カウツキーの財政思想(三)
その他のタイトル A Note on Kautsky's Thought of Public Finance (3)
著者 広田 司朗
雑誌名 關西大學商學論集
巻 3
号 1
ページ 24‑48
発行年 1958‑04‑30
URL http://hdl.handle.net/10112/00021810
仁
)
︵ 三 ︶
前二稿を承けて︑本稿において述べられるぺき点は︑カウッキーの後期における国家独占と公偵に函する見解お
よび彼の財政思想全般についての総括的な検討である︒まず国家独占問題から始めよう︒
国家独占問題
すでに述べたような高額の租税賦課に伴う危険を回避するための手段は︑
独占についてカウッキーは︑いま述ぺたような意味でのいわば財政収入を目的とする国家独占すなわち専売としか
. .
ー
~'
らざる他の国家独占とを区別している︒
前者
は︑
カウッキーによれば︑たしかに徴税費を減少させ︑統制を容易にすることができる︒しかしながら他面
において︑この独占が採用されることによっては︑租税が存在する生産物拭から調達されるという事実が排除され
五
︑ 社 会 民 主 主 義 的 財 政 政 策
︵ そ の ニ ー 承 前
︶
カウッキーの財政思想
カウれキーの財政思想日︵広田︶
一般に国家独占に求められる︒この国家
広
田 ニ四
司
朗
二五
る訳でなく︑またこの国家独占の消費税的作用が廃棄される訳でもない︒すなわち煙草︑塩︑火酒等についての国
家独占は︑それらにたいする消費税と同様に︑主として労賃にかかり︑資本家の消費基金にはあまりかからない︒
カウ
ッキ
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いう
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② なしに、ただちにかかる成果(財政窮乏の解決—|'筆者注)を約束する独占案を、底は知らない」と。かくしてこ
の国家独占が間接税の形態をとるかぎり︑それは否定されなければならない︒
ついでカウッキーは︑これらの財政的独占とその性格を異にする国家独占を問題にする︒この種の国家独占は︑
資本主義経済の発展に伴って生起するもので︑資本主義的集中の過程の進行につれて独占形成の条件が生じた場合
に問題となる︒カウッキーの言うところによれば︑この場合には︑上述の国家独占とまったく異った問題が重要と
なる︒すなわちそれは︑﹁消費税か否かの問題でもなければ︑侶占かの問題である︒﹂ところでこの問題の決定は︑彼によれば︑
着手する場合の状態の如何にかかっている︒例えば︑底的独占の所有者が経済的に保証され︑しかも国家財政が窮 自由競争か否かの問題でもなく︑私的独占か国家独一定の国家の性格および国家が私的独占の国有化に
迫している場合には︑私的独占の国有化は消費者と労働者への圧迫を強大なものとするし︑またこの国家管理が大
衆から遊離すればするほど︑この圧迫はより一閣容易なものとなる︒かくてカウッキーは︑国有化の前提条件とし囚て︑デモクラッーとよき財政状態をあげている︒
ところでカウッキーは︑私的独占の国有化にあたって︑これを二つに区分している︒自然的独占と人為的独占が
それである︒いうところによれば︑前者は諸関係の性質Z
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山業における独占︑就中石炭業のそれがあげられている︒これにたいして後者は国家あるいは自治体との契約にも
カウッキーの財政思想日︵広田︶
とづくものであり︑その主要なものとして長距離鉄道︑ガス会社︑市街鉄道および電気会社等があげられている︒
さて前者の国有化については如何︒まずカウッキーは︑現在の与えられた政治的・経済的諸腐係の下では没収と
いう形での国有化が不可能であることを前提とし︑国家による価値通りでの購入に際して起りうる結果︑すなわち
貨幣ないし有価証券での支払いによる財政負担の増大を予測することによって︑国有化の条件として労働者保殴法
の制定︑十分なる労賃の確保および低廉な生産物価格の設定を主張する︒かくしてカウッキーによれば︑かかる政
策を敢行するに足るほどに大資本から独立している国家権力のみが︑労働者と消喪者のための国有化を行いうるの⑤
であ
る︒
しかしながら註山で筒単に述ぺたように︑この自然的独占についての彼の考察は︑他の箇所においては︑クーノ
ーの財政収入を目的とする石炭業国有化の提唱にたいする駁論として︑より明快に展開せられた︒クーノーによれ
ば︑直接税によって資本蓄放が阻害される場合には経済発展は停滞するのに反して︑国家独占においてはむしろ経
済発展促進の作用があらわれる︒すなわち︑国家が例えば石炭業を国有化した湯合︑国家は石炭需要の増大に対し
て生産を拡大することができ︑国有化後の収益を当該企業の存続および他の国家目的に使用し得る︒さらに︑資本⑥ 家は企業の国家への売却によって獲得される資本を他の企業に投下することができる︒これにたいしてカウッキー
は︑まず第一に︑蓄放にたいする寵接税の作用と国家独占の作用を比絞する湯合︑総菩戟にたいする作用を考察し
なければならないこと︑第二に︑国有化により企業利澗が資本家の手から国家の手に移るという点について︑それ
は没収という形で国有化が行われる湯合には正しいが︑国家による価値通りでの購入が行われるときには誤まりで
あるということ︑第三に︑資本家が国有化によって手に入れた資本を他の企業に投下し︑それによって経済発展を
カウッキーの財政思想回︵広田︶
二六
日
公依問題
二七
促進するという点については︑経済発展はすでに存在する資本がその所有者を変更することによっては促進されえ
ないことを指摘し︑クーノーによって提唱された私企業の国有化が生産力を増大せしめず︑財政的目的にも役立た7 ないところの仮装された間接税に他ならない︑と反駁を加え︑否定している︒
最後に人為的独占についても︑カウッキーは︑それの社会有化の必要性を一面において認めながらも︑他面にお
いては主として財政的な見地から否定的な見解を述ぺている︒例えば長距離鉄道︑︑市街鉄道︑ガス会社等の諸企業
は︑それらが普及すればするほど︑欠くべからざる一般的必要物となり︑それだけ私的搾取は耐えがたいものとな
る︒かくしてそれらを国有化ないし自治体有化することの必要性がますます一般に認識されてくる︒しかしながら⑧ これらの私企業の国有化ないし自治体有化が契約期限の完了とともに行われるのでなく︑両者の協定によってなさ
れる湯合には︑上述の自然的独占と同様の結果が生ずると考えられる︒すなわち国有化とともに財政負担の増大が
生じ︑財政的利益は期待されえない︒もちろんこの利益が将来施設利用の増大によって増加することは否定できな
いが︑しかしこの利益の早急な増大は期待しえず︑もしそれの強力な実現をはかる場合には︑価格引上げという消⑨ 費税的作用が起らざるをえないのである︒
かくしてカウッキーは︑戦争終了後の財政状態が国家独占の迎入を予期せしめることを指摘しつつ︑同時にそれ
が国家独占の悪い側面を助長するであろうことを予想し︑その反労働者的︑反消費者的側面の制限の努力を強調す
るとともに︑社会民主主義の立場においては国家独占へのいかなる動機も存在しないこと︑ならびに累進所得税と
O l
" u
所有税の要求︑不生産的支出の制限による国民負担削減の要求を明らかにしているのである︒
カウッキーの財政思想日︵広田︶
まず第一に資本蓄絞との醐連において間題を取扱っている︒一国の年生産物は︑すでに述べたように︑四部分に分 最後に公恨問題についてカウッキーはいかなる見解をもっていただろうか︒以下に少しくそれを考察しよう︒
公債と資本蓄積
日︵ 広田
︶
近代国家においては︑赤字補棋あるいは一回限りの巨額の支出を新税によらずに公依によって賄う傾向がある︒
n u
" u
この公偵発行の最大の動機は戦争にある︒
ところでこの公使の発行︑それの累絞はいかなる経済的作用ないし効果をもっているであろうか︒カウッキーは
けられる︒経済発展がもっとも急速に行われるのは︑国家の経喪が資本家階級の消喪基金からのみ支弁される場合
である︒しかも累進的な所有税と所得税ー小所得免税を伴ったーによってもっとも速かに達成されることがで
きる︒これにたいして国使は︑カウッキーによれば︑資本家階級の蓄絞基金からもっとも急速に支弁される︒かく
て国使収入が不生産的に使用されるならば︑資本蓄絞は制限せられざるをえないのである︒しかもそれのみではな
く︑このことを通して︑労働者階級もまた侵害されざるをえない︒すなわち︑資本主義的生産の拡大が級慢化すれ
ばするほど︑労働者の資本主義社会内部での状態はそれだけ耐えがたいものとなってくるのである︒かくてカウッ
キーは︑資本蓄釈をめぐる資本家と労働者の利害関係を問題にする︒四それによれば︑今述ぺたように︑労働者は生産の拡大したがってまた資本蓄戟に共通の利害固係をもっている︒
しかしながらここにみられる利害関係の共通性は︑長期的な階級対立の存在にたいして︑なんらの反対証明を意味
するものではない︒このことは次の点にあらわれている︒まず第一に︑労鋤者が労鋤時間の短縮と労貨引上げを ー
カ ウ ッ キ ー の 財 政 思 想
八
カ ウ ッ キ ー の 財 政 思 想
価する傾向のあることを︑指摘する︒
国︵ 広田
︶
すなわち一般的には︑
九
れ︑公債自体によって生ずる貧困化は無視されている︒彼は︑公債発行によって将来の利子額のみならず借入総額
だけ貧困化することを︑主張するのである︒
公債は︑彼によれば︑資本家の貯蓄分によって賄われる︒この額は︑資本家が消費を節約しまた蓄積する剰余価
値部分から成る場合もあり︑また産業資本家が貯蓄しておかなければならない更新基金
( E
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か
ら得られる湯合もある︒これらが国家に貸付けられる場合︑もし国家がそれを生産的に使用しないならば︑生産過 国家の支払う利子のみが社会の新しい負担と考えら 次にカウッキーは︑公偵利払について述ぺる︒彼はまず第一に︑ I I
公債利払 働者の利害関係の差異をまず明らかにする︒
う゜
一般的な見解が公債の経済阻害の作用を過小評 可能にするものとして歓迎する資本蓄稼を効果的に行う方法は︑実は労働時間の延長と労賃の引下げに他ならない︒さらに第二点として︑労働者の利害関係をもつ蓄稼は生産資本のそれであるのに反して︑貨幣資本家にあっては全く異っているという点があげられる︒すなわち後者にあっては︑貨幣が生産部門に用いられようと浪費家に貸付けられようと︑利子を獲得する点においてはなんらの差異もない︒貸付資本への需要の増大にしたがって上昇する利子率は当然産業部門にも現われ︑かくして産業資本家は生産過程での労働者の犠牲による節約でもつて︑これを補
以上のところで明白なように︑カウッキーは︑国債発行にともなう資本蓄積の変化とこれにたいする資本家と労
る ︒
日︵ 広田
︶
程からその額だけが脱落することによって︑生産の発展は阻害されざるをえないことになる︒
述ぺてい それでは公伯利子の支払がもつ経済的作用はどうであろうか︒カウッキーは︑リカードーの見解を引用しかつ批
判する︒それによれば︑リカードーにあっては︑国家支出のために借入金として提供される額は生産的な資本から
の控除であり︑不生産的消費によって経済発展は阻害されるが︑利子支払は︑それを賄うべき租税が資本家により
支払われる故に︑その階級内での所得の移動を意味するにすぎない︑と考えられている︒しかしカウッキーによれ⑬ ば︑事態はしかく箇単なものではない︒公依利子支払の作用を考察するには︑利子支払のための租税を誰が支払う
かが問題なのである︒それによると︑租税が剰余価値で賄われしかも小所得免税下での累進的な所有税たいしは所
得税である場合には︑国家は資本家階級から取り上げたものをふたたび利子の形で返戻することになる︒これに反
して利子支払が労賃の負担となる租税で賄われる場合には︑事俯は異る︒この場合には`労貨からのこの控除分は
新しい剰余価値として資本家階級に流入し︑かくて国債は剰余価値獲得の源泉として新しい資本を形成することに
なる︒そしてこの湯合は︑カウッキーによれば︑単に労働者のみならず︑全社会の発展が阻害されるという結果を
生ずる︒というのは労賃の減少は労働の生産力の低下を意味するからである︒
さらにカウッキーは外国偵について言及する︒それによると︑資本の不足する国では外国に依存しなければなら
ないが︑この湯合起俄は国内の蓄租基金の減少を招来するものではない︒しかしその利子支払は異った作用をもっ
ものであって︑カウッキーは︑そのための租税がいずれの階級から調達されるかにかかわりなく︑この利子支払が
発展を阻止する作用をもつことを指摘し︑
カウ
ッキ
ーの
財政
思想
さらにかかる国では国家破産がきわめて容易であることを︑
゜
してこの問題のもつ意義は決定的である︒そしてここでは租税問題に関して述べられたことは概して妥当するが︑
しかし若干の修正がなされなければならない︒かくてカウッキーは︑租税と公債の相違点から問題を始めている︒
それでは両者の差異は何であろうか︒それは︑国債にあっては租税におけるよりはるかに確実にそれの使用目的が 認識されうるという点にある︒すなわち国債は特殊な目的にたいして一回限りで発行される故に︑その収入と使途
A u
との関係は租税に比べて明瞭であり︑誤認されることはないと考えられる︒
家の経費は主として租税によって︑
しかし生産的目的に支出される場合には︑主として蓄稲基金によって賄われる国偵に依存することができる︒もと よりその場合の利子支払は労賃課税ではなく︑剰余価値課税によるべきであることが前提となる︒そして生産的に 用いられた国使は︑多くの湯合に︑たとえ直ちにではないとしても一定の時間的経過の後には︑国家に帰属する剰
dJ u
余価値を提供し︑したがってその利子支払は租税によって調達する要はない︑とカウッキーは述べている︒
つづいてカウッキーは︑この稲の生産的経費が主として市町村等の地方公共団体に属していること︑したがって
^ u
u
市町村偵は概して国偵よりも好意的に受容せられうることを指摘し︑最後に︑公徒収入の生産的および不生産的な
りu いかなる作用をもつかを明らかにしている︒使用が︑外国依と内国位のそれぞれの湯合に︑
][
公俄収入の使途
次にカウッキーは︑公債収入の使途を問題にする︒そのいうところによれば︑公債の経済的作用を検討するに際 この両者の相違点を述べた後︑カウッキーは︑国位発行を生産的目的に関連せしめる︒いうところによれば︑国
カウ
ッキ
ーの
財政
思想
しかも資本家の消費基金にかかる租税によって支弁されなければならないが︑
曰︵広田︶
最後にカウッキーは︑公債による戦費支弁についてその瓦解を述ぺている︒彼によれば︑経済理論においてほ従
来租税による戦費調達が主として主張せられ︑公債による調達については否定的見解が支配的であったにもかかわ
らず︑政治的実践においてはこれと逆の現象がみられた︒彼は︑このような政治的実践の理論的代弁者としてハイ
( K r i
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ついて批判を行っている︒ディーツェルの租税による職費調達否定論は︑
カウッキーによれば︑二つの論点すなわち継続性
( K o n
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と生産性
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まず第一の点についていえば︑戦時においては個人的消喪は急激に減少するのに反して国家の消費は飛羅的に増
大するが︑この傾向は強力な租税によって拍車を加えられる︒これは生産および消喪の継続の攪乱に他ならない︒
これにたいして公偵にあっては消費の制限を通して調達されることは少く︑主として資本家の手許にあって消喪の
充足に予定されていない遊休貨幣によって消化される故に︑消費および生産の継続は租税の湯合よりも撹乱される
ことが少い︑といわれる︒次に第二点としてディーツェルは﹁国民経済の生産性﹂をあげる︒それによると︑租税
は経営の存続に貨幣が必要とされる場合にもまた金融の逼迫している湯合にも︑課税されるのに反して︑公俄の応
寡はけっして強制されることはなく︑したがってまた生産性の利益が侵害されることもないのである︒
以上のようなディーツェルの見解にたいしてカウッキーは次のように批判する︒まず第一に指摘されている消毀
と生産の継続についていえば︑新しい形態の消費への生産の適応は以前ほど困難でないのみならず︑他面において
戦争政策の遂行は底的消費の制限と国家消費の増大を要求する︒したがって租税が私的消喪の制限を通して公仮以 ンリッヒ・ディーツェル
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一九︱二年にあらわれたその論文﹁戦時税か戦時公俄か﹂
I V
戦争と公横
カウ
ッキ
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財政
思還
日︵
広田
︶
三
;
上に調達されることは︑租税の欠点ではなくてむしろ利点を意味するのである︒第二に︑生産に対する租税のマイ
ナスの作用はたしかに否定しがたいが︑それは平和時についても妥当する︒もとより戦時中にかかる傾向が急激に
助長せしめられることは明らかではあるが︑しかしそれは租税の本質以上にその形態に関することである︒したが
ってその形態を考慮し︑弾力的に形成すれば︑それは生産の制限や停止を招来するよりはむしろ消費の制限という
利点を生み出す︒これは︑戦争のもたらす多くの災厄中の小さなものにすぎないのである︒
ところで以上の如くディーツェルに反論を加えたカウッキーは︑次のようにも述べている︒すなわちいま述べて
きたような論義は︑戦争の生み出す異常事態の下ではきわめてアカデミックな性質のものといわざるをえない︒な
るほど理論的には租税は公債よりすぐれているが︑
す︒したがって戦争中には︑租税と公債の間の二者択一が問題なのではなく︑むしろ公債のみに財源を求めるか︑
それとも公債と租税によるかが問題となる︒少くとも戦費を租税のみによって支弁することは︑もっとも可能性が
少い︒このようにカウッキーは︑
mu
" u
ので
ある
︒
山しかしこの両者の区別はけっして統一的ではない︒すなわち︑一九一五年三月五日付の﹁ノイエ・ツァイト﹂誌に発表せら
れた﹁租税と独占の問題について﹂
(Z ur Fr ag e d er St eu er n u nd Mono po le ) においては︑財政的独占として煙ヰ︑塩お
よび火酒の独占があげられ︑他種の国家独占には石炭業︑長距離鉄道等の国有化が含められている︒
( a . a . O . S .
679 f f . )
とこ
ろが翌一九一六年三月七日付同誌に掲載せられた﹁社会民主主義的租税政策﹂
(S oz ia ld em ok ra ti sc he S te u e rp o l it i k )
i l お
いては︑後者のうちの石炭業の国有化の問題はむしろ財政的独占として取扱われているのである︒
( a . a . O . S .
7 7 8 f f . )
②
Ka ut sk y, o S zi al de mo kr at is ch e S t eu e r po l i ti k N, eu e Z e it , 3 4
Ja hr g. d B .
2.
S
77 8.
③
Ka ut sk y, u Z r F ra ge de r S te ue rn un
d Monopole•
Ne ue Ze i t ,
33
J ah r g . 1 . Bd . S . 6 78 .
カウ
ッキ
ーの
財政
思想
一般論としてほ租税を主張しながら︑他面戦時における公債発行政策を容認する
日︵ 広田
︶
しかし戦争は租税のみを増大せしめないような要求を生みだ
④私的独占の国有化に関する条件を検討するに際して︑カウッキーは︑忠的独占と国家独占を一般的に対比する︒その口うと ころによれば︑一般に国家独占は武的独占に比して著しい利益を提供する︒すなわち︑私的独占ほ︑利潤︑超過利潤にたいす る欲求のみによって動かされ︑労牧︑労鋤者の数と組織力を抑えることによって︑国民の生産力を保守する︒しかし国有化さ れた場合にほ︑この傾向は強力に阻止丑られ︑国民の生産力は上外せしめられる︒もっともカウッキーは︑これが行われるか
否かについて︑それが国家の性格に依拠することを附首している︒
(Z ur Fr ag e d er St eu em un
d M goy妥~-
s .
76
8ー
67 9. )
固
a . a . O .
S.
6 8 0 .
・
佃クーノーは次のように述べている︒﹁たしかに︑一産菜部門︑例えば石炭鉱業が完全に国有化される揚合︑以前の鉱山所有 者によってはもはや企業者利澗はつくり出されず︑そこから新資本の集釈は行われえない︒しかし直接税による只本菩叙の阻 害にあっては経済発展が抑止されるのに反して︑そうはならないだろう︒というのは国家が困要の均大に対応して何故石炭生 産を拡大しないかの理由が存在しないからである︒さらにまた収用された鉱山所有者が自己の汽本を他の私企業に投下しそれ
によってそれの拡張を促進することを誰も阻止しない︒
かくて経済発展の阻害はあらわれず︑むしろその促進があらわれる︒これは︑﹁フォアヴェルツ﹂誌の批判が刃過している第一 の差異である︒第二に︑国有化の後には︑鉱山経営からの利潤はなるほど資本家の手から消え失せるが︑しかしそれは四散霧 消するのではなく︑国家の手に入り︑国家はそれを一部分経営の存続に利用し︑一部分は他の国家目的ーさもなければ租税 がこれらの目的のために調逹されなければならないー労働者からもまた調達されなければならないーーに利用する︒
(H ei nr ic h Cu no w, r P ak ti sc he St e u er p o li t i k o de r S te ue rd og ma ti k●
s . 4 3 )
m
カウッキーのクーノー批判を述べると次の通りである︒まず第一点については︑いま述べたように︑菩租にたいして直接税
と国家独占の与える作用を比較する場合には﹁総菩租すなわも企業活
i t J
のすぺての部門における臼本の集戟にたいする作用﹂
を比較しなければならないにもかかわらず︑クーノーは︑租税の場合には総菩戟にたいする作用を考感しながら︑それを特殊 な菩租と対比している︒すなわち鉱山業の拡張を社会的総生産の拡張と混同していることをカウッキーは指摘する︒
第二点については︑カウッキーは次のように述ぺている︒いま仮に石炭業で五低マルクの純利益が生み出されると仮定しよう 平均五形の利子率とすれば︑この純利益は百似マルクの賓本の収益にひとしいことになる︒したがって石炭業の国有化を︑没 収という形でなく︑価値通りの購入によって行うとするならば︑国家はその所有者に百億マルクを支払わなければならない︒
カウッキーの財政思想
国︵ 広田
︶
一 四
百低の支払いは当然現金では行われずに︑政府証券で行われるであろう︒というのは︑支払うぺき現金を政府がもっていると
すれば︑国有化や租税も必要でないだろうからである︒ところで支払が国依によって行われるとするならば︑国家は当然利子
を支払わなければならない︒とすれば国有化後に国家が獲得する利益はこの利子支払にあてられなければならず︑それ以上利
益を得ようとするならば︑国家は石炭価格を引き上げなければならないことになる︒かくして炭価の引上げがなされるのであ
れば︑その額だけ課税する場合と︑経済生活にたいする作用は同じである︒
第三点に関しては次の通りである︒国有化以前にあっては︑炭鉱所有者たる汽本家は百位の価植を有する鉱山を所有し︑国家
は何ものをも所有しない︒国布化後では︑国家は鉱山の所有者となると同時に︑それの価値に等しい百億の新負依の所有者と
もなる︒以前の所有者は︑形態こそ変るが︑依然として百低を所有している訳である︒新しい国仮所有者が他企業へ投賓する
ためにこの国位を売るとしても︑それによって事情はなんら変らない︒つまり新しい只本はこれによっては創出せられない︒
経済発展の促進は︑新しい汽本の創出とそれの若戟によってのみ可能であるとするならば︑この国有化によってはけっして行
われることはできないのである︒
(S oz ia ld em ok ra ti sc he S te u e rp o l it i k , S .
77 9‑, '
78 1)
⑧カウッキーは︑人為的独占の国有化の具体的な方法として︑契約期限の終了とともに国有化が行われる場合と国家もしくは
自治体と私的独占の中合せによる国有化とを区別している︒後者の場合は別として前者にあっては︑契約期限が終了すれば︑
私的独占の一府の存続は廃棄せられ︑国有化ないしは自治体有化が可能となる︒その場合には独占利潤は当然国家あるいは自
治体にrすえられる︒ところでカウッキーによれば︑この独占利洞のもつ社会的な意義は︑自治体と国家とでは異っていると考
えられている︒すなわち︑自治体にあっては︑その目的が主として生産的があるが故に︑それは社会的な利益となるのに反
して︑国家にあっては︑この独占利洞は︑国依の利子支払いにあてられるなど︑生産的日的に利用されることはほとんどあり
えないとされている︒かくしてカウッキーは︑国家独占と自治体のそれを明確に区別していると考えられる︒
(Nu r F ra ge e d r St eu er n u nd Mon op ol e, . S
6 8 1
ー・ 6 8
3 )
倒このことはもとよりそれぞれの部門について一様に妥当する訳ではない︒カウッキーは︑長距離鉄道および発軍所等につい
て具体的に検討している︒その内容については省略するが︑カウッキーが戦後の財政状態に関連して国家独占の検討を行って
いることは︑その問題意識がきわめて政策的なものをもつことを想像させる︒
⑩
Zu r F ra ge e d r S te ue rn un d M on op ol e, . S
6 8 3 .
カウッキーの財政思想
日︵ 広田
︶
五
皿 K . a u t s k y , 0岱 g
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W ' i l
" k g g g r de St a a ts s c hu l d en , Ne ue e i Z t 3 3
Jahrg••
2B d. S. lー
2 . ・
四カウッキーは︑この点に関して︑賓本と労鋤の問の利者の関和の有倍を問題にしている︒そのいうところによれば︑社公に おいて利益の共通性(Intel'essengem1昔胃h巴t)~
もたない階緻は存在しない︒例えば︑奴源所有者と奴源の岡にも利益の
共通性は存在する︒すなわち前者が我困化するにつれて︑後者は唸ぺるぺきものも褐られなくなるというが如きである︒
( a . a ・ . 0. S
.3
)
⑬カウッキーによれば︑リカードーの公慨論はその貨銀鉄則の考え方にもとづいている︒いま述ぺたようにリカードーにあって
は︑国但が発行され︑その収入が不生産的に使用されるならば︑その収入が生産的斑本からの控除であるが故に︑絡済発展を
阻害することになる︒これに反して国依の利子支払は︑その額が納税者の財布から利子受取人の財布へ移圃することを意味す
るにすぎたい︒それは資本家階級内部での所得の移動に他ならない︒というのほ︑リカードーによれば︑労蜀名の負祖する租
税は貨銀を甜め︑汽本利潤を減少せしめる作用をもち︑かくして租税はすべて只本家によって︑その消残基金もしくほ菩戟甚 金から支払われるからである︒ところでカウッキーによれば︑すでに述ぺたように︑かかる見解はその賃銀鉄則繭に由来する ものであり︑租税が専ら剰余価値から支払われるとすれば︑正しいであろうが︑しかしすぺての租税が只本によってのみ支払
われるとかあるいは労賃からのみ支払われると考えることほ誤りであり︑市痕はそれほど機械的でほたいのである︒
( a . a . O . S .
4ー
5) 閥カウッキーは次のようにいう︒すなわち︑租税が経費支弁のために新たに採用される場合には︑それとそれの使途との問の 園連性は最初は明白である︒しかし租税はすぺて同一の金血に流入するためにその関追性は次第に隅められなくなってくる︒したがって古くから存在する租税にあっては、•それが特殊な目的とのOO述に*いて利用されているということは不可能であ り︑かくして租税の作用についての判断は︑個々の使途よりもむしろ統泊組織の一般的な性格に依拠している︒百
a↑0
s . •
6) 凹しかしながらこれはすべての場合に妥当する訳でないことをカウッキーは附留している︒すなわちすぺての場合に剰余価値 が国家に提供されるとは限らない︒しかしカウッキーによれば︑生産力の概念ほ︑公共体の立揚からみれば︑汽本家のそれよ
り広汎なものである︒かくて例えば︑国営企業設立のための公但はやがて収益を生むが︑それのみでなく学校︑.徊路︑橋菜建
設等も生産的なものと考えられる︒それらの目的のための公餌ほ利洞を生み出さないが︑しかしそれらは全体にたいして牛産 的に作用し︑その生産力を
i O i
めるとされている︒
( a . a . O . S . 6 . )
カウッキーの財政思想日︵広田︶
六
カ ウ ッ キ ー の 財 政 思 想 の 検 討
.七
⑱ドイツにおいては︑帝国と市町村の間にその中問項として領邦
( S t a a t )
が存在する︒しかしそこでも不生産的な支出は帝国
に属し︑領邦のそれは大部分生産的性質のものとみられている︒
' ( a . a . O . S .
6)
闘まず公債収入が生産的に使用される場合︑内国似では︑その使用によって生ずる生産力の増大は最初には現われない︒とい
うのは︑内国債の発行によって得られる収入あるいはそれによって穫得される生産的財産は︑冦的生産からの控除分に他なら
ないからである︒これにたいして外国似による場合には︑自力で可能であるよりも急速な生産力の拡大が可能である︒しかし
ながらこの場合には支払われる利子の海外への流出という不利益が伴われる︒次に不生産的な使用についてみれば︑まず外国
債では生産的使用と同様の利益がもたされる︒すなわちそれは︑国内の生産力の減少を免れしめるからである︒しかし支払わ
れる利子が損失をもたらすことも同様である︒これにたいして内国似で賄われるときには︑それは損失以外の何ものでもな
い︒しかしこの場合その損失は︑租税によって賄われる場合ほど大きくはないと考えられている︒
( a . a . a s . .
7)
⑱さらにカウッキーは︑第一次大戦時における戦喪調達について︑欧洲各国の実状を検討し︑それらが経済発展におよぼすマ
イナスの作用を指摘しているが︑しかしこの点については本稿においてほ省略する︒ただこの湯合にもいえることは︑カウッ
キーが第一次大戦時の財政政策についてかなり具体的な検討を行っていることであり︑この点で彼の問題意識が現実的である
と考えられるだろう︒
( a . a . O . S .
1 0
ー13)
さて以上のところでカウッキーの財政論をかなりながく紹介してきたが︑その場合すでに述べたように︑三つの
時期に分けてそれを考察してきた︒概括すれば︑それは︑第一期においては近代国家財政の批判と社会民主主義的
財政政策の簡潔な叙述、第二期では予算協費問題の検討、第三期には社会民主主義的財政政策の•第一期に比べて
より詳細な展開によって構成されていた︒ところでこの三時期の諸労作を通観すれば︑そこにそれぞれの時期の特
徴なりあるいはそれらの中に現われた見解の変化なりを看取することができる︒まず第一にいえることは︑第三期
カウッキーの財政思想
六 ︑
回︵ 広田
︶
まず第一に租税論についていえば︑第一期のそれは剰余価値課税という原則から出発し︑その原則の実現形式と
してエルフルト網領に謳われている課税方式を簡単に指示し︑その租税政策実施のための条件を吟味した後に︑か
かる租税政策確立の意義を述べている︒これにたいして第三期のそれは︑租税問題の分析方法を限定すると同時に
労働者階級の恒久的な利益を前提し︑分析視点として剰余価値課税の他に租税収入の使途1生産的か不生産的か
のー│という視点をも加え︑これらの前提条件に立って租税政策の内容の検討に入る︒その考察は従来の社会民主
党綱領の指摘に終らず︑社会的純生産物の三つの構成部分に課する租税のもつ経済的作用にたち入り︑そこから税
源︑課税形式を結論し︑同時に課税の限界を資本逃避との関連において検討している︒
さてその租税分析のための前提条件の確立に関してであるが︑カウッキーの一般的原理的分析方法の確定は︑す
でに述ぺたように︑クーノーとの論争に際して明言されたものである︒それは資本主義段階にあるすぺての国家に
妥当する租税原理の確立にあったが︑その分析方法は︑これまたすでに指摘した如く政治的側面の無視と結びつく
ものであった︒そしてこの政治的側面閑却の理由は︑租税拒否という手段がプルジョア反対派にあっては著大な効 H
租 税 論
来の主張との対比において︑その見解に検討を加えよう︒
カウ
ッキ
ーの
財政
思想
国︵ 広田
︶
の労作は個別的な論文の形で発表されてはいるが︑その内容はそれ以前の特に第一期の見解に比べてかなり詳細で
あると同時に幾多の変化をも示していることである︒このことは︑租税論︑国家独占論および公俄論のそれぞれに
ついて指摘できることである︒そこでわれわれは︑彼の後年の労作である第三期の財政論に焦点をあわせ︑かつ従
八
九
果をもっていたにもかかわらず︑現段階の労働者階級にとってはもはや効果を期待しえないという点にあった︒こ
のことは︑すでに指摘したように︑財政現象の政治的側面をきわめて戦術的なものとして捉えていることを示して
いる︒ところで財政が政治と経済の交流の湯であるといわれ︑また政治と経済の媒介項であるともいわれる場合︑
そのいわれるところの政治的側面は︑たとえ上述の如き戦術的側面を排除しないにしても︑それにつきるものでは
けっしてない︒むしろ問題は︑政治的実践の手段としての理解の背後において理論的な意味において捉えられなけ
ればならない︒もとよりこの問題は︑その内容についてみる場合︑一般的にいって︑時に制度的記述に解消され︑
時にまた社会哲学的に一個の理念として措定される傾向があったことからすでに明白なように︑・きわめて困難な問
題点を包蔵している︒しかしながらこれらの事実は︑政治的側面のカウッキー的な理解の仕方を許容するものでは
この政治的側面の無視に関連する予算協賛問題についての彼の見解は後述することにして︑次にわれわれは︑租
税収入の使途に関するその見解を検討しよう︒すでに明らかにしたように︑カウッキーは︑後期における租税分析
の出発点として︑剰余価値課税のほかにこの使途の吟味を考慮に加えている︒すなわち逆にいえば︑社会民主主義
的租税政策確立のための視点としての租税収入の使途に関する検討は︑
る︒ところで初期におけるカウッキーの経費分析をみれば︑国家は第一義的には支配手段として捉えられ︑したが
って国家活動はかかる支配のための活動を中心とし︑これにたいして文化活動が対置されている︒つまりカウッキ
ーの初期の経費分析においては︑支配目的と文化目的のための経費がその構成要素として捉えられたのである︒こ
れにたいして後期すなわち第三期において︑たとえ租税分析の視点としてではあるにせよ︑租税収入の使途の生産
カウッキーの財政思想
日︵ 広田
︶
けっしてない︑といいうるであろう︒
第一期においてはみられなかった点であ
カウッキーの財政思想
国家の立場からみれば︑資本家 的か不生産的かによる検討がなされていることは︑経喪分析の規罪として生産性の概念が茄入せられたことを意味すると考えていいであろう︒ところですでに明らかなように︑カウッキーの一般的原理的分析は政治的側面を捨象したいわば経済学的分析であった︒したがって初期における経費分析の視点は︑後期にぷいては︑その経済学的分析に対応して︑生産性を規準とする経喪の理解によって代匠せられた︑と考えることができるであろう︒
それでは蒔入せられた生産性の概念はいかなる内容をもつものであろうか︒カウッキーのいうところによれば︑
租税の生産的使用という場合のその生産性は︑技術的労鋤過程乃至は資本家的価値増殖過程の立湯から捉えられる
べきものではない︒前者の意味においては生産物を供給する労働ほすぺて生産的であり︑後者の湯合にほ剰余価値
をもたらす労働が生産的である︒ところがこの場合には︑労働者および資本家の立湯とならんで社会の立湯が問題
であり︑それは︑租税収入の使用が問題とされる場合に決定的となる︒すなわちカウッキーは︑前二者のほかに社
会︑共同体あるいは国家の立場からする生産性の概念をここに導入するのである︒かくてこの観点よりすれば︑.共
同体の生産力を増大させる経費は生産的であり︑それを制限したりあるいはその発展を阻止する経喪は不生産的で
ある︒カウッキーは︑この生産的経費の具体例として︑社会政策︑教育および保健衛生のための活動︑最栗および
林業の経営︑街路や運河の建設等々をあげているが︑とくにカウッキーは剰余価値乃至は利潤生産という資本家的
な観点が国家活動に適用される傾向を批判し︑生産力および生産的労働の概念が︑
的観点よりする場合と異ることを指摘しているが︑この点の指摘は︑資本家的立湯と国家的見地との相違︑さらに
はまた両者の対立をすら彼が認めていることを︑示している︒
以上の如きカウッキーの見解から︑われわれはその特徴を二点に要約することができるだろう︒その第一点は︑
日︵ 広田
︶
四〇
次に指摘しなければならない点は︑後期の租税問題分析の前提として消費者利益が新たに導入されていることで
ある︒いうところによれば︑すでに指摘したように租税問題において主張しなければならない労働者の階級利益は
一般の利益でもあり︑また消費者の利益でもある︒ところでプルジョア経済にあっては︑労働者は﹁生産を自己の2 目的に利用する人間を意味するものではないd﹂しかしながら︑もとより生産諸力の拡大は強力に推し進められなけ
ればならないが︑それは消費者あるいは労働者の利益をなんら害わない方法によってなされなければならないので わ
れる
︒
四
彼がマルクス経済学の立場をとる限りにおいて︑生産性の概念を不当に拡大しているということである°周知のよう
に︑生産的労働の概念は種々の理論的立場によって異った風に理解されている︒例えば近代経済学における国民所
得論はこの概念をサーヴィス提供の労働にまで拡大している︒しかしマルクス経済学においては︑これは物的生産
と剰余価値生産という二面の規定にもとづく概念である︒したがってカウッキーがマルクス経済学の立場に立つ限
り︑教育活動や社会政策活動を以て生産的労働とみなすことは︑不当な拡大解釈といわなければならないだろう︒
社会的有用労働と生産的労働とは区別されなければならない。次に第二点として、彼の国家観ー~それは国家観そ
のものとはいえないであろうがーーをあげることができよう︒すなわち上述のところで明白なように︑後期の労作
においては国家活動の分析視角はより経済学的となり︑しかも社会的階級檄造から独立した国家の第三者的な立場
が明確にされている︒もとより国家活動のすべてが不生産的である訳ではなく︑また近代国家が公権力の担い手と
しての役割を果すかぎり︑その独自性が認められない訳ではない︒しかしながら︑上述の点の指摘が後期の労作に
おいてきわめて明確にされていることの中に︑カウッキーの国家観に多少とも変化を認めることができるように思
カ ウ ッ キ ー の 財 政 思 想 回︵ 広田
︶
国︵ 広田
︶ ある︒かくて明らかなように︑カウッキーは︑生産を自己の目的のために利用する人間としての労働者の利益を︑
﹁生産諸力の拡大を自らの側で要求する消毀者の利益﹂を主張するのである︒もとよりかかかる消喪者としての把 握は︑彼が他面において生産の担い手としてあるいはまた商品として労働力を捉えている事実を否定するものでは ない︒そしてまたかかる把握が労働者の多面的存在の一端を捉えるものであり︑さらにまた労錨者の運勁の方向を
指示するものとしてみる限りにおいてきわめて正しいものであることは︑否定しえない︒しかしながら︑かかる消
費者利益の充全なる実現が実は資本主義的生産様式によって制約されるものである限り︑このことと無涸係に消喪
者利益を主張することは︑それ自体において矛盾を包蔵するのみならず︑かかる主張︑ひいては彼の租税論そのも
のが改良主義的性格をもつものであることを︑物語っているといえよう︒
このことはまた次の点に関連していると考えられよう︒すなわち︑第一期において財政政策実現のための条件が吟 味されていたのにたいして︑第三期においてはその点の検討がほとんどなされていないということ︑これである︒
初期の労作によれば︑租税政策をも含めた社会民主主義財政政策は︑二つの相互に排斥し合う条件にもとづくもの
であり︑したがって実現の可能性のほとんどない政策として捉えられていた︒しかるに後期の労作ではかかる条件
の吟味がなされていないだけでなく︑むしろ不生産的支出の多い資本主義国家の現実認識にもとづいて税種の選択
がなされているのである9このことは︑提唱せられている累進所得税その他の要求自体は初期と後期ではほとんど
変化していないにもかかわらず︑その要求の理解の仕方においてあるいはまたその要求のもつ意味内容においてき
わめて大きな変化の存することを︑意味しているように思われる︒すなわち︑後期において主張されている租税政
策が単なる運動の指針としてではなく︑むしろ実現せられるべき政策として捉えられているのではないかというこ カウッキーの財政思想
四