香 川 大 学 経 済 論 叢 第741巻 第2号 2001年9月 21-33
言語的根拠, 否定表現
守 矢 信 明
o
.は じ め に
言語によって描き出され伝達される世界は,現実の世界の直接的な反映では ない。言語には言語の論理があり,関連づけがあり,事象を分割する独自のや り方がある。このことは言語学ではつとに自明の理とされていることであるが, あまりにも単純に言語体系と現実世界が別物であることを標梼するあまり,そ の内実が十分理解されないまま,興味深いさまざまな言語現象が見過ごされて しまうきらいがないわけではない。 たとえば南米のヤノマミ族の数体系は実に簡明で,r1
,2
,2
以上」である (ジャック・リゾー『ヤノマミρ
。われわれの通念からすれば,これだけでは とうてい現実の複雑な数をカバーしきれないように思われる。しかし彼らには それで十分である。来客の数を話題にするとき,彼らの言語では「きのうは大 勢客人がおったなァ。男が二人に,もう二人に,もう一人だったな。女もおっ たが。二人とあと一人じゃ。女と同じだけ子供もおったがJ (10
2
頁)というふ うに伝える。われわれの数体系はヤノマミのそれよりはるかに複雑だが,さり とて日常的に億や兆の単位が登場する機会はまれである。まして1
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乗,2
8
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2
乗を表す京,咳,穣,溝…や,1
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のマイナス1
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5
乗…2
1
乗を表す遼巡,須奥…清浄という単位が用いられることは皆無に近い。たしか に現実世界には1
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乗,あるいはそれ以上,等の数はいくらでもある。し かしわれわれの言語は日常的にはヤノマミのr1
,2
,2
以上」と同様,ある 程度のところで「それ以上」とか「それ以下J,あるいは「だいたい」ですませ ている。というより数体系を含めて言語そのものが,そもそも現実世界と1
対-22ー 香川大学経済論叢 174
1
で対応する仕組みにはなっていなし亙。もし対応するとすれば言語は新事実が 発見されるたびに日々単位の変更や増減をよぎなくされることになる。さらに 逆説的なことだが,言語は「だ、いたい」とか r2ないし3Jとかの,あいまい な表現を用いることで,よりわれわれの想像力に鮮明に訴えることができる。 言い方を換えれば認識をより容易にする。「どこまでもつづく白い砂浜」と, rlO の2
1
乗の砂粒のある浜辺」ではどちらがわれわれの生活にとって有用か言うを またないでトあろう。「鶏頭の十四五本もありぬべしJ(子規)は単に数値を問題 にするというより,作者の気分,心理までも伝えているが r鶏頭が1
4
本,ま たは15本咲いている」はただの観察報告でしかない。 1 . 言 語 に 特 有 な 現 象 と し て の 「 否 定 」 1.1 現実世界には「だ、いたしりという単位も r十四五本」という単位も存在 しない。これは観念として,われわれの頭の中だけで成り立つイメージである。 そしてこれはわれわれの言語が事実の世界に存在しないものごとについても語 り得る一つの例である。事実の世界に存在しないものとして,井上ひさしはさ らに否定表現をあげる(~自家製文章読本J) : 言語のもっとも注目すべきところは,{事実の世界に存在しないものごとに ついても語り得る〉ということにあるだろう。たとえば,事実の世界には 否定がない。曇り空。事実の世界では,曇り空は曇り空,曇り空以外のな にものでもない。しかしわれわれは r晴れていないJ,あるいは「雨では 主主ミ」と,否定を用いて表現することができる。さらには r曇ってい主ど こともない」というふうにも言える。(
7
8
頁,下線は井上) 想像力に訴える言語芸術の世界では,読者はフィクションということを前提 にして作品に接する。「嘘」であることは百も承知でその世界に身をゆだねる。 これを可能ならしめているのは言語がもともと恋意性という性格をもっている からである。その意味では否定だけが特別の地位にあるわけでなく r犬」も,175 言語的根拠,否定表現 -23-「空」も r河童」も rぬえ」もすべては言語的存在であり,言語的実体であ る。言語的実体は名調にかぎらず,形容調,動詞,副詞等々,すべての言語領 域におよぶ。そして否定という言語操作も事実の世界には存在しない,われわ れに固有の心的プロセスである。野村雅ーは『しぐさの世界,身体表現の民族 学』で,否定形や時制は言語の習得と不可分に結びついているものであり,し ぐさや身ぶりそのものは「ひたすら現在のなかに,それ自身をえがきだ、す」こ としかできないと述べる(同書, 119頁)。したがって言語を介在させずに,し ぐさや身ぶりだけで r~ しない J , r~でない」ことを伝えるには,否定以外の 方法,すなわちあくまで肯定的な表現でそれを伝えるしかない。たとえば争い をしないという意味を伝えるにはそれを握手で代替したり,働かないことを伝 えるのに休むしぐさをしてみせる,などである。しかし握手や休息のポーズに しても,そこから不戦の意思や休業の意思を読み取るにはかなり高度な記号に たいする解釈能力が必要だろうし,たいていは単独でそれらのジェスチャーの みが行われることはなく,言語の補充手段として行われるのがふつうである。 だが動物の場合,ほとんどがコミュニケーション手段としての言語をもたない。 したがって,動物がいかにして否定の意図を伝えるかはたいへん興味深い問題 である。ベイトソンのあげる犬の例では単純な肯定の代替動作がいくつか組み 合わされることで r喧嘩をやめておこう」という否定のメッセージが伝えられ る: グレゴリー・ベイトソンはイヌが喧嘩の真似事をする例をあげている。二 匹の犬がたがいに近よって r喧嘩はやめておこう」というメッセージを交 換しようとする。しかし,イヌの図像的な身ぶ、りのコミュニケーションに おいて,そもそも喧嘩に言及する唯一の方法は歯をむきだすことである。 イヌはたがいに歯をむきだし,その上でその身ぶりが試験的なものである ことを確認しようとする。そのためにうなり声をあげ,たがいに相手をか み殺す意図のないことをたしかめて,友好関係を樹立するというのである。 (同書,
1
2
0
頁)-24- 香川大学経済論叢 176 これによれば犬どうしはまず歯をむきだしにして,争いの場面を現出させる。 だがいきなりは噛みつかず,その身ぶりが本気であるか否かを判断する時間的 余地を残す。うなり声は争うための前段というより,威嚇して相手をとおざけ ようとするメッセージである。最終的に犬どうしは相互の不戦の意思を確認し, 友好関係が樹立される。デズモンド・モリスによれば一般に「威嚇信号とは, 攻撃したいという気持ちを相手に知らせる警告である。その動作が最後まで行 われれば,実際の攻撃となるが,そこまで行われずに,害のない視覚的デ、イス プレーのままとどまっているJ (Irマンウォッチング(下)h125頁)のが通常で ある。しかしもし威嚇が威嚇に終わらず闘争にまで発展してしまうとすれば, それは「威嚇ディスプレーの失敗を意味するJ (同書,
4
4
頁)。威嚇は戦うため というより,戦わないためのディスプレーなのだ。動物のみならず,ある種の 植物が結実期に毒をたくわえることで,鳥たちに「食べるな」というメッセー ジを伝えたり,ある種の昆虫や植物が姿体を毒々しい色彩で飾ることにより, 毒の保有を伝え r近づくな」というメッセージを発しているのも,一種の威嚇 ディスプレーであり,肯定表現による否定のメッセージと考えてよかろう。 1.2
言語ではすべての肯定表現が,同時に否定形に変換可能である。ところで つぎの2
つのフランス語文を比べてみよう:(
1
)
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(私には弟はいなしユ)(
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, (向上) いずれも弟はゼロであることを表明している。2
つの文の要素が部分的に異 なる(
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)
のは,(
1
)
と(
2
)
がそれぞれ念頭においている前提が異なる からである。たとえば(1)は(
3
)
の聞いに対する回答であり,(
2
)
は(
4
)
の回答と考え られる:(
3
)
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177 言語的根拠,否定表現 -25-(4)
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(
3
)
と(4)は単数,複数のちがいはあるがほとんど意味の差はない。しいていえ ば,このような場合,慣習的には複数形におかれる方がより一般的であるとい う程度である。しかし次の例ではどうだろう。 (5),(6)を見るかぎり,意味の差 はほとんどないように思われる(イタリックは引用者):(
5
)
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(MADAME DE LA FAYETTE)
(いいえ,彼女は言葉をつづ けた,あなたが仰っているのは私のことではございません。私がヌムール 公と一夜を過ごしたり,ひとときを過ごしたなどということは,一度たりともございませんもの)
(
6
)
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(向上) だがあらためてそれぞれに対応する肯定形を想定し,比べてみるなら,両者 の意味の差が歴然として浮かび、あがる: (7) J'a
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(私はヌムーノレ公と 一夜を過ごした)(
8
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(私はヌムール公と 数夜を過ごした) したがって,それぞれが前提とする対応形をも含めて考えるなら, (1)と (2), (5)と(6)はそれぞれ別の意味の文ということになる。26 香川大学経済論叢 178
2
.
士 也 と 図
2,1 前節で,すべての肯定表現は同時に否定形に変換可能であると述べた。し かし同時に,すべての否定形は意味論的には,前提となる肯定形と表裏の関係 にあるという点も忘れてはならない。心理学では表裏の関係にあるものを図(
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と地(
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)
という概念を用いて説明する。われわれは眼前に広がる 光景のすべてを意識しているわけではない。意識のスポットライトがあたるも のだけを拾い上げている。スポットライトのらち外にあるものは見れども見え ず,聞けども聞こえずという状態である。たとえば夏の海を前にして,考え事 をしていたとする。「かんがえ事をしている状態のとき,外部環境と関係する感 覚器官の作用はおさえられる。その際,眼をとじたり耳をふさいだりしないか ぎり,外界の知覚は停止するわけではないが,それらはゲシュタルト心理学で いうところの,かたちが定まらず不分明な『地』となって沈み,逆に内的な思 考の表象を『図』として浮き上がらせるJ(野村雅一,前掲書, 158-159頁)。も の思いから覚めて,ふと眼前をよぎる漁船に気づいたとき,今度は漁船が「図」 として浮上する。その際,たとえかもめが飛び交い,白雲が浮かんでいようと も図化されているのは漁船だけで,それ以外はぼんやりとした不分明の「地」 の中に沈んでいる。 2州2 この「地」と「図」の関係を言葉のやりとりにあてはめて考えてみよう:(
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)
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(どこ1
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(映画だよ) (11)J
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(どこにも1'1
かない) (9)は無数にありうる行き先を「地」とし,その地をパックに,疑問(どこ?) を「図」として浮上させている。そしてその図は側ですぐに,映画館という図 によって置き換えられる。しかし(lU
のような回答の場合は,期待された図は浮179 言語的根拠,否定表現 -27ー かび、上がらず,かたちの定まらない不分明な図だけが広がる。この図は結果的 に地と同じものである。 地と図の関係はシマウマの模様と閉じで,どちらに注目するかにより,シマ ウマを「黒い縞のある白い動物」と見ることもできるし,-白い縞のある黒い動 物」と見ることもできる。太田朗はスイス航空の広告の見出しをヲ│いて,この 関係を説明する; 加藤泰彦提供の次例も同様なことを示している
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の広告の見出しの文で,S
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のカバーしない少数の 地域を地図で示して,人i
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と断わっている。つまりS
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のカバーす る地域が素地で,カバーしない地域が図形というわけである。(~否定の意 味h2
7
5
-
2
7
6
頁) ふつうは,本社の航空路線はどこそこをカバーしているという説明の仕方を する。この場合はカバーされている路線が図で,カバーされないその他の地域 は地のなかに沈んでいる。だがカバーされていないものより,カバーされてい る地域の方が多いときは,飛行機が飛ばない地域を図化した方が分かりやすい。 このやり方は日常的にも頻繁に用いられている。参加者多数の場合,-参加する 人」に挙手をしてもらうよりも「参加しない人」に挙手をしてもらう方が早い とか,試験などで問題紙を配り終えたあと,配付済みの受験生に挙手を要請す るよりも,-まだもらってない人はじと尋ねて未配付者の有無を確認する方が 早い,などである。 太田の例を借りてこの関係をもう少し見ていくことにしよう。以下はいずれ も適格性に疑問のある文である: (-28- 香川大学経済論叢
b
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There didn't stand a man in front of the home..C
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When did J ohn not arrive?d.. ? Where didn't you 1eave the keys? e.. ? How fast did John not run?
180 否定文は通例,肯定文を前提にしている。つまり否定文が何の前提もなしに, いきなり新情報を伝えるために登場することはないわけである。ところが(12)a, bでは否定文のなかに
aman
という不定冠詞に導かれた新情報が織り込まれ ている。そのためにαman
という新情報と,そもそも新情報を受け入れない否 定形式とが組酷をきたし,文全体がちぐはぐなものになっている。 C,d
, e の場合はどうだろうか。ここにはa,bにおけるような新情報と│日情報の髄酷 はない。ではどこに問題があるのか。こちらの適格性に対する疑問をうまく説 明するのが,地と図の関係である。否定と肯定の関係を,地と図という関係に 置き換えたとき,何も起こらない,何の特徴もないというのは,知覚の上では ゼロであり,地をなしている。それに対し,何かが起きた,しかじかの特徴が あるというのは知覚的に有標で,図が認められる状態である。つまり否定は地 をなし,肯定が図をなすことになる。ところが(12)Cの場合,もし何時に着いた という答が求められているのであれば,それは無限の潜在的時刻のなかのある ものにスポットライトがあたっており,図が浮かび、出ている状態である。しか し「いつジョンは着かなかったのか?」に対応する答は無限の可能性をもち, 図として何かを浮かび上がらせることは困難である。そこには相変わらず不定 形な地が広がるだけである。つまり(12)Cの非正常性は図が求められているとこ ろに,地しか滞かび、上がってこない点だ。同じことはdの「鍵をどこに置かな かったかJ,eの「どんなふうに早く走らなかったのか」についても言える。こ れらの文が唯一,図を現示し,適格性を帯びるのは,先程述べたスイス航空の 広告のように通常の図と地を逆転した方が分かりやすくなる場合である。試験 問題を受験生に配り終えたあとの確認では,誰に配ったかを問題にするより, 誰にまだ、配っていないかを問題にする方が分かりやすく,問題の立て方として181 言語的根拠,否定表現 -29-はその方が自然である。
3
.
概念の現示と「否定」
3.1 地が潜在的な無数の可能性を秘めたもの,図はその中からあるものを抽出 した状態と考えるとき,これは確かに言語のしくみをうまくとらえている。Ch. パイイは陰在的(
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)
という観点、によって,すでにこの関係 を説明した (cf~一般言語学とフランス言語学~)。ノてイイにとって冠詞も指示 詞も数調も所有形容調も,何も付かない語は陰在概念で,冠詞や指示詞や数詞 や所有形容詞など(パイイはこれらを現示辞a
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と呼ぶ)が付くこと ではじめて概念は顕在化する。この関係を地と図に置き換えて考えるなら,よ り分かりやすいイメージでとらえることができる。ただ,パイイは言語の本質 的性格を視野に入れているので,ここで彼の考え方を思い起こしておくことは あながち無駄なことではない。 3..2 パイイは概念が,文の要素として用いられるためにはそれがどういうもの として意識され,伝えられようとしているかを話者に分かるように示さなけれ ばならないとする: 概念は,文の辞項となるためには,現示されねばならぬ。概念を現示する(
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)
とは,それを話し手のく現実的〉表象と同定することである。 じじつ概念はそれじたいでは純然たる精神の創作物であり,陰在的であ る;それは類の概念(事物,過程または性質)をあらわす。ところが現実 は類なるものをしらない;それは個別者しか呈しないのである。(0"一般言 語学とフランス言語学~,7
7
頁) たとえばc
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(イヌ)は陰在状態では(mammif
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(飼い馴らされた晴乳動物で,人間のためにあ-30- 香川大学経済論叢 182 る種の任務を遂行すべく育成された多くの品種が存在する)という言語的規定 があるだけで,これに該当するものは無数である。これが
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の「地」でbある。 つぎにひとたび現示化されてc
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この犬)となると,無数にあった指示 対象は限定され,かつその特質は「個別化されているので,いかなる実践的経 験も汲みつくしえない無数の特質をふくむJ(同書, 78頁)ようになる。まさに 内包と外延は反比例の関係にあり,陰在状態で「限定された内包,無数の外延」 だったものは,顕在化されるやいなや「無限の内包,限定された外延」と化す。 図像として浮かび、あがるc
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は,そのようなものとしてわれわれに認識さ れる。あるいは「わたしの隣人がunema
おon(
ある一軒の家)を買ったと私に 告げたとすると,わたしはその家について何も知るところはないが,しかしわ たしの精神は苦もなくそれを現実的なもの,つまり他のすべての家とことなる ものと見なすことができるJ (同書, 78頁)。 否定はこの逆の過程をたどる。c
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の否定は,いったん個別化され,現 実化され,無限の特質をもっかけがえのない個的存在として「図」に描かれた 犬が,特徴のない,一般的な概念規定の「地」のなかにプエイドアウトしてい くプロセスである。unem
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の否定もまた,他のすべての家とことなるもの として思い描かれていた図像が解消され,やはりうすずみ色の「地」の中に消 えていく。なお付げ加えておくなら,パイイは名調の現示のみならず,すべて の文の辞項の現示化について検証を行っている。過程をあらわす動調も例外で はない。文法において活用されていない動調の状態はいまだ顕在化されていな い陰在状態にある。したがってそれを文法用語でinfinitf(非限定形)と呼ぶの はまことに適切な命名と言うことができる。4
.擬似肯定文
4..1 英語に1h
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という言い方がある。肯定文であるが,意味は否 定文に等しい。このように肯定の陳述形式をとりながら,事実上,否定の意味 をもっ文を擬似肯定文と呼ぶ、ことにしよう。次の3
つはいずれも擬似肯定文で ある:183 言語的根拠,否定表現 (13)
J
e voudrais vous voir.. U4) V ous pouvez sortir de la classe. ωQue sais-je?
-31ー (13)は条件法が使われている。条件法は(a)事実と反対の仮定, (b)語調の緩和を 意味する。基本の意味は(a)で, (b)はそこから派生した二次的な意味である。ど ちらになるかは場面=文脈次第だが,基本の意味の場合 rお会いしたいが,会 えない」ということを告げている。上品な拒絶である。 (14)は「きみたちは教室 から出ていくことができる」ということで,それ自体は否定的な意味をなんら もたない。しかしもしこれが授業中,私語にふけっているこ人の生徒に対し先 生の口から発せられた言葉だとすれば,事情は一変する。先生は「おしゃべり をするな」と“言った"のであり,おしゃべりをつづけたいのであれば出ていっ てよろしいと付け足したのだ。もしおしゃべりの生徒が教室を出ていく許可を もらったと,喜び勇んで教室をあとにしたとすれば,彼らは真の意味の否定命 令を理解しそこねたことになる。ωはCollectionQue sais-fe?にも使われてい る表現で,これ一つの意味が「私は何を知っているだろう,何も知らない。な らばクセジュ文庫を読もう」という三段論法になっている。修辞法の一つの反 語法で,いたずらをした子に「お利口さんねj,いらぬお世話の発言に「御親切 さまj,まずい食事に「ああおいしい!j等々と同類である。これらは地の上に 「図」を書きいれたかに見せて,実は何も書き込んでいないことを悟らせる。 このこ重の手続きのおかげで,受け手はいっそう強力に否定の意味を印象づけ られるのである。4
.
2
現実と,言語による虚構がもっとも緊迫し,息をひそめて対時する例がス タン夕、-}レの『パlレムの僧院』にある。まだ世間をろくに知らない主人公のフア プリスに向かい,叔母のサンセヴエリーナ公爵夫人が出世の知恵をつけるくだ りである:-32 香川大学経済論叢 184
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(ランドリアーニ閣下は卓れた精神を持ち,第一流の学者ですが,ただ一 つの弱点があります。つまり「人に愛されたい」という欲望です。だから 彼を見たら感動を面に現し,三度目の訪問のときには本当に愛しておしま いなさい。そうすればあなたの生れも手伝って,すぐ可愛がられるように なります。) 読者としては三度目の訪問において,ブアブリスがいかなる態度をとったの か,心底,ランドリアーニを愛し慕いきるのか,それとも迫真に迫る愛の擬態 を演じるだけなのか,それがいかなるニュアンスの「愛」なのかを見届けたい ところである。しかし作者はそれについて何も触れていない。というのも,事 態は三度目の訪問を待つまでもなかったからである。すでに最初の訪問におい てこの“高僧にして一流の学者"は,若者がファブリス・デlレ・ドンゴである と名乗り,家柄の高さを表す紫色の靴下をはいているのを自にして,自らうろ たえ,狼狽し,若者を下にも置かぬ鄭重な態度で迎え入れたからである。 確かにわれわれは,三度目の訪問をもって,一人の他人を心底愛してしまう 心の有り様をこの小説から知ることはできない。だが冷静なる計算のもとに, 一人の人妻を心底愛して見せ,拒みつづけた女がついに男を受げ入れようとし た瞬間,よし目的は達成したとばかり,女のわきをすりぬけて立ち去った男が いる。菊池寛『藤十郎の恋』に描かれた狂言師,藤十郎である。藤十郎はこの 残酷な経験を芸のこやしとし見事舞台を演じ終え,さすが三国一の名人とほめ そやされる。だがそのかたわらで芸のおもちゃにされた茶屋の女房お梶は首を くくって命を断つという結末を迎える。ここでは明らかに ,Ue t
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ι〉とい う肯定表現とUen
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ふ〉という否定表現は,現実を少しも反映しな い空疎な実体と化している。この実体は言語の上だけでリアリティをもち,言185 言語的根拠,否定表現 33-語によってのみ根拠をあたえられた実体である。見方をかえれば,言語的根拠 しかあたえられていないものによって,一人は「さすが三国一の名人」という 称讃を博し,一人は役者の楽屋の片隅の梁で,首をくくるという悲惨な最期を とbアたことになる。
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. 終 わ り に
本論では言語に特有な現象としての否定に焦点を当てた。あらゆる肯定文は 否定文になりうるが,しかし無条件というわけではない。適格な否定文を得る にはいくつかの条件を満たさなければならない。一つは否定文は新情報を含み 得ないということ,もう一つは「地」と「図」の関係において図を浮かび、あが らせない否定は意味をなさないということである。また本論では擬似肯定文と いう,これもまた言語固有の否定形式について言及した。言語的根拠があたえ られて初めて成り立つ否定というものの特質に関しては,擬似肯定文もふくめ て,まだ多くの研究の余地を残している。 参 考 文 献 (1)JacquesLizot, Le cercle des feux, Faits et dits des lndiens yanomami, Editions du Seuil, 1976 (守矢{言明訳『ヤノマミ』パピルス, 1997) (2) 井上ひさし『自家製文章読本』新潮社, 1984。
(3) 野村雅一『しぐさの世界,身体表現の民族学』日本放送出版協会, 1983。
(4) Desmond Morris, MANWATCHING, Elsevier Publishing Proie.cts SA, 1977 (藤田 統訳『マンウォッチング』上・下,小学館, 1991)
(5) 太田朗『否定の意味』大修館書庖, 1980
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(6) Ch Bally, Linguistique generale et linguistique francaise, Editions Fancke Berne, 1965 (小林英夫訳『一般言語学とフランス言語学』岩波書庖, 1970)
(7) Stendhal, LA CHARTEUSE DE PARME, FLAMMARION, 1981 (大岡昇平訳『パ ルムの僧院』中央公論社, 1965)