街道を歩く
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電子版
─シニア世代の退屈しのぎと 健 康のために─水戸道中
中 山 高安著は じ め に 日 光 道 中 の 千 住 の 出 口 で 分 岐 す る 水 戸 道 中 は 、 江 戸 時 代 に 五 街 道 に 次 ぐ 重 要 な 街 道 だ っ た の で 、 何 時 か こ の シ リ ー ズ で も 取 り 上 げ た いと思っていた。 、 ﹁ ﹂ 資料が集まっていない当初 茨城県の或る自治体に 旧水戸街道 の 道 筋 に つ い て 質 問 状 を 出 し た ら 、 大 体 は 国 道 六 号 線 に 沿 っ て い る と い う 返 信 に は が っ か り し た 。 だ か ら 、 こ の 旧 道 に つ い て 書 い た 本 の 表 題 に ﹁ 旧 水 戸 街 道 ﹂ と す る 人 が い る の は 、 国 道 六 号 線 に 水 戸 街 、 ﹁ ﹂ 。 道とつけているため これと区別するため 旧 とつけたのだろう そ う だ と す る と 、 こ の シ リ ー ズ で 取 り 上 げ て い る 街 道 は 全 て 旧 街 道 に こ だ わ っ て い る た め 、 表 題 に ﹁ 旧 ﹂ を つ け な い と い け な い こ と に な る 。 例 え ば 国 道 一 七 号 線 な ど の 道 路 標 識 や 地 図 に 中 山 道 と あ る が 、 こ の 国 道 は と て も 歩 く 気 に も な ら な い 面 白 味 の な い 道 で 、 こ の シリーズでは趣ある旧中山道の方を取り上げている。
し か し 、 江 戸 時 代 の 呼 び 方 に ﹁ 旧 ﹂ が つ く わ け が な い か ら 、 こ の 水 戸 街 道 で も 何 か よ い 名 称 が な い か 捜 し て い た 。 す る と 、 例 え ば 松 戸 市 立 博 物 館 の 資 料 な ど で は ﹁ 水 戸 道 中 ﹂ と し て い る の で 、 こ れ を 表題として使うことにした。 幕 府 で は 享 保 元 年 ︵ 一 七 一 六 ︶ に 五 街 道 の 呼 称 を 決 め た 。 東 海 道 は 海 国 の 道 筋 を 通 る た め 東 海 道 で 、 中 仙 道 は 古 来 か ら の 東 山 道 の 中 筋 を 通 る た め 中 山 道 と し て 、 そ れ 以 外 は 日 光 道 中 ・ 奥 州 道 中 ・ 甲 州 道 中 と 呼 ぶ よ う に 命 じ た 。 し か し 、 そ れ 以 降 も 民 間 で は 道 中 を 街 道 と 書 い た り し て 、 例 え ば 幕 府 が 水 戸 道 中 と し て も 、 沿 道 に 立 つ 江 戸 期の道標には水戸街道としている。 さ て こ の 街 道 の 場 合 、 東 京 都 や 埼 玉 県 や 千 葉 県 や 茨 城 県 に 居 住 す る 多 く の 人 が 、 常 磐 線 石 岡 駅 に 近 い 府 中 宿 ま で は 日 帰 り で 歩 け る だ ろう。また水戸まではバスを利用 すれば日帰りも不可能でない。 尚 、 日 本 橋 か ら 千 住 ま で は シ リ ー ズ ⑥ ﹁ 日 光 道 中 ﹂ に 詳 述 し た の で、ここでは写真なども省いて簡単に記載する。
目 次 水戸道中とその里程 七 日本橋から千住へ 一三 千住から新宿を経て金町へ 二一 旧道を探す︵閑話︶ 三七 金町から松戸を経て馬橋へ 四四 馬橋から小金を経て柏へ 五九 柏から我孫子を経て取手へ 七九 取手から藤代へ 九六 出会った女性に感謝︵閑話︶ 一一〇 藤代から牛久へ 一一七 牛久から荒川沖へ 一三二 荒川沖から土浦へ 一四二 旧道と鉄道の絡み合い︵閑話︶ 一五七
土浦から府中へ 一六二 府中から片倉を経て小鶴へ 一八六 宿泊について︵閑話︶ 二〇三 小鶴から長岡を経て水戸へ 二一〇 終わりに 二二二
水 戸 道 中 と そ の 里 程 こ の 道 は 江 戸 か ら 水 戸 へ 向 か う 道 だ か ら 、 幕 府 は ﹁ 水 戸 道 中 ﹂ と 呼 ん で い た が 、 水 戸 で は 江 戸 に 向 か う 道 だ か ら ﹁ 江 戸 街 道 ﹂ と 呼 ん で い た 。 水 戸 か ら は こ の ほ か に 七 つ の 街 道 が 分 岐 し て 、 岩 城 街 道 ・ 那 須 街 道 ・ 結 城 街 道 ・ 茂 木 街 道 ・ 南 郷 街 道 ・ 棚 倉 街 道 ・ 瀬 戸 井 街 道 が伸びていた。 水 戸 道 中 は 幕 府 の 重 要 な 街 道 の 一 つ で 、 五 街 道 の 日 光 道 中 に 付 属 す る 街 道 だ っ た 。 江 戸 日 本 橋 を 起 点 に し て 日 光 道 中 を 進 み 、 千 住 の 先で分岐して新 宿へと進む。新宿では水戸道 中と佐倉道が分岐する に いじゅ く ため、厳密には千住から新宿までは水戸佐倉道と呼ばれた。 〇 水 戸 道 中 が 幕 府 の 重 要 な 街 道 だ っ た の は 、 水 戸 家 が 尾 州 家 や 紀 州 家 と 同 様 に 徳 川 御 三 家 で あ り 、 江 戸 の 将 軍 家 を 除 く と 関 東 地 方 で は 有 数 の 禄 高 を 誇 る 大 大 名 で 、 将 軍 家 に 次 ぐ 格 式 を 持 っ た 特 別 な 存 在
だったからだろう。 水 戸 徳 川 家 は 、 慶 長 十 四 年 ︵ 一 六 〇 九 ︶ 水 戸 に 入 府 し た 家 康 の 十 一 男 頼 房 を 初 代 と し て 、 二 代 目 光 圀 、 九 代 目 斉 昭 な ど の 有 名 な 藩 主 より ふ さ み つくに な りあき が お り 、 十 一 代 目 昭 武 の と き 廃 藩 置 県 を 迎 え た 。 禄 高 は 初 め 二 十 五 あきた け 万石で元禄十四年︵一七〇一︶に は三十五万石になっていた。 そ の 間 の 水 戸 徳 川 家 は 、 将 軍 継 嗣 の 選 定 や 老 中 の 選 任 な ど 、 幕 府 け い し の 公 私 に わ た る 重 要 案 件 の 審 議 ・ 決 定 に 参 画 し た 。 ま た 水 戸 徳 川 家 は 御 三 家 の 中 で も 参 勤 交 代 が な く 、 藩 主 は 江 戸 に 生 活 の 本 拠 を お く 定府といわれるもので、特別だったことを表している。 じょ うふ 藩 主 が 江 戸 と 水 戸 の 間 を 往 復 す る の は 、 幕 府 の 許 し を 得 て お 国 入 り す る と き で あ る 。 藩 主 の 行 列 の 場 合 は 三 泊 四 日 が 普 通 で 、 小 幡 と 長 岡 に 御 殿 が あ り 、 小 金 ・ 取 手 ・ 藤 代 ・ 牛 久 ・ 府 中 に 宿 館 が 指 定 さ れていたが、水戸藩士の場合は二 泊三日だったそうである。 〇 こ の 街 道 を 利 用 し た 大 名 は 水 戸 の 徳 川 家 だ け で な く 、 参 勤 交 代 の
た め に 土 浦 ・ 笠 間 ・ 矢 田 部 ・ 麻 生 ・ 牛 久 ・ 府 中 な ど 常 陸 国 内 の 藩 主 をはじめ、下総上総両国の諸大名など数多かった。 と こ ろ が 江 戸 時 代 後 期 に な る と 奥 州 街 道 の 混 雑 を 避 け て 、 水 戸 街 道 を 通 る 奥 州 筋 の 大 名 が 多 く な り 、 文 政 五 年 ︵ 一 八 二 二 ︶ に は 海 沿 い の 岩 城 相 馬 街 道 を 通 っ て 、 水 戸 か ら は 水 戸 道 中 を 利 用 す る 大 名 が 二十二ー三家に達したという。 この岩城相馬街道とは東 海 道とか奥州東通りとも呼ばれ、水戸か ひがしか いどう ら 陸 奥 国 岩 沼 で 奥 州 街 道 に 合 流 す る 浜 街 道 だ が 、 こ れ は 江 戸 か ら 水 戸を経て仙台へ結ぶ要路だった。 〇 日 本 橋 か ら 水 戸 ま で の 里 程 と 道 筋 に つ い て 、 こ こ で は 松 戸 市 立 博 物 館 の ﹁ 水 戸 道 中 ﹂ を 主 に し て い る が 、 資 料 に よ っ て は 若 干 の 違 い が あ る よ う で あ る 。 そ の 一 つ が 新 宿 か ら 松 戸 ま で の 里 程 で 、 一 里 半 と い う も の と 一 里 三 十 町 と い う も の と が あ る か ら 、 十 二 町 ︵ 約 一 ・ 三キロ︶ほど差があるようだ。
ま た 江 戸 か ら 水 戸 ま で 全 行 程 で も 、 松 戸 市 立 博 物 館 の も の は 以 下 の よ う に 三 十 里 十 四 町 だ が 、 別 の 資 料 で は 二 十 九 里 十 九 町 と い う の もあって、その差は三十一町︵約 三・四キロ︶短いようである。 こ の 件 に 関 し て は ﹁ 五 街 道 細 見 ﹂ で は 三 十 里 以 上 の よ う だ が 、 間 違 っ て い る の で は な い か と か 、 そ の と き の 道 筋 と 同 じ も の な の か と か 、 余 り 細 か い 追 求 を 避 け る こ と に し て 参 考 程 度 に 取 り 上 げ る 。 た だ し 本 文 中 で 距 離 に 関 し て 感 じ た 疑 問 な ど は 記 載 す る 予 定 で あ る 。 宿 場 間 の 里 程 は 以 降 の 通 り で 一 里 を 三 ・ 九 三 キ ロ で 換 算 し 、 本 文 中 の 略 図 は ほ ぼ 三 万 分 の 一 に し て あ る 。 ま た 旧 道 は 赤 い 点 線 で つ な い で い る が 赤 い 鎖 線 は 歩 け な い か ら 、 歩 く 人 は 参 考 に し て 欲 し い 。 更 に 旧 道 の 上 に 国 道 が で き て い る 場 合 は 街 道 と 称 し て い る の も 、 こ のシリーズに共通する事柄である。 尚 、 こ こ で は 最 寄 り の 駅 が 近 い 所 は 、 日 帰 り に す る た め 一 回 の 歩 き を 約 十 キ ロ に 区 切 り 、 最 寄 り の 駅 か ら 遠 い 最 後 だ け は 宿 泊 に す る ため、一回の歩きを十五ー二十キロにしている。
宿場名 里程︵キロ数︶ 備考 *日本橋より千住宿 二里八町︵八・七︶ *千住宿より新宿 一里十九町︵六・〇︶葛西ともいう *新宿より松戸宿 一里半︵五・九︶ *松戸宿より小金宿 一里二十八町︵七・〇︶ *小金宿より我孫子宿 二里二十一町︵十・二︶ *我孫子宿より取手宿 一里半︵五・九︶ *取手宿より藤代宿 一里三十町︵七・二︶ *藤代宿より若柴宿 一里︵三・九︶ *若柴宿より牛久宿 一里︵三・九︶ *牛久宿より荒川沖宿 二里︵七・九︶ *荒川沖宿より中村宿 一里︵三・九︶ *中村宿より土浦宿 一里︵三・九︶ *土浦宿より中貫宿 一里六町︵四・六︶ *中貫宿より稲吉宿 三十町︵三・三︶
*稲吉宿より府中宿 一里三十町︵七・二︶ *府中宿より竹原宿 一里九町︵四・九︶ *竹原宿より片倉宿 一里八町︵四・八︶堅倉とも書く *片倉宿より小幡宿 一里五町︵四・五︶ *小幡宿より長岡宿 一里二十八町︵七・〇︶ *長岡宿より水戸 二里八町︵八・七︶ 合計 三十里十四町︵百十九・四︶
日 本 橋 か ら 千 住 へ ス タ ー ト 地 点 の 日 本 橋 の 四 隅 と 中 山 道 か ら 分 岐 す る ま で は 、 こ の シ リ ー ズ ① ﹁ 中 山 道 ︵ 一 ﹂ や ⑤ ﹁ 川 越 街 道 ﹂ で 書 い た の で 省 略 す ︶ る 。 ま た 日 光 道 中 の 千 住 宿 の 出 口 ま で は ⑥ ﹁ 日 光 道 中 ﹂ に 詳 述 し た ので、ここでは重複を避けてポイントだけ記載する。 〇 ① を ス タ ー ト し て 三 越 の 前 を 通 っ て 、 ② の 前 日 本 橋 千 疋 屋 総 本 店 で 日 光 道 中 は 中 山 道 と 分 か れ 右 折 し 、 薬 品 メ ー カ ー が 多 い 所 を 進 む と 一 号 線 に 突 き 当 た る 。 そ れ を 地 下 道 で く ぐ っ て 進 む と 、 ホ テ ル ギ ンモンドの脇に﹁ ﹂ ③が立っている。 旧日光街道本通り の道標 次 の 交 差 点 を 左 へ 進 み 、 小 伝 馬 町 交 差 点 を 越 え て 、 す ぐ 左 へ 入 る と ④がある。 十思公園 旧 道 に 衣 料 品 店 が 多 く な る の は 横 山 町 の 繊 維 問 屋 街 で 、 そ の ま ま 道なりに進むと靖国通との浅草橋交差点である。
、 。 左向かいに があって その前に ⑤とある 日本橋女学院 郡代屋敷跡 そ の す ぐ 先 の に か か る の は 浅 草 橋 で 、 こ こ か ら は 何 隻 も の 納 神 田 川 涼船が見られるが、橋を渡ると が立っている。 浅草見附跡の碑 こ こ を 左 へ 入 れ ば 総 武 線 が あ り 、 浅 草 橋 の す ぐ 先 左 側 に 浅 草 橋 駅 神 社 が 見 え る の は ⑥ で 、 合 祀 さ れ て い る 比 葉 稲 荷 神 社 銀 杏 岡 八 幡 宮 という名前は珍しい。 浅 草 橋 二 丁 目 交 差 点 を 越 え た 次 の ブ ロ ッ ク は 浅 草 橋 二 丁 目 で 、 街 道沿いには がある。 須賀神社 そ の 次 の 浅 草 橋 三 丁 目 交 差 点 を 越 え て 、 街 道 の 右 奥 に 見 え る の は で 、 こ こ に は 七 福 稲 荷 神 社 ・ 繁 昌 稲 荷 神 社 ・ 事 比 羅 神 社 ・ 豊 榊 神 社 受神社が合祀され、更に浅草文庫跡碑が立っている。 〇 こ の 辺 り か ら 蔵 前 と い う 地 名 に な る が 、 こ れ は 隅 田 川 の 船 運 を 利 用していた時代に江戸幕府の米 蔵などが並んでいたからである。 楫 取 稲 荷 蔵 前 一 丁 目 交 差 点 を 右 へ 曲 っ て 、 最 初 の 角 を 左 へ 曲 る と か と り
神 社 鳥 が あ る 。 逆 に 左 へ 曲 っ て 蔵 前 橋 通 を 二 百 メ ー ト ル ほ ど い く と があり、また国際通の方へ進むと左側には寺が多い。 越神社 街 道 が 春 日 通 と 交 差 す る 厩 橋 交 差 点 は 右 へ い け ば 厩 橋 で 、 交 差 点 右 脇 の ビ ル と ビ ル の 間 に 竹 矢 来 で 囲 ま れ た 休 憩 所 が あ る 。 こ の 厩 橋 交 差 点 を 左 へ 少 し だ け 歩 く と が あ り 、 裏 側 に は ⑦ が あ 椎 寺 蔵 前 神 社 かや り 、 こ の 神 社 を 囲 む 柵 の 石 柱 に は 相 撲 力 士 の 名 前 が 刻 ま れ て い る 。 、 駒形一丁目に入ると左側の角に見えるのが有名な で どぜうの駒形 こ の 店 に 入 っ た こ と の な い 人 で も 店 構 え に 気 づ く は ず で あ る 。 そ こ までいく手前に がある。 諏訪神社 雷 次 の 大 き な 交 差 点 は 五 叉 路 と い う の だ ろ う か 、 真 っ 直 ぐ 前 方 に が見えるが、右手の駒形橋の手前に ⑧がある。 門 駒形堂 〇 日 光 街 道 は 先 ほ ど の 正 面 に 見 え た 雷 門 へ 向 か っ て 進 み 、 突 き 当 た り の 雷 門 で 右 へ 曲 る が 、 そ の 角 に は が あ る 。 浅 草 文 化 観 光 セ ン タ ー 昔 は こ こ に 一 里 塚 が あ っ た そ う で 、 今 は 観 光 セ ン タ ー の 正 面 玄 関 に
がある。 からくり時計 仁 王 が 守 る を く ぐ れ ば 、 ま で 続 く 石 畳 の 参 道 が 仲 見 世 雷 門 浅 草 寺 通 で 、 両 側 に 九 十 軒 ほ ど の 土 産 物 店 が 並 ん で い る 。 隣 の は 浅 草 神 社 浅草寺の守護神である。 浅 草 文 化 観 光 セ ン タ ー の 前 で 右 折 す る と 地 下 鉄 が あ り 、 そ 浅 草 駅 浅 草 駅 隅 の 先 に 東 武 伊 勢 崎 線 が あ る 。 そ こ で 左 折 し て 浅 草 駅 東 側 の 沿 い に 進 む が 、 こ の 辺 り の 左 側 は 花 川 戸 と い う 靴 や 履 物 の 問 屋 田 川 街で、この一筋裏側に ⑨がある。 九品寺 言 問 橋 西 交 差 点 で 川 沿 い の 道 か ら 分 か れ 、 吉 野 通 で 目 に つ く 建 物 は新しくても趣があるもので、 とある。 神輿太鼓宮本卯之助 吉 野 通 と い う 四 六 四 号 線 を 約 二 百 メ ー ト ル ほ ど 先 右 側 に 入 る と 、 浅 草 寺 の 子 院 の ⑩ が あ り 、 本 尊 の 歓 喜 天 は ヒ ン ズ ー 教 の 待 乳 山 聖 天 ま つ ち や ま 神を仏教に取り入れたものである。 街 道 よ り 一 本 だ け 隅 田 川 沿 い の 道 に は 寺 が 幾 つ か あ る が 、 こ の 中 で 拝 殿 に 龍 を あ し ら っ た や 、 そ の 先 に は ⑪ が あ る 。 本 龍 寺 今 戸 神 社
〇 旧 道 を 進 む と 台 東 商 業 高 校 前 交 差 点 の 手 前 に が あ り 、 山 谷 堀 公 園 ここには川がないが吉野橋とあるから昔は川だったのだろう。 明 治 通 と 交 差 す る 泪 橋 交 差 点 を 越 え る と 、 前 方 に 見 え る 鉄 道 は 地 下 鉄 日 比 谷 線 と 常 磐 線 で 、 そ の 手 前 に と ⑫ 小 塚 原 刑 場 跡 首 切 り 地 蔵 が あ る 。 こ こ の は 寛 文 七 年 ︵ 一 六 六 七 ︶ 刑 死 者 の 菩 提 を 弔 う 延 命 寺 ために草創した。 を 見 な が ら 線 路 を 越 え る と ⑬ が あ り 、 入 口 に 南 千 住 駅 千 住 回 向 院 え こ う い ん は よ し の ぶ ち ゃ ん 地 蔵 が 立 ち 、 解 体 新 書 の 杉 田 玄 白 な ど が 腑 分 け を 、 。 した記念碑があり 明治維新の志士や高橋お 伝や鼠小僧の墓がある 先 へ 進 む と 四 号 線 と 合 流 点 に は ⑭ が あ り 、 そ の 先 の 隅 素 盞 雄 神 社 田川を渡る手前に という古い寺がある。 誓願寺 を 渡 る 手 前 に は に つ い て 掲 示 し て あ る が 、 渡 り き 隅 田 川 千 住 大 橋 っ た 左 側 に ⑮ が 出 て い る の は 、 千 住 が 松 尾 芭 蕉 の 出 発 奥 の 細 道 行 程 点だったからだろう。
そ の 先 で 旧 道 は 四 号 線 と 分 か れ て 斜 め に 進 む が 、 そ の 分 岐 点 の 右 側 に が あ り 、 そ の 奥 右 側 に が あ る 。 足 立 区 卸 売 市 場 千 潮 金 万 比 羅 宮 〇 こ の 辺 り か ら 歩 道 が な く な る か ら 車 に 注 意 が 必 要 で 、 そ の 先 で 京 成 電 車 の 高 架 下 を く ぐ る 。 こ の 辺 り は 昔 の ⑯ と い う 野 菜 や っ ち ゃ 場 市場だった。 間 も な く 右 側 の 掲 示 板 に や っ ち ゃ 場 の 由 来 が 書 い て あ る 。 そ の 左 向 か い に が あ り 、 右 向 か い に ﹁ ﹂ 千 住 宿 歴 史 プ チ テ ラ ス 旧 日 光 道 中 が立っている。 の道標 千 住 仲 町 商 店 街 墨 堤 通 と い う 四 六 一 号 線 と の 交 差 点 か ら 、 旧 道 は に な る 。 そ の 左 角 の は 寺 伝 に よ れ ば 慶 長 十 五 年 ︵ 一 六 一 〇 ︶ 源 長 院 吉胤の草創だが、千寿七福神と してボケ封じの寿老人がいる。 そ の 次 の 交 差 点 の 左 側 に が 立 っ て い て 、 反 対 側 千 住 高 札 場 の 石 碑 の数メートル奥に ⑰が立っている。 一里塚跡の石碑 こ の 交 差 点 か ら 左 へ 百 メ ー ト ル ほ ど い く と 消 防 署 が あ り 、 こ の 隣
に ⑱ が あ っ て 、 墓 地 が 地 続 き の よ う な 感 じ で が あ る 。 慈 眼 寺 不 動 院 千 住 役 場 の こ の 二 つ の 山 門 か ら 出 て 旧 道 に 向 か う と 、 す ぐ 右 側 に が 立 っ て い る が 、 下 の 方 は 土 に 埋 も れ て 読 め な い 。 そ こ か ら 旧 石 碑 道に出た角に が立っている。 千住問屋場・貫目改所跡の石碑 更 に 進 ん で 右 折 し て 都 税 事 務 所 の 前 を 通 る と 、 跡 は 森 鴎 外 橘 井 堂 きっ せいど う の旧宅で、そこから左折すると ⑲がある。 金蔵寺 向 か い の 細 い 道 を 進 ん で 旧 道 を 横 切 っ て 奥 に 入 る と 、 突 き 当 た り に 赤 い 門 の ⑳ が あ る 。 こ こ に 安 置 さ れ て い る 木 造 千 手 観 音 は 勝 専 寺 荒川から拾われ、千住の地名起源の一つになっているという。 〇 北 千 住 駅 間 も な く 車 が 通 る 道 と 交 差 す る が 、 こ こ で 右 手 を 見 る と が見える。 昔 の 千 住 宿 は 水 戸 道 中 ・ 奥 州 道 中 ・ 日 光 道 中 の 初 宿 で 、 諸 大 名 や 日 光 東 照 宮 参 拝 の 諸 家 諸 役 人 の 往 来 で 賑 わ っ た と い う が 、 今 も 幾 つ かの鉄道が乗り入れて人通りの多い商店街になっている。
千 住 か ら 新 宿 を 経 て 金 町 へ 北 千 住 駅 に は 、 J R 常 磐 線 と 東 武 伊 勢 崎 線 と 日 比 谷 線 と 千 代 田 線 が 乗 り 入 れ 、 何 処 か ら く る 人 に と っ て も 便 利 な た め に 、 昼 で も 乗 り 換えする人が多いようである。 駅 の 西 口 に 出 る と ロ ー タ リ ー で 、 歩 道 橋 に は 屋 根 の な い エ ス カ レ ー タ ー が あ る 。 そ こ か ら 西 へ 百 メ ー ト ル ほ ど い く と 信 号 が あ り 、 こ こ に 交 差 し て い る の が 旧 道 で 、 右 折 す る と ﹁ 宿 場 町 通 り ﹂ と い う 商 店街がある。 〇 そ の 交 差 点 を 右 折 す る と 、 す ぐ 細 い 路 地 と の 四 つ 辻 が あ り 、 そ こ を左へ曲がった所に ①がある。 本陣跡の掲示 そ の 先 の 旧 道 沿 い 右 側 の 公 園 に は ② が あ る 。 更 に 高 札 場 跡 の 掲 示 、 進むと右側に の横山家と向かい側に の吉田家があり 伝馬屋敷 絵馬屋 その並びの左角に がある。 かどやの槍かけだんごの店
ご り ん 通 だ 町 け 場 か 宿 槍 の の 住 や 千 ど 北 か
そ の 先 で 左 か ら 広 い 道 が 突 き 当 た る ロ ー タ リ ー の よ う な 場 所 の 辺 り に ﹁ 宿 場 の 出 口 に 近 い 千 住 五 丁 目 の 右 に 道 標 が あ り 、 東 へ 向 か 、 う 細 い 街 道 が 分 岐 す る が 、 こ こ が 水 戸 佐 倉 道 の 分 岐 点 ﹂ と 、 六 年 前 に 刊 行 さ れ た 資 料 に も 書 い て あ る が 、 そ の 道 標 が 見 つ か ら な い た め 探し回ってしまう。 そ の 代 わ り 、 拙 著 シ リ ー ズ ⑥ ﹁ 日 光 道 中 ﹂ で 書 き 落 と し た も の を 。 、 見つけた 名倉医院までいく手前で左を覗くと ③という寺で 安養院 境内には芭蕉句碑﹁ゆく春や 鳥なき魚の目は泪﹂がある。 再 度 ロ ー タ リ ー の よ う な 場 所 に 戻 っ て 、 手 前 の 右 へ 進 む 細 道 に 道 標はないが右折する。この辺りの 三人に確認のために訊ねると ﹁こ 、 の 道 が 旧 水 戸 街 道 で す ﹂ と 言 う が 道 標 は な く な っ て い た 。 今 は 道 標 の 意 味 が な く な り 交 通 の 邪 魔 に な る た め か 、 こ こ で も 歴 史 的 な も の が失われて残念である ︵後に整備されて道標は立てられていた︶ 。 〇 日 光 道 中 と 分 か れ て 右 折 す る と 、 高 架 が 見 え て く る の は 千 代 田 線
と 常 磐 線 で 、 ガ ー ド を く ぐ る 寸 前 の 右 側 に ④ が あ り 、 そ の 氷 川 神 社 奥隣に がある。 長円寺 ガ ー ド を く ぐ る と 五 叉 路 で 、 左 へ 曲 が れ ば 荒 川 の 堤 防 に 向 か い 、 右 側 の 二 本 の 道 は 線 路 の 下 を く ぐ っ て い く の が 見 え て 、 そ の 左 右 の 道にはさまれたもう一本が旧道である。 す る と 旧 道 の 前 方 に ま た ガ ー ド が 見 え て く る が 、 こ れ は 東 武 伊 勢 崎線で、これをくぐる寸前の左側に ⑤がある。 清亮寺 せ いりょうじ 、 ︵ ︶ 、 日蓮宗の清亮寺は 元和五年 一六一九 身延山久遠寺末として 水 戸 街 道 入 口 の こ の 地 に 創 建 さ れ た 。 本 殿 は 天 保 四 年 ︵ 一 八 三 三 ︶ に 建 造 さ れ た も の で 、 山 門 の 扁 額 や 墓 域 の 解 剖 人 塚 が 足 立 区 登 録 有 形文化財になっている。 そ の ま ま 直 進 す る と 荒 川 の 堤 防 に 出 る が 、 流 れ を は さ ん だ 前 方 に は 東 京 拘 置 所 の 立 派 な 建 物 が 見 え る 。 た だ し 荒 川 の 渡 河 地 点 は 二 百 メ ー ト ル ぐ ら い 下 流 だ っ た ら し く 、 今 は こ の 辺 り で 渡 河 す る 手 段 が ない。
だ か ら 荒 川 の 向 こ う 岸 へ い く に は 、 上 流 の 千 住 新 橋 か 下 流 の 堀 切 橋 で 渡 る 方 法 と 、 東 武 伊 勢 崎 線 に 一 駅 だ け 乗 る 方 法 で あ る 。 そ の 二 つ の 橋 ま で は 距 離 も 大 分 あ る よ う だ か ら 、 こ こ で は 北 千 住 駅 ま で 戻 って一駅だけ乗ることにする。 北 千 住 駅 に 戻 る に は 、 先 ほ ど の 五 叉 路 の 右 か ら 二 番 目 の 道 を 進 め ば 、 ガ ー ド を く ぐ っ て か ら 東 武 伊 勢 崎 線 に 並 行 し て 旭 町 商 店 街 が あ り、四つ辻の右側に北千住駅がある。 〇 東 京 荒 川 を 渡 っ た 所 に 今 は 東 武 伊 勢 崎 線 小 菅 駅 が あ り 、 こ こ か ら ⑥を左に見ながら川沿いを進む。 拘置所 や が て 高 速 道 路 が 左 へ カ ー ブ す る 寸 前 に 信 号 が あ り 、 こ こ に 荒 川 の 堤 防 か ら 階 段 で 下 り て き た 道 が 交 差 し て 、 そ の ま ま 左 へ 抜 け て い くのが旧道だから左折する。 そ こ か ら 左 へ 入 る 道 で は 二 つ 目 に な る が 、 細 道 を 左 折 す る と 西 小 菅小学校があり、ここの正門脇に ⑦がある。 小菅銭座跡の掲示
所 置 拘 京 東 寺 と 亮 川 清 荒
安 政 六 年 ︵ 一 八 五 九 ︶ か ら 翌 万 延 元 年 に か け て 幕 府 は 貨 幣 の 吹 替 ふ きかえ ︵改 鋳︶を行い、このため旧小菅御殿跡の一角に小菅銭座を設けた かい ちゅう と い わ れ 、 広 大 な 敷 地 ︵ 約 四 千 六 百 坪 ︶ は 西 小 菅 小 学 校 の 辺 り で 、 この銭座では鉄銭が鋳造されていた。 小 菅 御 殿 と は 、 関 東 郡 代 伊 奈 半 十 郎 忠 治 が 徳 川 家 光 よ り 拝 領 し た 、 、 約十一万坪の土地で 伊奈家が失脚してから屋敷や土地は没収され 明治以降には小菅監獄などが作られた。 綾 瀬 川 旧 道 を 進 み 小 菅 郵 便 局 の 前 を 通 り 過 ぎ る と 、 す ぐ 目 の 前 に 。 、 にかかる が迫ってくる 渡る寸前で左を覗くと小公園があり 水戸橋 川 沿 い に 左 へ 進 む と 小 公 園 の 手 前 の 細 道 に 観 音 院 ・ 小 菅 半 僧 坊 参 道 とあり、更に小公園の奥隅に古びた社がある。 水 戸 橋 を 渡 り 六 号 線 な ど の 高 架 の 下 を 進 み 、 二 百 メ ー ト ル ほ ど い く と 小 菅 交 番 前 交 差 点 で 、 左 側 に レ ン ゴ ー の 工 場 が あ り 、 そ の 隣 に ⑧がある。 蓮昌寺 、 、 その先の三一四号線との交差点は 左角に立派な門扉と家があり
右 角 に が あ る 。 交 差 点 を 渡 る と 旧 道 は 直 進 す る が 、 左 へ 昌 栄 稲 荷 社 十数メートルいくと ⑨がある。 随喜稲荷社 〇 交 差 点 を 越 え る と 右 手 に 堀 切 八 郵 便 局 が あ り 、 そ の 先 で 直 進 す る 道が自然に見えるが、これは新しくできた道である。 ま た 直 進 せ ず に 左 折 し て 、 す ぐ 次 の 信 号 を 右 へ 曲 が れ ば 、 先 ほ ど の 直 進 す る 道 に 合 流 す る が 、 こ の 道 筋 を 旧 道 と し て 書 い て い る 人 も い る 。 し か し こ れ が 旧 道 な ら ば 、 合 流 点 の 右 側 の ⑩ が 背 中 香 取 神 社 を向けているのは変である。 こ の 香 取 神 社 は 宝 徳 三 年 ︵ 一 四 五 一 ︶ 下 総 国 一 宮 香 取 神 社 を 勧 請 したとあり、再建されたのは最近のことらしい。 手 元 の 資 料 の 旧 道 は 左 折 し て か ら 直 進 し て 、 三 一 四 号 線 に 並 行 す る 形 で J R 常 磐 線 に 近 づ い て い く 。 J R の 百 メ ー ト ル ぐ ら い 手 前 で 交 差 す る の は 新 し い 道 で 、 そ れ を 越 え て 高 架 の J R に 接 し て か ら 右 折するのが旧道で、地元では大 曲というようである。 おお まが り
次 の 信 号 か ら 徐 々 に J R を 離 れ 、 先 ほ ど 交 差 し た 新 し い 道 と 合 流 し 、 西 亀 有 三 丁 目 交 差 点 を 経 て の 前 を 通 り 、 亀 有 四 丁 目 交 差 善 養 寺 点に達する。 左 手 の 道 上 小 学 校 を 見 な が ら 旧 道 の 右 側 の 歩 道 を 歩 き 、 次 の 交 差 点 を 越 え る と と ⑪ が あ り 、 更 に 右 曳 舟 古 上 水 橋 の 碑 曳 舟 川 親 水 公 園 へ公園沿いに進めば蓮光寺がある。 曳 舟 川 は 、 江 戸 幕 府 が 明 暦 三 年 ︵ 一 六 五 七 ︶ の 大 火 の 後 、 開 発 に ひきふねが わ 着 手 し た 本 所 ・ 深 川 方 面 の 新 市 街 地 へ 飲 料 水 を 供 給 す る 目 的 で 開 削 さ れ た 水 路 で 、 亀 有 上 水 或 い は 本 所 上 水 ・ 小 梅 上 水 と も 呼 ば れ た 。 亀 有 上 水 の 廃 止 は 享 保 七 年 ︵ 一 七 二 二 ︶ で 、 南 の 水 路 は 埋 め 立 て ら れ、上水部はそのまま用水として残され古上水堀と称された。 こ じょうす いぼり 上 水 廃 止 後 は 、 こ の 水 路 を 利 用 し て ﹁ サ ッ パ コ ﹂ と い う 小 舟 に 人 を 乗 せ 、 堤 防 の 上 か ら 長 い 綱 で 肩 に か け て 引 く こ と か ら ﹁ 曳 舟 川 ﹂ と呼ばれ、多くの紀行文や安藤 広重の絵にも描かれている。 同 じ 交 差 点 に は が あ り 、 そ の す ぐ 百 数 十 旧 水 戸 街 道 亀 有 上 宿 の 碑
橋 戸 水 跡 の 塚 下 里 路 一 道 の 速 有 高 亀
メ ー ト ル 先 に は ⑫ と 掲 示 板 が 立 っ て い て 、 こ こ は 千 住 一 里 塚 跡 の 碑 宿から一里で江戸日本橋から三里とある。 次の交差点を左折して五百メートルほどいけば である。 亀有駅 〇 中 そ の 先 で 三 一 八 号 線 で あ る 環 七 通 を 亀 有 二 丁 目 交 差 点 で 越 え 、 を中川橋で渡るが、橋から覗くと浚 渫 船が活躍している。 川 しゅん せつ せん 、 。 昔の中川には橋がなく 渡し船で対岸に着くと の入口である 新 宿 にい じゅ く 葛 西 と も 呼 ば れ た 宿 場 に は 本 陣 が な く 、 問 屋 だ け の 小 さ な 宿 場 だ っ たという。町並みには枡形という直角の曲がり角が三ヶ所ある。 中 川 橋 を 渡 っ て 突 き 当 た る の が 最 初 の 枡 形 で 、 旧 道 は 右 へ 曲 が っ て い く 。 た だ し 、 こ こ か ら 左 へ 入 る 小 道 の 奥 に ⑬ が あ り 、 そ 立 増 寺 の 奥 に 慶 圓 寺 が あ る が 、 こ の 道 は 柴 又 帝 釈 天 へ の 道 だ っ た と い う 。 立 増 寺 は 、 永 正 年 間 ︵ 一 五 〇 四 ー 二 〇 ︶ 日 位 上 人 の 創 立 し た も の で 、 本 尊 は 唐 の 朝 栄 作 の 釈 迦 如 来 像 で あ り 、 弘 安 三 年 ︵ 一 二 八 〇 ︶ 日法上人の作と伝えられる日蓮聖人の木造がある。
旧 道 の 方 は す ぐ 左 奥 に ⑭ の 参 道 が あ り 、 奥 に ひ な び た 本 殿 宝 蓮 寺 が区保有林になっている大イチョウやカエデに囲まれている。 そ の 先 で 左 折 す る 道 は 商 店 が 並 ん で い て 、 こ れ が 旧 道 だ と い う 資 料 も あ る 。 た だ 、 こ の 先 に 重 要 な 道 標 が 立 っ て い て 、 そ の 道 標 が 昔 のままの位置ならば旧道は左折せ ずに直進したはずである。 そ こ で 直 進 し て 右 側 に ⑮ を 見 な が ら 左 へ カ ー ブ す る 寸 前 、 西 念 寺 幼 稚 園 の 手 前 に が あ り 、 こ こ で カ 郷 土 の 先 覚 者 中 島 守 利 の 碑 と 銅 像 ーブせずに細道を直進すると ⑯がある。 日枝神社 西 念 寺 は 延 享 二 年 ︵ 一 七 四 五 ︶ と 文 政 五 年 ︵ 一 八 二 二 ︶ の 二 回 の 火 災 と 安 政 二 年 ︵ 一 八 五 五 ︶ の 地 震 で 記 録 や 寺 宝 を こ と ご と く 失 っ たが、平成元年に開創六百年記念事業として新築された。 、 ここの日枝神社は八百五十年前から新宿の守護神だったといわれ 区指定天然記念物のイチョウがある。 左 へ カ ー ブ す る と 間 も な く 左 手 に ⑰ が あ り 、 こ こ に は 二 ・ 浄 心 寺 二 六 事 件 で 総 理 大 臣 官 邸 警 戒 勤 務 中 、 機 関 銃 の 乱 射 を 受 け て 一 命 を
落とした清水巡査部長の墓がある。 浄 心 寺 の 前 を 通 る と 旧 道 は 突 き 当 た る が 、 こ こ に は 安 永 六 年 ︵ 一 七 七 七 ︶ の ⑱ に ﹁ 右 な り た 千 葉 寺 道 左 水 戸 街 道 ﹂ と あ り 、 こ 道 標 こ が 水 戸 道 と 佐 倉 道 の 分 岐 点 で 宿 場 の 出 口 だ っ た 。 そ の 手 前 の 石 柱 に金阿弥橋とあるのは、ここに用 水があったことを示している。 道 標 が あ る 所 に は ソ バ 屋 が あ り 、 店 先 に は 成 田 山 新 宿 不 動 講 が 立 。 。 っている ここは成田山や千葉寺詣の多くの人々で賑わったという 〇 そ の 先 で 左 へ 進 む 道 は 広 く て 立 派 な 道 に な っ て い る が 、 こ れ は 東 用 水 と い わ れ た も の を 埋 め 立 て 、 最 近 広 く し た 道 で あ る 。 間 も な く 右側に や ⑲がある。 地蔵菩薩 石仏など十三体 手 元 の 資 料 の 中 に は 、 そ の ま ま 大 堰 枠 交 差 点 の 方 向 へ 進 む の が 旧 道 の よ う に 書 い た も の も あ る が 、 別 の 資 料 で は 石 仏 な ど 十 三 体 の 前 を 通 る 道 が 旧 道 で 、 そ の す ぐ 先 の 貨 物 線 の 踏 切 に は と あ 浜 街 道 踏 切 るのも証である。尚、この踏切の少し先には柴又踏切とある。
標 道 の 群 宿 仏 新 石
旧 道 は 昔 か ら 続 い て い る よ う な 商 店 街 を 通 り 、 や が て 金 町 消 防 署 の 裏 を 通 っ て 、 徐 々 に 国 道 六 号 線 で あ る 新 水 戸 街 道 に 接 近 す る 。 そ し て 金 町 三 丁 目 交 差 点 の 手 前 で 合 流 す る が 、 そ こ ま で の 途 中 の 趣 は 旧道らしさを感じ、途中で古老に訊いても旧道に間違いない。 こ の 新 旧 街 道 の 合 流 点 に は ⑳ が 立 っ て い る が 、 金 町 立 体 事 業 の 碑 こ の 金 町 立 体 事 業 は 深 刻 な 交 通 渋 滞 と な っ て い た 金 町 三 丁 目 と 金 町 広 小 路 の 二 つ の 交 差 点 を 、 連 続 立 体 化 す る こ と で 交 通 渋 滞 の 緩 和 を はかった事業である。 そ の 先 の 京 成 電 車 の 踏 切 を 渡 る と 金 町 三 丁 目 交 差 点 で 、 今 回 は こ こで終わる。 〇 三 丁 目 交 差 点 を 左 へ 曲 が り 、 三 百 メ ー ト ル ほ ど 先 に 京 成 金 町 線 と JRの がある。 金町駅 こ こ か ら J R の 上 り 線 に 乗 り 、 千 住 駅 で 東 武 伊 勢 崎 線 を 利 用 す る こ と も 、 下 り 線 に 乗 り 新 松 戸 で 武 蔵 野 線 を 利 用 す る こ と も で き る 。
旧 道 を 探 す ︵ 閑 話 ︶ こ の シ リ ー ズ ﹁ 街 道 を 歩 く ﹂ で は 、 昔 の 道 に こ だ わ っ て 歩 い て い る た め 、 事 前 に 旧 道 の 道 筋 を 調 べ る の に 苦 労 し て い る 。 こ の 旧 水 戸 街 道 で あ る 水 戸 道 中 で も 地 図 を 見 つ け る ま で が 大 変 で 、 略 図 で も よ いのだが或る程度の縮尺が考慮されていないものはややこしい。 さ て 見 つ け た 地 図 か ら 現 在 の 地 図 に 道 筋 を 転 記 し て 、 そ れ か ら や っ と 歩 き 始 め る こ と が で き る 。 と こ ろ が 本 当 に 旧 道 だ ろ う か と 疑 問 に 思 う 場 合 が あ り 、 幾 つ か 見 つ け た 資 料 に よ っ て は 旧 道 が 少 し 違 う 場合がある。 、 、 この水戸道中でも どれが旧道なのか疑問のときは確認するため 何 度 か 歩 き 直 し た り 、 地 元 の 古 老 に 訊 い た り し て 、 そ の 結 果 を こ こ に 記 載 し て い る 。 そ う い う 場 合 に 、 今 ま で ほ か の 多 く の 旧 道 を 歩 い てきた経験的な勘が活きることもある。 〇
千 住 宿 の 出 口 に ﹁ 日 光 道 中 と 水 戸 道 中 が 分 か れ る 道 標 が あ る ﹂ と 書 い た 資 料 は 多 い が 、 右 手 に 分 岐 す る 細 道 に あ る は ず の 道 標 が 見 つ か ら な い 。 そ の 先 の 名 倉 医 院 を 通 り 過 ぎ て 、 荒 川 の 堤 防 に 突 き 当 た っ て も 見 つ か ら な い 。 名 倉 医 院 の 裏 側 を 通 っ て 一 回 り し て も 、 や は り道標は見つからない。 結 局 、 そ の 後 で 近 所 の 三 人 に 訊 い て 、 道 そ の も の は 分 か っ た も の の 、 道 標 が な く な っ た こ と を 知 っ て い る 人 は 一 人 だ け だ っ た 。 こ れ は何を意味しているのだろう。 一 つ は 書 か れ た 資 料 を 見 つ け て も 、 手 元 に 集 め た も の は 十 年 以 上 前 の も の で 、 そ れ だ け 現 実 が 変 化 し て い る と い う こ と だ ろ う 。 も う 一 つ は 地 元 の 人 で も 小 さ な 変 化 に は 気 づ か な い と い う こ と で あ り 、 他 方 で そ う い う 変 化 を 起 こ し た 人 が い る と い う こ と だ ろ う ︵ 今 は 。 足立郷土博物館に移されていると いうが確認していない︶ 、 歩いている途中で立っている道 標や地蔵や石仏などを目にすると ど う い う も の か 、 い つ 頃 で き た も の か 、 立 ち 止 ま っ て み て し ま う 。
そ れ こ そ 路 傍 の 転 が っ て い る よ う に お か れ た 石 柱 で も 、 こ れ は 何 だ ろうか、意味のないものだろうかと見てしまう。 そ れ ら に 昔 は 意 味 が あ る も の で も 、 今 は 意 味 が な い も の も あ る 。 例 え ば 馬 頭 観 世 音 な ど は 今 は 意 味 が な い か も し れ な い が 、 そ れ で も 大 事 に し て 欲 し い と 思 う の は 、 目 を こ ら し て 探 し な が ら 歩 い て い る 人もいるからである。 〇 東 京 拘 置 所 の 前 を 通 っ て 、 旧 水 戸 街 道 へ 曲 が る 交 差 点 を 目 指 し て 歩 い て い る と き の こ と で あ る 。 こ の 立 派 な 建 物 を 門 前 で 写 真 に 撮 ろ う と し た ら ﹁ 撮 ら な い で 下 さ い ﹂ と 警 備 の 人 に 注 意 さ れ た 。 こ う 、 いう建物は撮ってはいけないものらしい。 交 差 点 は す ぐ 見 つ か っ て 旧 道 を 水 戸 橋 ま で 進 む が 、 左 側 に あ る は ずの小菅銭座跡が見つからない。 郵便局の向かいの八百屋に 夫婦と客がいたので訊く。 ﹁西小菅小学校の所がそうです﹂
﹁何か掲示してありますか?﹂ ﹁何もないと思いますよ﹂ 何 も な い と 聞 く と 、 二 ー 三 百 メ ー ト ル も 戻 る の は 止 め よ う か と 思 っ た が 、 や は り 気 に な っ て 戻 る こ と に す る 。 い つ も の こ と な が ら 間 違 っ て も 歩 き 直 さ な か っ た り 、 大 し た こ と が な い だ ろ う と 寄 ら な か っ た り し た た め 、 後 悔 し て 再 度 歩 き 直 し た こ と が 何 度 か あ る か ら 戻 ることにする。 小 学 校 に 着 く と 確 か に 何 も な い よ う だ が 、 念 の た め に 目 の 前 で 植 木に水をやっているシニアの男性に声をかける。 ﹁ここが銭座跡ですよね﹂ ﹁ええ、そこに掲示板があるでしょう﹂ 確 か に 掲 示 板 が あ る の に 目 に 入 ら な か っ た の で あ る 。 戻 っ て よ か っ た と 思 い な が ら 応 え て く れ た 人 た ち に 感 謝 し て 、 水 戸 橋 の 手 前 の 八 百 屋 に 立 ち 寄 り 、 感 謝 の 声 を か け 、 掲 示 板 が あ っ た と 報 告 す る 。 〇
水 戸 橋 を 渡 っ て か ら 亀 有 へ 向 か う 道 は 、 私 の 手 元 の 資 料 で も 二 種 類ある。この確認のために何度か歩いてしまった。 一 つ は 左 角 に 昌 栄 稲 荷 社 が あ る 交 差 点 を 越 え て 、 堀 切 八 郵 便 局 の 前 を 通 る と 、 そ の ま ま ほ ぼ 直 進 す る よ う な 資 料 も あ る が 、 こ の 道 は 新しい道で旧道ではないようである。 も う 一 つ に は 本 文 中 に も 触 れ た 道 だ が 、 こ れ も 違 う よ う で あ る 。 、 更にもう一つは直進せずに左へ曲がって四ー五百メートル進んで 常磐線に接してから右折して亀有へ向かう道である。 こ の 後 者 が 旧 道 だ と い う こ と は 手 元 の 資 料 だ け で な く 、 途 中 で 教 えてくれた人たちも保証してくれる。 た だ 常 磐 線 に 接 し て か ら 右 折 す る 道 が ま た 問 題 で 、 手 元 の 一 番 分 か り や す い 地 図 で は J R の 百 メ ー ト ル ぐ ら い 手 前 の 道 だ が 、 こ れ を 歩くと旧道ではないらしい。 なぜなら確認のために途中の三 軒ほどの商店で訊いた結果、 ﹁ こ の 道 は 私 た ち が 住 む よ う に な っ て か ら で き た 道 で 、 旧 道 は 大 曲
というJR沿いの道です﹂と言う。 〇 新 宿 に 入 っ て 西 念 寺 ま で い く 手 前 に 左 折 す る 道 が あ り 、 こ こ に は 商店も並んでいて、これが旧道と書いた資料もある。 た だ し 、 こ の 拙 著 で は 西 念 寺 を 通 り 越 し て 、 日 枝 神 社 の 入 口 で 左 へ カ ー ブ し て 浄 念 寺 の 前 を 通 り 、 道 標 が あ る 所 に 出 て く る 道 を 旧 道 と書いた。 そ の 根 拠 は 道 標 の 位 置 に も よ る の だ が 、 前 者 の 道 に は 昔 は 途 中 に 池 が あ っ た よ う に 書 い た 資 料 が あ る か ら だ 。 た だ し 出 会 っ た 地 元 の 古 老 に 訊 く と 、 本 文 に 書 い た 道 が 旧 水 戸 街 道 だ と は い う も の の 、 手 前 の 道 も 旧 道 だ と 書 い た も の が あ っ た そ う で 、 そ の ほ か に も 鎌 倉 街 道があったと推測する資料もある。 そ の 先 の 金 町 へ 向 か う 道 で も 、 或 る 資 料 に 基 づ い て 一 回 目 は 大 堰 枠 交 差 点 の 方 へ 歩 い た が 、 過 去 の 経 験 的 な 勘 で は 旧 道 ら し く な い 。 家 に 戻 っ て 資 料 を 見 直 し て も 、 歩 い て き た の が 旧 道 の よ う に な っ て
い る 。 し か し 別 の 資 料 の 少 し 縮 尺 に 問 題 が あ る 略 図 に 基 づ い て 歩 い 、 。 てみると この方が旧道らしくて途中で古老に訊いても間違いない 〇 集めた資料の地図に間違いがあるのはなぜだろう。 も ち ろ ん 資 料 自 体 に 問 題 が あ る と か 、 著 者 の 指 が ち ょ っ と 曲 が っ ていたとか、勘違いしたまま素通りしてきたとかもあるだろう。 校 正 の と き 、 自 分 の 文 章 に 間 違 い が あ る と い う 前 提 で 読 む 必 要 は あ る が 、 そ れ で も 間 違 い が 素 通 り す る こ と が あ る 。 だ か ら 本 当 は 著 者とは別に校正してくれる人がいると有り難い。 別 の 人 が 校 正 に 協 力 し て く れ る 場 合 で も 、 文 章 は 内 容 が 完 全 に 理 解 さ れ な く て も 疑 問 点 は 指 摘 で き る だ ろ う 。 た だ し 地 図 は そ の 道 の ことを知らないと疑問点さえ指摘できないだろう。 そ の 点 が 資 料 の 地 図 に 間 違 い が あ る 理 由 か も し れ な い 。 何 し ろ 市 販 の 地 図 で も 間 違 い が あ る ぐ ら い で 、 こ れ な ど は 過 去 に 多 く の 蓄 積 があり、協力する人が多いはずなのに不思議である。
金 町 か ら 松 戸 を 経 て 馬 橋 へ J R 金 町 駅 か ら 南 口 へ 出 る と 、 駅 前 の 繁 華 街 は 京 成 金 町 線 と 常 磐 線と国道六号線にはさまれている。 そ こ か ら 京 成 金 町 線 沿 い に 南 下 す る と 、 す ぐ 前 回 の 終 了 点 で あ る 金町三丁目交差点に出る。 〇 交 差 点 を 左 折 し て 国 道 六 号 線 を 二 百 メ ー ト ル も 進 む と 、 前 方 に 常 磐 線 の 高 架 が 見 え て き て 、 そ の 手 前 で 右 へ 大 き く カ ー ブ す る 分 岐 点 が あ る 。 そ の 分 岐 点 の 金 町 交 差 点 を 右 へ カ ー ブ す る の が 六 号 線 で 、 常磐線をくぐる方が旧道である。 く ぐ る と す ぐ 斜 め 右 へ 分 岐 す る の が 旧 道 だ か ら 、 そ の 手 前 の 歩 道 橋で右に渡るが、歩道橋からは二つの道を見通すことができる。 ま た こ こ の 分 岐 点 に は 小 さ な が 立 っ て い て 、 正 面 の 刻 字 は 余 石 標 り よ く 読 め な い が 右 面 に は 金 蓮 院 と あ る 。 ① は こ の 石 標 か ら 金 蓮 院
左へ目を向けると、真っ直ぐ前方の突き当たりに見える。 金 蓮 院 の 開 山 の 時 期 は 不 詳 だ が 、 開 祖 の 賢 秀 和 尚 の 入 寂 が 天 正 十 ︵ ︶ 。 、 三年 一五八五 である 水戸徳川の祈願所で御朱印寺の格式から 参 勤 交 代 で 水 戸 街 道 を 通 る 諸 大 名 も 門 前 で 駕 籠 を 止 め 、 乗 物 か ら 降 りて丁寧に挨拶したという。 旧 道 を 直 進 す る と 二 股 に 大 き な ② の 石 柱 が あ り 、 こ の 右 葛 西 神 社 の 道 は 参 道 だ ろ う か 、 そ の 少 し 手 前 右 側 に 龍 神 使 姫 の 小 さ な 石 仏 が あ る 。 こ の 大 き な 石 柱 の 二 股 で は 右 へ 曲 が ら ず に 、 直 進 す る と す ぐ 右側に葛西神社が現れる。 葛西神社は、元 暦元年︵一一八四︶葛西地区の総鎮守として、下 げ んりゃ く 総 国 香 取 神 社 の 分 霊 を 勧 請 し た と 伝 え ら れ る 。 こ こ に は 弥 栄 銀 杏 と いやさかい ちょう い う の が あ り 、 ま た 金 町 コ カ ブ の 発 祥 と 千 住 ネ ギ の 産 地 に つ い て 掲 示 し て あ る 。 葛 西 の 地 は 江 戸 へ の 野 菜 の 供 給 地 で 、 江 戸 の 人 た ち が 排出する糞尿をこの地に運 んで肥料としていたという。 〇
道 旧 が 右 ・ 点 岐 分 社 の 神 町 西 金 葛
そ の ま ま 道 な り に 進 む と 堤 防 の 手 前 左 側 に ﹁ 私 道 に つ き 車 の 通 、 行 は ご 遠 慮 下 さ い ﹂ と 掲 示 し て あ る 細 道 が あ り 、 そ こ か ら 左 へ 覗 き 込むと ③がある。 光増寺 光 増 寺 に は 、 寛 政 十 年 ︵ 一 七 九 八 ︶ 柴 又 村 に 生 ま れ た 俳 人 の 鈴 木 松 什 の 墓 が あ る 。 ま た 、 こ こ の 舟 形 地 蔵 は 元 禄 七 年 ︵ 一 六 九 四 ︶ しょ うじゅう に 立 て ら れ た も の で 、 中 央 に 地 蔵 が 浮 き 彫 り に な り 、 左 に ﹁ そ う か 迄 二 里 半 、 右 に ﹁ ミ キ い わ つ き し お ん し ミ ち ﹂ と あ る 。 こ れ は 以 ﹂ 前 こ こ よ り 三 十 メ ー ト ル 南 の 街 道 沿 い に あ っ て 道 標 を 兼 ね て い た 。 こ の 道 は 岩 槻 慈 恩 寺 道 と 呼 ん で 賑 わ い 、 ま た 舟 運 が 発 達 す る ま で は 行 徳 の 塩 を 運 ぶ 陸 路 と し て 利 用 さ れ た 。 岩 槻 慈 恩 寺 は 、 こ の シ リ ー ズ ⑦ ﹁ 日 光 御 成 道 ﹂ に も 書 い た 慈 覚 大 師 円 仁 が 創 立 し た も の で 、 江戸川沿いの人々の信仰を集めた。 沿 い に は 、 堤 防 下 の 道 と 中 腹 の 車 が 多 い 四 五 一 号 線 と 堤 防 江 戸 川 上 の サ イ ク リ ン グ ロ ー ド と が あ り 、 景 色 の よ い 堤 防 上 の 道 を 歩 く 。 堤 防 上 を 歩 い て い る と 、 と き ど き 自 転 車 と す れ 違 い 、 河 川 敷 で は
ゴ ル フ の ミ ニ コ ー ス を 楽 し む グ ル ー プ が 切 れ 目 な く 続 き 、 平 日 で 曇 天のこの日も楽しんでいる人たちが多い。 国 道 二 九 八 号 線 の 葛 西 大 橋 を 渡 ら ず に 、 次 の 葛 西 橋 で 江 戸 川 を 渡 る こ と に す る 。 昔 は こ れ よ り 二 ー 三 百 メ ー ト ル ぐ ら い 上 流 で 、 今 は ④ が あ る 辺 り に 江 戸 川 の 渡 し が あ っ て 、 渡 船 場 の 手 東 金 町 ポ ン プ 所 前に金町松戸関所があったという。 、 葛西橋を渡ったらすぐ左折して川沿いに堤防の上を歩いていくと ﹁ 樋 野 口 川 の 一 里 塚 か ら 一 〇 〇 〇 メ ー ト ル ﹂ と 出 て い る が 、 こ の 一 里 塚 は 市 川 市 よ り 流 山 市 ま で の 間 に 、 矢 切 川 の 一 里 塚 ・ 樋 野 口 川 の 一里塚・古ヶ崎の一里塚・主水新田川の一里塚とあるらしい。 〇 間 も な く 右 側 の 堤 防 下 に 大 き く て 新 し い ⑤ が 立 っ て い て 、 そ 道 標 の 位 置 か ら 向 こ う 岸 の ポ ン プ 所 の 方 向 を 見 る と 、 昔 の 渡 し が あ っ た 大体の位置を想像できる。 この道標の右面には﹁是より御料松戸宿 、左面には﹁左江戸道﹂ ﹂
標 道 る 入 へ 道 宿 の 戸 上 松 堤 ら と か 川 川 戸 戸 江 江
、 。 とあり 向きを考えると昔の道標が立って いた位置は違うのだろう ここには﹁是より御料松戸宿の碑﹂の建立由来が立っている。 ﹁ ︵ ︶ ﹂ 、 江戸時代には宿場の出入口に高札と 御料 領 傍示杭 が並び 位 置 は 現 在 の 堤 防 か ら 河 川 敷 に な っ て い る 付 近 に 立 て ら れ て い た 。 こ の 辺 り が の 始 ま り で 、 こ の 宿 場 か ら 江 戸 川 を 下 っ て 江 戸 松 戸 宿 深 川 辺 り へ 向 か う 川 船 が あ っ て 、 こ の 河 岸 の 近 辺 に は 飯 盛 旅 籠 が 集 中して賑わった。 こ の 道 標 の 脇 を 通 る と 突 き 当 た っ て 旧 道 は 左 折 す る が 、 こ こ で 少 し 寄 り 道 を し て 右 折 す る 。 す る と す ぐ 角 町 交 差 点 の 三 叉 路 で 、 そ の 、 、 左側に円慶寺があり その先の坂川を渡った右側に増長院があるが 何れも外見的には立ち寄るほどのものでない。 旧 道 に 戻 っ て す ぐ 右 へ 曲 が り 、 坂 川 を 渡 る と 慈 眼 寺 が あ る は ず だ が 、 今 は 墓 が 幾 つ か 残 る だ け で 荒 れ 果 て て い る 。 そ の 隣 の ⑥ 松 龍 寺 は 将 軍 吉 宗 が 鹿 狩 り の 途 中 で 休 息 し た 所 で 、 こ こ は 慶 長 十 八 年 ︵ 一 六一三︶高木正次公の建立とある。
旧 道 を 進 む と 左 側 に が あ り 、 こ の 裏 に 本 陣 が あ っ た そ 松 戸 郵 便 局 う で 、 こ の 先 の 春 雨 橋 ま で は 食 べ 物 屋 ・ 鍛 冶 屋 ・ 荒 物 屋 ・ 旅 籠 屋 な ど 商 家 が 軒 を 連 ね て い た と い う 。 そ の 先 の 宮 前 町 交 差 点 を 越 え た 右 側、坂川を渡った所に ⑦がある。 松戸神社 松 戸 神 社 の 創 祀 は 、 日 本 武 尊 が 東 征 で 常 陸 国 よ り 武 藏 国 の 平 定 に 向 か わ れ た と き の 陣 営 跡 に 、 ご 功 績 を 讃 え て 里 人 が 祠 を 祀 っ た と 伝 え ら れ る 。 寛 永 三 年 ︵ 一 六 二 六 ︶ 社 殿 を 建 立 し 、 明 治 十 年 に 御 嶽 社 より松戸神社に改称した。 こ の 辺 り の 旧 道 と 並 行 し て い る は 、 江 戸 時 代 に 開 削 さ れ た 人 坂 川 工 の 河 川 で 、 水 田 を 潤 し 、 用 排 水 幹 線 と し て 重 要 な 役 割 を 果 た し て き た 。 た だ 古 記 録 に よ れ ば ﹁ 逆 川 ﹂ と 書 か れ 、 出 水 時 に は 江 戸 川 か らの逆流によって水害のため農民は苦しんできた。 今 日 の 坂 川 の 基 本 は 享 保 八 年 ︵ 一 七 二 三 ︶ に ほ ぼ 完 成 し 、 そ の 後 も 先 人 た ち に よ り 治 水 事 業 を 永 々 と 続 け ら れ 、 水 上 交 通 と し て の 役 割 も 果 た し 、 昭 和 初 期 ま で 米 ・ 油 ・ 野 菜 な ど 生 活 物 資 が 川 船 で 運 ば
れた。 〇 、 、 その先の旧道右側には 創業三百六十年という宮口石材店があり そ の 向 か い の 細 道 を 入 る と 妙 晃 寺 は あ る が 、 外 見 的 に は 立 ち 寄 る ほ どのものでない。 旧 道 は そ の す ぐ 先 で 坂 川 を 春 雨 橋 を 渡 る が 、 そ の 寸 前 の 左 側 に 立 派 な 門 と 趣 の あ る 建 物 が 並 び 、 門 の 中 に は 大 き な 石 の 鳥 居 が あ る ら しい。 宝 光 坂 川 を 渡 る と 左 側 に は 、 千 葉 周 作 の 実 父 浦 上 寿 貞 の 墓 が あ る ⑧ と と ⑨ が 続 い て い る 。 そ の 右 側 に は 、 そ れ ほ ど 古 院 善 照 寺 西 蓮 寺 く は な い が 趣 の あ る 商 家 が 所 々 に 建 っ て い て 旧 道 ら し さ を 感 じ る 。 そ の 先 左 角 に ⑩ が あ る 交 差 点 で 右 を 見 る と 、 百 メ ー 松 戸 市 民 劇 場 ト ル ぐ ら い 先 に が あ り 、 途 中 に は ホ テ ル も 見 え る か ら 宿 泊 も 松 戸 駅 可能だろう。ただし旧道は 交差点をそのまま直進する。 歩 道 の 左 側 を 歩 い て 根 本 交 差 点 の 一 つ 手 前 の 辻 を 左 折 す れ ば 、 最
家 旧 の 前 社 手 神 橋 戸 雨 松 春
初の左角に ⑪がある。 根本天満宮 、 ︵ ︶ この天満宮は京都北野天満宮の分霊を受け 天正七年 一五七九 当 時 吉 祥 寺 に 隠 居 の 大 勝 院 住 職 に よ っ て 創 建 さ れ た と 伝 え ら れ る 。 根 本 交 差 点 か ら 旧 道 と 分 か れ て 右 へ 斜 め に 入 れ ば 、 間 も な く 右 手 に 規 模 も 大 き な ⑫ が あ り 、 こ の 左 の 道 沿 い に 淋 し い 姿 の 日 行 吉 祥 寺 庵 が あ る 。 そ の ま ま 進 め ば ⑬ が あ り 、 参 道 の 奥 に 階 段 が あ 金 山 神 社 って、こんもりとした森が見える。 こ の 階 段 を 上 っ て 常 磐 線 を 歩 道 橋 で 越 え る と 、 こ の 森 の 中 に は 金 山 大 権 現 と 小 御 嶽 大 神 と 冨 士 浅 間 大 神 と が 祀 ら れ て い る が 、 こ れ は 清水講で登山された人たちに大事にされているものらしい。 〇 少 し 寄 り 道 を し た が 元 に 戻 っ て 、 根 本 交 差 点 か ら 旧 道 を 直 進 し 、 右 側 に 金 山 神 社 の 参 道 入 口 を 見 な が ら 、 左 側 の 根 本 郵 便 局 の 前 を 通 って、間もなく常磐線を で越える。 歩道橋 昔 は 直 進 し て い た 旧 道 の 上 に 常 磐 線 が で き た た め 、 今 は 歩 道 橋 で
常 磐 線 を 越 え る よ う に な っ て 、 車 は そ の 先 の 高 架 橋 で 渡 る よ う に な っている。 越 え る と す ぐ 右 側 に ⑭ が あ り 、 そ の 先 で 竹 ヶ 花 交 差 点 を 雷 電 神 社 越 え る 。 そ の 先 は 特 に 見 る べ き も の も な い が 、 と き た ま 立 派 な 家 が 建っている。 そ の 先 の 上 本 郷 交 差 点 で 国 道 六 号 線 に 合 流 し 、 三 百 メ ー ト ル 先 の 交 差 点 で 左 奥 を 見 る と が あ る 。 こ の 辺 り か ら 旧 道 は 常 磐 線 北 松 戸 駅 に最も近くなる。 こ の 次 の 交 差 点 を 越 え た 右 側 に 小 高 い 森 が 見 え て 、 こ こ に は 浄 土 真 宗 の ⑮ の 標 識 が 立 っ て い る 。 た だ 寺 ら し い 建 物 も 墓 地 も 何 龍 善 寺 も 見 え な い か ら 、 こ の 小 高 い 所 を 上 る 必 要 が あ る の だ ろ う か 、 疲 れ ていると上る気がしない高さである。 新 作 三 丁 目 交 差 点 を 越 え て 数 十 メ ー ト ル い く と 、 右 側 の 空 き 地 の 真 ん 中 に ⑯ が 立 っ て い る 。 た だ 、 大 乗 妙 典 六 十 六 部 日 本 廻 国 供 養 塔 こ の 空 き 地 が 活 用 さ れ る よ う に な っ た ら 、 こ の 供 養 塔 は 何 処 か に 移
されるのだろうか。 そ の 二 百 メ ー ト ル ほ ど 先 に 馬 橋 立 体 入 口 交 差 点 が あ り 、 そ の す ぐ 先の交差点で六号線から左へ分かれる。 す る と 右 手 に あ る ラ イ フ の 手 前 に ⑰ が 立 っ て い る 栢 日 庵 立 砂 の 碑 、 、 が この白く新しい背の高い碑は松戸市教育委員会が立てたもので この後も所々に立てられているのは好感が持てる。 馬 橋 の 油 屋 平 右 衛 門 こ と 栢 日 庵 立 砂 ︵ ー 一 七 九 九 年 ︶ は 東 葛 地 方 の 俳 諧 人 と し て 有 名 だ っ た 。 親 子 ほ ど 歳 の 差 が あ っ た 一 茶 か ら 爺 と 慕われ彼のよき理解者であり、また庇護者でもあった。 こ の 旧 道 を 直 進 し た 突 き 当 た り に が 見 え る が 、 そ の 手 前 の 万 満 寺 左奥に がある。 馬橋駅 〇 旧 道 か ら 馬 橋 駅 ま で は 百 メ ー ト ル 強 で 、 こ こ で の 電 車 の 待 ち 時 間 は 余 り 気 に な ら な い 。 こ こ か ら 新 松 戸 で 武 蔵 野 線 に 乗 り 換 え る つ も りである。
社 神 寺 山 満 金 万 の の 戸 橋 松 馬
馬 橋 か ら 小 金 を 経 て 柏 へ 今 朝 の 出 発 が 少 し 遅 れ て 、 東 上 線 か ら 武 蔵 野 線 北 朝 霞 駅 で 乗 り 換 えたのは十時二十分ぐらいである。 武 蔵 野 線 は 途 中 で J R の 埼 京 線 ・ 高 崎 線 ・ 宇 都 宮 線 ・ 京 浜 東 北 線 の ほ か 東 武 伊 勢 崎 線 や 埼 玉 高 速 鉄 道 な ど と 接 続 が 多 い か ら 、 こ の 街 道歩きには大変利用価値のある鉄道である。 そ の 先 の 新 松 戸 駅 で 乗 り 換 え て 、 馬 橋 駅 に 着 い の は 十 一 時 十 五 分 だから、北朝霞駅からは一時間 ぐらいで着くことができる。 馬橋駅の東口を出て前回歩き終わった旧道で左折 して、目の前の 万 満 寺 へ 向 か っ て 歩 き 始 め る と 、 す ぐ 左 側 に 建 つ 立 派 な 門 構 え の 大 きな家は農家だそうである。 〇 旧 道 の 突 き 当 た り に は 国 重 要 文 化 財 の 仁 王 様 が 守 る ① が あ 万 満 寺 り、塀をはさんだ脇隣には がある。 王子神社
万 満 寺 は 、 鎌 倉 時 代 の 建 長 八 年 ︵ 一 二 五 六 ︶ に 小 金 城 主 で あ っ た 千 葉 介 頼 胤 が 鎌 倉 極 楽 寺 の 良 観 房 忍 性 を 招 い て 堂 宇 を 修 め 、 真 言 宗 より たね の大日寺を開いたのが始まりだといわれている。 現 在 の 臨 済 宗 と な っ た 万 満 寺 は 千 葉 介 満 胤 の 時 代 の 康 暦 三 年 ︵ 一 三 七 九 ︶ と い わ れ 、 関 東 管 領 足 利 氏 満 ︵ 一 三 五 八 ー 九 八 ︶ の 満 の 一 字 を と っ て 万 満 寺 に し た と い う 。 徳 川 家 康 か ら は 七 十 石 の 朱 印 状 が 与 え ら れ 、 中 風 除 の 不 動 祭 り と 仁 王 様 の 疱 瘡 逃 れ の ご 利 益 で 有 名 で 。 。 ある 王子神社は古刹万満寺の守護神として創建されたものである 万 満 寺 の 向 か い に は 馬 橋 郵 便 局 が あ り 、 こ こ か ら 旧 道 は 右 へ 大 き くカーブして直進し、JRからは離れていく。 五 ー 六 百 メ ー ト ル も 歩 く と 八 ヶ 崎 交 差 点 で 、 そ こ を 左 折 し て 国 道 は ち が さ き 六 号 線 と 合 流 し て 進 む 。 こ こ の 歩 道 橋 で 向 こ う 側 に 渡 る と 、 渡 り 終 え た 階 段 下 に 文 化 三 年 ︵ 一 八 〇 六 ︶ の ② が 立 ち 、 右 に 印 西 青 面 金 剛 道、左に水戸街道と彫られ て道標を兼ねている。 そ こ か ら 百 メ ー ト ル も 進 む と 右 側 に 焼 き 肉 の 安 楽 亭 が あ る が 、 そ
の建物の終わりに ③がある。 一里塚の碑 〇 二 ツ 木 交 差 点 を 通 り 過 ぎ て 間 も な く 、 左 側 に 小 高 い 森 が 見 え て く る の は ④ で 、 こ の 境 内 に は 冨 士 嶽 神 社 の 碑 や 月 山 ・ 湯 殿 蘇 羽 鷹 神 社 山 ・ 羽 黒 山 ・ 板 東 ・ 西 国 ・ 秩 父 百 番 供 養 塔 が あ る か ら 、 こ こ の 氏 子 が参詣してきた記念に立てたものだろうか。 蘇 羽 鷹 大 明 神 は 中 世 の 豪 族 千 葉 氏 の 守 護 神 で 、 二 ツ 木 台 に は 千 葉 氏 の 居 館 が あ っ た と い わ れ 、 当 社 の 創 立 は 天 正 四 年 ︵ 一 五 七 六 ︶ と ある。 神 社 の 入 口 前 に あ る 交 差 点 で 六 号 線 を 渡 り 、 国 道 と 分 か れ て 右 へ 松 戸 日 立 自 動 斜 め に 進 む と 、 間 も な く J R 武 蔵 野 線 の 下 を く ぐ る 。 や 大 き な マ ン シ ョ ン の 前 を 通 り 、 大 き く 蛇 行 し な が ら 道 な り 車 学 校 に進む。 左 側 の 江 戸 屋 酒 店 が あ る 向 か い 側 に 、 ⑤ が 立 っ て い 水 戸 街 道 の 碑 る 。 こ の 白 く て 背 の 高 い 碑 に は ﹁ こ の 辺 り の 道 筋 に は 昔 の 面 影 が 残
標 道 の 点 差 社 交 神 崎 鷹 ヶ 羽 八 蘇
っ て い る ﹂ と 書 い て あ る が 、 確 か に そ の よ う な 味 わ い も あ り 、 酒 屋 も江戸屋とは旧道らしい屋号である。 そ の ま ま 進 む と 左 手 に 新 し く て 小 さ な 庚 申 堂 が あ り 、 そ の 先 の 駅 入 口 交 差 点 で 旧 道 は 国 道 を 横 切 っ て 進 む 。 た だ し 、 こ の 交 差 点 で 寄 り 道 の た め に 左 へ 曲 が り 、 百 メ ー ト ル ほ ど 進 め ば が あ り 、 そ 常 行 院 の国道を越えた向かいに ⑥が立っている。 後田遺跡の碑 後 田 遺 跡 は 、 縄 文 時 代 中 期 ー 後 期 ︵ 約 四 五 〇 〇 ー 三 〇 〇 〇 年 前 ︶ の 馬 蹄 形 貝 塚 で あ る 。 こ れ ま で に 行 わ れ た 発 掘 調 査 に よ っ て 、 縄 文 時代の住居跡やたくさんの遺物が出土している。 〇 駅 入 口 交 差 点 で 国 道 を 横 切 る と 、 間 も な く 旧 道 ら し さ を 感 じ る か ら、昔の に入っているのだろう。 小金宿 こ の 宿 場 は 松 戸 よ り も 早 く か ら 開 け て 、 寛 政 元 年 ︵ 一 七 八 九 ︶ に は本陣・脇本陣のほかに水戸家 専用旅館もあったという。 右 側 に ⑦ に つ い て 掲 示 し て あ る が 、 こ う い う 物 も 昔 の 姿 を 永 妻 家
、 。 伝えるもので 松戸市に誇りを持つ人たちにエールを送りたくなる 永 妻 家 ︵ 屋 号 あ め や ︶ は 、 あ め や 、 飴 六 と 称 し て 、 水 戸 街 道 の 小 金 宿 で 古 い 暖 簾 を 誇 る 飴 の 製 造 販 売 業 者 で あ っ た 。 永 妻 家 先 祖 の 藤 風 庵 可 長 は 今 日 庵 元 夢 の 弟 子 で あ り 、 馬 橋 村 在 住 大 川 立 砂 の 門 人 で 一 茶 と は 同 門 だ っ た 。 永 妻 家 に は 一 茶 が 宿 泊 し た と い わ れ 、 ま た 本 土寺には元夢との句碑がある。 そ の 先 の 豪 壮 な 建 物 は 近 寄 る と 日 蓮 正 宗 ⑧ と あ り 、 門 前 に 一 月 寺 は という白い背の高い碑が立っている。 虚無僧寺一月寺の跡 こ の 碑 に よ る と 普 化 宗 金 竜 山 一 月 寺 は 、 鎌 倉 時 代 初 期 に 金 先 禅 師 に よ っ て 創 建 さ れ た と い わ れ る 。 江 戸 時 代 に は 青 梅 の 鈴 法 寺 と 一 月 寺 が 触 頭 と し て 、 関 東 地 域 の 普 化 宗 諸 派 の 寺 院 を 統 括 し た 。 明 治 四 年の太政官布告によって普化宗は廃止された。 玉 屋 ︵ 小 金 宿 そ の 先 左 側 に は 趣 の あ る 家 が 残 っ て い て 、 そ こ に は 。 、 の旅籠 の碑 ︶ ⑨が立っている この建物は玉屋という屋号の旅籠で 当時の宿場町の名残を伝えている。
旅 籠 だ っ た 玉 屋 も 鈴 木 家 で あ る よ う に 、 こ の 旧 道 沿 い に は 鈴 木 の 名字が多いようである。 〇 そ の 先 の 左 側 に 大 き な 寺 号 石 で ⑩ と あ る 。 山 門 を く ぐ る と 東 斬 寺 長 い 参 道 に は 松 並 木 と ツ ツ ジ や ア ジ サ イ や 山 吹 が 植 え て あ っ て 、 仁 王門をくぐると春の桜や秋の紅葉が四季の美しさを想像させる。 ま た 本 殿 前 に は 曲 が り く ね っ た 松 の 古 木 と し だ れ 桜 の 大 樹 が 市 指 定 保 護 樹 で あ り 、 維 新 勤 王 志 士 の 竹 内 廉 之 助 ・ 哲 次 郎 の 記 念 碑 が あ り その奥の境外遺跡は縄文時代前期 約六〇〇〇年前 と後期 約 、 ︵ ︶ ︵ 三五〇〇年前︶の貝塚である。 東 斬 寺 は 、 文 明 十 三 年 ︵ 一 四 八 一 ︶ 根 木 内 に 創 建 さ れ た こ と に 始 ま り 、 天 文 六 年 ︵ 一 五 三 七 ︶ 高 城 氏 が 小 金 城 へ 移 転 と 同 時 に 現 在 地 に 移 っ て き た 。 そ の 後 、 幕 府 に よ り 関 東 八 壇 林 に も 加 え ら れ 、 多 く の文化財を所蔵している。 旧 道 は 間 も な く 常 磐 線 を 目 の 前 に し て 、 交 差 点 を 右 へ 曲 北 小 金 駅
屋 玉 籠 旅 の 宿 寺 金 斬 小 東
八 坂 神 が っ て い く が 、 こ の 交 差 点 の 右 側 に 立 っ て い る 大 き な 石 柱 は ⑪ で 、 隣 の 小 さ な に は ﹁ 右 水 戸 街 道 ﹂ と あ る 。 社 御 跡 地 の 碑 道 標 そ の 少 し 離 れ た 所 に 立 つ と 刻 ま れ た 石 柱 は 、 ﹁ 平 賀 本 土 寺 参 道 ﹂ 文化五年︵一八〇八︶のものである。 そ こ で 八 坂 神 社 御 跡 地 と あ る こ と か ら 、 今 の 八 坂 神 社 が 何 処 に あ る の か を 探 索 し て 、 そ の 後 で 駅 の 向 こ う 側 に あ る 本 土 寺 に も 立 ち 寄 ることにする。 〇 資 料 に は ﹁ 旧 八 坂 神 社 の 西 に 小 金 牧 を 管 轄 す る 野 馬 奉 行 綿 貫 氏 の わた ぬき 役 宅 ・ 馬 屋 ・ 馬 場 が あ っ た ﹂ と あ る が 、 こ の 交 差 点 の 左 側 よ り 少 し 奥まった所に綿貫という表札の豪邸がある。 こ の 綿 貫 氏 の 左 脇 の 道 は す ぐ 二 股 に 分 か れ て 、 車 の 少 な い 方 を 進 ん で 数 百 メ ー ト ル も い く と 、 少 し 下 り 始 め た 右 側 に ⑫ が あ 八 坂 神 社 り、これは常磐線からも見える。 こ こ の 八 坂 神 社 の 創 立 は 、 天 文 年 間 ︵ 一 五 三 二 ー 五 四 ︶ 小 金 城 主
高 城 氏 が 鎮 守 神 と し て 勧 請 し た も の で 、 江 戸 時 代 に 及 ん で 小 金 牧 場 奉行綿貫氏が護ってきた。 次 に 駅 へ 向 か う 道 に は ﹁ 本 土 寺 参 道 ﹂ と あ っ た が 、 こ の 道 が 本 土 寺 の 参 道 な ら 常 磐 線 に 突 き 当 た っ て 消 え て い る か ら 、 J R の 向 こ う 側に道は続いているはずである。 北 千 住 か ら 旧 道 を 歩 い て い る と 日 蓮 宗 が 多 く 、 こ の 本 土 寺 に 理 由 があるのではないかと想像し、往復 一キロ以上の寄り道をする。 そ し て 北 小 金 駅 の 向 こ う 側 に 出 る と 、 す ぐ 左 に 見 え る 神 社 は 鹿 島 神社で、直進して長い参道の突き当たりに ⑬がある。 本土寺 、 ︵ ︶ 、 長谷山本土寺は 建治三年 一二七七 豪族平賀忠晴の屋敷内に 日 蓮 上 人 の 弟 子 日 朗 を 導 師 と し て 招 き 開 堂 し た の が 起 こ り で あ る 。 本 土 寺 は 池 上 の 長 栄 山 本 門 寺 と 鎌 倉 の 長 興 山 妙 本 寺 と 共 に ﹁ 朗 門 、 の 三 長 三 本 の 本 山 ﹂ と 称 さ れ る 屈 指 の 名 刹 で 、 松 戸 地 方 に お け る 日 蓮 宗 の 教 団 活 動 の 中 心 と さ れ た 。 こ こ に は 日 蓮 筆 の 書 類 を は じ め と して、松戸市域の貴重な中世史資料が数多く所蔵されている。
標 道 道 の 参 宿 寺 金 土 小 本