• 検索結果がありません。

伊藤秀一

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "伊藤秀一"

Copied!
40
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

裂開するデイスクール

‑デリダ批判の文脈から‑

伊藤秀一

Le discours en dehiscence

‑Du contexte de la critique envers Derrida‑

Shuichi ITO

理念の伝達に関する事柄の中で、そもそも理 念の伝達ということが可能なのかどうかとい

う問題ほど気をそそるものはない。

‑フリードリヒ・シュレ‑ゲル

Iはじめに

現代の哲学的営為における言語の位置価は、あまりにも有名になりすぎた「言 語論的転回」という表現にみられるように、その契横を除いては何も始まらない のではと思わせるほど大きなものになった。だが言語が哲学的思惟に吸める役割 が増大したということは、必ずしも言語論の位相に共通の認識地平が形成された ということを意味しない。英米・ドイツ・フランスの西欧各文化圏の哲学的伝統 の違いは、 「言語論」という領野に局限しても、そう簡単に架機することは不可 能に思えるほど大きく、その傾向は「ポスト構造主義」と呼ばれる一連の思想が 言語をめぐるデイスクールに参入して以来ますます激しくなった、と言ってもよ いだろう。このような状況におけるロゴス中心主義・音声中心主義の批判者とし てのデリダの位置はきわめて重要なものであることは言うまでもない。と言うよ り、むしろデリダの一連の批判が言語論の射程に深みを与え、その複雑化をもた らしたと言った方が良いかも知れない。

(2)

62

伊藤秀一

しかしデリダの哲学的企投はしばしばその本質を見誤られ、特にアメリカにお ける一種の「脱構築主義(deconstructionalism)」のようなものの源流と見られ ることによって著しい価値切り下げを被っている。この傾向はわが国においても 例外ではない。本来デリダとは全く縁遠い楽天的ポスト・モダニズム1)と結び付

けられたり、哲学的対話が不可能な「異常哲学」2)と決めっけられたりすること によって、デリダの思想はいわゆる講座哲学者からは冷笑的黙殺をもって迎えら れることが多かったのである。

このことはしかし多少デリダ自身にも責任のないことではない。「エクリチュー ルの学」を書き込むデリダ自身のエクリチュールが、それ自身自己対象的に、と 言うよりむしろ自己脱構築的に自己を散種させ、伝統的な哲学的言説の表現から 常に逃れ出る運動を示しているからである。だが、噂だけが先行して、そのテク スト自体は滅多に読まれることはないような不幸な著作家のひとりになってしまっ たことを、デリダ自身も意識していないわけではないようである。ドイツ語版

「ポジシオン」3)の冒頭に付け加えられたベーター・エンゲルマンとの対話のなか で、彼にしては珍しくいらだちを隠さずに、デリダは次のように語る。

(‑・‑)私は本当に、読まれていない、と信じています。読めない(unlesbar) ものと思われているのです。 (・‑‑)完全に確信しているのは、時間が必要 だということです。もし可能なら、私の言語で読まなければなりません。な ぜなら当然のことながら私も自分の言語で書いているからです。念のために 言っておきますが、これは決して民族主義的理由からではありません。むし ろ逆で、ひとっの、あるいは複数の自然言語で表現されない哲学的な書法と いうものは存在しないのです。このような言語の所与性は払拭できないもの です。私はフランス語でしか読めない、と主張するつもりはありません。た だ、私の「哲学的」と呼ばれるエクリチュールは自然言語で表現されている という事実をどうか忘れないで下さい。それどころか、私を翻訳で読む場合

も、この事実を常に念頭に置いておかなければなりません4)。

デリダ自身も強調するように、 ‑イデが‑のように哲学的言語としての自国語 の特権的地位を横棒する意図はここにはない。そうではなくて、デリダは自然言 語で書かれた書法そのものを顧慮して自分を読んでくれと、いやむしろ「デリダ

自身」というような解釈素へと超越的に還元することなくテクストを読んでくれ、

と要求しているのである。ここで言わせる「私の言語」、それはフランス語だろ

(3)

うか。アルジェリア生まれのユダヤ人としてフランス語を母国語とするという、

いわば外部を内部に構造化せざるを得なかったデリダの言語。それは「私の手」

のような外在的自己指示性を持った「私の言葉」として、 「私」への単純な(増 減なき)反省回路を遮断し続ける。そのような「私」からの根源的離接を示す

「私の言葉」。

もとよりデリダは、完全な直接性を保証された言語以前の純粋な思念のような ものを妥当な言語表現を通して伝達する、という素朴なコミュニケーションの理 解に対しては否定的であり、表現によって汚染されていない根源的「意味」へと 還元的回収を迫る「読み」から常に逃れ出るものとしてエクリチュール(書字)

を考えている。それは、接ぎ木(greffer)され散種(dlsseminer)され5)、その 根源の不在を常に示し続けるエクリチュールであり、デリダ自身のエクリチュー ルもまた例外ではない。ある意味ではこのような力動を組織化していくデリダ特 有の操作が、デリダを読みにくくしているのかも知れない。

だがデリダの多くのポレミックにおいて繰り返し現れる「ともかくテクストを 読んでくれ」という要求は、動かし難いドクサとしてのデリダ像へ、架空の思念

(Meinung‑doxa)へと執粉に「まとめあげよう」とする自己の批判者達に、半 ばあきらめぎみに正当な手続きを指示するものである。それはいわば、せっかく 数々の仕掛を施して巧妙に織りあげられたテクスト装置に誰も痛み込んでこない

ことに対するいらだちといってもよく、ある種の「哲学」のディスクール・スタ イル自身に向けられた批判といってもよいかも知れない。デリダはまず読まれな ければならない。そしてその読みは、その言語的内合の聾をすべて顧慮する読み でなければならないのである。

このような認識に立ってデリダ批判を検討してみると、ときおりその論点に奇 妙な一致点がみうけられることに気が付く。それは、 「言葉(Worte)は重要で はなく、事象(Sache)が重要なのだ」というエートスに帰着するものと考えら れる。それは、間主観性といった問題とも関係しっっ、近代を刻印する排除の問 過‑例えば価値基準やデイスクールの階層秩序の普遍性を(不当にも? )前提 にすることによって、対話の成立の障害となるものの抹殺は民主的であり、それ ゆえ正当である、とするような倫理観‑などにつながる権力論を内包すること にもなる。そのような問題も視野に入れっっ、本論はデリダに加えられた批判の 内容を検討し、その検討を通して脱構築と他の哲学の言説が亀裂を生じる地点を 探り出し、その裂開において(語られないという否定性によって、いわば負の顕 鄭こよって)開示されるものを捉えようという試みである。

(4)

64

伊藤秀一

Ⅱコミュニケーション対根源的伝達不可能性(サール対デリダ) デリダの語る言葉が哲学的伝統によって拒絶される地点はどこにあるのだろう か。デリダの「非」読者である多くの哲学教師がデリダに対して抱いている偏見 は、一体どのあたりにその根を持っているのだろうか。それはたぶんにデリダ

「ロゴス中心主義批判」という用語法に原因があるのかも知れない。ロゴスをもっ て真理を語る哲学がなにゆえに自己のロゴス性を恥じなければならないのか、そ

もそもロゴスを欠いた哲学など語義矛盾ではないか、といった先行的反発が、不 幸なデリダ受容の出発点を形成してしまったのだろう。わが国において見受けら れる、噂の自己形成のようなデリダ像の一人歩きは論外としても、欧米において もデリダの言説は感情的反発に出会うことが少なくない。このような亀裂が最も はっきりした形で現れたのが、アメリカの言語行為論の理論家ジョン・サールと の論争である。

この論争のもともとの根は、デリダがカナダで開催されたフランス語圏哲学会 国際会議6)で発表し、後に「哲学の余白」7)の中にも収められた「署名・出来事・

コンテスト」8)という論文に含まれたオースティン批判である。オーステインは イギリスの哲学者で、命題、すなわち陳述文の真偽問題を論じる旧来の論理学か ら離れて、遂行的な発話行為の分析を提唱した言語行為論の創始者であり、英米 の哲学に多大な影響を与えた理論家である。彼は言語行為の普遍理論を確立する ための、いわば作業前提としての理念型を考えるために、基本的な言語コミュニ ケーション空間として「真面目な言語使用」のコンテクストを措定した。冗談や 文学等の虚構的言語使用はこの根源的コンテクストに「寄生」するものと考えら れる。デリダが実に巧妙な批判を加えたのはここである。単純な図式化を恐れず に言えば、虚構的言語使用を可能にする言語の「反復可能性」こそが真面目な言 語使用のコンテクストも可能にしているとデリダは主張する。これに対して‑

この学派の後継者をもって自ら任じている‑サールは、いわば親の仇討ち的な 意識も多少働いて、苛立ちを隠そうともせずにデリダに攻撃を開始する。この感 情的な苛立ちも手伝ってか、サールの議論はデリダが批判しようとしているロゴ

ス中心主義の前提となっている極力ヒエラルヒ‑的な構造を、その表現そのもの においてまでも、余すところなく披露してしまうことににる。

デリダが「署名・出来事・コンテクスト」で展開した論理とは次のようなもの である。例えばテーマとなっている「コミュニケーション」という語ひとっを取っ てみても、それはひとっの哲学素、ひとっの記号論的術語である前に、いやむし

(5)

ろそれと同時に、白常言語の様々な位相において様々に散種される。今まさに

「である前に」と言いかけたが、ひとつの「本来の意味(senspropre) 」からの 意味論的位置ずらし(emplacement semantique)として、記号論的術語の「コ

ミュニケーション」が「本来的の意味」から隠職的に派生している、という考え 方をデリダは否定する。そうではなくて、決して実定的な「本来の意味」には行 き着かない示差マークとしての言語記号は制御不可能な無限のコンテクストに接 ぎ木される可能性を持っているのであり、このような差異の戯れ、散種こそが言 語の実相を示しているのだ、とデリダは言うのである。

このような言語記号の叙述においてデリダが注目するのがェクリチュールであ る。エクリチュール(ecriture書字)は、通常の素朴な理解ではコミュニケー ション手段(moyendecommunication)としてコミュニケーション(伝達)の カテゴリーで考えられ、志向‑記号化(表現) ‑伝達という論理的ヒエラルヒ‑

の中に輝えられているが、デリダの脱構築はまさにこのような階層秩序に向けら れる。先取りして言えば、この派生運動の最も末端に位置するように見えるエク

リチュールこそが実は根源的なのであり、それゆえ決してコミュニケーションの カテゴリーでは捉えきれないものなのだ。

通常われわれは、何か思念があってこれを他者に伝えるために言葉を用い、こ の言葉を空間と時間において拡張するために文字を使う、と考える。このような

「拡張」は理念的にはひとっの無傷の連続体として考えられるが、この連続体の同 質性の理念こそ、デリダがロゴス中心主義として批判する現前性の形而上学‑

近代知の根底にある意識哲学一般をデリダはこのように捉える‑に特有の前提 なのである。このような「拡張」は、例えば手紙が書き手の訪問を代補し、古文 書が昔の人の証言を代補するように、常にひとっの「不在」を代補するものとし て考えられる。だがこの「不在の価値」こそ、精密な検討を加えれば、 「拡張」

の「同質性」に亀裂を入れる契機となるものなのだ。というのは、 「何かの記号、

何かのシニフイアン」という考え方をするとき、われわれは現前する意味という ひとっの根源を考えるが、この根源の原理的不在性へ向けて「拡張」における

「不在の価値」の位置ずらしが可能だからである。

デリダは言う。

私が書く瞬間に、受信者は私の現在的な知覚野に不在であり得ると言えよ う。だがこの不在は単に遠い、遅延した現前性、あるいは何らかの形で現前 性の再現へと観念化された現前性ではない。 (・・・‑)少なくともこのような

(6)

66 伊藤秀

距離、隔たり、遅延、差延(differance)は、エクリチュール構造‑エク リチュールが存在するとして‑が構成されるためには、不在のある種の絶 対性にまで高められなければならない9)。

受信者が死んでしまっても手紙は読まれ得るし、著名な作家の書簡集というこ とになれば、受信者の寛前性とはまったく無縁の読みが成立する。マークは受信 者の現前性を断絶する。エクリチュールは、送信者と受信者の意識という実定極

を消滅させる絶対的媒質なのである。

エクリチュールがエクリチュールであるための条件とは、それが読まれ得るも のであることである。読み手の絶対的不在にも関わらず、すなわちすべての読み 手が死滅した後も、エクリチュールとしていっしか読まれる可能性を自らに保証 するものとは一体何だろうか。われわれが未知の星に降り立って、すでに死滅し たその星の生物が残した石碑に刻まれた文字を前にしたとき、これを文字として 同定し、解読する可能性はどこにあるのだろうか。デリダはこれを「反復可能性 (iterabilite)」と捉える。刻まれたマーク‑その非実体的示差性を強調するた めに、デリダは記号(signe)の代わりにマーク(marque)という概念を用いる‑

がその同一性において繰り返されること、これが文字を文字として機能させてい るのであり、この反復可能性は文字言語(ェクリチュール)と同時に言語記号一 般を規定する特性でもある。これは分節言語に限らない。例えば恋人同士にしか 通じない秘密のサインといったものを考えてみてもいいだろう。様々な落とし穴 によってこれが常に暴露の危険に脅かされているように、どんな秘密の暗号でも、

その反復可能性において‑そして反復不可能な記号というものは存在しない一 一、そしてその反復における同定可能性において、本質的には第三者、そして

さらにすべての人々に解読可能なのである。

だがここでこの反復可能性(iterabilite)ということの内容を検討してみよう。

「イテラビリテ」。日本語に翻訳してしまうと目立たないこの概念は、実は普通の フランス語で単なる繰り返しの可能性を意味する言葉" repetabilite "とは違っ て、少々奇妙な表現となっている。デリダは言う。 「"iter" 『もう一度』、これ

はサンスクリットの"itera" 『他の、異なった』から来ている。以下に述べる ことはすべて、反復を他性に結び付けるような論理の開示として読むことができ る」10)すなわちマークの自同性は同一における非同一、つまり自己における自 己からの離接において構成されている。例えば、 A‑Aという白岡律において賓 辞化されたAは、対象化され反省極に置かれることによって明らかにこのような

(7)

未分割のAからの離接による構成を示しているのだ。このような他性を含有する 反復可能性の契機を精査して行くことによって、このような絶対的不在が単に受 信者の不在という意味にとどまらないということがわかる。マークの送信者もま たマークから断絶される。これが「署名」ということでデリダが批判しようとし たことである。

マークであるエクリチュールは、書き手の意味作用‑これのフランス語は vouloir‑dire 「言いたいという欲望」だが、デリダの術語としてはフッサールの 言うBedeutung 「意味」の訳語として考えられている‑や表意作用(signifi‑

cation‑記号化)の志向から徹底的に断絶されている。 「反復する構造としての エクリチュール、すべての絶対的責任から、最終審級の権威としての意識から切 り取られ、孤児であり、誕生の時から父親の立ち会いから離されているエクリチュ ールにつきまとう、このような本質的漂流」11)によって、エクリチュールは制御 不可能な遊動装置になる。自己の産出の現場にあったコンテクストから常に切り 離され、いかなるコンテクストにも接ぎ木され、自己を書き込み、自己鏡像的 (反省的)意味生成の磁場を作る、このようなェクリチュール装置が作り出すア

ナーキーの究極の姿は、例えば「不思議の国」や「鏡の国」でアリスが遭遇する 様々な意味論的戯れ(整合的不整合)を考えてみれば良い。エクリチュールの統 御不可能な遊動を現出させる反射空間を構成する鏡は「錫箔のない鏡miroir sans tain) 」12)であり、鏡像は鏡を通過して変容し、決して原点に回帰すること

はない。そもそも原点が不在の場なのである。原像なき鏡像、オリジナルなきコ ピーの世界。遊動するマーク群によって分節されない、それゆえにその純潔を保 持できる純粋な意識などというものはここには存在しない。

デリダのエクリチュール概念の説明が、収拾がつかないほど長くなってしまっ た。これはデリダ自身のエクリチュールの戦略がこのようなスタイルをとってい るからである。われわれの思考回路のあらゆるところに張り巡らされ、いかなる ところでも思考の階層秩序を規定する現前性の形而上学を、誘い出し、様々な民 を仕掛け、尻尾を出させ、その尻尾をらかんで揺さぶりをかけ、散種させるデリ

ダの戦略は、あきれかえるはど様々な比職に満ち、むしろその比職が不在の指示 対象を構成すると言っても良い。このようなェクリチュール・モデルによって、

デリダはSecにおいて、それ自身形而上学批判として立てられた二つの哲学的戦 略に潜む形而上学性を脱構築する。その一つとはフッサールの純粋意識の言語論 であり、もう一つはオースティンの言語行為論である。フッサール批判は次章に 回すとして、ここではもっぱらサール論争との関係からオースティン批判を見て

(8)

68

伊藤秀一

行こう。

デリダのオースティン批判は再び、これまで叙述してきたエクリチュール・モ デルにとって本質的な、主体の「根源的不在」と記号の「根源的断絶」の周囲に 形成され、その矛先は、行為遂行的発話の成功のためにオースティンの言語行為 論が張り巡らそうとする理念化に向けられる。そのような理念化が目指すものと は、 「発話主体の志向がその発話行為全体に対して意識的に現前していること」

が自明のことであるようなコンテクスト、 「遂行操作に対して行為遂行的発話の 実行に関与する発話者と受信者の意識的志向的現前」がいささかも損なわれない コンテクストである。このような「現前的全体化(totalisationpresente) 」か ら漏れ出るような残余がひ‑とつも無いような、完全に密閉されたコンテクストで ある。

第二講義で、オースティンは(・‑・・)行為遂行的発話の様々な失敗もしく は「不幸」の可能性と起源を検討する。彼はここで成功のための六つの、十 分ではないが不可欠な条件を定義する。この定義に現れる「慣習性」、「正確」、

「完全性」といった諸価値の向こう側に、われわれはどうしても、余すとこ ろなく規定可能なコンテクストとか、遂行操作の全体に対して現前的な自由 な意識とか、絶対的に充実して自己自身を支配している意味作用とかといっ た諸価値を再び見出すことになる。これらは志向がその組織化の中心にとど まる領野の目的論的審級なのである13)。

このようなコンテクストにおいてオーステインが夢見ているのは、意識から発 話までの(可能的にはエクリチュールまでの)いかなる意味作用の汚染や縮減を ともなわない透明な連続体である。このような連続体を狙む様々な「不適切性 (in felicities) 」を除外するため、オースティンは次のような処置を提案する。

第二点として、われわれの行為遂行的発話は、発話であるがゆえに、すべ ての発話を汚染する別種の災禍(ill)をも被ることになる。そして、この災 禍についても同様に、より一般的な説明が存在するかも知れない。しかし、

われわれは当面この問題に立ち入ることを意図的に避けておこう。私が念頭 に置いているのは、次のようなことである。行為遂行的発話は、例えば舞台 の上で役者によって語られたり、詩の中で持ち出されたり、独り言の中で語 られたりしたときに、独特の仕方で空虚なものや無効なものになるだろう。

(9)

これは似たような意味ですべての発話に妥当する。特殊な状況にある場合の 大変貌sea‑change)である。そのような状況にある言語は、独特の仕方で

‑明らかに‑真面目に(seriously)使われたものではなく、何らかの形 で正常な使用(normal use)に寄生的に(parasitic)使われているのであ

る。このような使われ方は言語衰退の学理で研究されるべきことであろう。

これらのことをすべて、われわれは考察から除外する。われわれの考える行 為遂行型発話は、適切なものであれ、そうでないものであれ、通常の(ordi‑

nary)状況で行われたものと理解されなければならないM)

「真面目に(seriously) 」使われた言葉、 「通常の(ordinary)状況」におけ る「正常な使用(normaluse) 」といった理念型的密閉から排除されるものを、

オースティン自身も「発話であるがゆえにすべての行為遂行型発話を汚染する」

と言って、いわば本質構成的なものとして認めているのだが、それにもかかわず 彼はこれらを「意図的に」排除しようとする。この閉めかかったドアにすかさず 片足を入れたのがデリダである。オースティンのモデルが示すように、言語はひ とまず「不適切性」を免れる安全地帯を確保して、そこに引き隠ることができる のか、あるいは「不適切性」を引き起こす条件はこのような外部ではなく、むし

ろ発話の可能性の条件として「発話の内部」なのか。

文学や演劇などの虚構の言語使用とは現実の言語使用の模倣であり、いわばこ れに依存して「寄生的に」成り立っている、と多くの場合考えがちである。デリ ダの理論は根源的反復可能性を軸にこの秩序を転倒させる。現実の言語使用から 切りとられ、いわばこれを引用しているとされる虚構の言語使用にも等しく基底

となる反復可能性こそが、実は「真面目」な発話行為を成就させる条件なのだと。

虚構の言語、例えば舞台上でのせりふがせりふとして機能するためには、それが マークとして、何度も反復して通用させられるマークとして機能することがセき なければならない。現実の行為遂行型発話は、虚構的発話において最も明瞭に意 識化されるこのような引用のヴァリエーションであり、特殊例なのである。だが

「引用」とは通例何らかの原典から切りとられたものを意味する。デリダがいう マークの根源は、もしそれがオースティンがいうような「真面目な言語使用」と いう理念型でないとしたら、いったいどこにあるのか。

デリダに言わせればこのような問いの立て方こそ「現前性の形而上学」に毒さ れている、ということになるだろう。引用されるマークがそれぞれの意味機能を 行使できるのは、決してそれ自身に現前的に充実した意味を含んでいるからでは

(10)

70

伊藤秀一

なく、非在の効果として、否定的示差の結果としてのことである。例えば「病気」

という言葉は「非病気」との差異に、つまり自己以外の他のすべてのものと自己 との差異において構成される。つまりこの構成に先立っ構造によって規定されて いる。だがこの構造もまたその要素を否定的差異の力動によって切り離していく 構造に自己を負っている。構造はこのように決して根源を辿ることのできない動 的な差異的分節化の構造を常に自己の上位に措定し続ける。このような産出的な 差異の構造的力動をデリダは「差延作用(differance) 」と呼ぶ。差延作用の根 源は決して辿ることができない。マークは「根源を持たない痕跡」なのである。

さて、あまりにも多くデリダの言葉ばかりを語りすぎてしまったようだ。これ では、亀裂の顕示および裂開の解明という当初の目論見がなかなか達成できない ので、さっそくサールの批判の検討に移ろう。サールの批判は、みもふたもない 言い方をすれば、デリダ思想のまったくの誤解、完全は無理解に基づいているの だが、ある意味ではこのような批判のタイプはデリタ受容においてなかなか払拭

できない‑デリダに対して「非本質的な庇理屈屋」といったイメージしか持ち 合わせない多くの哲学教師を始めとして‑ものなので、ここである程度詳細に 検討して見ることにしよう。

「差異再び‑デリダへの返答」という比較的短い論文で、サールは次のよう な観点においてデリダ批判を展開している。

(1)話された言葉と書かれた言葉(エクリチュール)の関係 (2)発話行為の意味作用と話者の志向の連続性

(3)真面目な発話に「寄生的」な虚構的言語使用

これらすべての観点においてサールが準拠しているのは、 「志向された意味の 伝達」という古典的な言語観である。順番に見て行きながら、同時にこれに対す

るデリダの再批判も検討することにしよう。

(1)話された言葉と書かれた言葉を区別する指標として、デリダは発話の送信 者と受信者の双方の不在を挙げているが、サールはこれを過ちと見なす。自分自 身のための買い物リストやコンサートで連れに渡すメモなど、充実した志向で現 前する意識に「伝達」するエクリチュールが存在するし、そもそも反復可能性を エクリチュールの基本特徴とすること自体が誤りなのだ、とサールは言う。エク リチュールの本質的特徴である可能的な永続性とコンテクストからの離接を可能 にする反復可能性は、本来別の現象なのにデリダはこれを混同している、と言う のだ。

さて、ここでサールを直接引用すれば、 Secを検討してきたわれわれには、こ

(11)

こでデリダを引用しなくとも、サールの批判のどこに問題があるのかすでに明ら かだろう。サールはこう言っているのだ。 「書くこと(writing, ecriture)は不 在の受信者とコミ.1ニケ‑トすることを可能にするが、受信者が不在である必要 はない(notnecessary)のである」‑5)。だが「必要性」についてデリダは語った だろうか。デリダが語ったのは、根源的および絶対的な不在の「可能性」であり、

この可能性のいわば構造的な本質規定性である。サールが挙げたような発信者お よび受信者の事実上の現前は、エクリチュール自身に反復可能性の構造的刻印が 書き込まれていることを損なうものではない。このような現前‑偶有的現前に 見えるもの(仮象) ‑自体が不断の分割に身をさらすものであり、純粋な意識 的同一性として存在できない、いわばその同一性を常に消滅させている非連続体 でしかないからである。 「貰い物リスト」にしても、発信者および受信者の不在 において‑意識の顕在的現前の不在において‑機能する可能性を含むもので ある限りにおいて「使用可能」なのである。もし連続する意識の現前というもの が純粋な自己同一性を保てるのなら‑あらゆる物理的事実性に反しつつ‑、

そもそも何のために「買い物リスト」というものが必要になるのだろうか。 「コ ンサート会場でのメモ」において事態はもっと明白である。一見並んで現前して いるように見えるが、書き手はエクリチュールの産出において読み手の現前を全 く必要としていないし、読み手もまた書き手が不在であっても‑メモを渡した 瞬間に心臓発作で死んだとしても‑このメモを読むことについて全く不都合を 感じないだろう。 「メモが補うべき不在、メモが含意するこれらの可能的不在は、

マークの中に(‑・・・)自己を刻印(マーク)する」16)。

そもそもサールがデリダに想定している書かれた言葉(ェクリチュール)と話 された言葉(パロール)の対立という図式が、デリダの議論の中には存在しない のだ。むしろパロールをも規定するエクリチュール性、いや「書記素性」といっ たものを軸にした言語論をデリダは執掬に展開したのである。

(2)志向と発話の連続性の問題に関しては、サールの図式ではあまりにも単純 なので、ここではあまり深入りしないことにしよう。この間題について最も根本 的な考察が行われているのは、フッサールの「論理学研究」の批判である「声と 現象」なのだが、現象学の用語法の深奥にまで侵入し、ドイツ語とフランス語の 相互翻訳的な手続きによって術語のシニフイアン性を最大限に酷使するデリダの 哲学的エクリチュールは、ここでさらに日本語にまで翻訳するとほとんど読者の 理解を超えるところまで複雑化しそうなので、ここではこの書物は直接的には取 り上げない。多少本質性を損ないながらも、むしろ次章で‑ーバーマスのデリダ

(12)

72 伊藤秀‑

批判との絡みで叙述したほうが理解しやすいはずである。

さてここでサールが主張するのは「有意味的(意味充実的meaningful)な文」

と「志向的な言語行為」の一致という図式であり、それはほぼ次の言説に言い尽 くされている。

当然ながら、真面目で字義通りの言語使用においては、文はまさに正確に その意図の実現形態にはかならない。すなわち、発話内志向(illocutionary intentions)とその表現の間にはいかなる解離も存在しない。文とは、こう 言って良ければ、代替の志向なのである。 (‑‑)著者が言いたいことを述 べる程度において、テクストは著者の志向の表現となる。 (‑‑)発話を理 解するということは話し手(著者)の発話内志向(illocutionary intentions) を再認するということにおいて成り立つものであり、この志向は、書かれた ものにせよ話されたものにせよ、発話された語によって多かれ少なかれ完全 に実現されるのである17)。

このような前提に立って、サールは科学主義的な統一的意味世界の密閉に向け て、書記素一般へ脱意味論化するデリダの言語論の攻撃を開始する。その骨子は、

デリダはタイプ(類的)とトークン(質料的)という発話的同一性の二重性を理 解せずに、エクリチュールの反復可能性と永続性とを混同しているということと、

志向性からの離接によって、言語の使用(use)と言及(mention)の区別が解 消しているということの二点にまとめられるだろう。この議論はSecの中の次の 箇所の周囲に形成されるが、デリダもまたサールが引用したSecを再び引用によっ て指し示している。そこには次のように書かれている。

指示物(referent)あるいはシニフイエ(signifie意味されたもの)から (したがってコミュニケーションとそのコンテクストから)切り離される構 造的な可能性は、一切のマークを、たとえ話されたマークでも、書記素一般 (grapheme en general)たらしめると私には思われる。これは、すでに見た ように、 「産出」あるいは起源と称されるようなものから切り離された差異 的なマークの非現実的な残遺(restance)である18)

サールの読みは、通常の意味での「書かれたもの」から「書記素一般」へのエ クリチュール概念の絶対化というSecを刻印する運動を無視している。反復可能

(13)

性という概念が共示する同一性と差異への根源的自己分割と他化の運動も考察か ら抜け落ちている。 「残遺」ということがここで示すのは、サールが考えている ような書字の残存ということではない。デリダは言う。

反復可能性は<自同者(le m合me) >の同一性が他化において、他化を通 じて、そして他化を見込んでも反復可能で同定可能となるように、最低限の 残通を(および最低限の理念化も)想定するのである。なぜなら反復の構造 は、もうひとつの決定的な特徴として、同時に同一性と差異を含んでいるか らである。最も「純粋な」反復でさえ‑だが反復は常に純粋ではないのだ が‑自己を反復として構成する差異の断層を自己自身の中に含んでいる。

ある要素の反復可能性は自己の同一性を分割するが、その際この同一性が他 の要素との差異的な関係の中でしか自己を規定したり境位することができず、

それゆえにこの差異のマーク(刻印)を担っているという事実を考えに入れ なくとも、ア・プリオリに自己の同一性を分割するのである。残適が不可欠 であるにもかかわらず、決して充実した、あるいは成就した現前性の残遠に ならないのは、この反復可能性が個々の要素の内部でも要素の問でも示差的 で、反復可能性が個々の要素を構成しつつ分割し、反復がこれを分節的な裂

け目でマークするからである。これは現前性の論理から、あるいは永続性の 理念が依拠する現前と不在の(単純なあるいは弁証法的な)二項対立から逃 れる示差的な構造なのだoだからこそ「非現前的な残遺」によるマークは消 去としてのマークの対政物ではない。痕跡のように、マークは項前もしなけ れば不在でもない19)。

ソシュールの否定的示差記号としての言語論の究極の徹底化が、ここにはあり ありとうかがえる。これが、ソシュールの脱実定的な言語観、すなわち境界画定 (delimitation)や分節化(articulation)の機能それ自身は実体的な質に規定さ れるものではなく、否定的・示差的にしか‑それ自身ではない他のすべての要 素に対する関係においてしか‑規定され得ないような秩序によって生じるとい うような言語観を徹底化して、主体からの根源的な亀裂を示すデリダの言語観を 規定する基本的な図式となる。ソシュールの否定・示差性テーゼをデリダは「構 造の構造性(la structuralite de la structure)」19a)という考えを押し進めること

によって、マークの不動の秩序に向けた構造の閉鎖(clfiture)としてのソシュー ルの体系に対して脱構築する。構造の各要素はそれぞれそれ自身が他の要素では

(14)

74 伊藤秀‑

ないことによってしか、つまり否定的・示差的(差異的)関係において相対的に しか規定できない以上、すべての要素がそれぞれ同等の権利を持って関係叢の相 対的な中心となりうる。ということは構造は本質的に脱中心性によって規定され ることになり、このようなものとしての言語に関係する限り、発話主体もまた脱 中心化されてしまうのである。構造と主体における二重の自己現前の不在である。

このような二重の不在における無限の自己分割・自己他化による自己超出として 捉えられるエクリチュール‑お望みなら書記素一般と呼び変えても良い‑は、

サールが考えたような永続性の相に捉えられるものではない。そうではなくて

「無限の二重化」として、根源なき自己増殖を、自己生成を行う装置なのである。

これを言い当てる文彩として、デリダは再びSecを引用し、そこに現れたひとつ の価値を指し示す。

(一一)そのような反復の構造が存在するからには、発話を賦活する志向は それ自身およびその内容に対して決して隅から隅までくまなく現前すること はないだろう。発話をア・プリオリに構造化する反復は、そこにひとっの本 質的な裂開(dehiscence)、本質的な亀裂(rupture)をもたらすのだ20)。

「本質的な裂開(dehiscence essentielle) 」という概念をLIのデリダは次のよ うに説明する。

私は特に裂開という語を強調した。この語が隠職的価値を引き出してくる 植物学的使用域でと同じように、植物の成長における分割された開口部が積 極的に生産、再生産、発展を可能にするということをこの語ははっきりと示

している21)。

近年デリダが「脱構築」に代えて‑この語が共示する否定性や破壊性を避け るために‑多用する「散種」の概念22)が持つ産出的力動の源は、このような自 己自身における根源的分割に触発される反省的自己超出性‑自己回帰がすでに 自己を超え出ていくことになるような‑にあるのだろう。いずれにせよ、デリ ダのエクリチュール・モデルがサールのスピーチ・アクト理論に対して持っ利点 はこのような開放性にあるということをここで強調しておこう。

(3)オーステインの正当な後継者を自認するサールにとって、デリダのオース テイン<理解>の不当性を暴くこの第三の問題領野こそ、発話的遂行の暴力を最

(15)

もあからさまに使用すべき場所なのだろうo 「デリダのオースティン」と題され た章を始める前にサールは、 「デリダには明らかに間違っていることを言う、う んざりさせる傾向がある」23)とこきおろし、次の章においてそれを論じると宣言 する。デリダのオーステイン理解に対するサールの批判は、 「寄生的」という概 念の読みの問題として展開される。まず論理的依存関係という意味についてなら、

「ある言語行為を偽装する形式の存在は、すべての偽装的行為の形式が非偽装的 な行為の形式に依存しているのと同じように、非偽装的な言語行為の可能性に論 理的に依存している」24)ことを自明の前提とする。この依存関係の意味において、

そしていかなる倫理的・価値的な意味共起‑このような意味でデリダが階層秩 序を問題にしているとサールは考える‑なしに、虚構の言語使用は「寄生的」

なのだとサールは言う。そしてこのような寄生的言語使用は「標準ケース (standard cases) 」ではないので、ひとまず(at present)科学的普遍性要 求を満たす語用論の構築のための理想化として‑考察から除外されるのだ。

だがデリダは当然のことながら、このような<当然の自明性>の前提を認めよ うとはしない。そもそも一切の価値評価をともなわない「論理的依存」を意味す る「寄生的」などということがあるだろうか。

(‑‑)ある依存的(論理的に依存的)な要素、二次的な要素、論理的帰結、

あるいは時間的帰結までも、それ以上の但し書きも釈明もなしに「寄生的」、

I‑異常(abnormal) 」、 「不適切(in felicitous) 」、 「無効(void) 」等と規定で きるなどと誰が言えようか。このような価値論が、体系的かつ独断的な執勘 さのすべてをもって対象を規定しており、その分析は本質的には「論理的」

でも客観的でも非偏向的でもないということを無視することはできない25)。

真実在とその頚落的ミメシスに始まって、形相と質料、もの自体と現象、仮象 と存在といった、西洋の形而上学的伝統を貫く様々な二分法が常に価値論を内合 していたように、ここでもサールが科学的中立性の陰に隠匿しようとする「論理 的依存」に潜む権力的価値内合をデリダは見逃さない。だがたとえある種の「依 存関係」が「真面目な発話」と「虚構の発話」との間に存在したとしても、はた してこの依存関係は一方的なものだろうか。 「実人生で約束する可能性がなけれ ば、芝居でも俳優は約束することができない」27)というサールの主張をそのまま ひっくり返して、 「芝居で約束することができないのなら、実人生でも約束する ことはできない」と言うことも同等の権利を持って可能なのである。

(16)

76

伊藤秀一

先述したように反復可能性は意味作用が機能するための条件であるが、オース ティンもこれは認めているOこれを認めると同時に、それが統御不可能な形で顕 現化してくる「空虚な反復」 (例えば意図しない意味共起といった形での)を

「特殊な状況になる場合の大変貌」として「考察の対象から排除」するのである。

だがこれに対して、オースティンにとって「偶然性(eventuality)」であるとこ ろのものは、デリダにとっては「可能性(possibility)」なのだ。しかもそれは「必 然的可能性(possibility necessaire) 」28)であり「構造的可能性(possibility struc‑

turelle) 」29)なのである。 「偽装的形式(pretended form) 」と「非偽装的形式 (non‑pretended form)」の問の依存関係は交互的なものなのだ。デリダは言う。

標準的な行為が反復される可能性に依存し、したがって偶発的に模倣され、

装われ、引用され、演技され、藻議され、寄生される可能性に依存するのは、

この後者の可能性がそれに対立するとされる可能性に依存しているのと同じ である。そしてこれら両者の可能性は、二項対立と二者択一の単純性を根底 から転倒する反復可能性の構造に「依存」しているのだ。反復可能性の構造 は、内部と外部を境界づける線をかき消し、諸項問の継起や依存の秩序を転 倒し、排除の手続きを禁止する(妨げ、不当化する)のである30)。

これでわかるように、サールの批判はまるで批判になっていない。言葉が噛み 合っていないのである。ロゴス中心主義を批判するデリダの論理が非論理という わけではない。そうではなくてそれは「異質(alien) 」31)なのである。

このような異質な言説を繰り出して、デリダは何をしようというのであろうか。

デリダがはっきりと言っているように、ここでは依存関係の転倒が問題なのでは なくて、その交互性および相対性の理解が問題なのである。その名称からしばし ば誤解されるが、脱構築は秩序の解体をもくろむ破壊活動などではない。そうで はなくて、隠蔽されたものの露呈のための構築物の精密な分解(ハイデガーが言 うところのDestruktion‑Abbau von Verdeckung)なのであるOよく言われる ような、 「砂山を崩しまくった後に脱構築が見出すものは何か」といったような 批判は、ここのところを誤解している。決して言語使用における意識の志向性の 現前を否定するということが、デリダの意図ではない(さもなければ「発話にお

ける意図の現前の反駁が私の意図です」といった自己矛盾の命題が現出してしま うだろう)。そうではなくて、主体の「充実した意識的志向」というテロス(形 而上学的最終日的)こそがデリダの批判の対象であり、そういった意味ではこの

(17)

オースティン批判も、意識哲学全般に向けられた闘争のひとつの局地戦にすぎな いのである。だがオースティン批判およびその文脈でのサール批判の文脈の中で 決して見失われてはいけないことだが、オーステインの言語行為論は本来は決し て形而上学主義的な意図から生まれたものではなくて、むしろ形而上学を成り立 たせる主観中心主義の意識哲学を克服するはずのものだったのだ。それは「真/偽 および価値/事実という二分法のフェティッシュ」の批判32)というところに現れ ている。だがそのオースティンが行為遂行型の発話の条件として、上に述べたよ うな志向の現前の原理を再導入することになったのである。そういった意味では、

デリダの脱構築的な読みが呈示するオーステインは、西洋近代思想を貫く形而上 学批判のエートスの中に執勘に混入してくる形而上学性のひとっの範例を示して いるとも言えよう。だがこの執勘な形而上学性は、次章で取り上げるハーバーマ スのデリダ批判を読む限り、デリダの側のいかなる脱構築も受け付けない動かし 難いイデオロギーとして機能し続けているように思える。

Ⅲ対話可能性をめぐる闘争(ハーバーマスとデリダ)

フランクフルト学派の第二世代に属するユルゲン・‑〜バーマスは、近代を

「未完のプロジェクト」と規定し、西洋近代が模索してきた様々な肯定的価値‑

民主主義、自由、平等、自律芸術‑の普遍妥当性を、近代が被ってきた‑あ る意味では近代そのものに原因がある‑様々な災禍から救済し、その完成へ導 くための条件を考察している。そして端的に言ってしまえば、コミュニケーショ ン的行為において実現される問主観的な関係性の上に基礎づけられる相互了解の 可能性こそが、バーバ‑マスにとって最も重要な条件ということになるのだろう。

このような前提から出発するハーバーマスにとって、前章で叙述してきたデリダ の思惟方向は実に気にかるものになる。アドルノ賞授賞講演の「近代‑未完の プロジェクト」において、彼はデリダを「青年保守派」と規定し、モデルネ(近 代)の合理的完成を阻む障害と見なしている。青少年を近代の完成のための真面

目な言説から引き離し、 「ポストモダン」の肱惑構造に誘惑する、といったよう な意味で「青年保守派」なのだろうか。このような暴力的分類の倫理的妥当性も 含めて、以下において‑‑バーマスがデリダにおいて批判するところのものに耳

を傾けてみよう。

「近代の哲学的ディスクルス」33)において、ハ‑バーマスはデリダに関して一 章とそれに付随するアメリカの脱構築批評に関する付論をひとっ書いている。こ

(18)

78

伊藤秀一

の配置の仕方からわかるように、 ‑‑バーマスの意識はデリダを<ポスト・モダ ニズム>の源流として捉えていることは明らかである。デリダ自身は決してこの 言葉を引用符なしで用いたことはないのにも関わらずである。このような外面的 に不当に設定された闘争の場で、 ‑ーバーマスはまずデリダを形而上学批判の系 譜においてハイデガーの正統の弟子と決めっけ31)、ハイデガーにおける「存在の 近さのメタファー」(聴従、故郷、問うことを知らぬ蓄蕨)とデリダにおける破 壊的否定性の身振りだけが二人を分かつものなのだと言う。そしてこのようなデ リダの否定性は「ユダヤ神秘主義」に由来すると決めっける。決して聖書のよう に固定化された原典を持たない不在の神の書はその痕跡すら消し去って、ラビに よって無限に書き込まれる(語り継がれる) 「トーラ」と呼ばれる伝承において 散種する。不在の神の書の消失した痕跡という二重の分断を宿命づけられた「エ クリチュールの学のプログラムは、宗教的な源泉から汲み出されている」35)と‑‑

バーマスは推論する。もちろんデリダの思想は決して神学に向かうものではない。

だが根源哲学(Ursprungsphilosophie)の批判がいっのまにかその批判の対象で ある根源哲学にとらわれてしまい、 ‑イデガーと全く同じ意味で「主観性哲学の パラダイムを抜け出せない」36)と‑ーバーマスは批判するのである。

‑〜バーマスの批判は、ある地点まではデリダを単純化して紹介するポーズを とりながら、徐々に自分の図式の中に位置づけ、そのようにして自分の好みの形 に切りそろえた‑サールの批判装置をハーバーマスに向ければ‑ 「‑‑バー マスのデリダ」に対して攻撃を加える。デリダはLIで警察のメタファーに言及 しているが、まさに警察や司法装置が菟罪を構成して行くような手続きで‑‑バー マスはデリダを記述していくのである。これは不幸なことと言わねばならない。

多くの学者を魅了して止まない「抑圧なき合理性」という価値体系の上に横綱と して君臨し、徹底的に討議するコミュニケーション的行為を横棒Lかつ実践して いると思われているハーバーマスが、デリダをそのような形で取り扱った場合、

どのような影響効果がそこから生じるだろうか。世界中でデリダの非読者である 大学教師が「ハーバーマスのデリダ」に従ってデリダを理解し、講義の中に取り 入れ、偏見を再生産していくことにはならないだろうが7)。

‑ーバーマスのデリダ紹介は、デリダのフッサール言語論批判「声と現象」38) から出発している。フッサールは「論理学研究」39)の第二巻で記号一般を「表現 (Ausdruck) 」と「指標(Anzeichen) 」とに分けている。標識や目印のような

「指標」は心理的連関によって対象を指し示すだけであるのに対して、 「表現」は イデア的連関によって「意味(Bedeutung) 」を言い当てるということによって

(19)

峻別されるのである。言語は本質的に「表現」であり、その最も純粋な形式にお いては「純粋な意味」というイデア性に帰着するものとされる。記号作用の最も 純粋な形式とは内的独白(soliloque)であり、そこにおいて記号という外在性 は消失し、純粋意識の自己現前が生じる、というのがフッサールの図式だとデリ ダは言う。

デリダはフッサールの文脈における「意味(Bedeutung) 」をvouloir‑dire (語りたいという意志)と翻訳する。それはまず第一に、フランス語で通常「意 味」を表すsignificationがこの文脈では論理的に不可能だからである。 「意味の ない記号」ということを言い表すのにun signe sans significationと言えば「記 号作用を持たない記号」という矛盾律を呈することになり、フッサールの議論を 遂行できなくなるのである。表現(Ausdruck)とは、内部を外部に向けて押し 出す(aus‑driicken)という意味で、そこには志向性が介在するO自己を語りた いものとしての表現である。だが同時にvouloir {wollen‑意志の話法の助動詞) が意味する志向性において共示されているのは主観の働きでもある。フッサール が考える意味の「最も純粋な形式」とはコミュニケーション的要素を取り除いた

「独自(Selbstgespr邑ch) 」、すなわち「孤独な精神生活における内的言説(die innere Rede im einsamen Seelenben) 」であり、その明証性は意識における志 向の現前的充溢によって保証される。例えば「暑い」と思ったときの意識、これ はそれは内部に響きわたる物質性を欠いた声として表象され、ありのままの意識 が意味と(イデア的に実現した)表現(声)の一致(Adaquation)40)として真理 を言い当てるものとされる。

記号から逃れ去ったこのような意味のプラトニズム的テロスには、当然‑‑バー マスも同意することはできないようである。そこには何と言っても彼にとって重 要な間主観的(intersubjektiv)な語用論的契機が欠けているのだ。だがデリダ のフッサール批判は、ハーバーマスが考えているような語用論的な領野へは進ま ない。そして‑‑バーマスにとってはそれが不満なのである。

ところが興味深いことに、彼(デリダ)の疑惑もフッサールにおける意識 哲学的な前提に向けられているけではない。 (・・‑・)デリダが着目している のは、言語哲学と意識哲学が分岐する地点、すなわち言語哲学のパラダイム が意識哲学のパラダイムから離脱し、意味の同一性を意味規則使用という問 主観的実践に依存させるようになる地点ではない。むしろデリダは超越論哲 学的な道筋をフッサールに付き従って行き、主観性の世界構成の働きからす

(20)

80

伊藤秀一

ベての世界内的なものを取り除くのだ。そして最後に主観性の最奥部でイデ ァ的に直観された本質性の支配に対して闘いの火蓋を切るのである4I)。

‑‑バーマスが超越論的主観性の最奥部と呼ぶ地点において現れ出てくるのは、

自己を言い当てる自分自身の声が聞こえる「いまここ」の明証性という考え方で あり、顕在的現在(現前)の特権的地位である。ここにデリダはを西洋の形而上 学の歴史におけるロゴスとフォネ‑ (声)の共犯関係、すなわちロゴス中心主義 (logocentrisme)と音声中心主義(phonocentrisme)の交差する地点を看取す る。これを解体するためにデリダが注目したのは、フッサール自身が「内的時間 意識についての講義」で導入した「いまここの意識」の自己自身との同一性(梶 源的自己現前)を揺るがし始める時間性の契機である。それは点性としての現在 という形而上学から脱して、継起として現在の顕在性を構造化するために導入さ れた時間的分節の図式なのだが、デリダによればここに閉域の開放の可能性があ ると言われる。フッサールによれば知覚の「今」こそ明証性そのものなのだが、

これは同時に時間的な連続性の中に投げ込まれている。 「知覚された現前の現前 性がそのようなものとして現れるのは、それが非現前と非知覚、すなわち第一次 記憶と第一次予期(過去把持と先行把持retention et protention)と連続的に折

り合いをっける限りにおいてのことだということがすぐに看取される。これらの 非知覚は顕在的に知覚された現在に決して偶有的に付加されたり付随したりする ものではない。そうではなくて、これらは顕在的に知覚された現在の可能性の不 可欠で本質的な一部となっているのである。」42)だがフッサールにおいてはこのよ うな過去把持と先行把持という図式にもかかわらず、どうしても知覚の「今」の 点性が「始源(principium‑原理) 」としてそこに残る。だが生きた現在(現前) の中に決して遮断されずに流れ込む過去(再現前)の不断に生成される差異と遅 延は、現在の端的な自己同一に裂横を入れ、瞬間を間隔化(espacer)し、その 裂節(brisure)において現前を常に再現前として分節することになるのだ。生 きた現在はいっもすでに(toujour deja‑immerschon)痕跡となる。この痕跡 はエクリチュールである。だが‑‑パーマスはこのような差延作用(differanee) をあまり理解していないように思える。彼は次のように整理する。

しかしこうした思考の流れのなかでデリダが決して、主観性の哲学が執勘 に抱き続けている根本主義から決別しているわけではないという点を確認し ておくことは重要である。彼は単に、主観性の哲学で根本的なものとみなさ

(21)

れていたものを、一層深い基盤に置いているだけである。それは時間的に流 動化されることによって揺らぎ始めた、というよりは躍動性を与えられた根 源的な力という基盤である。だれの手によるともわからぬ痕跡を残す主体な き原エクリチュールを根拠としようとするデリダは、根源性の哲学に少しも 懸念を感じないような調子で次のように記している。 「この古さを思考し、

それについて語るためには、記号や再現前(Re‑prasentation)とは別の名が 必要である。それによってまた、フッサールが個別的で、偶然的、かつ依存 的であり、二次経験として切り離すことができると考えていたものを、 <正 常>でく前根源的>であると考えることができるようになるのである。その 別の名とは、記号の際限なき漂流という経験である。その場合に記号は混迷 のうちにさまよい、登場の場をさまざまに変え、始まりも終わりもなく互い にその現前化の連鎖を魔術のように見せる」。とすれば存在の歴史ではなく、

判じ絵がすべてなのである。それは合わせ鏡に無限に映し出される像のよう に、古いテクストが織りなす迷路のような判じ絵である。そこでは、どのテ クストもつねにより古いテクストがあることをさし示しているが、いっの日 か原エクリチュールを得られるという希望を抱かせてくれることはない44)。

この翻訳では少々わかりにくいが、出だしのところでハーバーマスは、デリダ が主観哲学に捕らわれていることを論証すべく、次のような論理的転移を行って いる。すなわち1、デリダは主観哲学の根本とみなされるものを別のもっと深い 基底に依存させる。 2、その基底とは時間的流動化を施された根源力(Ursprungs‑

macht)である。 3、その根源力とは原エクリチュールである。

内容的な検討に入る前に、論理形式から見て行こう。たとえ論理学を学んでい なくとも、この論証が誤謬論理、いやかなり出来の悪いトリックだということに 誰でも気づくのではないだろうか。デリダは原エクリチュールを持ち出している が、これは主観哲学の最終基礎付けを表す図象(Figur)ではない。そのような 第‑哲学(prima philosophia)を構築する意図をデリダはいかなるところでも 述べていない。エクリチュールはそもそも何かを「基礎づける」実体ではない。

そうではなくて<別の>もっと深遠な基底(Boden)なのだ。だが誤解を誘導す るのはこの基底に属する「深さ」という属性である。普通「深さ」の隠職法がわ れわれに表象させるのは、同じ水でも浅い川と深い沼があるように、同質のもの のレベル上の比較という意味である。この「深さ」の階層性に取り込まれている ことがすでにハーバーマスの過ちなのである。ここでは明らかに主観性という同

参照

関連したドキュメント

はありえない︒同様に世界の一部としての社会も︑複雑性として観念される以上︑これについての客観的連関の概念

シュトラウスはホ長調,

外来樹種の国立公園区域への侵入が起きているのは、幸いにも人が居住する4島の居住農耕区

ζ うして Keatsは偉大な ode 形式を用いて新し い創作活動を始めてゆくのである.それはまさに

1

の世界』などショーペンハウアーの根本思想に遡って説明している 6)

第 6 章 では 、2 章 から 5 章ま でに 得ら れた 結果 をも とに試作レた、気孔率70 %のハイド口 キ シア パタ イト 多孔

再雇用とは,高年齢者雇用の形態のひとつとして,定年に達した従業員がいっ