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ウィトグンシタインと哲学

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Academic year: 2021

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(1)ウィトグンシタインと哲学 川 Wittgenstein. Philosophy. and. Ginya. 也. 仁. 村. KAWAMURA*. SUMMARY wittgenstein・s very. different. philosophical in Tractatus. works. are,. as. pointed losophicus and. Logico-Phi. out. by. severalauthors・ InvestigaPhilosophical. and the latter language-games betThe following and di鮎rence paper clear the identity theory. makes on hand the one philosophy en wittgenstein analytical and logical positivism to bin, is, according not solution but on The task of pbilosopby the other. language・ The by the analysis of disappearance of the uses of the problem Is the ethical But is not the whole why? of the language-games・ naming the probkn of ethical language? problem. ti。ns.. The. former. assumes. theory. re且ection. 「過去二十年の講壇哲学者を二つの学派が支配していたといえるoはじめは論理実証主 義,つぎに,イギリスのケンブリッジ,オックスウォ-ドに生れた分析哲学であるo奇妙 ●. ●. ●. ●. なことだが,この二つの運動はいずれもウィトゲソシタインから強い影響をうけたo論理 実証主義は初期の『論理・哲学論考』のウィトゲソシタインから,分析哲学は後期の『哲 学研究』から。そして『論考』のウィトゲソシタインが『研究』のウィトゲソシタインに ょって蒐服されたように,論理実証主義はケンブリッジ,オックスフォードで展開された ゥィトゲソシタインの教義によって克服されつくされないにしても,後退を余儀なくされ た。」B,ハルトナックがいっているように,初期のウィトゲソシタインと論理実証主義,後 期期のウィトゲソシタインと分析哲学とほ深いかかわりをもっているoしかも「論考」が 「研究」にまでたどりつかねばならなかったように,論理実証主義も分析哲学に移行せぎ るをえなかった。だがその移行の論理とは何であるのかo. -ルトナックによれば移行ほ論. 理的必然でほなく論理的ギャップだといわれる。たしかに「研究」は「論考」の立場の全 面的放棄であって,ギャップといってもいいすぎではないようである。しかし移行の論理 的必然性はないにしても,哲学的必然性はないであろうか。. 1. 「論考」はその終末にかきしるされているアフォ1)ズム-「およそ言表しうることはほ *哲学教室(°ept.. of Philosophy).

(2) 2. 川. 村. 仁. 也. 明断に言表されねばならないo語りえないことについては沈黙を守らねばならない。」の,証明(もし証明といえるなら)である4'。 「論考」によれば(1)世界ほFall, caseの 総体であって, Dinge, thingsの総体でほない5'。 (2)事実Tatsacbe, factsほSachver_ halte,. (3)その論理的写像は思考である. (4) (5)命題は要素命題の真理函数である。 (要素命題ほ自己自 身の真理函数) (6)真理函数の普遍的形式。 (7)言表しえないことについては沈黙を守ら ねばならないoつまり世界は事実の総体であって論理的に写像されうる.対象は事実が写 state. of affairsから成り立っている6'o. 思考は有意味な命題である。. 像的であるがためには命名され指示されねばならない。事実を写像する文(要素文)から 言語ほ構成される。要素文が事実を写像するということほ事実が存在するということであ る。こうして文は命題となる。命題が真であれば事実ほ存在するし,偽であれば存在しな い。要素命題にほ相互に矛盾することはありえない。なぜなら「ある事態が存在するとか 存在しないとかいうことから,べつの事態が存在するとか存在しないとかを推論すること はできない」7'からであるo. ヒュ-ムのいうように事実の世界ほ偶然的である.しかし写 像とは何か。たとえば絵画と対象とのあいだにほ,ある種の類似があると考えられるが命 題と事実とのあいだにほ,そのような類似が考えられるであろうか。. 「論考」ほ名前から 構成されている命題と対象から構成されている事実とのあいだに論理形式,構造の塀似を みとめている。そしてこうした想定のもとに言語ほ実在の写像であるといわれる。いま語 (名前)と物とのばあいを考えてみるに,ここにほ周知のように,フレーゲ,ラッセルの意 味論,記号論がある8'。マイノンクの円い四角のパラドックスがある。マイノンクほ円い 四角を排中律を犯して概念的な本体entityを許容したが,ラッセルは排中律を守ると同 時に,奇妙な本体の過剰人口を抑制しようとした。ストローツンの説明をかりればこうな る9)0. 「フランスの国王は賢明である」という文をSとすれば (1). 「フランスの国王」ほSの主語である。. (2)もしSが有意味な文であるならSほ「フランスの国王」についての文である. (3)もしいかなる意味においてもフランスの国王が存在しないなら,その文ほ何もの についてもの文でほない。したがってフランスの国王についての文ではない。. (4)それゆえSが有意味であるなら,ある意味で(ある世界に)フランスの国王ほ存 在する。 (存立するsubsist)0 (1)′ もしSが有意味であるならSほ其であるか偽であるかである. (2)′ sはフランスの国王が賢明なら菓であるし,賢明でなければ偽である。 (3)′ しかし,もし(ある意味で,ある世界に)フランスの国王といった何物かがある なら,フランスの国王は賢明であるという文も,賢明でないという文も,ともに其である. (4)′ (4)と同じ。 ●. ●. ●. ●. マイノンクほみせかけの文法的な主語・述語形式を不充分な分析にもとづいて固執する ことによってプラトンのイデアめいたものをみとめようとしたのに対して,ラッセルはオ ッカムの剃刀でそりおとしてしまったといえる。ラッセルはPrincipia. Matbematicaの.

(3) ウィトゲソシタインと哲学. 3. 記号をモデルにして新しい言語構成しようとしたのだが,ウィトゲソシタインにとって言 語は階層的構造をもったものではなかった。. 「哲学は言語の批判である。 I-命題のみか けの論理形式がかならずしもほんとうの形式ではないことをラッセルほ示した。」10)とラッ. セルを擁護しながらも,彼の言語ほ非階層的なものであった.イタリアの捕虜収容所から 「論考」の草稿をうけとったラッセルほ「論考」におけるトートロジーとしての論理的命題 を高く評価したようだがウィトゲソシタインはそれに次の返事をかいている。. 「私の主限. 点が充分にとらえられていないのではないかと思われます。論理的命題ほ系にしかすぎま せんo重要なことほ,命題でいえること. gesetzt-つまり言語で言責されること,同じ ことですが,思考されること-と命題でほ言表されないで示されることgezeigtとにつ. いての理論であって,哲学の根本問題はまさにここにあると私ほ信じております.」11) 考」によると命題はすべてある論理形式をもつ。いいかえれば意味をもつ。命題が真であ. 「論. るか偽であるかをみつけるにほ命題が実在と対応するかどうかをみればよい。しかしその ためにほあらかじめ意味を知っておらねばならない。ところで命題は自己自身の意味をの べることほできない。自己自身の論理形式をのべることはできない。それほ示されるだけ 「哲学は思想の論理的明断化である.それほ理論体系でほなく行為なのであるo であるo --哲学はついには『哲学的命題に帰着するというものではなく,むしろ命題の明断化な のであるo」1乏)ウィトゲソシタインが言表できないことについて多くのことを言表しようと していることについてはためらいを感ぜざるをえないとラッセルほいう18)o言表できず, たんに示されるということはどういうことなのだろうか。言表できないということは理解 不可能ということではない。言表できないことをテーマとして「論考」が執筆されている ということこそ理解を予想しているからである。 「私の諸命題は次のいみで解明的である。 ついに私を理解したひとは,それを踏石として昇っていくとき,私の諸命題がナソセンス だと認めるであろうといういみで。 (いわば-シゴを昇ってしまえば棄てるべきだといっ た)」14)ナンセソスなものは真でも偽でもない。それほなにものをも記述しない.それゆえ にこそ示されるのみなのである。. ところで「論考」では一般に命題ほ要素命題から構成され,その真理値ほ要素命題の真 (Ⅹ)FxでⅩが有限筒のばあい 理値によって決定される.要素命題の真理函数である. (「この教室のすべてのひとは靴をほいている」)さして問題でほない。しかし「雪はすべ て摂氏0度でとける」というようなばあいどうであろうか。あるいほ仮言命題のばあい, 前件が偽であれば仮言命題ほすべて真であるから,きわめてパラドキッカルな事態も生ず (1)真理函数の真理値は要素命題 「論考」でのこの点の説明ほこうであるo るであろう. の真理値によって決定されるo (2)要素命題の真理値は経験的に決定されるoしたがって (3)真理函数の真理値は経験的に決定される。ウィトゲソシタインの推論の問題点はすで にのべたごとくであるが,さらにもう一つ,それはトートロジーがこの枠外にあるという ことである。論理的必然性は記述される世界によって決定されるのでほなく,記述する命 題よって決定されるのである。命題ほたんに音だとか文字の系列といういみでほ思想では ない。思想が思考しうるひとに論理的に依存しているように,命題は言語を使用しうるひ.

(4) 4. 川. 村. 仁. 也. とに依存している。思考の条件と限界という古典的な問題となる。思考と認識の論理構造 の問題ほまた言語の論理構造の問題となる。世界の限界は言語の限界とされる。事実の総 体としての世界を事実とすることは,思考可能なものに限界をつけることになり,言表し うることと言表しえないこととの境界線は消失してしまう。世界全体の認識を指向する形 而上学ほ否定される。ウィトゲソシタインが言表しえず,ただ示されうるものとぼ情緒的 なものとしてのみ残される。. 「世界を永遠の相の下にsub. ほ世界を有限な全体としてみることである。. specieaeterniみるということ. --世界を有限な全体として感ずることであ. るo」15). 「論考」ほウィ丁ソ学団の研究会のテキストとされたことがある.そのころウィーソ近 郊に居住していたウィトゲソシタインほ,しかし,いちども会合に顔をだしていない。ウ イトゲソシタインほ論理実証主義者なのであろうか。論理実証主義によると(1)哲学の任 務は問題の解法であるよりも,その明断化clari丘cationである。哲学は哲学的命題を集 積することではなく,さまざまな命題の意味をよりよく理解することにある。. (2)意味を 理解するということほ,命題が真であるほたは偽である)た糾こほ何が要求されるか, いいかえればいかにして検証されるかを知ることである。真であるということほ検証の条 件を,しかも特定のひとがでほなく誰でもが知ることである。検証条件を知りえないとき 命題は擬命題pseudopropositionである1"0. (3)数学,論理学の命題は検証とはかかわ りあいがない。それほトートロジ-であるoここでほ真であることが検証されるのでほな. く,妥当であることが検証されるo. (4)哲学,形而上学の命題ほ(2)(3)のいずれでもな. く,無意味なものである。 ところでウィトゲソシタインと論理実証主義とほおおまかにいって(1)(2)(3)で同一 であり,. (4)で相異する。. 「命題を理解するということほ,もし命題が真であるならcaseが何であるかを知ること である。」17'とあたかも論理実証主義者のごとき発言がなされているが,彼ほ上述のテーゼ を論理実証主義者のように理論的に一般化しようとしているのでほなく,むしろ一つの方 法として提案しているのである.ム-アもいっているように18'「これはいわばめのこ勘定 にすぎないのである。なぜなら検証にはいろいろな意味があって,あるばあいには,どう 検証されるかという問いそのものが無意味なこともあるからだo」さらに彼は「言表でき ないことも存在する。」とのべて言表できなくとも感得されるもの,沈黙を守らざるをえ ないものの存在をも認めたが,論理実証主義者にとってはそのようなばあい言表するもの がないと一般にほ解せられている。たとえばノイラートによれば,. 「もしひとがまったく. 形而上学的態度をさけようと欲するなら,ひとほ何物かについて沈黙すべきでほなく,た だ沈黙すべきなのだ」といわれる20'oウィトゲソシタインはしかし形而上学的言明を定式 化できないのほ,形而上学的命題が,存在しない何物かについて言表するからだ,という のでほなくて,言語そのものが形而上学的言表をなしえないのだというのである。にもか かわらず言表できない命題ほ理解されうると主張し,しかも実在の写像としてただ一つの 言語しか認めなかったoそのために生ずるアポリアをラッセル,カルナップほ言語の階型.

(5) 5. ウィトゲソシタインと哲学. 性,寛容の原理によってそれぞれ回避しようとした。 2. 世界の認識が言語の問題と深いつながりをもっていること,しかし「論考」においては 1930. 言語が事実の論理構造を写像するという想定をウィトゲソシタインほ立てていた。 年から34年の移行期21)(ラムゼイ,ストラファの影響)22)をへて「哲学研究」ほ執筆され たo. 「論考」の著者はフレーゲ,ラッセルから多くのことを学んでいるが「研究」の著者 「研究」ほ「論考」がとった原子論的言語 には哲学上の祖先はなかったとライトほいう。 論の批判ではじめられているo. nameとnominatumというときふつう静的,斉-的な 対応関係が考えられる。一見してこのことほきわめて常識的で単純にみえるのだが,よく 「リンゴ」 「赤」 「赤いリンゴ」ほそれぞ 考えてみるとそれほど単純でほないようであるo れがそれの代表であるnominatumをもっているといっていい。しかし「5つの赤いリ ンゴ」というとき5を指示することができない。ここでとわれていることほ,それが何を 指示するかではなく,それがどのように使用されているかなのである23)o. アウグスチヌス. の「告白」にどのようにして言語表現を習得したかをのべている箇所がある24).アウグス チヌスの言語論には,すべての語ほ意味をもつ。そして,それぞれの語の意味ほ語が代表 するものであるという前提があった.このような前提をウィトゲソシタインはnaming-. gameとよぶ。しかしnaming-gameほ問いを発するとか記述するとか命令するとか, さらに要求する,約束する,評価するといった多様な言語ゲームの一つの特殊なばあいに すぎないのであって,外延的定義ともいっていいnaming-gameは多様な言語ゲ-ムを前 提にしてほじめて成立するのである。いまだ話すことのできない幼児に「赤」といって赤 い色を指示しても効果ほない。このことは技術的な未熟さによるものではなく論理的に不 可能なのだといわれる。特殊な言語ゲームほ無限の可能性をもって構成される言語ゲーム を前提としてはじめて可能となる。. 「論考」においてほ語はそれが名前であるときにのみ ●. ●. ●. ●. 有意味であったが「研究」では語は名前でほない。語ほ名前として使用することのできる ものなのである。ということは同時にまた他の多くのし方でも使用することができるもの. でもあるo言語はもはや実在の写像ではない.多様な言語ゲームがあるo. 「どれだけの種. 類の文があるのであろうか.主張,疑問,命令等々のみであろうかo無数の種類の『記号』, 『語』,『文』の使用法があるo この多様性は不動で固定したものではない.」25' ところで多種多様なゲームにはなんらかの共通なもの,本質といったものほないのであ ろうかo. 「カ-ド・ゲ-ム,ボード・ゲーム,ポ-ル・ゲ-ム等々には共通した何かがな. ければならない。そうでなければゲームとほいえないといってはいけない。これらすべて に何か共通なものがあるかどうか,よく凝視せよ。くりかえすが,考えずにただ凝視せ よ! 」28'そこにあるのは,共通な特定の特徴ではなく,. family. resemblanceなのである.. 「論考」では一つの言語が考えられており,要素命題とその真理函数,要素命題は事実の 写像であり,事実はuniqueなものであった.したがって唯一つの異なる命題があったo.

(6) 6. 川. 村. 仁. 也. だから同一の事実についての命題ほ同一の論理形式をもっているという意味で同一の命題 でなければならなかったoさまざまな命題の論理形式をみつけだすことほ,さまざまな事 実の真の論理形式をみつけだすことであり,哲学ほ世界の論理構造を明らかにすることで あり・そのしごとほ文を分析して要素命題のヴェールをはぐことであった.要素命題がそ の論理形式をあらわにするにつれ同時にそれに対応する事実があらわになる。 「研究」で はいまや事実ほ論理形式をもっていない。また事実も対象から構成されていないし複合体 でもないo複合されているかいないかほ言語ゲームに依存するのである27,。いいかえれば 言語ほ写像でほなく道具なのであるo正しい形式といったものはその意味を失ってしまっ たo文はすべて「あるがままの秩序」にあるoあたかもわたくしたちは日常のあいまいな 文が例外をみとめない意味をいまだえていないかのごとく完成されるのをまっているかの ように・一つの理想を希求しているのではないo意味があるところ完全な秩序があるoし たがって・きわめてあいまいな文にも秩序がある皇8'.哲学は言語の現実的な使用法になん ら干渉するものでもないしと同時に哲学がかかえている問題とほ経験的な問題ではなく, 「出口がみつからない」乏9'ということなのであるo. 「わたくしたちが言語の機能を重視し,. その働きを確認し,誤解から離脱するとき哲学の問題ほとけたという.それほ新しいイン フォメーションを与えるということによってでほなく,つねに既知のことがらを配置がえ することによって解決されるのである.」80'このことはたとえばラッセルの「黄金の山ほ存 在しない」という命題についていえば, められているのであるが,. 「論考」ではラッセルの再定式化の妥当性がみと. 「研究」においてほ,たんに誤解の危険性をもつ命題のよりよ. き理解-の一助とされているのである。より一般的にいえばPrincipia. Mathematicaの. 記号法も「研究」でほそれが唯一のものとほされていない。ウィトゲンシタインほこうし. て哲学の問題ほ言語ゲームの混同,あるいは単純化(naming-gameでないものをnam_ ing-gameととるといった)による誤解に基づくものであるという。いうまでもないこと ではあろうが,哲学の問題そのものが誤解であるのでほない。また日常の意味で,ある時 期にほ誤解していたが・いまほ誤解がとけたとか,あるいほ愚かにも誤解していたという ことでもない。それほ言語形式そのものに根ざす誤解なのである。ゲームにはふつうルー ルがある。数学,論理学のような清輝体系にもル-ルがあるoしかし言語におけるルール とほどういうものであろうかo. 「彼ほ無能であるか」という問いに,然りかつ否と答えて. もなんら非難に値しないであろうoだがひとが演揮体系のような言語ゲームに立脚して発 言するとき,それは非難に値するものとなるであろう。しかしそのとき「矛盾律は人生に は適用できない」ということによってそれほ終りということになる。こうして哲学的問題 の解決はどのように,またなぜ言語の論理が誤解されているかを発見することによってな される.検討すべき文のほんとうの機能をよく洞察すること。哲学の目標は完全なclari_ tyである。解決polutionであることよりむしろ消滅disappearanceである。. 「お前の. 哲学の目的ほ何であるのか」とウィトゲ●ソシタインほ自問し「ピソのなかの蝿に出口を示 してやること」と自答する。出口を示してやったところで,どの方向にとんでいくべきで あるかを指示してやることにはならないが。.

(7) 7. ウィトゲソシタイソと哲学. 言語ゲ-ムの混同な分析することによって伝統的な哲学の諸問題ほ消滅するという8之'。 デカルトの心身問題をとってみるに,デカルトのばあい,言語が物体をsuggestしてし かも物体がないとき,それは精神とよばれる。そのさい彼はひそかに一定の言語論理を前 提としている。つまり,語は何かをあらわす名前であるということ,いいかえれば,語が 何かをreferしないなら無意味であり,逆に有意味な語ほすべて何かをreferしなけれ ばならないということである。しかし身体的活動をreferする動詞と非身体的活動をreferする動詞との混同からデカルト問題は発生してくる。一般に感覚をあらわす語(「い たい」,. 「あつい」等)ほ外的,公共的現象をあらわす語(「テーブル」,. 「机」等)とちが. って内的,私的な現象をあらわすといわれる。そしてこのようなものを言表,報告,記述 する言語は私的言語とよばれている。ウィトゲソシタインによると私的言語なるものほな いのであって,それほ論理的に不可能だといわれる.なぜかというと,いま私がある感覚 を経験してそれに名前をつけようときめるoそれをかりに"E"としておこう.私は日記 に"E"とかきしるす。しばらくしてまたその感覚を経験する.そして"E"と日記にし るす。二度目の経験のさい私ほ注意を集中してそれがはたしてまえの経験と同一であるか どうかを確かめる。正確に同一であることが確認されて"E"としるされる。ところで同 一が確認されるた捌こは,なんらかの基準がなければならない。しかしいまのばあい,た だ私にはそう思われるというだけなのである。それはなんらの基準にならない。感覚のば 「これは感覚 あいの同一性の確認はこのように,ただそう思えるというだ捌ことどまる. Eである。」. 「これは感覚Eではない。」この二つのばあいの基準がない。したがって二つ. が同一であるとも相異しているともいえない。だから命題ではない。真であっても偽であ ってもどちらでもいいようなものは命題でほないからである。記号"E"ほ名前ではなく, しかも不正確にも名前であるかのように解せられていたのであるo適切なその使用法の基 準をもたないところの,いいかえれば,ルールをもたない名前は名前でほないoほたすべ き磯能をもっていないのである。ひとは記憶によって,あるいほ,感覚を説明しようと試 みるかもしれない。. 「わたくしたちの想像のなかにだけある(たとえば辞引のような表のよ. うな)ものを考えてみよう。辞引は語Ⅹが語Yで翻訳できるように使用される。しかし, justi丘cationになるであろ たんに想像のなかにさがすだけの表があるなら,それは説明 うかo. 『主題的説明』であるといわれるかもしれない。だが説明とほなんらかの独立した. ものに訴えることにある。たとえば汽車がでる時間を記憶しているかどうかほっきりしな い。そんなときほ,時間表のどこをさがせばいいかを思いだすことによって,はっきりし. ない記憶をチェックすることができるのだが,感覚の記憶でも同じことがいえるだろうか。 そうではない。」感覚のばあいその正確さを現実的にテストすることができないのである. このことは,感覚について言表するときひとはナンセンスを言表しているというのでなく, そのさいの言語ゲームが, らないということなのであるo. names. of. sensationsをもつ言語とあやまって解されてほな 「想像のなかの表をみることは時間表をみることではない占. それはちょうど想像的実験の結果のイメージが実験の結果でほないと同じ」34)なのである。 にもかかわらずひとほいぜんとして感覚について事実語っているではないか。もし感覚を.

(8) 8. 川. 村. 仁. 也. nameしていないのなら,何をしているのであろうか。痛みのばあいをかんがえてみよう。. 痛みにはある型の行動が随伴する。痛みを言表することは随伴する行動の記述なのであろ うか。しかし痛みをなくしたいと思うことはそのような一連の行動をなくしたいというこ とでほあるまい。痛みの,行動は,外的徴表なのであろうか。そして痛みを感ずるという ことは外的徴表からの帰納的結論だともいうべきであろうか。そうではない。でほなぜ 「痛い」は痛みの言表なのであろうか。ここでも,まえにのべたように,言表の意味が referするL.いう視点から,またもや,とらえられているのであるo言表の意味をみつけ ることは言表がreferするをみつけるということにあるのでほなく,その使用法をみつけ ることにあるのである。 「研究」はウィトゲソシタインものべているようにaphilosopbicalalbumofsketcbes and. 1929年ケンブリッジに戻っていらい,. remarksである。. 39年ムーアの後継者とし. て彼の講義は現代のイギリスを中心とした「分析哲学」に大きな影響を与えた。 現代の哲学者の関心を言語研究にむけさせたo. 「研究」ほ. もちろん彼の哲学が言語哲学であるのでは. ない。言語のもつメカニズムを分析解明することによって哲学の伝統的諸問題を解明しよ うとしたのである。人と言語への理解を示しながらも彼は日常言語の機能,多面的な言語 ゲームのルールを凝視することを忘れなかった。言語ほ「種の社会的行動」であり自然史 のなかで考えらるべきものであった。したがって言語は一面において非言語的脈絡を前提 としており,自然言語ほきわめて複雑である。ウィトゲソシタインの言語ゲーム理論は自 然言語を理解するために考案されたモデル言語のスケッチである。言語活動は一方におい て自然的条件によって制約されるとともに他方において人間の欲求に制約される. ing. nam-. language-gameは言語活動の一局面をあらわすものでほあるが,それがすべてをお. おいつくすものではない。. ウィトゲソシタインと直接の関係はないが,ライルほ「心の概念」で「カテゴリー・ミ ステーク」ということで・[J身問題にまつわる哲学的問題の解明を試みている.ここでは立 ち入ることができないが,いわゆる「分析哲学」が,不毛の哲学ではないかという疑念が とくにヨーロッパ大陸の哲界学から強く表明されている。 Carity. is not. Enough86)はそうした疑念への回答への試論集であるし,ロワヨモン会. 議37)では分析哲学をテ-マにして論争が行なわれた.しかし,メザロス88)がいっているよ うにそれはdialogue. desourdsでしかなかった。エイヤー39),ワ-ノックがそれぞれ. 「ひとを充分説得できたかどうか」と自問したり, あつかうことは,けっきょく. triviallity. 「倫理学を倫理的言語の分析としてとり. of the. subjectに堕してしまう」40)と自己批判し ているように,哲学を言語批判のみに限定してしまうことほ哲学を歪少化してしまうよう に思われる. 「このポリシーほそれを実行するひとにとって危険であるo なぜなら,それ ●. ●. ●. ●. ●. はかれらから現実の問題を剥奪してしまうから。また新しい発想を貧困化することによっ て,発想をも奪いとってしまう.イデオロギ-の敵対者が発言したからという理由だけで 問題を否定するなら,問題解決への這を閉ざしてしまうことになるであろう。」41)(A.シャ フ) 「形而上学的ナンセンス」. 「概念混同」といった排他的立場に立つことを固執するなら,.

(9) 9. ウィトゲソシタインと哲学 対話の可能性ほ失なわれてしまうであろう. 註 1). Tractatus. 2) 3) 4). Philosophical. lnvestgation. 1953・. Hartnack,. Oittgenstein. anp. 5). Tractatus・,. G. Cf. LogicoIPhilosophicus. Steinius,. E.. ibid=. 1922・. W.. Tractatus. ttgeⅢstein's. (trans・ by. Philosophy. Modern. Ganston). 1965. 102・. p・. 19弧. I・. Dingeであるが,時計が机のうえにあるということはfacts,. Ⅰ. 1時計,机はtbings,. Tatsacbeである. 7) 8). ibidり2,063.. Uber. Frege,. Sinn und Denoting.. On. Russell,. Bedeutung・. Re鮎ring. 9). StraⅦ・son,. On. 10) ll) 12) 13). Tractatus,. 4・00031・. 14) 15) 16). ibidリ6.59.. Anscombe,. An. Tractatus,. 4,121・. to. Introduction. Analysis. in Conceptual. (in Essays. Tractatus. Wittgenstein's. 1963)・ 1959. p・. 161・. ibidリIntroduction・ ibidり6.45・. verification理論からcomfirmation理論への変位,さらにほポッ′く-のfalsiRcation理論 についてはここではふれないfalsi丘cationとはverifyできないということではないだろうか・. 17) 18). G.. Moore,. E・. cf. 19) 20). 4024t. TracttltuS,. Pole,. Tractatus, 0.. Sociology. 21). Wittgenstein,. 22) 23) 24). Philosophical. lnvestigation,. 25) 26). ibid・,. 27) 28) 29) 30). ibid., §47・. ibid.,. §98・ §123・ §109・. 31) 32). ibid.,. §309・. 33). ibid・, ibid., ibid.,. Cf・. Blue. p・. LXIII・. 249・. 150・. §1・ SIC Confessiones, §23・ §66・. Austin,. Philosophical. (in Logical Positivism・. Pysicalism. and. The. ibid.,. Mind. 1930-33. of Wittgenstein,. Pbilosopby. 6,522・. Neurath,. ibid.,. in. Wittgenotein'Lectures. Later. Bro-I. and. Books,. ed・. by. Ayer)・. 1958・. 1953序文・ I・ 8・. Papers. (1961l, Sense. and. Sensibilia. (1962)I How. Do. (1962). witb Words ibid., §265・. 34) 35). ibid.. 36) 37). Clarity. 38). Ⅰ.M色zaros,. 39) 40) 41). -イヤWarllOCk,. G.. Ryle,. Cabier. M6zaros,. Concept. 1949・ of Mind H・D・ Enough by is not ed・ Philosopbie de Royaumont, Possibility. of Dialogue. 「言語,論理,真理」・・ Ethics. since ibid., p・ 331・. 1900・. Lewis. 1963・. IV・. (in BritishAnalytical. Philosophy. 1966・). Things.

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