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が 事 実 な ら

︑ 前 述 し た よ う に

︑ た と え 師 弟 関 係 が な 全 く 直 接 交 流 の 後 が な い こ と の 説 明 が つ か な い

︒ 京 へ 移 っ て か ら くとも交流して不思議のない状況にありながら︑

このような言動をとっているのも︑

い か に も 唐 突 で あ る

︒ 冒 頭 で

︑ 言 水 の 維 舟 に 関 す る 記 述 に 作 為 を 感 じ る と 述 べ たのはこのためである︒

方 設 が 維 舟 門 を 匂 わ せ

︑ 丈 石 が 維 舟 門 説 を と っ た 原 因 が こ れ で 明 ら か に な っ た で あ ろ う

︒ 他 な ら ぬ

︑ 原 因 は 京 移 住後の言水自身の言動にあったのである︒

これだけの事を書くのであるから︑

断定はしないまでも︑

そ れ ら し い 事 そ の 初 期 の 俳 諸 活 動 に お い て

︑ 維 舟 系 の 俳 人 達 と 多 く 交 流 を 持 っ た 事 実も︑一言水の言動を信用せしめる要因となったと思われる︒或いは︑鬼貫の記述にさえも﹃後様姿﹄や﹃京拾遺﹄ を周辺にも語っていたのであろう︒言水が︑

が影響を与えた可能性が考えられよう︒

では︑実質的な交流の跡もなく︑

維 舟 没 後 も 江 戸 に お い て は 彼 に 全 く 触 れ る 事 の な か っ た 言 水 が

︑ 京 移 住 後 に 何 故このような事を言い出したのであろうか︒

その原因を考えながら︑本論の結びとしたい︒

' /'¥ 

結語 推論の上に推論を重ねることになり危険ではあるが︑

維舟に関する言水の言動に作為を認めるとして︑

その事が 言水にもたらす利益について考えてみたい︒

延宝から天和にかけて談林風の渦中に巻き込まれたとはいえ︑

この動きに対する京での反応は遅かった︒

E

く 固定的でしかも保守的な地盤の京では全く事情を異にする︑

そ れ は 俳 詣 的 地 盤 の 変 動 の 激 し い 江 戸 で の こ と

︑ 貞 門 直 系 の 俳 人 が 多 ま さ に 一 か ら の 出 発 に 近 い

︒ 江 戸 を 離 れ た 直 後 の

延宝期の活躍は華々しいものではあったが︑

地方に地盤を求めて行脚しているのも︑京での安定した地盤確保の難しさを物語るものであろう

姿﹄で維舟に触れたのは︑このように保守的な土地で活動するにあたり︑何らかの系譜的な位置付けの必要性を感 じたため︑自らの俳諸活動に最も近い圏内にいた維舟の名を出したものと推察される

貞門内部の論争の結果︑京の中央俳壇からボイコットされる形となった維舟は︑寛文中頃から江戸・伊丹などに 活路を見出し︑旧友宗因を中心とした談林風の流行と共に再び匙った︒しかし晩年には談林の異風に反発を感じ︑

またそのような維舟は次第に俳壇から取り残され︑寂しく死んでいった︒ 一

回 水

が ︑

﹃後

様 このような事情も維舟の名を用いやすく

したと思われる︒

時は経て元禄四年(維舟没後十一年)︑林鴻が﹃京羽二重﹄を著し︑

その中で貞門の系図をかかげ︑

口伝秘事を を

著 し て 攻 撃 す る

翌五年﹃貞徳永代記﹄を著し激しく非難した︒更に只丸は︑その随流に対して﹃足揃﹄

延宝から天和にかけて︑談林風の中︑新風を求め流派を越えて激し

く動いた俳壇であった︒

の余波止もいえる動きの中︑貞徳直系の俳人は︑季吟・梅盛などを残して︑多

くはこの世になかった︒

生じてきたのが師承重視の気運である︒維舟に関して見れば︑

そ 公開

それに対し随流は︑

そんな中で

﹃京羽二重﹄の系図では︑立圃の次にあげられ︑

﹃ 貞

徳永代記﹄

﹃永

代記

﹄ の

これをそのまま維舟に対する評価とは受け取れないが一つの目安とはなろう︒

﹁誹詰発句帳的伝正統の事ゅでは︑ では一番目に位置する︒

鷹筑

波︑

請の発句帳也︒

西武作︒犬子集︑重頼作︒昆山集︑

良徳作

玉海

集︑

正章作︒次に山

の井 ︑

季吟作︒是貞

徳 的 流 の 誹 日本の誹士︑右之発句帳を手本に信用す

ベし

とさ

れ︑

﹁古点者品定の事﹂

では︑立圃に続く説明の中で次のように記される

松江重頼入道維舟は︑犬子集のあらそひにて貞徳をはなれ︑

一流をおこさんとはげむ︒

しかれ共貞徳流にもな れず︑立甫流にもあらず︑

中にぶらりとして磯にも波にもつかざれば︑犬子集の以後毛吹草を編集す︒

(略

)

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之より其名高くなりて︑

より/¥後集を板行する事かぞへがたし

貞徳流と立甫流のさかんなる中にまじはり て︑まけじおとらじとはげみけり

此道になづみて︑身体を誹諸にかへてたしなみけり

編集

の物

(略

)︒

それ故誹書の祖師となりて︑重頼作今に是を信用す

俳風については﹁句作りに伊達あまりて威勢たらず﹂とされるが︑残した俳書に対する評価は高い

十年後の﹃花

見車﹄では︑

貞徳・立圃・重頼出生の地なれば誹諾はたへねども と︑貞徳・立固と並び称されている

︒京における系譜重視の傾向と︑それに伴う維舟の再評価︑

このような傾向の

中で︑一吉田水は門人から師承を問われる事もあったであろう︒

それに対する答えとして維舟門を匂わせたものと考え

られる︒

またこの事は

自らの権威付けとしても役立ったであろう

︒﹃後様姿﹄から﹃京拾遺﹄へと維舟に関する

一ロ辞が大胆になったのは︑

こような時代の流れを示すものといえる︒

以上︑

言水が維舟門とされるようになったのは︑一吉田水自身の言動及び言水の俳諸活動初期における維舟系俳人と の交流を主な原因とするものと考えられる︒

と評されたよ

に ︑ 一吉田水は時宜を見るに非常に鋭敏であった︒

例えば︑江 戸での﹃江戸八百韻﹄連衆との連携︑京での﹃三月物﹄連衆との連携︑また︑当時の新興勢力であった調和・才丸

維舟に関する言水の言動も

︑俳諸活動の手段の一

﹃花

見車

﹄ で﹁

目は

のきいた君也﹂

一派や芭蕉一派との関わりなどにもそれは窺われる︒

っと見る事

が出来るのではないか

新興文芸であった俳詣も︑時を経るにつれ歴史を意識するようになってきた

和歌・連歌 の流れを引くものであるからして︑系譜が云々されるようになるのは必然的なことと一言?える︒そのような気運を見 越しての言水の言動であろう

︒江戸で四書を世に聞い︑

その俳壇的地位を高めた言水ではあったが︑京での実績は なかった

︒実質的な俳諸活動の他に︑

何らかの手段を講じる必要があったのであろう

それだけ︑京の地には古い

体質が残っていたともき?える︒また︑一吉田水が維舟に関してこのような言動をとれたのは︑ ことを意味するのではないだろうか

︻ 注 ︼

① 典 俳 文 学 大 系 叩

﹃ 蕉 門 俳 論 俳 文 集

﹄ 昭 和 必 年 刊 ) に よ る

② 高 敏 郎 著

﹃ 松 永 貞 徳 の 研 究

﹄ ( 臨 川 書 居

︑ 昭 和 邸 年 刊 ) に よ る

③ 本 俳 書 大 系 白

﹃ 俳 譜 系 譜 逸 話 集

﹄ ( 日 本 俳 書 大 系 刊 行 会

︑ 昭 和

2

年刊)による

﹃俳詣史の諸問題﹄(笠間書院︑昭和必年刊)所収﹁松江重頼の研究﹂による

東 京 大 学 国 語 国 文 学 会 編

﹁ 国 語 と 国 文 学

﹂ 昭 和 泊 年

4

月号所収﹁内藤風虎﹂による

風虎関係俳書の入集状況は︑檀上正孝著﹁風虎関係俳譜資料作者索引︑その一

1

四 ﹂ 会編﹁近世文芸稿﹂九

1

十 二 所 収

︑ 昭 和 初 年 2月

1

昭 和 必 年 8月刊)を参照した︒

足著﹃誹詰名簿﹄により推察した

(集

英社

④ 

⑤ 

⑦  ⑥ 

③ 本 未 見

︑ 荻 野 清 氏 の ノ

i

トによる︒

⑨ 本 俳 書 大 系 山

﹃ 俳 詰 系 譜 逸 話 集

昭和2年刊)

によ

る︒

(日本俳書大系刊行会︑

(﹁文教国文学﹂

明確な師をもたなかった

(広島大学近世文芸研究

お所

収︑

平成 3年3月刊)

1

元禄前夜の京俳壇

ー﹃三月物﹄を中心として

l

貞 享 四 年 貞

享 四 年 九 月

︑ こ の 年 六 月 か ら 八 月 に か け て 京 俳 人 に よ っ て 興 行 さ れ た 百 韻 三 巻 を 収 め た 小 冊 子

﹃ 三 月 物

﹄ が 刊 行 さ れ た

︒ 本 書 は 半 紙 本 一 冊

︒ 序 肢 は な く

︑ 刊 記 は

﹁ 貞 享 第 四 龍 集 丁 卯 / 季 秋 初 玉 / 書 林 / 神 田 新 革 屋 町 西 村 唄 風 /京同晴奉子刊行﹂︒題療に

信 徳 如 泉 我 克

月 物

湖 春

水 とあり︑右の六俳人の共編になる事︑が知られる︒

蕉風俳詣の研究のみが先行し︑置き去りにされた観のあった元禄期京俳壇の研究は︑荻野清の﹃元禄名家句集﹄︑

そして雲英末雄の﹃貞門談林諸家句集﹄﹃元禄京都諸家句集﹄の労作により︑漸くその姿が明らかにされつつある︒

が一般であるようだが︑ と は い え

︑ 個 々 の 研 究 に つ い て は ま だ ま だ 今 後 の 課 題 と 思 わ れ る

︒ 元 禄 俳 壇 と 言 え ば

︑ 貞 享 期 を も 含 めて考え

るの

その貞享期に刊行された俳書の研究状況を見るに︑﹃冬の日﹄や﹃波留濃日﹄或いは﹃続虚 栗﹄といった書におけるそれは芭蕉研究と相侠って盛んであるが︑﹃京日記﹄﹃三月物﹄などの京俳壇における俳書 は

︑ 数 少 な い に も か か わ ら ず ほ と ん ど 顧 み ら れ る 事 は な か っ た

︒ 殊 に

﹃ 三 月 物

﹄ は

︑ 貞 享 四 年 と い

時期︑連衆が 信徳・一言水・如泉・我黒など元禄期京俳壇を担っていった人々である事を考える時︑

と思われる︒本稿は︑この司三月物﹄

も 明 ら か に し よ う と す る も の で あ る

(表題にいう元禄とは元禄期の事で︑貞享期は含めない

︒)

京 俳 壇 の 行 方

ネフリ

御 手 洗 に 足 一 時 の 眠 か な

K4

目を見ぬ奉に花の浮草 背 を た

﹀ く あ ら し に 牧 の 牛 ほ え し

b {

消 し 聾 に 借 武 者 も な き 北 国 は ぬ の こ 着 る な ら 秋 の 雪

水 に 筆 た つ 橋 の 桁

黒 鵜 餌 ば ま ぬ 岩 に 月 暮 て 腕 の つ る の 針 の に く さ よ

で始まる百韻三巻は︑

も っ と 注 目 さ れ て 然 る べ き 書

のもつ性質を探り︑

や が て 活 況 を 呈 す る 元 禄 期 京 俳 壇 の 前 夜 の 動 向 を 少 し で 素

為 周 文 也 秋 貞

宵 道 仙

湖 吉 庵

春 水 天和の漢詩文調の残浮はほとんど消え︑景気の句や心付けを中心とした穏やかな句調となっ

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