ウルフリット・ノイマン/ヴィンフリート・ハッセ マー/ウルリッヒ・シュロート(編) 法の答責 ―ア ルトゥール・カウフマンの法哲学(3)
著者 上田 健二
雑誌名 同志社法學
巻 58
号 3
ページ 153‑222
発行年 2006‑06‑30
権利 同志社法學會
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000010956
同志社法学 五八巻三号 一五三法の答責③
ウルフリット・ノイマン/ヴィンフリート・ハッセマー/ウルリッヒ・シュロート編 法の答責 ― アルトゥール・カウフマンの法哲学③
上 田 健 二 ︵ 訳 ︶ 翻 訳
内容概観 序文 Ⅰ. 法哲学上の基礎 1.ウルフリット・ノイマン 序論 2.ホセ・ド・ソウサ・プリト アルトゥール・カウフマンの正義論と倫理学 3.シン・イ・リウ 自然法と法実証主義との間の﹁第三の道﹂
4.ロベルト・アレクシー アルトゥール・カウフマンの法獲得の理論
5.フリートリッヒ・ラッハマイヤー 法における比較のための第三者︵das tertium comparationis︶ アルトゥール・カウフマンのある理論についての諸々の変型 ﹇以上︑本誌前々号﹈
Ⅱ.法哲学上の諸々の適用領域 1.ヴィンフリート・ハッセマー 序論 2.上田健二 その死を求める人格の権利カウフマンの﹁人格的﹂法哲学における自殺と安楽死 3.竹下賢 法原理としての寛容アルトゥール・カウフマンの理論についての
︵一一七一︶
同志社法学 五八巻三号 一五四法の答責③ コメント4.ヘルマン・クレンナー アルトゥール・カウフマンの法哲学における抵抗への権利 5.アンドレス・オレロ 法発見における人格性の役割 ﹇以上︑本誌前号﹈
Ⅲ.刑法上の諸帰結 1.ウルリヒ・シュロート 序論 2.フェリックス・ヘルツオーク
アルトゥール・カウフマンの人格的法哲学における責任原理と刑罰 的正義3.ベルント・シューネマン
法的に自由な領域と自己答責的決断 4.ヨウング・ウァン・キム 刑法における責任原理についての反時代的考察?
5.宮澤浩一 アルトゥール・カウフマンの死刑批判について 6.山中敬一 刑法の限界としての人格の権利アルトゥール・カウフマンのパターナリズム的な処罰諸規定批判について ﹇以上︑本誌本号﹈
Ⅲ.刑法上の諸帰結
ウルリヒ・シュロート *
序言
アルトゥール
・
カウフマンの現時点での評価の中心点には彼の刑法上の作品は置かれていない︒
その原因は確かに︑
彼が年齢を重ねるにつれてますます解釈論的刑法への関心を失っていったことにもある︒
まさにアルトゥール・
カウフマンの刑法上の文献の研究が︑
刑法上の思考は効果的思考であるばかりでは ないとされることを示していることから︑
私はこのことを残念に思う︒
アルトゥール・
カウフマンの作品では︑
行為者はつねに諸権利を有する人格として理解されなければならないことが可視的なものになっている︒
アルトゥール
・
カウフマンは膨大な刑法上の仕事 000000を呈示した︒
彼は彼で︑
刑法上の根本的な諸問題 0000000と取り組んだのである︒
他方︑
その関心は刑事政策 0000にあった︒
最後に彼は︑
しかしまた︑
刑法解釈の細部にわたる諸問題を主題化した刑法解釈論者 000000でもあった︒
刑法上の基礎研究の領域では
︑
彼の関心は―ここでの参加 ︵一一七二︶同志社法学 五八巻三号 一五五法の答責③ 者の全員がそれを知っている―もちろん
︑
なかんづく責任原 000理 0に ︵
博士論文
︒
意識の不法における責任論の刑法﹃
ったすでにその ︵ がであ主要問題ならないひとつのばえなけれ答刑法学とっては 主観的に彼︑
が問題することができるのかという帰属にを行為 条件︒
どのようなあったのもとである行為者にある可罰的 1︶責任原理
﹃
の ︵ 問題あり︑
しかしまた決定論のや法規範の理論でもあった︒
彼 錯誤で錯誤てはめの当︑
のばたとえ︑
のテーマは諸々での法律 追究基本的彼は責任論のしていたな諸問題をのなかで︒
ここ︑ ﹄
2︶︒
た して概念を機能化しようとした責任理解に対︑
彼は異議を唱え においてンはその限界づけ機能に責任原理関心をもった︒
この 断念決をすることはできない︒
とくにアルトゥール・
カウフマ よるどの対との責任構想カウフマンの・
もアルトゥール主題化 にの責任原理どのコメンタールも︒
されている論述で形単行本︑
刑法を責任原理はなにとって有しているのかを大規模諸帰結 問題︒
るどのような︑
もどのようなここではされていない放出 古典︑
今日では一冊の︒
である責任と関係す﹄
は 3︶アルトゥール
・
カウフマンが対決し︑
刑法上の討議において重要な意義を獲得した根本的な諸問題には︑
類推解釈についての彼の深遠な論述も属している︒
そのモノグラフィー﹃
類比と﹁
事物の本性 ︵著作であるひとつのならない
︒
ばされなけれ対決︑
には場合される主題化が限界規定法解釈の 刑︑
かりでなくばである一古典の法学方法論は﹂﹄
4︶ 刑法 ︵ る入はマーテのこ︒
日あでれ肩昨の彼のへと今日との間の﹃
に重要というもの領域な自由に規範理論的︑
であるのは法的象でもある
︒ ﹄
において主題化されているだけでなく︑
彼の法哲学の対 5︶このことは妊娠中絶との関連だけにとどまらず
︑
高度に現実的でもある︒
現に︑
もしも﹇
二〇〇一年﹈
九月一一日にニューヨークで起こったようなテロ行為があったとすると︑
より大きな損害を回避するために︑
計画されたテロ行為とは無関係の無辜の人々が乗り合わせている旅客機を︑
連邦軍が撃墜する権限を有しているかという問題について議論する場合に︑
これは現実的である︒
大きな損害を回避するために無辜の人々を殺すことを︑
正当防衛を通して正当化することはできない︒
正当防衛権は︑
違法に攻撃する者に対してのみ及ぶ︒
生命の衡量不能性から出発するならば︑
無辜の人々の殺害はそもそも正統化されていない︒
アルトゥール・
カウフマンであれば︑
ここで法的に自由な領域という形象を適用したであろう︒
すなわち︑
彼であれば︑
たとえばある原子力施設の破壊を阻止するために︑
無辜の人々が乗り合わせている旅客機を撃墜する者を違法な行為とではなく︑
法的に自由な領域に置かれている人とみなしたであろう︒
法秩序はここで︑
彼の意見によれば評価というものを差し控えなければならないのである︒
法秩序はこの態度を違法として段階づけるのではないが︑
しかしまた適法として段階づけるのでもない ︵︒
法的に自由な行為に段階づけることは︑
彼にと 6︶︵一一七三︶
同志社法学 五八巻三号 一五六法の答責③
っては解釈論的に
︑
法秩序によって正当化されるとみなされるような行為と同じ諸帰結を有していたのである︒
﹃
素人仲間における平行評価 ︵︒
されない主題化に場合たいていの 主張行評価は必要でないというテーゼをりする限︑
この側面は 主観的帰属が︑
規範的構成要件諸要素のにとって素人仲間並の 0000000000 にけなれさるから明をかばれるなら者論の代現︒
あでのいな て︑
行為者の十分なというものを認定することができ並行評価 有を判断するという任務を︒
している裁判官は責任対話におい をすることができるか認定意識違法性の種この︑
では場合のの 者をの社会的有害性の意識︒
前提としている裁判官は︑
故意犯 故意性した︒
彼にとっては︑ ︑
は違法性の意識をではなく犯罪 示ということを︑
している意味であることを根本問題ひとつの ばである解釈論問題︑
かりでなくの刑法のにおける主観的帰属 問フマンは︑
並行評価をうは規範的構成要件諸要素を問う問題 中枢的フマンが見出したアルトゥールなテーマである・
カウ︒
トまた︑
アルーゥル・
カウ﹄
も 7︶刑事政策上の諸々の疑問提起 0000000000000に答えることも同様に
︑
アルトゥール・
カウフマンの刑法思考の中心に置かれている︒
これらが彼にとって特別の関心事であったことは︑
彼が﹃
昨日と明日の間の刑法学 ︵︑
の背景この彼は私︒
している弟子︑
たちに刑事政策上のには 000000﹄
示したことが献呈たちに弟子を論文集する題と 8︶諸々の問題提起 0000000を念頭から失わないように励まそうとする彼の努力が置かれていると考えている
︒
彼が関心を有していた刑事政策上の諸々の問題設定 ︵︒
あった とにとっては法的効果である﹁
刑罰﹂
人間的に交わる必要性で 必要性ものではない︒
短期自由刑の彼を断念することもまた︑
ののために持ち出される諸々彼理由︑
にとっては根拠のあるは わしいものにした的効果もまた疑︒
終身自由刑という法的効果 法という終身自由刑カウフマンにとって・
アルトゥール︑
は性 わることの必要交得人間的と制裁︒
していた有を帰結ないいに 理性的︑
死刑は争などのような制裁手段でもないというづけは 彼自明︑
すことはにとってはの理であった︒
国家へのこの義務 充足ている︒
人間的なを諸要求するシステムへと注意を促制裁 されるべきかという裁システムはどのように形態化属問題がし には制︑
9︶彼の刑事政策上の信条は
︑
正しく理解された 00000000刑法は自由な 000刑法でなければならないということであった ︵断片的なならないことばれられなけれ容け受は性格刑法の 0000︵
︒
のことである次︑
しているは意味って にと彼このことが︒
10︶意義をにとって人格している有られること限に法益 00000000000000︵ 刑法する
︑
されず許ことしかというものは法益を保護それも 0000000︑
11︶があるべきであることみ
︑
刑罰 ︵ る場合にのいなきでがことす手法益を別護の段をもって保 0000000000000000000000︑
12︶保護諸々することはかぶせることによって許の自己損傷から それが刑法はをいずれにせよ個々人彼には異質の諸価値を
︑ ︑
ちわなす︑
いならなれ刑法は反パターナリズム的なでけば 000000000︑
13︶ ︵一一七四︶同志社法学 五八巻三号 一五七法の答責③ されないということである
︒
要求に基づく殺人の刑罰を装備した禁止︵
刑法第二一六条︶
は︑
アルトゥール・
カウフマンにとってはそれゆえ︑
その硬直さにおいて目のうえのたんこぶである︒
パターナリズム的な刑法諸規定がドイツにおいては好景気であることは︑
自由な刑法とは調和していない医事刑法の最近の展開が示している︒
反パターナリズムが意味しているのは︑
アルトゥール・
カウフマンが要求に基づく殺人についてのその論文 ︵︒
めるということである止け受に真において益 に利づけられた関係価値をその市民︑
することではなく断念 を生命保護︑
しているように示のなかで 14︶アルトゥール
・
カウフマンは︑
しかしまた明敏な刑法解釈論者であった︒
彼の解釈論上の諸論文は︑
それらが次から次へと思い浮かべられるならば︑
著しい広がりを見せている︒
たとえば錯誤論 ︵は彼に仕事をさせた
︒
と︑
これに結びついている消極的構成要件要素の理論 15︶消極的構成要件要素の理論に対しては
︑
今日に至るまで数多くの的を外れた諸論拠が刑法教科書類に呈示されている︒
消極的構成要件要素の理論に対して持ち出される数多くの論拠が何ゆえに反対論拠としては役に立たない︑
見せかけの論拠 0000000であるかは︑
それ自体としてアルトゥール・
カウフマンに問い合わせることができよう︒
解釈論上の諸々の仕事には
︑
早期安楽 0000死 0の ︵行
︑
専断的治療の為 160000000︶︵17︶ 問題があるかという意味することに拡大を保護の名誉に
︑
︵ 部分的いずれにせよ︑
にまで集団また︑
についての刑法的評価論文 ︵ が諸国における諸々の経験示している
︒
偽証罪についてのその ばうが正しいことをたとえ︑
スイスが示しているように︑
他の ゥール・
カウフマンがこの必要性を確信的に争うとき︑
彼のほ ならないとアルト︒
なくされる余儀えることを考ばされなけれ りある任務を充足限している︑
その名誉において刑法的に保護︑
政策上の諸理由と法律状態がも︑
集団それが社会的に意味の︒
論述も算入される言ドイツでは確かにうところの刑事いての につ 18︶︒
した 継続証罪の意味においてしてし推進めることができることを示 0000 展開偽︑
ばにかかわらせるなら討議されるにおいて哲学いての みなされなけれにつ真理概念︑
を議論ならないかについてのば 真︑
何がカウフマンはのなかでアルトゥールまたは偽と・
1900︶
﹃
完全酩酊犯罪における不法と責任﹄
と題する論文 ︵︒
至件であることを︑
今日にるまで正確に明らかにしている 刑法典構成要をはらんだ疑問におけるひとつのはそのうえに件 との酩酊構成要︑
ではないこと容易は調和責任原理の構成要件 は酊酩︑
20︶ところで
︑
アルトゥール・
カウフマンの刑法思考を際立たせているのは何であるのか︒
まずはじめに言われなければならないのは
︑
刑法思考は彼にとって︑
それが法服従者を︑
まさにこの者が過ちを犯してしまった場合に︑
人格 00として擁護しなければならないことによって︵一一七五︶
同志社法学 五八巻三号 一五八法の答責③
特徴づけられているということである
︒
アルトゥール・
カウフマンにとって責任原理はひとつの断念し得ない限界づけ尺度であり︑
どのような人にも贖罪を果たし︑
自分自身と共同体と和解する機会が与えられなければならないという事実の表現である︒
贖罪とは︑
アルトゥール・
カウフマンにとっては︑
再社会化思想に義務を負っているような刑法の基盤でもあることを意味しているのである︒
われわれはアルトゥール
・
カウフマン自身に語らせることにしよう ︵︒
21︶
﹁
責任はそれゆえ︑
有罪者によって︑
彼がそこから再び開放されたいと願う︑
それどころか︑
彼を圧殺してはならないとされるのであれば︑
開放されなければならない︑
彼に圧力を加える苦痛に満ちたものとして体験される︒
このような責任からの開放が生じ得るのは︑
しかしながら彼が排斥されることによってではなく︑
もっぱら有罪者がその責任を負い︑
それを自己答 000責的に引き受け 0000000
︑
そのようにして否認されているという非難から再び開放されるという仕方においてである︒
これこそまさに︑
贖罪 00と呼ばれているところのもの―それだけが贖罪と呼ばれるべきものである︒
贖罪は応報ではない︑
全く反対である︒
応報は︑
悪行というものを理由とする害悪の付加である︒
つまりは︑
行為者は消極的にそれを︑
彼が報い返されることをじっとがまんしなければならないということである︒
これに対して贖罪は︑
有罪者自身の積極的な倫理的実行である︒
それはどの ような害悪でもなく︑
すでにこの言葉が確かに述べているように︑
和解︑
言い換えれば害悪の現状回復である︒
つまりは贖罪を通して彼自身と彼の隣人とが再び純化されるということである︒
このように見られるならば︑
責任と応報は決して互いに通じ合っていないということも明らかになる︒
責任を︑
そもそも﹃
報いる﹄
ということはできないのである―責任にとっての等価性とはいったい何であるのか︒
報い返すということ︑
相応のものによって弁済するということは︑
つねに行為でしかあり得ないのである︒
国家刑罰において応報︑
害悪︑
抑圧ということで差し込まれているものは︑
それゆえ責任のどのような反映でもない︒
責任の苦痛を被る人間は贖罪を必要としている︑
和解を必要としているのである︒
彼は︑
自らと共同体との間に再び平和を築く機会を有していなければならない︒
彼からこの機会を遮断すること︑
彼の責任をそのままにしておくことは︑
非人間的である⁝⁝︒
われわれは総括しよう
︒
有罪者がそれを通して責任非難からの開放に︑
そして自らとその隣人との平和の再建に到達するためには︑
責任は贖罪を必要としているのである︒
まさにこのことが同時に︑
しかしまた︑
既述のように︑
行為者がそこでその行為に対する答責を引き受け︑
それを将来のためにも克服することへと彼をもち来らす再社会化への最善の道でもある︒﹂
アルトゥール
・
カウフマンのように︑
刑罰が責任を通して正統化され︑
責任非難が贖罪を可能にするという課題にあり︑
贖 ︵一一七六︶同志社法学 五八巻三号 一五九法の答責③ 罪が共同体との和解でもあると見られるならば
︑
何ゆえに終身自由刑の執行も彼にとっては問題をはらんでいるのかということも明らかになる︒﹁
それゆえ︑
重要であるのは︑
罪人のなかでも最も重い罪人であっても︑
それにもかかわらず釈放への機 00000会 0をもつということ
︑
したがって﹃
終身受刑者﹄
の場合の行刑も︑
被拘禁者の生活が自由の方向に向いているという目標に照準が合わせられている︑
ということである︒
まさにこのことこそ︑
諸々の見識がわかれる点である︒
まさにここが︑
なお生存の機会を許す刑罰と生活を破壊してしまう刑罰というものとの間の分かれ道である︒
ひとはここで旗幟を鮮明にしなければならないのである ︵︒﹂
22︶アルトゥール
・
カウフマンの刑法思考は︑
法服従者は人格であり︑
たとえ過ちを犯してしまった人々であっても人格としての諸権利が留保されなければならいという思想によって形づけられている︒
この諸権利には︑
彼らが過ちを犯してしまった場合でも︑
彼らは共同体と和解する機会を有していなければならないということも属している︒
現状回復は刑法のどのような第三の道でもなく︑
刑法が贖罪に義務を負っていることの表現である︒
贖罪は共同体との中枢的な和解である︒
アルトゥール
・
カウフマンの刑法思考はさらに︑
補充制原理 00000によって導かれている ︵
することができる
・ ︒
える考であると原理カ追及アルトゥール 原則前にまでであるキリスト時代く遠ひとつのかりでなくば︑
の社会倫理をカトリック原理はこの彼︒
23︶ す出き引を要求をなす中枢つの三して対に︒
から︒
して刑法する把握アルトゥール・
カウフマンはこの原理 されているものと正統化において理念えているというを能力備 形態化十分りをその生活な︑
することにに克服原則的自力ので 人︑
を原のこのンマフウ理一間個あで在存なは責答己自の的彼の理解によれば
︑
社会倫理的心情諸価値 0000000000を保護することは刑法の任務ではあり得ない︒﹁
心情諸価値それ自体はそもそも国家とは何のかかわりもない︒
それというのも︑
ここで問題になっているのは︑
原則的に人格と人格的共同体に独自の領域だからである ︵ないからである ︵ 得的刑罰の歓迎すべき帰結ではありても
︑
決してその根拠では︑
情﹄
といったものにならず他これをにすることは︑
国家強固﹃
ものは︑
またしてもの住民全体法的忠実﹄
もしくは﹃
法的心 のるいてれさ隠に後背言のようのも︑﹁
こ文うに神託めいたい するも指示ることを規定最高度に疑わしいのであって︑
それと を短期自由刑というものが法秩序の防衛として目的科せられ得 アルトゥール︑ ︒﹂ ・
カウフマンにとっては︑
それゆえ 24︶︒﹂
25︶さらにアルトゥール
・
カウフマンにとっては︑
刑法が社会の保護のために無条件に必要であるところでのみ︑﹁
言い換えれば︑
他人と共に存在する人間の生活にとって不可欠であり︑
刑法による以外の方法では有効に保護することができない法益を保護するためにのみ ︵がもちろん立法者
︑
にとっては彼︑
はそのさい補充性原理︒
る るあでのれさ許がとこるす入投を法刑﹂
26︶︵一一七七︶
同志社法学 五八巻三号 一六〇法の答責③
無視することができるひとつの準拠視点にすぎない
︒
その一般性にもかかわらず︑
空虚な形式がそこで問題になっているのではない︒
補充性原理は中枢的に刑法の断片的性格を要求するのであるが︑
これが意味しているのは︑
立法者は︑
非難に値しさえすればどのような態度にも刑罰を科すことは許されていない︑
ということである︒
彼は︑
いずれにせよ完全主義を追い求めることに反対し︑
社会的に有害な態度だけを刑罰のもとに置くことしか許されていないのである︒
この意味においてアルトゥール・
カウフマンにとっては︑
補充性原理を通して各則の諸構成要件を制限することによって刑法の肥大化を縮小することが求められるのである︒
補充性原理から引き出される第三の帰結として
︑
アルトゥール・
カウフマンにとっては︑
自由刑を科さないことが︑
刑罰が科せられたであろうよりも︑
ある人の将来の態度に対して有益な効果を約束している場合には︑
刑罰を科すことは許されないということが続く ︵︒
27︶最後に
︑
アルトゥール・
カウフマンの刑法思考は︑
それが哲学上の反省のうえに根拠づけられていることによって際立っている︒
哲学上の反省は細部の諸問題においても基礎的な諸問題においても示される︒
彼の哲学上の反省がどのように解釈論上の考察をも導いているかの一例として︑
偽証罪の真実概念についての論議を挙げることができよう︒
哲学上の真理概念と対決して彼は︑
証人の役割が︑
彼が現実を証言しなければならず︑
鑑定人の役割を︑
鑑定人は諸々の評価をも 00行い︑
諸々の推論を引き出さなければならないといったような場合には︑
偽証罪にとってどのような真実概念も存在し得ないことを論証した︒
この役割は︑
偽証罪の根底には様々な真実概念が置かれなければならないことを要求しているのである︒
アルトゥール
・
カウフマンは︑
まさに刑法上の類推解釈の禁止との対決において︑
刑法上の根本的諸問題と取り組む哲学者としての実を示した ︵なものではないとみなした可能 ︵ の解によって持ち出される可能な言葉意味使用よりもほとんど 00000000 れのこの不法類型から離
︑ ︑
限界要素としては通説的見これを︑
うとしていた︒
八〇年代のはじめには彼は解釈の限界として 不法類型は︑
規範の根底に置かれている限界を解釈のとみなそ 0000 う重が題課開いとるす展を要あでも彼とっとも︒
るあでのた された基準す許することを区別とを拡張禁止にならないために︑
は︑
法律の拡張とある行為者にとって不利になるような結果 彼引出ば︑
きは彼誤解にとってされるなら︒
されたことになる をがそこから帰結でなかったという必要づけることは限界解釈 くなければならないことは全刑法明らかである︒
彼にとっては を刑罰禁止︑
づけするどの制限もような類推の無効にとどまら らかにした︒
彼にとってはそれゆえ︑
刑法において刑罰を根拠 で︑
革新的であるどの解釈態度もを役立てていることを明類比 省学上の諸々の反っをもて彼はここ︒
哲 28︶のもに彼はいまや
︑
法律の根本思想のみ輪郭を限界づけること 000000000000000000 シュトラーテンヴェルトとと︒
29︶ ︵一一七八︶同志社法学 五八巻三号 一六一法の答責③ が限界づけというものを許容するということから出発した
︒
さらに先に及ぶどの解釈も類推でもあるという事実は︑
彼にとっては︑
ある行為者にとって不利な結果になるような解釈は特別の根拠づけ義務に服するという帰結に至らなければならなかった︒
基本法第一〇三条第二項﹇
罪刑法定主義﹈
は︑
彼にとってはこれを根拠づけていたのである︒
私見によれば
︑
アルトゥール・
カウフマンが構成要件要素のどの目的論的解釈も言語規則を固定している 00000000000と指摘するとき︑
彼は正しい︒
さらに︑
言語規則を固定するに当たって類比的要素もひとつの役割を演じているという点でも︑
彼は正しい︒
こ 0の規則 000は
︑
ある行為者に不利な結果になり得るような文言を制限するというように制限する方向で作用するが︑
しかしそれは︑
言語規則が現存しかつ固定され 000000000得る場合︑
それが言語規則の目的論的固定化 0000000を限界づけることができる場合に限られる︒
しかし︑
言語が機能するということは︑
ヴィトゲンシュタインが言い表しているように︑
通常の諸条件に結びついており︑
それ自体としていくらかは流動的であることから︑
この限界づけはしばしば可能でない︒
このことが受け容れられるならば︑
可能な言葉の意味が解釈の限界であるという原則はひとつの弱い限界であることが認容されなければならない︒
このことが意味しているのは︑
可能な言葉の使用がある構成要件の拡張を限界づけるという原則を︑
ある行為者にとって不利な結果になるために断念すべきであるということを意味しているのではない︒
しかしこのことは︑
他の限界づけ諸基準に求められなければならないことを意味している︒
アルトゥール・
カウフマンをそのように解釈すべきであると︑
私は考える︒
アルトゥール
・
カウフマンの刑法思考は︑
刑法上の問題の諸々の解決は討議様式というものによって見出されなければならないという確信によっても支えられている︒
これが意味しているのは︑
体系的な諸々の建造物や公理化から努められてはならない︑
ということである︒
アルトゥール・
カウフマンはそれゆえに︑
学派形成も否認した︒
むしろ問題の諸々の解決は︑
他の専門知識を有する者のテーゼとの具体的な対決を通して求められなければならないのである︒
実質的な諸々の問題に関しては︑
相互主観性が論証と誤謬証明を通して追究することを必要としているのである︒
これに続く諸報告がアルトゥール
・
カウフマンの中枢をなす諸見解を批判的に分析するであろうことを︑
私は喜ばしく思う︒
この討議的な様式こそ︑
まさに彼の刑法上の作品を際立たせているものである︒
* Professor Dr. Ulrich Schroth, ミュンヘン大学全刑法学研究所教授︵
︵ .6197 einen durchgesehene durch und Anfang ergäntzte Auflage, ri, eitewZ. pzinldpuhcSs aDKArthurnaufman, 1︶ er UdinneitsßuewbtschrenDas, nnafmuaKr uhrtA2︶
︵一一七九︶
同志社法学 五八巻三号 一六二法の答責③
Schuldlehre im Strafrecht, 1945.︵
︵ Das Schuldprinzip, 2. Auflage 1976.Arthur Kaufmann, 3︶
︵ ﹈二一六頁以下︶一九六七年︑学法学研究会 ――法代法哲学﹃の諸題現問存應在大塾義慶﹄︵究研的論 宮沢浩一アルトゥール・カウフマン︵原秀男訳編・渋谷勝久・︶ ―す﹂察考一る関推に林宏晟訳﹁類と〝事物の本性〟類型論 Auflage 1982.その邦訳﹇︵初版︑一九六五年の宮沢浩一・小︶ der Analogie und „Natur , Sache2. “Kaufmann, Arthur 4︶
︵ .1983Morgen, Gzwischenrnestechund t afreaArthur Kufmann, Str5︶
︵ 一九九九年第二版﹄︵成文堂︑学 ︶〇二頁以下﹈一 カンマフウゥ・ートルア上︵ル田期健法刑の哲換二転︶﹃訳監 ――決的責答域己自と由領な断問妊娠中絶の題に即して﹂ 1983 ff. S. , 147Morgen, und Gestern ﹇山中敬一訳﹁法的に自 chrubbsaaftwrsgeaneshuScchd, in: s.,Strafrechzwischen er verantwortliche – Entscheidung Problem Dargestellt des am u, nnafmKar uhrtARhecn-ngeeidutsmauRereifr6︶
―︵一般的罪論のための犯言哲学的考察﹂前掲語 Heft 41982―, .﹇における上田健二訳﹁素人仲間並行評価一 erbrechenslehre, issenschaften, Wder Akademie Bayerische V heEinsprachphilopn chisBlleinemegear zugrait Leiensphäre. der in Parallelwertung Die Kaufmann, Arthur 7︶
︵ 一四八頁以下﹈ 6︶訳書
︵ .1983Morgen, Gzwischenrnestechund t afretrSKArthur uafmann, 8︶
ルウ﹂アルトゥー換・カフ刑マン︵上田健二監訳者受転身︶﹃ Morgen, , zwischen und 1983Gestern S. 1 ff.終上田健二訳﹇﹁ Strafrecht ders., in: Lebemslänglich, Kaufmann, Arthur 9︶ ff.81S. , 1983前掲﹂刑法と原理の補充性﹁上田健二訳﹇︵ Morgen, und Gestern zwischen Strafrecht ders., in: Strafrecht, or, . S, 19nngeMdff.u4383; sidd nuätritiabuSs.,erd ders., und Resozializierug, in: zwischen Strafrecht Gestern Schuldstrafrecht ders., ; ﹈所収一三七頁以下︶一九八一年︑文堂 バウマン・編︵西原春夫﹄︵宮澤幸一監訳︶﹃西独刑法改正論争成 ff.刑法典代案﹇宮沢浩一訳﹁とラートブルフの遺産﹂ユルゲン・ und ders., Strafrecht zwischen Gestern 1983Morgen, , S. 31 und Entwurf eines Strafgesetzbuches in das Erbe Radbruchs, alternative Die ders., ; 所一九七二年︶信収六九頁以下﹈堂︑ ―のツたのプログラム西ドイ対有案起草者たちの意見﹄︵め ゲ典︵面﹂ユルン・ウマン編著バ佐新伯いし法刑︶﹃訳編尋千 お思任責るけ刑に法の﹁實谷想法策論的および刑事政理的側 1983S. , ff.Morgen, und Gestern 9生田勝義﹇加藤久雄・・大 s aftrSimSchziprinplduchreret, chchiszwt en afStrds.,er krdnue atismogDinimchalpitische Aspektedes olerds., ; 一の刑法哲期学﹄︵成文堂︑頁九九三収二五七以下﹈年所︶
︵ ff.195S. , 1983Morgen, und Gestern zwischen des Vzur Neugestaltung orschlage StGB, in: Strafrecht 218§ 19ndMorgen, S83, . 167ff.; teurnesGenchiszwders., in: Strafrecht sittliche und Strafrechtspraxis Normen, ders., ; ders., 訳書﹃学 転換期の刑法哲所第二版﹄収一頁以下﹈ 7︶
︵ 10 Vgl. Anm. 8.︶
︵掲 zwischen ff.81S. . 1983Morgen, und Gestern Strafrecht ﹇前 11in: Strafrecht, und Subsidiarilät ders., Kaufmann, Arthur ︶
︵ 7︶訳書﹃転換期の刑法哲学第二版﹄所収一頁以下﹈
ders., Strafrecht S. , 1983Morgen, und Gestern zwischen in: 12 Normen, sittliche und Strafrechtspraxis Kaufmann, Arthur ︶ ︵一一八〇︶
同志社法学 五八巻三号 一六三法の答責③ 167 ff.︵
︵ Gestern ff.81S. , 1983Morgen, und zwischen Strafrecht ﹇前掲 13in: Strafrecht, und Subsidiarität ders., Kaufmann, Arthur ︶
︵ 7︶訳書﹃転換期の刑法哲学第二版﹄所収一頁以下﹈
︵ ﹈一三一頁以下︶一九八六年︑文堂 法哲学カウフマン︵宮澤浩一監訳︶﹃と刑法学の根本問題﹄︵成 S. 81 ff.自殺・アルトゥール﹂嘱託殺人・﹁・上田健二訳﹇安楽死 zwischen Verlangen, Strafrecht in: Gestern und Morgen, 1983, 14auf Tötung – Selbsttötung – Euthanasie Kaufmann, Arthur ︶
︵︵ールカウフマン・上掲健二監訳︶田前 ff.ゥト当ルア﹂誤錯びよお由事化︑正訳﹇上田二健﹁構成要件 Strafe, Irrtüm, in: ders., Schuld und Auflage 2. 1983, S. 99 15und Rechtsfertigungsgründe atbestand, TKaufmann, Arthur ︶
︵若錯誤につてのい干の覚書﹂前掲 Lenckner, 1987, S. 185 ff. ﹇﹁上田健二訳錯誤に関する諸々の kuIrru zennge ernmAmiginEtumerFn l arKfüS r n; , irtu Irerüb ; dere., 定一﹂同志社法学﹈三三号四五頁以下誤規錯けおる Auflage 1211983, S. ff.﹇上田健二訳﹁一九六二年刑法草案に in: Strafgesetz-Entwurf 1962, und Schuld Strafe, 2. ders., 1283S, . 19geflauAff.1; usrim elnDieIrrtegmds.,er Schuld unechten Unterlassungsdelikte, ders., in: und 2. Strafe, beim Irrtum Zum ders., ; 一法哲学﹄下九八頁以﹈の刑 9期換転﹃書訳︶
︵ ﹄哲学二二七頁以下﹈ 9︶訳書﹃転換期の刑法
ff.21 S. 1982Geburtshilfe, zuterü„Fr dnuchtaeuGs.,erhantholod nugiräkynG, “ieas und Strafrecht zwischen Gestern 117Morgen, 1983ff.; S. s., erd: in, ieasantheuherBrteilung dsorügenanntenFeu 16 r rthur Kaufmann, Zueten hischenundstrafrechtlichA︶ ︵
︵ Strafe, ff.165S. . 1983Auflage . 2und Schuld ders., 17in: Heilbehandlung, eigenmächtige Die Kaufmann, Arthur ︶
︵ ff. in: 205S. , 1983Strafe, und Schuld persöhnlichkeiten, ders., 18Kollektivvon Beleidigung der Frage Zur Kaufmann, Arthur ︶
︵ ff.119S. , 1992Baumann-Festschrift, tsenWahrheintheorieis, in: chhfssoilohperddntaprüP 19Aussagetheorie Strafrechtliche Die Kaufmann, Arthur auf ︶
︵ in: ff.229S. , 1983Strafe, und Schuld ders., olltrinkenheit, V 20der Delikt beim Schuld und Unrecht Kaufmann, Arthur ︶
︵ Morgen, zwischen Gestern und Strafrecht 1983, S. 18 f. s esSchuldgedankenchimStrafretet, in: ders.,dekAsp 21 u, nnafmKar uhrtADmogime chtisolialpinkratdnue chis︶ zwischen Gestern .8S. , 1983Morgen, und 前掲﹇︵ 22 Strafrecht ders., in: nslänglich, beLegKaufmann, Arthur ︶
︵ の換期刑法哲学﹄二六七頁﹈ 9︶訳書﹃転 ff.︵前掲﹇ Gestern 81S. , 1983Morgen, und zwischen Strafrecht ders., 23in: Strafrecht, und bsidiaritätsprinzip SuKaufmann, Arthur ︶
︵ 7︶訳書﹃転換期の刑法哲学第二版﹄一頁以下﹈ .92︵前掲﹇ und . 81S. , 1983Morgen, Gestern zwischen Strafrecht ders., 24in: Strafrecht, und Subsidiaritätsprinzip Kaufmann, Arthur ︶
︵ 7︶訳書﹃転換期の刑法哲学第二版﹄一三頁﹈ f.92︵前掲﹇ und , 81S. , 1983Morgen, Gestern zwischen Strafrecht ders., 25in. Strafrecht, und Subsidiaritätsprinzip Kaufmann, Arthur ︶
︵ 7︶訳書﹃転換期の刑法哲学第二版﹄一三頁﹈ .93︵前掲﹇ und , 81S. , 1983Morgen, Gesterm zwischen Strafrecht ders., 26in: Strafrecht, und Subsidaritätsprinzip Kaufmann, Arthur ︶
7︶訳書﹃転換期の刑法哲学第二版﹄一三頁﹈
︵一一八一︶
同志社法学 五八巻三号 一六四法の答責③
︵
︵ Strafrecht ff.81S. Morgen, und Gesten zwischen ., ders﹇前掲 27in: Strafrecht, und bsidiaritätsprinzip SuKaufmann, Arthur ︶
︵ 9︶訳書﹃転換期の刑法哲学第二版﹄一頁以下﹈
︵事類晟宏林推と〝物訳の本性〟﹂前掲﹁ Auflage, .1982︑小・一浩沢宮の訳一邦第一版︵﹇九六五年︶ 282, . Sacheder „Natur und Analogie Kaufmann, Arthur “︶
︵ の学諸問題﹄所収二一四頁以下﹈ 4︶訳書﹃現代法哲
Nachwort Zweiten zur .6S. , 1982Auflage, 29 at, “ehacSerdr u„Nadhur KaufmnAn, Analogieunrt︶ ︵一一八二︶
同志社法学 五八巻三号 一六五法の答責③ フェリックス・ヘルツオーク *
アルトゥール・カウフマンの人格的法哲学における責任原理と刑罰的正義
Ⅰ.
刑法においては
︑
国家権力がその威嚇的な顔つきを見せつけ︑
法の外見を装って法の濫用を︑
人間とその諸権利への優越的な手出しを︑
度を越した目的追求と抑圧を行なう危険が格別に大きい︒
一九六一年に由来する責任原理についてのアルトゥール・
カウフマンの研究が読まれるならば︑
ナチス権力支配の︑
法の完全な道具化と転倒の経験が彼にとってどれほど深刻な影響を与えるものでなければならなかったのかが︑
多くの箇所で気づかれる︒
深く哲学的に設えられた責任原理の展開がまさにこの経験への反作用でなければならないということは︑
ナチスの法観は個人主義的な法制度を破壊するとともに﹁
刑法と倫理秩序との統一﹂
を再発見したという︑
一九三五年に由来するシャフシュタインの格言 ︵が
﹁
反逆としての誠実義務違反する対に由民族共同体 ︵ との処罰理︒
らかである明において対照 1︶下が有罪判決として
﹂
反逆者︑﹁
されるのではなく判断てされ︑
されなけれ伴って個人主義化っばならない責任非難に従尊重を︑ ︑
とされる当該個人にとって必要それはその人格的な答責と ならば︑
実務個人主義的におけるな法制度破壊はのこのような である﹂
2︶ すること発見なものを可任意処分的 ︵ 限からどこまでも可能なり広く恣意免れさせるために︑
再び不 るまで︒
をカウフマンはこの経験から扱︶
われる至に根絶︑
法︑﹁
執の罰刑に行︵﹁
いてはそれ相応に民の族共同体﹂
からのそお︒
した出き 答責引を帰結するという強調をの刑事政策上ひとつとしてその﹂
の課題な重要の刑法学が 3︶刑法が任意な諸々の目標設定に対して不可任意処分的に造られ
︑
刑事政策に個人の自由を尊重して超えることができない限界が設定されなければならないのであれば︑
このことは刑罰を責任から限界づけると同時に国家的刑罰権の限界づけとして展開することを要求する―個々人を襲う刑罰にとってと同様に︑
刑罰が科せられる態度全般にとっても︒
刑罰を根拠づけることと刑罰を限界づけることとは︑
このようにしてひとつの弁証法的な関係に置かれているのである︒
すなわち︑
刑罰を人格的な非難というものから根拠づけることの重大さは︑
恣意的かつ無限定的な目的追求とは調和していない︑
ということである︒
責任を負うべき過誤に対する倫理的非難としての責任非難は排除の︑
さらには殲滅の行ないではあってはならず︑
行為による人格間の承認の否認と︑
いっさいの人格の尊重要求の承認という法を根拠づける次元において根本的に取り組まなければならないのである ︵共を体にされてはならない
︒
行為まさにその通して自律した︑
げされた客の非難におけるき手続格下︑
は人間せられる帰ある ば︑
および尊重要求が尊厳言うなれ︒
が価値 4︶︵一一八三︶
同志社法学 五八巻三号 一六六法の答責③ 同体に対して答責的に行為する人格性の理想に相応する者は
︑
人間の尊厳の保護へと指し示されているのである ︵︒
5︶刑罰はうわべだけ予防的かつ機能主義的に社会の諸々の予期と必要性から根拠づけられてはならず
︑
それは︑
彼に贖罪への機会が開かれている﹁
まさに荒野﹂︵
アンドリュー・
フォン・
ヒルシュ︶
としての行為者に仲介されなければならないのである︒
このことがうまくゆくのは︑
責任原理が﹁
刑法の本来的な︑
最も深い正当化 ︵されている場合に限られる
︒ ﹂
として何らかの目的設定への順応性から開放 6︶偏見のない法哲学者としてひとは責任原理のこの場所づけにおいて不可任意処分的なものにはもちろん
︑
この原理からの具体的な諸々の導出と適用がそのつどの歴史的するであろう認識 ︵
︑
であることを法な歴史的ではなく絶対的くとともに導なかに −社会的の関連な としている必要をも刑罰が責任︑
なく ︵ なしなければけらないだ相で応にン責が罰刑︑﹁
ばれよに任マ 形態しかし可変的な︒
とは無関係に︑
カウフ 7︶な的本質的内実が客観的かつアプリオリに妥当する
︒ ﹂
という責任原理の二面 8︶責任は―と
︑
カウフマンは言う―帰属の第一段階において人格として尊重されるという要求の部分的な実現をともにもたらす︒
非難および︑
そこから第一段階において根拠づけられた刑罰は︑
次いで責任への相応の応答である︒
しかし刑罰は第三段階において
︑
それが全面的に行為者を襲うのではなく︑
彼を―カウフマンがヘーゲルを指示して言い 表している ︵︒
く開り切を性 場合道を切り開くからのには︑
責任贖罪自己解放の可能へのに ―のめに﹁
理性的なもとよして敬い﹂︑
彼のたう 9︶いくぶん古風な感じを与えるこの概念によって自立させる社会化という
︑
徹底的に現代的でもある諸構想が考えられているのである︒
アルトゥール・
カウフマンはそれゆえ︑
刑法の統合的効果というものへの社会的な諸々の予期を決して見過ごしていない︒
彼はしかし︑
この目的から出発して刑罰の他律的な根拠づけというものを否認する︒
自律の承認を通して責任のカテゴリーにおいて自己決定された個人の成果としての統合―まさに贖罪―が構想されるのである︒
責任が倫理的非難とそれに相応しい刑罰の次元を強調するならば︑
このことは︑
カウフマンの言葉で言えば﹁
刑罰の意味全体 ︵人格的な意義というものを有している
︒ ﹂
において社会的および 10︶社会的意義 00000が考えているのは主として
︑
社会の処罰欲求に対する規制的な︑
限界づけの意義というものである―これに従えば十分な根拠があり︑
また事柄の重大さを認識して他行為可能の非難を加えることができる人間しか処罰することは許されない︒
人格的な意義 000000が考えているのは
︑
行為者に対する刑罰の必要性を媒介することにとっての構成的な意義である―汝は︑
汝の平和的共存の諸条件でもある人々の平和的共存の当の 00諸条件を︑
汝に責任が問われる仕方で疑問視した︒
汝をこの答責に置 ︵一一八四︶同志社法学 五八巻三号 一六七法の答責③ く要求として刑罰を把握せよ
︒
Ⅱ.
この
﹁
刑罰の意味全体﹂
にアルトゥール・
カウフマンは差し当たり︑
見かけ上は自然主義的哲学的むしろ
︑
されてはならず理解として 行為関係な心理学的とののその行為者しかしこれは︑
であるが −心理学的するの接近で仕方なされる理解として
﹂
圧迫﹁
ひとつの﹂
ならないばなけれ ︵ 解放いためにはそこから﹁ ︑
されたいそれどころか解放︑
され︑ ﹂
はカウフマンによって任体験それによって押しつぶされな てカウフマンはこれとは決したなむことができなかっじ︒﹁
責 りというものが成の立っているのであるが︑
しかし接近種ある 責任感情で上ってくる︒
ここにについての精神分析の想定への じられるならものとして答責的に感にとってば︑
人格意識にま︒
の﹁
責任体験﹂
をもって始まる責任は︑
それが苦痛に満ちた ――とて終わるところのものはう︑
カウフマンは言︑
人間 ならない理解されなければ定︒
刑法上の責任非難をもっとして −根本想な人間学的︒
11︶しかしこの解放に成功するのは
︑﹁
責任のある人がその責任と向かい合い︑
それを答責的に引き受け︑
そのようにして無力をさらけ出したという非難から再び解放される ︵によって指破壊の自己独自性と非難しつぶす押における行刑し と審判
︑
はへの責任解放から責任体験まさにそれゆえに︒
る道 られ限に場合﹂
12︶ のである ︵ くことができるとしてこの築まれている込にはめ構想を和行刑 平との隣人がそのなかでその行為者︑
手引のための放きとして されてはならないのである︒
再社会化自己解からの責任︑
は示︒
13︶Ⅲ.
主観的な責任体験と責任解放は相応の刑罰を通してひとりでに向き合って立ち現われるのではなく
︑
責任非難が両次元を互いに仲介しなければならないのである︒
この解釈およびコミュニケーション上の成果の場所は︑﹁
舞台装置による理解 ︵との非難める収を成功で前の法廷の良心は仲介 ︵ 責任の裁判官と責任体験の行為者
︑
ばによれ構想カウフマンの は︑
でとこう規則に導かれた場所しての刑事手続きである︒
そ﹂
いと 14︶成的である交換のひとつの見方の両者とした基盤を想定な ︵ 構というものの共同世界になっているのは問題そこで
︑
ばえ言 に相互作用的︒
15︶︒
な判官の非難において表面的映像として立ち向かうのである のには︑
いわば彼自身裁内的な良心の法廷が︒
行為者のである としてわせることができる合かい向に彼から裁判官責任非難が︑
にのみとして場合のが行為者体験彼を圧迫する苦痛するもの︒
そ 16︶カウフマンはこのことを
﹁
裁判官がなり代わってする良心の判断 ︵す陰鬱許を自立からの責任体験っている覆しく重苦を彼
︑
なに 彼が反省の非難性の行為におけるその責任判断︒
ぶ呼と﹂
17︶︵一一八五︶