椙山女学園大学
津阪東陽 『杜律詳解』 訳注稿 (十二)
著者
二宮 俊博
雑誌名
椙山女学園大学 文化情報学部紀要
巻
10
ページ
133-168
発行年
2011
URL
http://id.nii.ac.jp/1454/00001947/
三二懸㎜1灘
津阪東陽﹃杜律詳解﹄訳注稿
二宮俊博
本稿には、津阪東陽﹃杜律詳解﹄巻下の﹁秋興素首﹂其一から其
八までを収める。原文の送り仮名の﹁メ﹂は﹁シテしに、﹁コ﹂は﹁コ ト﹂に、﹁差﹂は﹁トモ﹂、﹁寸﹂は﹁トキしにそれぞれ改めた。明らかに訓点が脱落していると思われる箇所には、これを補った。また
詩句の二念にところどころ附されている和訓は、※をつけて改行し
て示した。書き下し文は、紙幅の都合で省略する。なお、詩題の上
には便宜的に通し番号を施した。㈱秋興八首︵其こ
4
10009909809709609509
︵其二︶ ︵其三︶ ︵其四︶ ︵其五︶ ︵其六︶ ︵其七︶ ︵其八︶杜律詳解巻之下
伊勢津阪孝練読響著
男蓬有功校
93H興八首︵其一︶
0 ︵注1︶ ︵注2︶ 興ハ起也。晋、播岳有二秋興ノ賦⋮、言二因け秋二而感興↓。。重キ.ト在レ 興二而不レ在レ秋二也。時二公寓儲嚢、之西閤∼。七重千里、欲けテ蹄.ト ︵注3︶ ︵注4︶ 不レ得、適二値﹂悲林∼、百憂交一興ル。故二業シテ名コク秋興↓。唯首章 なら 純ひ.叙以秋ヲ、後ハ不二必シモ然ツ、時一見二秋意↓已。入首皆沈雄富 ハ ハ ア 麗、杜律申尤有二力量一者。懐レ郷.懸レ閾.、慨レ往.傷レ今.。公之生 は ハ 卒具二見二干此二。乃公一生.心神結聚...所レ作。時二皇宗.大堺元年、 公春秋五十有五歳也。 ︵注1︶ 鴨説文解字臨三篇上に見える。 ︵注2︶ 清・沈徳潜鴨杜詩偶評﹄︵巻四︶に﹁溢岳に秋興の賦有り、秋に因って 感興るを雷ふ。重きこと興に在って秋に在らざるなり。毎章申、秋意を あら 見はす﹂と。西晋・潜岳の﹁秋興の賦﹂は﹃文選﹄巻十三に収める。 なお、兜唐詩貫珠﹄︵巻五十、秋︶に﹁晋の濡岳、秋興の賦有り。其の 序に曰く、時に秋なり。故に秋興を以て篇に命つくと。李善注に曰く、 釈名に田く、秋は就なり。万物就成するを言ふなり。又た周礼の注に、 興は事を物に托すと。梁簡文帝の秋興の賦に曰く、秋何ぞ興って尽きざ 壌33 文化情報誌部紀要,第10巻,2010年,133−168頁二宮俊博/津阪東陽『杜律詳解滋訳注稿 る。興何ぞ秋にして悲しまざると。此の詩の題、前人の賦に本づき、亦 た秋に因って詩感す﹂と。 ︵注3︶ 戦国楚の宋玉﹁応仁﹂其一︵兜卜辞撫巻八、冊文選﹄巻三十三︶に﹁悲 た しい哉秋の気為るや、新治として草木揺落して変衰す﹂というのから爾 た語。 ︵注4︶ 釈大典﹃唐詩解願﹄︵巻五︶に﹁三日二秋興↓、以二恩二値プ秋。也﹂と。 ︵注5︶ ﹃唐詩集註﹄︵巻五︶に﹁葉弘助云ふ、秋に因って感に触れ、百事紛集 た もつば す。惟だ首章純ら秋を叙す。後七章或いは秋を帯び、或いは秋を帯び ず、而して皆一時意中の事、故に秋興と田ふ﹂と。清・葉弘鋤には康煕 六十一年︵一七九六︶序刊の﹃李予鱗先生唐詩選平隔七巻がある︵内閣 文庫所蔵︶。その巻五。ちなみに葉弘渤は、﹁八首に分かつと難も、実は いかん 只だ一篇なるのみ、奈何ぞ選家乃ち或いは覇汰するや﹂として、﹃唐詩 選﹄には収めていない其二、其六、其八を増補し、八首全てを採録する。 なお、﹃唐詩選平﹄は、孫琴安﹃唐詩農本六百首提要﹄︵陳西人民教育 出版社、一九八七年。後に﹃唐詩選一提要駈と改題。上海書店、二〇〇 五年︶にはこれを著録していない。 ︵注6︶ 兜唐詩訓解騒︵巻五︶に﹁劉会孟曰く、秋興八詩は、大体沈雄富麗、哀 ごとごと ごと 傷無限、尽く言外に在り。人をして此れを読んで故さらに自ら厭はざ ごと らしむ。小家数の若き、彷彿す驚からず﹂と。鮮紅孟は、宋末元初の劉 辰翁︵字は会孟、号は須渓。=一三二∼一二九七︶のこと。沈雄富麗は、 落ち着いていて力強く、豊かであでやかの意。彷彿は、相似ること。 ︵注7︶ ﹃唐詩訓解﹄に﹁秋興八首は是れ杜律申最も力量有る者﹂と。 つぶさ ︵注8︶ ﹃杜詩偶評﹄に﹁郷を懐ひ閥を恋ひ、古を弔ひ今を傷む、公の生平具 ここ あら に此に見はる﹂と。恋闘の語については、訳注稿⇔、92門夜し詩の︵注 0 22︶も参照。 ︵注9︶ 詳註︵巻十七︶に引く野生﹃杜工部詩説﹄︵二八︶に﹁杜公の七律、繋 に秋興を以て裏写と為す。乃ち公が一生心神の結和して作る所と﹂と。 黄生の説は、﹃唐宋詩醇駈︵巻十七︶にも挙げる。裏領は、要点の意。
︿興﹀は、起である。晋・播岳に﹁秋興の賦﹂あり、秋によって感
慨が興るを言う。重点は︿興﹀にあってく秋Vにあるのではないの
だ。時に公は野州の西閣に寄寓していた。故国千里、帰りたくとも
帰ることができず、ちょうど悲しい秋の景物にあい、くさぐさの憂
いがこもごも︿興﹀つた。それゆえ一括して﹁秋興﹂と名づけた。
ただ首章にもっぱら秋を叙するのみで、後は必ずしもそうではない。
時々秋意をあらわすだけだ。八首はどれも沈雄富麗で、杜律のなか
なげでとりわけ力量のあるもの。故郷を懐い宮閾を恋い、往事を慨き今
を傷む。公の生平はつぶさにここにあらわれている。それこそ公一
こころもち生の心神が雪気して作られたもの。時に代宗の大難元年︵七六六︶、
公は五十五歳である。玉露凋傷。楓樹林 巫山黒黒氣薫森
︵注10︶ 起句言一秋場二老↓。露ハ白シ故二稻以玉ト。蓋玉露薄端、娯喋目ヲ幾 日.。風霜粛殺、早已二凋落.。轟客勤ユ垣戸づ、所二以鯛一レ懐二也。 ︵淀11︶ 特二言レ楓.者ハ峡中.所レ多キ也。次.句巫山十二峯巫峡一百六十 ︵注12︶ 里、高秋ノ氣象、恨望粛蓼タリ。而公當⋮﹂此時∼、流二寓ス其問∼、爲導 ︵澄13︶ 悲何如。ヤ哉。巫山寒露、詳二見二七前.∼。下.四句交股。テ癒コ山與折 ︵澄14︶ 峡。 ︵注10︶ 清・徐増﹃而憶説唐詩﹄︵三十七︶に﹁玉露とは、秋露白し、故に玉と 称す﹂と。 ︵注11︶ 楓は、寺島良安﹃和漢三才図会﹄巻八十二に﹁おかつら﹂とし﹁俗に かへで 蝦手の樹と為す者は非なり﹂と。マンサク科の植物。 ︵注12︶ ﹃大明一統志臨巻七十、璽州府、山川の条に﹁十二峰﹂を挙げ、﹁巫由 に在るを望霞・翠屏・朝雲・松轡・集仙・聚鶴・浄檀・上昇・起雲・飛 鳳・登龍・聖泉と日ふ。沿峡首尾一百六十里﹂と。 ︵注13︶ ︿巫峡﹀は、訳注稿㈹、4﹁官軍河南河北を沈むを聞く扁詩および訳注 む 稿ω、78﹁諸将五首﹂其五、85﹁峡申物を覧る﹂詩に見える。 む む ︵注14︶ 醇益﹃分類﹄︵巻一、四時︶に﹁申四句交股して巫山巫峡の四字に応ず﹂ と。宇都宮遜庵の増広本にも引くが、︿交﹀字を︿文﹀に誤る。また兜唐 詩集注駈には欄外に蒋一読の同様の指摘を挙げる。起句は︿秋﹀がすでにふけたのを言う。︿露﹀は白いので︿玉﹀と称
する。けだし︿玉露﹀や錦︿楓﹀が目を娯しませるのは幾日だろう
そこか。風や霜が害ない枯らし、もうはや葉を落とし始めた。羅客は過
壌34文化情報学部紀要,第10巻,2010年
ぎ行く年月を悲しみ、胸懐に触れるゆえんである。特にわざわざ
︿楓﹀と言うのは、老中に多いからである。次の句は、︿巫山﹀十二峯、︿巫峡﹀一百六十里にわたって、晩秋の気象︵ありさま︶は、恨
卜すると粛蓼︵ひっそり︶としている。公はこの時節に、そこに流
寓しており、悲しみをなすことどのようであろうか。︿巫山巫峡﹀は、詳しくは前に見える。下の四旬は交野︵互いちがいに︶して︿山﹀
とく峡﹀とに対応している。 江聞.波浪兼げ天ヲ湧 塞上.風雲接けテ地二陰ル ※兼⋮ヒトツラナリ 湧⋮タチアガル 接⋮ウチツ“キ 陰⋮クラク ナル ︵油15> 兼レ天ヲ用二荘子ノ語づ。兼ハ猫レ云一連ト也。言二風浪騰湧シ.ア、浩蕩浴謬 お り 天漢。塞ハ邊界也。嚢ハ爲二楚門鑑一一。所三口稻シテ三二塞上↓。接げテ 地二陰ルハ者、陰雲因け七二紛乱シ、暦層低回シ一.、充二満スル山墾鴫也。黄 ハ注18︶ 三嘆云、江濤ハ在レ地二三日レ兼叶天.、風雲ハ在レ天二而日レ接緊地。、 ハなま 極テ言工自運一一↓。陳午亭云、波浪兼レ天ヲ、風雲同盟地二、不瓢但 篤コノ、、、ナ..肇州ノ山水↓、公時。礒けテ舟ヲ欲レ下コト江灘∼、雪月孤舟ノ聴路。 所三以七二後聯之感↓也。案.ルニ風.字一聯.一軸、浪ハ騰シ雲ハ歴ス、傭 ︵注20︶ ︵注21︶ 仰.景象、一一二頻出。。悲肚雄渾、勢呑二宇宙↓。李干鱗謂此二四 鑛ト。一皮二相。ル天下.士弓也。 ︵注15︶ 釈大典﹃唐詩解顧﹄に﹁兼天﹂の下にコ一字出二荘子ごと注する。飛荘 子﹄天地篇に﹁道兼於天﹂︵道寄に兼ぬ︶とある。なお、仇兆贅の詳註に も挙げる。 ︵注16︶ ﹃唐詩貫珠﹄に﹁字書に塞は隔なり、辺垂なりしと。﹃字彙﹄に﹁先代 さい の切、音聾。隔なり、財界なり﹂と。 ︵注17︶ 明・徐師曾﹃文体明弁賑︵巻十五、近体律詩下、七言、述懐︶に﹁饗は た 楚の尽境為り。故に塞上と云ふ﹂と。また﹃唐詩貫珠臨に︵注16︶に挙 ゆ ゑ げた箇所に続けて﹁川峡、天険を挿して隔たり、楚蜀の辺界為り。所以 に称して塞上と為すしと。 ︵注18︶ 顧震﹃註解﹄に挙げる。宇都宮遮庵の両著にも引く。黄龍華は、伝不 詳。 ︵注19︶ 清・陳廷敬︵号は午亭︶の﹃財団詩話﹄巻下に﹁波浪天を兼ね、風雲 地に接す、但に野州の由水を写すのみならず。公時に舟を議して江漢に 下らんと欲す、此れ即ち孤舟の去路なり﹂と。 ︵注20︶ ﹃唐詩集注﹄に一下の﹁三四一気に拮出す﹂というのを挙げる。拮出 は、詩句を案禺する。表現する。 ︵注21︶ ﹃而庵説唐詩﹄に﹁李干鱗は此の二旬を粗なりと謂ふ。是れ天下の士 を皮相するなり﹂と。李子鱗は、明・李纂龍︵字は子鱗、号は濾漠。一 五一四∼一五七〇︶のこと。天下士は、天下の大人物。皮相は、上っ面 だけしか見ないこと。 ︿天を兼ぬ﹀は、﹃荘子﹄の語を用いる。︿兼﹀は、連というのとほぼ同じ。︿風﹀にあおられたく浪﹀が高く<湧﹀き立ち、ひろびうと
く天﹀にまでみなぎるのを言うのである。︿塞﹀は、辺界である。肇州は、楚が尽きる境界で、それゆえ︿塞上﹀と称する。︿地に接して
くも陰る﹀は、陰雲が風によってかき乱され、いくえにも低く重なって、
山墾に充満するのである。黄仲森が云う、﹁江濤は地にあって︿天を
兼ぬ﹀といい、風雲は天にあって︿地に接す﹀という、極めて陰晦
のありさまを言う﹂と。陳町営が云う、﹁︿波浪天を兼ね﹀、︿風雲地に接す﹀は、ただ嚢州の山水を写すばかりではない。公は時に舟を
回して江漢に下ろうと思っていたが、これはく孤舟﹀のゆく路にほ
かならない﹂と。後払の感慨を引き起こすゆえんである。案ずるに
︿風﹀字は一聯の枢軸で、︿浪﹀は高く逆巻き︿雲﹀は低く垂れ込めるという、術して見、仰いで見た景観を一気に拮出している。悲壮
雄渾で、勢いは宇宙︵天地︶を呑む。李干鱗がこの二句を粗︵大ざつ
ば︶だというのは、天下の大詩人を上っ面からしか見ていないので
ある。 叢一両タヒ開ク他日.涙 孤舟一二繋ク故園.心 ※両⋮マタモヤ 一⋮ヒタスラ ハなカ ハ お 上牛首巳エ第二秋景、大局㎝、下請首ハ是興感之懐。他日ハ往時也。公135
二宮俊博/津田東陽『杜律詳筋訳注稿 ︵注24︶ ︵注25︶ 自レ怠け今山爾恒見励菊。、故。言。所レ謂感け。時二花二淺け涙。也。是句 ︵淫26︶ ︵注27︶ 屡以山。。爾一。作レ重。。孤舟ハ即公欲けテ露玉故園∼而所〃買越。一ハ ︵注28︶ 者一偏之義。去春以來、孤舟空ク繋テ而未レ能レ獲スル。ト、故二日二一。 ︵注29︶ 繋搾。半句薦以二二。 ︵注22︶ ﹃唐詩貫珠臨に﹁半首已に秋景の大局足り、下半首は是れ興感の懐﹂ と。 ︵注23︶ 詳註に﹁他日は往時を言ふしと。なお、鈴木虎雄﹃些少陵詩集﹄︵巻十 七︶には、﹁旧解に他日を往日ととくあり、杜詩には他日を往日の義に用 ふると後Bの義に用ふるとの二つの場合あり、ここは大暦元年の今を含 みていふものなれば之を往Bの義としてみるは当らず、後欝の義として みるべきなり。蓋し去年今年両回道し花の後8感傷の涙をそそぐたね となるべきをいふ﹂と。 ︵注24︶ 杜甫が雲安から濠州にやって来たのは、大暦元年春のことで︵明・単 よ 復の年譜︶、ここに門襲に至りて自り両次菊を見る﹂といえば大照二年の 作となり、先に﹁大暦元年の作﹂というのと齪臨をきたす。 まさ モそ ︵注25︶ 綿唐詩集注﹄の欄外に﹁蒋云ふ、五六、正に︿時に感じて花に涙を鰻ぎ、 別れを恨んで鳥に心驚かす﹀と同意﹂と。蒋は、蒋一葵。 ︵注26︶ 釈大典﹃唐詩解顧﹄に第五句の下に﹁是の句、山に属す﹂と注する。 ︵注27︶ 銭注︵巻十五︶および輯註︵巻十三︶はく両﹀字を︿重﹀に作り、コ に両に作るしと注する。輯註は宇都宮遜庵の増広本に引ぐ。 む む ︵注28︶ ちなみに、釈大典兜詩家推敲﹄巻上に﹁双崔分離一。何.苦爵氏一偏ナ リ﹂と。径は、鶴の俗字。これは中唐・白居易﹁雨中に惚者の別鶴操を 弾ずるを聴く﹂詩︵﹃白氏文集﹄巻六十六︶の起句。 ︵注29︶ ﹃唐詩解願﹄に第六旬の下に﹁是の句、峡に属す﹂と注する。
前半部ですでに秋の景色の大勢は言い足り、後半部は胸中に湧き起
こった感懐。︿他日﹀は、往時である。公は労働に至ってから二度
︿菊﹀を見たので、それゆえ言う。いわゆる﹁時に感じて花に涙を
凌ぐ﹂である。この句は︿山﹀に属する。︿両﹀、一に︿重﹀に作る。︿孤舟﹀は、とりもなおさず公が︿三園﹀に帰ろうとして買ったも
の。︿一﹀は、一偏の義。去年の春以来、︿孤舟﹀は空しく<繋﹀い
だままで発することができない、それゆえ︿一に繋ぐ﹀という。こ
の句は︿峡﹀に属する。寒衣虚庭磁力尺↓ 白帝城高シテ急撃証書一
※寒衣⋮フユギ 刀⋮モノタチ 尺⋮モノサシ 急⋮セハシ ︵注30︶ 庭瀬催嶺刀工↓謂 家家作ン授衣料計↓。白帝城訟謂蓼府弓。砧音椹。 ︵注31︶ 掲レ衣.石也。峡中早寒、砧聲急節齪励風二、感勲時迫聖妻衣之候∼、 ︵注32︶ ︵注33︶ 薫蒸遠客無衣之恨︻。公序⋮﹂家累づ、無レ所二聯頼誘。當⋮﹂此伶愕∼、 一二彼丁當づ、難二復鐡石作ブ肝.、能不ンや沢目一目叱。 ︵注30︶ ﹃唐詩貫珠﹄に﹁白帝城上野声更に急なるを聴失す、其れ激後の語。家 な 家授衣の計を訂すに、我独り家の帰る凹き無きを謂ふ﹂と。なお、授衣 ひん の語は、﹃詩経﹄幽風・七月に﹁七月流火、九月衣を授く篇と見え、毛伝 に﹁九月霜始めて降り、早臥成る。以て冬衣を無く卸し実﹂と。 しつ ︵注31︶ 顧震﹃註解騙に讐砧は衣を掲つ石なり﹂と。 ︵注32︶ 郡傅﹃集解﹄に﹁旅客衣無く、益ます情に関らざらんや﹂と。また﹃杜 詩偶評駈に結句の右傍にも﹁客卜師衣の感﹂と注する。 には ちなみに、﹃文選臨巻二十九、﹁古詩十九首﹂其十六に﹁涼風率かに已 はげ に属しく、遊子寒くして衣無けん偏とあり、李善注に兜詩経﹄幽風・七 を 月の﹁衣無く褐無くんば、何を以て歳を卒へん﹂を挙げる。率已の已は、 接尾辞。 ︵注33︶ 訳注稿ω、鰹﹁府に宿す﹂詩にこの語が見え、﹁シドロモドロ﹂と左訓 を附し、詳解に﹁伶傳は、行くこと正しからざるの貌。因って零落の状 を謂ふ﹂と。 ︿処処刀尺を催す﹀は、どの家でも冬着の支度をすること。︿白帝城﹀ ちんは、卜書のこと。︿砧﹀、字音は椹。衣を討つ石である。峡中は寒く
なるのが早く、︿砧﹀の音が急迫した調子で風に掻き乱されて聞える。時節が授衣の候に迫るのに心感じて、遠く流寓する身で着替えのな
い恨みが切実である。公は家累を引き連れ、よすがとして頼るとこ
ろがない。このうろうろとさすらっている時に、かのテントンと響
く音を聞くと、鉄石を肝としたとしても、馬顔え魂消ゆる思いをせ
ずにおれようか。136
文化情報学部紀要,第10巻,2010年 94 i其二︶ 墓府、孤城落日斜ナリ 営門依﹂北斗∼望二京華↓ ※毎⋮イツモ なユ 穂首承二上ノ暮砧↓來ル、読テ自レ暮入レ夜。嚢音葵。自レ輿望い京ヲ在レ
︵淀2︶
河幅、長安城上直瀞北斗.∼、故二瞬一図シテ其光.∼中点レ之。。蓋山城日 ぬヨ 晩テ書留タリ、因テ而依﹂北斗.∼、以望二京華↓、卒生殖レ闘.之情、毎二 感コテ暮色∼盛切ナ。也。八章ノ大旨、特。於﹂此句∼拮出ス。孤ノ字與二ぬゑ
華、字一、見一尤難プ爲四穴。。北斗或ハ作南斗∼、誤。 ︵注1︶ ﹃麿詩貫珠﹄に﹁此の詩を詳らかにするに上の暮砧を承けて来たる﹂ と。 ︵注2︶ ﹃文体明弁﹄に﹁長安は北斗の下に在り。故に北斗に謄齢して之を望 むなり﹂と。なお、寛文六年︵一六六六︶刊の和刻本に﹁罐.ト依⋮﹂其 光.∼而望レ之.篇と訓点を施すのは、よくない。謄依は、鴨詩経臨小雅・小 み あら な 弁の﹁謄るとして父に匪ざる靡く、依るとして母に匪ざる廃し﹂から出 た語。 ︵注3︶恋闘の語については、訳注出国、92讐夜﹂詩の︵注22︶参照。む
︵注4︶ ﹃杜詩偶評﹄に﹁京華を望む。八章の旨、特に此の章に於いて拮出す﹂ と。拮出については、鵬の︵注20︶参照。 ︵注5︶ ﹃文体明弁﹄に北字の下に﹁一に南に作るは、非﹂と。また輯註︵巻十 三︶も﹁一に南に作る篇と注する。輯註は宇都宮三遷の増広本に挙げる。 なお、銭注︵巻十五︶はく南斗﹀に作り、﹁一に北に作る﹂と。顧震岡註 解﹄も同じ。また鴨単磁説唐詩﹄もく南斗﹀に作り、﹁世に誤って依北斗 と為すは、是に非ず﹂という。この一首は上の︿暮砧﹀を承けたもので、説いて暮より夜に入る。
き く饗﹀、字音は葵。若州より京を望めば北にあり、長安城の真上は︿北斗﹀にあたる、さればその光によって仰ぎ視てこれを望む。けだし
やまのまち みやこ 山城は日垂れて軒並としており、そこで︿北斗﹀にく依﹀って、︿京華﹀つね
を︿望﹀むと、日頃抱いている恋闘の情が、︿毎﹀に暮色に心感じて
ひとしお切実である。八章の大旨は、特にこの句において写出する。
︿孤﹀字と︿華﹀字と、とりわけ居たたまれぬ心持ちをあらわす。
︿北斗﹀は、あるいは︿南斗﹀に作るが、誤まり。 聴け猿ヲ實二下ル三聲.涙 奉睦テ使ヲ虚ク随。八月.磋 ※実⋮ホンニ 虚⋮ムダニ 上、旬承二蘂府↓、下、句ハ承二京華弓。猿ハ與レ盤景ナル。不 猫此方 ぬ 無桜島.之、西土零墨楚蜀、.、有レ之。其鳴.ト長シテ而悲。。故二日レ囎ト ア ハま エ 日レ契.ト、稻購断腸ノ聲↓、思過レ牛。 。水簾.註。挾中毒に悪露初霜 旦.∼、林寒ク澗諸語リ。常一有一高猿︸長鳴ス。厩引詰異、空軸傳レ響ヲ、 哀。ト韓久シテ絶。故二漁者、歌二日、巴東、三峡巫峡長シ、猿鳴。ト三聲涙 沽レ裳。警笛.三峡猿聲悲.、猿鳴,ト三聲涙論陣衣。。實二戸ルトハ者、昔 ばれ ぬむ 嘗テ聞レ読.、今實二下以涙。。只加二.實.字。、古語便新ナリ。史記二ぐほむ
漢、張審奉認テ使。西域 薬練河源づ。然トモ無二乗レ磋二事︸。博物志二載、 天河與レ海通ス。有下人遠海渚∼者上、毎年八月有二浮磋一、去來不レ 失レ期。。人有二奇思∼、歎けテ根。乗け之二等去ル。忽至二一庭く、有工城 郭、状一、遙一望ユ宮中↓、有工婦人.織↓、見下一丈夫牽⋮﹂牛。渚次︽ 飲拡ル。二二。問是何、庭.。答テ日、汝還。至レ蜀二間瀞、嚴君平.∼、則 知け之。。還テ慰問碧至∼。日、頃年某月有客星∼犯甑牛女↓。計渤二 年月↓此人到コシ天河く時貸。此即八月.磋、而飛騰。ト使.寛。無レ 渉.ト。一二諸無謬爲二目誤テ混用峰。然トモ違目有下乗けテ磋二消息断、 ぬや なが 無レ庭レ覚ユ。二張審づ之句上。唐土謙詩。亦云、煙ハ浮博望乗以。磋。水。 ︵注15︶ 案ス生宗懐ヵ荊楚歳時記二、漢、武器遣⊃張審づ使コ大群∼、尋二河源づ 経け月ヲ而至二庭.∼。見三城郭如ン州府づ。室内有二女.織↓。又見二 一丈夫牽け牛.飲菰ル,河二。審問此ハ是何ノ庭.。日、可レ十二嚴君 至∼。織女取﹂捲機重重ハレ審二。而還至レ蜀二間二君至∼、日、某年某月 客星犯瀦養女↓。措機石馬爲東方朔高所レ識。此難二荒唐附會↓、公亦 承襲シテ用レ之ヲ爾。黙誘ハ月ノ字↓、取二諸ヲ博物志.∼。因⋮﹂順順サルニ也。 盧ク随ハ翻現古事↓也。夫.八月.思入寛。能瀬二天河∼。今公ハ不レ得レ ハああ ぱレ 蹄裸。朝二、全心騰嵯二軍事、徒二作瀞虚随↓ 。胡製音量、虞註以 爲三公自比際張籍∼、則公田流落月客、奉上、二字屡以無に謂.。或ハ又137
二宮俊博/津阪東陽『杜律詳解凄訳注稿 ︵注18︶ 妄二謂、是時吐蕃入テ冠.、遣コテ御史大夫李之芳↓使以虜。爲レ所腺。 酉.。公蓋傷寒之.。此尤無レ渉。ト。絶テ不レ通−上下.線索∼。從横 庭∼播出シテ、不レ顧二死活↓ 。細二測聖語意づ、奉使ハ暗二指二三武ヵ節 度使ト.テ來プ無二。而公随レ山雪、原注下借﹂其仙磋↓以達軸.ト天朝炉。 ︵油19︶ 公立三三中之作エ云、主將蹄ン調署∼、我モ還テ訪㌣鶴邸弓。此乃素 志ナリ。何.期セ.鄭公平..妓.、寛二虚ク随二八月之磋.∼耳。要知。上句 聴け猿。實二下記涙。、不篇但爲コ.、オ.旅量り、原審存亡之感り先喝二出。 実スル之情↓、此ハ題言レ巽読。ト。滋養↓、翌翌一葦、是等一種最傷心、 ︵注20︶ 事。故二登二洩シテ子悲詮秋ヲ、漿括シテ言レ之。。妙在二随ノ字∼。是 欲読ナリ附載シテ而蹄↓ト。不レ用二乗.字づ、宗義甚顯ナリ。謂ゴ、自比孫張 ︵注21︶ 驚∼、則随ノ三無レ著 。磋達驚ハ天上,∼、此因﹂北斗∼承出ス。要二有二 ︵注22︶ 針線一。公之員外郎ハ、原由二鄭公御撰∼。公突コ。野鼠↓詩二、空ク飴. 老賓客、身上魏二箸縷づ。是亦感読ナリ其提抜弓。右下以下文部以工豊 省↓足吉之ヲ、而違二伏枕.∼亦即虚ク随之實事也。 ︵注6︶ 東陽の﹃蕾讃録﹄︵﹃一本藝林叢書﹄第一巻所収︶巻下にも﹁猿ハ猴ノ 種類ナルベケレドモ、漢土ニモ喋喋ノ山バカリ多クシテ、鯨国ニハ絶エ テ無シトナン、其帰クヲ囎クト称スレバ、鹿ノ鳴クゴトク長ク引キテ細 ク尖りカンダカクカナギー7タル声ナルベシ、嘱望悲酸清切ニシテ、耳二 貫キ心二言シテ哀ナリ、五雑組二、猿声哀二道雲外一、凄凄如瓢繁絃急 管︸、トアリ、此語ニテ其音ヲ想像スベシ﹂と。﹃五雑組臨は巻九、物部 一。ちなみに、寺島良安﹃和漢三才図会﹄巻四十、寓類怪類、獲の条に よ やしな 門獲[即ち嘘字]は本朝に未だ之膚らず。申華自り来たり之を畜ふこ のみ と膚る耳﹂と。猿はテナガザル、猴はマカク属のサル。 ︵注7︶ ちなみに、漢詩における猿契・猿繍⋮の用例として、15﹁九日二首し其 ユ 一に﹁殊方日落ち玄猿卜す﹂、珊﹁九日二首﹂其二に﹁風急に天高くして 猿囎悲し﹂と見え、前者の詳解に﹁猿は申子の無き所、唯だ楚蜀のみ之 有り。其の鳴くこと甚だ哀し。人選を断つに堪ふ。故に噛すと田ふ﹂ と。 ︵注8︶ あらましがわかる。﹃易﹄繋辞下伝に﹁知者其の謹辞を観れば、則ち思 ひ半ばに過ぐ契﹂と。 ︵注9︶ 冊水経蔵﹄巻三十四、如水。但し、︿随﹀字を︿谷﹀に作る。 ︵注10︶ ﹃唐詩貫珠臨に﹁猿鳴くこと三声涙下る。今ロハだ一の︿実﹀字を加ふれ すなは ば、劉ち三峡中の通套語に非ず。一字便ち新たなり﹂と。 ︵注11︶ ﹃史記﹄巻一二三、大宛列伝に﹁漢使、河源を窮む﹂と。 ︵注12︶ 酵益﹃分類撫、兜唐詩貫珠臨に引くが、︿天河鳥海通﹀の五字がない。﹃分 類賑は宇都宮趣庵の増広本にも挙げる。 ︵注13︶ ﹁感有り五首﹂其一︵詳註巻十一︶に、次のように見える。 將帥蒙恩澤 兵父有歳年 至今勢聖主 斎堂報皇天 白骨新交職 雲墓蕾拓邊 乗三唱一二無慮覚張審 将帥恩沢を蒙り、兵父軍慮有り 今に至って聖主を労し、何を以てか皇 天に報ひん も 白骨新たに交戦し、雲台旧と辺を拓く いかだ もと 磋に乗りて消息呪え、張審を覚むる に処無し ︵注14︶ 岡寺・唐彦謙﹁蒲津の河亭﹂詩︵﹃三体詩﹄巻二/﹃全唐詩﹄巻六七一︶ に、次のように見える。 宿雨清秋重鉢野 生庭高樹更農興 煙横断望乗磋水 日上文王避雨陵 孤棟断切期猫往 曲欄愁絶町長兜 思郷懐古多傷別 此際哀吟幾不勝 宿雨清秋 憲景澄めり 広庭の高樹 更に農に暫く もや 煙は横たはる博望権に乗る水 日は上る文紅雨を避くる陵 孤樟夷期して独往を期す つね よ 曲欄愁絶して毎に長く免る 郷を思ひ古を懐うて多く別れを傷む ほと た 此の際哀吟幾んど勝へず なお、﹃唐詩貫珠恥に﹁唐人の詩に、姻は横たはる博覧嵯に乗る水、と。 黄河を指して已に張審乗櫨を用ふム矢﹂と。 ︵注15︶ 六朝梁・宗榛鴨荊楚歳時記﹄には、元文二年︵一七三七︶刊の和劾本 ︵汲古書院刊鴨和刻本漢籍随筆集第十一集無に影印を収む︶があるが、 それには見えない。ここに引くのは逸文で、﹃歳時広記﹄巻二十七、得機 石の条に見える。守屋美都雄﹃申国劇歳時記の研究﹄︵帝国書院、昭和三 し きせき はた 十八年︶参照。捲機石は、機を支える土台の石。 ちなみに、珊夜航詩話﹄二四に﹁動転に︿使を奉じて虚しく随ふ八月の 磋﹀と、唐彦謙も亦た云ふ︿煙横たふ博望の磋に乗る水﹀と。此れ蓋し
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文化惰報学部紀要,第10巻,2010年 とも 唐人の慣用する所。然れども史記漢書に拠るに、拉に三審磋に乗るの事 た 無し。張華の博物志に止だ近世に人有り、海上に居り、毎年八月椎の来 もたら るを見るに、期を失はず。遂に糧を齎し之に乗り、天河に到るを載す。 宗慷、荊楚歳時記を作り、乃ち富源を窮むると天河に到るとを附会し、 以て張審の事と為す。後人遂に其の杜撰を襲ふのみL云々と。 ︵注16︶ ﹃唐詩貫珠﹄に﹁虞註以て少陵自ら張審に比すと為す、劉ち少陵は流落 の客、奉使の二字、謂はれ無きに署す。或いは又た妄りに謂ふ、是の時 吐蕃入憲し、御史大夫李之芳を遣はして虜に使して留むる所と為ると。 よ 此れ尤も渉ること無きに属す。絶へて上下の線索に通ぜず。横処従り 挿出し、死活を顧みず 。細かに其の意を測るに、奉使は是れ暗に嚴武 も が節使として川に来たるを指す。而して公之に随ふ。原と其の仙磋を 借りて以て天府に達せんと欲す。公が立秋院中の作に云ふ、主将調鼎に かへ 帰し、単三って旧丘を訪ねんと。此れ乃ち素志。何ぞ期せん鄭公中ごろ つひ のみ かな 妓し、寛に虚しく八月の磋に随ふ耳。要らず知る上句の猿を聴き実に涙 下るは、原と存亡の感の為に、先づ爽するの情を喝出す、此れは則ち鄭 公を奨すと言ふ、両句一華、是れ公一種の最も傷心の事。秋を悲しむに ゆゑん 発殺し、漿廻して之を言ふ所以。妙は随の字に在り。群れ附載して帰ら も んと欲す。乗の字を用ひず、其の義甚だ顕らかなり。若し己れ張審に比 すと謂はば、則ち随の字着すること無し 。嵯斗牛に達す、此れ北斗に 因って承出す。更に二線有り。公の員外、原と鄭公の題授に由る。公が は 鄭公を沖する詩に、空しく絵す老賓客、身上管縷を魏つと。寄れ亦た其 の提抜に感ず。今、下文に即ち画配を以て之を足す所以、而して伏枕に 違ふも亦た即ち虚しく随ふの実事なり﹂と。 かつ ︵注17︶ 虞註は、簡杜律虞註﹄︵上巻、四時︶のこと。それに﹁嘗て聞く張藩八 月露に乗じて使を奉ずと。今、行帰ることを得ざる、則ち八月磋に乗る こと虚と成る ﹂と。 ︵注18︶ 明・豊潤︵字は文長、号は青藤念入。一五∼二∼一五九三︶の説。ち なみに、清・葉矯然﹃龍性堂詩話続集臨︵郭紹虞編﹃清詩話続編﹄所収︶ よ に、奉使の句について﹁文長謂へらく、唐、吐蕃入域して自り後、嘗て こ 御史大夫李之芳等を遣はして往きて使ひせしむるに、留められて年を遽 ゆ。甫蓋し之を傷む。︵中略︶此に虚しく随ふと言ふ者は、正に李之芳 等を指すと。的解と謂ふ癒し﹂と。 ︵注19︶ 広徳二年︵七六四︶の作﹁立秋雨ふる、院申にて作有り﹂詩︵詳註巻 十四︶に、 山雲穴冠塞 大火復讐流 飛雨動華屋 薫薫梁棟秋 窮途憧知己 暮歯借前簿 已包茎至善 配給長者謀 解衣開北戸 高枕封南櫻 樹心風躍進 江喧水墨浮 禮寛心有適 飾爽病微霧 主將蹄曙染 我墨金蕪邸 山雲懸賞に行き、大火復た西に流る 飛雨華屋に動き、瀟薫として梁棟秋 なり は ︿主将﹀は厳武を指す。︿調鼎﹀は宰相職をいう。 ︵注20︶ 墜括は、ため木で正すこと。よく整える意。 心雛龍﹄鎗裁篇に﹁情理を墜接し、 ︵注21︶ ちなみに、鈴木虎雄簡杜少々詩集﹄ とし、此句を以て作者が成都に音聾に随ひし義となす。 を用ひしが、今案ずるに然らず、 懐一百韻詩の途申非び院籍.∼、塁上似笥張審.∼と同様に作者自己の事をい へるものなり。奉使とは天子の使命を奉ずるなり、地方に在りとはいへ 工部員外郎として存在するはこれ奉使なり。虚誕の随の字は他動詞に して自動詞に非ず、磋を我が身に随ふるをいふ、随”磋二とは前首の﹃孤 舟一繋﹄の意のごとし、磋を随ふと錐も之に乗じて長安に帰るを得ず、 故に虚シク随。といふ。八月とは作詩の時秋八月にして今春茅野に鋼りし より八個月なるをいへるならん、かく看て上句の蝉声と対し得て妥当な るべし。但しこの八月は或は博物志の毎年八月に来る磋の意を取ると 為すも必ずしも不可なし﹂と。黒川洋一﹃中国詩人選集杜甫﹄上︵岩波 書店、昭和三十二年︶、臼加田誠鴨杜甫臨︵漢詩大系、集英社、昭和四十 窮途知己の、暮歯前簿を借るに絶ち なん 已に清農の謁を費す、那ぞ長者の謀 を成さん 衣を解きて北戸を開き、枕を高うし て南楼に対す うるほ 樹湿ひて風涼進み、江喧しくして 水気浮ぶ 礼寛にして心適ふ有り、節爽にして すこ い 病親しく滲ゆ かへ 主將調製に帰せば、我も還って旧邸 を訪ねん ︿旧郵﹀は故郷。 例えば、六朝梁・劉魏﹃文 文采を矯乱すしと。 に﹁旧解多く軍使乗磋を厳武が事 余も久しく其解 蓋し全句は巻十九に見ゆる秋日饗府詠
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二宮俊博/津阪東陽『高高亭亭訳注稿 年︶も、鈴木説によって杜甫自身についていうと解する。 ︵注22︶ ﹁八哀﹂詩其三﹁贈寒露射鄭国公厳公武﹂詩︵詳註巻十六︶、五言六十 八句の結びの二旬。
上の句は︿嚢府﹀を承け、下の句は︿京華﹀を承ける。︿猿﹀は、猴
と異なる。わが国にいないばかりでなく、西土︵中国︶でもただ楚
や蜀だけにいる。その鳴くこと声長くして物悲しい。それゆえ囎と
いったり突といって、断腸の声を称することからすれば、思い半ば
に過ぎよう。﹃水経注﹄に﹁一中では晴れて霜の降りた早朝になると、 たに林は寒むざむと澗はひっそりとしている。かかる時、高いところに
棲む猿がいつも声を長くのばして鳴く。ひとしきり続いて凄まじ
ひとけく、人気ない山に悲しげな響きを伝え、哀しむことますます久しく
して途絶える。それゆえ漁者の歌に曰く、﹃巴東の三峡巫嫉長し、猿
うるほ鳴くこと三声涙裳を卜す。巴東の三峡四声悲しむ、猿鳴くこと三
声涙衣を沽す﹄とし。︿実に下る﹀とは、昔かつて話には聞いたが、今︿実﹀に涙を︿下﹀す。ただ︿実﹀の一字を加えただけで、古語
がたちまち新しくなっている。﹃史記﹄に漢の張審が西域に使いを
みなもと いかだ奉じ、黄河の源を窮めたとある。されど︿磋﹀に乗った故事は見
えない。﹃博物志﹄に載せる話に﹁天河は海と通じている。海辺近く
に居住している人がいて、毎年八月になると嵯が漂って来、時期を
はずれなかった。その人は奇妙なことを思いつき、食糧を持参して
それに乗っていった。ふととある場所にゆきついた。城郭のような
はたところがあり、遥かに宮中を望むと、婦人が機を織っており、一人
の男が牛を渡し場に牽いて水を飲ませているのが見えた。どこかと
問うと、もどって蜀に行き厳君平に問えば分かると答えた。もどっ
てから厳君平に問うと、曰く某年某月、客星が牛女を犯したと。そ
の年月を計算すると、この人が天河に到った時であった﹂と。これ
はく八月の嵯﹀にほかならない。しかし︿使を奉﹀ずることとはつ
いぞ関係がない。それゆえ諸註は公が誤って混用したとみなしてい
る。されど公には他に﹁嵯に乗じて消息謡え、張憲を覚むるに処無
し﹂の句があり、唐彦謙の詩にも﹁煙は浮かぶ博望嵯に乗ずる水﹂
と云う。案ずるに旧懐﹃荊楚歳時記﹄に﹁漢の武帝は張憲を派遣し
て一夏に使いさせ、河源を尋ねて一ケ月を経て、とあるところに至った。州府のような城郭が見えた。室内に一人の女が⋮機を織ってい
た。さらに一丈夫が牛を牽き河に水を飲ませているのを見えた。張
審がここはどこかと問うと、曰く、厳君平に問うがよいと。織女は
捲酒石を取り出して張器に与えた。もどって蜀に至り厳君平に問う
と、曰く、某年某月客星が一女を犯すと。一月石は東方朔が識って
いた﹂と。これは荒唐無稽で牽強附会であるけれども、公もやはり
継承踏襲してこれを用いているのだ。︿八月﹀の字をつけたのは、こ
れを﹃博物志﹄に取る。時節が秋であるのによるのである。︿虚しく
随ふ﹀は、故事をひっくりかえして用いたのである。そもそも︿八
月の磋﹀は、ついに天河に到ることができた。今、公は朝廷に帰る
ことかなわない。これは張審が︿磋﹀に乗ぜし故事に、いたずらに
︿虚しく随ふ﹀ことになったのである。胡弓亭が云う、﹁旧註は公自ら張審に比すとしているが、とすれば公は故郷を離れた流落の身で
あるから、︿奉使﹀の二字はいわれのないものに属する。或いはさら
に妄りに考えて、この当時、吐蕃が入冠し、御史大夫の李之芳を派
遣して胡虜に使いし抑留された。公はけだしこれを傷んだのだろう
としている。これはとりわけ無関係だ。断じて上下の旧注︵つなが
り︶に通じていない。横処より召出して、表現の死活にはおかまい
なしだ。細かにその意を推測するに、︿奉使﹀は、暗に厳武が節度使
として蜀に来たことを指している。そして公はこれに随ってもとも
とその三嘆を借りて以て天朝に達しようとしていた。公の﹃立秋院
中の作﹄に云う、﹃主将調鼎に帰し、我も還って旧丘を訪ねん﹄と。
これこそ素志なのだ。予期しなかったのは、一図︵厳武︶が中ごろ
恥したことで、ついに︿虚しく八月の磋に随ふ﹀ほかない。要する
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文化情報学部紀要,第10巻,2010年
に上の句の︿猿を聴いて実に涙を下す﹀は、旅寝の浮き草暮しのた
めばかりでなく、もとより逝去の感のために、先ず突するの情を叫
び出しており、これは鄭公を慨するのを言うのがわかる。両句は一
連なりで、これは公の最も傷心の事である。それゆえ秋を悲しむこ
とに発洩し、藥括︵整理︶してこれを言う。妙は︿随﹀の字にある。
これは厳公に附載して帰らんと欲するのである。乗の字を用いない
で、その意味ははなはだ顕らかだ。自ら張箒に比すといえば、︿随﹀
の字は落ち着くところがない。︿嵯﹀が天上に達するのは、ここでは
ねつまく北斗﹀にちなんでそれを承けて表現しており、さらに運針の巧さ
がある。公の員外郎は、もともと鄭公が上奏して授官したことによ
る。公の﹃鄭公を斐す﹄詩に﹃空しく鯨す老賓客、身上管縷を悦づ﹄
と。これもやはりその力添えや引き立てに心感じている。下文にと
りもなおさずく画省﹀をもってこれを言い足すゆえんで、︿伏枕に違
ふ﹀のもやはりとりもなおさずく虚しく随ふ﹀の実事である﹂と。
書省.香燵違ユ伏纏∼ 山王.粉蝶隠⊃悲茄一 お 上.句以二京華↓言。漢官典職印云、楽書省ハ以二胡粉づ塗の壁。書ン古賢 烈士↓。故。稻コ豊省↓。又樹書心入直.。給コ。女侍史二人づ、以二香 櫨弓相從ア護惣衣服↓。違恥伏枕.∼頂尋上ノ虚像∼言。嘆読徒。臥け病。相 違テ不プ得レ預﹃ヲ其事∼也。.下ノ句以二嚢府↓言。山櫻ハ即肇ノ三遍。 な 喋ハ城上ノ転転、飾ルニ以コ壌土↓、故二日二粉蝶↓。隙曖曖茄⋮言警払人ヲ お ハ 茄聲惨切棲噺、望レ之魚見薫山櫻粉喋黒雨夕陽↓耳。二句倒装、言ギ 伏枕違一書 省.香櫨.∼、悲茄隠㈱.山櫻.粉薬一三。 ︵注23︶ 後漢・藥質﹃漢官典職臨︵﹃初学記臨巻二十四、居処部、矯壁第十一に 引く︶に﹁省中立胡粉を以て壁に塗り、強弱もて之を界す。古烈士を画 くなり﹂と。また同書︵﹃初学記﹄巻二十五、器物部、香炉第八に引く︶ きよ に﹁漢尚書郎、端正の女侍史二人を給して、衣服を潔くし、香燃を執り、 焼漁せしむ﹂と。 ︵注24︶ 醇益﹃分類﹄に﹁粉蝶は城上の女縞、飾るに墓土を以てす。故に粉蝶 と日ふしと。宇都宮趣庵の増広本にも引く。女播は、ひめがき。墓詣は、 自証。 ︵注25︶ ︿隠﹀字については、郡宝﹃集註﹄および薩益鴨分類﹄にこれを﹁痛な イタム りしと解し、また和刻本﹃文体明弁﹄は﹁山楼ノ粉蝶三二悲茄ごと訓点 を施すが、釈大典﹃杜律発揮﹄は﹁茄声起レ於二粉蝶之内︸、故二日レ 隠ト。解驚ハ隠痛↓、非﹂とする。 なお、鈴木虎雄鴨極少陵詩集﹄には﹁由楼の粉蝶隠れて悲茄あり﹂と 訓じ、﹁隠とは山楼の粉喋が隠るるなり。日暮れんとするゆゑなり﹂と 説く。目加田誠﹃杜甫﹄も同じ。これに対して黒川洋一﹃中国詩人選集 杜甫上﹄は、﹁山楼の粉蝶隠たり﹂と訓じ、隠はおぼろに音を立てている さまと解する。 ︵注26︶三三については、訳注一口、01﹁張氏の隠居に題す﹂詩の︵注12︶参0
照。 なお、鈴木虎雄﹃杜遺芳詩集﹄は、この二句をいずれも﹁上五字下二 字の句法﹂として、﹁画省の香雲に違ひて枕に伏す、山楼の粉蝶隠れて悲 茄あり﹂と訓ずる。上の旬は︿京華﹀をもって言う。﹃漢官年三﹄に云う、﹁尚書省は胡
粉を以て壁に塗り古賢烈士を描く﹂と。それゆえ︿画省﹀と称する。
また﹁尚書郎入直す。女侍史二人を給して、香櫨を以て相従いて衣
服を護す﹂と。︿伏枕に違ふ﹀は、上の︿虚しく随ふ﹀に接続して言
う。いたずらに病に臥して相︿違﹀い、その事に預かることができ
ないのを嘆ずるのである。下の句は︿嚢府﹀をもって言う。︿山楼﹀
ひめがきは、とりもなおさず蘂州の城楼。︿蝶﹀は、城上の女旛。飾るのに聖
土をもってするので、それゆえ︿粉喋﹀という。︿射影隠る﹀は、人
をぎくつとさせる︿茄﹀の声は乳切三吟︵ものすごく悲しげ︶で、
これを望めばただ︿山楼の粉彩﹀が夕陽を帯びるのが見えるのみと
言うのだ。半影は盤上で、﹁伏枕画省の虚言に違ひ、悲茄山楼の粉蝶
に隠る﹂のを言うのである。 三三。石上藤羅.月 已二映.洲前回萩.花 ※已⋮モハヤ 14壌二宮俊博/津阪東陽魁律詳解』訳注稿 ぱ 青藤山人路史二云、藤薙ハ是夏月、薦萩ハ是秋冷。言工光陰易↓レ逝 ぐ 也ト。此黒黒。豊レ有跨味。從前.脚註ハ以爲二月華之移リ韓誘ト、若レ 囎励蝋。耳。蓋夏天、涼月、石上藤羅、尊影、流年荏薄、忽已誼ぐ洲 前.事宜 相映。、善光凄然、不レ堪一帳望鴫。夫.如レ是.年復一年、愁 なみ 中。過了ル。不レ知何、年ヵ得レ蹄搾。京華∼也。此風食﹂家城.晩景︽、 思二望シテ長安弓、而恨レ不拷得二若樹課.。起庭將⋮﹂蘂府京華↓讐提 ぬ 出ス。三六皆承二饗府↓、四五ハ承一京華づ。結敏け入搾ヲ夜二、且鮎瀞秋 景↓、而傍テ蹄コ之。嚢府鴫、亦爲二次首づ過接スル也。 ︵注27︶ ﹃青藤山人路史﹄は、明・徐潤︵字は文長。一五二一∼一五九三︶の撰。 とも たま 全二巻。その巻上に見える。なお、顧農﹃註解隔に﹁諸註倶に云ふ、適 まさ たま日の斜めなるを見、忽ち月出で正に石上を照らす者の忽ち已に移っ ゆゑん て洲前を照らす。光陰迅速、悲しむ暗き所以。徐文長が曰く、藤羅は夏 月、薦萩は球花。傷むこと甚だし、と。此の解更に情有りと為す﹂とい い、宇都宮遜庵の両著に挙げる。また釈大典﹃調律発揮﹄にも﹁徐文 長,説更看レ味可レ従﹂と。これに対して、仇兆贅の詳註︵巻十七︶は﹁徐 溺の藤羅・蔵萩を以て夏・秋を分かつは未だ合はず﹂と反駁する。 ︵注28︶ 前の︵注27︶に挙げた語聾兜註解﹄参照。 いつ ︵注29︶ 顧震﹃註解臨に﹁知らず何れの年か京華に帰るを得んやしと。宇都宮 旧庵の増広本にも挙げる。 もつ ︵注30︶ ﹃唐詩貫珠﹄に﹁両肩川陳を将て双提出す。三六心嚢府を承け、四五京 よ 華を承く。結も亦た一落を承け、而して傍って之を嚢府に帰す﹂と。 ﹃青藤山人路史﹄に云う、﹁︿義眼﹀は夏月、︿鳥越﹀は詞花。光陰の
逝き易きを言ふなりしと。この解釈にかくべつ味わいがあるように
思う。従前の旧註はいずれも月光の移り転ずることとみなすが、蝋
を噛むように味気ないものだ。けだし夏天の涼やかな月が︿石上﹀
さや ひかり︿藤羅﹀を照らした清けき影は、時が車懸︵ゆるゆる︶と流れるう
ちに、たちまちもう︿尊前﹀のく盆花﹀と相映じ、寒むざむとした
光が凄然として、恨望するにたえない。そもそもかくのごとく年が
また一年と、愁のうちに過ぎ去ってしまうと、いつになったらく京
華﹀に帰れるのか分からないのである。この篇は籠城の晩景によっ
て、長安を思い望み、我が身は往くことができないのを恨んでいる。
諸処は︿饗府﹀︿京華﹀を並べて提出し、第三句と第六句とはいずれ
もく嚢府﹀を承け、第四旬と第五句とは︿京華﹀を承ける。結びは
夜に入ることを述べ、それに秋景を点綴し、それでそのままこれを
︿謹書﹀に帰す、やはり写録のために過振︵橋渡し︶するのである。 95 i其三︶ 0 千家.山郭静鉱朝暉︸ 日日馬糧坐コ翠微∼ ぬエ 此首感身.曉景.∼掃墨ル。蓋四書原書二日芳墨∼。首濃州薄暮之景、 次ハ因テ叙受入燦.夜二、此ハ墨斑巳二一テ而農二起テ有レ燭.ト也。千家ハ ヨ ぬぐ 謂篇城市之小坑ヲ。山郭ハ一二其僻壌。。暉ハ日光也。一.静、字爲⊃墨。 ら な 山城.秋朝清朗冷寂ノ光景り。師翠微櫻上。り所与下二鰍↓也。清憺隻 い 禰.テ爲二古今七律第一.妙起句↓、非二総評∼也。公所〃寓.ル西閣、 あ 難レ椅け山。而下臨ユ豊水∼、故。貝急撃↓。輪蔵。山未レ及レ上。日瀞翠 微↓。蓋指訂山腹↓而言ナリ。公之縷居在二山腹積翠脳中∼、故二日レ 坐蜂翠微︽。所レ居與レ所レ望ム、皆清幽可レ悦フ、然トモ日日坐協此二、悠 まむ 悠度”日。、旅況無頼、已二動コ下文之感↓ 。 ︵注1︶ ﹃文体明弁臨に﹁此れ暁景に感じて作る﹂と。 もと ︵注2︶ ﹃唐詩貫珠﹄に﹁秋興詩、原より一蓋の作に非ず。前二年忌覧れ日暮、 此れは則ち農に起きて触るること有るなり﹂と。 ︵注3︶ ﹃蒲一説唐詩駈に﹁山郭は其の僻なるを言ひ、千家は其の小なるを言 ふ﹂と。 ︵注4︶ ﹃文体明弁﹄に﹁暉はB光なりしと。臨益﹃分類駈も同様の注。﹃分類﹄ は宇都宮遜庵の増広本にも挙げる。 ︵注5︶ 顧震糧註解﹄に﹁一言字、清秋惨淡の景を写し尽くす﹂と。宇都宮遷 庵の増広本にも挙げる。 ︵注6︶ 江村北海︵字は三三。一七=二∼一七八八︶の実弟、清田憺嬰︵一七 一九∼一七八五︶のこと。但し、何か見えるところがあるのか、不明。 壌4,2文化二二学部紀要,第10巻,2010年 なお、津坂治男﹃津坂東陽伝﹄︵桜蕃社、昭和六十三年︶の﹁三、京で帷 を垂る﹂には、﹁少なくとも詩の分野では、彼江村北海は、東陽の最大の 師であったのだろう﹂とし、﹁北海の実弟清田君錦︵藍島嬰、孔雀楼主人 とも称す︶にも、東陽は教えられるところがあったという﹂と述べる。 同氏の﹃生誕二百五十年 津坂東陽の生涯﹄︵竹林館、平成十九年︶﹁京 での勉学i常師なく一﹂にもほぼ同様の記述が見える。ちなみに、﹃蕾 下堀﹄巻下には、君錦から直接教わったという﹁文章助字ノ要訣﹂を記 す。 そ ︵注7︶褒め過ぎ。簡荘子﹄人間世篭に﹁診れ両喜必ず溢美の言多し﹂と。 ︵注8︶訳注稿ω、81﹁十二月一日三首﹂其三参照。 む ︵注9︶ ﹃唐詩貫珠﹄に﹁蓋し楼は山腰翠微の処に在り。楼に坐せば即ち翠微 に坐するなり﹂と。 も かく ︵注10︶ この言い方、例えば、﹃朱子一類﹄巻十七、大学四に﹁若し是の如くな な らずして、悠悠として臼を度り、一日に一日の工夫を吹し得ずんば、只 な だ長進ずること聴きを見ん﹂と。﹃朱子語語﹄には寛文八年︵一六六八︶ 刊の和刻本がある。
この詩は明け方の景色に心感じて作る。けだし八首はもともと一日
の作ではない。首篇は薄暮の景、次はそれで夜に入ることを叙し、
これは夜がすでに過ぎて農に起きて目に触れたものである。︿千家﹀
ま ち は、城市の小なるもの。︿山郭﹀は、その僻地であるのを言う。︿琿﹀ やまのまちは、日光である。︿静﹀の一字は、山城の秋の朝がたの清朗冷寂な
る光景を写し尽くしている。とりもなおさずく翠微﹀のく楼﹀上よ
り見下ろしたものにほかならないのである。﹁清憺隻が称えて古今の
七律のなかで第一の妙絶なる起句だとするのは、褒め過ぎではない。
公の寄寓する西閣は、山に寄り添っているが、下は︿江﹀水に臨ん
でおり、それゆえ︿江楼﹀という。﹃翁島﹄に﹁山未だ上に及ばざる
を翠微と日ふしと。けだし山腹を指して言うのであろう。公の︿楼﹀
みどりの住まいは山腹の積みかさなった翠のなかにあり、それゆえ︿翠微
に坐す﹀という。居るところと望むところと、いずれも清幽で気に
入ってはいるが、されど︿日日﹀ここにく坐﹀し、悠悠︵うかうか︶
と日を過ごす、旅寝の浮き草暮しは寄るべなく無聯で、すでに下文
の感慨を動かしている。 信宿.漁人還タ達書 清秋.燕子恩寵飛※信宿⋮トマリガケノ 還⋮ヤハリ 澄澄⋮ブラりく 故⋮ワザト
飛飛⋮チラホラ な な 此即江櫻ノ所レ見、承二上ノ日日づ來。。再宿.日レ信ト。還ハ復也。循 い ユ 環シテ不レ已マ之義。因テ韓シテ作一可けテ罷而不レ罷之辮↓。如訣曉庭還饒ル だ 折屈ス枝、癖衣砧上彿テ還來づ、其義可レ見已。乏澄ハ有二無瞬所レ得ル之 め 意一。昨暮所け見シ漁舟蓬姥ア旦二三レ婦.、一三二丁タリ子江上∼。故ハ特 ハ ハぬり 爲也。燕子至﹂回心.∼皆去ル。今一㌘引池凋傷之候∼、故二訪.而言レ 之。。一聯感動二還故、二字.∼。蓋漁人燕子皆當に去ル而且滞ル、以 ぬあ雪靴己力轍鮒泊.不折定.。二上ノ孤舟一二繋ク之意。抑又朝暉瞳
な朧、秋波善意、漁舟燕子排桐.忌中∼。盛事濡のシ天声風浪、如今
安ζ在ルや哉。詩筆斡認天機↓、不赤玄妙せ.乎。讐⋮一諸ヲ観折劇。、 な 毎︸一心⋮一種.境界、喜怒唯事、翻韓攣化、斬新.日月、特地、乾坤。 故エ終日不レ倦、唯恐ル場ノ畢↓ヲ。是一題曝首ノ局法、豪者須レ船足此 機一也。 ︵注11︶ 郡傅﹃集解﹄に﹁再宿を信と日ふ﹂と。 ︵注12︶ 釈大典﹃詩語解﹄巻上、還の条に﹁字彙二七ハ返也。復也。男主。帰也。 ヤマ 詩家用聖ト還、字弓亦多。、大抵循環。テ不レ已之義与二循環シテ来り就,之義 也﹂ と。 ︵注13︶ 晩唐・鄭谷の七絶﹁十日の菊﹂詩︵﹃三体詩﹄巻一︶の承句。 ︵注14︶ 初唐・張若虚の七三﹁春江花月回し︵﹃唐詩選繍巻二︶の第二十二句。 ︵注15︶ もとつくところあるのか、不明。 ︵注16︶ 訳注八議、鵬﹁所思﹂詩には、﹁故﹂字に﹁ワザニ﹂と左回を施し、詳 解に﹁故は、猶ほ特のごときなり﹂という。その︵注14︶参照。 ︵注17︶ 輯註︵巻十三︶に宋・寵元英﹃文章雑録﹄︵巻三︶の﹁燕子秋保に至っ て乃ち去る。仲春復た来る﹂というのを挙げる。輯註は、宇都宮遜庵の いぬ 増広本にも引く。秋社は、秋の社日︵立秋後の第五の戌の日︶。143
二宮俊博/津阪東陽『杜律詳解盟訳注稿 ︵注18︶ 沈界面﹃杜詩偶評﹄に﹁二句、己れの漂泊に喩ふ﹂と。また釈大典﹃唐 詩解願﹄に﹁漁人当に帰而下郎迂、燕子当レ去而更飛、然トモ豊二.司許終二 住ス者ナ...ヤ乎。以況二己之客遊不折定﹂と。 ︵注19︶ 例えば、﹃広韻﹄東韻の瞳に﹁瞳朧。日明けんと欲するなり﹂と。 ︵注20︶ 禅籍に見える語。例えば、宋・顧蔵主編﹃古尊宿語録臨巻三十九、智 門柞禅師語録に﹁一朝に因って、上弓して云ふ、斬新の臼月、母地の乾 ことこと 坤、人人尽く一歳を加ふし云々と。また巻四十二、通洞由語録にも﹁僧 問ふ、之を用ふれば則ち行ひ、之を捨つれば則ち蔵す時如何と。師云ふ、 斬新の日月、特等の乾坤﹂と。
これはとりもなおさずく江楼﹀にて目に入ったもので、上の︿日日﹀
を承けて来る。静劇を︿信﹀という。︿還﹀は、復である。循環して
やまない意。そこから転じて罷むべくして罷まざるの辞となす。
ま めぐ ﹁暁庭還た続る折り残る枝﹂、﹁癖衣前上払って覧た来る﹂のような句例から、その意味は見てとれるのだ。︿泥泥﹀は、得るところがな
いという意がある。昨日の暮れに目にしたく漁﹀舟は夜明け方に達
してもいまだ帰らず、︿還た﹀江上に︿泥泥﹀︵ぶかりぶかり︶と浮
つばめかんでいる。︿故﹀は、わざわざすることである。︿燕子﹀は、秋の
とき社日になると皆去る。今は︿楓樹﹀がく凋傷﹀する候になっている
ので、それゆえ詩って言う。この一聯、感慨は︿還﹀︿故﹀の二字に
ある。けだし︿漁人﹀︿燕子﹀いずれも当然去るべきであるのにぐず
ぐず留っている、それで己れの瓢下して定まらないのに比況するの
であろう。上の︿孤舟一に繋ぐ﹀の意にほかならない。そもそも又
たく朝暉﹀はだんだんと明るくなり、秋波は鏡のごとく浄らかで、
︿漁﹀舟や︿燕子﹀はそこにあって俳徊︵ゆきつもどりつ︶してい
る。昨日の暮れ天に届かんばかりにあふれた風浪は、今はどこにあ
めぐるのか。詩人の筆は天機︵創作のからくり︶を斡らせて、なんと玄
妙なことか。これを芝居見物にたとえると、一坐︵一幕︶ごとに一
つの境界があり、喜怒哀楽の感情が翻転変化し、﹁斬新の日月、特地
の乾坤﹂︵日常とは異なった時空間︶である。それゆえ終日倦むこと
なく、ただ劇が終わることを恐れている。これは同一の題で数首を
作る場合の局法︵布置のしかた︶で、学ぶ者はぜひともこの機微に
参じなければならない。 匡衡抗け疏ヲ功名薄ク 劉向傳け経ヲ心事違. ※抗疏⋮ゾンネンヲツクシケルニ 伝経⋮セツカクニガクモンシテ 抗耳塞也。謂レ上励ヲ之ヲ也。疏ハ者疏二條シ.其事弓寡言レ之ヲ。見二楊雄カ バ ふ 解醐∼。傳い経.謂レ研二究スル.聖學↓。二句慨コ己力之不遇↓。匡衡劉 ぬカ 向、拉二漢.名臣。元帝.時衡二一上塑ア疏.論断政.、遷瀞光緑大夫∼。 然トモ終不レ能レ建﹃大功弓、故二日二功名薄↓ト。向仕二成帝∼爲二諌議大 夫↓。講論シテ五経づ見レ用。然トモ亦不レ得レ行﹃。吾道づ。故二日二心事 違謀。蓋匡劉堰け漢二、論⊃政治.得失づ、以レ救”時.爲レ心ト。公忠義 ぬ 倦倦、憂け國。無レ已,ト。故二選三一人づ自比シテ、而嘆似嘗テ居二諌官∼ 不レ能レ匡裸政.、徒二抱⋮﹂遺経↓、無ゲ由レ行に道。也。蓋公一肚皮不レ ︵注24︶ ︵注25︶ ︵注26︶ 合二時牢∼。彼其稜契ノ志業、寛二達意龍之技↓ 。 たと ︵注21︶ ﹃漢書﹄巻八十七下、三世一下に見え、そこに﹁饗ひ上世の士をして今 の世に処らしむるも、策は甲科に嘆ず、行は孝廉に非ず、挙は方正に非 ず。独り疏を抗げ時に是非を道ふ可きも、高きは詔を待つことを得、下 たてまつ は聞に触れて罷めらる﹂とある。顔師古の注に﹁抗は挙なり。之を上 るを謂ふなり。疏は其の事を疏条して之を雷ふ﹂と。 ︵注22︶ 匡衡の伝は、﹃漢書臨巻八十一、劉向は巻三十六の楚元王伝に見える。 このうち匡衡については、杜詩に次のような例がある。 にはか つひ ・匡汲俄に寵辱、衛樫覚に哀栄 ︵詳註巻十六、﹁八哀詩﹂其三﹁再構書写苦寒公厳公武﹂︶ ※汲は、漢の汲籍。切諌で知られた。衛は、漢の衛青。穣は、漢の 窪去病。ともに将軍として名高い。 かつ ・質誼昔流弾し、匡衡嘗て経を引く ︵詳註巻十九、コ兀明君の春陵行に同ずし︶ ︵注23︶ 倦倦は、真心を尽くすさま。訳注稿㈹、40﹁野を望む﹂詩の︵注18︶0
参照。 ︵注24︶ 其七の顧震﹃註解﹄に﹁一撮翁の一字、杜老が一股皮、時宜に合はず、144
文化情報学部紀要,第10巻,2010年 おほい 大に目は四海を空しうするの意有りしと。宇都宮遜庵の増広本にも挙 げる。 なお、︿一肚皮、時宜に合はず﹀は、腹の申に詰まっている思想感情が 時世に合わぬという意。北宋・蘇東披︵蘇戟︶の侍児朝雲がその腹を見 て、﹁学士の一肚皮、時宜に合はず﹂と言った故事︵南宋・費褒﹃梁難漫 志臨巻四、侍児対東披語の条︶に拠る。 ︵注25︶稜契については、訳注稿日、11﹁省申の院壁に題す﹂詩の︵注31︶参 0 照。 ︵注26︶ 屠龍之技については、訳注自国、84﹁悶を遣る、戯れに路十九曹長に