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とな

る︒

これだけを見ると︑

いかにも順調に活動を拡げていったように思われる︒

しかし︑多句入集者の顔ぶれの 変動はもちろんのこと︑

﹃江戸蛇之鮮﹄以下の入集者の半数以上が常に新顔で占められており︑

四書すべてに入集 しているのが︑露泊・幽山など僅か十三名を数えるにすぎない︒

この事実は︑

その撰集活動がけっして容易ではな か っ た 事 を 物 語 っ て い よ う

それに伴い商人や職人も増加した

新 し い 町 は

︑ 新 し い 人

︑ 新 し い 流 れ に 寛 容 で あ る

︒ 京 の よ う な 俳 人 間 の 柵 も 少 な か っ た で あ ろ う

︒ 加 え て

︑ 内 藤 風 虎

・ 露 泊 父 子 や 京 極 高 住 の

参勤交代制の確立後︑

江戸の武士人口は急増し︑

ようにパトロン的役割を演じる文学大名がいた︒江戸は︑新人が台頭するには格好の土地であった︒しかし江戸は︑ 地 盤 が 絶 え ず 変 動 す る と い う 不 安 定 さ も 併 せ も っ て い た

︒ 撰 集 に 見 ら れ る 入 集 者 の 変 動 の 激 し さ は

︑ 調和の編書などにも見られる傾向である︒延宝七年から貞享二年の問の調和編四書で︑

=ロ

水の

編書

に 限らず︑

四 書 す べ て に 入 集 す る 俳 人 が わ ず か 十 四 名 と い う 四年連続の撰集という状況の中で見られる現象だけに︑

(檀上正孝﹁岸本調和の撰集活動﹂

によ

る︑

﹁近

世文

芸﹂

日所収)︒言水の場合︑

殊 更 変 動 の 激 し さ が 伝 わ っ て く る

こ の よ う な 江 戸 で の 出 発 に あ た っ て 言 水 が と っ た 方 法 が

︑ 権 問 へ の 接 近 と 同 志 と の 連 携 で あ る

奥州岩城平城主内藤風虎は︑岩城平と江戸屋敷を中心に一種の文学サロンを形成して多くの俳人たちを援助した︒

その活動は﹃夜の錦﹄

﹃桜

川﹄

の編書を生み︑

開催された句合せは十四回の多きに及ぶ︒

維 舟

・ 宗 因

・ 季 吟 な ど を 指導者と仰ぐそのサロンには︑

(岡田利兵衛﹁内藤風虎﹂

によ

る︑

百 名 に 及 ぶ 家 中 の 俳 家 俳 人 を は じ め

︑ 流 派 を 越 え て 多 く の 俳 譜 好 士 が 出 入 り し て い

﹁国語と国文学﹂昭和路年

4

月 号 所 収 )

︒ 俳 譜 の 道 に 生 き る 者 に と っ て

︑ そ こ は 様 々 な 魅 力 と 可 能 性 を 秘 め た 場 で あ っ た

言水がここに登場した延宝五年は︑

壇上論文に従えば︑

風虎サロン

の第三期にあたる︒

サロンの中心が江戸屋敷に移り︑

長 子 露 泊 が サ ロ ン の 若 き 旗 手 と し て 活 躍 し は じ め た 時 期 で あ

る︒

言水は風虎よりもむしろ露泊に積極的に近づき︑

その助力を仰いだようである︒

処女撰集﹃江戸新道﹄

では

︑ 巻頭句をはじめ三季の頭にも露出を据えており︑

四書を通して常に十句前後の匂を戴き︑

句 の 配 置 に も 配 慮 が な さ れ て い る

ま た

︑ 宗 匠 立 机 の た め と 推 定 さ れ る 万 句 興 行 の 巻 頭 句 も 露 泊 か ら 戴 い て い る

万句の巻頭望奉る所に︑古郷迄おぼしめされて な ら の 葉 も 江 戸 に 匂 ふ や 八 重 の 花 露 Y占

(江戸蛇之俳)

この甲斐あってか︑﹃江戸新道﹄

では一句だった風虎の入集が︑

﹃江戸蛇之俳﹄では十句となり︑﹃江戸弁慶﹄

で は 二 句 な が ら 巻 頭 に 戴 い て い る

風 虎 か ら も そ れ な り の 援 助 が あ っ た も の と 推 定 さ れ る

ま た

︑ 露 泊 門 下 を 含 む 78 

風 虎 サ ロ ン 関 係 の 俳 人 群 の 言 水 編 書 へ の 入 集 な ど も 露 出 と の つ な が り の 成 果 と い え よ う

︒ 今 一 人

︑ 一 吉 水 が 接 近 し た 人 物 と し て

︑ 但 馬 豊 岡 侯 京 極 高 住 ( 俳 号

︑ 云 奴

・ 盲 月

・ 駒 角 ) が い る

︒ 高 住 は 幽 山 と 親 そ の 関 係 は 当 時 の 江 戸 俳 壇 を 特 徴 づ け る お か か え 宗 匠 的 な ひ と つ の 典 型 で あ っ た と い う

しく

(白石悌三﹁浩徳年

I

コ 尽

扇壁

長 年

たま

々 り る 臼

1'

人 つ

i1~し 1

名ざ

を 列 ね

によ

る︑

﹁語

文研

究﹂

日 所 収 )

︒ 元 禄 八 年 一 月 の 駒 角 慈 父 追 悼 ( 一 句 一 順 ) 歌 仙

V ι

俳 壇 で の 駒 角 の 存 在 の 大 き さ を も の が た つ て い る

︒ 駒 角 は 言 水 編 図 書 す べ

てに入集し︑

﹃ 江 戸 蛇 之 俳

﹄ で は 巻 頭 に 置 か れ て い る

︒ 特 に 言 水 が 京 へ 移 っ て 以 後 は

︑ 駒 角 の 領 地 に 近 い こ と も あ り

そ の 交 流 は 一 層 親 密 な も の と な っ て い る

︒ 同志

延 宝 五 年 春 か ら 翌 春 に か け て

︑ 言 水 は 幽 山 ら と 八 吟 百 韻 八 巻 を 興 行 し

﹃ 江 戸 八 百 韻

﹄ と し て 上 梓 す る

︒ 連 衆 は

他に

︑ 松 木 青 雲

・ 三 輪 一 鉄

・ 藤 井 安 昌

・ 板 花 如 流

・ 山 口 来 雪 ( 素 堂 )

‑西岡泰徳︑がいた︒

江 戸 俳 壇 の 新 し い 流 れ に 呼応して集まった面々である︒一吉田水は﹃初心もと柏﹄自注で当時の熱い息吹を伝える︒

江戸八百簡と云集撰ミ侍りける時︑素堂と打ちつれ帰るさの夜いたく

更ぬ︒所は本庄一鉄か許家まはらにしてかきね卯花咲り

ナカ

卯 花 も 白 し 夜 半 の 天 河 言 水 と 江 戸 俳 壇 を 結 び つ け る 役 割 を 果 た し た の は 高 野 幽 山 で あ る

︒ 幽 山 は 京 の 人 で 維 舟 門

︑ 寛 文 末 年 頃 か ら 江 戸 に 移 り 住 ん だ

﹃ 誹 語 解 脱 抄

﹄ に こ の 頃 の 江 戸 俳 壇 の 状 況 を 次 の よ う に 記 す

︒ 其 比 此 道 に 鳴 渡 り し 高 嶋 玄 札 を 始

︑ 未 琢

・ 立 志

・ 兼 豊

・ 調 和

・ 幽 山

・ 似 春 な ど の 宿 に は

︑ 毎 日 の 興 行 い と ま あ

らず

︒ 当時の江戸俳壇には︑伝統勢力であり風虎サロンとも繋がりをもっ玄札等江戸五哲の生存者及び蝶々子・兼豊・

調和等の俳人群︑宗因流に心酔していたが風虎サロンとは繋がりをもたない松意など﹃談林十百韻﹄の一派︑江戸 に移住し︑維舟・宗因・季吟等を指導者として風虎サロンを中心に活動していた幽山・似春・桃青などがあった︒

言水は︑風虎サロンを中心に着実に地位を高めつつあった幽山に積極的に近づき︑幽山もまた︑そんな言水を高く 評価し︑快く受け入れていたようである︒前述した内藤風虎・露泊父子︑京極高住さらには﹃江戸八百韻﹄の連衆

即ち︑一吉田水の江戸での活動は︑幽山を軸に出発したといえよう︒八

名の連衆の内︑言水・幽山・如流・来雪・泰徳は﹃六百番誹譜発句合﹄に入集すなわち風虎サロン出入りの俳人で

この頃から松意を離れ︑幽山の周辺で活動している︒来雪は︑延宝

幽山の仲介によると考えられる︒

との関係も︑

ある

一鉄は﹃談林十百韻﹄の連衆であるが︑

四年に桃青と﹃江戸両吟集﹄︑翌五年には桃青・信徳と﹃江戸三吟﹄を発表しているが︑

年の﹃誹枕﹄には序文を寄せている︒泰徳は﹃誹詰当世男﹄

俳人と恩われる︒維舟とも親しく俳歴も深い︒

幽山とも親しく︑延宝八

﹃俳詰玉手箱﹄などに大量入集しており︑蝶々子系の

この﹃江戸八百韻﹄は︑

各季二巻ずつ百韻八巻を収め︑連衆八名が交代で立句を詠んでいる︒巻頭句は幽山が勤 め︑東下問もない言水が第二巻の立句を勤めている︒

これ以後の言水の活動や俳書編集への意欲︑京移住後にこの 時と酷似した活動パターンが展開される事などを考え併せると︑

﹃江戸八百韻﹄成立にも︑

言水が核となって動い た可能性が指摘できよう︒

時の波に乗って集った八名の同志たちであるが︑流れの激しさはこの連衆においても例外ではなかった︒

新道﹄では六名が多句入集者上位十名(編者を除く)

﹃江

戸 の中に入っていたが︑続く﹃江戸蛇之俳﹄

では四名となり︑

﹃江

戸弁

慶﹄

﹃東日記﹄ではいなくなる︒入集自体も︑﹃江戸弁慶﹄で安昌が︑

﹃東日記﹄で青雲・一鉄が姿を消

80 

した︒残ったのは風虎サロン出入りの俳人四名で︑

しかも入集状況は寂しいものとなっている︒また︑

﹃江戸新道﹄

で松意

一鉄など玉名の入集者を出していた﹃談林十百韻﹄の連衆も︑

﹃東日記﹄では正友一人となる︒時流の激

し々

Cシ ﹂ ︑

不安定な地盤とともに揺れ動く江戸俳壇の姿が窺われる︒

四 新 興 勢 力 と の 提 携

① 

一一口水が江戸においてとった今

つの方法に︑新興勢力との提携がある︒

延宝七年に見られる才丸

(才

麿)

との急 速な接近がそれである︒

才丸は椎本氏︑言水︑ど同じ大和の人︑一吉水より六歳年少である︒

て移り住んだようである︒﹃

江戸新道﹄に

1

句 ︑

江戸には︑言水と前後し

﹃ 江

戸蛇之俳

﹄には入集句の

なかった才丸が︑﹃

江戸弁慶

﹄では 編者の臼句をも上回る鉛句の入集をみる︒前年に才丸が編んだ﹃坂東太郎﹄には︑言水が序文を寄せ︑

﹃東日記﹄には︑才丸が序文を寄せ︑

発 句 も 幻 句 十二月の﹃坂東太郎﹄成立までの問に急速に 幻句入集︑俳席も共にするなど

交流は一層の進 入集している︒言水と才丸は︑

接近したことになる︒更に︑

延宝七年五月の﹃江戸弁慶﹄成立後︑

展をみせている︒

ところで︑言水にとっての幽山と同様︑

才丸には調和という後ろ楯がいた︒東下問もない才丸が﹃坂東太郎﹄を 上梓できたのも︑調和一派の協力があってのもの左いう 昭 和 凶 年

4

月号所収)︒調和の俳諸活動は︑権門への接近を特徴とする︒延宝末年から天和・貞享に至る数年間︑

調和を中心とする俳集団は当時の江戸で最大の勢力であった︒そして延宝七年に刊行された﹃富士石﹄と言水編図 書との重複入集者は﹃江戸弁慶﹄の似名をピークとして延べ

1 8 0名(約お%)ほどいる︒調和と言水には直接の 交流の跡もなく︑互いの編書への入集も少ないことから︑言水が調和の地盤(いわゆる権門の人々)

(荻野清﹁俳人岸本調和の一生﹂

によ

る︑

﹁国

語・

国文

﹂ に摩擦を起こ

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