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駒澤短期大學佛教論集 6 010袴谷 憲昭「pramana-bhutaとkumara-bhutaの語義 : bhutaの用法を中心として」

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(1)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty

駒 澤 短期大學佛教論集 第

6

號  

2000

10

月 (

1

pramapa

bhUta

kumara

bhOta

bhUta

用 法

心 と し

1

  問題の 所 在

 

稿

は、

今書

として い る限 りに お い て は、 そ れ ほ ど

複雑

なこ とを論 じ よ う と してい る わ け は ない の で、 予め 、 結 論 的 な もの を明

に して お い た方が、 よ り 一

その 意 図は単 純 化で きるか もしれ ない 。既 、 その

図の 一予告 た こ とも あるの である1 >が、

pramapa

bhUta

とい

複 合 語の 後分である

bhUta

は従 来ほ と ん どの 場 合

prama

a に “っ た方 ” と理 解 されて きた もの の 私 は、 こ れ を “真 実の (

bhitta

>”

pramapa

と解 釈 すべ い か と

考 え

る に至 っ た。 その こ と を 述べ るの が

稿の 目的 なの で あるが 、 その

、 「童 真 」 と

訳 さ

れ るこ との

kumara

bhitta2

真 実

複 合 語

pramapa

bhUta

同じ性

の複 合 語で は ない か と

做 して 、 こ れ

も合

わ せ て

考 察対象

め た方が 論 証 し易 くなるの で はない か と判 断 した わ け 。 こ の

kumara

bhUta

は その 用 語 自体に ま た

途な

向へ 問題 の

性 を含では い が、 そ れ はで きる だけ

押 え

当初

意図

を重 じて、

くまで も、

bhUta

の 用 法

明 らか に

助 と して の

kumara

bhUta

考 察 を限 りたい 。 従 っ て 、本稿 の テ ー ては、 両

複合

語の 語

の 考 察で あるか の よ

に並

は さ れて い る もの の、 主 眼 は勿

pramana

bhUta

にあ るの である。

 pramana

bhUta

とい が 、

論 書に お い て明確 な意 識の もと に 用い

れた

初は、 周知 の ご と く、

Dignaga

Praman

. czsamuccaya の

敬頌 (mahgala −

§

10ka

に お い て で あ る が、 こ の 頌 と

Dharmakirti

Pz

α辮 砌 α〃σガ褫 θ の

Pramana

siddhi 論 構 成

関係

を初め て具 体 的指 摘 さ れ

Masatoshi

 

Nagatomi

授であっ た3}。 これ を発 端 として

Pramana

−siddhi

の 研

究は 、次 第に押 し進 め ら れて今 日 の隆盛 をみ る に至 っ た が、こ こ では 、

Dignaga

(2)

Komazawa University

NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 University

2

     

pramapa

bhUta

kumara

bhata

の 語義 (袴 谷 )

と に し よ

。 まず、 以 下 に、   回 収 されたサ ン ス クリッ トの

帰敬

頌 4 、 そ れに対 し て 与

られた

代 表 的

と して、

 

Masatoshi

 

Nagatomi

訳 5 )

 

Masaaki

Hattori

訳 6) 、

 

木 村誠 司 訳 7)順 次 せ ば の とお り

  

 

prarna

ロa −

bhUtaya

 

jagad

dhitaiSine

    

pranamya

§astre sugataya  tayine /

    pramapa

−siddhyai  sva −mat 五t samuccayab

    

kari

$yate viprasrtAd  

ihaikatah

//

  

 

Having

 

paid

 reverence  to 

him

 who  

is

 valid  

knowledge

instrument

 

incarnate

 

ヵπ 砌 αδ觴 如],who  

desires

 the 

good

 of 

the

 world

iagaddhitai

ξ

in

the

 teacher

       コ

 

〔sastr ),

the

 

Blessed

 

One

sugata

the

 savior [蠍 勿

Ishall

 make  

here

 a com −

 

pendium  of my  v {ews which  

have

 

been

 expressed )

in

 sundry  

places

, 

for

 the

 

establishment  of valid  

knowledge

instrument

  

 

Saluting

 

Him

, who  

is

 

the

 

personification

 of 

the

 means  of cognition , who

 seeks  

the

 

benefit

 ofal1

living

 

being

 who  

is

 

the

 

teacher

 

the

 sttgata  

the

 

protector

 

Ishall

, 

for

 

the

 

purpose

 of establishing  the means  of valid  cognition , compose  the

 

P

昭 規 α一]samuccaya , uniting  

here

 under  one  

head

 my  

theories

 scattered

in

 

many  

treatiSeS

].

  

  量 となっ た 方、 世 間を利するこ と を お望み に なる方 、 .大 師 、善逝、 救護 者に帰

命して 、 〔世 尊 を〕量で ある と証 明す る た め に、 自らの典 籍 を集 成 して 、 断片をこ こ

 で一つ した の で ある。

 

訳語の 問題の 検 討は後に廻

として、

pramana

bhata

ちの

pramana

を、

 

は“valid  

knowledge

instrument

 

は “

the

 means  of cognition ”

 

は 「量

と訳 し、

bhata

を、

 

は “

is

incarnate

” 、

 

は “

is

 

the

 

personification

” 、

 

は「な っ た (方)」 と訳 してい るこ と は 明 ちか である。

っ て、

bhUta

にっ い て は、 「具 現 である」厂人

化 である」「なっ たとの 理

で ある か ら、 い

れの 訳

bhUta

に 「

」 の 意 味 を含 ませ てお り、 「

真実

」 と

す るもの は ない こ とに な るが 、今は こ の 点を確 認 して お くだけで、

prama

ロaの

合に移ろ う。

 

私 見に よ れ ば 、

pramana

とい

う語

決 し

て 当

か ら

的 な意 味に おい て 用い られ てい た わで はな く、む しろイン

使

用さ れ てい

の が 、次 第に 仏 教 側に も滲透 し、 そ れが 定 着 す るや 、仏 教 思 想の 枢 を担 っ た と考え ら れ る

Abhidharma

統の

で 、こ の 用語 も

学的

術 語 として洗

さ れて い た の 一

327

一 N工 工一Eleotronio  

(3)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty

prama

ロa ・

bhUta

kumara

bhUta

の 語義 (袴 谷) (

3

では ない か と測 さ れ るの で あ る8)

。 その 明確 な徴 候は

yO

願 o伽 δ伽 纏 、 と りわ         ノ

け 、 その

Srutamayi

bhUmi

「思 所成地」

の 「論 理 学 (

hetu

−vidya )」 の 箇

、 お よ び、 こ れ と 関 連 す る

Asahga

Abhidharmas

αmuccaya の

Samkathya

− vini§caya (論議 決択品」

) 中

の vada −vini §caya

論 軌 決 択)に

取 される9)。 また、

prama

ロa の 論 理

学 的

と して

立 される直

の 過 渡 的 な 意 味の ば らつ き は

Vasubandhu

Abhidharma

々osiabhtasya に も認め られ る1°

が 、 かか る過 程

経て、

pramapa

味 も

Dignaga

に収 斂 してい の で は ない か との 想 定の下に、次 に、 そ れ ら以 前の

pramana

の 用

味 を

単に探っ て み る こ と に しよ う。

 

、 イン ドー般の

と して、

Maha

bha

’rala の

を一瞥 する と、 次の よ う な もの 11 }が知 ら れ る。

 

  §eSe  prama am  

tu

 

bhavantah

し か るに 、 それ 以外の こ とに つ い て は 、 貴 方

 

た ち (イン ド ラ

が基 準であ り ます。)

 

◎ §rutva  

pramapa

 

bhavati

(お 聞きに なっ た 以上 は、 貴女 (ダマ ヤ ン ティー妃 )

 が基 準 であ り ます。)

 

D

 sa 

yat

 

pramapam

 

kurute

 

lokas

 

tad

 anuvartate およそ なん であれ彼が基 準

 

を示 すなら ば、人々 はそ 〔の 基 準 〕に従 い 。 )

 

egastram

 

prarnApam

 

te

(論 典 が あ なたの 基準です。)

 

以上の

4

pramana

を全て 「基準」 で統一 して 訳

に はい さ さか

窮屈

な きに し もあ らずで あるが 、 しか し、大体 は 「基 準」の

味 に理

して妥当 と

わ れ る もの であ る。 しか るに、 その よ

味での

pamana

pramana

は、 論 理

確 立 以

の 仏 典に おい 、か り用ちれ い た こ とが確認で きる。 以下で は、 そ れ らの 用 例 を、パ ー

LalitavtStara

, 

S

κん

1

励 α’尠 擁勉 , 

ASvaghosa

Budd

hacarim

の 順 で

げ てい っ てみ ることに した い 。

 

パ ー

、 既 に辞

や 索 引 ’2}に お 、か か る用例が 指 摘さ れ て い るが、 こ こ で は 、 その 種の 指 摘か ら漏れて い た と思わ れ る

敏 α の例 だけに触れ て お きたい

如舷 第

37

話は

Tittira

jataka

シャ コ 前生物語) 、 この 話

は 、教 団 内の 出家 者た ちの で は 年 功序 列 (

yatha

buddham

/vuddham の 札 をと るこ とが 「基

pamapa

prama

ロa)」 である (

idam

 ettha  

pamarparp

)こ と

ャ コ

tittira

猿 (makkata

hatthin

三 匹

動物

物語

ち 、釈 尊の

生 である シ ャ コ 三 匹

一番

者 (

mahallakatara

(4)

Komazawa University

NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Unlverslty

4

     

prama

ロa−

bhOta

kumara

bhttta

の 語義 (袴谷)

象 とな っ た とい

う本

生 譚 を

して、 明 らかに した もの で ある 13) 。 こ の話は 、多少の 変更 を伴 っ て 、

各部

派の

蔵に も伝え られて い る こ と が既 に知 ちれて い る 14 が、

浄訳 欠の ために従 来は

知 されてい っ たか も しれ ない 根 本 説一切 有 部

の 場 合 を、

Gilgit

 

Manuscripts

よっ てこ こ にい さ さか補っ てお きたい 15)。 こ の律に おける話 も、

他律

にお ける と同 じ く、

Sayanasana

−vastu

具 事)

に収め られて い るが、

他律

き く異 る とこ ろ は 、動

が兎

§a§a

の 付 加に よっ て四匹 と な り、 シャ コ

も同

種 を

指す語

え られ る

の の

tittira

か ら

kapifijala

わ っ

て、問題 の

pramana

「基準」を意味する とい うよ りは、 vata −vrk $a (

= nyagrodha , nigrodha )の 木と四 匹の動 物が比 較 を行 う際の 単 純 な意 味で の 「大 きさ」 を表わす だけになっ てい る とい うこ と である。

 

さ て、 従 来 看過 され てい た か もしれ ない とい う危 惧の 念か ら多少脱 線 して しま っ た が 、 次の

Lalitavistara

の 用例 に移 ろ

。 これ は 既に

Hattori

教 授に よっ て指 摘 されて い るもの なの であ るが、 必要 あっ て、 チベ ッ ト訳 と共に示せ ば 、以 下の と お りである16) 。

   1bhagava 甲s 

tvam

 eva  sa−

devakasya

 

lokasya

 

parama

・2s2k $

i

bhOtah

pramana

bhUta

§ca

 

Tib

.:

bcom

 

Idan

das

 nyid  

Iha

 

dang

 

bcas

 

pa

i

 ’

jig

 rten  

gyi

 

dbang

 

du

 

gyur

 

pa

dang

tshad

 mar  gyur  pa 

dam

 pa 

lags

 so//

 

こ こに、 検 証 を経 ない うちに

prama

ロa −

bhUta

の 用語が 出て きて しま うの で あ る が、 この

に は

び立 ち返 っ て くる とい

約 束の 下に、

題の 用

語 を

真実

の 基準」と今は仮 りに 訳 させ てもらうこ とにすれば 、上 引の サ ン ス ク リッ ト文 は、下 線 部分

1

2

とを、 チベ ッ ト訳に

っ て 、 そ れ ぞ れ、

bhagavan

 eva , va§

i

bhatai7

) と訂正 した上で は、 次の よ

に訳 すこ とが可

ろ う。

 

世尊だ けが、 神々 と 人々 との最 高の 支 配 者 (

parama

・vagibhata )であ り、か つ 、 真 実の 基準 (

pramarpa

bhUta

)で あ る。

 

次に 、

Sukha

−vativyza−

htz

に見 られ る一例 を、 や は りチベ ッ ト訳 と共 に

げ れ ば 、 次の と お りで ある181。

 

buddha

 mama  

prama

a atra  sak

i

 

Tib

,:sangs  rgyas  

tshad

 ma ’

di

 ni 

bdag

 gi 

dbang

   (こ れ につ い て は、 仏が 私の 基 準であ り監視 者で ある。

 最 後

の 用 例である

Buddhacan

ta

につ い ては既に 本 庄 良文 氏の 研

が ある19 )が、 一

325

(5)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty

        

pramapa −

bh

ロtaと

kumara

bhUta

語 義 (谷)

     

5

その

し て は他の と共に後 述 しなけれ ばなら ない の で、 こ こ で は、 その

要 関連

の チベ 2°》サ ン ス ク リッ ト原 文 欠損 箇 所) と拙訳 とだけ を示し

て お きた い

  

de

 

phyir

 

bdag

 

gis

 mdor  

bsdus

 nas //

tshad

 ma

di

 rnams  

bshad

 

pa

 ste//

  

gang  zhig  

byed

 

de

 

tshad

 ma  yin //’

di

 

las

 gzhan  

du

 tshad  ma  min

  

(そ れ ゆ えに、私

= 仏 世尊

は要 約 して れ らの 基 準 を説明 し

、 な ん ら か の こ

  

とを行っ て、 〔私 が〕 基準である が、 これ と異れ ば基準で は ない 。

 

以 上 の 用例 を 比較検 討 してみ る と、 そ れ らの

で、

Mahabha

−rala の     とパ ー

リ聖典

Tittira

jataka

pama

a /

prama

ロa が 「基準」 と な る行い や 論

を指 し

て い る以

て、

権威 あ

る人や

してい るこ と に

づ くで あろ

。私 は、 これ ちを当

の ヒン ドゥ ー ズ ム 格 神 的

神 論 見 做 ワ、従 っ て、仏教 文 献 中の用 例であっ て も仏教 固有の考 え方 を顕わ した もの と は考 えてい 事 実 以上仏 教文 献用例 を比較 的 古漢 訳に照 らす と、 全て後 世の

付加的

性 格が濃

なの で あ る21) 。 それ な らば、 その よ

な イン ド ー

で 用 い られ てい た

pramapa

とい う語 を

の 開祖た る唯一の 仏世

に適用す る と

れ ば、 当

そ こ に は

bhata

(真 実)とい

う語

の よ

な限

を加 える必腰 があ っ たの で は ない だ ろ

か。

II 

kumara

bhOta

i義

 

以 上の

証明

る た め に、 私が 、

最 も有効

資料 を提供

して くれ るの ではな い か と考えたの が 、前述 した ご と く、

kumara

bhUta

な る語だっ たの で ある。

 

次 に、 この 複 合語 の 語

の検 討に移 りたい と思

が、 その

に、 複 合語 後 分 にお ける

bh

酖 a の用

につ い て一 言 して お きたい  

bhUta

合 語

後分られ た場 合に、 「真 実」 や 「最上 」 の

味 を もち、 しか も前分に掛か っ て それ を限定 す る とい 用 法は、 どこ か に規 則 と して記 載 さ れ てい て もよい に思

が 、 私の

明 の た め か、 私 はい ま だ に か か る文

法的

の 規

を文

法書

規 則 中

定す

るこ とがで きない 。 しか るに、私 が

bhUta

の か か る用法 を

識 する よ

に なっ

た の は既に 述べ た こ とで もあるが 、 

Gregory

 

Schopen

教 授の caitya −

bhUta

とい

う複合 語に関 す る考 察 を知っ て か

なの である22〕。 私は その

考 察

が 正 しい と思 っ

てお り、私 自

の 確 認 を通 して 、その

bh

ta

の 用

は、 文 法 規 則の

加 え

(6)

Komazawa University

NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Umversrty

6

pram

的a−

bhata

kumara

bhata

の 語義 (袴 谷)

考察

結論

の み をこ こで紹

して おけば、

複合

語 caitya −

bhUta

bhUta

は、 eminent , 

true

, real , 

proper

な どの 意味 をもっ て、前分 caitya を 限

し、 その全

体の

味 は 、「 真 実の 霊 場 や 「 最上 の 宗 廟 とな る とい の で あ る。

 

一方、

bhata

の こ の よ

な用

っ て、 その

条件 を確実

複合語

て 私た ちが想 起で きる もの の一つ に 文 字 ど お り「

と漢訳 さ れ る場 合の

kumara

bhUta

る 、 と と に 。 とい うの も、 こ の

kumara

bhUta

は 「

真実

」 もし くは 「

物の 王 子」 と考 え られ て 「

童 真

」 と

訳 され た に ちが い い だ ろ うか らで ある。 しか る に、 こ の

kumara

bhUta

の 用 語、 とい うよ りは む しろその 用 語の大 乗 仏 教の 立展 開の に果 した役 割の 重 要 性に関 し て は 、平川彰 博士 の 看 過 すべ か らざ る貴重 な御 指

が あるの で、

少 長 くなる が、 以 下に 、 その 重

箇所

の 一

節 を全

引用 し示 し 23) 。    っ ぎに 「童 真地」 が 『大 品 般 若』 に あ るが、 こ の 童真 は、『般 若 経』 で は重 要 な概  念で ある。 『大 品 般 若 』 に 「菩 薩の 家に生 ま れ ん と欲 し、 童真地 を得 ん と欲 し、 不 離 諸仏 を得ん と欲 し… …」 とあるが 、 こ の童真につ い て、 『 品般若』 「奉鉢 品第二」  に は 厂初 発 意 よ り常 童 真 とな り、 色 欲 と 共 む る な し、 … … 初 発 よ り婬 欲

 

を断 じ童 真 行 を修 す」 の 語が ある.『放 光 般 若』 で は 「菩 薩は 初 発 意 よ り童 男 行 を な       め と

 

し、 作仏を成 ずる ま で、 妻色を聚 らず」 とあ る。 こ れ ら で見る と、 この 童真は 「 童  真地」 で は ない が、 ともか く童真 と は 「梵行 者」 (

brahmacarin

)の こ と であ る。 単

 

な る 「若 者」 の 意味で は な く、 禁 欲 を守っ てい る青年修 行者を意味 し て い る。

1

住  の童 真 地に も、 こ の意味 を読み こんで よい と思 う。

f

住 説で は、 童真は 第八 地で あ  り、 王 子 位 の 前に ある。 王子位 との 関 係 で 、こ れが 「 真」 と呼ば れ た か と思 うが、  ともか く童 真 地は、 在家生 活 を拒 否 して、 禁 欲 修 行 者 とな るこ とを意 味 する もの と 解 して よい。 第七地の 不退転地 で は、無生法忍 を得て、 菩薩 乗の 修 行か ら退 堕 し な  くなるが 、 しか し まだ婬 欲 を捨て る こ とは確 定 して い い の で あろ う。 「 退転」の 相につ い て もすで に考察 した が、 そこで は十善業 などが 説かれて お り、 在家者の 行の 立 場 を示 してい る。 在 家で も婬欲 を断 じた修 行 者があっ た であろ うが、 しか し 不退 転地に とっ て、 断婬は必要 条件で は な か っ たの である。 『 』で は童真地

 

に つ い て は 、「聞 持 品 第 四五 に 「自 ら童 真 地 を成 就 し、 また他 人に童真地 を成 就 す  る こ と を教 う」 と あ り、 『放光 般 若』 「真 知識 品第四 六」 に は 「自 ら童真地 を 成 じ、 彼に勧め て浄潔行地 を修せ しむ」 と訳 して い る。 こ の 「浄潔行 」 が 童 真地 の 訳で

 

あるこ とは明 らか で あろ う。 この 訳 語に も、 童真地 が 「梵 行 」 で あ るこ とが 示 さ 一

323

一 N工 工一Eleotronlo  Llbrary  

(7)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty

prama

ロa−

bhUta

kumfira

bhUta

の 語義 (袴谷)

7

 れ て い 般 若 経 で は 鉢 品聞持 な ど散 説  て い 。 こ れ が ま と め ら れ て、 十住の 内容が充 足 されたの で あ る と考 えて よか ろ う。

 

』 に は童 真 地は 出な い の で あ る。 文 殊 師 利 を 「 マ ー ラブ ー タ

kumara

bhUta

) と呼ぶ の も、こ の 点か ら考 えるべ

 

私は、以 上の御 指 摘の

ちに 、

kumara

bhata

とい

う概

必要 な

情報

て含 まれてい る と思

。 「

真 (

kumara

bhuta

」 か ら 「

童真

地 (

kumara

bhUmi

)」 へ の 変 化に は、

gotra

bhU

か ら

gotra

bhUmi

へ の 変 化 と類 似 した状 況が あっ た と

も想 定 され る24 )が、こ こで は 、こ の 題 は直 接

関係

ない の で深 追い ない こ と とす

れ ば 、上 引

で、 「童 真」 と は

brahmacarin

(梵行 者) を指 す と指 摘さ れ て い るこ

とが

kumara

bhata

に とっ て最 も本 質 的 な御 指 摘 と言わ な け れば な

ら ない の で ある。 大

乗仏教

が形 成 されつ つ あっ た頃の 当時の イン ドにお い て 、ヒン

ドゥー イズム 隆 盛 な風潮 の 中でその 通 念に染 まっ た新興 の 王族や 大 富

を主 とす

る 「在

菩 薩 (

grhi

 

bodhisattvah

に とっ て 、彼 らの

布施 (

dak

i

ηA 

dana )

意味に終 らない よ う な田 (

dakSiptya

,・

purpya

k

$etra と しての 崇敬 の 対

25>た りうるの は 、在

生活 を拒否 して苦行 を な した結 果マ ジ カ ル な霊 力 を有 して い

じ られ た 「

修行 者

」 と して の 「

出家

pravrajito

 

bodhisattvah

)」 であ っ た に違い ない が 、 その

型的な 理想像が イン ド人 に とっ て は

brahmacarin

に ほ か ならない 。 その理 想 的 な状 態 を決 定 的に獲 得 す るの が第八 位の

kumara

bhUta

であり、 そ れ は次の 第 九位 の

yauva

−rajya (法 王 子)た るこ とが確

して い る とい う意味 で 「真 実

bhUta

)童子 (

kumara

)」 と言わ れ て い る に

い ない の であ

る。 さ

考え れ ば 、平川 博 士 が、

Mafiju

§ri (文 殊 師 利)が

kumara

bhata

ば れ るの この か ら

えるべ る と引 用 末 尾で お こ とも極め て

的確

御 指摘

とい わ な け れ ば な ら ない で あろ う。 とい うの も、 『大 智 度 論 』 も触 れて い る ご と く、

Mafiju

§ri の よ うに 「 乃至 十地に 入 っ た

菩薩

は 「

く王 子 と名 け 皆 任 じて仏と為 す」 か ら である26 》。

 

しか るに、 その 漢訳仏

圏の む し ろ

伝 統的解

釈 を妨げて い るの が 、今の

bhUta

絡 みの

場合

に限っ て は、 チベ ッ ト訳の よ

に思 われ る。 それは 、

Schopen

授の 扱 っ た caitya ・

bhata

が 、 チベ ッ ト訳で は “

mchod  rten  

du

 

gyur

 

pa

” か“

mchod  rten

lta

 

bu

”に 訳さ れて い た た め に 、 下 線の

合 語 後 分 部分 の 語

が 「

」 な どを指 すとい

こ とが看過 されて し まっ た27 >よ

kumara

bhUta

が チベ ト訳では 一

(8)

Komazawa University

NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 University

8

     

pramapa

bhttta

kum

亘ra−

bhUta

語義 (

が 「真 実の

子」 とい

な理

を妨 げて しま

か らなの である28〕。 そ こ で 、かか る異

言語 間

での

指摘す

るため に、 こ こ で は、 ・

Pan

” cavi  zsiat一 磁 編 褫 ク

P

δη 嬲 磁 (『二 万 五 千 頌般若』

の 一節につ い て 、  サ ン ス ク リッ ト本29)、  チベ 、  漢訳 (羅 什 訳)31 )を列 挙 して お とに

   

 

ke

§

aficid

 

bodhisattvana

甲 mahasattvanapa  

prathama

−cittOtpadam  upadaya

 

brahma

−carya −samadanante  

kumara

bhUta

 eva  

bodhisattva

−carika caranto

 

nuttaralp  samyak −sambodhim  abhisar

budhyante

      

Sha

 ra 

dva

 

ti

i

 

bu

 

byang

 chub  sems  

dpa

’sems  

dpa

’chen  

po

 

la

 

la

 ni sems

 

dang

 

po

 

bskyed

 phyin  chad  tshangs  par spyod  

pa

 

yang

 

dag

 

par

 

len

 te/

bla

 na  med

 pa yang  

dag

 par rdzogs  pa ’

i

 

byang

 chub  

tu

 mngon  

par

 sangs  rgyas  

kyi

 

bar

 

du

 gzhon

 nur 

gyur

 

par

khod

 

do

//

     或有 菩薩、 従初 発心、 断婬欲、修 童真行、 乃 至得阿耨 多羅三 藐三菩 提、 不犯 色  欲。

 

サ ン ス ク リッ ト本は 、 私に は

少読解に困 難 を覚 え る箇 所 も含 まれて い る の であ るが、 下

線部

分の

kumara

bhUta

の この

箇所

に は紛 らわ

い とこ ろ はない の で、 後 はこ れ をチベ ッ ト訳 下 線 部 分の よ

解 す

る か 漢訳 下 線部分 の それの よ うに解

る か だ け なの で あ る が、 私 は 上 述 した ご と く、後 者の 「童 真 」の ご とく「真 実の 童 子」 と解 釈 すべ きである と考 えてい る わ け で あ る。

 

なお、 平川彰 博士 は 、前述の 御 研 究におい て、 「住 説 」 に

連 して、 『華 厳 繦入 法 界 品 」 を中心 とする諸 訳例 を集め て対照 表 を提示 さ れて い る32)の で、

っ て 、その 中に 、

kumara

bhUta

の 諸 訳例 も見て取 るこ と が で きる。 今は、 それ を

照 して 、「十住 説」 中の 第十、 第九 、第八につ い て の み 、

Gczndavyu

ha

  サ ン ス ク リッ ト本33)、  チベ ッ ト訳34)、  漢 訳 (仏 駄 跋 陀 羅 訳)35)を列 挙 して お くこ と にす る36) D

     abhi §eka ・

prapt

巨naIp  

bodhisattvanam

 samanta ・tala −megham  nama  

dharma

 

megha −var $am

 

abhipravar §amap 亘n

maha −

dharma

yauva

−rajyabhi §

iktanar

bodhisattvana

疋ロ samanta −mukha −prave §alp nama  

dharma

−megha −var arn abhi ・

pravar

§amapan /

kum

巨ra −

bhOtan

m

bodhisattvana

匸n samanta −vyUha narna

dharma

megha

pra

var 爭am  abhipravar §amapan

   

byang

 chub  sems  

dpa

’ 

dbang

 skur  

ba

 

thob

 

pa

 rnams  

la

 

gzhi

 

kun

 

tu

 rten  pa ’

i

 

sprin  ces 

bya

 

ba

i

 chos  

kyi

 sprin gyi char  mngon  

par

 

dbab

 

pa

 

dang

byang

 chub

321

 一

(9)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty

      

prama 口a・

bhOta

kurnara

bhUta

の 語義 (袴 谷)

     

g

sems  

dpa

’ chos  chen  

po

i

 rgyal ’

tshab

 

du

 

dbang

 

bskur

 

ba

 rnams  

la

 sgo 

kun

 nas

jug

 

pa

 zhes  

bya

 

ba

i

 chos  

kyi

 sprin  

gyi

 char mngon  

par

 ’

bab

 

pa

 

dang

byang

 chub

sems  

dpa

’gzhon  nur  gyur  pa rnams  

la

 

kun

 nas  

brgyan

 

pa

 zhes  

bya

 

ba

i

 chos 

kyi

sprin  

gyi

 char  mngon  

par

 

dbab

 

pa

 

dang

 

  為灌 頂菩 薩、 雨普門法 雲。 為深忍菩薩、 雨普荘 厳 法 雲 。 為 童 真菩薩、 雨 堅固 山

法雲。

III

 

pramapa

bhUta

 

さて 、 以上の よ

な準備 を

っ て、 い よい よ

pramana

bhUta

の 語

の 検 討 とい

う本

題に入 っ て い か な け れ ば な ら ない 。

 

こ の複 合 語の

分の

pramapa

につ い て は 、

1

に おい て、 

Abhidharma

の 仏

教 学者

(abhidharmika )た ちに よ る論理 学確立以 前の 意 味につ い て若 干 検討 し た。 それ に よれ ば、

prama

ロa は 、 ほ ぼ 「基 準 」 の 意味 に

して よ く、 しか も、 そ の 「基準」 とは、 行い や 論

を指 す場 合 もあるが、 多 くの

合 は 、

威 ある 人や

を指 し、仏 教の用 例に お い ては 、仏世 尊 を意味 し よ

る傾

も次

に強 くな る

配 も認め られたの である。

 

しか し、今 日、

pramapa

とは 、論理 学が

立 した

Dignaga

以降の 文 献や著 述に つ い て研究 さ れ るこ とが

い ため もあ っ て、 漢 訳 として周 知 されて い る 「 」以

では 、 「認識 手段 」 とか 「知 識根

」 とかい っ た現 代 哲 学 用 語 的理 解の 下で 用 い ら れるこ とが

い 。

か に、

Dignaga

が、

稿 第

1

節に示 した  の 帰 敬 頌の 直

の頌 で、 以下の よ

に述べ 37)の を知 れ ば、

pramapa

を単

に 「

」 とはなか な か訳 し難 い か も しれ ない

  pratyak

§am  anumanarp  ca 

pramape

 

lak

§apa ・

dvayalp

  prameya

tatra

 samdhfine  na pram 面

nantaraTp

 na  ca//

  (直 感 と推 論 と が 〔二 つ の 〕 基 準であ るn 二 つ の 特質が 基 準の 対象で あ る。 そ れ以

 

外 の 基準は、そ 〔の 二 つ に 適 用 さ れ る揚 合 に は ない し、 た 、 〔再三 認 知 さ れ る場

 

合 に も〕ない

 

原 文 に並 行 して一応の 訳 は与えて み た もの の 容 易に納 得 して頂け る と は思え な い

pramana

し てされ た 現 本語 訳 を与 え よ うう試み が従 来 全 く なか っ た わけではない だ ろ

が、 私 の

る限 り、 今 日で もかか る 訳語は存在 し ない の で あ る38〕 。 とは い え、

Dignaga

の 立

に な っ て み れ ば、

帰 敬

頌 で

(10)

Komazawa University

NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Umversrty

10

pramapa

bhUta

kumara

bhUta

義 (袴 谷

pramana

bhata

っ た矢

の 次の 頌 で、 

pramAna

とは

pratyak

§a と anumana と であ ると言っ た瞬 間に 、 も

その

pramfina

味が変 わっ てい る とい うのは信 じ難い こ と で あろ

。 そ こ で、 私は、多少の 無理 が ある と して も、本 稿 に お い て は 、

に採 用 して きた 「基

」な る訳 語が 、 こ こで も妥 当

る と

考 え

て、 それ を踏

して い たい 思 う。 その 上で 、私の 考 え を、 先にみ て きた帰 敬頌 とその 次の 頌 に絡め て 述べ て お け ば 、 次の よ

なこ と になる か も しれ ない 。 私 ど もの

する 「 準」 は、 「 真 実の 基準る仏世 尊の れ とは異っ て もとよ り十全 な もの では な い が、 その 「 準」 た る直感 と推

を、 「 真 実の 基準」 た る仏世尊の教 えに従 っ て

駆使 し、 基 準の 対

で ある二っ の 特 質、 即ち、 自相 と共 相 (sva −samanya −

lak5apa

を吟 味検 討 してい の が仏

者の 取 るべ き道である39)、 とい う よ

こ とである。

 

以上の 明 によっ て 、

pramapa

して は一応 「基

とい

訳語を統一的に 用い こ とを容 認 して 頂 けた もの とす れば、 そ れ との

合 語で ある

pramgpa

bhUta

に 対 して 、 これ を 「

の 基 準」 と理解

るこ とは 、 よ り一

認 して 頂 き 易い こ と と私に は思わ れ るの であるが、 その 理

を妨 げて い るの が

bhttta

対す

る チベ ト訳

gyur

 

pa

で あ る よ

な気が 私 に は

こ で

前 掲帰敬 頌   に

対す

るそのチベ ト訳4°)を  としせ ば とお る。

   

 

tshad

 mar  

gyur

 

pa

gro

a 

phan

 

bzhed

 

pa

     

ston  

pa

 

bde

 

gshegs

 skyob  

la

 

phyag

tsal

 nas //

     

tshad

 ma  

bsgrub

 

phyir

 rang  gi gzhung  

kun

 

las

//

     

btus

 te sna  tshogs ’thor rnams ’

dir

 

gcig

 

bya

//

 

線部

分 が

pramapa

bhUta

対 す

るチベ ッ ト訳で

るが 、 これは 明 らか に 「 基 準 となっ た方」とい

を示 し た もの で あ る。実は 、 私 には、 こ の件に関 し、 ど

して チベ ト訳

複 合

語 後

bhata

、 例 えば、

kumara

bhata

caitya

bhata

場合

に お る よ

、 「

於 格

gyur

pa

」41)と訳 さ れ るの かが よ く分か ら ない の で あ るが 、 その翻訳の 背景 をと もか くと すれ ば、 か か るチベ ッ ト訳の 理解が 正 統に成 り立つ た め に は、 翫

痂 ,

5

4

50

の 規 定42) っ て、 サン ス クリッ ト原文に

pramfini

bhata

とあっ た と しなけ れ ば な ら ない

。しか し、その ような 形跡は全 くな い に、

Dignaga

お よ び彼 以 降の 仏

1

  班 の 規

を知 ら な かっ た とい

な こ とは お よ そ考 えら れ ない の で、 私た ちとして は、 チベ ッ ト訳の み な ら

サ ン ス ク リッ ト原文 と して

も、

可能

な 限 り

tshad

 mar  

gyur

 

pa

, 

pramapi

bhUta

の 理

を拒 否 して、 その 語 一

319

(11)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty

        

prama

ロa・

bhUta

kumara

bhata

の 語義 (袴谷)

     

11

を考

し なけれ ば な ら ない。 しか る に、一 方で は 、こ の

pramana

bhUta

に 限っ

て は、

kumara

bhata

や caitya −

bhata

の 場 合 とは異っ て 、その後分が チベ ッ

ト訳 にお い て

yang

 

dag

(真 実の 、正 しい

る例が一つ だけ知 られ て い るの である43}。 それは 、

Dharmakirti

Prama

nevarttika

する

Prajfiakar

・ agupta の 註 釈 冒頭 に おい て 示 さ れ る先の

Dignaga

敬頌 を

っ た よ

な頌 の チベ ト訳

わ れ る

、 以下に 、その サン ス ク リッ ト原 文 44)を  、 チ ベ ッ ト訳 45)を  として示 して み よ

。 なお、 それ らの 直後に掲 げたの は 、 

  を斟

酌 して暫 定 的に試み られた拙 訳である。

   

   

pramarpa

bhUtaya

 

jagad

dhitai

§

ipe

     pra

口amya §盈Stre sUgataya  

tayine

    

kutarka

−sambhranta ・

jananukampaya

       

pramapa

・siddhir  

Vidhi

−vad  vidhiyate //

   

 

tshad

 ma  

yang

 

dag

gro

 

la

 

phan

 

bzhed

 

pa

//

    

ston  

pa

 

bde

 

gshegs

 skyob  

la

 

phyag

tshal

 

te

//

       rto99e  ngan ’

khrul

’gro 

ba

 

la

 

brtse

 

bas

//

    tshad

 ma  

grub

 

pa

 

tshul

 

bzhin

 

bshad

 

par

 

bya

//

   

(真 実の 基 準で あ り、 世 間の利益の 追 求 者で あ り、教主で あ り、 善 逝で あ り、

   

救世 者 である方に帰 依 し て、 悪 し き考 えに迷 乱せ し人々 へ 哀 愍ゆ

、 基準

   

論 証が、 規則 ど お りに、 説明さ れる。〉

1

1

纛 懇

磁 緲

その 地 で

17

間学

ん で 自

へ 戻 っ た チベ ッ ト人

学僧

rNgog  

Blo

 

ldan

 shes  rab

1059

1109

との 共 訳に なる もの 46)の で、 そこ に は 当 時の

Ka

§mira の

イ トレ ーヤ の五 法 (

Byams

 

pa

i

 chos  

lnga

, 

Byams

 chos  sde  

lnga

)」 に

象徴

されるよ

な神 秘 的な学 風47 )が 反 映 さ れて い た た め に、 か か る例 外 的 な 訳例 も生 じたの か

も しれ ない

事実

、 チベ ッ トに おい ては 、

Dharmakirti

P

η 初 砌 α厩 灯励 αが、

Prajfiakaragupta

註 釈

の チベ ト訳

を介

Dharmakirti

想的

を「

虚偽

垢 論 (rnam  rdzun  

dri

 med

」 と

る学 系 も形 成さ れてい る48)

の で、 その 可

性は 大であるが、 その 学系 の 伝 承 を値 引 きさえすれ ば 、

Dignaga

用い た

prama

ロa −

bhUta

語義

の 翻 訳 として は、 こ の “

tshad

 ma  

yang

 

dag

(12)

Komazawa University

NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Unlverslty

12

prama

ロa−

bhUta

kumara

bhUta

の語 義 (袴谷)

 

とこ ろで、 その

Dignaga

pramana

bhUta

とい う用 語 法 につ い て 、 

Eli

Franco

教 授は 、こ の は、 

Patafijali

が ル

taha

bha

−s.

rVa

に お い て論師 (

acarya

Panini

pramapa

bhata

と呼んで い る もの か らの 借用か もしれ ない と述べ て い 49 )が 、 あ るい は か か る 可

性が 考 え

るに せ よ、 私 個 人 と して は、

Dignaga

自 身の

prama

ロa −

bhUta

の 用

に は、 その種の個 人

崇 拝

的 な

素は少 ない と

做 して お り、 ま た 、仏 教

と して もか か る要 素は排除 す る方 向で

釈 すべ きだ と

えて い る。 だ が、 なにゆ えに私が敢 えて この よ うなこ とを書 き加えて い るか と言

と、

Franco

教 授 は、決 して単 純 な形 で 明 言 は し て お ち れ ない の で あるが 、 恐 ら く

prama

ロa−

bhata

真 実

の 基

」 と

釈 して

よい とい

を示 してい る点で は私 と同

る と ころが あるもの の 、 その解釈に は、仏教 をヒ ン ドゥ ー

るよ

な個人崇拝

的要

素が ある よ

じられ る か ら なの で ある5°) 。

 

か か る

素 を私 の

か らは シャ ッ トアウ ト した い と念 じつ っ 、次に本 稿 冒頭 に示 した

Dignaga

帰 敬頌  に対 す る拙 訳 を

 

と して以 下に提 示 す るこ とにす る が 、 その に、

行 業績 で ある に もか か わ ら

、 論述 の必要 上、後廻わ しに せ ざ る をえなか っ た、 木

訳 51 )

 

掲 げて お 。     認識所依た る か た、 世の 為 を願 う方、 教 師、 善 逝、 救 済者に 礼 拝 して、 浩 瀚 な  自論の 成 をこ こ に、 認 識所 依定立の為 に 著 さ ん。     真 実の 基 準で あ り、 世間の 利益の 追 求者で あ り、教 主 で あ り、 善 逝であ り、 救 世者で る方に帰 依して、 基 準の 論 証の た め に、 こ こ で散説 を一つ に し て 自説の 成が 示 さ れ るで あろう。

 

以 上の 、

 

訳 中の 「真 実基 準 が 、 これ まで の 考 察 を踏 ま えた上での

pramana

bhUta

に対

る私の 訳語で あるこ と は 言

まで もない が 、

 

木 村 俊

訳の そ れ は 厂認 識 所 依た る か た で ある。 「認 識 所

」 とい

の が木

氏 が

pramana

え てい る訳るか ら

村 氏は こ の

合 語 後分の

bhUta

を 「 るか た」と 訳 し た とい

こ とに な る わ けであ る が、 そ

用 語が

bhUta

にある こ とを少 な くとも私 は知らない い は、

bh

ta

は明確に 意 識 して 訳出さ れな か っ たの か も しれ ない が、しか し、か か る不 透明な 訳 出過 程の

前出

 

に 対 する

 

の ように“

is

_

incarnate

” あるい は  の よ うに “

is

 

the

 

personification

” の

が「た るか た」の 訳 語に込め られてい た とす る な らば、

bhUta

は や は り「

」 の

味で はな く 「生 成」 の

意味

解釈

さ れ てい た こ とにな るで

   

しか るに、 私が 、 本稿に お い て、

pramapa

bhUta

の 言議 と して 「 真 実の 基準

317

N工 工一Eleotronlo  Llbrary  

(13)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty

       

pramarPa

bhata

kumara

bhUta

の 語義 (袴 谷 )

     

13

とい

う新

た な

を提起 し よ

と しの は 、 ま さ にこ の 「生 成 とい

う解

こ の

語義

か ら

ち切 りたい た め なの である が、 その 問題 は、 節 を改めて、

後の課 題」 の

ちで述べ た

が よい か

しれ ない 。

IV

 今後

課題

  

Dignaga

の 、

Praman

. asαmuccaya

敬頌 に示

さ れてい る考 え を展 開 し

成 さ れ た の が

Dharmakirti

P

η 〃z α04γ漉肋 の

Prama

a−siddhi

で ある とい

 

こ とは今や周知 の

である が 、 その

Dharmakirti

が 問 題の

prama

ロa ・

bhata

 

を ど

う解

釈 して い る か

、 同

7

52) み を示 ば 、 以 下 とお り

で あ る。

  

tadvat  

pramapa

bhagavan

 abhUta −vinivrttaye

 

bh

t6kti

sadhanapekSa  

tato

 yukt 巨

pramapata

  

(その よ うに 世尊が 基準 で あ り、 非 真 実 を排 除 する た め に真実が説か れ る。 そ れ

  

ゆ えに、 基準た る もの は証明 に 俟っ て 正 しい の で ある。

 

上の カッ コ 内に掲 げた もの は 、 サ ン ス ク リッ ト原 文か ら一応 素 直に私 な りに理

で き る ところ を示 した拙 訳である。 しか し、実

は 、かか る

純な読み が採 用 さ れ てい わ けで は ない

で、 従 来提示 さ れ て きた読み も千

万 別 で ある ら し い 53}が、そ こ に は、 チベ ッ ト訳の 全 く

っ た二つ の 理

も大 き く影 響 して きたの か もしれ ない 。 そ こ で 、以下 に 、上引の サ ン ス ク リッ ト原文に対 す る二 つ のチベ ッ ト 訳 を示 して み るこ と に し たい 。   は

従 来

知 られて い る

Pz

α 卿 吻 α確 癖 伽 その もの に

対す

る チベ ッ ト訳

の もの 54)、   はその

Prajfiakaragupta

の 註釈に

対 す

る チベ ッ ト訳中 よ り私が 回収 した もの 55)である。 なお、 そ れ ぞ れの チベ ッ ト訳 下の カッ コ 内に は 、参 考 まで に 、 それ を直訳 した拙訳 を示 してお く。

  

 

de

 

ldan

 

bcom

 

ldan

 tshad  ma  nyid //

   

ma  skyes  

pa

 ni 

bzlog

 

don

 

du

   

gyur  pa nyid  gsungs  

de

 yi 

phyir

//

     sgrub  

byed

 

la

 

ltos

 

tshad

 

yin

 rigs //

  

(そ れ を有 する世尊が基 準たる もの である。不生 を排除する た め に 生成た るこ と を

   お説 きに な り、 そ れゆ えに 、 証 明に 俟っ て基準である とす るの が 正 しい 。)

  

 

de

 

ldan

 

bcom

 

ldan

 

tshad

 ma  nyid //

   yang

 

dag

 min  

pa

 

bzlog

 

don

 

du

//

   yang

 

dag

 nyid  

gsungs

 

de

 

yi

 

phyir

//

(14)

Komazawa University

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(/

4

pram

融 a−

bhata

kumara

bh

ta

の 語義 (袴 谷)

    

sgrub  

byed

 

Ia

 

ltos

 

tshad

 

yin

 rigs//

   (それ を有す る世 尊が基 準たる もの で ある。正 し くない もの を排 除するた め に 正 し    い こ とをお 説 きに な り、それゆ えに 、証明に 俟 っ て 基 準で ある とす るの が 正 しい 。)

 

こ こ に、

め て、

Pramana

・siddhi

全体

訳 し研 究 された

木村俊

氏の訳56)を示 して み れ ば 、 次 あ る 。       プ ラ マ   ナ    同様、 世 尊は認 識 所 依で ある。 不 生 を否定 する た め に 〈−

bhUta

>と呼ぶ 。 それ ゆ え  証明 に依る権 証性が伴 な う。

 

tadvat

とい う語 を

possessive

 suffix で は な くcomparative  suffix と解 釈 し

て訳 した点の みが 

 

い ずの チベ ト訳 と

57 ) 、 そ れ 以外の 基本 的 理解 は

前者

の   と合致

る もの で ある。 そ れ ゆえ、

木村

氏は、 自

的である か否 か は ともか く、

pramana

bhUta

につ い て は 「生 成 」 の 意 味 を重ん じ、 「不 生 」の観 念 を排 除 して、「認 識所 依 (

pramarpa

)」 と 「なっ た (

bhUta

方 を世 尊で ある と見 做 されて い た こ と に なる58 )。 木 村 氏が、か か る御 見解の 根 拠の ご と くに引かれ るの が 、本 稿 第

1

節で も考 察 した

Lalitavistara

の 一で ある。 微 妙な 問 題 もあ るの で 、 その 一 節 を含む木 村 氏の 言及 を、 その ま ま、 以 下に示 してお きた い 59) 。

  

当該の 呼 称

prama

ロa−

bhata

、 袴谷註)は 『ラ リ タ・ヴ ィ ス タ ラ』 で 、「しか し 世尊よ、 汝は 神々 と共 なる世 間に とっ て最 高の 現 証者 (

paramasak

§ibhOtab )で あ

 

り、 公準た る か た (

pramarpabhUt4h

)で ある」 と使わ れ た こ と がある。

 

先に、私 は 、こ の

Lalitavistara

の 一 を、他の 、

に ∫盈 肋 びα伽 π加 の 用例 な ど と共に、 漢訳 との 比較か ら、 後世 の 付 加と見做 し、そ こ に、 当時の ヒン ドゥー イ ズム の 人格 神 的

有神

影 響 を見たの であるが 、 こ こ で、 こ の 点 を

Lalitavistara

と 翫 ん

1

廨 碑 廊勉 との 一

に 限っ て 改め て 問題に して み た い 6 ° 。 さ て、こ の 両 者 の 一節が い

れ も後 世の 伺加 だ と して、ど ち ら が よ り後世 であ っ た か とい えば 、私 は

L

α

litavistara

の 一節の 方が 後 世 的 な新 しい 要 素 を示 してい るこ とが 明 らか で

る と判 断

る。 そ こで、 こ の 一

し、

Sukha

−vatiayzaha →

Lalitavist

αra とい

う展

開につ い ての

測 を示せ ば次の とお りで ある。 ま

前者

に お い て、

buddha

(仏 )が

pramana

(基 準) で あ りsak §

in

’va §

in

(監 視 者

支 配 者 )で あ る

とい

こ とが言わ れる よ

に なっ た

に、 sakSin の

は sak §ibhata

vasibhUta な

ど とも呼 称さ れ るよ うに な り、 その 後、

prama

ロa と sak 爭

lbhUta /

vaslbhttta の 双

方が対で意 識 さ れ るようになっ た上で 、仏世 尊 (

buddho

 

bhagavan

)が超越的 な

存在者

と して勝 れた もの であ るこ とが益々 意 識 され よ う る と、の 語に は 一

315

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