М.Я.オストロゴルスキーの政治思想
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(2) 25. 祁.札オストロゴルスキーの政治思想. がって,多くの政治学者は,彼に言及し,その著書から引用し,参考文献にそれを加えて ほいる。. 日本で,戦後8',比較的早い時期にオストロゴルスキーを紹介されたのは'書村正氏で あろう8'。ついで,升味準之輔氏が,オストロゴルスキーの基本的視座に検討を加えられ ≪自由≫対≪組 たo升味氏によれば,オストロゴルスキ-の政党組織にたいする観点ほ, 織≫であり,彼の著作においては,. 「いずれの政党も同等に取扱われ」,. 「政党の社会階級. 上の差異よりも,組織一般の生理学が自由を否定すること」が問題にされるoそこで,氏 「ブルジョア議会制完成期 は彼を「無政党的高踏家」と評されるT'.また書瀬征輔氏は, における≪名望家政党≫から≪大衆政党≫-の転換」が,オストロゴルスキーの政党分析 「≪体制党≫≪反体制政党≫なる視角」の欠如が,オスト の基本的視角である,とされ, ロゴルスキーの欠陥である,と主張されている8)ら 「彼(オストロゴルスキ-)紘,イギ1)スの ィギ1)スの政治学者,I).バトラーは言う。 政党と最初にとりくんだ研究者として重要であるばかりでなく,. discriptionと分析とを区. 別してみせた人物としても重要である」し,さらに,ト国の出来事,あるいは,制度を 叙述することにとどまらず,比較統治制度の分野で一般化をおこなった著ほ,彼のみであ る0,」と.また,オストロゴルスキー自身が研究対象としてえらんだイギ1)スとアメ1)カ のうち,当のイギ.)スの政党史を専門とするR・マッケンジーは,その著作「イギ1)スの 「オストロゴルスキーは19世紀大衆政党の勃興の歴史をこのうえなくみ 政党」の中で, ごとに措いてみせている」と述べ,彼自身の著述の目的を,オスト自ゴルスキーの研究が 終っている1895年以降の保守党・労働党の歴史を跡づけることにある,としている10)o G・E・G・キャトリソほ「古典的な政 政治学の体系的分析を目ざしたアメリカの学者・ 『法的機構論(統治論)』 党史の研究書は,オストロゴルスキ-のそれであるoこれほ, の偏重から,早くも,一歩ふみ出している」と評し11',さらに・フランスの政党史研究者 デュヴェルジェは,オストロゴルスキーを,党の組織の分析に道を拓いた最初の人であ 「彼の詳細な研究は,本質的には分析的であるが,これを称讃する人は る,と評価するo まことに多いものの,踏襲する者はあらわれていない。ミ-ルスは彼に匹敵する着である が,この両者の研究以外には,党構造の比較研究は見当らない」と,デュヴェルジェほ記 している1望)。. ォストロゴルスキ-の研究が,のちの政党史研究・政治学の方法に影響を及ぼしたこと 紘,以上の諸例からも明らかであろう。にもかかわらず,彼の生涯や彼の思想についての 綿密な研究は,これまでほとんどなされていない。結局,オストロゴルスキーがおこなっ た政党分析は,このように高い評価をうけながら,彼自身ほ,ある意味では,ながいこと 無視されてきた,といってよいoこのことは,彼の主著が極めて入手し難い状況におかれ ていたこと18)と無関係ではないとしても,他の政治学者の場合に比して,極めて稀な事例 と言い得るし,また,驚くべきことでもある。 1964年になって,. S.M..)プセットが,. 「デモクラシーと政党組織」のダイジェスト版. を出版し,その序論として,オストロゴ/ヒスキーについての研究論文を付している14'。ま. -.
(3) 26. た,. 成. 1975年にほ・. 田. 之. 博. R・パーカーとⅩ・H・ジョンストソの共同執筆により,. 「オストロゴル. スキーの政治学と政治思想」と題する論文が発表された1古). 本稿ほ,この二論文を紹介することにより,オストロゴルスキーの政治思想を探る手が かりを得ようとするものであるo彼の政治思想については,以下の諸点が問題となろう. すなわち,. (1)彼ほ,そもそも,ヨーロッパの近代政治思想史の系譜上に位置づけられる. べきなのであろうか,. (望)彼のデモクラシー批判ほいかなる視点からなされたのか,. (3) ロシア政治思想史の系譜からみて,彼ほ異端的存在なのか, (4)もしそうでないとすれ ば,ロシア政治思想史上,彼はいかなる位置にあるのか,の諸点である。本稿ほ,これら の諸問題を解明するための準備作業である。 準備作業をすすめるための前提として,オストロゴルスキーの経歴,すなわち,彼が成 長した生活環境・研究歴,政治活動,ヨーロッパ留学中の政治状況などが,まず,明らか にされなければならない。 注. 1). W・G・. Runciman・. J・ Jolt, Europe. 2). S・M・. Lipset. SocialScienceand Since. ed・, M・. 1870,. 1973,. Ostrogorski・. PoliticalTheoJry, pp. 1141115. Democracy and. the. 1969,. pp.. Organization. 64∼68.. of. Political. Parties,. 1964.. 3)書瀬征輔「オストロゴルスキーの政党論の論理」, 『政治研究』13号, 1965, 44-45見 4) M・ウェ-,i-,脇圭平訳「職業としての政治」, 285貫以下,永井陽之助編・解説「政治的人 間」・ 1968・所収o 1)プセットも「オストロゴルスキーの政治分析と社会科学にたいする最ち 強烈なインJi37トは,ウエーバーとミ-ルスの仕事を経て,今日にまで及んでいる」というo Lipset,. ibid.. xii.. 5)戦前では,上砂浜寺「議会制政党及政府」, 1916,がオストロゴルスキーについてふれている ようであるo升味準之輔氏によれば,上杉氏ほ「オストロゴルスキーの民主制批判を逆用し て,民意代表の理論をあやまりとなした」というo升味準之輔「現代政治学」'1964, 253貢, 注(96)。筆者ほこの著書未見。 6)吉村正「オストロゴルスキーの政党観」, 『早稲田政治経済雑誌』13号'1954oこれは,オ ストロゴルスキーの「デモクラシーと政党組織」を要約的に紹介したものである。 7)升味,前掲書, 175-214貫。 8)書瀬,前掲論文, 45-48貢o 9) 0・E・ Butler・ The Study of Political Behaviour, 1958, p. 44, p. 49. British PoliticalParties, 10) R・T・ Mackenzie, 1954, p. 5. Catlin, Systematic Politics, 1962, p. 242. ll) G・E・G・ PoliticalParties, 12) M・ Duverger, 1955, Ⅹvi. 13)リブセットほ, 「この20-80年間,彼の書物は印刷されなかった」としている○Lipset. ibid.,. Ⅹ.. 14) 15). (注) 2参軌なお,以下,Lipset, Rodney. Barker. Ostrogorski・. and. Xenia. Introductionと略記するo. Howard-Johnston,. The. ≪Political Studies≫, vol・ ⅩⅩⅠⅠⅠ, No・. 第一章. Politics 4, 1975,. and pp.. PoliticalIdeas. of Moisei. 415-429.. オストロゴルスキーの生涯. オストロゴルスキーについては,簡単な伝記さえ,いままでのところ,善かれていない.
(4) 爪.札オストロゴルスキーの政治思想. 27. ようであるoしたがって,彼の著書についての論述は.,思想史的背景から切断されたま 普,彼のおかれた歴史的状況・具体的政治状況に何らふれることなくなされてきたことに なろう。. I;_カ_.ジョソストソ論文でほ,これまでほとんど触れられていなかったオストロゴ /レスキーの経歴がいくらか明白にされている.しかし・所詮,パーカー・ジョンストソが 述べているように,彼個人の履歴書ほ,いくつかの百科辞典の項目から拾いあげることが できるだけである1)o 爪oHCe丘触oBJle6Hq. OcTpOrOPCKH色(1854-1919).オストロゴルスキーほ'1854年,. 白ロシア,グロドゥネソスク州の首鳳グロ-ドゥノ市で,ユダヤ人の子として出生し 19世紀末にロシアに併合されるまで,ポーラン たoこの町は,ポ-ランド国境に近く, ド額であった。 1862年に,ペテルブルグ・ワルシ′ヤワ問の鉄道がこの町を経由して開通 1887年当時,市の人口は約2万6千人であっ し,これを契機として産業が発達する。 た。. 彼は長子であり,妹(1868年出生)と弟(1868年出生)がいたo父親は教師である○ 彼は地方のギムナジウムを終えてのち,ペテルブルグ大学の法学部に学ぶ.青年期につい. ては不明である。 1872年から1897年までに,彼ほ,学校用の歴史教科書を五種,いずれもペテルブルグ で出版したo出版部数は不明であるが,版を重ねているところからみて,すべて長期間に わたって利用されたものと思われる2).. 20代の前半までに,たてつづ桝こ,これらを出版したわけで (1)民会を重視したこと,およ あるoパーカー・ジョンストソによれば,彼の教科書は, オストロゴルスキーは,. び,. (2)ピョートル大帝およびアレクサンドルニ世のために特に一章を設けていること,. によって特色づけられている幻.オストロゴルスキ-ほ,前著について,公および指導者 もその決定に服従する義務を負う代表制度であること,を強調し,後者については,ピョ ートル大帝が教育改革・産業振興政策の推進につとめたこと,アレクサンドルニ世が,農 奴解放,法制改革および地方自治制度を確立したことを重点的に捉えている,とパーカー 等は述べている。しかし,当時出版されていたと考えられる他の多くの教科書と,オスト ロゴルスキーのそれとの対比について,この論文は,全く言及していない.. 民会(ヴュ-チェ)紘,. 12世紀から14,. 5世紀にかけて,ロシアの諸都市に成立した. 自治機関であるo民会畔,都市の自由民全員の参加のもとに,公の選択,承認,廃絶,追 放の権限を有し,司法・行政権を行使し,軍事詩境関の代表を選出・更迭することができ る検閲であった。・宣戦を布告したり,軍隊を管理することも,民会の権限の中に含まれて いたo. しかし,実質的な権力を掘って民会を運営していたのほ,少数の貴族と上層部の町. 民であった4).オストロゴルスキーほ,このような民会を評価したわけである.民会にた いする積極的な評価,および強力なリーダーシップの持主として知られる二人の皇帝を特 にとりあげた記述が,どのような思想的系譜に属することなのかは,パーカー等の論文に よっても明らかではないo.
(5) 28. 成. 博. 田. 之. オストロゴルスキ-は,. 1875年, 19才のときに法務省に勤務した○翌年から,年柑 発行の「法律カレンダー」の編集人をこなっている. 彼の妹と弟も教育活動に熟むにとりくんだo妹のア./j-は医者であるが,. 1901年から, 家庭・学校むけの雑誌「若い読者」の編集にたずさわっている8'.弟ほ兄とおなじくべテ ルブルグ大学で法律を学び,教育関係の仕事に就くo彼は,. 1899年にべテルブルグで新 しい教育方法による実験学校の指導者になった。また1896年以降,文芸・社会・経済国 係の雑誌「教育」を編集している。オストロゴルスキーが歴史教科書を数多く出版してい ることも,妹や弟のこのような活動と無縁でほないであろう。 1881年3月,オストpゴルスキーが歴史教科書で,その改革政策を讃えたアレクサン ドルニ世が暗殺されたoこの年に彼はロシアを離れてフランスに移り住み,. ′ミリの政治諸 科学自由大学で学ぶことになる。この学校は,国家の高級官僚や政治指導者を養成する目 的で, 1870年代にE・ブ-ミ-. (E・ Boutmy)によって設立されたものである。. 1885年に課程を終了したオストロゴルスキーは,この年, origine8 du suffrage を授けられた。 1892年には, point. devue. 「普通選挙権の起原」. univer8el≫)という学位論文を提出し,歴史・国家法部門の学位. 「公法における女性-その歴史と法制の比較研究」 du. (≪Le良. droit. d'histoire. (≪La. femme. au. de. et legislation comparie≫)8,が public-6tude 出版されたが,これはただちに英語とドイツ語に翻訳されているoこの著作におい七,彼. は・フランス革命時にさかのぼって,女性の権利要求を検討した。この権利要求にたいし て,彼は比較的好意的な立場を採用し,要求の過程で出された女性の権利宣言を論理的帰 結として承認せざるを得ないとしながらも,女性の政治的権利は絶対視されるべきもので ほなく各国の特殊性に対応した参加の形態が考えられるべきである,と結論づけている。 この著作においてオストロゴルスキーほ,国家の政治的諸制度が社会の性格に依拠して いるこよを指摘し,更に法について,これを自らの意見・主張を無理にも押し通そうとせ めぎあ・;1,ている政治に対置されるものとして捉えたうえで,法ほ政治のなりゆきを肺撤し て制定されるべきであ・り,したがって仲裁者の役割をになうものであると性格づけてい るわ。. オストロゴルスキーが,イギリス・アメリカの政党にかんする研究を本格的に開始する のほ,自由大学を終えた頃からである8).彼は1888年に,自由大学の年報に「アメリカ における政党組織」. (≪恥L'Organization. des. Partis. Politiques aux Etats-Unis≫) と題する論文の第一部を発表し,これをかわきりに,その後イギリスおよびアメリカの雑. 誌に政党に関する論稿を順次掲載する。その集大成が前述の著書「デモクラシーと政党組 織」として刊行されたわけである9'.この書物ほ,千四百真に及ぷ大著であり二分冊にわ かれているo第一部でほイギリスが,第二部でほアメリカが主として取り扱われており,. それぞれについて政治結社の歴史的背景,政治結社が政党に移行する過程およびそれらの 内部機構の性格,政党内部における権力の構造,社会における政党の役割,マス.デモク ラシーの下での選挙制度上の諸問題などが分析的方法で記述されている。.
(6) 29. 爪.札オストロゴルスキーの政治思想. 23年ぶりにロシアに帰った. 1904年10), 50才になっていたオストロゴルスキ-紘, 帰国の理由は明らかでない。彼ほ, 1905年の第一次ロシア革命ののちに創設された国会 (ドゥ-マ)の議員として,故郷のグロドゥネソスク州から選出されたo. これまでオスト. ロゴルスキーほ立憲民主党(カデット)に所属したと考えられてきたが,国会には無所属 議員として登録されている.ただし立憲民主党とは,自由な立場で連携を保持しているo 国会議員としては,特にめだつ活動をしたという記録はない。ロンドンで開催される列 国議会議員会議-の招待状が1906年6月にロシアにも届けられたとき,これに応えて イギt)スを熱烈にほめたたえる演説を行っただけである.. 国会には審議すべき議案を予備的に検討するために,部と委員会が設置されていたが, オストロゴルスキーはこの焼構を国会活動の経験に乏しい議員め訓練の場として,また党 派にとらわれない自由な討論をなし得る場として,有益である,と評価していた。彼自身 は国会議員の権利に関する委員会に所属していた。彼ほつねに,個人の自由を尊重し,千 渉や強制によらずに個人が発言し得る権利を重視していたが,硬にとって,国会ほ,こう した自由を行使できる場なのであり,委員会ほ,それにもっとも適した機構なのであっ た。. オストロゴルスキーは,ユダヤ人の権利擁護に強い関心を示した.ユダヤ人の子として の出生によるものであろうか。若い頃,セントペテルブルグの科学出版物協会の委員に名 を列ねていたこともあった。その協会は,ユダヤ百科辞典を出版していたのである。 彼ほ, 1906年にほユダヤ人の平等な権利に関する会議に参加し,ユダヤ人の権利擁護 1906年6月1日, 法案の準備作業のために国会に設けられた委員会にも席をおいた。 ォストロゴルスキーの出生地グロ-ドゥノ市に近いベレスト-クでユダヤ人虐殺事件(ポ グロム)が起った。ポグロムほ,政府や地方政府当局および新聞によって,計画的に惹起. されたものであったiしかし,内閣はその責任をとろうとほしなかった。オ・スト.2 ゴルス キーはこの地方出身の国会議員として,改新こたいし,強く抗議した。国会でポグロムに っいての審議がなされたときに,彼ほ次のようにのべて演説を了えたo J「われわれは,政治的見解,宗教,民族および人種のちがいをこえて,すべての市民を まもることのできる政府を待ち望んでいるoわれわれほ偽の合法性でほなく,真理と正義 にかなった合法性に基礎づけられた秩序を保つことのできる政府を望んでいる。」 1906年7月に勅令によって,第一国会が解散されたのち,彼ほ実際の政治活動から引 返した。そして,再び,学問研究の生活に戻る。 「デモクラシーと政党組織」の第二部,アメリカに関する論述を改訂するために訪米し, (≪Democracy そq)成果として, 1910年に, 「デモクラシ-とアメ1)カの政党体制」 the. Party. System. in the. United. States:. a. study. of. and. extra-constitutionalgovern-. ment≫)という書物が出版されている.更に,前述の大部の著作を自ら圧縮したデモ et les partis politiques≫)と題する著作も公けに クラシーと政党」 (≪La democratie (≪KoHCTHTyuHOH朋・fl 『ヨーロッパ紀要』に「イギ1)ス憲法史」 されたo 1913年には, eBOJItOIIHfI. AHrJIHH≫)を発表したo. この論文の目的は,バジョットの「イギ1)スの国家.
(7) 30. 成. 博. 田. 之. 構造」の統篇とすることにおかれていた.方法論としてほ,法的形態よりも「政治的現 実」を分析するという従来の視角が維持された。 彼はこの論文で,形式と内容との連関性を重視し,これら両者掛こギャップを生ぜしめ ることのない歩調をあわせた進行こそが肝要である,と,イギリスの憲法を例にとって論 じている.彼によれば,この両者の問にずれやくいちがいが生じたときに,社会的混乱や 騒擾が発生するのである。彼ほ,更に,イギリスの統治機構について,国会の勢力が衰退 し,これにかわって,内閣,とくに首相の権限が拡大強化されている事実を指摘した。こ の事実を,彼は,デモクラシ-の危機とみなし,新しい抑制と均衡の体制が緊急に求めら れる,と主張する。この時点でオストロゴルスキーが頻りにしたものほ,世論および目に みえない行動規範である道徳にもとづく抑制と均衡であった。 1919年,オストロゴルスキーほ61才で死亡した。死去の場所,その原因などは知ら れていない。. 第一次世界大戦や十月革命について,彼がどのような見解をもっていたか,政治的な実 践に・引退後ほ一切かかわらなかったのか,とりわ机社会主義政党が歴史上ほじめて権 力をもち,プロレタ1)アートの独裁を実現してゆく過程をどのようにとらえたのか,等, ほなはだ興味深い問題が残されているが,これらの諸点に関する研究ほ,全くないようで ある.ともあれ,オストロゴルスキーについて紹介されていなかったその経歴をはじめて 明らかにしたものとして,パーカー・ジョンストン論文は注目に値いするものと考えられ る。 注. 1). R・. Barkerand. X・H・. Johnston,. 414・筆者が参照し得た辞典は,以下の三点であるo. p・. Encyclopaedia. of SocialScience, 1968・知qEEJIOⅡe朋tleCEH丘CJ10BaPb,. 1933・. International. Encyclopaedia. CrI6, 1890-1904,. ToM. 2)年代慣に列記すれば,以下のとおりである。 ① ≪ⅩpoHOJIOrH5I PyCCKO丘HCTOPHH≫, 1872, 1915, 22版。 ② ≪ⅩpoHOJIOrH兄BCeO6qe畳H 3BbIⅡ., pyCCEO魚HCTOPHH≫,. XXII,. 1873,. of. 1897年.. 1897,. 版。. ③ ④ ⑤. 1915,. 14版。. 16. ≪f(paTKa兄ⅩPOHOJIOr朋BCeO6Ⅰ叫e貞HCTOPHH≫, ≪HcTOPH兄Pycc朋且JIg ≪ytle6HHE. 3). R・. 4). CoBeTCa5I. HcTOPHtleCKa3I 1969.. 6H6JIHOrPa如sI. HaPOAHbIX. PyCC比0丘オCTOPH滋.qJI5I X.H. Johnston, p. 417.. Barkerand. 95-98貫,. 5). SocialScience,. 1873, 1897, 11版o 14版1915, yqHnHqb≫,出版年不明1896, III EJIaCCa rHMEa3H丘≫, 1891, 1897, 2駄. ∋HIIHKJIO=eZtH5I,. ToM・. 3 cTp・. 34版.. 410-411.鳥山成人「スラグの発展」. 「大世界史」 15巻など。. ⅡePHOAHtleCKHX. E3AaHHH. PoccHH,. 1901-1916.. 4. vols.,. Leningrad. 1958-. 1961.. 6)この著作は,パリ大学法学部の懸賞論文の第一位軒こ選ばれているo Seienee,. 7) 8). R.. Barker. γol. XI, p. 503. X.H. Jobnston, and. Encyclopaedia. of S.cial. 1933.. p.. 417.. 1902年に出版された「デモクラシーと政党組織」の前書きで, 「本書ほ十五年間にわたる研究 の成果である」と記していることからもこれを声明らかであろう. Frederick Clarke trams., M・ 1iv.. Ostrogorski,. I)emocracy. and. the. Organization. of. PoliticalParties,. 1970.. vol.. 1,.
(8) 31. 州.札オストロゴルスキーの政治思想 9). 1902年に出版されたのは,英語の翻訳版であり,翌年㌢こ原文のフランス語版が出版されたo この英語版ほ1970年に復刻されているo Eneyelopaedia of Social Seieneeでオストロゴルスキーの項を担当しているマタマホン紘,. 10). 帰国の年を1906年としているが,ここではパーカー・ジョソストソにしたがい1904年とト ておく。. 第二章. オストロゴルスキーの政党分析. オストロゴルスキーの政党分析・政治思想についてほ,パーカー・ジョンストソ論文の S.M.リプセットのそれがある1)o本章では,-これら二論文を紹介する。. はかに,. A.リブセット論文. 1)プセットによれば,オストロゴルスキーの功績ほ,以下の四点にまとめられる.すな わち,. (1)民主的大衆政党に内在する一般的特徴を解明し,党組織と官僚制の理論化のた (2)政党体制の体系的な比較分析。この手 めの基礎となる素材の分析をおこなったこと, 法によって,普通選挙制度を採用する民主的政治体に固有な諸要因という視角から政党行 動を把握しようとしたこと,. (3)普通選挙制度がもたらす帰結を分析するにあたって,イ (4)当時の政党 ギリスとアメリカの政党制の成立・変遷の歴史的説明をおこなったこと,. や選挙のいきいきとしたルポルタージュをのこし,投票行動や世論形成の決定因子につい て今日でも通用するいくつかの命題を捷示したこと,である幻.. 1)プセットほ,このよう. な評価を前提として,オストロゴルスキ-の政党論に解説を加えている。 (1)貴族制が存在せず,平等-の志向が過度につよいアメリカでは,安定した非権威 主義的社会構造を維持するために,個人と国家をつなぐ中間的諸機関が必要とされた。 これにたいして,イギリスでは,功利主義の発生と,産業革命の社会的影響,すな わち,ブルジョアジーの勃興,および,三度にわたってなされた選挙法の改正によっ て,.古い社会の紐帯がゆるみ,それまで階層制的に統合されていた政治体に亀裂が生じ た.メ-ソナルな,そして,家族的なつながりに基盤をおいていた古い社会構造,およ び,古い議会制政府は,それゆえ,選挙制度の拡張以前に,個人主義の撞頭とともに消 え去ってゆく。 選挙権が拡要されたのち,新たに選挙権を付与された下層の市民を自己の陣営に組み 込む必要性が政党の側に生じ,この必要性に応じて形成されたのが,イギリスにおける コーカス・システムである。コーカスが整備されるにともなって,政党内部も官僚制的 な構造をもつようになり,政党の指導権を握るものは,それまでの「紳士」にかわっ て,投票組織を操作する政治屋になるS)。 1930年代に全国レベルで定着した,候 アメリカでほ,これに対応する現象として, 補者指名のためのコソベンショソ・システムがあげられる。 コ-カス,および,コソベンショソ・システムが成立した段階で,政党は,専門政治 屋をかかえるための恒常的組織体にかわる。この党機構を維持する必要性が,党財政を.
(9) 32. 成. 田. 博. 之. 援助し,支持票を増加する技術に長けた人の意向に沿う方向で,党の原則や活動を修正 せしめるo政党にとってほ,政権を掌握し,掌握した権力を保持することが至上課題と なるから,他のすべての目的・価値ほ,もはや副次的なものになるわけである。 政党の統一性は,選挙戦をたたかうための前提条件であるから,党の詩境閑は相互的 に義務を負担することになり,党組織に加わる老ほ,組織-の忠誠と指導者-の服従を 表明すべきものとされる。政党の指導は,指導者にたいする下部の者の忠誠心を前提と してなされるわけで,党機関の権威ほ,すべて一個の人間に体現されることになる。指 導者が勝利しているかぎり,政党の政策は変更されず,党機関ほ,軍隊同様に官僚制的 債向をつよめてゆく。 政党機関に反抗しようとする老も,このような体制下では,何らかの機関に依存せざ るを得ず,したがって,反抗暑が勝利したとしても,政党自体ほ,新たな壊関の支配下 に移行するだけである. 民主的な政府ほ,多数の市民の政治-の参加を不可欠な要素として成立するものであ るが・市民の側にある政治参加を阻害する要田,すなわち,受動性や公共精神の欠如な ども,結局は,政党機関の優越性を一層強化する作用を果たすo 以上の分析を前提として,オストロゴルスキーほ,人々の政治的無知・無閑,亡Jを助長 する要田として商業的マスメディアの発達をあげている。マスメディアによる情報の豊 富な提供は,人々から積極性を奪う。それが,文化的・政治的レベルの低下を招くと彼 は結論づける。. 選挙における票を確保するために強力な党組織が形成されると,政党間のイデオロギ ー的争点ほ鮮明さを失なう。選挙に勝利するために,できるだけ広範な大衆に支持され る政策を,各政党がこぞって掲げるからである。また候補者についても,各政党ほ, 「安全な」人物を選定する傾向をつよめる.政党ほ,ディレンマにおちいるoマス.デモ クラシ-下における選挙が,政府首長個人の人格を前面におし出す人民投票に傾斜せざ るを得ない反面で,首長個人にそそがれる敬意が高まれば高まるはど,政党機関の彼に たいする影響力が低下してゆくからである.これらのことが,すべて,市民の政治的無. 関心を助長し,政党の側にほ,選挙機関-の依存度を高める結果をもたらすのであるo (2)オストロゴルスキーは,党組織の分析についてだけではなく,政党機関の分析に 際しても,今日の社会学が,機能的アブp-チと称する方法を採用しているo オストロゴルスキーほ,社会における異なった集団が,どのような政治的欲求(needs) をもち,それがどのような方法でみたされるのか,という問のたてかたする。 党機関は,各集団の欲求をみたしているからこそ存在し得るのであって,.公式的な政 治構造を尺度にしてこれを説明することほ意味をもたない。党の組織形態が,イギリス とアメリカで,かなりの程度類似している事実は,強大な党機構が,複耗な社会におけ る普通選挙体制に不可避的に随伴するものであることを示している。政党組織は,普通 選挙体制下における集票の必要性という問題に内在する要請に由来して発生するものな のである..
(10) m.刀.オストロゴルスキーの政治思想. 候補者は,集栗鼠織を動かす人に依存する。この組織ほ,個々人と,国家から,何物 かをひき出そうとするインタレスト集団との仲介的な組織であり,これが,アメ1)カに おける,いわゆる,マシンである。これは,選挙での当選をのぞむ公職者にたいして, 提供される便宜とひきかえに,票や金銭をやりとりする。大統領でさえも,この組織に 間接的に依存するo私的な利益を追求する者ほ,国,州・地方というすべてのレベル で,政党の機関を支持することが,自己にとって便宜である,と考える。数多くの公職 者やライバルと取引きするよりも,政府首脳と恒常的に連絡しあっている党榛関と接触 することのほうが望ましいからである.このようにして,社会構造が複雑になればなる ほど,特殊利益を追求する大規模な会社や集団の側からのマシン-の欲求も高まり,忠 職者のマシン-の依存度も強まる。 マシンの存在ほ,会社や組織された利益主体と,公的権威との関係を単純化すること に役立つものであるが,一般の選挙人にとっても,それほ,重要な機能を果たすものな のである。マシンほ,パーソナルなかたちで,官僚的政府機関との接触方法を確立して いる。だから,それほ,選挙人に仕事を世話したり,まとめ役を買って出たり,その他 きわめて身近なことにまで役立つのである。 都市の下層階級の人々は,とりわけ,マシンにたよる。犯罪者や落伍者を含めて,彼 らほ,マシンが彼らの票を買い,彼らを法から保護するがゆえに,マシンに忠実なので ある。道徳的に立派でほあっても,惨めなくらしをしている人々も,マシンからの援助 をうける。政治屋がおこなう慈善事業や,何くれとない世話ほ,これらの人々の心を捉 える。マシン支配の腐敗をあばき,公的悪人として,そのボスを批難しても無駄なので ある。マシンほ,これらの人々の物質的惨めさだけではなく,精神的惨めさをもやわら げているからであるo. 高い教育をうけた人も,マシンを排斥せず,黙認する。このような人は,非政治的な 仕事に没入しているので,政治の腐敗,非能率などについて何事かをなすために時間を 割くことを欲しないからである。. このように,マシンの究極的機能は,他の集団や制度が行なおうとしない,しかし社 会的にほ必要な活動をおこなうことにあるのである。 強力な政党マシンについての,このような磯能主義的解釈とともに,オストロゴルス キーは,有権者が,自己と政党との一体感をつよく感じていることについて分析する。 彼は,-この政党支持感ほ,あらゆる種類の任意団体の族生という環象と結びつくもので ある,と考えた。すなわち,平等主義的社会において孤立した諸個人は,同一化・帰属 感を求めるという傾向をもち,そのあらわれとして,政党との一体感が捉えられる,と 考えたわけである。. 貴族制秩序が崩壊したのちのイギリスにおいても同様な傾向がみられる。平等化・民 主化の進展にともない,古い階層制が崩壊し,個人は解放された。個人が自由になるこ とは,彼が孤立することである。アメリカでは階層制がきわめて弱いから,孤立化も層急速にすすみ,. 「孤独な群衆」が大量に生み出された.帰属感・一体感に飢えた個人. 33.
(11) 84. 成. 田. 博. 之. 紘,政党を含めた任意の団体と,常に,同一でありたいと希うoオストT,ゴルスキー の,このような分析は,ある意味で,. 1830年代のトクヴィルと,. 1950年代のリースマ. ンをつなぐ環になるのではなかろうか. (3)オストロゴルスキーは,イギリスとアメリカの政党制度について,その類似性を 論じているだけでなく,それらの相違点をも見逃してはいない。彼はこの相違点を次の ように要約している。 ①. アメリカのマシンのはうが,イギリスのコーカス・システムよりも腐敗してお り,ボス支配がつよい。 ⑧. アメリカの政治家は,社会的・経済的には,イギリスのそれよりも,より低い層 の出身者が多い。 ⑧. イギ1)スの政党ほ,全国レベルにおいてほ,規律が,より厳しい。. イギリスでほ,政党政治に下級中間層の出身者が参加しはじめた段階においても,階 層精神や階級精神が,社会に,なお生きていたoそこで,政党活動には,バジョットの 言う尊厳的要因が依然として作用しており,党の地方組織の議長には,常に,地域社会 で大きな威信をもつ人物が就任していたo. したがって,政治活動には,尊厳とステータ. スが付与されていた,といってよい。 「教養と財産」の面で,大衆より優れ これにたいして,アメリカでは事情が異なる。 た社会階級が,政党政治に参加しない理由を,オストロゴルスキーは,二点,あげてい る.第一点は,貴族制の欠如と相倹って,アメ1)カ革命の産物として反-1) -ト的価値 観が定着し,エ1) -トは,政治の舞台でほ,噺笑の対象になっていた点である.第二点 Noblesse Oblige 紘,この裏返しとして,イギリスの貴族階級にそなわっていた, (大 衆を指導する責任)が存在せず,したがって,上層階級が政治-の参加をせきたてられ ることがなかった点である.これらの理由により,政治の世界は,比較的低い階層の手 にゆだねられることになったわけである。政治における腐敗と収賄の程度がアメリカ で,より著しいことも,物質万能主義と,どんな手段によろうとも成功を,と願う業績 主義によって説明される。 両国の政党制度の最も顔著な相違は,議会政党の党規律の有無と,執行府と行政府の 対立関係の有無である。これらの相違ほ,しばしば,両国の憲法構造の違いから説明さ れるが,オストロゴルスキーほ,法的構造ではなく,社会構造から,その原因を探ろう とするのである。この問題を解く鍵を,彼は,議会外政党組織の在り方に見出してい る。. すでにみたように,アメリカの党組織には,強力なボスが存在し,公職や何らかの利 益を求める人がこれに加入し,運営ほ,政治屋にまかされている.これにたいして,イ. ギ1)スの政党は,自発的にでてくるワイアー・プラ-によって運営される.党組織の専 門分化の程度もあまり高度でほなく,党自体は,. 7). -ダ-にたいする尊敬と忠誠を根底. にして成立している。. このような構造を比較すれば,アメ])カの議会政党のほうが,より規律になじみやす.
(12) 料.札オストロゴルスキーの政治思想. 35. いと考えられるが,事実は逆である。国の規模の大小,および,体制,すなわち,連邦 制と単一国家制の相違に,この事実ほ由来する。 アメリカの政党ほ,そもそも,選挙機関として成立したものであり,その機関は,逮 挙に勝利してしかるべきポストを獲得することに専念しているわけであるから,選出さ れ,公職についた者がいかなる活動をなすか,という点についてほ,政党マシンの関心 ほ及ばない。. 上・下両院の議員は,広大な国土のあらゆる地方から選出されて議席に就くわけであ り,各議員ほ,自己の選挙基盤・支持組織にたいしてなした約束をほたすべく独自に活 動する。この目的を達成するためにほ,自己の所属する政党出身の大統領の政策に反し た行動をとることも敢えて辞さない。全国的な政党機関は存在しないし,また存在する 余地もないゆえんである。 イギリスの政党は,個人の私的利益のためにではなく,個人の奉仕と熱意によって運 営されており,党がかかげる政治方針にたいする合意が,党の結束力の主要な要因にな っている.国会議員は,自分達の選挙区の党組織を強固に保った即こ,国会におい七, 忠実な党員であることを求められるのである。 また,オストロゴルスキーによれば,政党の多様化を促がす要因ほ,イギリスに,よ り少ない。イギリスの二政党は,価値や利害を異にしてはいるが,その程度は,アメリ カに比べて著しく低い。アメリカでは,階級的・人種的・宗教的および地域的な種々の 相違が,政党を分かつ要因として作用しているわけである。 全国レベルの政党規律にみられる,両国の差異は,憲法上の規定を無視し得ないにし ても,社会構造上の要田によるところがより大きい,とオストロゴルスキ-ほ強調して いる。. (4)オストロゴルスキーの功績のうちで,これまで見逃されてきたものとして,アメ リカの選挙キャンペーンに関する記述がある。 オストロゴルスキーによれば,選挙戦中の党活動ほ,選挙以前からの党支持者の範囲 内にとどまっている.党集会に出席し,党の宣伝紙を読むのは,ほとんど支持者に限ら れるo集会や宣伝航の主たる機能は,新たな支持者の獲得にではなく,党-の忠誠心を より強固にすることにあるo 19世紀から20世紀-の移行期において,政治家ほ,すで a.,今日でいう世論調査の重要性を経験的に認識していたo政党ほ・世論の動向を察知 するために,選挙の前に戸別訪問をして,有権者の支持政党,要望事項などに関する詳 細なデータを収集,集計した。党本部ほ,送付されたこれらのデ-タをもとにして,政 3度(選挙日前 策を修正したり,新しい方針を決定した。このような調査は,通例, 90日,. 60日,. 30日)行われたが,. 60日前のものが,選挙の結果を予測する上で,ち. っともたしかな手がかりになった,とオストロゴルスキーほ述べている。 以上が,リブセットによって紹介されているオストロゴルスキーの政党分析の大要で ある。.
(13) 36. 成. 田. 博. 之. B.パーカー・ジョンストン論文. パーカー等は,オストロゴルスキーの思想を,ヨーロッ′i自由主義の伝統をうけつぐも のとして把挺し,個人主義的・合理主義的・貴族主義的特徴を有するものである,と規定 するoそのうえで,彼等ほ,オストロゴルスキーの歴史観をとりあげる. オストロゴルスキーによれば,歴史とは,決定されたものではなく,選択されるもの である。政治社会もまた,人間の選択の産物として形成されるものである。したがっ て,その選択が正当であったか否かということほ,病理学的に追跡され得る. 民主的政治の歴史は,おおまかな傾向としても,したがって,議論と選択の歴史とし ても叙述し得るものである,とオストロゴルスキーほみている.選択に際してなされる 決断と紛争は,歴史の挺として,きわめて重要な意義を有するoイギ.)ス自由党のコー カス・システムをめくoる論争についても,オストロゴルスキーほ,多様な意思と政策の 衝突として措いている。この衝突の結果として何が生み出されるかということは,優れ た民主的指導者の慎重な選択の如何にかかっている。したがって,オストロゴルスキー 自身は,歴史を叙述することができるのと同様に,歴史に勧告することもできる,と考 えた。にもかかわらず,彼が関心をもったのは,制度でも法律でもなく,. 「それらを運. 用する具体的諸個人であり,積極的な意思と,もろもろの意思の組合わせが演じる役 割」4)なのである.. このような,歴史における選択の重視と不可分なものとして主張されるのが,政治に おける思想の重要性である。オストロゴルスキーほ,すべての政治社会の存在を決定す る二つの要因として,知的・道徳的文化,および,政治的方法をあげているが,前者に 力点をおいていたことは明らかであるoいかなる政治形態のもとでち,内面性(inside) は欠くべからざるものであって,その内面性ほ,知的・道徳的性質に由来する,とオス トロゴルスキ-はとらえているo. オストロゴルスキーは,アメリカの政党の腐敗も,イギT)スの近代デモクラシーへの 転換の過程も,思想的インパクトにその原因を求めている.政治の世界において思想が 果たす役割の大きさを重視する彼は,政治的変化についても,それが説得活動と知性の 発達によってもたらされる,と説明するわけである。 しかし,思想ほ,すべての市民に同質・同等に内在するすのでもなく,また,最もよ い思想が最も強力であるわけでもない。アメリカとイギリスで,マシンおよびコーカス が発達を遂げたのも,両国の国民が,知的・道徳的に,デモクラシーに十分に対応し得 る状態になかったからである。オストロゴルスキ-ほ,コ-カスの欠点として,政治的 議論を貧困にすること,自由な討論をおさえること,政治的リーダ-シップの資質を低 下させること,をあげているo. しかし,コーカス・システムほ,すべての意見が平等で ある,という前提のもとに成立し得るものなのであり,したがって,自然発生的にあら われる社会的な指導者を駆逐する性格を本来有しているものなのである。.
(14) 37. 爪.札オストT2ゴルスキーの政治思想. パーカー・ジョンストソほ,以上のように,オストロゴルスキーの歴史観を検討したう えで,リブセット論文を,以下の諸点について批判している。 (1) 1)プセットほ,オストロゴルスキ-の政党分析について,今日の言葉によれば,政. 治社会学的ないし行動主義的な方向をもった比較政党制度研究であり「科学的」な分析と も言い得る,と評価しているB).これにたいして,パーカ-等ほ,. 1)プセットが,この. 「科学的」という用語を現代的な意味における政治分析と同義に用いているとすれば,そ れは誤りである,と指摘する8)o. オストロゴルスキー自身が,. 「デモクラシーと政党組織」. の序文で「科学的探究,すなわち,冷静で偏見にとらわれない研究」と述べているにすぎ ない,というのがその論拠である。 (2)前述の「科学的」という用語の定義にもかかわりを有するが,批判の第二点は,オ オストロゴルスキーほ,序 ストロゴルスキーの著書の序文の解釈についてのものであるo 文の冒頭で「この著書において,私は,民主的政府の運営について探求する。私の研究対 象は,諸制度でほない。すなわち,政治的諸形態ではなく,政治勢力なのである」と宣言 している。リブセットはこの部分をとりあげて,この研究方法が,政府の外側の人間およ び制度についての,現実の政治行動にかんする研究をめぎしたものである,と説明するr)。 パーカー等は,この解釈を不正確である,と批判する8).彼らほ,オストロゴルスキーが 「行動」の最も重要なモメソトとして思想を据えている,という解釈を採用しているわけ であるから,この批判ほ,当然のことといえよう。ただし,彼らの批判ほ,. 1400ページ. におよぷ大部の書物に付された,わずか8ページほどの序文のうちのほんの数行にすぎな い部分を捉えて,オストロゴルスキーの方法論の宣言であるとするリブセットの評価はゆ きすぎである,という表現になっている。 (3)批判の第三点は,オストロゴルスキ-の研究の方法論をめぐるものであるo リブセットほオストロゴルスキーの中心的テーマのひとつとして,普通選挙制度を採用 する政治体制に固有な諸要素のなかに政党の行動を探ること,をあげる。さらに,代表的 な大衆デモクラシーの国であるイギ1)スとアメ1)カにおいて,党組織がほぼ類似した形態 をとっている事実から,オストロゴルスキーは,強固な党機関の形成が,普通選挙制度に. 特有な現象であり,しかも,この制度によって要請されるものであることを示唆し七い る,と述べている○)。 I;-カー等は,このような1)プセットの視角を,オストロゴルスキーの研究の性質や方 向性とは,全く無縁なものである,と主張する。オーストロゴルスキーほ,不可避性よりも. 選択を常に強調してい卑のであって,政治的な配置の歴史的個性を尊重し,判断を下すに あたっても,比較の視座を保ちつづけた,という見解を,彼らほ採用しているわけであ る。. 以上紹介したことからも明らかなように,オストロゴルスキーの政党論については,と りわけ,その方法論にかんして,解釈上,対立がみられる。この点にかんする見解の相違 が,この二論文において,オストロゴルスキーの評価に微妙な差を生ぜしめていることほ 見逃せないところである。.
(15) 88. 成. 博. 田. 之. 注. 1). Lipset,. Introduction,これは, Study. "Ostrogorski. and. the. AnalyticalApproach. to. the. Com-. PoliticalParties"と題する独立の研究論文であり,ダイジェスト版の巻 ,parative 頭に, 57頁にわたって付されているものである. 26貢注(2)参照o 2) 3). ibid.,. pp.. of. xvi-xvii.. rリブセットほ,. 「官僚制的党機構を,普通選挙制度の産物として分析することが,オストロゴ ibid.,. ルスキーの*}Ll的テーマである」としているo. 4) 5) 6) 7) 8) 9) 10). R.. Barkerand. Lipset, R.. X.. p.. 423.. xiv. I-Johnston,. p.. 425.. xi. X. Ⅱ-Jobnston,. 246.. xvi, xxiii-iv. X. I-Johnston,. ibid., p.. Barkerand. X.. HIJohnston,,. Lipset,. ibid.,. R.. and ibid., pp.. p.. and. pp.. Barker. Lipset, R.. Barker. p.. xix.. p.. お. 426-427.. わ. り. に. オストロゴルスキーの生涯ほ,次の三つの時期に区分し得る,と考えられる。第一期 (1854-1880)紘,フランス留学以前,ロシアにあって,修学,および,官僚としての勤 務のかたわら,学校用歴史教科書を執筆した時期であり,第二期(1881-1904)は,フラ ンス,イギリス,アメリカで,研究調査活動に従事した時期,第三期(1904-1919)は, 再びロシアに帰って,国会に庸をおき,これを辞任したのち,研究活動を再開した時期で ある。 彼の学問上の業績は,欧米諸国の政治状況・デモクラシーの実態をつぶさに観察する機 会にめぐまれた第二期に集中しているo. この時期に発表されたものは,いずれも西欧デモ. クラシーに関する著作であり,彼の祖国であるロシアについてふれたものほ,皆無である のみならず,ロシア語で記されたものは-篇の雑誌論文のみである. このことは,彼が完全な西欧知識人になりきったことを示しているのであろうか。もし. そうだとすれば,オストロゴルスキーほ,西欧思想史の上で,何らかの位置づけを,当然 に,なされているはずであるoにもかかわらず,すでにみたように,彼は,政党分析の先 駆者として高く評価されてはいるが,西欧思想史の流れのなかでほ,さはど重視されては いない1)0. ところで,一方,ロシア政治思想史の上での彼の位置づけが,いかなるものであるかに ついてほ,現在のところ不明であるo. ただ,. 1912年にフランスで出版されたオストロゴ. ルスキーの著書「デモクラシーと政党」が,ソービュトで二分冊にわけられて出版されてい A・爪.ゴロゲィッツによって, る.すなわち, 1927年に第一分冊(イギ1)ス篇)が, 1930年に第二分冊(アメ1)カ篇)がA.Nl.デェミャノフによって,ロシア語に翻訳され た.このそれぞれに,. A.E.パシュカ-ニスが序文をよせている.. パシュカーニスは次のように言う。. 「オストロゴルスキーの手になる本書ほ,ブルジョ. ア民主主義の本質を余すと■ころなく暴露しており,さらに,ブルジョア政治屋に握られて.
(16) 39. m.札オストロゴルスキーの政治思想. ≪国民主権≫, ≪多数者の いる議会制国家の現実のメカニズムを解明するものであって, 意思≫などの欺隔的な外見をとっているこのメカニズムの秘密の側面を明るみに出したも のである2)」 「彼は,どのような手段によって,持てる階級が,自己の経済的権力を,普通. 選挙制度を通じて政治権力に転化するかを分析している3)」. パシュカーニスほ,このように,オストロゴルスキーの仕事を評価しているわけである が,この視点は,リプセットにも,パーカー・ジョンストソにも全くない。このことは何. を意味するのであろうか。 オストロゴルスキーの生きた時代のロシアは,激動のときであったo彼の生涯の第一期 ほ,ツァ-1)の専制政治がまだ堅固に維持されていた時期であり,また第三期ほ,第一次 ロシア革命,第一次世界大戦,そして史上初のプロレタリア革命がおきた時期であった。 彼がヨ-ロッ′くにあった第二期は,ロシア国内で,労働者階級の進出と,革命運動・政党 の形成がやっとはじまったばかりの時期にあたる。このとき,国外にあって西欧民主々義 の研究に没頭していたオストロゴルスキーは,ロシア国内の政治的動向に無関心でほいら れなかったであろう.彼は,政治活動に直接たずさわっていたわけではないが,この時期 のロシアと欧米諸国の政治構造の落差の大きさに,いやがおうでも気づかずにはいられな かったであろうo. このことが,彼をして,欧米諸国のデモクラシーの実態・政党制度の分 析を,ヨーロッパの学者以上に客観的に行なわしめた,とも考えられるoパシュカーニス の評価は,この点をつくものではなかろうか。. このことは,オストpゴルスキ-自身が,彼の著作にたいして加えられた批判,すなわ ち,事態を,あまりにも暗くペシミスティックにとらえ,政党の害を誇張しすぎている, という批判にこたえて,次のように述べていることからもうかがえるところであるo. 「こ. れらの批判ほ,何よりも,不愉快な事柄を真正面からとらえることを望んでいない,とい うことをあらわしており,私ほ,叙述は正しい,と答えるのみである4)」,. 「私は,ペシミ. ストであるという批難にはたじろがない。私は,政党レジームの欠点を明るみに出すこと が必要であると考えたのであるoそもそも,この書物のメ1).プトは,その建設的な部分に で蜂なく,破壊的な部分にこそ存する,と考えていたのであるし,いまもそう考えてい る8)」。 したがって,彼は,. 23年間にわたムて西欧に生活し,西欧の政治制度を研究し,多く. の業績をあげながら,なお,西欧知識人になりきったわけではなく,ロシア人としての意 識をもちつづけており,そのことが彼の政党分析におおきく作用している,と言い得るの でほなかろうか。. この角度から,彼の政党論・デモクラシー論をあらいなおしてみるときに,ロシアの思 想家としてのオストロゴルスキ-という顔が,浮彫りにされるのではなかろうかo彼にか んする資料ほ,まだ十分に知られていないが,この点を今後の研究課題としたいo 注. 1)たとえば,. S.ヒューズ,生松敬三・荒川幾男訳「意識と社会-ヨーロッパ社会思想史」. のなかでは,オストロゴルスキーについて,一言もふれられていないo. 1965,.
(17) 40. 2) 3) 4) 5). 田. 成. (A・m・. ropoBHq),. IlepBO畳,. 1927,. TaM. CTp.. Xe,. cTp. 5.. (AIM・ ReMh皿OB), TaM. Xe,. CTP.. 368.. m・. OcTOPOrOPCKHfi,. 博. 之 IloJIHTHtleEHe. neMOKPaTH兄H. 1.. TaM. Xe,. ToM.. BTOPO免,. 1930,. CTP.. 363.. napTEH,. ToM.
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