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龍谷大学学位請求論文2005.03.03 宇城, 由文「芭蕉と言水 ―近世前期俳諧の位相―」

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(1)
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│蕉

主と

ユ 一 一 口

前期俳譜の位相

l

(3)

1

風 発 句 考

5

24

l ﹃奥の細道﹄試論│ ・ : : ・ : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : ・ 却 '9J

色 =

§ム 画冊

52

E

言水

西

水 略 伝

65

延 宝 期 江 戸 俳 壇 の 一 面 │ 言 水 、 の撰集活動を中心として

1

:

・ : : : : : : : ・ 九

(4)

J

91

近 世 初 期 俳 諸 に お け る 外 来 語 の 受 容 : : : : : : : : : : ; : : : -j i -: : 川 水

尽 移 住

1

3

4

維 舟

1

4

3

元 禄 前 夜 の 京 俳 壇 │ ﹃ 三 月 物 ﹄ を 中 心 と し て │ -m フじ 禄 以 後

Fヨ 水

1

7

8

芭 荏

1

9

6

皿 池 西 水 年 譜

2

0

9

(5)

はじめに

芭蕉と言水、 同時代に生きながらこれほど対照的な人生を送った俳人はいないであろう。芭蕉は正保元年(一六 四四)伊賀にて生、寛文十二年から江戸での活動を開始する。 言水は慶安三年 ( 一 六 五

O

)

奈良にて生、寛文後期 に 一 時的に江戸に在り、 延宝四年頃から江戸での活動を本格化する。貞円から談林へと俳風が激しく動く中、とも 延宝後期の激しい時流の中二人は急接近を見せ、鋭く交錯した。しかし、互いの人生観、俳 これらを具現する俳詰活動の方法や俳風も自ずと向かう所を異にした。結果、当代での評 に江戸俳壇で活躍し 譜観は全く質を異にし、 価はともかく、 後世における評価は天と地ほどの隔たりができた。 それぞれの研究史においてもそれは如実に表れ て い る 。 記﹄(同八年)、支考の﹃笈日記﹄(同)、 芭蕉研究はすでに江戸時代に始まる。初期のものとしては、其角の﹃枯尾花﹄(元禄七年)、路通の﹃芭蕉翁行状 風国の﹃泊船集﹄(元禄十一年)などが挙げられるが、芭蕉の直門の人々の 手になるこれらの書は、追慕と尊敬の念にあふれ、貴重な資料とはなりえても客観的な研究の歴史には含めがたい。 蕉風俳詰は貞享期頃から確立されて行ったとされるが、 同時にその活動は同門内へと内向化する 。 にひたすら師を敬慕する門人達によって世俗に喧伝されることになるが、その中で蕉風も自ずと大衆化されていっ そして芭蕉没後 た 。 これに対する内部反省的な流れの中で﹃五色墨﹄などに見られるような芭蕉復帰運動が生じるのであるが、 芭 蕉研究と呼べるものはこの頃から本格化することになる。平行して芭蕉の知名度はますます高くなり、 格化はますますエスカレートしてゆく。明治に入ると、俳諮の分野にとどまらず、北村透谷・二葉亭四迷・島崎藤 村・芥川龍之介などに見られるように文学一般にも芭蕉の影響は及び始める。以後昭和二十年までの聞に実に数多 昭 和 十 八 年 の ﹃ M 奥の細道随行日記﹄発表時の芭蕉評価の 一 偶像化・神 くの芭蕉関連書が編まれた。 しかしこれらの大半は、

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時的な凋落に代表されるように、偶像化された芭蕉の下での研究史といえる。戦後になって漸く芭蕉を客観的に評 価しようとする機運が高まり、研究も飛躍的に進展する。昭和三十七

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四十四年に刊行された﹃校本芭蕉全集﹄(角 五十七年に新修版を刊行)などがその 代表的なものであろう。蕉門の研究においても、昭和四十五

1

四十七年刊﹃蕉門俳詣集一﹄﹃蕉門俳詩集二﹄﹃蕉円 俳論俳文集﹄(古典俳文学大系、集英社)、昭和四十七年刊飯田正一編﹃蕉門俳人書簡集﹄(桜楓社)、昭和五十七年 刊﹃去来先生全集﹄(落柿舎保存会)な どの基本資料の整備や蕉門俳人個別の研究成果も次々と発表された。芭蕉作 品そのものの研究においても、﹃松尾芭蕉集①﹄(平成七年刊、小学館)での芭蕉全発句の斬新な解釈、乾裕幸著﹃こ とばの内なる芭蕉﹄(昭和五十六年刊、未来社)、上野洋三著﹃芭蕉論﹄(昭和六十一年刊、筑摩書房)、白石悌 三 著 ﹃芭蕉﹄(平成元年刊、花神社)などにおける芭蕉作品の本質に迫る諸論考 など枚挙にいとまがない。 川 書 庖 ) 、 同三十六年に刊行された阿部正美著﹃芭蕉伝記考説﹄(明治書院 、 このような芭蕉研究に比べて言水研究の遅れは甚だしく、 荻野清編﹃元禄名家句集﹄(昭和二十九年刊、創元社) 元禄の名家として取り上げられた俳人は、伊藤信徳・山口素堂・小西来 この中、信徳については、越智美登子 ﹁伊藤信徳年譜稿﹂(﹁国 によってようやく緒に就いたといえよう。 山・池西言水・椎本才麿・上島鬼貫の六名である。 語国文﹂四十二 l 一、昭和四十八年一月)があり、素堂は、芭蕉研究の一部在して進展している。来山については、 飯田正一編著﹃小西来山全集﹄前・後編(昭和六十年刊、朝陽学院)によって大きな発展をみた。また、才麿につ いては、辛島啓子 ﹁椎本才麿年譜稿﹂﹁椎本才麿年譜稿補訂﹂(﹁叢﹂ 六 ・ 七 、 昭四十四年十一月、 四十五年十一月) があり、鬼貫については、樫井武次郎・安田厚子 ﹁上島鬼貫年譜稿﹂(﹁地域研究いたみ﹂ 九、昭五十三年十 一 月 ) や岡田利兵衛編著﹃鬼貫全集﹄(昭和五十三年刊、角川書盾)によってその俳諮史的位置付けがなされつつある。し かし、言水研究に労を傾ける学究の徒少なく、延宝後期の活動が芭蕉との関連において語られたり、言水の撰集が 時折紹介されているにすぎない。また元禄期を中心とする京都俳壇の研究は、雲英末雄編﹃貞門談林諸家句集﹄(昭 2

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和四十六年刊、 勉誠社)、﹃元禄京都諸家句集﹄(昭和五十八年刊、 勉誠社)、﹃元禄京都俳壇研究﹄(昭和六十年刊、 勉誠社)などの一連の研究によ っ て、﹃元禄名家句集﹄で取り上げられなかった俳人群の動向が明らかにされ、この 研究に触発されて 、 個々の京俳人の動向や作品研究も進展をみせつつある 。 元禄俳譜の研究もようや く 視界が広が ってきたといえよう 。 本研究もまた、 これらの研究に多大の恩恵と強い刺激をうけて成ったものである 。 本 論 考 は 、 延宝期から享保期に至る長き問、 江戸から京へと移りながら常に俳壇の第一線で活躍を続けた俳譜師 その活動によって俳譜史の中で言水が果たした役割を明らかにすることを目的の一っと 俳詣がその出発に衆の文芸という本質を有する以上、衆とのかかわりの中で俳人を把握する努力も 言水の活動を探ると共に、 す る 。 そ し て 、 また必要不可欠である。先賢諸氏の多くの成果を参考に言水と諸俳人の関係を明らかにしつつ、 生き方においても 俳諸においても言水の対極にあった芭蕉と比較することにより、 近世前期俳譜の位相を探る、 これが二つめの目的 である 。

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芭蕉

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蕉風発句考

旅 人 と 我 名 呼 ば れ ん 初 し ぐ れ 芭蕉 閑 さ や 岩 に し み 入 る 蝉 の 声 同 旅 に 病 ん で 夢 は 枯 野 を か け 廻 る 同 柿 く へ ば 鐘 が 鳴 る な り 法 隆 寺 子 規 い く た び も 雪 の 深 さ を 尋 ね け り 同 鶏 頭 の 十 四 五 本 も あ り ぬ べ し 同 味 で 、 右 の 六 句 を も っ て 発 句 と 俳 句 の 違 い を 述 べ る 事 は 可 能 で あ ろ う か 。 俳 諸 に お け る 発 句 と は 、 連 句 の 発 端 の 匂 の 意 後 に 句 が 続 く こ と を 前 提 と し て の 名 称 で あ る 。 俳 句 と は 、 江 戸 時 代 に は 俳 譜 の 句 の 意 味 で 用 い ら れ た 例 も あ 現 在 で は 五 七 五 の 独 立 文 芸 に 対 す る 名 称 と し て 一 般 化 し て い る 。 こ れ は 、 子 規 の 連 句 非 文 学 論 に よ る と こ ろ る が 、 が 大 き い 。 発句は文学なり、 連排は文学に非ず、 故 に 論 ぜ ざ る の み 。 連 俳 固 よ り 文 学 の 分 子 を 有 せ ざ る に 非 ら ず と い へ ど も 文 学 以 外 の 分 子 を も 併 有 す る な り 。 ( 中 略 ) 連 俳 に 貴 ぶ 所 は 変 化 な り 。 変 化 は 則 ち 文 学 以 外 の 分 子 な り 。 蓋 し 此 変 化 な る 者 は 終 始 一 貫 せ る 秩 序 と 統 一 と の 聞 に 変 化 す る 者 に 非 ず し て 全 く 前 後 相 串 聯 せ ざ る 急 遁 候 忽 の 変 化 なればなり。(芭蕉雑談、 ﹃ 子 規 全 集 第 四 巻 ﹄ に よ る )

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個性に主体をおく近代文芸を象徴する論である。 子規没後の日本派を率いた碧梧桐の賛同などもあり、 以後、連 句は衰退への道を辿る。 近 年 で は 、 江戸時代における俳詰の発句も一括して俳句と称されるととが多い。 俳句が、俳譜連歌から発句だけ が独立したものであり、江戸時代においても発句が単独で詠まれていた事(芭蕉発句の中、現在付句が知られている のは僅か一割強にすぎない)を考えると止むを得ないことかも知れない。しかし、句作姿勢が異なる以上、発句と俳 句の聞には作品の上でも何らかの差異が存在するものと考えられる。本稿では特に、蕉風俳譜における発句の扱い を通して、 発句と俳句との距離というものを考えてみたい。 俳譜連歌は、 その名の示す如く連歌から派生分離したものである。俳譜における発句の位置、連句との関係を考 え る 時 、 連歌における発句の変遷を眺めておく必要がある。 和歌(短歌)の上句と下句を分離して付け合う事から始まった短連歌は、長連歌時代に入ると、 句 が 注 目 さ れ る よ う に な る 。 連 歌 に 発 句の称が見 える最初の文献﹃袋草子 ﹄では やがてその最初の

として、発句が玉七五である事を規定している。貴人が現われてから発句を詠むべきとしているのは、 連歌本末只タ意一詠乍。洋然至叫棋連歌発句 ( ﹃日本歌学大系第二巻﹄による) 専不可詠末句一 又 柏 戸 然 之 時 任

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早速戸戸発。 当座主君若女房事ヲ暫 歌会の単な る余興としてだけでなく、初めから鎖連歌が行なわれる席が存在していた事を意味するものであろう。鎌倉時代に なると百韻の定型が生じ、 それと共に巻頭を飾る発句は ﹁於当座可然之人得之﹂(八雲御抄)と次第に重要視 される , F -V L V 6

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よ う に な る 。 ﹃ 俊 頼 髄 脳 ﹄ や ﹃ 袋 草 子 ﹄ に も そ の 萌 芽 が 見 ら れ た 独 立 意 識 は ﹃ 八 雲 御 抄 ﹄ に 至 っ て 、 発 句 者 必 可 言 切 一 な に の 、 な に は 、 な に を な ど は せ ぬ 事 也 。 かな共、 べしとも、 又 春 霞 、 秋 の 風 な ど の 鉢 に す J

し と 明 確 化 さ れ る 。 連 歌 完 成 期 の 二 条 良 基 の 時 代 に は 、 ﹁ 発 句 に 時 節 の 景 物 そ む き た る は 返 々 口 惜 し き 事 也 。 こ と に 覚 悟すベし﹂(連理秘抄)シ﹂季の要請もなされ、以後の季寄せの原形 Eど も 言 う べ き 四 季 の 代 表 的 な 季 題 が 提 示 さ れ て い る 。 こ の 頃 に 発 句 の 一 応 の 形 は 整 っ た と 言 え る 。 こ の 時 代 に は ま た ﹁ 発 句 は 最 も 大 事 の 物 也 ﹂ ﹁ 発 句 の 悪 き は 一 座 け -がれて悪く見ゆ﹂(向上)として、発句の座全体に及ぼす影響まで考慮するようになる。 い、﹃菟玖波集﹄では巻二十に発句の部立が設けられ、 こ の よ う な 発 句 の 重 視 に 伴 百 十 九 の 発 句 が 収 め ら れ る 。 発句の単独享受の最初であり、 手 本 を 必 要 と す る 程 発 句 が 重 要 視 さ れ て き た 事 を 意 味 す る 。 発 句 の 重 要 視 、 独 立 性 の 要 請 は 、 単 独 鑑 賞 や 単 独 句 作 へ と 繋 り 、 ﹃ 宇 良 葉 ﹄ の よ う な 発 句 中 心 の 集 や ﹃ 自 然 斎 発 句 ﹄ の ご と く 発 句 の み の 集 の 出 現 を 見 る に 至 る 。 以後、多 く の 発 句 集 が 連 歌 師 の 手 に よ っ て 編 ま れ る 事 と な る 。 も ち ろ ん そ れ は 連 歌 の 発 句 と し て の も の で 、 一個の文芸とし て の 独 立 を 意 味 す る も の で は な い 。 連歌は、 和 歌 と い う 個 の 文 芸 か ら 派 生 し た 衆 の 文 芸 で あ る 。 従 っ て 、 続けるという事にその意義があり、 発句の 独立性も、 そ し て 俳 詰 は 連 歌 か ら 派 生 し た 。 衆 の 文 芸 と し て 誕 生 し 共 同 文 芸 体 と し て の 連 歌 の 基 本 概 念 を 引 き 継 い だ 故 に 、 俳 譜 の 発 句 は 長 い 間 連 句 中 心 の 意 識 か ら 抜 け 切 れ な か っ た 。 例 え ば 、 貞 徳 の ﹃ 天 水 抄 ﹄ や ﹃ 俳 譜 御 傘 ﹄ 、 徳 元 の ﹃ 俳 譜 初 学 抄 ﹄ な ど の 諸 書 を 見 て も 、 付 合 中 心 の 指 導 書 で 、 発 句 に 関 し て は 切 字 や 季 な ど の 一 般 的 な 作 法 ば か り で 具 体 的 な 句 作 論 に 及 ぶ も の で は な い 。 発 句 の 成 長 を 妨 げ た 今 一 つ の 原 因 は 、 初 期 俳 諮 の 指 導 者 に あ る 。 江 戸 時 代 に 入 り 、 俳 諮 の 大 衆 化 を 推 進 し て 行 く 貞 徳 ・ 宗 因 と い う 連 歌 師 ・ 歌 人 で あ っ た 。 連 歌 を 主 、 俳 詣 を 従 と 考 え 、 個 の 文 芸 と し て は 和 そ の 衆 の 中 で の 要 請 と し て 生 じ た も の で あ る 。 たのである。 中心となった人物は、

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発句の独立文芸としての成長は、俳諮が連歌師の手を離れ、 と す る 芭 蕉 ・鬼貫等の俳人の出現を待たねばならない 。 俳 譜 の 中 で 自 己 の 世 界 を 追 求 し よ う 歌を有していた。 Eと こ ろ で 、 その文芸性はともかくとして、 和歌が連歌に対するごとく、 俳 諸 に 対 す る そ れ と し て 発 句 が 意 識 さ れ た 例 は 既 に 句 合 に 見 ら れ る 。 現 在 知 ら れ て い る 最 初 の 匂 合 は 、 慶 安 三 年 の 立 圃 編 ﹃ 花 月 十 八 番 句 合 ﹄ で あ る 。 貞 門 季 吟 及 び そ の 門 下 で 句 合 が 盛 ん に 行 な わ れ て い た と い う 。 季 吟 門 の 一 人 で あ っ た 芭 蕉 も 、 寛 文 十 二 年 に は﹃員おほひ﹄を編んでいる。歌合の単なる模倣として始まったものであろうが、 の 中 で も 、 このような中で育てられた発句 観も、﹁西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一なり﹂ ( 笈 の 小 文 ) 在 、 俳 詣 に 高 度 な 文 芸 性 を 求 め て 蕉 風 を 確 立 し た 芭 蕉 が 、 発 句 を 単 に 連 句 の 為 だ け で な く 和 歌 と 対 等 の 一個の独立文芸として意識して行く事を助長した一因となっていよう。 次に、蕉風俳諸における発句の意識と成長を句作論を中心に考察する。 発句を発句たらしめる具体的要素は切字企季である。 切字の事、 師のいはく ﹁むかしより用ひ来る文字ども用ゆべし。連俳の書に委くある事也。 切字なくては、 ほ 句のすがたにあらず、付句の体也。 切字を加へでも付句のすがたある句あり。 誠にきれたる句にあらず。 又 、 切字なくても切る﹀句あり。 そ の 分 別 、 切字の第 一 也 。 その位は自然としらざれば知りがたし。 ( 中 略 ) ﹁ 切 る 也 。 さ れ 共 、 切字はたしかに入たるよし 。 初心の人の道のまどひに成てあし﹀。 つねにつ﹀しむべし。 8

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ま し て 、 させる事もなき句は、 句を思ひ止とも、常にたしなむべし﹂ と示されし也。(三冊子、﹃校本芭蕉全集第 七巻﹄による) ここに芭蕉の切字観はほぼ言い尽されている

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言える。句を切る為に生まれた切字が、 その本質を忘れ形骸化し て行く事への警鐘であり、 切字の原点に戻った考えでもある。 又 切字を入侍れば悪敷なり、切字をのぞき侍ればよろしくなる句に、切字を入ルは見ぐるしかるべし。(旅寝論、 ﹃蕉門俳論俳文集﹄による) とも説く。無闇矢鱈に切宇のない句を作る事を厳しく戒める一方、形式や規制にこだわらず発句の文芸性を尊重す る姿勢をも示している。貞門俳詣では俳言や式目などの規制の為に、俳詣が本来有する自由性を失い新味を失う結 それが行き過ぎて無法状態に陥った。この教訓を踏んでの芭蕉ーの言辞 果 と な り 、 談林俳詣では自由を取り戻すが、 切字に用る時は、四十八字皆切字也。用ひざる時は、一字も切字なしと也﹂(去来抄)という一一一一口 葉でもわかるように、切字は入れれば切れるのではなく、用い方で切れるのである。切字の使用法の良し悪しは、 猿に人に語 であろう。﹁先師日、 後述する取合せの手法と深く関り、 発句の生命を左右する。 それ故に﹁切字の事は連俳ともに深く秘。 るべからず﹂(去来抄)と秘伝としたのである。 とができる。 芭蕉の切字論の中に、独立文芸としての発句の意識を明確に窺うこ 発句の当座性を表わす為に連歌の時代から必要条件とされてきた。俳詣では、連歌の季語に加え、広く 素材を求めて俳詰独自の季語を見い出し増加の一途を辿る。 季 語 は 、 先師、季節の一 つも探り出したらんは、後世によき賜也。(去来抄、﹃校本芭蕉全集第七巻﹄による) 詞に季なしといへども、一句に季と見る所有て、或は歳旦とも、名月とも定るあり。円向上) 芭蕉も、新しい季題の発掘に意欲的ではあるが慎重である。そして切字同様、形式的ではなく本質的な季感の存

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去 来 日 、 発句を四季のものと定め、季題に頼る俳詣のあり方に疑問を抱く。 ﹁無季の句は折々有。興行はいまだ聞ず。先師の目、発句も四季のみならず、恋・旅・名所・離別等、 その一方では、 在をも認める。 無季の句ありたきもの也 。 されど、如何なる故ありて四季のみとは定め置れけん﹂(去来抄) 新季題、無季の句、共通するところは新味ある句作である。無季の句については﹃旅寝論﹄でも﹁是を興行せん と思ひ侍れ共、 しばらく思ふ所有﹂ とも伝える。 俳席において、 発句の必須条件である季題を無視する事の難しさ を伝えるものではあるが、芭蕉の無季の句願望にはまた別の理由もあったようである。 歩行ならば杖っき坂を落馬哉 角のとがらぬ牛もあるもの この句は門人土芳が句也。先師﹁此句を風輿仕たり 。 季 な し 。 みな脇して見るべし﹂ と有 。 各々様々付て見侍 れ 共 、 心にのらずして、 ふと此句を見せ侍れば、 ﹁ 宜 し ﹂ と て 、 その偉取て付られ侍る。師の心味ふベし。( 冊子) ﹃笈の小文﹄旅中の吟である 。物の本質をとらえる事を願う芭蕉は、 その為の一 つのあり方として、作ろうとし て作るのではなく、 自然と心の中から湧き上って来る句を理想と考えるようになる 。 と こ ろ が 、 ふと出来る句に季 感が伴うとは限らない。 偶然出来た無季の句に季語を入れようとすれば、 無理が生じ、句が不自然になる。芭蕉の 最も嫌うところである。自然と生じる句作は正式な席では難しい。 日常生活から生まれる単独発句に多くなるのは 必然である 。 苧句や手帳俳諮を嫌い、 句作の時の心にまで当座性を求めた芭蕉にと って、季という 制約は新しみを つの障害となったであろう事は否定できない。単独発句で、無季だが良い句ができた時、無理にでも 求める上で一 季を入れねばならないというのでは何か不満が残る。名所などに接した時殊更それを感じる。 それらの事が疑問と な り 、 他の要因とも重なって無季の句願望へと発展して行ったのであろう 。 しかし結果的には、芭蕉は無季の句を 10

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殆ど残していない。数少ない無季の匂も、 世 に ふ る も さ ら に 宗 祇 の や ど り 哉 月 華 の 是 や ま こ と の あ る じ 達 あ さ よ さ を 誰 ま つ し ま ぞ 片 ご ﹀ ろ あまり優れた句とは思えない。書かれた文芸として享受の立場からみると、何か物足りなさ不安定さを感じる。 日本人の生活は季と共に動いている。 季は時代を遡る程生活習慣と密着している。 そ れ ゆ え に 季 節 に 対 す る 感 覚 も鋭く、古くから歌に詠まれ、 地域性や時を越えて人々に愛されてきた。 日 本 人 の 心 に 奥 深 く 存 在 す る も の な の で あ る 。 日本人の心底に払み込んだ眼に見えぬ季の効用が芭蕉の無季の句願望を実らせなかったといえる。 しかしこ の よ う に 、 平句で詠まれるような素材を、季という発句の制約を破ってまでも詠みたいという意識は、 発句が単に 連句の巻頭としてだけではなく、 一個の詩として、 五 七 五 の 独 立 し た 文 芸 と し て も 成 長 し 始 め て い た 事 を 意 味 す る ものであろう。

蕉 風 俳 請 に お け る 発 句 の 独 立 性 の 強 ま り は 、 連 句 か ら の 分 離 に 繋 る も の で は な い 。 逆 に 芭 蕉 は 、 俳 詰 の 持 つ 共 同 文 芸 体 と し て の 意 義 を 最 も 尊 重 し 発 展 さ せ た と い え る 。 発 句 が そ の 巻 頭 句 で あ る か ら に は 、 発 句 と 連 句 の 関 り 、 連 句における付合観の変化が発句に与えた影響を考慮する必要がある。 ホ句はむかしよりさま/¥替り侍れど、附句は三変也。むかしは附物を専らとす。中比は心附を専とす。今は、 うつり・ひひきにほひ・くらいを以て附るをよしとす。(去来抄)

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から出発した芭蕉は、談林風の 風付合を確立するに至る。 それは ﹁ 脇 の 事 、 ﹁心付﹂を経て、﹁匂附﹂に代表される、より感覚的抽象的な蕉 発句は言外の意味をふくむをよしとす。脇は発句に残したる言外の意 貞門風の ﹁ 物 附 ﹂ 味を請て継也﹂(宇陀法師)という条件を発句に課す事となる。縁語や掛詞などの言語的遊戯や意味の上で付けるの なら、言い切ると同時に言い尽してしまっても 一 向に不都合はない。しかし、言外の意味、前句全体がかもし出す 世界に付合を求める蕉風では、余情が必須不可決の条件となる。﹃去来抄﹄の中で﹁下臥につかみ分ばゃいとざくら ( 巴 風 ) ﹂ を 去 来 が に叱責された話を伝えるが、 ﹁いと桜の十分に咲たる形容、能謂おほせたるに侍らずや﹂と評して、﹁調応せて何か有﹂と芭蕉 この事からも、如何に余情が重視されていたかが知られよう。発句と脇句の関係にお ﹁発句の余情をいひあらはして、発句の光をか﹀ぐる﹂(山中問答)ものである。平句はその不完全 さゆえに付句が可能となる。ところが発句は独立性が強い。 いても、脇句は それが為に言い尽して余情がなくなる事を厳しく注意 したのである。 句姿以上に発句に要求されたのは即吟である。 今夜初正秀亭に会す。珍客なればほ匂は我なるべしと、兼而覚悟すべき事也。其上、 ほ句と乞は J 3 、秀拙を撰 ばず早ク出すべき事也。 一夜のほど幾ばくかある。汝がほ句に時をうっさば、 今宵の会むなしからん。 無風雅 の至也。余り無興に侍る故、我ほ句をいたせり 。 ( 去 来 抄 ) 正秀直 T での会席で、 発句に手間取る去来に代って芭蕉が発句を詠んだ 。 その去来に対する芭蕉の叱責の言葉であ る。発句は巻頭の句であると共に客よりの挨拶でもある。挨拶が遅れれば主人に対して礼を欠くばかりか、座全体 を白けさせてしまう。﹁秀拙を撰ばず﹂というのはことばの綾であろうが、それほど即吟が要求されたのである。当 つである。﹁俳諮は文台上にある中とおもふベし。文台をおろすと、ふる反古と心得 座性は、俳話の本来的性質の一 ベし。﹂(篇突)という芭蕉の言葉から知られるように、俳諾は詠まれた句の中にのみ存在するのではない。句作の時

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2

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に生じる座全体の雰囲気、 それによって個々の中に生じる感情、 それらが一体となって初めて俳詰一巻が誕生するのである。従って、 そ の 流 れ の 中 に 言 葉 で は 言 い 尽 せ ぬ 俳 詣 の 醍 醐 味 があり、 当 座 性 を 失 う よ う な 事 は す べ て 否 定 される。 人の方に行に、 発句心に持行事在り。趣向、 季の取合、障りなき事を考ふべし。 句作りはのこすべし。 苧句出 たるは出る所うるはしからず。(三冊子) 発句準備の限界を示す芭蕉の言葉である。 発 句 は 、 良 い 句 を 速 く 詠 め ば い い だ け な ら 、 事 前 に そ の 場 面 を 想 定 し て句作しておけばよく事は簡単である。 しかし俳詰は、 単 に 個 が 集 ま っ て 衆 を な す の で は な く 、 衆 の 中 で 個 を 生 か す 事 が 第 一 義 と さ れ る 。 連 衆 の 当 座 の 雰 囲 気 を 無 視 し て 句 作 し た の で は 座 の 提 に 背 く 、 一座の雰囲気を壊す事にも なりかねない。 それゆえに即興感偶という事が要求される。客として他家を訪問するに当り、 発 句 が 自 分 で あ る 事 が予想される場合、 遅吟鈍句では失礼なので可能な限りの用意はして行く。 し か し そ の 場 に 臨 ん で は 一 座 の 雰 囲 気 の中から生じるものが全てに優先される。 苧句のような既製品では俳席を持つ意味がなくなる。 そ し て 場 を 離 れ る と 同 時 に 発 句 は ﹁ ふ る 反 古 ﹂ と し て 、 書 か れ た 文 芸 と し て の 成 長 を 始 め る 。 推 敵 さ れ た り 前 書 や 紀 行 文 な ど と 結 び つけられたりしてフィクション的な座へと変貌して行く。 発句は、衆の文芸として誕生しても、 誕 生 後 は 個 の 文 芸 と し て 扱 わ れ 変 化 し て 行 く の で あ る 。 芭 蕉 が 発 句 を 共 同 文 芸 の 一 た証左であろう。 っとしてばかりでなく個の文芸としても考えてい こ の よ う に 発 句 も ま た 俳 譜 の 一 部 で あ る か ら 、 句 風 の 変 化 も 当 然 俳 詣 と 共 に あ る 。 蕉 風 付 合 の 誕 生 が 、 発 句 に よ り 格 調 高 い 表 現 、 言 語 遊 戯 的 な も の で は な く 物 の 本 質 を 捉 え た 奥 深 い 表 現 を 求 め る 事 と な っ た の で あ る 。 必然的に ところで、如何に即吟が第一であると言っても駄句ではつまらない。秀句を詠む事は万人の願いである。しかし、 即 興 ・ 独 立 性 ・ 余 情 と い う 高 度 な 条 件 を 充 た す 発 句 を 当 座 で 詠 む 事 は 、 余 程 の 才 人 で な い 限 り 容 易 に 実 現 し 得 る も

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のではない。 先 師 目 、 酒 堂 日 、 先 師 目 、 許 六 日 、 そこで、三流俳人や初心者の為に発句の条件を充たすべき句作論が必要となる。 ﹁ホ句は頭よりすら/¥と謂くだし来るを上品とす。﹂ ﹁ 先 師 、 ほ句は汝が如く二つ三つ取集めする物にあらず。 こがねを打のべたる如く成べし、 と 也 。 ﹂ ﹁ほ句は物を合すれば出来せり 。其能取合するを 上手といひ、 悪敷を下手といふ。﹂ ﹁ホ句は取合せ物也。先師日、 是ほど仕よきことのあるを人はしらず、 と 也 。 ﹂ 去来日、﹁物を取合て作する時は、句多く吟速也。初学の人、是を思ふべし。功成に及では、取合、 あわざるの こ こ に は 、 論にあらず。﹂(去来抄) 芭蕉の教示法と門人達の受け止め方が端的に表れていると共に、芭蕉没後の蕉風の行方も暗示されて 芭蕉が付合十七条を門人に請われて書いたが後で捨てたという﹃去来抄﹄の話や、前述した切字論・季語論 い ず Q

一つの方法や論に固執して俳詰の成長が止まる事を芭蕉は最も恐れていた。 また或時は厳しく規制をしてそのバランスを保ち、自由と規制の葛藤の中で俳詣を成長させ などからも知られるように、 それゆえ に、或時は解放的に、 許六のように才能に恵まれた俳人は極論に走り、中道を行く去来は実行し得るだけの才を 持ち得なかった。名実ともに芭蕉の跡を継ぐだけの門人はいなかったのである 。 た。ところがその死後、 ﹁ 取 合 せ ﹂ に関して伝えられる芭蕉の言葉は、 他の蕉門論書を見てもこの程度のもので、 そこから取合せ論の展 聞や具体的手法を知る事はできない。 許六はこの手法を発句の 取 合 、 去来は、句が多く速吟になる取合せの効用を認めながらも ﹁功成に及では、 と、取合せの手法のみに頼る事にブレーキをかけている。 あわざるの論にあらず﹂ と言うまでに至る。 ﹁ か け 合 ﹂ ﹁かけ合といふ事、 という用語や 、 第一義として発展させて行き、﹃歴代滑稽伝﹄では 当流の眼也﹂ 許六の取合せ論の影響を受けたと考えられる土芳の論﹁発句の事は行きて帰る心の味也﹂(三冊子) などから考えると、いかにも取合せ即対照法と受け取れるのであるが、芭蕉の言う﹁取合せ﹂はもっと広義に解釈 14

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すべきょうである 。 芭蕉の ﹁ 取 合 す ﹂ の用い方や去来の言辞、 取合せ論初期の許六が曲輪の内外という発句の素材 L L 関連させて論じている事などからして、単なる対照法を意味するだけではないと考えられる。 例えば 古池や蛙飛こむ水のをと こ れ は 、 ﹁ 古 池 ﹂ のもつわびしさ・静寂を主張しようとしたのでもなければ、 ﹁蛙飛びこむ水のをと﹂ という動的 な世界を主張しようとしたのでもない。 一 句 の 眼 目 は 、 この二つが響き合ってかもし出す場の光にある 。 この取合 せは対等な関係にあり、 許六のい v フ ﹁かけ合﹂的手法、完全な対照法

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言 え る 。 名月に麓の霧や田のくもり 月澄や狐こはがる児の供 なども同様であろう。 ところが、 関さや岩にしみ入蝉の声(奥の細道) この句の初案は 立石寺 山寺や石にしみつく蝉の声(曽良書留) とされる。﹃奥の細道﹄では の前書はないが、句の前文がその代りをしている。﹃去来抄﹄で、去来が風 国の句を批判して、﹁山寺﹂や﹁秋タ﹂は寂しいものとして捉えるのが本意であって、本意を失ってまで実情実感を ﹁ 立 石 寺 ﹂ 詠んではいけないと諭す。芭蕉の句も﹁山寺﹂を詠んだものである。静と動の取合せではあるが、主体は ﹁ 閑 さ や ﹂ 一方に主体があり、 他方は従属的な役割を果している。﹁かけ合﹂的手法とはいえない。もちろん取合せる個々の対象の問に対照性はあ の初玉にあり、それを強調する為に﹁蝉の声﹂を﹁岩にしみ入﹂と取りはやしているのである。 る が 、 句全体の効果を見る時、 一物中心の取合せであって完全な対照法とはいえない。

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山 吹 や 笠 に 指 ベ き 枝 の 形 り し ら 菊 の 目 に た て ﹀ 見 る 塵 も な し なども同様である。 二つの手法の違いは、場全体の世界に注目するか、 そ の 中 の 一 点 に 焦 点 を あ て る か に よ っ て 生 じるものであろう。取合せの手法は、芭蕉に至って急に始まったものではない。 必 ず 言 い 切 る べ し と い う 条 件 の も とに生まれた切字が、句末だけでなく句中にも入り二句一章の構成をなす時、 取 合 せ の 手 法 も 自 然 と 用 い ら れ る よ うになったものと考えられる。 二句一章の構成は、 日 に そ へ て 青 葉 に な り ぬ 遅 桜 雲 遠 し 声 は そ な た の 郭 公 のように﹃菟玖波集﹄にも見られるし、﹃一紙品定﹄に切字﹁し﹂ の例として挙げられている 松 青 し 陰 に 色 づ く 秋 の 草 は淡い秋の情景描写で深い余情こそないが、 典型的な取合せといえよう。 こ れ は 、 和 歌 ・ 連 歌 ・ 俳 諸 に 限 っ た 方 法 戸 、 + j -P A F

A v h 、 ﹃ t l f b 、 刀 俳詰の発句においてこの手法を句作論として発展させた所に芭蕉の非凡さが窺われる。 取合せの手法は、 一物の上で句作すれば説明的な傾向に陥り易い短詩形式の有する性格を打破する為に、また、 初 心 者 に と っ て 非 常 に 便 利 な 手 法 で あ 余情・即吟を要求される発句の性格から、積極的に取り入れられたもので、 った。確かにこの 手 法 は 句 を よ り 立 体 的 に し 、 味 わ い 深 い も の に す る 。 即吟も可能になるであろう。 し か し 一 歩 仕 損じればただ取り集めただけの駄句に陥る弊害がある。 対象からこれらの事を把握し得るには、 や は り 鋭 い 眼 力 を 必要とするのである。 常風雅にいるものは、 おもふ心の色物と成りて、句姿定るものなれば、 取物自然にして子細なし 。 心 の 色 う る はしからざれば、 外に言葉を工む。是則常に誠を勤めざる心の俗也。(三冊子) 16

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こ の よ う に 蕉 風 付 合 の 成 長 は 取 合 せ と い う 手 法 を 発 展 さ せ た 。 そ れ は 、 発句を連句の巻頭句としてだけでなく、 一個の独立文芸としても成長させ、 奥深く味わいあるものとしたのである。

例えそこに高度な文芸性を求めるようになっても、 者 の 共 同 制 作 に よ る 融 和 親 睦 が 尊 重 さ れ る 事 に は 変 り は な い 筈 で あ る 。 連 句 は 本 来 社 交 遊 戯 的 な も の と し て 出 発 し た 。 一 座 す る 句 作 野 ざ ら し を 心 に 風 の し む 身 哉 此 秋 は 何 で 年 よ る 雲 に 鳥 旅 に 病 ん で 夢 は 枯 野 を か け 廻 る いずれも芭蕉の句であるが、 こ の よ う に 自 己 の 中 に 対 象 を 求 め た 句 作 は 、 連 句 の 巻 頭 句 と し て の 意 識 が あ る な ど とは到底考え難い。 発 句 が 、 単に連句の為だけでなく、 私 の 為 の 一 個 の 文 芸 と し て も 存 在 し て い た 事 を 意 味 す る も のであろう。 和歌は汗情的で俳譜は即物的だと言われる。 さ れ て い た 貞 門 談 林 の 頃 な ら ば と も か く 、 俳 話 の 世 界 に 出 発 し 、 し か し 、 和 歌 や 連 歌 が 主 体 と し て 存 在 し 俳 詰 は 余 興 遊 戯 的 な も の と そ の 中 に 自 己 の 世 界 を 追 い 求 め た 芭 蕉 に は そ れ は 和 歌 が 情 を 表 現 す る 為 に 自 然 を 利 用 す る の に 対 し 、 俳 詣 は 我 を も 自 然 の 一 部 と し て 自 己 を 表 現 す る と い う 句 作 態 度 に お い て 相 違 が あ る だ け で あ る 。 脇起しの連句や身内だけの俳席は別として、 一 般 的 な 俳 席 で は 自 己 中 心 的 な 発 句 は 共 同 文 芸 の 意 義 を 壊 す も の と し て 原 則 的 に は 禁 じ ら れ て い た 。 挨拶性を重んじれば当然そのような出句はなくなる。 必 ず し も あ て は ま ら な い 。 し か し 席 を 離 れ た 単 独 発 句

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の場合には、芭蕉はそれ程こだわることなく詠んでいたようである。その結果として、前述したような発句が生じ たのであろう。例え自然の中で己を捉えても、できた句、が、﹁旅に病んで﹂の知く自己の内に対象を求めた部分だけ になれば、他と共有する部分がなく付句が不可能となり、 一個の文芸として完全に孤立する事となる 。 句作論を眺 めても、芭蕉の求める発句

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連句の巻頭としての発句の聞にはかなりの隔りが見られる。 また句作りに師の詞有。 師の心を能執行し、 いまだ心にきへざる中にいひとむべし。﹂(三冊子) つねに勤て、事にのぞみて案じころす事なかれ。案ずるばかりにて出る筋に有べからず。 ﹁物のみへたる光、 つねに勤て心の位を得て、感ずるものうごくやいなや句と成るべし。(向上) 句作の瞬間を捉えた優れた論である。ここに言う、 事 とはその場全体の意で、 ﹁ 物 ﹂ とは形ある物だけでなく 抽象的な概念をも含めた広い対象を意味する。 このように、 物の本質を求める事により優れた句作をしようとした 芭蕉は﹁常にして常をはなれ、作を捨て作ある所﹂(桃の杖)を理想の句作と考えるようになった。無心になる一句 を作ろうとする気持ちを捨てて、その中から自然と生じるものが句となる事を望んだのである。それは、去来がふ と言った言葉を﹁是、 ほ句也﹂と言って﹃猿蓑﹄に入集させたという﹃去来抄﹄の話や、﹁俳話を子どもの遊ぶごと くせよ﹂(鉢袋)と言った芭蕉の言葉などからも察する事ができる。 梅若菜まり子の宿のとろ﹀汁 此句、師のいはく ﹁工みて云る句にあらず。 ふといひて、 宜しと跡にてしりたる匂也。 かくのごとくの句はま たせんとはい﹀がたし﹂ ル ﹂ 也 。 ( 三 冊 子 ) 芭蕉の、自慢気でいかにも嬉しそうな様子が伝えられる。﹁館乙州東武行﹂と前書のある歌仙の発句だが、このよ うな形で出来る連句の発句はまれである。俳席での発句は、何よりもまず即吟と挨拶性が要求される。物に感じて 句が生じた時に座があるわけではない。色々と制約の多い俳席の中で要請されて作るのと、 日常生活の中から自然

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と生じる句を比すれば、前者は ﹁する句﹂後者は ﹁成る句﹂が多くなるのは自然の理で、優れた句が単独発句に多 く な る の は 必 然 的結果となる。芭蕉の発句論と俳席での実作との問には非常な距離が感じられるのである。 師のいはく ﹁絶景にむかふ時はうばはれて不叶。 ものをみて取所を心に留て不消、 書写して静に句すべし。う ばはれぬ心得も有事也。其おもふ虚しきりにして猶かなわざる時は書うっす也。あぐむべからず﹂となり。師、 ﹁まつ嶋に句 なし﹂というのは、元禄二年の奥の細道旅行中の事である。 絶景の感動を壊すような句なら作らない方がょいと言う事であろう。俳席の制約から完全に遊離した単独発句のた まつ嶋に句なし。大切の事也。(三冊子) ここには俳諮の座の意識は皆無である。 めだけの句作態度がここに見られる。 貞享二

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三年の頃の作と推定される ﹁おと﹀ひはあの山こえつ花盛﹂ という去来の匂を、 芭蕉は未来の句だから と言って発表を二・三年控えさせ、後に去来の手柄を褒めた話が﹃去来抄﹄に見えるが、 このような事も当座性を 重んじる連句では考え難い事である。また、﹁辛崎の松は花より騰にて﹂ の 句 に 、 にて留で切字がない事から、門人 達より様々の意見が出されたのに対して ﹁角・来が弁皆理屈なり。 我はたジ花より松の躍にておもしろかりしのみ﹂(去来抄)と芭蕉が一喝している事からも、俳詣の席は別として、 単独発句の際は連句の制約よりも一個の文芸性の方を重んじていた事が知られる。蕉門の俳論諸書を見るに、発句 の句作論が貞円談林時代に比して圧倒的に多く、その内容も単に礼義作法・形式論の域にとどまるものではない。 ﹃去来抄﹄等に伝えられる撰集時の状況などを見ると、撰集の為の発句、発句の為の発句が多 く作られていた事が 知られる。よく問題にされる﹃奥の細道﹄所収発句の推敵過程における扱い方などにしても、独立文芸としての意 識が十分に窺えるのである。衆の文芸としての俳詣を成長させると共に、 一 方でのこのような 芭蕉の俳詣に対する 姿勢が、蕉門最古参の杉風をして

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俳詣ハ只風雅也 。 風雅二論ハ少も無御座-候 。 我と吟じて、我を楽也 。 是、翁の伝ニて、外ニ何も無御座候。(厚 為宛元禄十五年七月廿三日付書簡、﹃蕉門俳人書簡集﹄による) と言わしめる迄に至ったのである 。 -L-/" 蕉風連句の世界は、 付けるというよりも、前句と付句が 一 体となって新しい世界を生み出す性質のものである。 前句は付けられることによって新たな生命ある世界を持つ 。 個が個として存在価値を発揮することが、同時に他を生かし、また全体の秩序を生かすことであり、全体の秩 序に参加し、他を生かす事が、同時に自己を生かす唯一の道である。(﹃連句芸術の性格﹄) という能勢朝次氏の連句論は誠に的を得たものである 。 高度に成長した蕉風付合を行うには、優れた理解カと鑑賞 力、加えて表現力を必要とする 。 支考日、﹁附句は付るもの也 。 今のはいかいつかざる、多し。先師の日、句に一句も附ざるなし。﹂去来日、﹁附 句はつかざれば付句にあらず 。 付過る、病也 。 今の作者、附ることを初心の業の様におぼへて、 却て附ざる句 多し 。 聞人もまた聞へずと 、 人 の 謂むことをはぢて、附ざる句をとがめずして、能附たる句を笑ふやから多し 。 ﹂ ( 去 来 抄 ) 付物や心付で付ければ付け筋がわかって初心者のようで恥しい 。 付物を離れ情をひかずに付けよ う とすると付か ない句になる。これを批判すれば眼力を疑われると思い、鑑賞の側でも沈黙を守る 。 理解力や表現力の不足からく るものである。蕉風付合は、 発句論における取合せと同様の性質を持っと言、えよう 。 下手をすれば並べただけのば

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ら/¥のものになってしまうのである。 一座に参加した者でも困難な付合を、 当 座 に い な い 読 者 が 理 解 す る の は 不 可能に近い。 それはまた、書かれたものから学ぶ事の困難をも意味する。 書 か れ た 文 芸 と し て 伝 え ら れ る 性 格 を 持 たないのである。 こ の 連 句 芸 術 の 限 界 と も 言 う べ き 高 度 な 付 合 の 手 法 は 、 衆 の 中 か ら 自 然 と 成 長 し て 来 た も の で は な い 。 芭 蕉 と い う 天 才 詩 人 が 存 在 し て 初 め て 生 ま れ 得 た も の で あ る 。 車 抜 し た 理 解 力 ・ 鑑 賞 眼 ・ 表 現 カ の 三 拍 子 が 揃 っ て 可 能 と な る の で あ る 。 芭 蕉 が ﹁発句は門人の中予にをとらぬ句する人多し、俳諸におゐては老翁が骨髄﹂(宇 陀の法師)と述べたのも己の才能を自覚してのものであろう。 衆 の 文 芸 が 成 長 す る 為 に 必 要 な 条 件 は 、 衆 の 力 量 が 等 し く 優 れ て い て 、 個 性 は 異 な っ て も そ の 求 め る 所 を 本 質 的 に 同 じ く す る と い う 事 で あ る 。 前 者 が 欠 け れ ば 低 下 を 招 き 、 後 者 が 欠 け れ ば 分 裂 が 生 じ る 。 蕉 風 俳 詰 は 前 者 に 欠 け 、 芭 蕉 一 人 が 抜 き ん 出 て い た 。 卓 越 し た 才 能 と 指 導 能 力 を 持 つ 宗 匠 に よ っ て 門 人 達 の 才 が 生 か さ れ 、 支 ところで、 えられていたのである。 俳 詰 の 流 行 は 、 俳 諸 人 口 の 増 加 と 共 に 各 流 派 を 生 む に 至 っ た 。 各 流 派 は 各 々 宗 匠 を 有 し 、 宗 匠 を 中 心 に 成 長 し て 行 く 。 そ し て 次 第 に 流 派 聞 の 交 流 は 薄 れ 、 宗 匠 達 が 同 座 す る 機 会 が 減 少 す る 。 芭 蕉 一 門 に こ の 現 象 が 顕 著 に あ ら わ れている。 こ れ は 、 蕉 風 確 立 後 芭 蕉 と 同 座 し た 連 衆 の 大 部 分 が 芭 蕉 傘 下 の 俳 人 で あ る 事 か ら も 明 ら か で あ る 。 宗 匠 の死後は流派が流派を生む事となる。 このような流れは、衆の文芸の成長に止って致命的な事といえる。 芭 蕉 一 門 もそのような流派の一 つであった。彼の死と共にそれは分散し、実体より理論が先走り、質の低下を招く事となる。 七 蕉 風 俳 諸 に お い て 、 発 句 は 独 立 文 芸 と し て 完 全 に 遊 離 し て い た と い え る 。 いない。ここに余情ある味わい深い発句が多く生まれた原因がある。 し か し 連 句 か ら の 分 離 に ま で は 至 っ て そのバランスを支えていたのが苦蕉である。

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芭 蕉 の 発 句 論 に 見 ら れ る 遊 離 性 は 、 統 一 性 の あ る も の で は な く 断 片 的 な も の と 言 え る 。 芭 蕉 は ま た 俳 詣 の 共 同 文 芸 と し て の 性 格 を 尊 重 し 、 よ り 一 層 成 長 さ せ た 。 そ れ は 彼 の 詩 的 才 能 に よ る も の だ け で は な く 、 門 人 達 の 才 能 を 見 抜 き 、 個 性 に 応 じ た 指 導 で 育 て た 天 才 的 な 指 導 能 力 に よ る 所 が 大 き い 。 よ く 比 較 さ れ る ﹁ 誠 説 ﹂ の 鬼 貫 と 端 的 に 異 な る 所 で あ る 。 そ し て 俳 詰 に 対 す る 芭 蕉 の 姿 勢 に は 、 高 度 な 文 芸 性 の 成 長 を 念 頭 に お い た 、 自 由 と 規 制 の 二 律 背 反 の 態 度 が 常 に 存 在 し て い た 。 切 字 論 や 取 合 せ 論 の 中 で 述 べ た ご と く 、 門 人 達 へ の 教 示 法 の 中 に も そ れ は 度 々 表 わ れ て 俳 話 を 余 興 遊 戯 的 に 考 え て い た 貞 徳 や 宗 因 の 時 代 に は 、 単 独 発 句 と 連 句 の 発 句 の 聞 に そ れ 程 の ギ ャ ッ プ は な か っ た で あ ろ う 。 し か し 、 俳 詣 を 和 歌 と 対 等 の 文 芸 と 考 え 、 物 の 本 質 を 捉 え た 内 容 を 発 句 に 求 め る 蕉 風 俳 詣 で は 、 個 の 性 格 が 強 く な っ た 単 独 発 句 と 、 挨 拶 性 対 話 性 を 重 ん じ る 連 句 の 発 句 と の 聞 に 大 き な 距 離 が 生 じ て 来 た 。 物 の 本 質を捉えた句、が、そのまま巻頭句として優れたものになるとは限らない 。 し か し 芭 蕉 は そ の 両 方 を 求 め た 。 或時は 挨 拶 性 を 強 く 主 張 し 、 或 時 は 文 芸 性 を 強 く 主 張 し た 。 貞 門 ・ 談 林 の 中 で 育 っ た 芭 蕉 は 、 文 芸 の 成 長 に お け る 自 由 と い る 。 規制の共存の必要性を痛感していたのであろう。 物 の 本 質 と 挨 拶 性 、 単 独 発 句 と 連 句 の 発 句 、 そ れ ら を 分 離 さ せ る こ と な く バ ラ ン ス の と れ た 葛 藤 の 中 で 俳 諾 を 成 長 さ せ た と こ ろ に 芭 蕉 の 偉 大 さ が あ る 。 奥 深 い 芭 蕉 の 発 句 が 、 例 え 脇句を寄せ付けないような句であっても、 それもやはり連句との葛藤ゆえに生れたものなのである。 近 代 俳 句 左 の 距 離 は こ こ に 存 在 す る 。 近 代 俳 人 に と っ て 俳 句 は 全 く 個 の 文 芸 で あ る 。 近 世 俳 人 に と っ て は 、 発 句 は 基 本 的 に は 個 の も の で は な く 衆 の も の で あ る 。 従 っ て 他 と 共 有 す る 場 で 詠 も う と す る 習 性 が あ る 。 発 句 が 外 へ 語 り か け る 性 格 が 強 い の に 対 し 、 俳 句 は 自 己 の 世 界 へ 埋 没 す る 性 格 が 強 く な る 。 作 品 へ の 具 体 的 表 出 を 探 る 事 は 困 難 であるが、 ここで冒頭の句に戻って考えてみる。 句 を 解 釈 す る 時 、 作 者 か ら 切 り 離 し て 一 個 の 作 品 と し て 捉 え る 方 法 在 、 作 者 の 状 況 を 考 慮 し て 解 釈 す る 方 法 と が ある。芭蕉の三句について見れば、二方法の解釈の聞に大きな隔りはない。子規の三句についてはどうであろうか。

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﹁ 柿 く へ ば ﹂ の 句 は 、 従軍記者として大陸に渡り、 帰国の船上で曙血、 一時危篤状態にまで陥り、 長い療養生活を 送った直後に奈良を訪れた時の吟である。柿は子規の大好物でもあった。﹁鶏頭の﹂句は、子規が病床についてから の吟である。子規は赤色を好み、自然の中で最も必要な色であり赤を見ると生命力が喚起されるとまで述べている。 庭は病床の子規にとって自然のすべてであり、自然は、こちらから情を以て向うと自分に語りかけてくるとも言つ また、庭の生命の成長の様子を非常な楽しみとしていた。この二句をと っ て み て も 、 二 方法の解釈による ている 。 差異は明白であろう。 この二つの解釈の聞の距離が、 発句と俳句との距離である。 また発句の方は、 その性格上余 情のある句が生まれる可能性が高い。 異なるであろうが、 少なく

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も 、 芭蕉の句にそのようなものが存するのは 、 深遠なる味を有する句が優れているかどうかは人それぞれの価値観によって これまで述べてきた芭蕉の俳譜に対す る姿勢に起因するものである。 (京都外国語大学﹁研究論叢﹂ 日号所収、 昭 和 付 年 3 月刊)

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細道さがし

行かふ年

月日は百代の過客にして、 行 か ふ 年 も 又 旅 人 也 。 舟 の 上 に 生 涯 を う か ベ 馬 の 口 と ら え て 老 を む か ふ る 物 は 、 日々旅にして、 旅を栖とす。 (荻原恭男校注﹃おくのほそ道﹄岩波文庫) 周知の回目頭箇所である 。 作品の田目頭部分は、多くの場合、 そ の 作 品 の 読 み 方 を 示 唆 し て い る 。 従 っ て 解 釈 に は 細 心 の 注 意 が 払 わ れ る べ き で あ る こ と は 今 更 い う ま で も あ る ま い 。 この一文は、 ま ず 読 者 に あ の 季 白 の ﹁春夜桃季園 一 宴 ス ル 序 ﹂ の ﹁ ソ レ 天 地 ハ 万 物 ノ 逆 旅 ナ リ 、 光 陰 ハ 百 代 ノ 過 客 ナ リ 、 而 シ テ 浮 生 ハ 夢 ノ 若 シ ﹂(古文真宝)を想起 西 鶴 作 品 に お け る 利 用 な ど に も 見 ら れ る よ う に 、 当 時 の あ る 程 度 以 上 の 知 識 人 に は 一 般 的 な 知 識 で あ る 。 す な わ ち こ の 作 品 は 、 ま ず は 漢 詩 漢 文 の 世 界 の 上 に 立 っ て 始 ま る こ と と な る 。 例 え ば 上 野 洋 三 著 ﹃ 芭 蕉 論 ﹄ ( 筑 摩 書 さ せ る 。 房 ) に よ る と 、 ﹁ 舟 と 馬 ﹂ は 旅 を 形 態 的 に と ら え る 時 の モ デ ル 、 旅 を 具 体 的 に 表 現 す る 時 に 選 び と る 一 対 で あ り 、 遊 が区別される漢詩文集での舟の扱いを踏まえる時、 作 品 全 体 の 中 で 各 四 回 ず っ と 照 応 が 見 ら れ る と い う 。 こ の 事 に 限 ら ず 、 漢 詩 漢 文 の 世 界 は 、 ﹃ 細 道 ﹄ 構 成 上 の 重 要 な ﹁ 舟 ﹂ と 交 通 手 段 と し て の ﹁ 舟 ﹂ こ の 二 つ の 使 用 は 覧 と し て の 要素となっている。 これはまた俳話史の思潮の一 っとしてとらえることが出来る。 延宝後期に芽生え、 天和期に全 盛を迎えた漢詩漢文調の俳諮は、 貞享・元禄の頃には、 目 新 し い 時 期 を 過 ぎ て 俳 詩 作 品 の 一 要 素 と し て 消 化 さ れ 、 こなれた表現として落ち着く。﹃細道﹄もその流れに立脚したものなのである。 日目頭の対句的表現にも注目される。 ﹁月日﹂﹁百代﹂﹁過客﹂ は 漢 語 ( 月 日 は ツ キ ヒ と よ め ば 和 語 ) で 、 これに対応する ﹁行かふ年﹂﹁旅人﹂ は和語(旅 人 は リ ヨ ジ ン と よ め ば 漢 語 ) で あ る 。 そして ﹁過客﹂と ﹁ 旅 人 ﹂ は閉じ語義で用いられているが、﹁月日﹂ と ﹁ 行 か 24

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ふ 年 ﹂ は 同 じ よ う で い て 語 義 を 異 に す る 。 それは ﹁旅人﹂に﹁百代﹂(永遠) に 対 応 す る 修 飾 語 が な い こ と か ら も 明 らかである。 ここには、 っ と し て 漢 文 と 和 文 の 対 応 と 融 合 と い う 方 向 性 、 今 つには主人公 ( 旅 人 ) の あ り 方 と しての方向性がみられる。 ﹁ 月 日 ﹂ は 文 字 ど お り 流 れ 行 く 時 そ の も の で あ り 、 普 遍 性 を 持 つ も の で あ る 。 これに対して ﹁ 行 か ふ 年 ﹂ は 年 一年を意味し、 一過性のものである。 ゆ え に 旅 人 ( 過 客 ) で は あ る が ﹁ 百 代 ﹂ で は な い 。 普 遍 性 か ら 一 過 性 へ 焦 点 を 移 し つ つ ﹁ 旅 人 ﹂ の語義を規定しているのである。 この上に立って主人公の旅は始まる。 こ の ﹁ 行 か ふ 年 ﹂ l土 後 文 で 普 遍 か ら 個 別 へ と 展 開 さ れ る 中 で 、 よ り 具 体 的 に 示 さ れ る 。 前 掲 引 用 文 に 続 い て 、 ﹁ 古 人 も 多 く 旅 に 死 せ る あ と 、 時 を 行 き か う 人 の 一 人 と し て 主 人 公 が 登 場 す る 。 更 に 旅 立 ち ま で の い き さ つ 、 旅 り、予もいづれの年よりか﹂ 立 ち に あ た っ て の 思 い が 記 さ れ 、 巻 頭 句 と も い う べ き 住る方は人に譲り、 杉風が別竪に移るに、 草 の 戸 も 住 替 る 代 ぞ ひ な の 家 面八句を庵の柱に懸置。 を 掲 げ て 実 際 の 旅 立 ち と な る 。 こ こ に お い て ﹁行かふ年﹂はその方向性を明確にする。﹁草の戸﹂は文字通り草庵の こ と 、 草 庵 が 人 に 譲 ら れ ﹁ ひ な の 家 ﹂ ( 娘 を 持 つ 人 の 家 ) に 住 み 替 わ る の で あ る 。 当 時 、 雛 祭 は 地 方 に よ り 様 々 な 形 態があったようであるが、 同 時 代 の 句 に 次 の よ う な も の が あ る 。 振 舞 ひ や 下 座 に な ほ る 去 年 の 雛 去 来 ( 猿 蓑 ) こ の 句 に つ い て は 、 ﹁ 不 玉 宛 去 来 論 書 ﹂ に ﹁ 此 句 ハ 家 ニ 久 シ キ 人 ノ 衰 テ 、 時 メ ク 人 ノ 出 来 ル 、 古 今 ノ 習 ナ リ 。 今 日 雛 ニ 依 テ 感 吟 ス ﹂ と 人 の 盛 衰 を 雛 に 見 立 て た も の で あ る と 説 明 し て い る 。 飾 り 雛 に し ろ 流 し 雛 に し ろ 、 年 毎 に 入 れ 替 わ る 形 態 の 雛 祭 は 少 な く な か っ た と 思 わ れ る 。 す な わ ち ﹁ 草 の 戸 ﹂ の 句 は 、

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このようなちっぽけな草庵でも、 あ の ﹁ 雛 の 家 ﹂ の よ う に 主 が 住 み 替 わ る 時 が や っ て き た こ と よ 。 雛 を 飾 る よ うな華やかな家に。 ( そ し て 私 も 、 あ の 古 人 た ち に 住 み 替 わ っ て 旅 人 と な ろ う ) ほどの意となろうか。定住から一所不住へ、 そ の 覚 悟 は 必 然 的 に ﹁古人も多く旅に死せるあり﹂ と 重 な る こ と と な る。﹁行かふ年﹂ は か く の ご と く 具 体 化 さ れ た の で あ る 。 も う 既 に 明 ら か で あ ろ う が 、 こ の ﹁ 行 か ふ ﹂ の意は別に事 新しいものではない。﹃古今和歌集﹄仮名序に﹁たとひ時うつり、 ことさり、たのしびかなしびゆきかふとも、この うたのもじあるとや﹂とある﹁ゆきかふ﹂、古きが去り新しきが入れ替わるという意味の﹁行かふ﹂である。この﹁行 かふ年﹂が わち俳詣的次元で旅立ちの決意が語られ、 ﹁ 古 人 も ・ : : ・ 、 予 も : ・ ・ : ﹂ で個別化され、 俳詣の 更に ﹁ 住 替 る 代 ﹂ で 俗 な る 世 界 に お い て 具 象 化 さ れ る 。 す な こ の 読 み が 確 認 さ れ る こ と に よ ﹁道の記﹂が展開するのである。 っ て 、 ﹁行春や鳥時魚の目は泊﹂ で旅がはじまり、 ﹁蛤のふたみにわかれ行秋ぞ﹂ で 結 ぼ れ て い る こ と の 意 味 が 理 解 されるのである。 ﹃細道﹄の徽密な構成については、すでに前掲上野論文によって実証されている。 こ れ ら 先 学 の 研 究 を 踏 ま え る 時 、 冒 頭 箇 所 の 示 す 方 向 性 を 今 一 度 読 み 返 し て 見 る 一 ﹁ 行 か ふ ﹂ 思想を基本に、 作 庁 比 白 ハ ノ ι f u - ロ じ ﹁ 道 の 記 ﹂ として﹃細道﹄ を読む姿勢が一層強く望まれよう。 これが筆者の提示の つ で あ る 。

次にテクストと参考資料の問題を考えてみたい。解釈に限らず、古典研究にあたってテクストを決定する作業は、 きわめて基本的かつ重要なことである。﹃細道﹄の諸本の概要を略述すると、まず、定稿として広く世に行われてい るものに素龍清書本がある。 こ れ は 芭 蕉 の 依 頼 に よ り 柏 木 素 龍 が 浄 書 し た (元禄七年成) も の で 、 芭 蕉 自 筆 の 題 接

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を 付 す 。 元禄十五年の刊本の版下はこれを透き写ししたものである。次に曽良本がある。芭蕉の草稿を忠実に臨写 し、後、素龍本と対校して訂正を施したものと近年まで考えられてきた。今一 つ柿衛本がある。 これは素龍が浄書 の際、自分用に別に筆写したものである。他にも多数の諸本はあるが、 以上が﹃細道﹄を研究するさいの主なテク ストとなっている。百蕉の自筆草稿が確認されない状態でのテクスト研究、村松友次著﹁曽良本﹃おくのほそ道﹄ の 研 究 ﹂ はこの問題に大きな光明を与えた。 氏 は 、 これまで曽良の手によると考えられてきた曽良本の行間書き込 みや補訂・抹消について、筆跡、仮名遣い等を他の草稿と詳細に比較検討し、 芭蕉の草稿を臨写したのは曽良であ る が 、 訂正・書き込みは原著者芭蕉の手によるものである、曽良本こそが芭蕉が素龍に託した﹃細道﹄ の最終草稿 であると言う結論に至った。このテクスト研究の進展が今後の芭蕉研究に大きく寄与することはもちろんであるが、 メ-L つの大きな意味を含んでいる。﹃細道﹄研究に現在頻繁に活用されているものに曽良の﹃奥の細道随行日記﹄が ある。これは、細道の跡を辿った芦陰合竹斎の﹃句安奇再度﹄(文化七年刊)の中で触れられているように、既に江 戸時代から一部の人々には知られていたものであるが、昭和十八年に翻刻紹介されて広く一般に知られ、以後、﹃細 道﹄の文学的虚構が大きく注目されることとなり、 これがために作品の評価を毘める研究者さえ出現した。本書が その存在を知られつつも長く世に埋もれていたのは、﹃おくのほそ道﹄(優れた道の記) H 真実という読み方が長く 行われていたこ左を意味するものであろう。﹃細道﹄は江戸時代から現在に到るまでに移しい注釈がなされている。 幸田露伴の頃までは、芭蕉という名に影響されつつも、まだ大半が作品を読むという姿勢が見られる。 しかし次第 ことに曽良の﹃随行日記﹄が流布して以後、大きく転換してしまう。現在行われている注 釈書類でこの﹃随行日記﹄を引用していないものは皆無に近い。確かに、﹃細道﹄の裏側や当時の現実を知るには非 常に便利ではある。作品の構造を裏側から解析したり、成立論や作家論を考える時には非常に有効なこの方法は、 作品としての﹃細道﹄を解釈する姿勢を希薄にするという弊害を生んでいるきらい にそれは変化してゆき、 伝記的事実の注とも相侯って、

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がある。解釈のあり方をムユ度考え直す必要があろう。 また﹃随行日記﹄は、 冗来は芭蕉自筆﹃おくのほそ道﹄ と一具に伝来したものという 。 実際に現在に伝えられているのは、 いわゆる 曽 良本である 。 もともと曽良本を芭蕉 自筆本のごとく伝えていたのか、 途中ですりかわってしまったのかは明らかではなかった。前掲論文はこの問題に も 言 及 し 、 この曽良本こそが、 芭蕉自筆﹃おくのほそ道﹄ のことをさすのであろうと推定する。 この推論に立脚す れば、﹃細道﹄成立における﹃随行日記﹄の存在を見直す、原本と日記とが一具に伝えられてきたことの意味を解明 する必要が生じてこよう。﹃細道﹄研究にあたって曽良の﹃随行日記﹄を利用する際には、この最終草稿と﹃随行日 記﹄が一具に伝来したことの意味、﹃細道﹄成立過程における百蕉自身と﹃随行日記﹄の関係をもっと考慮に入れる 必要があると考える 。

﹃細道﹄を理解するための一手段として、跡を辿る一追体験をするということが既に江戸時代から行われてきた。 こ れ が 、 同時代の読者の視点に立つために有用であるならば解釈に利する点もあろう。前述したように、ごく最近 までこの作品が事実を記したものとして読み継がれてきたことを考えればなおさらである 。 またこれは、作家論や 作品の成立論を行う時には非常に大切なこととなろう 。 し か し 、 現在においては、 既に当時の面影を忠実に残すも の信想性を論じるのは、作品解釈の立場から考えれば無益なことである 。 読まれてきたというこ

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は 、 のは少ない。極論すれば距離ぐらいのものであろう。従って追体験は不可能に近い。この疑似体験をもとに﹃細道﹄ 江戸時代において 事 実として な ぜ な ら 、 その内容が、 一般的には事実として許容できる範囲内であったことを意味しているか らである。 それ以上に、追体験の幻想が解釈を踏み誤まらせることの危険性を十分に認識しておく必要があろう。

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以上が﹃細道﹄研究の現状に対するささやかな提言である。 現 代 の 作 品 が そ う で あ る よ う に 、 古 典 作 品 に お い て もそれは同様であろう。 た と え 同 時 代 の 次 元 に 立 と う と も 、 様 々 な 読 み の 可 能 性 が 存 在 す る の は 当 然 の こ と で あ る 。 研 究 方 法 に お い て ﹁読む﹂という行為の持つ意味を、今少しだけ見つ た だ そ の 前 に 、 す べ て の 出 発 点 と な る も めてみたいものである。 (﹁地中海文化研究会研究報告﹂皿所収、平成 3 年 3 月刊)

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風流の初│﹃奥の細道﹄試論│

はじめに

是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。此口付のおのこ、﹁短冊得させよ﹂と乞。やさしき事を望侍るもの か な と 、 野 を 横 に 馬 牽 む け よ ほ と ﹀ ぎ す 殺生石は温泉の出る山陰にあり。 石の毒気いまだほろびず、蜂・蝶のたぐひ、 真 砂 の 色 の 見 え ぬ ほ ど か さ な り 死 す 。 又、清水ながる﹀の柳は、草野の里にありて、 田 の 畔 に 残 る 。 此 所 の 郡 守 戸 部 某 の ﹁此柳みせばや﹂ な ど 、 折 /¥にの給ひ聞え給ふを、 いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立より侍つれ。 田 一 枚 植 て 立 去 る 柳 か な 心許なき日かず重るま﹀に、白川の関にか﹀りて旅心定りぬ。﹁いかで都へ﹂と便求しも断也。中にも此関は三 関の一にして、風仏称の人心をとジむ。秋風を耳に残し、紅葉を悌にして、青葉の梢猶あはれ也。卯の花の白妙 に 、 茨 の 花 の 咲 そ ひ て 、 雪 に も こ ゆ る 心 地 ぞ す る 。 古 人 冠 を 正 し 衣 装 を 改 し 事 な ど 、 清 輔 の 筆 に も と ジ め 置 れ しとぞ 卯 の 花 を か ざ し に 関 の 晴 着 か な と か く し て 越 行 ま ﹀ に 、 あ ぶ く ま 川 を 渡 る 。 左 に 会 津 根 高 く 、 右 に 岩 城 ・ 相 馬 ・ 三 春 の 庄 、 常 陸 ・ 下 野 の 地 を さかひて山つらなる。かげ沼と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず。すか川の駅に等窮といふものを尋て、 曽良

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四 五日と J S めらる。先、 ﹁白河の関いかにこえつるや﹂ と 問 。 ﹁長途のくるしみ、身心つかれ、 且は風景に魂 うば﹀れ、懐旧に腸を断て、 はかん/¥しう思ひめぐらさず。 風流の初やおくの田植うた 無下にこえんもさすがに﹂ と語れば、脇・第三とつジけて三巻となしぬ。 此宿の傍に、 大きなる栗の木陰をたのみて、 世をいと ふ僧 有。橡ひろふ太山もかくやと閉に覚られて、 ものに 書付侍る。其詞、 栗といふ文字は西の木と書て、 西方浄土に使ありと、行基菩薩の一生杖にも柱にも此木を用 給ふとかや。 世の人の見付ぬ花や軒の栗

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頁、但し、章題・章分けは省略した。以下同様) ﹃奥の細道﹄の白川の関前後の箇所、作品の回目頭から引用したいところであるが、右のみにとどめおく。ここで問 題とするのは、白川の関越えの解釈、ことに、﹁風流の﹂の句の作品中での解釈である。近年の注釈書類にこれを求 (萩原恭男校注・岩波文庫﹃芭蕉おくのほそ道﹄ めてみる。 ( 1 ) 今、白河の関を越えて、奥州に足を踏み入れて、 (日本古典文学体系﹃芭蕉文集﹄) 部びた田植歌を聞いたが、 これこそ、奥羽で最初に味わう 風流であるよ。 ( 2 ) 白河の闘を越えて耳にした都びた陸奥の田植歌、 それが今度の旅で、本格的な奥州路にはいって最初に経験 した風流であった。 (角川文庫﹃おくのほそ道﹄) ( 3 ) ( 古歌や故事にくまなく描きつくされた白河の関、またその美景、私などの出る幕ではないなと思いながら歩

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く。)道すじでふっと耳に入った都びた田植歌。新鮮な感動であり、かつ奥州第一歩に経験した最初の風流で もあった。(そして、あなたにお目にかかることも、奥州路の風流のことはじめなのです 。 )(講談社文庫﹃お くのほそ道﹄) ( 4 ) 自分はようやく白河の関を越えて、陸奥の地に一歩を踏み入れ、 そ の 陸 奥 の 風 俗 の 第 一 歩 は 、 部 び た 奥 州 の 田 植 歌 か ら 始 ま っ た 。 こ れ か ら 陸 奥 の 名 所 ・ 旧 跡 を 探 ろ う と す る の だ が 、 いかにも奥州らしい趣である。(小 学館﹃松尾芭蕉集﹄) ﹁風流の初﹂を時間的に解釈するか、空間的に解釈するか、﹁おくの田植うた﹂ を ど の よ う に と ら え る か な ど 、 古 来諸説行われている。近年は、﹁風流の初﹂を﹁白河の関を越え、奥州路に入ってからの最初の風流﹂と空間的に左 p 与 え 、 その対象を ﹁ 田 植 う た ﹂ に 求 め 、 同時にそ の 中 に 等 窮 へ の 挨 拶 の 意 も 含 め て 解 釈 し て い る 点 で 諸 書 共 通 し て こ れ ら 先 学 の 解 釈 に 特 段 の 異 議 を 唱 え る つ も り は な い 。 し か し 、 以 上 の よ う な 諸 書 の 解 釈 に 基 づ い て 作 品 を 読 ん で も 、 読 後 に 何 か す っ き り し な い も の が 残 る の で あ る 。 手 に 刺 さ っ た 臓 を 抜 き そ こ ね た いるようである。 もとより、 跡のように、 その何かがいつまでも気に掛かる。 かく言う読み手の資質にも問題はあろうが、 ここでは、 作 品 の 中 にその原因を求めてみたい。 周 知 の 如 く 、 この句を立句とした歌仙が存在する。 奥州岩瀬郡之内、 須 か 川 、 相楽伊左衛門ニテ 風 流 の 初 や お く の 田 植 歌 ぷ品 3'1羽 覆 盆 子 を 折 て 我 ま う け 草 等窮

参照

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