緩和され,オートバイの販 売台数の拡大に拍車をかけた。 1.6 1970 年代以降  1960 年代には奢侈品としてオートバイが普及し,ス ポーツやレジャー活動の一環として利用される場合が多 く見られた。そして 1970 年代から 1980 年代にかけて, オートバイの車種の更なる多様化が進んだ。例えば,従来 のロードタイプ車(舗装道路の走行に優れたタイプ)だ けでなく,オフロードタイプ車(未舗装道路の走行に優 れたタイプ)の開発,高速走行が可能な大排気量車の開 発,ファッション性を追究したオートバイの開発(特に 50 ㏄)など,機能と性能だけでなく外観やスタイルの差 別化を追求するオートバイが次々に登場した。このよう にオートバイには,生活者と貨物を輸送して日常生活の 利便性を向上させるための実用的手段として以上に,ス ポーツやレジャー活動といった趣味を楽しむ手段として の役割がますます求められ,特に後者を目的としたオー トバイ需要が拡大した。そしてあらゆる世代の生活者が 自身の趣味や嗜好に合わせたオートバイを購入し利用で きるほどにオートバイの多種多様化が進展した。この時 期は,日本社会全体が日常生活において「物的な豊かさ」 から「質的な豊かさ」を追求し始め,レジャーの個性化 や多様化が進行しつつあった時期でもあり,オートバイ を巡る上記の動向はこうした日本社会全体の展開とも合 致した。  生産面では,1980 年代以降は 1970 年代以上に,日本企 業の多くが製造費用の削減を主な目的とする海外での現 地生産に尽力した。アジア地域では改革解放政策によっ て二輪車の需要が拡大し始めた中国への進出が特に活発 化した。しかし 1980 年代のオートバイの高性能化と普 及の進展は,オートバイをめぐる数々の交通事故を誘発 した。そこでオートバイメーカーは製品の最高出力,排 気ガス,販売方法,プロモーション活動などに関する自 主規制を実施し,オートバイの安全性向上への取り組み を展開した。  1990 年代前半には,1970 年代と 1980 年代の流れを 受けたオートバイブームが到来した。これはオートバイ の性能や実用性の向上を伴ったブームではなく,あくま で趣味や奢侈が前面に出たブームであった。しかしこの ブームでは,オートバイが持つマイナス面(負性)をそ れまで以上に表出した。例えば,暴走族の増加に伴う公 道での危険運転や集団走行による交通妨害の発生,エン ジン音やクラクション音による騒音や排気ガスなどの公 害問題の発生,交通事故や路上駐車の増加などが社会問 題化した。その結果,オートバイに対して「危険で野蛮 な乗り物」という評価がなされ,オートバイに対するマ イナスイメージの拡大とそれに伴う社会的批判を高め た。また同時期の日本がバブル経済の崩壊に伴う長期不 況に突入したことも作用し,マイナスイメージの色濃い 趣味としてのオートバイ需要は減退した。オートバイ メーカーは国内市場の縮小に対応するため,同時期に日 本製オートバイが東南アジアなどの発展途上国での需要 が拡大しつつあった状況を受け,これら海外諸国への輸 出による販売拡大を一層推し進めた。  内閣府発行の「消費動向調査」によると,オートバイ の普及率は 1986 年に約 35.6%でピークに達した後,1990 年代と 200 年代前半には減少傾向にあり,2005 年には 19.9%まで低下した。別の資料として総務省統計局によ る「全国消費実態調査」の数値を挙げると,1994 年には 22.3%,2004 年には 16.8%,2014 年には 13.5%にまで縮 小した。1980 年代以降の普及率低下の背景として,オー トバイの主要な需要者である若年者数が減少しているこ とに加え,1990 年代以降に露呈した上述のオートバイの 負の側面に対する各種の交通規制が敷かれたことが挙げ られる。こうして 1990 年代以降,商品としてのオートバ イは実用性と奢侈性ともに大きく後退し,一部のツーリ ングで楽しむ愛好家を除いて,日常生活で気軽に利用で きる交通手段とは位置づけられなくなった。一方で 1995 年の阪神淡路大震災や 2011 年の東日本大震災を受け,昨 今のオートバイは緊急時に人員や救援物資を搬送する有 効な交通手段として注目を集めている。 2 戦後日本におけるオートバイの普及要因  本稿第 1 章で見た通り,日本では,オートバイは戦後 に急速な普及を実現し,生活者の日常生活に浸透した。 ではなぜ戦後の日本社会では戦前と異なりオートバイが 大幅に普及し得たのか。ここでは,オートバイの普及を 促進した戦後期から 1970 年代までの動向に注目する。簡 潔に結論をまとめると,①商品としての充実した基本的 機能,②多くの技術者の存在,③科学的で標準的な生産 方法の確立,④オートバイレースによる生産者・消費者 双方へのプロモーション活動,⑤メディアを活用したプ

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ロモーション活動,⑥生活者の外国製品に対する憧憬, ⑦日本政府による諸政策,⑧他の交通手段との競合,⑨ 交通インフラの整備,⑩安定した気候,⑪安定した治安, ⑫普及を抑制しない宗教活動,これら 12 点を列挙でき る。以下ではこれらの項目を詳しく検討する。  第 1 に,オートバイ自体が持つ商品としての品質の優 位性があることである。オートバイ自体は難しい操作方 法を習得する必要はなく,比較的容易に運転操作が可能 である。オートバイを利用することで長距離を短時間で 移動でき,日常生活圏の広域化が実現される。車種やデ ザインはメーカーにより多種多様であり,生活者は好み やスタイルに合ったオートバイを選択できる。とは言え, これらの点は自転車や自動車にも共通するため,これら のみでオートバイ普及の主因とみなすことはできない。 下記 11 項目の諸要因がオートバイの普及要因を考察す るうえで重要となる。  第 2 に,戦前期から軍需産業(特に航空機関連の分野) で蓄積された高い技術を有する技術者が多数存在したこ とである。この点に関して富塚〔2004〕によると,日本 は 1940 年代前半の戦災によって軍需工場の多くが壊滅 的被害を受けたため,そこで雇用された高度な製造加工 技術を有する多くの技術者がオートバイ業界に流入し活 躍するようになった。こうした新進気鋭の技術者は,戦 前期から活躍しながら旧来の技術体系に固執する技術者 を完全に圧倒し,それまでの常識や旧慣に捉われない斬 新な新技術を誕生させ,戦後日本における高性能な日本 製オートバイの誕生を促進したという23)。こうした事 情が本節の「第 1」要因を満たす高性能で利便性の高い オートバイを登場させた背景にある。  第 3 に,オートバイ生産が科学的な生産管理のもと で展開されたことである。オートバイ業界は戦後期の復 興を通して甦ったが,先述の通り戦前期にオートバイ生 産に利用された工場設備の多くは戦災で喪失したため, オートバイの生産設備や工場は戦後復興期に新設された ものが多かった。したがって戦前期の技術水準に捉われ ず,最新技術を備えた設備を配置しやすかった。また戦 後に活躍する新鋭の技術者は,戦前から活躍する勘や経 験に頼った旧来の技術者と異なり,オートバイ設計と生 産の際には厳密に数値化された科学的な管理手法を導入 した。その結果,欧米で採用されてきた少量生産とは異 なり,高性能なオートバイの大量一括生産と大量販売が 可能な経営システムを確立された。そのため 1950 年代 以降の国内のオートバイメーカーは,日本社会における オートバイの大量生産と大量消費の要望に応じることが でき,日本社会へのオートバイの広範な普及を可能にし た。  第 4 に,全国各地でオートバイレースが開催され,生 産と消費の両面を刺激したことである。生産者(オート バイメーカー)にとっては,自社のオートバイを公的に 披露する絶好の機会であり,オートバイ本体だけでなく 企業名も周知できるプロモーション空間として最適で あった。ましてやレースで高成績を残せば,オートバイ の販売台数を拡大できる可能性も高まるため,生産者は オートバイレースを重要なプロモーションの場として 捉えた。この点に関して富塚〔2004〕は,「レースでの 成績は販売戦には利用しないという口約はあったそうだ が,世間にはそれは通らず,競争の優勝はやはり販売の 向上に直結したのである。てきめんにレースの敗者,ま たここに出場不可能な会社は,販売上も劣勢に陥り,間 もなく倒産あるいは廃業に陥ってしまったのである」24) と指摘し,オートバイレースの勝敗が生産者の経営活動 を左右した実態を指摘する。また生産者にとってのオー トバイレースは,日本製オートバイが外国製と比較して も遠く及ばないことを痛感させる場でもあった。レース で味わった屈辱的結果は日本製オートバイの技術革新を 加速させることに貢献した。すなわち,性能・品質の両 面で外国製オートバイを超越することが日本の生産者の 共通目標となり,そのことが世界市場を見据えたオート バイ開発を推進する精神的基盤を形成した。一方で消費 者にとっては,オートバイレースの観戦を通して各企業 のオートバイの高機能性を実際に目撃し実感でき,オー トバイを単なる日常生活での交通手段として認識するだ けではなく,二次品質や三次品質への欲望を掻き立てる こととなった。また,オートバイは「乗って」楽しむだ けでなく,「観て」楽しむものであるという認識も生み出 し,オートバイをめぐる新たな楽しみ方(レジャー)を 創出することに貢献した。  第 5 に,メディアを通して頻繁にオートバイが描写さ れたことである。1950 年代から 1970 年代には小説,映 画,テレビ番組の主人公がオートバイに跨り颯爽と疾走 するシーンがしばしば描かれている。「月光仮面」(1958 ∼ 1959 年放映)や「仮面ライダー」シリーズ(1971 年 ∼)はその一例である。これらを目にした生活者(特に 子供)にオートバイに対する強い憧れを抱かせ,将来的 なオートバイ需要を生み出す契機となった。  第 6 に,外国製品への憧憬が強いことである。1950 年代以降にテレビ(白黒テレビとカラーテレビ)が日本 社会に普及したことで,日本人はテレビというメディア を通して伝達される海外からの諸情報に刺激を受け,電 気冷蔵庫や電気洗濯機をはじめとする家電製品,さらに はオートバイや自動車などの自家用交通手段を備えたア メリカ的生活様式に強烈な憧憬を抱くようになった25) オートバイもまた,日本人のアメリカ的生活様式の実現 手段としての側面を持つ商品だった。  第 7 に,オートバイの普及を促進するための日本政府 による諸政策が展開されたことである。例えば,1948 年

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には経済復興委員会による「自動車経済復興生産計画」 が策定され,自動車(四輪車)および二輪車の生産計画 が示された。1950 年には資材統制が撤廃され,オートバ イ生産の円滑化が促進された。1951 年には道路運送車両 法が制定され,二輪車の運転免許制度が変更された。こ れにより原動機付自転車の場合,それまで自動二輪車運 転免許が必要だったが,それが変更され警察への届け出 のみで運転が可能になった。1953 年には物品税法が一部 改正され,二輪車の税率が 10%から 5%へ引き下げられ た。こうした戦後復興期に展開された政策面での制度改 変によって,日本国内でのオートバイの生産と流通が円 滑化され,その普及を制度面から支えた。  第 8 に,1960 年代までの日本社会では自動車が十分に 普及していなかったことである。戦前期から 1960 年代 にかけての日本社会では,自動車が生活者に幅広く普及 したわけではない。実際,内閣府の『消費動向調査』に よれば,1960 年時点でさえ自動車の普及率は 2.8%に止 まった。自動車を所有できなかった生活者の多くは,少 なくとも 1960 年代半ばまでは日常生活の実用的な移動 手段として,もしくは奢侈や娯楽を充実させる手段のひ とつとしてオートバイを積極的に利用した。しかし 1960 年代中頃より自動車の普及が急速に高まるにつれ,オー トバイの国内普及は停滞した。その対策のひとつとして オートバイメーカー各社は,本稿第 1 章 5 で指摘したよ うに海外への販路拡大を模索するようになった。  第 9 に,オートバイの走行を容易化する道路整備が進 んだことである。特にアスファルト道路の出現と拡大は, 1960 年代以降のオートバイの普及を支える一因となっ た。戦前期の日本では鉄道が陸上輸送の中心だったため, 道路整備は大きく停滞した。戦後も 1960 年代以前まで 道路舗装が十分に進展しなかった。しかし 1964 年に開 通した名神高速道路によってアスファルト道路の社会的 有用性が認識され,日本社会でアスファルト道路が次々 と整備されていった26)。こうした交通インフラの整備が オートバイ(さらには自動車)の安定した快適な走行を 可能にし,国内普及を促す一因となった。  第 10 に,安定的な日本の気候である。日本は年間を通 して大幅な気候変動や極端な高低温にさらされることが ない。こうした比較的安定した気候が,快適なオートバ イ利用を可能にし,生活者のオートバイの購入を促して いる。  第 11 に,日本社会の治安が比較的良好なことである。 例えば,日本ではオートバイの走行中に突然の攻撃や奇 襲を受け,駐停車中に窃盗や破壊の被害に遭うなどの事 態が日常的かつ頻繁に発生することはほとんどない。こ のように治安が高水準で維持されてきたことも,オート バイに限らず各種の交通手段が確立された一因である。  第 12 に,国内宗教の動向である。日本国内には仏教・ キリスト教・イスラム教などの在来宗教のほか,数多く の新興宗教や宗派が存在する。しかしそれらのいずれも, オートバイの利用を制限するような教えを説いてはいな い。例えばイスラム教を信仰する国々では,厳格な戒律 のもとで豚やアルコールそのものだけでなく,それらを 含有する商品の使用・販売までも厳格に禁止され,しか もそのルールがイスラム教徒ではない外国人観光客にも 適用される。しかし少なくとも日本では,宗教的戒律に よって日用的な商品の購入と利用が抑制されることはほ とんどなく,ましてやオートバイの利用が宗教上の理由 を背景に制限されるような事例は,筆者が現時点で管見 する限りは確認されていない27) おわりに  本稿では,日本社会における交通の商品史的研究の事 例分析としてオートバイを取り上げ,第 1 章では明治 期から今日に至るオートバイの出現と普及の経緯につい て,生産・消費・社会の観点から網羅的に整理した。第 2 章では,オートバイが日本社会に普及した諸要因につ いて,終戦後から 1970 年代までに注目して明らかにし た。  今後の課題について二点指摘しておく。第 1 に,本稿 では紙面の都合上,商品史研究で追究されるべき「商品 が社会に及ぼした具体的影響」に関する考察を展開でき ていない。日本のオートバイが日本社会に及ぼした影響 については,今後の研究で明らかにする必要がある。第 2 に,本稿「はじめに」で指摘したように,本稿は今後 展開する日本とベトナムとの国際比較研究の前提として の意味を持つ。したがって今後はベトナムにおけるオー トバイの商品史を考察した鍛冶〔2018a〕〔2018b〕と, 日本におけるオートバイ普及経緯とその背景を考察した 本稿を土台として,オートバイを手掛かりとする日本と ベトナムの比較研究を目指す必要がある。これらについ ては,別稿で改めて考察の機会を設けたい。 脚注 1)ランドマーク商品とは「単なるヒット商品,ベスト セラー商品,ロングセラー商品とは違って生活スタ イルや価値観の変化にとってランドマークとなるよ うな商品,つまりその商品が世に出ることによっ て,それまでのスタイルを一変させた,変容の画期 となった商品」のことで,具体的には,「その出現に よって,それ以前の生活スタイルを大きく変え,生 活の利便化,効率化,安楽化,安直化,簡明化つま り労働の軽減と自由時間の増大に決定的な影響を与 え,多様な生活スタイルを実現させ,その背景となる 価値観の変容を促すほどのパワーをもった商品」を 指す(石川〔2003〕328 ページ)。ランドマーク商品

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に関する共同研究として,石川編著〔2004・2006・ 2008・2011・2013〕,石川ほか〔2009〕,川満編著 〔2015〕,川満ほか〔2020〕が挙げられる。 2)川 満〔2011〕135 ペ ー ジ・140-151 ペ ー ジ, 川 満 〔2013〕163-172 ページ。なおこの点を実践した商品 史の研究書として川満編著〔2015〕が挙げられる。 3)川満〔2013〕172 ページ,川満〔2015〕11 ページ。 4)ランドマーク商品に関する国際比較研究を試みた研 究書として川満編著〔2015〕がある。 5)商品史研究(ランドマーク商品研究を含む)を大きく 分類すると,概念分析(ランドマーク商品という概 念そのものに関する理論的分析)と,事例分析(考 察対象商品が及ぼす影響や課題などを明らかにし, ランドマーク商品と位置づけられるか否かを検討す るための分析)に分けられる。本稿は後者に関する 研究である。 6)本稿でいう「オートバイ」とは,原動機を搭載した 二輪車全般を指すものとする。したがって,日本で 「バイク」,「単車」,「スクーター」と呼ぶものも全て オートバイと捉える。 7)明治期から昭和期に至るオートバイの史的展開に関 する本章での記述は,特に記さない限り,社団法人 日本自動車工業会編〔1995〕,大田原〔1999〕,出水 〔2002〕第 1 章・第 4 章,富塚〔2004〕第 2 章∼第 12 章,出水〔2011〕第 1 章・第 4 章,「バイクのふ るさと浜松」公式HP(http://www.bike-furusato.net/ history/)(2019 年 9 月 30 日閲覧)などを参照し概 略的に記述した。 8)週刊朝日編集部編〔1988〕51 ページ。 9)ここで挙げた数値は,社団法人日本自動車工業会編 〔1995〕85 ページに掲載された数値を参考にしてい る。 10)大田原〔1999〕6 ページ。 11)厳密にいうと,経営史でいわれる「先駆的マーケティ ング」である。 12)大田原〔1999〕4 ページ。 13)社団法人日本自動車工業会編〔1995〕42-43 ページ。 14)「一般社団法人日本リサーチ総合研究所」公式ホー ムページ(http://www.research-soken.or.jp/reports/ digit_arch/income01.html)に掲載された「デジタル アーカイブ生活指標」内の「5.所得の変化」を参照 した(2019 年 9 月 30 日閲覧)。 15)別名はバイクエンジンともいい,自転車用補助動力 を付けた自転車のことである。日本では原動機付自 転車の名称で流行した。 16)大田原〔1999〕6 ページ。 17)富塚〔2004〕115-116 ページ。 18)ここで列挙した数値は,社団法人日本自動車工業会 編〔1995〕に掲載された「二輪車生産台数の推移 (1950 ∼ 60 年度)」(同書 46 ページ)と,「二輪車生 産台数の推移(1960 ∼ 70 年度)」(同書 62 ページ) を活用した。なお本文中の数値は,上記の図表に記 載された各年度の「オートバイ原付 1 種」,「オート バイ原付 2 種」,「オートバイ軽二輪」,「オートバイ 自動二輪」,「スクーター原付 2 種」,「スクーター軽 二輪」の台数を合計したものである。 19)出水〔2011〕127 ページ。 20)大田原〔1999〕13 ページ。 21)ここで列挙した数値は,社団法人日本自動車工業会 編〔1995〕に掲載された「二輪車輸出台数の推移 (1960 ∼ 70 年度)」(同書 57 ページ)を活用した。な お本文中の数値は,上記の図表に記載された各年度 の「オートバイ原付 1 種」,「オートバイ原付 2 種」, 「オートバイ軽二輪」,「オートバイ自動二輪」,「ス クーター原付 2 種」,「スクーター軽二輪」の台数を 合計したものである。 22)「一般社団法人日本リサーチ総合研究所」公式ホー ムページ(http://www.research-soken.or.jp/reports/ digit_arch/income01.html)に掲載された「デジタル アーカイブ生活指標」内の「5.所得の変化」を参照 した(2019 年 9 月 30 日閲覧)。 23)富塚〔2004〕198 ページ。 24)富塚〔2004〕116 ページ。 25)テレビ(特にカラーテレビ)が高度経済成長期の日 本社会に与えた影響については,鍛冶〔2013〕を参 照されたい。 26)アスファルトの商品史的考察を試みた論文として, 石川〔2006〕がある。 27)商品(特にランドマーク商品)の普及と宗教との関 係性について,例えば川満〔2013〕ではイスラム教 を事例に論じられる。 参考文献 ・石川健次郎編著〔2004〕『ランドマーク商品の研究̶ 商品史からのメッセージ』同文舘出版。 ・石川健次郎編著〔2006〕『ランドマーク商品の研究② ―商品史からのメッセージ』同文舘出版。 ・石川健次郎編著〔2008〕『ランドマーク商品の研究③ ―商品史からのメッセージ』同文舘出版。 ・石川健次郎編著〔2011〕『ランドマーク商品の研究④ ―商品史からのメッセージ』同文舘出版。 ・石川健次郎編著〔2013〕『ランドマーク商品の研究⑤ ―商品史からのメッセージ』同文舘出版。 ・石川健次郎ほか〔2009〕「特集 ランドマーク商品に 関する商品史的研究」『社会科学』通巻 84 号(同志社 大学人文科学研究所),2009 年 7 月。

参照

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