長崎大学教養部紀要(人文科学篇) 第29巻 第1号 115‑140 (1988年7月)
直観と反省
‑カントにおける文学の読まれ方‑
伊藤秀一
Anschauung und Reflexion
‑Zu Kants Dichtungstheorie‑
Shuichi ITO
芸術作品への主観的関与はそれ自身一一つ の客観性である。芸術から取り去り得な いミメ‑シス的契機はその実体上普遍的 なものであるが、これは個々の主体の解 消不可能な異常体質的なものを通しての み到達される。 ‑Th.W. 7ドルノ1)
I
我々は芸術作品の享受において、それが何かを我々に語りかける、というこ とを暗黙のうちに前提としているが、これはどのような意味をもつのであろう か。ここで考えられる「何か」とは、どん射二素朴に考えても、例えば裸婦を 描いた絵画が「裸の女とはこのような形状をしている」ということを単に我々 に表示しているとか、芭蕪の俳句が「井戸に蛙が飛び込んだ」という事実を記 録している、という意味ではないはずである。それでは、芸術が語りかけるも のとはいったい何なのか。特にそれは文学においてはどのように読み取られる べきなのか。
このような問いに対して考えられるひとつの答えは、修辞学からのものであ る。すなわち、素朴な表現と優れた弁論を分けるものはシニフイアンとシニフ イ工の対応関係における戦略的な錯綜化にあり、語られるものをいかに効果的
に表現するか、という目的のために語り手は時には直接の言及を避けて類似の 事物を持ち出し、また時にはより注意を喚起するために属性と主体との転換を 行う。これをすべての芸術作品の享受に当てはめると、すべては比喉の解釈に かかっており、作品が語りかけるものは作者が語ろうとしているものと同一だ、
ということになる。ということは、芸術作品とはひとつの概念的言説の手段に すぎず、その意味で実然的な言明に還元できるものであり、おそらくその言明 は事実確認的なものではなく遂行的な機能をもっている、ということになる。
これは妥当だろうか。
我々は虚構的なテクストを前にして多くの教師達が教室で、あるいは試験問 題で、 「作者はここで何を言いたいのか」と問いかけることを知っているが、
彼らは好むと好まざるとに関わらずこの修辞学派に属することになる。だがこ のように決め付けられて、彼らは果たして納得するだろうか。文学作品とは一 つの遂行的発話の代補であるのか。文学の価値とは託された意図をいかに正確 に、効果的に伝えるか、ということに尽きるのだろうか。もしそうでないなら ば、文学作品が語るものとは何なのか。
このような問題設定に対して非常に都合の良い思考モデルを提供してくれて いるのがカントの「判断力批判」である。周知のようにカントは、バウムガル テン等の完全性理論、すなわち、美とは劣位認識能力(facultas cognoscitiva inferior)である感性が論理的整合性との類似において実現する完全性である、
とする美学が美的対象を現象そのものとしていたのに対し、美的判断を悟性に よる真偽の論理的客観的判断と区別して趣味判断とし、それは客観的認識の対 象に関係づけられるのではなく我々の快・不快の感情に関係づけられる、とい うことを明らかにすることによって主観美学を提唱している。これによって、
例えば芸術作品の感覚像としての論理的構造は美を成り立たせているものでは なくなり、美は初めから全的なものとして我々に受け取られることになる。さ らにカントは、我々の美的判断の対象は事物ではなく美的表象であることを明 らかにし、それによって事物の現存性が引きずっている我々の利害関心から美 的判断を解放し、我々の自己保存に関係する快適(das Angenehme)とも道 徳的行為に関する善(das Gute)とも異なったもの、すなわち関心なき適意
(das interesselose Wohlgefallen)として美(das Schone)を位置づけてい る。このことによって、芸術作品の価値の問題は、それが純粋に美学的に取り 扱われるかぎりにおいて、例えば作者の遂行的言説などとはまるで異なったレ
ヴェルで考察されることになるのである。
直観と反省‑カントにおける文学の読まれ方‑ 117
しかしこれだけでは問題はまるで解決したことにはならない。 「美」というも のが単なる我々の主観的か両足であり、芸術を芸術とならしめているものはそ
れ以上何もない、というのはあまりにも我々の日常の意識からかけ離れている からである。人によって差はあるものの、通常我々は芸術に対して人倫の問題 や科学的認識の真理問題と同じような尊厳を認めている。学者や政治家と同じ ように芸術家を尊敬もしている。これはなぜか。芸術の享受によって我々の人 間性にとって本質的なものが与えられる、と信じているからではないのか。美的 な適意(Gefallen)というものが感性的快楽が与える感覚的満足(Vergniigen) 以上のものをもたらすからではないのか02)
先の「文学作品が語るものとはそ自こか」という問題の考察にとってカントの テクストが提供するこのような問題設定は、我々が暗黙のうちに前提としてい る芸術の制度的地位措定を反省するうえでも、極めて有利であることはいうま でもないであろう03)市民社会が暗黙のうちに受け入れている芸術の自律性要求 はその理論的基礎付けをカント美学に大きく依存しているからである。当論は このような観点から、カントの判断力批判における芸術作品の精神に関わるよ うな諸概念、すなわち美的理念(丘sthetische Idee)や象徴(Symbol)等の概 念を精査することによって哲学的芸術学の基礎理論へのささやかなる寄与を試 みるものである。
なお、誤解を避ける意味で言っておけば、周知のように「判断力批判」は本来 決してひとつの芸術哲学の構築を意図して書かれた書物ではない。カントの意 図はそれぞれに固有の立法の領域(Gebiet, ditio)を持つふたっの認識能力、
すなわち理論理性と実践理性の同一の場(Boden, territorium)における分裂 を架橋する調整的認識能力としての判断力のアプリオリな根拠を示すことで目 的論的世界像を構想することであったJ)だがこの小論では、アプリオリな主観 性を基にした理性の自己体系化というカント哲学の体系からの解釈的要請を捨 象し、考察の対象を美と芸術の問題だけに制限する。
I
カントの美学は基本的に自然美を念頭に置いており、それは彼の芸術論であ る天才論によく表れている。それによれば芸術(schone Kunst‑美しい人工) とは「同時に自然であるかのように見える(scheinen)人工J5)であり、 「天才 の技(Kunst des Genies)」6)である。天才とは「判断力批判」における定義
に従えば、 「芸術に規則を与える才能(自然の賜物)」であり、この才能は自然 に属するもの(selbst zur Natur gehort)であるがゆえにさらに次のように定 義される。
天才とは生得の心敵素質(Gemiitsanlage, ingenium)であり、これを通し て自然は芸術に規則を与える。7)
天才とはそれ自身として自然の一部である以上、美的技術としての芸術の裏 側に自然が置かれることになる。 「自然の仮象」である芸術と自然はここにおい
て通底することになる。
18世紀に天才という概念はひとつの流行語であった。これはドイツ文学史の なかでは疾風怒涛(Sturm und Drang)と呼ばれる反啓蒙主義的文学改革運 動の文脈で用いられ、ゴットシェ‑ト等の擬古典主義的模倣説に対して、自己 主張する個性の独創性すなわち芸術的自由を主張するときの拠り所となってい たのである。これに対してカントにおいては、自然と通底する水路としての天 才はむしろ「自然の肝知(List der Natur)」8)であり、自然の模倣と創造的 空想の固有論理という二分法を解体する契機を宿している。カントの「判断力 批判」がシラーやゲーテ等のいわゆるドイツ古典主義者達による受容によって、
模倣対創造の二分法を止揚した能産的自然(natura naturans)のミメ‑シス としての芸術という近代的古典主義芸術理論(いわゆる観念論美学)の基礎と なった、という事実は(細かい論理的精査は別にしてでの話ではあるが)ゲル マニストの常識に属する。
さてカントの論理に従えば人工美とはひとまずそれ自身の美ではない。それ はある目的の実現の美しい提示である。だが同時にカントは天才の技として「自 然であるかのように見える」芸術こそ真の芸術だ、とも言っている。ここで思 い返さかすればならないのは美に対する知性的関心についての節(42節)で導 入された芸術の二分法、すなわち、自然の模倣(Nachahmung der Natur)と
しての芸術と「明らかに我々の適意を目指している芸術(eine absichtlich auf unser Wohlgefallen sichtbar gerichtete Kunst)」9)のふたつの概念である。
前者は自然美と同じ効果を与えるのに対して後者が与えることができるのはせ いぜい「根底にある原因、すなわちそれが関心を喚起できるのは単にその目的 によってであって決してそれ自体によるのではないようなひとつの技術に対す る間接的な関心にすぎない」10)とされる。これはつまり技術的なものにおける
直観と反省‑カントにおける文学の読まれ方‑ he
美にすぎないのであって決して論理的客観的認識と同じ尊厳をもって考察され るべきひとつの反省の契機としての芸術美ではない。すなわち天才の芸術では ない。それでは自然美に匹敵する芸術美を産出する天才の能力を規定するもの は何なのか。
天才の属性としてカントが挙げているのは独創的であること(original)と 模範的であること(exemplarisch)、そして説明不可能、ゆえに学習不可能で あることunerlernbar)であるが、これらの特性を具現化した天才とは自然 の寵児(Giinstling der Natur)としていかなる論理的説明からも逃れるので ある。このような芸術産出能力としての天才概念を基礎付けるのは「精神」で ある。
精神とはその概念の成り立ちからみればまずはπve毎α (空気一息‑生き
‑生命の本質‑魂)として生命を成り立たせているものとしてのspintusで ある。プラトン的な意味では「自ら動くもの」として規定される有機体として の生命はその概念上常に「生成するもの、生気を与えるもの」として考えられ るが、まさにこの意味でカントの美学的な意味での「精神」も考えられている。
美学的意味における精神とは、心的意識のなかに生気を与える根源(das belebende Prinzip im Gemiit)である。この根源がそれによって魂を活 性化するもの、これがその目的のために使用する素材とは、心的能力を合 目的的に発動するもの、すなわち自己自身を維持し自らそのために(心的) 諸力を強化するような遊動状態に引き入れるところのものである。11)
すなわちカント的な意味での精神も活動性の源であり、これが芸術作品の原 理として使用されるとき、ある作品が生きているかどうか、という比喉で普通 語られる事象に関係してくるのである。芸術作品は我々によって鑑賞されるこ とによって初めてその本質が実現する。普通我々は芸術作品を享受する場合、
それを論理的同定化とは異なった様態として理解する。論理的同定化というの は、我々がある知覚像から多様性を捨象しつつ表象的統一像を得てこれを物自 体の代補としての被概念既定項として定立することによって「客観的認識の対 象」とすることであるが、美的な反省においては事態はむしろ逆である。とい うのは、芸術の享受において我々は論理的客観性の束縛から解き放たれた想像 力(‑構想力:Einbildungskraft)を自由に働かせながらさまざま射吾性的規 則をつくり、さらにその産出した規則を自ら破りつつそこに生じた新しい規則
に自己を合致させて行くというふうに無限の自由別犬態に入り込むのである。
すなわち我々の心的能力の方向は論理的客観的認識の場合と反対の方向、すな わち概念的多様性に向けて動きだすのである。この状態をカントは心的状態の 合目的的発動、すなわち遊動(Spiel)と呼び、悟性と構想力をこの遊動の主 体とした。またこのよう射犬態を生起せしめる権能としての精神をカントは「美 的理念の表出の能力」と規定している。
このような美的経験において重要な役割を果たす構想力はカントの体系のな かでなかなか厄介な意味を持たされているので、12)次章でもうすこしくわしく 構想力とは何か、それは悟性とどのような関係にあるのか、そしてこの「美的 理念」とは何なのか、といった問題を取り扱うことにしよう。
Ⅲ
精神が我々の心的能力を自由で自給自足的な遊動へもたらすときそのきっか けとなる表象として考えられるのが美的理念(云sthetische Idee)13)である。
これは本来「単な・る観想的(bloB kontemplativ)な」14)ものであった美的判断 に論理的判断と同等の地位を保証する道を開く反省的な契機として導入される。
さて美学的意味での精神とは心的主体を活性化させる源(Prinzip)であった。
ここで主張しておきたいのだが、この始原(Prinzip)とは美的理念の表出 の能力(das Vermogen der Darstellung云sthetischer Ideen以外の 何物でもないのである。美的理念という概念のもとで理解されるのは多く
のことを考えるきっかけを与える構想力の表象である。15'
「多くのことを考えるきっかけを与える構想力の表象」としての美的理念と はまさに生気発動の原動力(belebendes Prinzip)としての精神の所産であ
る。本来カントにおいて理念とは純粋理性概念であり、その審級は(狭い意味 での)理性であった。これには経験の領野で対応する感覚的対象がない。だが 美的理念としてのこのような表象は、その感性的性格にもかかわらず、以下の 理由で理念と呼ばれるのにふさわしい、とカントは主張する。
まずそれは経験の境域を越えて存在する何かを少なくとも希求し、理性概 念(知的理念)の表出に近ずこうとするからである。このことによって理
一直観と反省‑カントにおける文学の読まれ方121
性概念に客観的実在性の外観が与えられるのである。第二に、これは重要 な点なのだが、このような表象には完全に適合する概念は存在しない、と いうことである。16)
概念的記述を拒むものを感覚化するversinnlichen)こと、例えば空想の産 物、宗教的表象あるいは目に見えない様々を感情に形を与えること、ここに天 才の構想力が芸術の才能として活躍する場があるのである。そのようなものど しての表象(美的理念)の実現が芸術家の課題なのである。天才を規定する精 神とはこの意味で「構想力の才能(Talent der Einbildungskraft)」と呼ばれ る。さてこのような創造力に関係する想像力としての構想力をカントはどのよ うな道筋で考えたのだろうか。この間題はおそらく美の受容的能力と産出的能 力の類推から考えるのが近道だろう。17)
美と美を認める能力である美的判断力は主観的趣味判断としてたしかに対象の 論理的概念的普遍性を産出するものではないが、美的共通感覚sensus communis aestheticus)として一種の普遍性と伝達可能性を要求する。すなわち美的判断 において「美しいものは誰が見ても美しい」ということを我々は前提にしてい
る。この普遍妥当性の要求をなす権利は我々の美的判断が我々の誰にでも属し ているアプリオリな表象能力に関係していることから付与される。すなわち美 的判断は個別的判断であり客観的対象の認識を要求するものではないのにもか かわらず、直観が与えられている場合にこの判断は悟性概念や理性概念と結び 付き(前者においては美、後者においては崇高となるがここでは崇高の分析請
には入り込まない18k 「目的なき合目的性(Zweckm甜igkeit ohne Zweck)」
という固有の要請にのみ導かれてその表象において認識能力一般の自由を遊動 としての心的能力の調和状態を作り出すのである。
ここで構想力の役割に注目すべきである。純粋理性批判の規定に従えば、構 想力とは「アプリオリな総合の能力」19)であり、感官による知覚の多様なもの を悟性の形式に妥当な統一像へもたらし(Apprehension;、これを揺るぎない
「私の思惟」が純粋悟性概念、すなわちカテゴリーに従って統一し(統覚‑
Apperzeption,、客観的経験的認識の対象にするという仕組みになっている。
すなわち感性と悟性を媒介して表象をもたらす機能を有しているわけである。
ところがこのように論理的判断においては悟性概念のもとに包摂するために直 観の多様性を総合し統一的表象を作る構想力は、美的判断においては悟性が統 一的表象に対して付与すべき概念を持たないため、悟性の拘束から逃れて自由
にJf剖生と戯れることになる。美的対象に触れた人間の心的状態(Gemiitszustand) はひとつの認識一般(Erkenntnis iiberhaupt)へ向かう表象力(Vorstel・
lungskraft)の自由な遊動状態なのである。20)これを判断力の有り様の観点か ら言えば、規定的判断力が統覚的統一の支配において普遍のもとに特殊を包摂 するのに対して、反省的判断力(美的判断力)が、それ自身の独自な原理にし たがって、特殊から発して普遍を捜し出そうとする能力である、ということに なる。
莱(das Schone)の概念とは概念的な規定を持たないものである。我々の意 識に作られた表象は概念的対応物を悟性のなかにみつけることなく様々な自由 に連動する想念を発動する、すなわち遊戯的に活性化するのである。このよう な活性化する源としての美的理念を産出するのもやはり構想力である。美は受 け取られるものとその内的連関において同じようなメカニズムで産出されうる からである。それではこのような表象を生起させる天才(構想力の才能)はそ の素材をどこから得るのであろうか。
「人間学」における記述によれば、事物の現前なしに表象を得る能力として の構想力をカントはその働きにしたがって再生的構想力(reproduktive Ein・
bildungskraft)と産出的構想力(produktive Einbildungskraft)に分けてい る。前者は経験的なもので空間的延長と時間的継起のなかに散解する知覚を連 忠(Assoziation]によって意識に呼び戻し(exhibitio derivativa,結合する
ものであるのに対し、後者は経験に触発されることのない自発的(能動的)な表 出(Darstellung, exhibito originaria,の能力で、悟性が現象に対して自ら を適用する感覚的(空間一時間的)な図式(Schema)を作りだすものであり、
その意味で超越論的なものである。だが産出的(prduktiv‑dichtend)構想力 は「それでもまだ創造的構想力ではない。なぜなら我々の感覚能力に一度も与 えられていない感性的表象を作りだす(hervorbringen)能力を持つものでは ないからである。感性的表象の素材(StoH)はつねに立証することができる。」21)
さてここのところから美的理念の産出としての天才の能力を考察してみよう。
構想力の表象は心性(Gemiit)において生起する。心性は、それが現象に関係 するかぎり、自然的事物による触発(aHlzieren,を免れないが、産出的(創 作的‑dichtend)構想力は、触発されたものとしての像を悟性に妥当な形で定 立するにとどまらずに、そこから得た感性的契機としての素材を自由に変形し
「いわばもう一つの自然eine andere Natur)を作るほどに強力」22)なもの である。だがこのような創作と非芸術的な空想とをカントは分けて考えている。
直観と反省‑カントにおける文学の読まれ方123
空想(Phntasie)と呼ばれるものは「構想力が不随意に(unwillkiirlich)作り だした」23)ものであるのに対し、 「芸術家は物体的形象を(いわば手に取るよう にgleichsam handgreiflich)表出できるようになる前にこれを構想力におい て完成しておかかすればならない。」24'「構想力の独創性(模倣の産出ではなく) は、これが概念と一致するかぎりにおいて天才と呼ばれ、一致しない場合には 夢想(Scln蕗rmerei)と呼ばれる。」25)っまり天才において構想力のデモーニ
ッシュな力は趣味の統御によって悟性からの離反を免れることになる。
芸術の産物において天才と趣味のどちらが示されるか、どちらがより重要 であるか、という問題は、構想力と判断力のどちらが大切か、という問い と同じである。前者の観点に立つ芸術は機知に富(geistreich)むが、後 者の芸術だけが美しい芸術と呼ばれるのにふさわしい、ということから、
後者は少なくとも不可欠の条件(conditio sine qua non,として芸術を 美しい技(scheme Kunst)として判断する場合に着目すべきもっとも上位 の観点である。理念(着想‑Ideen)が豊富で独創的だ、ということは美の 目的のためにはそれほど不可欠なものではない。必要なのはむしろ構想力 の自由と悟性の合法則性との適合(Angemessenheit)である。構想力をい かに豊富に持っていてもそれが無法則な自由の状態にあっては産出される のは無意味(Urばかりであるからである。判断力があってはじめて 構想力を悟性に適合させることができるのである。26)
美的判断にアプリオリを根拠を与える趣味による制服を受けることによって 天才の精神は美の生成を許される。自然との秘密の連関に立っている趣味があ ってはじめて「芸術に規則を与える」天才が可能になる。天才とは結局のとこ ろ「それを通して自然が芸術に規則を与える」自然の媒介物であるかぎりにお いて自由と自然を架橋するのである。
さて天才における構想力の記述に手間取って少々へボ筋にはまりかけてきた が、再び当初の問題に、すなわち「文学が語るものとは何か」という問題に目 を向けてみよう。天才は上記のような理由から構想力と悟性の「幸福な関係に 成立するもの」27)である。概念的束縛を離れた構想力は理性理念(感覚に対応
しない概念)を感覚化しようとする。
ある概念の下に構想力の表象が置かれると、それはひとつの表出ではある
がそれ自身もひとつの概念に把握され得ないような多くのことを考えさせ、
その概念自身をも美的に無制限に拡張するのだが、このとき構想力は創造 的(schopferisch)であり、知性的理念の能力(理性)を動かして、ある 表象をきっかけとして(これもたしかに対象の概念に属しているが)表象 のうちに把握され明らかにされうる以上に多くのことを考えさせる28)
ここで考えさせられる「多くのもの」とは何か。それは「芸術が語るもの」
と同じなのか。そしてそれはどのように読み戟られるべきなのか。次章では芸 術の表現形態の分類(Gattungstheorie)から始めてカントにおける最上位の芸 術ジャンルである文学とその解釈の問題を取り扱うことによって、これらの問 題にもう少し具体的に迫ってみよう。
Ⅳ
カントのジャンル論は人間の発話行為(Sprechen)における表現方法との類 推で芸術を分類している。それにしたがえば芸術もまたカント特有の三分法で 分類されることになる。発話行為の表現(Ausdruck)とは言葉(Wort)、身振り
(Geb云rdung)、語調(Ton)の三者から成り立つもので、それぞれに分節(Artiku‑
lation)、模倣(Gestikulation)、抑揚(Modulation)を受け持ち、これらが話 者において結合することにおいて思想(Gedanke)、直感(Anschauung)、感 覚(Empfindung)が統合されて伝達される。これに類推して芸術もまたそれ ぞれ、言語芸術(redende Kiinste)、造形芸術(bildende Kiinste)、感覚の美 しい遊戯の芸術(Kunst des schonen Spiels der Empfindungen)の三種 類に分類されている。
だが芸術の表現とはそれを介しての主体の表現という意味ではない。すなわ ち芸術は何かの表現の手段ではない。芸術であること(Kunst‑Sein)そのもの が発話行為と対置されており、表現の各機能はそれぞれの芸術の有り様を規定
しているのである。すなわちある人が言語芸術によって思想を、造形芸術によ って直観を、感覚遊戯芸術(主に音楽)によって感覚(の刺激)を伝達すると いうことではない。そもそも芸術が伝えるものとは美的現象そのものが悟性に 妥当な形に再構成された客観的認識ではなく、美的経験において現象に触発さ れて判断の主体のうちに生み出される理念である。この理念はこれまでの考察 から理性理念(Vernunftidee)の対応概念(Pendant)としての美的理念であ
直観と反省‑カントにおける文学の読まれ方‑ 125
ることがわかった。この美的理念の産出の主体である構想力がもっとも自然の 連関から自由であるのは直観性からもっとも縁遠い言語の芸術、文学において
である。
美的理念の能力が十全に示されうるのはそもそも文学(Dichtkunst)にお いてである。29)
文学は(その起源をほぼ完全に天才に負うており、規則に、あるいは実例 に導かれることをもっとも望まないものであるため)すべての芸術におい て最高の地位を主張する。30)
構想力が様々を現れ(Erscheinungen)を材料とすることをくその能力を発 揮できる、ということは、文学では他の芸術ジャンルとは異なって感性的直観 の契機がその芸術性を成り立たせているのではない、ということである。その ような文学にすべての芸術のなかでもっとも上位の地位が与えられるのはカン ト哲学において感性的直観性自身に低い地位が与えられていることによるもの であろう。現象とは結局は非感性的な「もの自体」が「現れでる」という非本 質的な代補にすぎないのである。
だが美的な活動、すなわち美的遊動にあるときのそれ自身感性的ではない構 想力の能力に対するカントの評価は必ずしも高くはない。それは悟性概念に構 成された実在性に届かない単なる遊びの能力であり、判断力の統御を受けない かぎり精神病的空想へ至る厄介なものとされるのである。ここに芸術に内在す るデモーニッシュをものに対する理性の神官カントの根源的な恐れが見て取れ る。31)だが策略的悟性使用に対置される遊動において自然の固有の目的が現れ る天才の構想力がもっとも自由に担ぎたける領域であるのはやはり文学なので ある。
文学は構想力を解放し、ある概念の枠内で、これと調和する可能なかぎり の無制限の多様な形式のうちから、この概念の表出をどんな言語表現も十 全に対応できないような思念の充溢に結び付ける形式を提供し、このよう にして自らを理念へと高めることによって心性を拡大する。また文学は心 性にその自由で自律的な、自然の規定から独立した能力を感じさせること
によって心性を強化する32)
ここにおいて我々の心的能力(Gemutsvermogen)の拡大強化としての文学 の機能が呈示された。これを成就するのが構想力の自足的(autark)使用とし ての遊動と自律的な美的仮象の契機なのである。これは弁論術と文学の差異に おいて説明される。
雄弁(Beredsamkeit)は悟性の仕事を構想力の自由な遊動として行い、文 学は構想力の自由な遊動を悟性の仕事として行う。
雄弁家はひとつの仕事を行うと称してこれを、聴衆を楽しませるために、そ れがあたかも単に着想(Ideen)との遊戯であるかのように実行する。詩人 は単に着想との遊戯を行うと言いながら、その実まるで彼が悟性の仕事を 行う意図しか持っていなかったように多くのものが悟性のために出てくる のである。お互いに不可欠であるが強制と相互の抑制なしには統一できな い感性と悟性という二つの認識能力の結合と調和は無意図的で自動的に生 じるように見え(scheinen)なければならない。さもないとそれは芸術 (scheme Kunst)ではない。 (…)
雄弁家は約束していない何か、すなわち構想力の楽しい遊戯を与えるが、
約束した彼の本来の仕事、すなわち悟性を合目的的に働かせることを少し 削るのである。詩人はそれに対して着想との遊戯をする、という以外にほ
とんど約束をせずに、ひとつの仕事と言って良いようなことを成し遂げる。
すなわち悟性に遊びながら養分を与え悟性の概念に構想力をよって生命を 与えるのであるO基本的に前者は約束したよりも少なく、後者は多くを与
えるのである。33)
長々と引用したが、ここで問題となるのは弁論術が効果(Wirkung)の産出 という観点から芸術に課せられた制限、すなわち悟性使用の禁を破ることによ って結果的に自由な遊動による美的理念の産出に失敗する、ということである。
文学は自己自身の形式のみを対象にして形成されることによって理性理念の反 省に道を開くのである。このとき理性理念と美的理念の対照性は巧妙な弁証法 を構成する。理性理念はそれに対して直観が与えられない概念として悟性のレ ヴユルを越えるのに対して美的理念は概念なき直観、すなわち思考に妥当な形 で概念化され得ない無定形の直観として悟性のレヴェルの下にとどまる。だが 悟性概念に直接の関係点を持たない後者は様々な想念の遊動において超感性的 な前者に秘密の連関を持ち得るのである。そしてそれは道徳的理念との通底に
直観と反省‑カントにおける文学の読まれ方‑ 127
おいて現れる。ここでカントが導入した概念が「象徴(Symbol)」である。
象徴とは図式(Schema) ・との類推に立つ直観的表示(Hypotypose)の形式 である。
すべての直観的表示(Hypotypose)は感性化(Versinnlichung)として 二通りに分けられる。悟性が捉える概念に呼応する直観(korrespondie‑
rende Anschauung)がアプリオリに与えられる場合にそれは図式的(sche‑
matisch)であり、これに対して理性が考えることができるだけでどんな感 性的直観も妥当ではないような概念にそのような直観を想定するunter‑
1egen)場合、そしてこの直観と判断力の手続きが、判断力が図式化にお いて観察するものと単に類推的に一致する場合にこの表示は象徴的なので
ある。単に類推的とはすなわち、単にこの手続きの規則に従うだけで直観 そのものに従うのではなく、また反省の形式に従うだけでその内容には従 わ射)、ということである34)
図式化(Schematisierung)とは構想力の能力であり、これは概念的なもの でありつつ一方ではまた感性的射則面を持つ図式が感性と悟性とを結び付ける という意味であった。しかし美的経験において構想力は図式化において感性的 直観と結び付ける概念を見出せない、換言すれば結び付きによる固定化(Fest‑
legung)としての図式化を成就できない、という点で悟性認識とは異なった図 式化を行うのである。それは感性と悟性の関係一般についての、こう言って良 ければ図式化それ自身に関しての自己対象的反省として埋れる。これが認識能 力の自由を遊動状態ということになるのだろう。
このような構想力がある対象について行う図式化の規則を判断力が全く異な った対象に転用するときに前者が後者の象徴となる。カントの例では、ひきう すが絶対主義国家の象徴になるのだが、これと同様に直観に直接に対応しない 理性概念の象徴として美が考えられるのである。よく知られた「美とは人倫的 善の象徴である(das Schone ist das Symbol des Sittlich‑Guten.)」35)と
いう命題の妥当性は感性的快(享楽)に対する理性の自己統御としての権利問 堰(quid iurius,として考察される。
それだけが自律的な適意(selbst云ndiges Wohlgefallen)をもたらす遺 徳的理念と多かれ少なかれ結び付いていないかぎり芸術の究極の運命は後
老(芸術の享受において感性的快の享受が前面にたった場合、心性は理性 の判断によって反合目的性の意識を持たされ、自己自身に不満足になるこ と‑筆者)の道をたどる。36)
美的経験による自由な遊動としての心性の能力の拡大とは構想力を主体とし て概念の規則を様々に変奏することである。判断力はその変奏された概念の像 を瞬間性の顕現において象徴化することによって理性と美の秘密の連関が成立 する。このような美的経験の対象としての美とはカントの考えによれば自然美 である。37)
この心性の能力とは現象としての自然をそれが経験において感覚にも悟性 にも呈示しないような観点において考察し評価する能力であり、それによ って自然を超感性的なもの(das Ubersinnliche)の目的にしたがってい わばその図式(Schema)として用いる能力である。38)
「図式として用いる」というのはもちろんその規則に従うという意味で、図 式化するという意味ではない。自然美は超感性的なものの象徴となるのである。
芸術美は自然美の仮象であった。この観点からすれば結局は永遠に不完全な自 然美の写しということになる。だが同時にもっとも自然美に縁遠い文学に芸術 ジャンルの最高位が与えられているのはなぜか。ここにカントの迷いが見て取 れる。
文学においては前述したように構想力は様々な現れ(Erscheinungen)を材 料とすることなくその能力を発揮できる。すなわち現象性の契機がもっとも希薄 なジャンルである。カント哲学においては前述したように現象(‑現れErschei‑
nung)とは結局はその裏側にある非感性的な「もの自体」の代補にすぎないの だ。現象性を介在しないでその裏側を考察する可能性は残されているが、それ は知り得ないことであり、考えることだけが許されたことである。自然の規定 から逃れた「もうひとつの自然」を作り上げるものとして文学には「心性にそ の自由で自律的な、自然の規定から独立した能力を感じさせることによって心 性を強化する」39)能力が認められる。だがそれはあくまでも天才という自然と 通底する秘密の才能を前提とすることによって結局は自然美との連関に立たさ
れてしまうのである。
さて文学はカントの思考体系においてそのまま直観的表示としての象徴にな
直観と反省‑カントにおける文学の読まれ方‑ 129
りうるだろうか。文学をなりたたせているのは言語である。もし言語とはある 実体を標示する記号である、と規定した場合、差し示されたものはひとつの概 念である。これに構想力は(それが悟性概念である場合)直観を貸し与える。
だが指示表出(Signifikation)という介在を経て我々が得る表象を直観的と呼 ぶことができるだろうか。この意味でテオドール・マイヤーとともにアドルノ が芸術がその本質上持つとされる直観性の契機を文学において疑問視したのは 正当であった。
文学は感性的表象による成就(Erfiillung)を必要としない。文学は言語に おいて具体的なのであり、非感性的直観という撞着語法にふさわしく、言 語によって非感性的なものに(Unsinnliches)浸潤するのである。40)
文学は言語その物であることですでに具体的、というのは、言語的存在の自己 対象化としてのロマン主義以降の文学(西洋近代文学)の意識をそのまま言い 表している。カントはこの洞察には決して到達することはできなかったはずで ある。というのは彼にとっての言語とは表示記号の体系としての役割しかなく、
文学もまたその意味では記号が喚起する表象としての芸術的価値しか持たない からである。
「人間学」の「表示能力(facultas signatrix)」と題された節で、表示(Be‑
zeichnung, signatio,は記号表示(Signalieren)とされ記号的レフェランス 機能として規定されているが41)、これはカントによれば次のように分けられる。
事物の形態(直観)は、それが概念による表象の手段として役立つかぎり において象徴(Symboleであり、これによる認識は象徴的あるいは比喉 的(figiirlich, speciosa;と呼ばれる。標章(Charaktere)はまだ象徴で はない。なぜならこれは間接的な記号であるにすぎず、それ自身何も意味 することはなく、ただ結合(Beigesellung)42)によって直観へさらに直 観によって概念へと至るものである。これにより象徴的認識は直観的(in‑
tuitiv)認識にではなく論弁的(diskursiv)認識に対立させられなければ ならない。この論弁的認識において記号(Zeichen, character)は概念に それを時折再生産するための番人(custos)として付き添っているにすぎ ないのである。象徴的認識はすなわち直観的な(感性的直観による)認識 に対立されるのではなく知性的な(概念による)認識に対立させられるの
である。象徴とは単に悟性の手段にすぎない。だがそれは間接的に、すな わちある種の直観との類推によるものでしかない。この直観に悟性の概念 が適用されるのだが、それは概念にある対象の表出によって意味を与える ためにである43)
象徴的認識と論弁的認識の分離は言語の概念性を前提とする。カントによれ ば、ホメロスの豊能な表現も含めて未開文化の文学では概念性が発達していな いため象徴的表現が多用されるのであり、これはすなわち概念の欠如が詩的表 現の源であった、ということである。そのような文学はその生成においては概 念への指示連関を持たないため象徴とは呼べないのかも知れないが、祝祭の儀 式と道徳性に基づく宗教そのものとを分けて考えるように「しばらくの間は有 用であった外被を事象そのものから区別することが啓蒙である」44)ため我々は
これをやはり実践的理念の象徴として解釈しなくてはならないのである。
カントにとっては美は「人倫的善の象徴」である。これが「自分の理解を再 生産するために理解に表象を結合する能力」45)としての単なる標章(Charakter) である言語記号46)から成り立つ文学から期待されるとすれば、それは概念の表 象として呼び出された、すなわち再生された直観像を遺徳的善との関連に立つ 自然の直観との類推において反省することからであろう。47)求められるのは感 覚像の構築もしくは再構築としての描写の完全性ということになる。これによ って言語固有の美的生成力の強みは否定されざるを得ないのは明らかである。
カントは「判断力批判」において美的表現の例証としてフリードリソヒ大王 の詩の一節を解釈して見せているが、プロイセン領ケ‑ニッヒスベルク大学教 授としてのカントの立場がこの駄作を賞賛させざるを得ないという事実を割り
引いて考えても、文学作品の評価の方法としてはいささかおかしな観点から彼 はこの作品をはめているのである。カントの引用では行分けがないので形の上 からもとても詩とは認めにくいが、そのままこの詩節を紹介しよう:
LaBt uns aus dem Leben ohne Murren weichen und ohne etwas zu
bedauern, indem wir die Welt noch alsdann mit Wohltaten iiberh云uft
zuriicklassen. So verbreitet die Sonne, nachdem sie ihren Tages‑
lauf vollendet hat, noch ein mildes Licht am Himmel ; und die letzten Strahlen, die sie in die Liifte schickt,.sind ihre letzten Seufzer fur das Wohl der Welt.
直観と反省‑カントにおける文学の読まれ方131
(大意)善行を積み上げた世界を後に残して不平不満も悲しみもなくこの 浮き世からの別れを告げさせよ。太陽がその一日の航路を終えてなお優し い光を天空に広げるように。太陽が大気の中に遣わす最後の光線は世界の 幸福を願う太陽の最後の吐息なのだ48)
この詩を成り立たせているのは一対の比略である。人生のたそがれ(という のもこれ自身比略だが)に立っ大王が残り少ない人生と暮れゆく太陽、自分の 善政と自然の恵みの日の光とを同置し、啓蒙主義(‑光の思想pensee de lumiere)を標模する啓蒙専制君主としての自己確証化を図っただけの他愛も ない詩なのだが、これに対するカントの賞賛は次のようなものである。
このようにして彼は人生の最終幕においてもまだ仕界市民的な心意気をも っているという彼の理性理念にひとつの表徴(Attribut)によって生気を 与えるのである。この表徴は構想力が(晴れた夕方に我々の心に浮かぶあ る夏の一日のあらゆる快適さを想起させて)その表象に結び付けるもので、
表現が見出せないような数々の感情や共起する表象を活気付けるのである。
また逆に知性概念のほうも感性の表象の表徴として感性表象に超感性的な ものの理念で生気を与えることができるのである。49)
思想の光と自然の光が相互にメトニミ‑として機能するこの「詩」ではたし てカントが美的経験のメルクマールとして再三言及している「認識能力の活性 化と拡大」が生じるかどうかは別として、この詩の評価の基準とされているら しい観点を見てみると、カントにとっての詩的表現とは感性世界と理性世界と の相互指示関係であることがわかる。ここで重要な働きをするのはAttributと いう概念である。ここではひとまず表徴と訳出しておくが、 Attributという概 念はなかなかに守備範囲が広く、その使用方法においてカントはおそらく意識 的に語源的意味に遡っているのであろう。すなわちattributumとは元来ラテ
ン語の行政用語で「帰属するもの、割り当て分」などの意味であり、これがキ ケロによって修辞的な普遍化がほどこされ「ものの本質に属するもの」という 意味で用いられ、次第にこの意味が古典古代では優勢になったのである。属詞
・賓辞としての文法的・論理学的意味が加わったのはさらに後世になってから である。50)さて「本質に属する」ということにおいてその属し方は様々である。
鋭い牙がライオンに属するように実際に全体の部分を成すこともあれば、邪悪
がサタンの属性であるように内面的なものである場合もある。さらにあるもの (主体)とその属性の間の関係がかこがしかの類推的指示連関によって成り立 つ場合もある。それゆえドイツ語やフランス語の辞書には我々になじみの深い 属性という意味の他に現在も「象徴、しるし、記号」という意味が載っている
のである。カントがここで用いているのはこの意味に近い。
ある概念それ自身の表出ではなく単に構想力の副次的表象(Nebenvorstel‑
lungen,としてその概念と結び付いたさまざまな結果やこの概念と他の概 念との類似を表現する形式はその概念が理性理念として妥当な表示を受け
られないよう射寸象の(美的)表徴と呼ばれる51)
興味深いのはここでカントが挙げている例である。 「鈎爪に稲妻を掴んだユ ピテルの鷲は強大を天空の神の表徴」52)なのだ。ひきうすが絶対主義国家の
「象徴(Symbol)」であったのと同様の規定がここで再び適用される。感性的 表示が不可能な理性理念の代補として自己現前化とは異なった指示構造を持つ 主体としての表徴(象徴)である。そしてその指示行為(Verweisung)の行 き着く先は直観の裏付けを持たない、すなわち明示できない理念の反省といっ たようなものになるのである。
カントは言語使用においてこのような表徴(象徴)を用いることによって論 理的指示対応とは異なったレヴェルでの発話を措定し、美的理念の表出という 要請を担わせた。そしてこれを文学(‑詩芸術Dichtkunst)のメルクマールと するのである。次章ではこのような文学がどのように読まれるべきものか、と いう当論の当初の問題に暫定的な糸口を付けるとともに、カントの文学理解の 限界を呈示してまとめに代えたいと思う。
Ⅴ
我々は美的経験においてある種の感動を得る場合、それがたとえ芸術莱(人 工美‑das Kunstschone)におけるものであっても、そこに真理の何かしらの 関係を見出そうとする。これがいわゆる芸術の仮象性の最も基本的な本質を規 定している。カントの芸術美理解は根本においてこの芸術の1反象性に基づいた ものである。それは第一に自然のイ反象であり、さらに理性理念の象徴として真 理の仮象である。虚構と真理という対立は美的理念と理性理念の形式上の類推
直観と反省‑カントにおける文学の読まれ方‑ 133
における相互指示構造において宥和を見出す。
例えば文学においては、書かれた言葉とその精神という分け方がなされ、後 者の喚起する様々を表象において語り得る以上の事柄が読み聯られることをカ
ントは示唆している。
ひとことで言えば美的理念とはある概念に加えられた構想力の表象である。
この表象は多種多様な部分表象が自由に使われることにおいてそれらと結 び付いており、その結果この表象にはある定まった概念を表す表現が見出 されなくなり、これはひとつの概念に対して多くの名付け得ぬもの(Un‑
nennbares)を加えて考えさせることになり、この感情が認識能力に生気 を与え、単なる字句(Buchstabe)にすぎない言語と精神を結び付けるの である。53)
前章で表徴と象徴との理念的同質性を考察した我々はこのような文学の表現 形態を「象徴的」と呼んでも良いだろう。 「格言と反省」においてゲーテは自 己の象徴概念を展開しているが、ここで彼はおそらくこのカントの象徴概念に 導かれているのではないだろうか。
象徴作用(Symbolik)は現象を理念に、理念を像に変える。このようにし て像のうちにある理念はいつも無限に活動的で(wirksam)到達できぬも の(unerreichbar)であり続け、たとえ百万弁を費やしても決して語り尽 くせぬままにとどまるのである。
比幡(Allegorie)は現象を概念に、概念を像に変えるが、そこにおいて像 のうちにある概念はいつも限られたもの(begrenzt)ではあるが完全に保 持することができ、この像において語り尽くすことができるようになって
いる。54)
前者は詩的(poetisch)、後者は修辞的(rhetorisch)と言い換えても良いか も知れない。だが文学を成り立たせている言語を「単なる字句」とみなすカン トの言語記号に対するこの異常に低い評価ははたして我々には認められるもの であろうか。
カントのみならずたぶん無意識的には我々のうちの多くの芸術理解を規定し
ている。文学において読み取られるべきこととそこで語られていることそのも のとは同一ではない、というテーゼは基本的にはゲーテのようにふたっのレヴ ェルに分けて考えかすればならないだろう。
ひとつは効果産出のための修辞的操作としてテクストについてのものである。
この場合レクチュ‑ルの手続きはハビトゥス的をテクスト外連関の諸制限に規 定される。文字による指示関係はいくつかの層のレフェランスによって錯綜化 されはするが、結局は語り手の意図の十全な実現に向けて整理され得るもので ある。
もうひとつは、読み取られることは結局語られることによって実現される像 そのものでしかあり得ないような表現であり、この語られたものと同一の読み 取られたことに即して我々のうちに喚起される名付け得ぬものの思考を通して 我々の真理への反省が発動する、ということである。この後者がカントが芸術 美としての文学から求めるものであることは説明を要さないであろう。
だがそうすると言語的形象には極めて少ない役割を割り振られることにはな らないだろうか。言語芸術である以上文学は言語的形象を自足的遊動として対 象化せざるを得ないものである。しかも詩人は詩的表現の形成のみを意図して 詩作する、という認識は、自己目的的遊戯として利害関心から独立したものと
しての芸術、というカント自身の芸術観にも一致しているはずなのである。
文学は悪意的に作りだす仮象と戯れる(spielt mit dem Schein)が、そ のことによって編すことはない。というのは文学は自己の所差を単なる遊 戯と説明するからである。55)
現実への関与を自らに禁じるがゆえに文学・芸術は現実の諸制限から自由で あり、ここに自然の諸連関から自由な道徳との類推が見られる、という後にシ ラーによって実体化する美的仮象の自律性の発端がここにも見て取れる56)のだ が、問題はここではむしろ生成される仮象の正体である。カントの理解ではど
うやらそれは言語的固定化を受ける以前の像(Bild)のようなものであるらしい。
カントにとっての言語とはあくまでも二次的媒介物でいわば乗り物(Vehikel) でしかないのである。カントにおいて確信をもって認識されるものとは直観に よる裏付けを必要とするため、思念とそれを表す記号である言語との間には実 体的な対応関係がないのである。
今仕妃のいわゆる言語的転回(linguistic turn)以降の我々の言語観とこの
直観と反省‑カントにおける文学の読まれ方‑ 135
カントの素朴な言語理解との間の意識の溝は埋めがたいものがある。文学と修 辞とを分けるメルクマ一一ルとして美的仮象の自律性を挙げる見解に我々は同意 する。だがこの二分法は修辞がそこに基づいている記述される莫理性そのもの の概念に揺らぎが生じないかぎりにおいて妥当なのである。フィクションとし て産出される仮象はあくまでも言語的仮象である。すなわち言語構造による被 規定性を引きずっているというそのあり様自体においてそれ自身仮象的な真理 の仮象となるはずなのである。このような人間存在の限定性に起因する仮象の 普遍性を強調するためにわざわざ人間があずかり得る真理の比喉的性格を暴い たニーチェ57)を持ち出すまでもあるまい。
言語は比略であり、文学は仮象であるとしたら、我々が真理との連関におい て読み取れるものは一体何であろうかo我々にとって読まれるものはひとまず テクストそのものであって、それ以上でもそれ以下でもない。テクストの成り 立ちは反復(Wiederholung)と二重化(Verdopplung)による言語的自己生成 に多くを負っている58)
。このメカニズムとの遊戯のほうがむしろ直観像の類推に
よる連なりという形での詩作品制作よりも言語芸術家としての詩人の意識を規 定しているはずである。
たとえばカントと同時代人のヘルダーはヘブライの詩篇の分析を通してこの 反省に到達していた。彼によれば文学(Pcの本質とはハラレリズムであ
る。変容をともなった言語的二重化こそが文学の源なのである。そしてこの言 語性こそがとりもなおさず人間の文化の在り様を規定しているのである。59)ど がここではヘルダーとドイツロマン主義の思想の中心をなす言語的反省の歴史 を事象と意識の間に言語的契機を介在させないカント的な哲学との関係におい て詳述する余地はない。結論を急ごう。カントにおいては象徴であろうと表徴 であろうと、その機能を遂行するのはその代補的直観性であり、言語的特性に あるのではないのである。だが芸術とは仮象であり、文学とは言語的仮象であ るとしたならば、そして芸術作品としての文学がもし何らかの形で真理と関係 してゆくものとしたならば、その語るものとは、人間を人間ならしめている言 語の可能性の極北に開示されるものではないだろうか。すなわち現実の様々な 諸制約のなかに取り込まれ、去勢され、無力化した言語の潜勢力を虚構の空間 のなかに解き放ち、我々の意識のなかで衰弱した可能性を再び活性化させるこ とではないだろうか。
我々は例えばカフカのテクストを読んである種の奇異な感じを受ける。我々 を取り巻く、というか我々が住んでいる言語他界とは異質なものがそこにある
からだ.この異質性の中に投げ出され、一見揺るぎないように思われていた我 々の言語世界(‑認識)の構造が溶解していくような奇妙な感覚から逃れ出よ うとして我々は、様々な形で概念的同定化をほどこすことによって、それに「合 理的」解釈を付与しようとしがちである。だが、文学は我々の認識能力を拡大 する、とカントが述べたとの今日的意味とは、先に述べた世界の諸関係のあら ゆるところを統御する言語的諸制約に対して言語自身の内部に眠る潜勢力を揺 り動かす、ということではないだろうか。その意味で文学作品が語るものとは、
言語形成物としての自己の構造そのもの、つまりその内部の諸関係に即して、
その現実の他者という否定性において我々が読みほどくものではないだろうか。
虚構のテクストを読む、という遊戯(Spiel)とは同時に個別性に託された賭 汁(Spiel)なのである。
直観と反省‑カントにおける文学の読まれ方‑ 137
テクストについて
カントのテクストはヴァイシェーデル編の10巻本を用いた(Werke in 10 Bdn.,hrg.
v. W. Weischedel, Darn‑stadt, 1981これは同じ編者による6巻本のStudienausgabe の廉価版でペ‑ジも対応している。哲学業界ではアカデミー版やフォアレンダー版を用いる のが普通権威ある正しい引用の仕方とされているようだが、 Zeit der Reproduzierbarkeit
に生きる我々としては修ないアウラのために高額の出費という、第二の自然である資本主義 社会においては生存条件の縮少をも意味する犠牲を払う気にはなれないのである。しかも、
新しいものは古いものを土台にしているという意味でヴァイシューデル版は、他の権威ある テクスト間の相互の異同も載っていて、必ずしも劣悪な版ではない。安価で(10巻で89マル
ク)優れているという実に稀有な逸品なのである。
引用に際しては以下の略号を用いる。
「判断力批判」 Bd. 8 ‑KU
「純粋理性批判」 Bd. 3, 4 ‑ KrN
「人間学」 Bd. 10 ‑Anth.
註
1) Ador?O, Th. W., Åsthetische Theorie", Fr/M, 1970, S.68.
2) KU 287.
3)この問題については拙論Dialektik des asthetischen Scheins Zum Problem der Kunstautonomie",長崎大学教養部紀要人文科学篇、第26巻第1号を参照のこと。
4) KU 245‑248.
5) KU405.
6)ibid.
7) KU405f.
8) Szondi, P., ,,Das Naive ist das Sentimentalische Zur Begriffsdialektik in Schillers Abhandlung", In: Schriften fl, Fr/M, 1978, S. 78.
9) KU399.
なお自然美と芸術美(人工美)の関係については稿を改めた独自の考察が必要とされ るだろう。というのはこの関係についての判断力批判の記述はまだ錯綜している印象を 受けるからである。
これは芸術美の定義において同じ言葉でしばしばふたっのことが意味されているから である。それはKunstという言葉の二義性に基づいている。基本的にこの言葉は人工 乃至技術と解釈されるべきものだが、ときにschonという形容詞を伴わないでも「芸 術」の意味になることがあるからであるOここで基本的に押さえておかかすればならな