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伊藤秀一

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(1)

反転する理性

‑「啓蒙の弁証法」の理解のために

伊藤秀一

Umgestulpte Vernunft

‑Zur Propadeutik der "Dialektik der Aufklarung"

Shuichi ITO

Miss nur einmal deine Hohe als Wissender an deiner Tiefe als Konnender.

Nietzsche

「啓蒙の弁証法」1)は第二次世界大戦の終蔦が近づいてきた1940年代に構想さ れ、 1947年にアムステルダムの地下担版社によって世に出た、アドルノ/ホルク ハイマ‑の「最も暗黒な書物」2)である。暗黒と呼ばれるのはその文学的に濃密化 された散文の難解さだけによるものではない。通常ファシズム的非合理性に対置 され、近代の他の時代に対する優越性を保証する合理性とそれを発動してきた啓 蒙のプロセスそのものの中に非合理な野蛮への退行の源を捜ろうとする、請ば啓 蒙の自己解体性を読み解こうとする試みとして、この書物は暗黒なのである。

もしその有効性が疑われることのない合理性そのものの中に非合理に転ずる契 機が潜んでいるならば、日独伊の歴史的ファシズムの敗退後も、潜在化し編著化

したファシズムが存続し、それに浩抗すべき合理性原理による反作用ともども、

様々に中央集権化した言説として、また暴力として執劫に顕在化する筈である。

そしてこのことが単なる仮説ではなく現実であることが人々の意識にのぼった 最初の年、すなわち西洋的合理性が始めて本格的批判に曝された1968年の5月 革命を境に、この本は、学生運動そのものに対する著者の懐疑的態度にもかかわ

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らず、ドイツの進歩的学生達に絶大な支持を受けるようになったのである。

合理性の自己確証化プロセスが、本来の終着点であるモデルネを越え、ポスト モデルネへ至った現代においても、合理性の持つ矛盾は合理性の固有の論理によ って絃惑されることはあっても解決することはなく、むしろ問題は錯綜し深刻化 している筈である。それ故、この書物の問題提起は、我々にとっていささかもア クテユアリティを失っていない、と言えよう。

アドルノ/ホルク‑イマ〜の分析の出発点は、本来野蛮からの解放を約束して いた筈の啓蒙のプロセスにおいて「何故人類が真に人間的な状態に到達せずに新 しい野蛮の中へ零落したのか」 (1)という問いであった。この問いを批判的に考 察するためには、啓蒙そのものの弁証法的性格を精査し、反省する必要がある。

この目的のためにアドルノ/ホルク‑イマ‑は、啓蒙の反対概念である神話の中 に啓蒙の契機を見つけ出すことによって啓蒙が神話的非合理に反転する病根の地 下茎を捜ろうとした。

神話は未分化な暗黒力としての自然に人間的形象を付与されて伝承されてきた ものであるが、この形象付与という手続きの中に哲蒙の土台である同定化(Iden‑

tifizierung)の契機が見られるのである。

人間はその原始的段階において自然の暴力に無防備に曝されていたが、これに 対して何らかの方法で自己保存(Selbsterhaltung)をはかる必要があった。これ はまず呪術的自然支配の形態で現われる。シャーマンは自然力の背後にマナと呼 ばれる超自然的存在を想定し、それに交流して影響を行使しようとする。この時、

未知なる混沌であった自然の上位に何か語りかけ得る存在が想定され、この名に おいて呼ばれることによって自然における概念と事象の分離の最初の萌芽が見ら れるのである。つまり把握不可能な事象を一般性を意味する名称によって説明可 能なものに変える。すなわち特殊を普遍の下に包括する概念的同定化への一歩が ここに標されるのである。 「もし木が単なる木ではなく、何か他のものの証とし て、マナの座として呼びかけられる時、言語は、何かがそれ自身でありつつ同時 に他の何かであり、同一にして非同一である、という矛盾を表現する。神々の名 によって言語は同語反復から脱して言語になるのである。」 (17)

原始宗教においては、しかし概念化としての普遍性の措定はまだ完成されては いない。呪術者の呼びかけは具体的な自然力の体現化である多様なデーモンに対 してであり、呪術者自身が多様な仮面を使い分けることによってそれに同化し、

ミメ‑シス的交流を行うからであるOこれが父権的ヒエラルキーを持つオリュン ボス神話になると、 「神々は自然力(Elemente)ともはや直接に同一ではない。

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神々はそれらを意味する(bedeuten)だけである。」 (ll)人格神の登場によって 概念的同定化が進み、神々のヒエラルキーは概念体系の内部での秩序を確立させ、

人間の自然支配に都合の良い自然が再構成される。何故なら、人間が直面するの は今や捉えどころのない未分化な自然ではなく、読み解かれるべき意咲(Bedeu‑

tung)なのだから。 「言語的に発展し、その真理性要求が古い信仰である民族宗 教を押しのける全体性(Totalitat)であるこの太陽神中心の父権的神話は、それ

自身哲学的啓蒙と同レヴェルに立つ啓蒙である。」 (14)ここから近代の科学的概 念化まではあと一歩である。

この一歩を進むために不可欠なのは、ゆるぎない自己としての主体の確立であ る。呪術者が自然の多様性に同化することによって自然を支配しようとするのに 対して、近代人は「不可入性の仮面」としての自己を確立し、その相関物として 単一性(Einheit)としての自然を措定し、これを前者の支配の基底(Substrat von Herrschaft)とする。単一性としての自然とは、数値に還元不可能な多様な 質を捨て去った、脱質化(entqualifizieren)された自然であり、即日的には無 意味な機能代捕物(Fungibilitat)の世界である。そこでは人間ですら兵力とか 人材とか呼ばれ、固有の質とその意味(Sinn)は抹殺される。市場は確かに消費 者の素姓を問わないが、素姓に付与された可能性は規格化された商品の前で無化 される。科学者は自分の前にある自然を同質の中性的概念単位である原子の集合 体に読み換え、整除される体系としておいて、そこに操作の主体として、客体か ら距離をとった専制者として君臨する。 「啓蒙と事物との関係は、専制君主と人 民との関係である。君主は操作できるかぎりにおいて人民を知り、科学者はつく れるかぎりにおいて事物を知る。」 (12)それ以外の「整除でき得ぬもの(das Inkommensurable)は排除される。」 (15)

しかしこのような科学的思考を支えている概念的同定化、すなわち個別的なも のの総体を代表する普遍的概念の措定とその下への特殊の包括、特殊の変異の排 除は、自然の暗黒力に恐怖した未開人のマナへの叫びと同根のものである。 「神 話がすでに啓蒙を成就していた以上、啓蒙はその進歩につれて一歩づっ神話の中 に捉え込まれて行く。神話を破壊するためのすべての手立てを神話から得ている 啓蒙は裁かれるべき神話の呪縛の中に陥るのである。」 (14)

神話も科学も人間の自己保存の原動力に担われた専断的捨象による言語的同定 化、すなわち概念化において通底している。これによって作られる主体中心主義 的自然観は恐怖からの逃亡の産物であり、 「啓蒙は徹底化した神話的恐怖なので ある。」 (18)

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このような恐怖からのひとまずの逃避を保証するのが、未分化な外力を無視し た内在(Immanenz)としての構成世界であり、そこでは、本質的に同一性原理 による包括を受け入れない根源的で非同一なもの(das Urspr也ngliche, Nichtiden‑

tische)は排除される。これが「真理に直面する恐怖に立ちすくむ啓蒙」 (3)の 本質である。そしてこの逃避的盲目としてのひとまずの合理性の非合理的性格と 抑圧された非同一なものの矛盾が憤出する時が、啓蒙の野蛮への転回点なのであ る。

アドルノ/ホルクハイマ‑はこのような非同一のものの排除による自然の客体 化とそれを支配するゆるぎない自己(Selbst)の形成を犠牲(Opfer)の概念で 説明する。

犠牲とはそもそも集団の自己保存を目的とした魔術的影響力行使のために集団 の一部を神話的根源力に譲渡することである。犠牲として屠られる者は、選ばれ た者として、その死において神話的根源力との実体交流を可能にする、と考えら れるが、同時に集団から神に譲渡されることによって神話的暴力と何らかの折り 合いをつける、すなわち交換の対象でもある。 「交換の世界では多くを与えた方 が負け」 (69)であるため、ここには神に対する欺瑞の契機も含まれるOそして 前者は切り離された根源力との実体的交流の再生を願う過去憧憤、後者は根源力 の呪縛からの解放としての未来志向という二つの相反する契機として犠牲の弁証 法的性格3)を規定している。

この犠牲の弁証法を体現したモデルとして、アドルノ/ホルクハイマ‑はオデ ュッセウスの漂泊の物語を解釈する。

故郷イタカへの航海の途上でオデュッセウスは様々な神話的形象に遭遇するが、

巧みな策略によってこれらを克服する.この遭遇と交渉は同化的自己譲渡と欺輔 的交換としての犠牲を体現しており、犠牲によって犠牲を免れるこの克服の過程 でオデュッセウスの自己は主体として強化され、太古の神話的根源からの離反は 決定的になる。このような近代的ヨーロッパ人の原像の生成のアレゴリーとして のオデュッセイアを貫くモティーフである犠牲において、交換物として本当に 犠牲に供されてしまったもの、つまり近代人の自己形成によって失われてしまっ たものをアドルノ/ホルク‑イマーは解明しようとする。

オデュッセウスに遭遇する神話的形象に共通するのは、それが太古の未分化な ものの中へ確立されつつある自己を溶解してしまおうとする誘惑乃至暴力である、

ということである。ロトファゴス(食蓮人)の蓮もセイレーンの歌も亡我自失状 磨‑の誘惑であり、キルケの魔法は人間を文字通り自然の状態、すなわち動物に

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変える。ポリュフェモスの住む国は「豊蝕が法則を不必要なものにする」 (60) 無秩序で野蛮な世界であり、食入はそこへの同化吸収を意味する。このような太 古の無意識状態への回帰は、或る意味では豊飯の中への埋没という意味で幸福で もあるのだが、その幸福は不幸の意識の欠除による、請ば動物の幸福である以上、

啓蒙主義者オデュッセウスはこれを拒否しなければならない。

神話世界の住人達は、自然の暗黒力が原始人達にとってそうであったように、

オデュッセウスに対して物理力での優勢を誘る。これに対してオデュッセウスが 取る態度は諦念(Entsagung)である。 「自らを犠牲に供することによって犠牲か らのがれる」 (51)この態度は犠牲の内向化(Introversion des Opfers)と呼ば れ、自然支配の主体である自己を確立した近代人の自己分裂を発動する契機とな るのであるが、このことは後述するとして、まずオデュッセウスにおける策略 (List)と諦念の二つの犠牲の契機の関係について説明しておかなければならな い。

前述したように、犠牲には根源力‑の回帰願望による自己譲渡と根源力からの 解放のための交換、すなわち身代わりによる神の欺輔という二つの契機が混在し ているが、オデュッセウスは両者を綜合したものとして「犠牲と司祭の役割を同 時に果たす」 (48)のである。彼は神話的形象に象徴される自然力に対する自分 の無力を自覚しており、諦念した者としてその要求をひとまず文字通り受け入れ る。そしてこの自己譲渡による同化によって把みどころのない未分化の力の単一 性を捉え、これを固定化し、その隙間を見つけてそこを策略の手掛かりにするの である。 「オデュッセウスはセイレーンの島を避けて違う航路を取ろうとはしな い。 (中略)しかし彼は契約の隙間を捜し出し、それによって、まさに契約が成 就する瞬間にそこからのがれ出るのである。」 (55)

このようなものとしての諦念的同化は、それ自身ミメ‑シスの契機を含むもの であるが、物活論的無定形としての生きた自然に対するそれではなく、 「死んだ ものへのミメ‑シス」であり、概念的同定化への途上にあるものである。 「オデ ュッセウスの策略のシェ‑マはそのような同化による自然支配である。」 (53)し かし、この自然支配のために策略を用いるオデュッセウスは「外部の暴力ととも に自分自身をも脱魔術化することでやっと手中にした夢を犠牲にすることによっ てのみ生きのびることができるのである。彼は決して全部を手に入れることはで きない。彼はいっも待つことができなければいけないし、忍耐を持たなければな らない。彼は諦めなければならないのである。」 (54)外部と自己自身を脱魔術 化して手に入れた夢とは本当の解放(Emanzipation)であり、宥和であろう。

(6)

犠牲として神に捧げられる者には神との実体的交流が約束されるが、この交流は 虚偽であり、虚偽の永遠のために現実の生を奪われるが、これと同じ欺瑞性を「未 来のために瞬間を犠牲にすることによって存続する自我」 (48)は共有している のである。

神話的根源力‑の自己譲渡とそこからの帰還のプロセスで現実に犠牲に供され てしまうのは自己の内部にあった自然なのである。忍耐と断念は自己保存のため の不可欠な代価であるが、それはフロイトの言う欲動放棄(Triebverzicht)とし て、自己自身の中での主体としてのエゴと疎外された自然としてのエスの分裂を 引き起こす。この自己分裂が「犠牲の内向化」の結果なのである。人間は犠牲に おいて神話的暴力を欺くのだが、この「犠牲の克服の中に起因する、同一性を固 守する自己は、そのまま再び厳然とした犠牲の儀式であり、これを人間は、自然 連関の対極に自分の意識を置くことによって、自分自身に対して挙行するのであ

る。」 (50f.)つまり、自己保存のために外部に向けられた抑圧は、その外部が自 然連関として内部に通底しているために、必然的に内部‑投射せざるを得なくな

ったのである。

「人間の自己支配は、自己を確立させる前提であるが、潜在的には常に自らが 奉仕する筈の主体の破壊につながる。何故なら、支配され、抑圧され、自己保存 によって解体された実体とは、その機能としてのみ自己保存の働きが規定され得 るべき生あるもの(das Lebendige)、つまり本来まさに保存されるべきそのもの 以外の何ものでもないからである。」 (51)自己保存という大前提のために、それ 自体が何か他のものの手段でしかない目的を設定し続け、常に欲望を押さえ、他 者支配と自己支配に遠進する近代人の理性は、道具的理性(instrumentelle Ver‑

nunft)として固有の生の目的(Telos)を失い、手段の永遠の連鎖が人間性を圧 殺してしまう、という構図が出現する。道具的理性を主体とする機械論的世界の 構成は、それ自身、より悪しき自然への類落なのである。

「犠牲を廃止するための犠牲」 (52)であった筈のオデュッセウスが得たもの は自由のための不自由であった。太古の自然連関との一体性の幸福を約束するセ イレーンの歌の究極の美も、キルケが差し出した究極のエロス的快楽も、オデュ ッセウスは十全に受け取ることはせず、その本質的な危険性を無化した形でだけ、

請ば表層においてのみ享受できるのである。男性支配は常に欲動放棄を代価とし て成り立つものであり、愛は本質的に自己抑勢を不可能にする没入であるため禁 忌されなければならない。これが市民社会の不感症的性格を規定しているのである。

さらに、ポリュフェモスの報復を回避するために自分の名前をウディス、つま

(7)

り誰でもない者と呼ぶことによって、オデュッセウスは、かけがえのないもので ある筈の自己同一性まで放棄してしまう。名称と事象の帝離は、一方ではそこに 策略が発動する余地を残す形式主義的同定化として啓蒙の重要な契機であるが、

それが自己自身において生起する時、必然的に物象化の射程の中に自己自身も捉 え込まれることを意味し、自己疎外(Selbstentfremdung)への一歩が踏み出さ れるのである。

以上一覧してきたように、アドルノ/ホルク‑イマーは啓蒙における解放と物 象化の弁証法的アポリアを、啓蒙概念についての内在的理論考察による開陳とオ デュッセイア解釈による具体的分析によって明らかにした。このアポリアが現前 化する倫理と文化の両領域については、それぞれサドと文化産業についての付論 で論じられている。これらは、本来それぞれの固有の領域に関するアドルノ/ホ ルク‑イマーの他の、特に後期の著作に関連させて、それぞれ個別的に詳説され なければいけないので、ここではそれぞれの批判のエッセンスだけを祖述するに 留める。

まず人倫の問題についてだが、啓蒙的理性が道具的理性に頼落した時に現出す る現象として、相互行為の契機を欠いた、物象化された主客関係としての性行為 であるサディズムが考察される。そして、サドの性的退廃の理論的源泉として、

おそらく最もふさわしくなさそうなカントが考えられるのである。

カントの啓蒙概念、すなわち他者の指導なしに悟性を使用することにより自己 責任的未成熟からの脱出をはかる、というあの有名な定義4)から出発して、アド ルノ/ホルクノ、イマ‑は、 「他者の指導なしの悟性」が理性を主体とすること、

そしてこの固有の首尾一貫性としての悟性使用がヒエラルキー的秩序を持っ概念 体系を志向することを明らかにした。この体系に統一性を確立するのが科学に課 せられた責務であるが、この科学にはしかし内容的目標の契機が欠除している、

と彼等は言う。 「理性は計算と計画の器官であり、目標に対しては中立である。」

し80)ただ、この体系は自然の事実的所与と髄酷をきたしてはならず、 「事実 (Tatsachen)を最もよく操作でき、主体の自然支配に最も効果的に援助できる 認識形態」 (75f.)でなければならない。この意味で、悟性の体系化‑の意志を 刻印するのは主体の自己保存の契機である。

啓蒙を発動する理性は、普遍的主体としての人間を指定することによって自由 な共生としてのユートピアの理念を含んでいるが、またその反面、無機的調整原 理として脱意味化し、道具的理性に転じてしまう、という啓蒙の弁証法が再びカ ントにおいて展開される。カントは確かに「判断力批判」で、理論悟性と実践理

(8)

性を架橋する反省的判断力の構想において、機械論的に頼落する世界の目的論的 救済の可能性を見出そうとしているが、そこでも、人倫的なものの発動の根拠は 論理的証明を超越した自然の主観的合目的性に帰され、この人問を人間たらしめ ている暗黙の了解が消失した時、善悪の垣根は崩れ去る。

「しかし倫理的諸力は、カントに従えば、科学的理性を前にしては、反倫理的 諸力に負けず劣らず中立的な欲動と態度なので、もしあの秘められた可能性の代 わりに権力(Macht)との宥和に向けられれば、すぐに反倫理的諸力に転じてし

まうものである。」 (78)

ニーチェより約百年早く、理性の中に権力原則(Machtprinzip)を見出したの は、理性の徹底化によって理性を解体したマルキ・ド・サドである。 「カントの 道徳哲学が理性の可能性を救うために自分の啓蒙主義的批判を制限した」 (85) のに対し、 「サドの作品はニーチェのそれと同様、実践理性の非妥協的批判を形 成している。」 (85)

ジュリエットにとって身体機能はすべて性的快楽という単一の価値に向けられ た道具として物象化されるが、大切なのは産出される目的としての快楽そのもの ではなく、組織化された運行(Betrieb)なのであるOつまり、脱意味化を施され た目的と手段の連鎖として自己組織化された体系としての学問をジュリエットの セックスティームは体現している。 「ジュリエットは科学を信条(Credo)として いる。」 (87)

サドのオージーのセックスピラミッド‑男女が幾重にも結合している‑は、

内容的目標を失った自己生成組織である点で、カントの体系の精密な構造と同根 である。この無目的的自己目的運動は後期資本主義の巨大産業を支える道具的理 性を主体としている。 「活動性(Betriebsamkeit)とそれに奉仕する諸制度だけ が、つまり自立した媒介、装置、組織等の体系的なものだけが、認識においても 実践においても理性的であるとみなされる権利を有する。」 (83)カントの言う

「他者の指導なしの悟性使用」の主体は、世界の有意味的統一性の核であった宗 教的なものから解放された理性であった。この理性が「目的を持たない合目的性 (zwecklose Zweckmafiigkeit)になり、それ故にどんな目的に合わせてでも引き 伸ばせる」 (80f.)ことをサドは証明したのである。中立的で即日的には無意味 な理性が、自然の暴力的体系としての権力原理に順応した時に、啓蒙は野蛮に退 行するのである。

しかし人間には、カントがその普遍性に、シラーがその陶冶的機能に注目した 美的領域があり、これが数値的に脱意味化した体系としての理論的認識の世界に

(9)

対して調停的役割を果たし、実践の野蛮化を阻止する契機になる、という共通了 解が我々にはある。だが、アドルノ/ホルク‑イマ‑は二番目の付説「文化産業」

において、このオプティミズムの無効性を証明しようとする。

「文化産業」 (Kulturindustrie)とは二人の造語で、大衆文化(Massenkultur) という言葉の持つ、大衆から自発的に発生した文化、という誤ったコノティショ ンを回避するために用いられる。

本来芸術は、自然の根源力から解放されると同時に追放された人間の郷愁とし て、理論的認識では把握できない固有の質を客体化しようとする、人間の理性の 反省的営為であり、その限りにおいて真理の契機を持つものである。しかしこの 裏理性は仮象の弁証法の中にのみ保持されるのである。5)何故なら芸術は、概念が 捉えることのできない真理を仮象として感性的直観の前に提示することによって 真理であると同時に、その仮象性において虚偽なのであるから。この弁証法を虚 偽の模倣連鎖による連続的再生産によって無化し、大衆性という虚構を反復によ

って実体化するのが文化産業なのである。

アドルノ/ホルク‑イマ‑の分析は、 「美的形成物であると同時に形象化され た真理である、という文化産業の制作物にも客観的に内在している要請に依拠し、

この要請の不成就を示すことで社会の奇形性を証明する」6) (6)試みである。そ のありようが美的なものでありながら美的なものの本質を規定する契機を欠いた 文化産業は、その本質において反復であり金太郎アメである。受容の地平は大衆 という無内容化された集団を措定することによって規格化される。構想力(Ein‑

bildungskraft)はこのような平均化によって改変力を失い、内在的に自己組織化 する目的合理性が文化の領域を支配することになるのである。つまり、美的な領 域においても脱意味化と権力原理への順応が生じ、野蛮への退行への批判として 機能しなくなるどころか、文化産業の矛盾的性格は美的な仮面の欺鴎削こよって、

旺惑構造(Verblendungsstruktur)として退行を助長することになるのである。

以上祖述してきたアドルノ/ホルク‑イマ‑の啓蒙批判に共通するのは、自然 からの理性による解放のプロセスにおいて人間の自己保存が理性を道具的理性と してのみ用いるため理性から本来の解放的契機が失われ、人間が新しい不自由、

新しい野蛮の中に零落して行く、ということであった。これに対してハーバーマ スは、不具になった理性を救えるのもやはり理性である、との立場から、批判自 身の妥当性を保証している理性自体に向けられた批判という「批判の全体化と独 立」 (Totalisierung und Verselbstandigung der Kritik)を批判する。 ‑ ‑バー

マスによれば、 「文化モデルネの固有の尊厳は、マックス・ウェーバーが価値領

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域の固有論理的分化(eigensinnige Ausdifferenzierung)と呼んだものの中にあ る。」7)

工学的価値産出を越えて進歩する科学と科学が固有の論理で遂行する自己反省、

立憲国家の諸制度や民主主義的意志形成プロセスの中に見られる法と道徳の普遍 性、アヴァンギャルド芸術に体現される脱中心化した主体の美的経験、これらは すべて、 ‑‑バーマスによれば、理性の道具的理性への全面的転回というアドル ノ/ホルク‑イマ‑の構図では捉えられない現象である。 ‑‑バーマスはさらに、

啓蒙批判を啓蒙自身の方法、すなわち理性自身の反省能力でおこなうという方法 論的矛盾も指摘する。しかし同時に、西欧における革命の挫折、ソビエトロシア でのスターリニズムの展開、ドイツでのナチズムの勝利等に対する政治的失望を 反省的に考察しようとするアドルノ/ホルク‑イマ‑において「第二次世界大戦 の最も暗黒な時代の中で理性の最後の火花がこの現実から消失した、という印象 がついに確信にまで至った経過は、これらの背景からよく理解できる」8)と言っ て、理論の成立史的条件を理論形成の下地にすることで宥和的解決をはかってい

る。

だが本当にアドルノ/ホルクハイマ‑の理論は理性の直具的理性への退行によ る啓蒙の内在的自己解体プロセスとしてのみ読まれるべきものなのであろうか。

特に、 ‑‑バーマスが美的な領域において持ち出した脱中心化した美的経験を、

アドルノ/ホルクハイマ‑は文化産業による美的領域の独占的支配という説明で 否定しているのだろうか。むしろ後の「否定の弁証法」、さらには「美学理論」

で展開される仮象的ミメ‑シスの弁証法的反省力に理性の道具化に対する最も有 効な契機が認められる、という理念の萌芽が、すでに「啓蒙の弁証法」の中から

も読み取られるべきではないだろうか。

オデュッセウスがセイレーンの歌の魔力から脱出した時、過去は未来の犠牲に なって現在から押しのけられ、過去のもつ生は神話的陰画世界に変容した。セイ

レーンの歌は太古の幸福を想起させるものであったのに、分業としての他者犠牲

‑部下の耳を塞いで労働に集中させること‑と抑圧的自己犠牲‑自分をマ ストに縛りつけさせて不可逆的没入を回避すること‑によってその根源力の本 質は無化されてしまった。これによって「彼女達の誘惑は単なる観照(Kontem‑

plation)の対象として中性化される、すなわわち芸術になってしまう。」 (34)こ の文脈での「芸術」の意味は、確かに現実からの隔絶性と実践における無力とい う刻印を持つが、しかし芸術とはまさにこの隔絶性によって自律性を保持できる ものでもある。

(11)

この自律領域は、概念的思考が同定化できずに排除するものを救済し、それに よって合理化からはみ出したものをも綜合したものとしての真理を、惨くはある がしかし消失しないもの、つまり「仮象なきものの仮象」として持っている。 「過 去のものを進歩の原料として利用せずに生きたものとして救済しようとする衝動

は、歴史自身をも過去の生の表出として自らの内に含む芸術においてのみ満たさ れるものかも知れない」 (33)と、断定を避ける接続法を用いながら、アドルノ /ホルクハイマ‑は、道具的理性に支配される実践の他者としての芸術の固有性 に、すなわち後にミメーシスと名付けられるあの契機に、望みを託しているので ある。勿論それは、 「語調」 (Harmonie)とか形式と内容の一致(Einheit von Form und Inhalt)といったおめでたい古典主義的要請を満たすものとしてでは なく、 「不一致(Diskrepanz)が現出する様相、同一性へ向けられた情熱的努力 の必然的破綻」 (117)の中に成起する芸術として考えられており、これが後に

「進歩した芸術」 (avancierte Kunst)の理念としてより精密な論究を受けるこ とになるのである。

珪

1)使用テクストはAdorno, Th. W./Horkheimer, M. : Dialektik der Aufkldrung, Frankfurt a. M. (Fischer Taschenbuch Verlag), 1971.本文中の引用について は( )の中にページ数を壊す。

2) Habermas, J. : Der philosophische Diskurs der Moderne, Frankfurt a. M.

Frankfurt a. M. (Suhrkamp), 1985. S. 130.

3)前掲書でハーバーマスは、人間と根源力の分離をentspringenという動詞の意味の 二重性で説明している。すなわち、逃亡と由来である。人間は本来自分もそこに帰属し ている自然から逃亡したが、同時にそれは根源力そのものからの生起でもあったのであ る(132ページ)

4) Vgl. Beantwortung der Frage: Was ist Aufklarung?, in : Werke in 10 Bdn., hrsg. v. W. Weischedel, Darmstadt, 1964, Bd. 9, S. 53‑61.

5)拙稿「仮象の救済‑アドルノの美学理論を中心に」 (r文化」、第48巻、第1回2号、

昭和59年9月̲、 122‑136ページ)を参照。

6)筆者は、本論文の初稿完成後に、徳永拘、池田英三両氏による「啓蒙の弁証法・序論」

の翻訳(r現代思想」、 1975年、 Vol. 3‑5, 122‑126ページ)を読む機会を得たが、そ こでこの箇所は次のように訳されていた。

「われわれの分析はあくまでも、客観的に制作品に内在する要求、つまり作品は本来 美的形象であり、それでもって形成される真理でなければならない、という要求を固守

(12)

する。われわれの分析は、この要求が社会的怪物に対してはいかに無効なものであるか を証明する。」

しかしこれでは文化産業の内在的虚偽性がよく表現されていないように思える。たと え文化産業の産物であっても、美的領域に属している以上、芸術がその存在様式上必然 的に持たざるを得ない真理性要求は「客観的」に持ち合わせているが、しかし同時にこ の要求の成就を保証する、現実に対する外異性、道具的理性からの自由、といった批判 的契横を欠除していることによって文化産業は二重に虚偽なのである。そしてこのよう

な文化産業が成立する社会がUnwesenなのである。下に該当箇所の原文を挙げておく。

(. ‥ ), so h丘It unsere Analyse sich an den objektiv den Produkten innewoh‑

nenden Anspruch,丘sthetische Gebilde und damit gestaltete Wahrheit zu sein.

Sie erweist das gesellschaftliche Unwesen an der Nichtigkeit jenes Anspruchs.

ただしここで長々と誤訳問題を持ち出したのは別に語学的啓蒙の意味からではない。

それどころか、その流麓な訳文はとても筆者の力量の及ぶところではない。ただ、芸術 の救済的ポテンシャルに対してのアドルノ/ホルク‑イマ‑の考えと翻訳者の間にズレ があるように思えたからである。

7) ‑ーバーマス、前掲書, 137ページ。

8) ibid., 141ペ‑ジ。

(昭和61年10月29日受理)

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