異名をとる︒
そし
て︑
元禄元年から三年にかけて毎年一件だった諸家への序践が元禄四年に八件と急増する︒
当 初 は京やその近辺の俳人達の編書に序肢を記しているが︑
次第に地方俳人から求められる序蹴が増加する︒
また
︑ 水との俳交を求めて上洛する地方俳壇の有力者も増えてくる︒
言水の方も地方俳人との交流には積極的であった︒例えば︑
これ
は︑
つには言水の名声の高まりによるもので 和歌山の富豪嶋順水との俳交である︒
7c 禄
あろうが︑
三年の﹃
J
破暁集﹄に序文とともに発句三を寄せている︒また他家にあまり句を寄せなかった順水が﹃都曲﹄には 四句を寄せ︑翌四年の編書﹃
J
渡し船﹄にも言水は発句八を寄せている︒元禄七年春︑上洛中の順水が言水亭新築 を祝う発句を寄せ︑これを立句に半歌仙を巻いており︑この春から夏にかけて順水を囲んで京俳人らとともに連句 五巻を巻き︑これを収める﹃
J
童子教﹄に序文と発句十二を寄せている︒順水は自撰集に力を入れた俳人で︑元禄 三年から九年頃に活躍し︑大坂談林系俳人と親しく交流していた(棲井武次郎著﹃元禄の大坂俳壇﹄による)ょう だが︑京では言水がいち早く交流をもったものと恩われる︒元禄五年には備中松山の梅員が﹃吉備中山﹄を︑丹後 与 謝 の 揚 々 子 が
﹃
J
浦島集﹄を︑元禄十二年には能登七尾の提要が﹃能登釜﹄を︑同十三年には︑同じく七尾の勤 文が﹃珠州之海﹄を︑同十四年には伊予の羨鳥が﹃高根﹄を︑同十五年には石見の巨海が﹃石見銀﹄を︑
それぞれ が上洛して言水と俳交を結び序をもらって上梓している︒
七尾の俳人との交流は深かったようで︑
冗禄
十
三
年春に
110
上 洛 し て 俳 交 を も っ た 長 久 の 追 悼 集 に も 言 水 は 句 を 寄 せ て い る
︒ ま た
︑ 越 後 柏 崎 の 郁 翁 は
︑ け て 度 々 上 洛 し て 言 水 と 俳 交 を 結 び
︑ 宝 永 二 年 の
﹃ 相 崎 八 景
﹄ に は 言 水 が 序 文 を 寄 せ て い る
︒ 言 水 と 地 方 俳 人 と の 言 水 の 地 方 重 視 の 姿 勢 が 十 分 に 窺 わ れ よ う
︒ も
冗禄後半から宝永にか 関わりの一部を挙げただけであるが︑
これらの事実からだけでも︑
ちろんその背景には︑俳譜的助力や助一言
l
資金と互いに利する構図も存在したであろう︒
以 上
︑ 言 水 の 俳 諸 活 動 を 眺 め る に
︑ 基 本 的 ス タ ン ス は 江 戸
・ 京 を 通 じ て 大 き く 変 わ る こ と は な か っ た
︒ 延宝末からの地方俳壇重視の動きや︑
そし
て︑
元 禄 期 に 入 つ て の 雑 俳 へ の 積 極 的 な 関 与 な ど に 見 ら れ る よ う に
︑ 機 を 見 る に 敏
︑ 時 流 に 対 す る 反 応 が 非 常 に 素 早 い 点 に 特 徴 が あ る
︒ た だ
︑ 江 戸 俳 壇 で の 活 動 と 京 俳 壇 の 活 動 に お い て
︑ 結 果 的 に み て 一 つ だ け 大 き な 違 い が 見 ら れ る
︒ そ れ は 言 水 の 周 辺 の 俳 人 達 の 変 動 の 激 し さ で あ る
︒ 言 水 の 四 編 書 の 入 集 者 の約半数が撰集のたびに入れ替わり︑﹃江戸八百韻﹄連衆も撰集を重ねるにつれその姿を消している︒その集合離散 の 様 相 は 凄 ま じ い も の が あ る
︒ ま た
︑ 言 水 が 江 戸 在 住 時 代 に 交 流 を も っ た 俳 人 で
︑ 京 移 住 後 の 元 禄 期 ま で 俳 交 が 続 い て い る の は
︑ 駒 角
・ 才 麿
・ 其 角
・ 露 浩 な ど 数 え る 程 し か い な い
︒ 門 人 で は 一 人 も 確 認 で き な い
︒ こ の 理 由 止 し て
斗ι︑
つに
は︑
調和の編書などにも見られるように江戸俳壇の不安定な地盤にあろう︒
二 つ 目 の 理 由 と し て 俳 壇 事 情が挙げられる︒
延 宝 後 期 は
︑ す で に 談 林 時 代 か ら 見 ら れ た 流 派
・ 地 域 を 越 え た 俳 人 間 の 交 流 が
︑ 混 迷 期 を 迎 え て 一 層 激 し さ を 増 し て い た
︒ 末 端 の 俳 人 達 も 当 然 そ の 流 れ の 中 に 飲 み 込 ま れ て い っ た も の と 思 わ れ る
︒ 三 つ 自 の 理 由 江 戸 俳 壇 で の 活 動 時 期 は
︑ 言 水 の 上 昇 期 に あ た る
︒ 試 行 錯 誤 を 繰 り 返 し つ つ も 実 績 は︑言水の活動の時期にある︒
作りが第一の目的であったと思われる︒
こ れ に 対 し て 京 俳 壇 に お い て は
︑ 江 戸 で 実 績 を 残 し
︑ 地 方 と の 交 流 の 道 も あ と は 京 で の 定 着 を 着 実 に 実 行 す る の み で あ っ た
︒ こ れ が
︑ 俳 人 と の 交 流 に お い て 表 れ た も の で あ ろ う
︒ こ の 辺 り に 原 因 が あ る の か も 知 れ な い
︒ 言 水 自 ら の 意 思 と こ の よ う な 理 京まで付いて来る門人がいなかったのも︑ 確保し︑
由が複合して︑
江 戸 で は 変 動 的
︑ 京 で は 継 続 的
k
いう結果になったものと考えられる︒
﹃ 東 日 記
﹄ に 集 約 さ れ る よ う に
︑ 時 流 に 応 じ て 激 し く 動 い た 江 戸 俳 壇 で の 活 動
︑ 実 行 し た 行 動 力
︑ 京 俳 壇 で の 継 続 性 の あ る 俳 交
︑ そ し て 先 に 指 摘 し た ご と き 一 貫 し た 俳 諸 活 動 の 方 法
︑ 要 素 が
︑ 経 済 面 は と も か く
︑ 俳 譜 師 と し て の 池 西 言 水 を 成 功 さ せ た 要 因 企 考 え る
︒ 逆 に こ れ ら の 要 素 が 言 水 の 俳 譜 の 作 品 面 で の 成 長 を あ る レ ベ ル で と ど め た と も 言 え よ う
︒
い ち 早 く 地 方 の 重 要 性 を 認 識 し こ れ ら の 諸
(﹁
国文
皐論
叢﹂
灯 所 収 の も の を 増 補 改 稿
︑ 平 成
U年3月刊)
112
近世初期俳諸における外来語の受容
はじめに
人は歩かずとも外来語(漢語を除く)にあたる︒現代日本における外来語の氾濫の様相は凄まじいの一言に尽きる︒パ
ソコンH
パーソナルコンピュータ
l
︑翻訳すれば﹁個人用電子計算機﹂︑いや︑最近の進歩を考えると﹁電子頭脳﹂とで も表現するべきか︒本体の言語置換ができたところで手引書なるものを捲る︒またまたカタカナ語がびっしり︑漢字や平 仮名を探す方が難しい︒英語を理解できる人には全文英文の方が分かり易かろうし︑英語の苦手な人には全くお手上げで あろう
︒翻訳するのは一生仕事である
︒よくこんなものを﹁マニュアル﹂などと称して出版するものだと感心する︒この 例に限らず︑様々な分野で何ヶ国もの言語が︑中途半端に音韻置換されたカタカナで日本社会を閥歩している︒その中に は日本で造られた片仮名語や日本独自の略語・合成語も多く混じっているから一層ややこしくなる︒漢語に始まった外国 語の輸入もここまでになると︑もう翻案を考える気すら起こらなくなる︒
ところで︑日本語や和製漢語への翻訳を考えず︑外国の言語を日本語の音で置換して用いる例は今に始まったことでは ない︒その源は︑党語の中国語訳に発する︒日本でも奈良時代から見られ︑朝鮮語や党語︑大量の漢語を日本語に同化し つつ︑西洋の文物が輸入されるようになる十六世紀になっても変わることはない︒歴史的にみれば︑その流れは現代まで
一貫しており︑ただその量が増加しただけのことなのである︒
十六世紀後半から十七世紀にかけて日本にもたらされた西洋の言葉が
︑どのような形で当時の人々に受容されていった
のか︒ここでは︑近世初期俳譜に限定してささやかな考察を試みる︒
貞門俳譜と外来語
① 貞門俳譜における外来語は︑タバコ・キセル・カルタ・カツパ・ピイドロ・デイウス・フラココ(ブラン
コ)
・パ
ン
ヤ ・
ラセイタ・シャボン・オランダ・ヱゲレス・ルソン・シヤムロなどあまり多いものではない︒キセルはカンボジア語︑フ
ラココは擬態から命名された語もしくはポルトガル語とされるが︑この二語と地名の一部以外はすべてポルトガル語であ
る︒貞門俳詣でのこれら外来語の使用を見るに︑半数以上を占めているのがタバコとキセルである︒この二つに関しては
後に譲るとして︑それ以外の外来語の主な用例を以下にあげる︒
かたきもつ身のなど呪航なる
黒 船 は ゑ げ れ す 舟 の あ ひ 近 み 正 章
(正章千句︑以下︑前句に作者名を記さないものは独吟の付合)
平野藤次下屋敷へ︑東門跡御なりの時︑池辺の
薄を/此藤次は昌記へ
舟をわたす人なり 唐 船 や よ り し 汀 の い と す
﹀ き 長 頭 丸 ( 昆 山 集 )
長崎にて
阿蘭陀の文字が横たふ旅の雁宗因(時勢粧)
かざりや興行に
氷とくる水はびいどろながしかな貞徳(犬子集)
114
﹃昆山集﹄に﹁此長吉(かざりや) うす紙ほどな春の朝霜 びいどろの障子に玉兎冴還り
~
でえうすは今やよろこぶ神無月 でえうすは神と仏のわかれかな まづはきれたり先はきれたり
ふらこ﹀をせがれにまじるおほけなし 思遣むねのほむらも立田越
合羽のゑりの薄情うき 是非共に又も来らば打やせん
かるたの友ぞみねば恋しき まきちらす碁石と星やみえぬらん
かるたをうっと月も愛せず 長き夜を一間所にあかしゐて
はびいどろながしをし初し人なり﹂と注有り
正章季吟(紅梅千句)
徳元
徳元(塵塚誹譜集)
貞徳(天水抄)
風虎
維舟(時勢粧)
貞徳(新増犬筑波集)
季吟(貞徳誹譜記)
面白や読置歌のこころごころ かるた手に手にうつ計なり し づ や し づ 賎 は 月 迄 身 の か せ ぎ 富 長 ( 時 勢 粧 ) 最初の三例は外来語の異国情緒を句に利用したもの︒二句は前書に﹁口口宋﹂があることから匂の発想の一パターンとし て引用した︒次の四例の中︑﹁びいどろ﹂の二句はその珍しい性質を見立てなどの手法で句に仕立てたもの︒﹁でえうす﹂
の二句もその性質の珍しさに基づく句作りである
︒
﹁ふらこ﹀﹂の句はこの言葉が外来語でなければ当時の日常生活その ままである︒最後の﹁合羽﹂﹁かるた﹂の四例も特に異国のイメージを念頭においた句作りではない︒外来語の使用傾向 としてはほぼこの三通りに分類される︒そしてこれらの言葉は俳言として主に貞徳やその高弟達によって使い始められた ようである︒当然の結果としてその影響は全国の俳壇に及ぶこととなる︒後に流行する宗因流は新奇な風を好んだが︑あ る意味での下地がこの時期に形成されたとも言えよう︒
ところで︑発句はともかく連句の場合には外来語が出れば異国情緒を利用して付けるのが一般と思われるが︑煙草・き せる・かるた・合羽にはそのような用例は少ない︒この問題について︑外来語の中で最も使用例の多い煙草を対象に考え
てみ
る︒
貞門俳譜と外来語
②
寛文十
( 一 六 七 二 年 刊
﹁ 宝 蔵
﹂ に 煙 草 に 関 す る 次 の よ う な 記 事 が 見 え 切 葺蒼盆 礼記云︑﹁夫礼之初始諸飲食﹂といへり︒隣里の交︑朋友の中も︑茶をたて酒をす
L
むるをよろこぶとにはあら ねども︑其心いりをめで﹀そのしたしみをませるは︑よのつねの習︑なべての心なり
︒されどもあからさまに︑
御 116