︿翻訳﹀
人間の尊厳と言論の自由
フレデリック・シャウワー
花見常幸(訳)
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一五歳の少女がレイプされ︑その後開かれた刑事裁判の法廷で証言をしている︒被告人側弁護士は︑被害者に対す
る反対尋問の中で︑被害者が事件の時点ですでに処女ではなかったという情報を引き出す︒そしてその弁護士は︑陪
審員たちに向かって投げ捨てるように言った︒﹁私が一五歳の頃︑いろいろな相手と寝る者についての言葉があった︒
それは﹃身持ちの悪い女(巴暮)﹄という言葉だ﹂︒
丁度同じ頃︑世界の別の場所では︑南アフリカの黒人少年が治安妨害罪で逮捕されたところであった︒その少年は
ネルソン・マンデラ氏の写真を掲げて︑白人居住区を歩いたということで︑同罪に問われたのであった︒少年は︑自
分にとっての英雄に敬意を示そうとしたにすぎないとして抗議する︒﹁黙れ︑さもないとお前の黒い頭を叩き割るぞ﹂
と︑警官の一人が叫ぶ︒少年は少しも怯まず︑﹁アパルトヘイト(人種隔離政策)は廃止されねばならない﹂と︑落
ち着いた口調で言った︒
ボビィーは一〇歳で︑彼の片方の足は生まれつき︑少し短い︒学校の仲間たちと大リーグの試合を見に行ったが︑
試合の興奮の中で皆が一斉に走り始めた︒ボビィーは追いつくことができなかったが︑黙って足を引きずりながら必
死で仲間に追いつこうとした︒﹁びっこ/﹂仲間たちは︑振り返って彼をののしり︑ボビィーは泣き始めた︒
スーザン・ヘルナンデスは︑希望よりも絶望が大部分の住民の態度を支配している荒廃した都市部のある地域で︑
その地域共同体の役員をしている︒日曜日︑彼女は住民の多くが戸外に出ているその地域を歩きながら︑﹁この地域
が貧しいのは︑私たちが懸命に働かないからではなく︑金持ちや権力者が私たちに成功の機会を与えようとしないか
らである﹂と︑住民たちに語りかけるのであった︒
以上の挿話は︑ただ一つのことを述べるために︑最初に紹介したのではない︒むしろ︑これらの挿話は︑語るべき
ただ一つの物語があるという考え方に反論するためのものである︒特別な言い方ではないが︑人間の尊厳の保障は︑
言論の自由を支持する議論として理解され︑言論の自由の制約は︑人間の尊厳を否定するものと言ってよいであろう︒
しかしながら︑これらの例が示唆しているように︑一般的に言って人間の尊厳と言論の自由を安易に結びつけること
は誤りである︒なぜならば︑言論はしばしば︑話し手の尊厳性を表明するものではあるが︑同様に多くの場合におい
て︑言論は話し手以外の人々の尊厳性を奪う手段となるからである︒
このように人間の尊厳の原理と言論の自由の原理とをはっきりと区別することは︑人間の尊厳が最も重要な人間的
な善ではないということを示唆するものではない︒また両者を区別することは︑ある行為主体の表現を制限すること
のできる他の行為主体の能力に科される制約としての︑言論の自由もまた︑善いものではないということを示唆する
ものでもない︒しかし︑人間の尊厳と言論は必ずしも結びつかないことに注意を向けることは︑言論の自由の価値と
人間の尊厳の保障とは︑しばしば相反するであろうという結論を導くことになる︒こうした事情があるので︑言論が
人間の尊厳の表明であるような事例を検討したとしても︑あまり役に立たないのである︒したがって︑人間の尊厳に
人 間 の尊 厳 と言論 の 自 由
127ついて真剣に考えることは︑私たちに言論の自由の理論は︑人間の尊厳と関連を持たないことを理解させるか︑ある
いはその理論自体の部分的な再検討を求めるかのいずれかとなるのである︒しかし︑本稿の目的は︑いま述べた問題
自体を解決することではなく︑もっとささやかなものであり︑言論の自由の権利を︑人間の尊厳に基礎を置いたより
一般的な権利の具体化された例にすぎないと考えることからは︑あまり多くの収穫を得ることはできないという点を
示すことにある︒
もし言論の自由の原理が︑より一般的な人間の尊厳の権利の具体的な例でないとすれば︑言論の自由がしばしば人
間の尊厳を奪うことがあり︑また人間の尊厳を促進しようとする願望は︑しぼしば言論の制約を示唆するという形で︑
両者はその外延において頻繁に矛盾するとしても驚くべきではないのである︒また︑もしそうであれば︑[言論の自
由に関する]多くの困難な問題を人間の尊厳に言及して解決することは︑論点を巧みに避けることであり︑したがっ
て︑ときには言論の自由の価値と人間の尊厳の価値のいずれがより重要であるかを︑直接検討することも必要となる
のである︒
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私は︑言論というものが通常︑他者を念頭においた行為(碧○夢霞4Φσq鋤巳言σq鋤︒什)であり︑それゆえに利益と害
悪の両方を生み出すことができるという前提から議論を始めることにする︒私は︑このことが多くの人にとって自明
ユ のことではないのを知っているが︑かつて別のところで行った議論をここで繰り返そうとは思わない︒そこで︑私は︑
もしそれが情報伝達行為でない場合には︑政府または他のなんらかの支配的な行為者による介入が︑正当とされるよ
うな︑結果を生み出しうる情報伝達行為の能力を︑所与の事実これが議論のある事柄であることは承知してい
るがとして考えることから出発する︒
もし情報伝達行為というものが︑情報伝達行為でない場合には当該行為の統制を正当とするのに十分な程度の権利
侵害やその他の結果をもたらす能力を持っているとすれば︑言論の自由についての意味のある原理とは︑たとえその
ヨ 情報伝達行為が他の場合には制約されることを十分に正当化するような結果を生み出すときでさえも︑その行為を制
約から保護することであるように思われる︒たとえば︑もしある製品が製造者によって予見され得た方法で消費者に
よって誤用され︑しかもその誤用が﹁もしなければ﹂消費者の被害が生じなかったという場合には︑その製造者に法
的責任があるということになる︒しかしたとえ︑ある雑誌の記事の中で公表された記述や説明が︑出版者によって予
見され得たような方法で消費者や読者によって誤用され︑しかもその誤用が﹁もしなければ﹂消費者の被害︑場合に
よっては死さえも生じなかったであろうという事例についても︑修正一条は出版者の法的責任を免責すると判示され
ら てきたのである︒
これはなぜであろうか︒論点を私なりに整理した中で︑条件として明記した結果の同等性︑そして多くの現実の事
例における結果の同等性を前提とすれば︑なぜ︑私たちはこうした結果を生ずる行為のすべてではなく︑一部の行為
のみを免責するのであろうか︒ある者は一定の結果を生み出す事前の蓋然性に基づいて行動し︑現実にそうした結果
を生じた故に公的な制裁を受け︑他方は同じような事前の蓋然性に基づいて行動し︑現実にその結果を生じたとして
も︑後者の行為は言語的もしくは絵画的であるという理由から︑公的な制裁を免れるというのはなぜであろうか︒
これらの疑問に答えようとすれば︑言論の自由に関する理論の全領域についての検討が必要となる(そしてこれら
の疑問に答えないことは︑言論の自由に関する理論と称する以上︑その理論にとって致命的なことである)のである
が︑ここでそのすべてを繰り返すことはできない︒ただ︑これらの疑問に対する回答を三つの型に分けて︑紹介する
ことは有益かもしれない︒なぜならば︑それによって︑私たちが今ここで論じようとしている︑言論の自由と人間の
尊厳との結びつきについての世間一般の理解を︑正確に位置づけることができるだろうからである︒
人 間 の尊厳 と 言論 の 自由 129
上記の疑問に対する回答の第一の型は︑懐疑的なものである︒懐疑的な論者は﹁実際︑なぜそうなのだろうか﹂と
言う︒ひとたび︑私たちが言論活動というものがなんらかの結果を生じ︑したがって害悪を生ずる能力を持つことを
認識するならば︑なぜ私たちは︑言語的な行為や絵画的な行為︑もしくはそれらの行為の範疇の中にある行為群を︑
歴史的な偶然以上のものとして︑[その他の行為と]本質的に異なるものとして考えるのであろうか︒この疑問に答
えるに際して︑懐疑的な論者は︑国家が言語的および絵画的な行為(すなわち言論行為)を制限すべきであると︑ほ
のめかしているわけではないし︑その論者の議論を受け入れることは︑特定の量の言論制限に必ず結びつくわけでは
ない︒しかしながら︑運転の自由という明確な権利がないとすれば︑それは州際ハイウェーの制限速度は時速三五マ
イルに引き下げられるべきであるという結論につながるのと同じように︑言論の自由という明確な原理がないとすれ
ぼ︑言論は規制されるべきであるという結論をそれは含意するのである︒ただ︑懐疑的な論者の有力な疑問を受け入
れるといっても︑ある行為(またはある範疇の行為)が言論行為であるという事実を︑当該行為(または範疇)を同
様の費用対効果の計算をすることのできる他の行為とは異なるものとして扱う理由としないことが︑必ずしも要請さ
れるのではない..したがって︑この見解の下では︑言論の自由についての私たちの理解の多くは︑一定の時と場所に
おいて︑言論が政府の行為によって偶然にも過度に︑危険に晒されてきたということの産物に過ぎないことになる︒
この見解によれば︑当然のことながら︑そのことは必ずしもすべての場合と場所について︑真実であるわけではなく︑
ここからは︑言論の自由の剥奪を他の一般的自由の剥奪と本質的に異なるものとして取り扱うことを正当とするよう
な︑超越的な原理のためのいかなる論拠も生み出され得ないのである︒
言論の自由の理論についての﹁異なった取扱い﹂という疑問に対する回答の第二の型は︑第一の型ほど懐疑的なも
のではなく︑言論という行為類型またはその類型のなんらかの下位類型を︑一定の範囲の特に重要な社会的諸目標に
役立つものとして理解するのである︒言論の自由に対する異なった取扱いは︑かくしてこのような特に社会的に価値