カウツキーの財政思想(二)
その他のタイトル A Note on Kautsky's Thought of Public Finance (2)
著者 広田 司朗
雑誌名 關西大學商學論集
巻 2
号 6
ページ 521‑541
発行年 1958‑02‑28
URL http://hdl.handle.net/10112/00021814
四
︵ 広
田 ︶
策について︑これを二つの時期にわけて︑以下に考察しよう︒
カウッキーの財政思想
前稿において︑私は︑ カウッキーの財政思想の一部について︑すなわち初期の労作にみられる近代国家財政の批
判および一九 0 八・九年頃に発表された予算協賛問題に関する見解を︑概略考察してきた︒前者についていえば︑
社会民主党が目標とするところの支配機関としての国家の文化国家への転化ほ︑プルジョア民主主義にもとづくプ
ルジョア的租税政策によれば︑
カウッキーの財政思想︵二︶ たとえその意図が善意あるものとしても︑
考察したカウッキーの見解の一応の結論であった︑といえよう︒それではこのような目標を達成するための財政政
策はいかなるものであろうか︒カウッキーがプルジョア的財政政策に対比して叙述しているプロレクリア的財政政
社 会 民 主 主 義 的 財 政 政 策
︵ そ
の 一
︶
まず最初に第一期の労作について︑その租税政策的主張から考察しよう︒
カウッキーが租税政策の出発点としている原則についてはすでにふれた︒それによれば︑唯一の税源は剰余価値
であった︒プルジョア民主主義的租税政策にあっては租税の軽減が問題であったが︑社会民主主義の租税政策にお
いては﹁租税を︑それに耐へ得る肩に持って行くこと﹂が重要である︒このことは︑換言すれば︑剰余価値課税の
︵ 二
︶
不可能であった︒これが︑前稿において
広
田 司
朗
522
課税という手段のみが唯一の形式として採用せられる︒ ところで剰余価値課税は︑
重農主義者の考えているように簡単に理解されるものではない︒それは︑ ② した後表面に現はれる︒﹂それは︑それの直接的なかつ完全な把捉が不可能である程に複雑な現象形態をもっている︒
それではかかる複雑な剰余価値のもっとも合理的な課税方法は何であるか︒この問を自ら設定し︑それにたいする
解答として︑彼は︑社会民主党の綱領を指示する︒すなわち︑累進的な所得税と財産税および相続財産の大きさと
親等に応じて累進する相続税の要求が︑これである︒そして﹁これらの組合せが実際に最も確実に剰余価値に適中
するやう思はれる﹂と︑
民主主義においても存在しない訳ではない︒しかしその要求は不徹底である許りでなく︑剰余価値動員の方法は︑
往々にして租税形式を選ばずに︑公債募集の形式を採用する︒かかる形式は︑社会民主党にあっては否定せられ︑
しかしながら剰余価値課税には自ら限界が存在する︒その限界は資本蓄稼にもとづいている︒というのは︑
会が何等かの理由から︑資本の機能を自分自身で完全に掌握するに至っていない限り︑剰余価値は重大な経済的役 ③ 割を演ずる﹂からである︒剰余価値は︑その一部分のみが消費され︑他の部分は蓄積されなければならない︒現代
における経済的進歩︑社会主義的社会の可能性の出現は︑自然科学とともに資本蓄積に負うている︒したがって資
本の蓄積を不可能ならしめようとすれば︑進歩は阻止され︑社会主義の前提条件は阻害される︒かくして剰余価値
は恣意的にかつ無制限に課税されることはできない︒ただしかし資本主義社会においては︑資本の蓄積衝動はきわ 要求に他ならない︒ カウッキーの財政思想︵二︶
カウッキーによれば︑重農主義者によっても主張せられたが︑しかしその現象形態は︑
カウッキーは述べている︒この剰余価値課税の要求は︑
︵ 広
田 ︶
﹁ 社
いうところによれば︑ブルジョア ﹁雑多に分離され︑且つ形態の転化をな
︵ 広 田 ︶
急速に行われることができるし︑ たとえ﹁国有化が全然没収の形をとらない時にも﹂︑ めて強力なものである︒したがって進歩を阻止することなく︑
かなり強力に剰余価値課税を行うことができる︒そ れでは剰余価値課税はいかなる程度まで可能であるか︑その限界は如何という問題が当然提起される︒しかしカウ ツキーは︑この限界を算出しようとすることが全く無駄であると述べて︑
不問に附している︒
ところで彼によれば︑租税によって調達される額は︑文化国家の費用を支弁するのに必ずしも十分でない︒し たがってそれを賄うためには︑課税方法を補完する手段が採用されなければならない︒カウッキーは︑その手段と して︑国家による剰余価値の生産︑すなわち国家独占を指示する︒この国家独占は︑経済的発展および政治的発展 によって︑必然化され︑自然的および人為的な私的独占にたいする反抗が﹁全体によるその取得︑公共体によるそ
如
の経営の継続﹂への途に通じている︒しかしながらこの国家独占は︑国家権力の在り方によって︑その果す役割を 異にしているといわれる︒いうところによれば︑国家権力が巨大な資本の支配下にある場合には︑国家独占は簡単 に行われえないし︑また必ずしも望ましいことではない︒これにたいして労働者階級が相対的に大きな権力を掌握
固
し︑かくしてまた﹁国家の勢力範囲の拡大を恐れる何等の理由を有しない﹂場合にあっては︑私的独占の国有化は︑
労働者の諸条件の改善︑消 ⑥
費者の利益および文化活動の促進のための費用を支弁するだけの収入を︑国家に保証することができるのである︒
かくしてカウッキーによれば︑プロレタリア的な財政政策は︑私的独占の国有化と自治体有化︑間接税の累進的 所得税︑財産税および相続税による代置ならびに公債の否定につきる︒この財政政策は︑彼によれば︑賃銀労働者 よりも︑小手工業者︑小商人︑小農民にとってはるかに重要である︒というのは︑前者にあっては︑その多くのも のが上昇の傾向にあるが︑後者は衰退する傾向をもっている︒したがってプルジョア的財政政策は︑前者には上昇
カウッキーの財政思想︵二︶
521'
カ ウ
ッ キ
ー の
財 坪
思 想
︵ 二
︶
の障碍を意味するが︑後者には衰退の促進を意味する︒かくてプロレクリア的財政政策は︑前者よりも後者にとっ F て︑ほるかに大きな利益関係をもっているのである d
ところでこの財政政策は︑ いかなる段階に展開されるだろうか︒これは︑この財政政策の実施を可能とする条件
の問題でもある︒この点に関してカウッキーは︑資本主義生産方法の存続とプロレクリアートの大きな政治権力の
存在という二つの条件をあげている︒ところがこの二条件は相互に排斥し合う性質のものであり︑ したがってこの
二条件が両立しうる期間は︑きわめて僅かかさもなければおそらく発生しないものと考えられている︒
吾々の現在の叙述に於いても基礎として想定されたが︑ しかし恐らくは発生しない︱つの状態を前提とする︒即ち︑
資本主義的生産方法が攪乱されることなく進行しつつプロレクリアートの大きな政治権力が存するといふことであ
る︒この両者は殆んど全然相互に相排し合ふ︒そして如何なる場合にも︑ほんの僅かな期間のみ両立し得るにすぎ ⑧ ないであらう﹂と︒さらにまた彼は次のようにも述べている︑すなわち﹁プロレクリアートが政治権力を得た場合 ︐ に於ける社会的諸関係は︑此処に描かれた埓内に於ける特殊な租税政策を無用とする様なものであるかも知れない﹂
と︒したがってこのような財政政策を展開するための政治的条件が︑
不安定な性質のものであり︑その政策展開が現実的可能性のほとんどないものとされているといえよう︒
それでは︑このように現実的可能性をあまりもたない特殊な財政政策の意義はどこにあるか︒カウッキーは︑そ
れがプロレクリアートの政治的力の程度を判断する︱つのメルクマールとしての意義をもつことを指摘すると同時
に︑それ以上に︑それが社会運動の方向を示すものであるという点に︑その意義を見出している︒そのいうところ
によれば︑社会的目標の意義は︑それが到達されるか否かにあるよりも︑むしろそれが社会運動の方向を忠実に示
︵ 広
田 ︶
カウッキーにおいては︑きわめて過渡的かつ
四
﹁ そ
れ は
︑
( 8 ) ( 7 ) ( 6 ) ( 5 ) ( 4 ) ( 3 ) ( 2 ) ( 1 )
︵ 広
田 ︶
五
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すか否かという点にある︒かくしてこのブロレクリア的財政政策も︑それが実現されるか否かに問題があるよりは︑
それがプロレクリア民主主義の目標として︑その運動の意義と必然的方向を示す正確さの中に︑意味をもっと考え
向 坂 逸 郎 訳 ︑ 農 業 問 題 ︵ 岩 波 文 庫 阪 ︶ ︵ 下 ︶ ︱ ︱ ︱ ‑ = 二 頁
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A~rarfrage•1899.
同 上
︑ 一
︱ ︱
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︱ 一
頁 ︒
同 上
︱ ︱
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= 七
頁 ︒
同 上
︱ ︱
︱ ︱
︱ 一
九 頁
︒ 同 上 三 四
0 頁
カウッキーは︑この国家独占を社会主義的なものと区別している︒そのいうところによれば︑この国家独占は︑﹁社会の使
用のための直接的生産ではなく︑商品生産という与えられた前提の下に﹂在存する点で︑社会主義的なそれと区別される︒
この点から明らかなことは︑カウッキーが社会主義社会における商品経済の存在を否定していることである︒さらにまた彼
は︑﹁ニルフルト綱領解説﹂において︑国家の本質の変革なしに︑全経済機構を国有化したとしても︑それは社会主義協同
組合を意味するものでないことを指摘している︒しかしまた他面︑カウッキーは︑この国家独占 1 彼はこれをブロレクリ
ア的国家独占と呼んでいるーー'をプルジョア的国家独占とも明確に区別している︒プロレクリア的租税政策の一環としての
前者は︑剰余価値を国家に供与する手段であって︑この国家独占のために一生産部門が適しているか否かほ︑その生産形態
の高度によって判定されるが︑後者のプルジ a ァ的な国家独占ほ︑そうではない︒それは︑プルジ a ァ的租税政策の一部と
して︑間接課税のもっとも有効な手段であり︑したがってブルジョア的国家独占にとって一生産部門が適しているか否かの
メルクマールは︑その生産形態の高度にはなく︑消費者大衆の生活手段または享楽手段としてその生産物のもっている意義
にある︒かくして﹁国家独占を社会主義と混向することが許されないとすれば︑又ブロレクリア的国家独占をブルジョア的
のそれと混同することも許されない︒﹂︵農業問題下三四一頁︶
同 上 三 四 二 頁
同上
11一 四 0 頁
カウッキーの財政思想︵二︶ られているのである︒
526
ー 日 い る
︒
カウッキーの財政思想︵二︶
社 会 民 主 主 義 的 財 政 政 策
︵ そ
の 二
︶
以上述べたところはカウッキーの初期の財政政策論である︒これに関する私見は後述することにして︑次に第三
期における彼の見解を考察しよう︒すでに述べたように︑この期の労作ほだいたい一九一五・六年頃に発表されて
社会民主主義的租税政策
祖税問題分析の前提
かつてニンゲルスは︑租税や国債をもって労働者にとってさほど関心をひかない問題であると述べたが︑
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キーは︑事態の変化にともなう租税問題の重要性の増大をまず第一に指摘している︒
さらにカウッキーは︑租税問題分析の方法として一般的原理的分析と具体的個別的分析をあげ︑自らを前者に限
定する︒この一般的原理的分析とは︑そのいうところによれば︑永遠に妥当する原理の追求という意味ではなく︑
一定の発展段階にあるすべての国家に妥当する租税原理︑したがってまた﹁発展せる資本主義的生産様式をもつ国 ② 家に妥当する租税原理﹂の追求である︒しかもこのような原理の追求は︑租税問題における政治的側面の閑却と結
びついていると思われる︒このことは︑彼が﹁問題の政治的側面は︑仮令それがもっとも重要なものであろうとも︑
U O ) ( 9 )
同 同 上 上
五
一 四
四 頁
一 三
七 頁
︵ 広
田 ︶
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カ ウ
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I l 労 賃 課 税
か ら
み る
場 合
︑
︵ 広 田 ︶
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である︒この利益は︑
したがってカウッキーにあっては︑プロレクリアートの階級利益は︑ 引 ると考えられている︒
七
ところでこの一般的原理的な問題分析に際して主張しなければならない利害が存する︒それは租税問題考察のい
わば前提条件であると考えられている︒この前提条件とは︑全プロレクリアートの恒久的な階級利益
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と一致するものであり︑社会発展を念願するものすべての問題であ 山 る︒さらにまたこの一般の利益は︑生産諸力の拡大を自らの側で要求する消費者の利益でもあると考えられている︒
一般の利益であり︑また消費者の利益でもあ
以上のように租税問題分析の前提条件を明らかにしたカウッキーは︑租税問題分析の視点として二つの点をあげ
ている︒その一っは︑租税は剰余価値からのみ支払われるべきであるという剰余価値課税の視点である︒さらに他
の一っは︑租税を生産的に使用するか不生産的に使用するかという使用方法に関してである︒もとよりカウッキー
は租税の生産的使用を肯定するのであるが︑この場合の生産的という意味について︑
および資本家の立場とならんで存在する﹁社会の立場﹂からみた生産性であることを明らかにしている︒この立場 6 の生産力﹂を増大せしめる消費が生産的消費である︑といわれる︒
﹁ 共
同 体
( G
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)
さて以上のような前提に立って展開せられた彼の積極的主張がいかなるものであったか︑次にそれをみよう︒
剰余価値が唯一の税源と考えられていることはいま述べたところであるが︑しかしまたカウッキーは︑社会的総
カウッキーの財政思想
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③ 私はここで述べない﹂と述べている点に窺える︒
カウッキーは︑それが労働者
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一般の恒久的利益
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S28
カウッキーの財政思想︵二︶
7 1
生産物をもって租税調達の源泉であるとも述べている d この社会的総生産物は四つの部分に分けられる︒すなわち︑
一︑消費された生産手段の補填分︑二︑労働者階級の消費資料︑三︑有産者階級の消費資料および四︑生産拡大の
ための新しい生産手段がこれである︒これらのうち︑第一の部分は生産過程にとって不可欠の部分であり︑これを
制限する租税は﹁国家の生産力﹂を低減させ︑国家を破産にみちびく︒同様のことは第二の部分にも妥当する︒労
働者の消費資料にたいする課税によって生ずる消費制限は︑労働力の更新を阻害するが︑このことは︑ ⑧ 益と生産者利益の立場﹂から否定されなければならない︒かくしてカウッキーはまず第一に大衆の消費課税に反対
する︒しかしまた他面において︑
﹁ 消
費 者
利
カウッキーは︑この消費課税の否定が単に租税の種類にのみよるものでなく︑そ
れの使用目的に依存している点も指摘している︒いうところによれば︑例えば大衆の消費を促進する目的をもった
消費基金設置のための消費税は消費を制限するものではないが︑しかしかかる目的のための租税使用は︑今日の国 ︐ 家ではほとんど行われないのである︒これらのことは関税にもあてはまると考えられている︒
第二にあげられているのは流通税である︒これもまたカウッキーは否定する︒すなわち︑労働者の消費は制限に
耐えられるほど高いものではないという理由によって︑それは否定されなければならない︒しかもこの租税が労働
者によって直接支払われないとしても︑そのことによってはなんら事情は変らない︒というのは︑資本家が一定の
事情の下で処理しうる資本の大きさは︑任意に増加せしめることのできない一定の大きさであり︑したがって流通
税によって原料値上りや営業の失費を余儀なくされれば︑賃銀引下げや経営規模の制限を通して労働者の損害をも
のみ﹂許容せられるが︑しかしカウッキーによれば︑ たらさざるをえないからである︒かくて流通税は﹁労賃で生活しない少数者の個人的消費物を騰貴せしめる場合に
^ " 5
u かかる流通税はほとんど存在しないのである︒
︵ 広
田 ︶
八
とは明らかに誤まりであって︑
︵ 広 田 ︶
それでは労賃部分にかかる所得税について︑ カウッキーはいかなる見解をもっているだろうか︒所得税は通常一
般の利益にもっともよく適合した公正な租税とみなされているが︑ しかしこの租税にも条件が設けられなければな
らない︒すなわち︑大衆の支払う所得税は彼等の消費の制限を通してその生産力の低下を招来する故に︑労賃以上
に出ない小所得の免税という制限の設定が必要である︒しかしまた︑
れ難いという湯合については︑ たとえこのような免税点を設けても︑その免
税点をこえる労賃が多く︑このために所得税が主として労賃にかかり︑他方自己労働にもとづかない所得が捕捉さ
カウッキーは︑さらに他の方法でこれを捕捉すべきことを指摘し︑同時にまた︑高
額所得においては労賃部分は次第に少くなり︑これに反して剰余価値部分が多くなるという理由によって︑当該所
得にたいする累進税率の適用を主張している︒例えば︑エ湯や銀行の管理者あるいは医者や弁護士の高い所得は︑
単に労賃のみでなく︑訴訟依頼人や息者︑さらには株主の剰余価値の分前をも含んでいるのであって︑
の形態であらわれるにしても︑それらをすべて労賃とみなすことは許されないのである︒
についてカウッキーは︑
^ U
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と結論している︒
カ ウ ッ キ ー の 財 政 思 想 ( 1 1 )
九
たとえ労賃
それではいったい労賃とはいかに解せられるべきであろうか︒いうまでもそれは労働力の価値であって︑労働給
付の報酬ではない︒したがってそれは﹁労働者階級の歴史的に生成した生活水準﹂に依拠している︒しかもこの生
活水準は︑時代︑地方によって異るのみならず︑労働者階級内部でもその職業の差異によって異っている︒この点
かかる多様性は﹁当該労働者の主として補充される階級や階層の生活水準﹂から導かれる︑
かくして巨額の所得が仮に労働給付の報酬の形態をとっているにしても︑そのことからその課税を度外視するこ
﹁本来の賃銀﹂に課税されることがなければ︑それで十分であるとして︑労働力の
530
てるべきであろうか︒
こ れ
は ︑
カウッキーによれば︑ カウッキーの財政思想︵二︶ 蓄積基金の課税 以上のように労賃課税に検討を加えた後︑
るクーノーの解釈は誤まりである︒
カウッキーは︑蓄績基金にたいする課税について考察を加える︒この 基金はいうまでもなく剰余価値の一部分であり︑資本家の消費基金とともに剰余価値を構成する︒カウッキーはこ の剰余価値をもって唯一の税源と考えている︒ところでいま述べたように︑剰余価値は蓄積基金と消費基金に分た れる︒この両者は区別されなければならない︒ここでカウッキーは︑
り
4
h"9マルクスもェンゲルスも単一所得税を否定した︑と考えられている︒クーノ.ーは︑自己の所
訓 " i
得税否定の論拠をマルクスとエンゲルスの所説に求め︑流通税課税を主張した︒しかしカウッキーによれば︑かか
ニンゲルスもマルクスも単一所得税を否定したのでないことを︑カウッキーは︑
ニンゲルスの﹁フランスとドイツの農民問題﹂およびマルクスの﹁ドイツ労働者党綱領評註﹂を引用することによ
u ^
っ て
︑ 力
説 す
る ︒
カウッキーがクーノーの見解を批判したという事実は︑
クーノーが所得税否定の根拠の一っとしてあげている資 本蓄積にたいする有害な作用を論破することを︑意味していた︒カウッキーは︑資本蓄積にたいしてあまり几帳面 な態度をとる必要のないことを指摘している︒それではいったい資本主義的蓄積にたいしていかなる租税政策をた
﹁ 租
税 の
使 用
﹂ ︑
かくてまた全体的な国家政策に依拠する事 d
H"
l
柄である︒ところで﹁プロレタリアートおよび一般の利益は生産および生産力の急速な拡大を要求する︒﹂
クーノーによれば︑ た点を指摘すると同時に︑ クーノーの租税論に反撃を加える︒
I [ 価値たる労賃への課税を否定している︒
︵ 広
田 ︶
したが ェンゲルスがこの両者を明確に区別しなかっ
1 0
︵ 広 田 ︶
不生産的に使用しようと︑同じであるからである︒
w
﹁それは︑租税が生産 って﹁強力なプロレクリアートの存在する民主的な国家﹂では︑租税が生産的目的すなわち社会政策的施策︑学校︑ 交通手段︑上水道︑鉱山経営︑農業経営︑土地改良等に使用される湯合︑そのための蓄積基金課税はなんら抑止さ れる要はない︒というのはこの場合には︑蓄積基金をも捉えるような剰余価値課税は︑社会主義社会への移行の手
^ " 彎
段となることができるのであるしかし今日の国家では︑かかる目的のための課税は要求されえない︒そこでは生
産力の発展はただ副次的にのみ推進されるにすぎず︑その主要支出は不生産的なものだからである︒かくしてカウ
ツキーは︑資本主義国家における蓄積基金については︑不生産的支出という事実認識にもとづいて︑
な見解をもっている︑と考えられる︒しかしこの点に関して︑彼はより詳細には述べていない︒ただ公債の利払い り
H u
のための剰余価値課税︑したがってまた蓄積基金課税は無条件に認められることを︑指摘しているにすぎない︒
資本家の消費基金の課税
消費基金の課税については︑
ための経費が社会的生産力の発展を阻止すべきでないとすれば︑それを賄うべき租税の源泉は唯一っしかない︒す
なわち資本家および地主の消費基金がこれである︒というのほ︑この基金の消費はつねに不生産的であり︑政治的
社会的にはそれの使用の仕方は問題をもつにしても︑経済的には︑資本家が不生産的に使用しようと乃至は国家が
かくてこの基金はできるだけ多く課税されるべきであるとカウッキーはいう︒すなわち︑
的に使用されるかもしくは大衆の生活状態の向上のために使用される場合にも︑主要な源泉をなし︑国家の不生産
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的目的のためには︑唯一の税源として用いられなければならない︒﹂
カ ウ
ッ キ
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財 政
思 想
( 1 1 )
かなり否定的
カウッキーは︑租税の不生産的使用との関連において捉えている︒不生産的目的の
ここでカウッキーはふたたびクーノーをとり
~32
カ ウ
ッ キ
ー の
財 政
思 想
︵ 二
︶
あげる︒クーノーは︑奢俊品消費の課税による減少がそれの生産を制限し︑それに伴って労働力の遊休化︵失業︶ 餅
h u
彎
が生ずることを指摘している︒これにたいしてカウッキーは︑生産力の拡大が消費の拡大なしには不可能なことは
否定できないにしても︑消費の増大は富者の奢俊の増大という形態のみをとるものでなく︑むしろ富者の消費にた
いして寛大な租税が労働者の消費制限を招くことを指摘し︑さらに国家による租税の不生産的使用が資本家の消費
と同じ作用をもち︑したがって生産物にたいする総需要に変化のないことを主張する︒
このように消費基金の強力な課税を主張するカウッキーは︑その課税方法に言及する︒まずもっとも手近な方法
としてあげられるのは︑富者の奢俊品課税である︒しかしカウッキーによれば︑これはその収入に比例しないよう
° 図
な煩雑な機構を必要とするしたがってこれに代る方法が当然必要になる︒それは︑この消費基金を間接的に捉え
るものとしての高額所得課税である︒
この所得税については︑それが消費基金のみならず蓄積基金にもかかり︑その双方が減少するという異論が存在
する︒これにたいしてカウッキーは︑資本蓄積に関する二つの点を指摘する︒その第一点は︑資本の蓄積は資本家
の恣意によってきまるものではなく︑それを強制する経済的条件が存在するということである︒とくに企業間の競
争のもつ強制力は︑資本家の浪費の欲求よりも大である︒さらに第二点は︑権力欲がこの蓄積を強制するというこ
とである︒すなわち︑資本主義以前にあっては︑権力拡大の主要な方法は浪費に求められたが︑資本主義社会にお
いては蓄積に依存するということである︒かくて所得税による蓄積侵害の懸念をカウッキーは否定する︒さらに彼
は︑かかる蓄積への強制力の下で︑所得の大いさとの関連において︑蓄稽にたいして租税の及ぼす作用を考える︒
それによると︑蓄積は︑租税が累進的であればあるほど︑小所得の負担が小であればあるほど︑また大所得の負担
︵ 広
田 ︶
って︑この場合には高額の所得税と財産税が強力な刺戟剤の役割を果す︒ る ︒ >
︵ 広
田 ︶
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が重ければ重いほど︑阻害されることが少い︑と考えられている
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これはいうまでもなく累進税の主張にほかなら
ない︒しかしながら同時にカウッキーは︑所得税を補完する租税をも考慮している︒それによれば︑所得税額の査
定に際して︑所得の十分な把握は困難である︒したがって単一累進所得税は理想的であるが︑それの実施は現実に
困難であり︑かくてそれを補完するものが必要となる︒かかるものとして︑彼は所有税︑財産税︑相続税および価
値増殖税をあげる︒
祖 税 の 高 さ
以上税源乃至税種について検討を加えてきたカウッキーは︑次に徴取すべき租税の高さを考察する︒いかによき
租税でも︑所与の経済的諸条件によって規定せられる一定の高さをこえる場合には︑ マイナスの反作用をもたらす
からである︒かくてカウッキーは︑租税の高さーー徴税額の最高限について次のように考える︒すなわち︑
課税がその生産性なりあるいは大衆の生活水準を害うことなしに達しうる最高限ほ︑剰余価値にもとづく消費基金
であると︒それではこの最高限をなすということの意味はどこにあるだろうか︒カウッキーは︑
所得税や財産税が蓄積を著るしく脅かしたりあるいは既存の資本を侵蝕し減少せしめるような高さにまで達するこ
とを︑資本主義国家において懸念する必要はない︒と述べているが︑ しかし租税があまりに高い場合に︑
険性が︑すなわち資本逃避の危険性が起りうることを指摘している︒したがって彼は徴税の限界に関する問題を資
本逃避に関連づけてとりあげているといえよう︒ところでカウッキーは︑資本の逃避を二つのケースに区別してい
ーは資本自体の逃避であり︑これはとくに高い消費税と流通税によって助長せられる︒他は資本家の逃避であ
カウッキーの財政思想︵二︶
53‑4
ろ う
︒
V I む す び
カウッキーの財政思想︵二︶
ところがかかる資本逃避の危険性の指摘は︑
カウッキーによれば︑高すぎる租税についての警告としてなされる のでなく︑むしろ有産者にたいする高率課税の警告やあるいは大衆の消費・流通の課税のための輿論喚起の目的で
なされる湯合があり︑
しかも社会民主主義者によってなされている︒カウッキーはその例としてふたたびクーノー
四 の見解をあげ︑これに反論を加えている︒
最後に彼は︑資本逃避とならんで︑労働者移住の危険性の存在することを指摘する︒これは︑彼によれば︑前者
よりも産業にとってより脅威的であり︑
したがって労働者の移住を促進するような方法で資本の逃避を防止しよう とすることは︑きわめて誤まったやり方であると結論されるのである︒
以上でわれわれは︑
カウッキーの後期の財政政策論のうち租税政策に関する部分を一応考察してきた︒その内容
をここで簡単に要約すると︑
カウッキーは︑租税政策の検討を経済的側面に限定し︑社会的純生産物の三つの構成 部分にたいする課税の作用と限界について吟味するが︑就中前者の問題が彼の見解の主要な部分をなしている︒こ れは税源ないし税種選択の問題に他ならない︒そして結論的にいえば︑資本家の消費基金をもって唯一の税源とし︑
小所得免税の下での累進的所得税と財産税その他の補完税の採用を提唱しているといえよう︒彼が﹁経済発展は︑
国家の消費が資本家階級の消費基金からのみ支弁されるとき︑もっとも急速に行われる︒このことは︑累進的な所
閲
有税と小所得を免税にする累進的所得税によって︑もっともほやく達成される﹂と述べている点でも︑明らかであ しかしながらこの結論はともかくとして︑ここでみられた彼の政策論にはかなり問題点が含まれている︒このこ
︵ 広
田 ︶
一 四
( 3 ) ( 2 ) ( 1 )
︵ 広
田 ︶
とは︑租税問題分析の前提条件の叙述の際にかなり明瞭にあらわれているが︑それらの問題点はなお後に詳しく検
S . 7 3 7
一 五
およびニンゲルス︑住宅問題︑
k•Kautzky,
S o z i a l d e m o k r a t i s c h e S t e u e r p o l i t i k , N e u e Z e i t 3 4 J a h r g B d . . 2
マル・エン選集︵大月書店阪︶十二巻上︑一 0
九 ー
︱
1 0
頁
カウッキーは︑この租税問題にたいする関心やそれの重要性の増大したことに関して︑その原因なり理由なりは述べていな
ぃ︒しかし彼が戦争の経済的作用を重視したり︑またアドルフ・ブラウソ
A d o l f B r a u n
の戦後における帝国財政新編成
に関する見解に言及していること
( K a u t z k y , N u r F r a g e d e r S t e u e r n u n d M o n o p o l e , e N u e Z e i t 3 3 J a h r g .
1
B d .
s .
6 7 3 )
さらにまたカウッキーの租税問題に関する諸論文が主として一九一五・六年頃を中心として発表されている事実か
ら判断するとき︑財政ー租税問題の重要性の指摘は戦争財政というきわめて実際的な問題意識と結びついていると考えてい
い で あ ろ う ︒
K a u t z k y , G r u n d s a t z l o s e S t e u e r p o l i t i k . E i n e E r w i d e r u n g v o n K a r l
Kautzky•Neue
Z e i t
3 4 , J a h r g .
2
B d . S .
1 0 7 この短論文は︑^イソリッヒ・クーノーの租税問題分折にたいしてなされた批判である︒︵拙稿︑ H ・クーノーの租税
思想︑関西大学商学論集︑一巻六号参照︶そのいうところによれば︑クーノーの歴史的経済的相対性の問題としての把握は︑
歴史学派の経済理論と同様に︑無原則的である︒これにたいして︑古典派経済学にあっては︑一般理論はつねに一定の租税
原理にまで到達したのである︒特殊な問題の考察にあたっては︑まず一般的原理が前提され︑それが特殊なものへ翻訳され
なければならない︒もとより︑すべての国にたいして︑その発展過程や個々の特殊な経済状勢を顧慮することなしに妥当す
る租税原理は在存しない︒しかし一定の発展段階にあるすべての国にとって妥当する原理は存在するのである︒
( a . a . O . S .
1 0 7
ー 1 g )
しかしながら︑カウッキーのこのような考え方︑すなわち資本主義経済に内在する法則の如き
1般的原理が租税
問題に存在するか否かについては︑なお考慮すべき点がある︒
K a u t z k y , N u r F r a g e e d r S t e u e r n u n d M o n o p o l e , N e u e Z e i t
3 3
J a h r g .
1
B
d . S . 6 7 3
こ の 政 殆 江 的 側 面 無 視 の 理 由 は ︑
注目すぺき問題を含んでいる︒それによれば︑租税が資本主義国家の政府︑統治機構の物質的基礎である限りにおいて︑ブ
ルジョア的反対派
( d i e b i i r g e r l i c h e O p p o s i t i o n )
~、租税拒否をもって、その敵対的な国家権力克服の手段とみなして
カウッキーの財政思想︵二︶ 討することにしたい︒
1136
( 5 ) ( 4 )
カウッキーの財政思想︵二︶
きた︒しかしプロレクリア的反対派にあっては︑このような手段はもはや見出すことはできない︒というのは︑プロレクリ
アートによって支払われる直接税の租税総額に占める比重は︑いまやきわめて小さいものであり︑その拒否は大きな影響を
与えるものではないからである︒
このようにカウッキーは︑租税問題の政治的側面を︑租税の拒否というきわめて戦衛的な問題として捉えているが︑さらに
つづいて︑予算の原則的拒否の問題についても注目すぺき見解を打出している︒彼は一九一四年八月四日および十二月二日
の戦時信用
( K
r i
e g
s k
r e
d i
t )
協賛の事実をとり上げて︑これが予算拒否という党決議の破棄を意味するか否かほ︑この戦時
信果をいかに捉えるかによるものであると述べている︒そのいうところによれば︑この戦時信用の協賛をもって政府にたい
する信任投票とみるならば︑それは予算協贅についての理解の誤まりである︒この戦時信用を単なる危機信用
( N
o t
s t
a n
d s
,
k r
e d
i t
)
と考えるならば︑それの協賛ほ予算協賛と同一に考える必要はなく.︑したがって反対政府にたいして協賛しても差
支えないのである︒それ故にそれはなんら党決議にたいする違反ではなく︑また決議の妥当性がそれでもって脅かされる訳
で も
な い
︒
かくしてカウッキーは︑戦時信用を緊急事態の発生に対処するための応急手段と解釈することによって︑予算拒否の党決議
との両立を根拠づけようと努力したが︑このような努力自体が︑予算拒否をもって原理とみるか戦衛とみるかという党内の
対立的見解の存在の前に︑自らの混乱を暴露したものといえるであろう︒
S o
z i
a l
d e
m o
k r
a t
i s
c h
e S
t e
u e
r p
o l
i t
i k
,
S .
7 3 7 1 7 3 9
生産者と消費者︑階級利益と一般の利益もしくは共同利益に関して︑カウッキーがいかなる見解をもっていたか︑以下少し
<述べると︑まず第一の問題については︑マックス・シッペル Max
S c
h i
p p
e l
の生産者と消費者に関する見解にたいする
彼の批判において示されている︒シッペルは︑貿易政策にたいする労働者階級の立場を検討する際に︑労働者階級とその他
の小利子生活者︑官吏︑技術家︑事務員︑小商人等のグルーブを区別する︒すなわち労働者階級の場合︑その賃金の決定は
生産の領域において﹁労働と資本の交換﹂を通じて行われ︑その物的内容は︑価格の変化につれて表現が異るにもかかわら
ず︑不変である︒つまりその実質賃銀ほ固定的であり︑物価の騰落によってその消費が制限されたり拡大されたりすること
はない︒ところが後者にあっては﹁所得はほとんど動くことなく︑価格の運動は第一のかつ最大の懸念となっている︒﹂ジ
ッペルによれば︑これこそ﹁消費者党﹂の精鋭部隊であり︑純粋な消費者の立場の代表者である︒
( M
a x
S c
h i
p p
e l
,
G r
u n
d '
︵ 広
田 ︶
‑ 1
^
z i i g d e e r H a n d e l s p o l i t i k
1 ,
9 0 2 . S .
3 3 6
ー3 3 7 )
しかしながら倫た寺ほ価格の変動に眼を奪われて︑経済の発展過程にたい
する自由な見透しをもつことはできない︒ところが問題は生産のより高度な発展にあり︑プロレクリアートの現在および未
来にたいしては︑生産の局面において決定的な骰子が投げられるのである︒︵
a . a . 0 .
S .
3 3 8 )
かくてシッペルは︑労働者階
級の貿易政策にたいする立場決定が︑生産との関連においてなされることを要求する︒
( a . a . 0 .
S .
3 4 2 )
これにたいしてヵ
ウッキーは︑資本主義発展の起動力としての生産の意味を吟味し︑さらに貿易政策や価格運動に関連してシッペルの消費者
の概念を批判し︑消費者の立場を基本的に代表するものが労働者階級であることを明らかにする︒それによれば︑﹁シッペ
ルの意床での消費者の把握が︑今日の社会に荒れ狂っている消費者と生産者の間の対立の力と生産者が保護関税による消費
者の収奪
( S c h r o p f u n g )
からうけとる大きな利潤を︑けっして説明するものでないことは︑明らかである︒この種の消費
者は︑生産しなければならない大きな消費者軍の一部を形成しうるにすぎない⁝⁝︒﹂
( K a u t z k y , K o n s u m e n t e n u n d P r o d u z e n t e n , e N u e Z e i t ,
30
J a h r g .
1
B d . S .
4 5 8 . )
シッペルが労働者の実質賃銀をもって固定的な点と考えたことは︑
カウッキーによれば誤まりであり︑賃銀の変動は︑商品価格の変動とまったくちがった方法でまたまったく異なった程度で
行われる︒すなわちシッペルのいわゆる精鋭部隊について認められることは︑多かれ少かれ労働者階級にあてはまる︒いい
かえれば賃金は商品価格よりも変動が困難である︒したがって両者は区別されるものではなく︑むしろ労働者の立場は︑そ
の占める比重からいって︑消費者の立場を代表するものである︒かくして﹁消費者利益は︑基本的には労働者階級の利益で
ある︒生産者の利益︑それは資本家階級の利益である︒﹂
( a . a . 0 .
S .
4 6 3 )
以上のところで明らかなことは︑カウッキーに
あっては︑労働者の利益はまた消費者の利益であるということである︒
次にまたカウッキーは︑労働者利益と共同利益についても︑次のような見解を述べている︒
( K a u t z k y , K l a s s e n i n t e r e s s e
│ S o n d e r i n t e r e s s e
ー
G e m e i n i n t e r e s s e , N e u e Z e i t ;
2 1 J a h r g .
2
B d . )
いうところによれば︑階級という概念はそれ自体
の中に階級対立という概念を含んでいる︒したがって当然個々の階級に対応する特殊のかつ対立的な階級利益が存在する︒
しかしながら階級は︑その特殊な階級利益にのみ奉仕するものではない︒ここでカウッキーは︑階級利益の他に社会的利益
( G e s e l l s c h a f t l i c h e I n t e r e s s e )
をあげる︒この社会的利益はまた共同利益
( G e m e i n i n t e r e s s e )
で も
あ る
︒ ( a .
a ; 0 . S .
器
6 )
ところでこの共同利益あるいは社会的利益とはいかなるものであろうか︒
カウッキーの財政思想︵二︶
︵ 広
田 ︶
一 七
﹁共同利益すなわち人民多数の利益﹂
( a . a . 0 .
S .
538
( 8 ) ( 7 ) ( 6 )
カウッキーの財政思想︵二︶
槌
5 )
ともいわれる社会的利益は︑個人的利益と区別されることはいうまでもなく︑同時に支配階級の利益の総体とも異る︒
﹁一社会内で活動的な階級の利益の総体は︑一般に︑その社会の内部に存在する社会的利益の総体を形成するものではな
い ︒ ﹂
( a . a . 0 .
S .
2
6 6 )
しかも全体が部分よりもより以上のものである故に︑共同利益乃至社会的利益は階級利益の上に位
するものである︒しかしながら︑このことは︑カウッキーによれば︑階級利益が個々の階級に固有な利益を意味するのにた
いして︑社会的利益がすべての階級に共通な利益を意味する︑ということではない︒むしろ一般的な社会的利益は︑特殊な
階級利益と緊密に結びついており︑すべての階級にとってけっして同じではありえない︒そしてまた社会的利益にたいする
個々の階級の態度は︑階級利益と同じく対立的でもある︒かくてカウッキーは︑それがもっとも明白にあらわれているもの
と し
て 一
︱ ︱
つ の
社 会
理 想
( d a s
G e
s e
l l
s c
h a
f t
l i
c h
e l
a l d e
e ) ︑すなわち封建的︑自由主義的︑および社会主義的理想をあげて
いる︒いうまでもなく︑プロレクリアートの社会的利益は最後のものにおいて示されるのであり︑階級対立を止揚しかつ人
間の連帯性を主張するものとして︑労働者階級の利益は一般社会的利益を意味するものとなる︒
( a . a .
0 .
S .
2 6 6
ー2 7 4 )
以上のところから︑労働者階級の利益が消費者の利益でもあり︑また一般の社会的利益でもあるというカウッキーの見解は
明らかであろう︒
u Z
r F
r a
g e
d e
r S
t e
u e
r n
u n
d M
o n
o p
o l
e ,
. S
6 7 5
カウッキーによれば︑租税収益の生産的使用という場合︑その生産性は︑技術的労働過程乃至資本家的価値増殖過程の立場
から判断されるべきではない︒上述したように︑労働者の立場︑資本家の立場とならんで社会の立場が存在し︑租税の使用
の問題の場合には︑これが決定的であると考えられている︒そして共同体の生産力を増大せしめる経費支払の対象として︑
カウッキーが具体的にあげているものは次のようなものである︒すなわち︑労働の生産力の形成と伸展のための教育制度お
よび保健衛生︑例えば森林のような物的生産手段の経営管理︑さらに街路や運河の建設等がこれである︒かくてカウッキー
は︑生産力の発展︑生産的労働の概念が︑国家の立場からみる場合︑資本家の立場に立つ場合とまったく異ることを指摘し
ている︒しかしながら︑このような社会なり国家なりの理解の仕方が︑従来の彼の見解との対比において︑かなり問題点を
包蔵していることは否定しがたい︒
S o
z i
a l
d e
m o
k r
a t
i s
c h
e S
t e u e
r p o l
i t i k
, S .
7 3 8
a . a .
0 .
S .
7 3 9
︵ 広
田 ︶
一 八
U 4 ) ( 1 3 ) ( 1 2 ) ( 1 1 ) ( 1 0 ) ( 9 )
︵ 広
田 ︶
一 九
上述のところで︵註⑤参照︶われわれは︑生産者利益が資本家の利益にほかならないとするカウッキーの見解をみた︒それ
ではここにいう生産者利益の立場とは資本家の利益の立場を意味しているのであろうか︒すでに述べたところであるが︑彼
はまた︑一般の利益をもって︑生産諸力の拡大を自らの側で要求する消費者の利益でもあるとしている︒そしてまた彼は︑
﹁社会民主主義的租税政策は︑利澗に奉仕すべきではなく︑労働者︑消痰者および生産諸力発展の利益をまもらねばならな
い﹂とも述べている︒︵
a . a . 0 .
S .
7
3 8 )
したがってこの場合の生産者利益ほ資本家の利益を意味するものとは考えられない︒
カウッキーのいうところによれば︑社会民主主義者にとっては︑生産過程ほ大衆消費を充しかつそれを可能なかぎり引上げ
るための手段であるとされている︒生産諸力の発展の要求は︑この意味において提起されているのであり︑したがって生産
者利益の立場もまたかかる意味において理解するのが正しいであろう︒しかしながら生産力なり生産性に関する彼の視点に
ついてほ︑かなり検討すべき余地のあることは否定できない︒
消費基金設置のための消費税と同じく︑例外的に許容されるべき関税として︑カウッキーは︑育成関税をあげている︒
( a . a . 0 .
7 3 8 )
a . a . 0 .
S .
7 4 3
a . a .
9 .
S
.
7 4 1
H e
i n
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w ,
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S t e u e r p o l i t i k
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i n
1
9 1 6 . S .
17
拙 稿
︑
H ・クーノーの租税思想︑関西大学商学論集︑一巻六号︑カウッキーはこの点に関して次のように述べている︒﹁彼は
間接税のための宜伝を行うのであり︑もしくは彼の名づけるように^租税教義>に反対して︑^租税可能性>に賛成するの
で あ る ﹂ と ︒
( . a . a . 0 .
S .
7
4 3 )
ニソゲルスについては︑カウッキーは次のようにいっている︑﹁エンゲルスは︑その要求︵単一所得税の要求ー筆者註︶自
体に反対する意図をもってはいない⁝⁝︒彼はそれによって小農民を獲得しようとすることに反対しているにすぎないので
あ る ﹂ と ︒
( a . a . 0 .
S .
7 4 4 )
さらにまたつづいて︑﹁マルクスは︑単一累進所得税に関して︑それが経済的に不可能である
と述べたのではなく︑ただそれが特に社会主義的なものではなく︑むしろ急進ブルジョアジーと共通にわれわれのもつ要求
であると述べたのである⁝⁝︒彼︵ニンゲルスー筆者註︶は︑単一税としての所得税が︑近代的大国家では︑ブルジョアジ
ーが全力をもって否定する程に高い負担を意味したことを︑指摘しているのである﹂と述べている︒
( a . a . 0 .
S .
7 4 4
カウッキーの財政思想︵二︶
540
( 2 1 ) ( 2 0 ) ( 1 9 ) ( 1 8 ) 闘 ( 1 6 ) U 5 l
カウッキーの財政思想︵二︶
この要求は二つの意味をもっていることを︑カウッキーは明らかにしている︒すなわち︑一はプロレクリアートおよび一般
の状態が生産の発展によって向上するということであり︑他は︑それによって﹁資本の克服のための物質的ならびに人間的
な前提条件﹂が急速に増大するということである︒
( a . a . 0 .
S .
7 4 5 )
この後者は︑従来の彼の生産力視点では考慮されてい
ない点である︒
a . a . 0 .
S .
7 4 6
租税と公債にたいする資本家の選好は当然後者に傾くことをカウッキーほ指摘する︒何故なら︑後者は利子を生むからであ
る︒この利子支払いのための租税が労働者によって支払われるならば︑それは搾取の増大を意味し︑資本家によって支払わ
れるならば︑それは資本家階級内部での貨幣移動を意味することになる︒
( a . a . 0 .
S .
7 4 6
ー
7 4 7 )
a . a . 0 . S
.
7 4 7
拙稲︑クーノーの租税思想︑参照︒
ここでカウッキーは︑大衆の嗜好品にたいする課税について見解を述べている︒大衆の嗜好品にたいする課税を奢移品課税
に含める見解によれば︑例えば煙草やアル n ールヘの課税は無用にして有害な嗜好品にたいする課税であるといわれる︒そ
れでは無用のもの︑奢俊品とは何であろうか︒カウッキーは︑もっとも貧しい大衆でも今日︑生理的な意味における体力の
維持にとって必らずしも必要でないものに支出していること︑しかも人間を動物以上に高める文化財が実はかかる余分のも
のに属していることを指摘する︒そしてこの文化財を労働者にとって無用の奢修品であるとみなす人間は︑彼によれば︑労
働者をば生産のメカーーズムの車輪︑換言すれば︑他人のために生産する単なる労働動物とみているのに他ならない︒もとよ
り︑なんら文化財でないような嗜好品には問題が存する︒そしてそれらがより高い悦楽にとって代られることは望ましい︒
しかしそのような嗜好品が大衆の消費の中で大きな比重をもっているというのは︑実は金と時間の不足に起因しているので
ある︒しかもかかる嗜好品の抑制と高次の悦楽の享受は︑この嗜好品課税によってほけっして可能とならない︒むしろそれ
による値上りは︑一方では労働者の嗜好品のより一層の劣悪化をもたらし︑他方では必需品の節約という作用をもっために︑
否定されなければならないのである︒
( a . a . 0 .
S .
7
4 8
ー
7 4 9 )
カウッキーは︑大所得と小所得をそれぞれ十万マルクと一万マルクと仮定して︑例示する︒両者がいずれも
7
"
3
という同 じ割合で消費と蓄積を行う湯合に、―― 10~ の租税が課せられ、しかも以前と同じ割合の蓄積を行うとすれば、小所得にはそ
︵ 広
田 ︶
二 0
( 2 3 ) ( 2 2 )
︵ 広
田 ︶
れが困難であることを明らかにする︒すなわち︑小所得の場合従来の七千マルクの消費を課税後は四千マルクに引下げたけ
ればならないからである︒ところが大所得の湯合には︑課税後にも尚四万マルクが消費のために保留しうるため︑そのよう
な困難はないと考えられるのである︒
( a . a . 0 .
S .
7
5 1
) しかしこのカウッキーの論証はけっして正しいとはいえないであろ
う︒何故ならばここに述べられている限りにおいてほ︑それは︑小所得の場合に租税負担が小さいほど蓄積が容易であると
いうことを証明しているにすぎず︑その他のことを何等意味するものでないからである︒
クーノーは︑カウッキーの﹁社会革命論﹂︵
D i e S o z i a l e R e v o l u t i o n ,
1 9 0 2 )
より一節を引用し︑国家経費の直接税による
充足の不可能なること︑および新しい収入源の開拓と間接税の採用を主張した︒
( C u n o w , P r a k t i s c h e S t e u e r p o l i t i k o d e r S t e u e r d o g m a t i k
●