行動目標からみた社会科教育
溝 上 泰
1・社会科教育の課題
社会科教育が教科として成立する要件のひとつは,その独自性にある。内海巌博士は,
その独自性について次のように述べておられる。「子どもが社会事象との交渉のなかで,
社会認識を形成する行為の独自性にある。それは,社会認識教育の学ないし社会認識形成 の学というものがこれにかかわりを持つものとして考えてよいのではなかろうか。そのた めには,人間形成の問題における社会認識形成の原理的独自性と,その形成のための論理 が科学的に究明されることが前提となると考えられる(1)。」このことから博士の立場は,
社会科教育学を社会科学と教育科学の中間領域として設定する日本教育大学協会の「教科 教育学の基本構想案(2)」あるいは,社会科教育学を教育学ないしは教授学の中に体系づけ
ようとする立場をさけて(3),科学としての教科の確立をはかるためには,社会認識形成の 原理的独自性とその形成のための論理が科学的に究明されることが前提となっていなけれ ばならないとされるものである。このような示唆にもとづいて,本論においては,社会認 識形成の原理的独自性がいかにあるべきかについて,アメリカにおける社会科教育のいく つかの立場を検討することのなかからその方向性を把握してみたい。
現今,社会科教育は,社会科学の指導に限定されるべきであろうか,それとも,市民の 総合的な社会教育を目標とすべきであろうかという問題は未解決であり,その問題をめぐ って,さまざまな社会科が存在していることも事実である。このような困乱を招いた原因 は,エドガー ウエズレー(Edgar B・Wesley)の「社会科は,教育目的のために簡略化 された社会科学である」という有名で支配的な定義のなかにあるように思われる(4)。シェ リー エソグル(Shirley H・Engle)は,この定義について概略つぎのような見方をして いる。ウエズレーは,社会科において,社会科学を指導するのであるか,あるいは,社会科・
学の研究をするのか明確にしていない。したがって社会科は,社会科学の成果を指導内容 とする場合,現代のような知識の爆発時代には,知識内容が過剰なものになるとともに,
その内容が,陳腐なものになり易いことはまぬがれないであろう。社会科学は,社会的行 動を一・定の時と場所において記述することを目的としており,社会的判断をどのようにす るかという価値にかかわることには関与しないものである。ところが,市民教育は,価値を 離れて問題を取扱うことはできないし,その問題にたいして,どのような資料や知識を利用 すべきであるかということが中心となろう。その場合,社会科学は,市民の教育のために は必要ではあるが,十分な条件とはいえないようである。エングルによれば,社会科教育 の任務は,市民の教育であるという。市民の教育は,社会科学の一分野ではなく,応用分 野である。すなわち,市民は,情報を社会問題へ適用し,その問題解決に責任のある知的 過程を用いるべきであるということができる。つづいて,エングルは,市民の社会教育の ための要素として,次の項目をあげている。(1)社会諸科学…これは真に科学としてふさ わしい,しかも,科学的アプローチの本性と限界や社会科学の結論の仮説性と相対性を正
しく認識した上で,科学として指導される社会諸科学。(2)価値の事例として取扱われる
な82 長崎大学教育学部教育科学研究報告 第19号
世界の人びとのいろいろな伝説,歴史,哲学,宗教など。(3)生徒の社会的行動を決定する ことに関連する行動様式や,文学,芸術,音楽のような人間的科目に関連した情報,なら びに,(4)学校内外の生活経験などをあげている。。このようにエソグルは,社会科の独自 性を市民の教育にもとめたが,しかし,ここでは,上記の各要素がどのような関連と構造 をもちながら市民の教育に役立つかという論理は,まだ明らかにされていない。エソグル の論理構造を明らかにするまえに,混とんとした社会科教育の各立場を整理しておくこと がたいせつであろうと考える(5)。
2.三つの社会科観
ジェームズ バアース(James L. Barth),サムエル シェルミス(s. samuel shermis)
の分類にしたがえば,社会科は,その教科をとおしてねらう目標観の相違によって,「市 民性の伝達としての社会科」「社会科学としての社会科」 「反省的探究としての社会科」
の三種類に区別される。ここでは,これらの社会科の特性を吟味してみたい。
まず第1に,「市民性の伝達としての社会科」 の立場における 「市民性」の概念内容 は,共同体の規範へ服従し,規則や法律などを遵守し,他人の権利にたいして寛容の精神 をもち,正しい価値観をいだき,期待されている事柄に順応し,政治やコミュニティの組 織へ参加し,民主々義の概念を体得することなどを市民的資質の要素として包含してい
る。この立場の社会科は,これらの市民的資質のひとつひとつを生徒へ教え込むことを目 標とするのである。教師は,市民的資質を記述し,その価値の正しいことの説得の方法を
とるであろう。これは,次のような仮定の上に成立している。すなわち,市民性は,事実,
原理,信念,理論を蓄積することによって育成されるであろう。過去において妥当したカ リキュラムは,なお今日も適用するであろう。そして,当局が決定した重要事項は,カリ キュラムへ導入することができるという前提が存在していいる。この立場にあるグループ
は,米国在郷軍人会連盟のような愛国団体を主とする。かれらは,社会科を国家の統一と 布民の忠誠のために必要とするものであり,正しい信念や態度を教化することによって,
特定な事実や価値を教える教科であるとみなしている。この「市民性の伝達としての社会 科」の立場は,民主々義価値概念を市民的資質として,生徒へ注入し,教化することが社 会科教育の目標であるとする。
次に,第2の「社会科学としての社会科」の立場は,最近,経済学者,歴史家,人類学 者,政治学者,地理学者などが,カリキュラムの作成,現職教育などへ直接参画し,教育 内容への科学の成果,方法論の導入を図っているという事実にもとついている。この立場 をとる学者はポール ボアンナン(Paul Bohannan),マリオン ライス(Marion Rice)
などの人類学者,ロウレンス セネツシユ(Lawrence Senes:h,),アービング モリセ ツト(lrving Morrissett)などの経済学者,エドウィン フエントン(Edwin Fenton)
などの歴史学者などがいる。
社会科学における知識獲得の目的は,単に知識を獲得するためにのみ存在する。知識の
獲得は,自己の正当化,自己弁明,そして自己確認のためであり,知識を獲得することが
市民性の形成とは直接的なかかわりあいはないのである。ただ,社会科学的知識は,よき
市民をつくるという暗黙の仮定があるにすぎない。じゆうらい,社会科学の研究成果を知
識としてあたえるにとどまっていたが,最近は,科学構造や科学的探究方法の習得が重視
されている。科学的探究方法は,探究過程を意味するものである。すなわち,問題を意識 し,問題を把握し,仮説をたて,データを集め,意味を吟味し,そして仮説を変容させる という探究の過程をたどる科学的探究方法を用いることによって,複雑で新しい世界の理 解へ貢献することができると考えられている。
この立場は,社会科学を科学の目的のために探究し,成果を明らかにして,それを教育 内容として教授することと,同時に,科学的探究方法の指導をとおして世界理解を得させ ようとするものである。その場合,このような科学的知識がどのような意味をもっている かという価値づけは考慮されないし,世界理解ということも客観的におこなわれるにすぎ ないのである。
最後に,第3の「反省的探究としての社会科」の立場は,上記の二つの立場とは異なっ たものである。 これは,社会科学の探究方法に依拠しているけれども異質的なものであ
る。この立場の社会科は,市民性をコミュニティーの価値基準へ拘束するものであるとは みなさないで,ひとつの過程として把握しようとするものである。その過程とは,社会 的,政治的枠組のなかにおける「意思決定」をいうのである。その社会的,政治的枠組 は,政治民主々義によって既に所与のものであるが,そのなかにおける「意思決定」は,
正反対の要素の内どちらかを選ぶというのではなくて,相対的比較要素,すなわち,「よ いもの」と「よりよいもの」との間の選択を意味している。
反省的探究の立場にたつ学者は,モゥリス ハント(Maurice P. Hun七),ロゥレンス メトカフ(:Lawrence Me七calf),バイロン マシアラス(Byron G. Massialas),フレデ
リック スミス(Frederick K・Smi七h),ベンジャミン コックス(C・Benjamin Cox).
シエリイ エソグル(Shirley H. Engle),ドナルド オリバー(Donald W. Oli▽er)
などがある。かれらは,生徒が社会問題へ直面して意思決定をくだしていくことを市民 性の育成であると考えるのである。社会は,激動による変ぼうと多角的性格をもって,多
くの問題を現出しているが,これらの問題にとり組み,分析し,総合し,意思決定をおこ なうことによって実践的な人間となることができる。すなわちこのような人間がよき市民 という概念である。反省的探究は,重要な問題を意識し,それにとり組み,満足すべき答 を執ように継続的に求めることをもとめている。探究は,教師が希望する結論へ生徒を導
くことではなく,むしろ,教師,生徒,ならびに社会が最も関心をもっている問題をみず から探究することである。この立場における探究は,個別科学の探究とは異なって,社会 諸科学相互のイソターデッシップリンをもちいた探究でなけらねばならない。これは,社 会諸科学のあらゆる分野からデータを用いて問題を解決するのに役立たせることを意図し ている。反省的思考における「問題」は,ひとにより意識され,定義され,個人によって 問題として知覚されてはじめて問題となることができるのである。この場合の探究は,単 なる技術や方策を意味するのではなく,ひとの哲学的立場,ないしは存在論的立場,ある いは認識論的立場にもとつくものである(6)。
以上のように,第1の立場ならびに第3の立場は,社会科の目標として市民性の育成を
ねらっているが,前者は,市民的資質を教えこむことによって,後者は,「意思決定」と
いう行為の過程をとおして育成されるものであるとするものである。第2の立場は,社会
科を社会科学であると規定するものである。各立場は,それぞれ基本的見解の相違にもと
つくものであるが,それらは,おのおの無関係な矛盾を示したものではなくして,相互に。
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関連した立場の連続体として考えることができるであろう。1すなわち,ロバート バアー
(Robert D・Barr)が指摘しているように,これら三つの立場を連続高上に配置すると き,つぎのようになる。市民性の伝達の立場を左端におき,社会科学の立場を中間にもと めると,右端には,反省的探究の立場を位置させることができる。左端が実在的な内容の 指導に重点をおくことにたいして,他方の右端は,探究過程の指導にむけられるといえる であろう。同様に,左端に正しい価値の伝達,教化をもとめることができ,右へ移動する にしたがって,科学から導入された正確な叙述的情報を指導することに焦点が移り,実在 的概念を強調する種々な構造的アプローチをもって,連続体の半ばにいたり,ひきつづい て手続き概念の指導から探究の方向へ移動していく。かくして,連続体の中心から右寄り にかけて,探究過程は,科学の探究技術を通り,反省的探究へと進展していくのである
(7)o
エングルも同様に,このような連続体をもって社会科の各立場を位置づけることを示唆 している。すなわち「目標」 「過程」 「内容」について明確に相対立する要素を二分法を
もって両極端に位置づけ,両者の間を連続体で結合することによって矛盾の統一を図ろう とするものである。たとえば,目標連続体の上には,社会科学の指導をめざす目標と市民 性の育成という相反した目標が左端と右端を二分して並び,内容連続体の上には,社会諸
:科学の事実,原理,原則などの知識を教授する社会科学上の没価値的教材内容と市民的資 質育成のための価値中心的教材内容が対照をなしている。過程連続体の上には,一方の端 には,教科内容を修得することを中心過程とする立場があり,他方の端には,問題解決を 中心過程とする立場がある。これは換言すれば,社会科学内容を明らかにする「閉ざされ
た探究過程」をとることにたいして,社会的問題を明らかにするために用いる「開かれた 探究過程」,すなわち反省的思考過程が対置することになる(8)。
以上社会科の三つの大きな流れを認め,各立場の性格と関係位置を明らかにすることが できた。このように社会科の目標ないしは,性格にもとづいて社会科を定義することは,
従来おこなわれている指導内容の範囲をもって社会科を定義する立場に比べて,社会科を
一一 w明確にすることができるであろう。たとえば,「カリキュラムと指導:のための標準用 語」の定義によれば, 「社会科は,学校における指導目的のために選択された歴史学,経 済学,政治学,社会学,人類学,心理学,地理学,哲学から構成されている」とされ,同 様にNCSS憲章の定義によれば,「社会科は,歴史学,経済学,社会学,政治学,地理 学その他の学問のなかにある社会的目標と内容を包含する」とされている。これらの社会 科の定義は,いずれも社会科を,学校教育のために簡略化し,適用し,変容し,選択した社 会科学であると規定していることである。このように,社会科の中に,社会科学その他の 学問の内から社会的内容を含めるとした場合,精神病医学,言語学,コミュニケーション 論,生態学,生物学,工学さえも社会科の内容にとり入れるべきかどうかという問題がお こってくる。さらに科学的内容をもって社会科の定義をくだす場合,価値認識, 意思決 定,社会化,公的政策などは除外されるという欠陥が生じてくる。このような反省をとお
して,指導内容を基準とする社会科の定義をやめて,指導目標からみた定義へ変換させる ことは,社会科の独自性を明らかにする場合,たいせつな視点を示したものであると考え られる(g)。以上の論述から社会科の三つの立場,すなわち市民性の価値を教え込む立場,
社会科学の立場,そして反省的探究の立場はそれぞれ区別されるべきであるが,他方,三
者は,深い関連をもって連続体上に位置することができることが分った。つぎに,これら 三つの立場に通用する論理が明らかにされることがたいせつであろう。
3・社会科学と社会科
社会科学は社会科になることができるであろうか。なによりもまず,社会科学とはなに かについて問われなければならないであろう。チャールズ ビアード(Cha「les Bea「d)に よれば, 「社会科学は,発展しつつある社会の現実を対象とし,特定な状況,関係,それ ら相互間の動きを記述する学問である。すなわち,社会の静と動の両面について,観察と 記録をとおしてえられた知識である」ということができる(11)。社会科学は経験的な面と,
倫理的,規範的な面に分けられる。前者は,客観的,記述的,法則的性格をもった立場であ り,後者は,価値と選択を中心とした立場である。この立場にあっても,経験,知識洞 察を前提とした上での判断と選択が求められるであろう。教育目標の設定という点からみ れば,経験科学は,その客観性,中立性によって目標の設定,内容の選択について顧慮し ない。むしろ,倫理的考慮がそこにはたらくことになる。目標の設定は,将来の傾向性,
予測的知識とのぞましい価値基準によっておこなわれる。しからば経験科学は一体何を人 間に貢献することができたか。ビァードは次の諸点をあげている。(1)経験科学は,社会の 実態を分類概念,カテゴリーをもって明らかにすることができた。(2)客観的データをもち
いて,現実を構造化することができた。(3)社会における事象の変化,傾向性などが社会科 学研究の対象となり,動的概念が現実的なものになった。(4)比較法,転換法などを用いて 現代の社会諸科学は,社会の全体構造を把握するために,あるいは社会の諸活動,現象を 分類するための共通なカテゴリーをつくるため互に接近してきている。(5)経験的方法は,
社会の目的や価値の実現のために,可能性を亡い出すために不可欠なものである。(6)経験 主義は,倫理的美的概念,政策形成の参考点,そして選択の可能性を示すことができる。(7)
経験主義は,目標を設定することはでぎないが,目標を発見することは可能である。また 目標を理解するための考え,関心,方法などを指摘することはできる(11)。以上,経験 科学の成果を要約してあげたが,これらのことから経験科学は,事実と理念の相互関係を 明らかにすることができるとしても,理念すなわち価値そのものを設定する・ことはできな い。経験科学は,価値の可能性または価値の指示は可能であるが,価値を評価することは できない。さらに目標の発見に役立ち,目標の理解,その方法を指示できるが,目標その
ものの設定はできないことが明らかにされたのである。
他方,われわれは,次のことに着目しなければならないであろう。現代の社会科学は,
これら経験的立場と倫理的立場の両者の境界を超えて統一を図ろうとする動きがみられる ことである。ビアードは,以下の諸点をあげている。すなわち,(1)人間生活,人間の精 神,行動をも含めてあらゆる生活にとって経験主義的知識と方法は,必要欠くべからざるも のである。(2)社会生活の中から法則が導き出されるが,本性的にその法則は仮説的なもの であり,その妥当性は,客観的条件に維存している。(3)社会の法則は,公式として現実に
は適用しない。物理学の法則ですら人間的事象のすべてに通用することはできない。(4)経 験科学においてすら完全なる客観性,中立性はあり得ないという考え方が台頭している。
社会科学者といえども,人間として,同一年齢層,国民,グループの一員として,客観的
データに直面してすでに心の内に「参照の枠組」 (frame of reference)をもって適応し
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ている。その枠組の中に既に価値判断を含んだ倫理的要素がある。(5)経験科学は,人がな にをなすべきかについては指示をあたえることはできないが,或る結果を求めて決定しよ
うとする時,選択の示唆をあたえることはできる(12)。そこで,社会科学に対して倫理的 考慮が払われるようになっている。社会科学は,倫理的考慮からまぬがれることはでき ない。社会へ適用される倫理的考慮は,人間生活の福祉のための準備という考えを意味し ている。この考えは統一的概念であり,まったく異なった項目の融合,統合ではなく,統 一体であることを指している。ビァードは,社会科学の経験的側面と倫理的側面の性格の 相違を明らかに区別しながらも,人間生活を共通の基盤にもっとき,両者は統一への必然 性をもっていることを指摘したのである。
このような社会科学の特性を背景として,教育の目標を考えようとする場合,人間的立 場から考察することが妥当であろう。教育の対象は,個人であり,教育作用の結果は,個 人の心,精神,行動のなかにあらわれてくる。教育の目標は,本来個人的なものである が,個人は同時に社会的存在であり,社会諸制度は個人の生活に必要欠くべからざるもの であることを考えれば,教育の目標は,社会的なものになり得るであろう。ビアードは次 のように述べている。r人間は,道徳的権威を賦与されており,価値を有している。しか も,人間的目的に無関係なものに使われることはできない。……社会の目標は,人間の価 値に無関係なものではない。むしろ倫理的理想は,個人のよい生活を保障させるための社 会,経済制度にとって必要である(13)。」このことから,指導目標は,個人のよりよい生活 を求める理念とともにその生活に不可欠な社会関係の概念についても言及するであろう。
「社会科学は,知識を提供し社会思想への洞察や行動目標形成の作用に必要欠くべからざ る方法を提供することができる(14)。」この場合,人間的立場にたてば,「社会的存在と しての人間は,心の中に或る一定の社会知識,観念,意見の枠組」をもっており,その枠 組によって自己の行動を規制している。ビアードは,この枠組を「参照の枠組」 (frame of reference)と称している(15)。これは世界像を意味しており,過去,現在,未来へ関 連し,ある場はリジッドであり,また他の場合はフレキシブルであるが,この「参照の枠 組」によって,指導目標,教材構造を決定したり,制約するものである。社会科学的教材 の選択と組織化,すなわち総合,統合,融合,相互関係のような知的操作は,「参照の枠 組」に照しておこなわれる。このように目標の設定,教材の選択,知識の組織化は,形成 者,選択者,組織者の心の中に存在する現実的で可能な,しかものぞましいものと考えられ る「配列の像」,すなわち「社会的参照の枠組」によって基本的に制御されるものである。
エソグルも同様に,「社会科学の目標は,人並の現象を叙述し説明するための知識の発
見をめざすものである。社会科学者は,新しい知的基礎から人間の出来事を再検討する
ことを任務とする。」さらに,「社会科学の目標は,人間行動を説明し,人間社会の一般
法則を確立することにある」と述べている(16)。社会科学は,現実の客観的分析をおこな
い,価値を叙述することはできるけれども,評価ないし価値づけはおこなわない。社会科
学や他の資料は,個人の行動,公的政策についての何らかの決定をおこなう場合の補助的
役割を果すことができる。「決定は,あらゆる事実がそこに存在するようになるまで待つ
ことができない。特定なときに,可能な限りそれらで決定できる事実にもとついておこな
われなければならない。そのためには,どのような事実が適切であるかを発見し,事実を
分類するカテゴリーに精通しなければならない。その場合,社会科学的概念,方法の導入
が必要になってくるであろう。社会科学的知識,ならびにその知識が発見され,システ イム化される筋道がより重要になってくる(17)。」意思決定は,社会科学的基礎工実にも とつくとともに,価値に着目しておくことがたいせつであろう。社会科学的知識や探究法 は,価値の追求にとって有益であろう。しかし,社会科学は,何を価値あらしめるか,何 を評価することができるかを示すことはできない。意思決定という市民的行為は,事実と 評価の統合行為であるということができる。
エングルは,社会科の性格を明らかにするための指標として次の5項目をあげている。
(1)社会科教育において自明のこととしてみなされているものはなにか。
社会科は社会の要請にもとつくものであるとしてエングルは,現実の社会的状況と社 会科の役割について所説を展開しているが,それによると,社会科は,科学的方法と民主
々義理念に裏づけられなければならない。しかし,現代社会における社会科は,好ましか らざる状況のなかにある。すなわち,社会科は,宣伝と小説に類するものに堕落し,学校 は,独裁政治に似た状況の中にあって,科学性と自由の回復を図ることが急務とされてい る。現今の社会は,病弊をもった病める社会であるからして,社会的知性の育成による自 己自制の行動の確立が,社会的要請となっている。それに応えることのできる学科は社会 科であると考えられる。
(2)市民は何をなすべきか。
市民は,問題にのぞんで自分の信念にもとづいて決定をおこなっている。その信念は二 種類ある。その一つは,事物がどのように存在するか,存在したか,どのように存在する ようになるかについての確認である。他の一つは,事物がどのようにあるべきか,またあ るべきであったかについての信念である。最初の確認は,事実の記述であり,第2番目の 信念は,評価規定である。市民は,決定をくだすときその問題に適切な信念を用いるべき である。
(3)どのような資料から,決定をくだす際の信念を得ることができるか。
信念は,社会生活から獲得された情報にもとづいて確立されている。その他学校生活の 占める比重も大きい。学校は,民主社会のモデルにならなくてはならない。その中で生徒 は,知性をそなえた信念の形成と責任感の育成が図られなければならないからである。
(4)市民の全学習過程に関連した教育をどのように考えるか。
学習構造は,生徒の心の外にある教材内容よりも学習者の心の中における信念,理論,
抽象的モデルのシステイムであると考えることができる。教育の役割は,信念の妥当性が 客観的に確立されていく過程をモデル化することである。信念の基礎には,過去,現在の
人間の出来ごとの事実関係を明らかにする社会科学があり,あるいは,哲学,倫理が存在 する。
(5)社会科計画の必要にして十分なパラメーターは何か。
エングルは,新社会科を批判して次のように述べている。新社会科は科目中心である。
個別科学はただちに社会科とはならない。社会諸科学がカリキュラムの中へどのように組 み込まれるべきか,社会諸科学の選択はいかにおこなわれるべきか,個別科学がどのよう
・に関連づけられるべきか,市民の全体的,統一的教育をめざす社会科へ社会諸科学がどの
ように関連されるべきかについての考慮はほとんどはらわれていない。そして,新社会科
は,市民の価値や評価を軽視している。たかだか価値を感情領域にとどめているにすぎな
88騨 長崎大学教育学部教育科学研究報告 第19号
い。さらに,新社会科における社会科学的内容が社会の問題とかけはなれたものとして提 示されており,市民の信念の形成に役立たないものとなっている。社会諸科学は,市民性 の育成という大きな課題に応えるための手段としての役割をもっていることに着目しなけ ればならない(18)。
以上の諸論から,社会科の目標は,価値概念であるからして,社会科学の立場から設定 されることはできなくて,むしろ,人間的立場,ないしは社会の立場から設定されること ができる。そして意思決定という市民的行為は,社会諸科学の成果をふまえた上で,価値 指向ないしは評価活動を経過した後,信念にささえられた決断行為を意味するであろう。
と
このような行動ができる人間が市民であり,そのような人間の形成を社会科はねらってい るということができる。社会科は,人間の信念ないしは意思決定にいたる認識のプローセ スをその対象とし,その過程の論理を明らかにし,正しい人間行動の形成を目標としてい るといえるであろう。
4.行動としての社会科
エングルのように市民の教育を社会科の広義の概念とすれば,その中核をなすものは,
「意思決定」であるといえる。これは換言すれば,「社会科における教育の究極の目標 は,望ましい社会公民的,個人的行動の育成である」としてもよかろう(1g)。今迄考察して きたように,エングルは,社会科観の相違により,社会科学の立場と価値の立場の両者の 位置関係を目標,内容,過程についてそれぞれ連続塁上に位置づけている点は,社会科教 育の理論を考える上で大きな示唆をあたえてくれたものとして高く評価しなければならな い。同様に,バアース,シェルミスも,社会科の三つの大きな流れを連続体上に置き,関 連性を明確にすることができた。そして,エソグルは,「意思決定」の概念を市民性の育 成の中心におき,しかも社会諸科学の役割も明示している。しかし,生徒がどのような社 会認識の過程をたどって「意思決定」忙達するのかという筋道は末だ明らかにされないま まにきたように考えられる。今,仮に社会諸科学を事実認識領域として,価値認識領域と ともに社会科における重要な領域であるとした場合,「意思決定」の行為は,事実認識と 価値評価行為の統合行為として考えることができるであろう。人間が事実認識,価値認識 をえて決定行為へいたるいわば社会認識の過程の論理は一体いかなるものであろうか,そ れが解明されることによって社会認識を形成する行為が原理的に確立するのではないかと 考えられる。そこで人間の心理的側面から情報処理体としての心的過程をたどることが,
人間の社会認識の過程を明らかにすることになるであろう。この立場は,人間行動の視点 から社会科を再構成することを意味している。
情報処理体としての人間は,いろいろな情報を入力として受けいれ,それを何らかの形
で処理していく過程のなかで,出力としての意思決定をおこなっている。情報は,三つの
類型に分類される。第1に環境を表わすための記号集合,第2に価値を表示するための記
号集合,そして第3にみずからなすべき行動を表示するための記号集合である。これらを
それぞれ認知情報,評価情報,指令情報ということができる。認知情報は環境を,評価情
報は価値を,指令情報はなすべき行動をそれぞれ表示している。知覚や知識など通例の意
味での情報は,認知情報として,感情や価値判断は評価情報として, 意思や計画立案は
指令情報と規定されるだろう。このような人間の情報処理過程を図解すれば次のようにな
認知情報 評価情報 指令情報
受 h激・一一
琶強三撰i翼譲=童rl
猿叙 顎璽轟il i i ll簾一十一一…一… …‡友鮒亨¶i凹=離=ニナー一一一一一ドー一一一・ヒニ=二=土_一」
効果 反応R
一→印は惰報交換の方向 図l SR過程の基本モデル
る(20)。
この情報処理過程を社会科へ関連づけて考えるとすれば,情報処理能力の形成という立 場から,社会科における情報の処理過程の論理構造が明確になってくるであろう。ちなみ に,エングルの社会科における目標,内容,過程についての連続体上の位置関係を,情報 処理過程へ応用すれば,次のような図へおぎかえることができるであろう。
毅一
、く
目
内
過 標i
評価情報 指令情報 価値判断 意思決定
「¶幣一一駅胴り層一一一一一輯一用『帽一輔一 脚一鱒呵一剛一繭 一咽側鯖}一一一一閏一噌霜 u
割
1
言忍 矢ロ ・晴 報
知 識
社会諸科学 市民性の育成
L___輯哺_噌__鞠騨一_鯛卿層_鴨幅_r一一禰一一輯_}_______一哺__一」
「薗一一噌輯一一需一一一一『一一一一一『噌一一一一一輯一一一一唱噌一}卿}一噛一}隔一 u
没価値教材 価値教材
L___一__________冑____阿圃脚、噂_一閏鱒__甲一噂騨畠_喝一一」
「噌一一一ロー一一一一一一一−噂一口口噂申嘩陶一網上欄一一一一一輻一唱「P}一噸昂讐輌一州暫q囎量
程i渤れた探究 開かれた探究
L_________一丁__唱一__脚川平噌一_剛噌膠r騨一_}_一ワ_陰唄一__哺_」
〕1一唇
図2一→印は情報交換の方向
上図のように,外界の環境からの刺戟(S)は,受容器をとおって神経系へとイソプヅ トされる。つぎに神経系の内部においては,認知情報から評価情報へ,さらに操作情報へ の交i喚がおこなわれる。上図から社会科教育における情報処理過程は,認知情報としての 社会科学的概念と探究の操作一→評価情報としての市民的信念と開かれた探究ないしは反 省的思考一指令情報としての意思決定へ転換する。 意思決定は,効果器を通して反応
(R)となってアウトプットする。社会科においては,このような過程のなかで,認知能 力,評価能力,指令能力が総合的能力として形成されなければならないであろう。
ベンジャミン ブルーム(Benjamin S・Bloom),ダビッド クラツスウ:オール(Davi己
RK:ra七hwohl)によれぽ,教育の目標は,教育の過程をと:おして,生徒が変化する筋道
の形成を意味している(21)。すなわち,思考,感情,行動における変化の仕方であると考え
られている。行動変化を図ることが教育の目標であるとすれば,目標は,明確に定義され
なければならない。ガニエ(Gagn6)は,目標を明確にするために,つぎの4つの基本的
つ0 長崎大学教育学部教育科学研究報告 第19号
要素を含むことを条件としている。すなわち,(1)観察することができる行動を示す動詞を用 いる。(2)刺激対反応の分類の記述。(3)動詞によって表現されない場合,行為に対して用い
られる目的を意味する用語,(4)正レい反応め分類の叙述などをともなった目標についての 行動的表現の必要であることを述べている(22)。さらにガニエは,行動目標を彼の考える 学習段階に適応して配列しようとしている。ガニエは,つぎのような学習のレベルがある という。第1レベル,シグナル学習,条件つき反応。第2レベル,刺激反応学習,すわち,
識別された刺激への反応。第3,刺激反応結合の結鎖。第4,言語結合,言語結鎖。第5,
複雑な刺激反応として定義される多数な識別。第6,概念学習,すなわち一種類の刺激に 対して共通な反応をすることを学習する。第7,概念の連鎖は,原理の学習の実行をも たらす。第8,問題解決,この段階で,思考と称する多くの内的出来事を制御している。
このような学習レベルは,行動目標の設定への前提として考えられているのである(23)・
同様に,プラウマソ (Plowman) も14のタイプの学習順序を設定して,行動目標のシ ークエンスに役立たせようとしている(24)。このように学習段階による場面の順次性に即 応した行動目標の設定が,目標の最適化のためにたいせつであると考えられる。他方,ブ ルーム,グロンランドなどは,人間行動を認識,感情,精神運動の三領域に大別すること により,各領域内の分類概念を教育目標へ応用しようとした。なわち,認識領域のカテゴ
リーである知識,理解,応用,分析,総合,評価を教育目標として設定した。感情領域で は,受容,反応,価値づくり,組織化,人格化を教育目標としている。最:後の行動領域の 分類についてはまだ完成していない。もし可能であれば,特定な行動は,コミュニケーシ
ョン,思考,行為という一般的行動に分類されるであろう(25)。ここで今一度,情報処理 体としての人間の精神活動を統一的に考えなければならない。これらの一般理論を社会科 教育の立場から再構成する必要があろう。
社会科における認識領域は,情報,事実,データなどの内容的知識であり,社会諸科学 の概念ならびに科学的探究法を含むものである。感情ないしは評価領域は,価値,信念,理 念が中心内容を占めている。さらに行動,指令領域は意思決定を中核としている。これら
の知識を活用し(認識領域),正しい信念にもとづいた(評価領域)意思決定という行為 (指令,行動領域)をするにいたる統一的な過程を可能にするためには,両者を結ぶ運動
作用ともいうべき諸能力と技術を必要とする。すなわち,資料を取扱うための社会諸科学
酌探究方法を用いる能力,問題へのアプローチの方法としての反省的探究方法を実践する
能力,その他グループ参加活動の技術などは,これら各領域間に介在し,あるいは各領域
をささえ,全体としての連続性を可能ならしめる重要な要素となってくる。 これらの能
力,技術によって,知識を駆使し,価値を見出し,意思決定をおこなうことができる。行
動は,知識,探究の論理と価値にもとづいた確信,すなわち,知的判断によって展開され
る。このような行動様式をとることがなによりも自由社会の要請であることに着目しなけ
ればならない。社会は急速に変化し,知識内容は,量的にも質的にも激変している。した
がって社会科の内容を固定し,不変的なものにしておくことはできないであろう。いかな
る新しい問題に遭遇してもそれを適切に取扱い,知的判断をくだしていくことができるよ
うな方法原理が明らかにされることが現代ほどたいせつな時代はなかった。このような社
会認識過程の論理は,換言すれば,子どもの民主的行動のパターンを明らかにすることで
あり,このようなパターンの育成のための責任は,つとに社会科教育にふりかかっている
ということができる。
5,オリバー,シェーバーの社会科論(26)
ドナルドオリバー(Donald w. oliver),ジェームズ シエー・ミー(James P・shaver>
の社会科論は,社会の現実から出発している。すなわち,社会は,紛争という問題状況の 中に不可避的に陥っているものであるという前提があり,紛争を解明することが市民教育 の重要な部分を占めるものであると考えている。先ず,紛争はなぜおこるのだろうか。人 間の権利として選択の自由をもっており,それ故に社会の中に多数の集団が生まれてく
る。各集団は,価値目的をもって結合しているので,社会全体からみたその社会は,多元 的価値社会であるということができる。そのような自由がゆるされた社会では,集団内の 衝突,紛争が現実に起ってたえないという特徴をもっている。多元的価値社会は,必然的 に紛争を伴う社会であり,それが激化すれば,まとまりのある統一社会というより分裂社 会の状況を呈するようになるであろう。しかし,それにもかかわらず,全体としてまとま った社会として維持されている理由は,各小集団内において暗黙の内に共通な基準,すな わちグンナール ミユルダル(Gunnar Myrda1)の所謂「アメリカ的信条(27)」に属す 基本的価値,共通な政治制度,共通な言語をもっているという同一性へのコンセント,な らびに紛争は,やがて均衝状態となり,安定の方向へむかうであろうというオプティミ入 テックな期待が各集団内にあるということである。
このような不安定の中での均衡状態にある社会の成員として,社会の最大の関心事は,
何といっても藍紛争 という事実であろう。したがって,紛争を解明することが市民教育 の目標にならなければならないとオリバーは考えるのである。彼は社会の紛争状況を教育 実践の中で再現しようと試みている。すなわち,紛争のモデルを教室の授業の中に展開し ようとするのである。この場合,指導の焦点は,教師と生徒,あるいは生徒間の「対話」
におかれている。この対話をとおして社会の紛争を解明し,正当化し,解決しようとする、
方法原理を提供しようとした。オリバー,シ堅目ソミーは,紛争ないしは論争問題を,歴 史,法律,社会,経済の問題として取扱うために社会諸科学の導入をはかるのであるが,
それだけにとどまらないで,それらの問題は,倫理的な価値的なディレンマの問題でもあ
る点に着目している。社会の問題は,単に経験科学的領域の問題に限定することができな
いで,たえずその問題に倫理的な問題がからみ合っているのが事実である。オリバー,シ
ェーバーは,問題を社会諸科学的立場からと倫理的立場からの両面から解明しようとした
のである。たとえば,一つの問題事例をその観方,とりあげ方によって分類するとすれ
ば,(1)法規的問題(Prescriptive Issues)(2)記述的問題(Descrip七ive Issues)(3)分析的
問題(Analy七ic Issues)の各側面に分けることができ,それら三つの側面から問題を解明
していくことができる(28)。法規的問題のなかには,個人的確信や良心,公的政策,倫理
的価値観,法律などが含まれている。記述的問題は,おこり得る可能性の叙述,状況の間
の関係をみつける叙述,因果的主張,関連的主張,解釈的,推論的主張などをあげること
ができる。そして分析的問題については,法律的,経済的,倫理的各立場からの分析がお
こなわれる。これら法規的,記述的,分析的問題は,三つの別個の問題として存在するの
ではなく,一つの問題についてのアプローチの方法として三つの側面があることを示して
いる。いずれのアプローチも「対話」法を用いて問題の法規的,倫理的,事実的本質をみき一
つ2 長崎大学教育学部教育科学研究報告 第19号
わめることができる・価値観の衝突による紛争問題の探究は,教室における教師と生徒,
あるいは生徒間の「対話」にある。オリバー,シエーノミーの方法原理は,「対話」をとお して価値観の変容をはかろうとするところにある(2g)。
オリバー,シェーバーは,市民教育の中心は,価値の衝突という事実の解明にあると考 えている。すなわち,社会科の中心的要素は,科学構造の指導や社会科学から導き出され た概念や一般法則の指導ではなく,対話をとおして当面する事実や行:為を評価し,価値判 断をくだしていくことである。オリバー,シェーバーの社会認識の過程をたどれば概略次
のように示すことができる。
(1)先ず,具体的な状況から一般的価値を選び出す。つついて法規的,倫理的概念を理 解し,その概念を用いて具体的問題状況を明らかにし,解釈する。
(2>一般価値概念を延長的構成要素として考える。たとえば,言論の自由と検閲,平等 な機会と身分制度,兄弟愛と利己心のように価値を延長線上におくことによって, 「人間 の尊厳」という高い価値を旧いうな価値の混合したものとして考える。
③ 価値要素間の衝突をみきわめる。伺一状況下で価値の衝突がある場合,一つの価値 を絶対視することは他の価値を無視することになる。価値は相対的存在の性格をもってい
る。
④ 価値の衝突の状況の種類分けをする。
(5)価値の衝突という事態を類似を用いて比較することによって,各立場の矛盾を明ら かにすることができるQ1
(6)同一な価値の衝突が二つの状況でおこる場合,それらを区別するためには或る基準 を用いて・いずれかの価値を支持するための条件づき決定をくだしていく。
(7)衝突している価値の背後事実を吟味する。
(8)叙述の適切性を吟味する(30)。
以上のような過程をたどることによって,問題の法規的,倫理的,事実的本質が明らか
・にされていかなければならないであろう。そして,価値:評価は,二者択一的にするのでは なく,価値を延長体上に位置するものであるとする相関的立場からおこなわなければなら ないとするものである。
6・結 語
社会認識形成のための原理の追求の手懸として,社会科教育のいくつかの立場を検討す ることからはじめた。社会科と称せられる教科は,目標,内容に含まれる要素として,市 民的資質,社会諸科学,人文諸科学,生活経験など広範な面を網羅することができる。ま た・学習方法の面からは,目標,内容の伝達,注入,科学的探究方法,反省的探究方法など さまざまな方法的要素を含んでおり,それらの諸要素のいつれを強調するかによって,社 会科観の相違をもたらしている。本来,社会科は,これらの諸要素を含まなければならない くエングル)とするならば,これらさまざまな社会科観も,相互に深い関連性をもって一つの
連続二上のどこかに位置しているという考え方が正しいであろう。・ミー(Robeτ七〇.:Ba∬)
もエングルもこのような基本的見解にたって現行の社会科を把握していることが分った。
社会認識の形成というのは,言うまでもなく,児童生徒の社会を認識していく能力を形
成していくことであるとすれば,人間的立場にたって考察をすすめなければならないであ
ろう。社会諸科学も人間を離れては意味を失ってしまうし,社会諸科学の完全な客観性は あり得ないといえる。ビァードも述べているように,社会科学は,人前が心の中にもって いる「参照の枠組」によって規制されているのである。そして,なによりも形成のために は,目標の設定が必須な条件であるが,それは,人間と社会の倫理的価値的要素によって 設定されるものである。社会認識の形成は,児童生徒が社会を科学的に認識する過程にお いて,価値の追求を通し,評価をおこない,何らかの意思決定をくだしていく行為の形成 をいう。すなわち,望ましい社会的,公民的行動の育成を意味するものである。エソグル は,教育の役割は,子どもの心の中にある信念を観客的に確立させていくことであるとい っている。
社会認識の過程の筋道は,人間の心的過程を明らかにすることのなかから示されるであ ろう。わたくしは,人間を情報処理体とみなし,人間が知識を活用し(認知領域),正し い信念,価値観にもとづいて(評価領域),意思決定をおこなう(指令領域)過程を統一 的に把握しようとした。勿論,これらの過程を通して,探究方法,探究能力,技術など
は,これらの過程の動的要素として必須な基礎的条件であるということができる。社会認 識過程の一つの方法原理として,ここでは,オリバー,シェーバーの社会科論をとりあげ
・たが,かれらは,現実社会に立脚してまさしく,生きて働くことができる認識行為の形成 をねらったものである。現実社会は,社会は元来このような性格をもっているものである が,価値観の相違により,多様な小集団が存在し,さまざまな衝突,紛争をくりかえして いる。そのような中で子どもが社会にどのように対処し,知的判断をくだしていくかとい うことを教材化することはたいせつであろう。オリバー,シェーバーは,「対話」をとお して,問題を法規的,倫理的,事実的な面から反省的に追求することによって,問題の所 在を明らかにしょうとした。かれらにとって社会における価値は,一面的,絶対的なもの
ではなくて,相対的なものとして肯定されるべきものであると考えられている。その場合 の社会科は,多角的価値社会を認識していく行為の形成をめざしたものであるということ ができるであろう。
注
<1)内海巌,「社会科教育学の性格」,日本社会科教育学会編,社会科教育学の構想,1970,P・40
(2)教科教育学の学問的性格を,二つの要求 (教育的要求と学問的要求)の交さの上に立つ中間領 域の学であるとしている。
・㈲ 東,西両ドイツの教授学理論の立場である。
その他教科教育学に関して,社会諸科学の学問領域との結びつきを無視する立場がある。
(4)In Edgar B. Wesley and S七anley P. Wronski, Tθαo痂g So σZ S∫π4面∫%駅馬30みoo1,
1958,p.3。
(5) Shirley H. Engle, The Fu七ure of Social S七udies Educa七ion and NCSS Soo毎Z E4π一 〇σ翻。π,Vol.34㌧No.8,1970, p p.778−780
(6)James L Barth, s. Samuel shermis, Defining七he Social Studies:All Explora七ion of Three Tradi七iollsη, So厩σZ E4%oαあ。π, VoL 34, No.8,1970, P P. 743−750
〈7) Robert D. Baar, The Question of our Professional Identi七y :Reac七ions to七he
Bar七h/Shermis Ar七icle , So面σZ E4%o認勿%, Vo1.34, No.8,1970, p,753.
94 長崎大学教育学部教育科学研究報告 第19号
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