連邦憲法裁判所よ、いずこへ(1)
著者名(日)
ヨーゼフ,イーゼンゼー[著]/名雪,健二[訳]
雑誌名
東洋法学
巻
43
号
1
ページ
139-125
発行年
1999-07-30
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00000447/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja東洋法学
【翻 訳】連邦憲法裁判所よ、
いずこへ(1)
著訳
一ニ
ゼ
ンゼ健
一
ゾ
フ雪
ゼ
一
ヨ名
連邦憲法裁判所が何十年にもわたって獲得してきた権威は、危機に陥る と至るところでいわれている。それは、首尾一貰しない判決の結果である という。しかしながら、その危機は、思い込みにすぎず、または風聞がも たらした結果にすぎないのであろうか。この危機は、連邦憲法裁判所がそ の創設以来、たびたび耐えなければならなかったような、しかもその都度、 より強力になって克服した軋礫ではないだろうか。これは、立憲国家が存 在し、絶えず再生する整合性のある、かつ有益な対立関係ではないだろう か。 1996年のカールスルーエにおけるこのドイツ法曹大会の基調講演では、 当面の判決を甘んじて受け入れる問題をきっかけに、憲法裁判の根拠づけ およびそれが危険に晒されること、憲法裁判の自由国家における機能とそ の限界を考察する。 「主よ、いずこへ」。主は、弟子達がついていくことができないところへ いくことになっているという別れの言葉で宣告したとき、使徒ペテロがこ の問いを提起した。ヨハネ13、36のコンテクストで、その問いは、主人に 見捨てられる弟子の不安の表情であり、主のはかりしれない仕方に対する 途方にくれたようすの表現である。中世の黄金聖人伝によると、ペテロは、 後にローマの門前でまぼろしの出会いにあたって、再び「主よ、いずこへ」連邦憲法裁判所よ、いずこへ(1) と問う。それは、ペトロがまさにみずからが間違った途に進み、その天命 に背こうとしているところの問いである。もとの意味を一般的に忘れ、そ の引用を使い古した今日では、その問いは別の意味をもつようになった。 つまり、その問いが向けられる人は、その方向性を見失い、その天命に背 を向ける恐れがあるという意味で使われる。 連邦憲法裁判所よ、いずこへ。このドイツ法曹大会の問いには、以下の すべての要素が混じっている。すなわち、師に匹敵する制度に対する従順 と順応、もはやついていくことのできない苦痛、当該憲法裁判所がこれま での正しい途からそれるとの懸念、絶望感の兆候、反面、揺るがすことの できない期待および信頼を避けられないことへの納得などである。 ペトロから連邦憲法裁判所への連想は、いたって自然のことである。前 者は、最高の司牧職であり、後者は、天の下でみずからを超えるものを知 らない立憲国家のかの最高の審級であり、憲法解釈の鍵をもち、憲法上解 き、かつ繋ぎ、裁判所の地位を超え最高の教導職となり、その発言は裁判 所判決の表現の仕方よりはむしろ回勅に似ている。 ” 憲法史的にみると、連邦憲法裁判所が体現するような権威の発展は、あ りそうもないといってよい。多数の伝統的、または現代的な原則を巡った 疑念が、この権威の発展を妨げる。すなわち、それは、憲法裁判所による 憲法解釈が裁判でなくて、立法、それどころか最終的には漸次的憲法制定 であり、その憲法解釈が政治を司法問題化し、司法を政治問題化し、その 際政治はうるものは何もないが、司法はすべてを失う恐れがあり、その憲 法解釈は別の手段を用いた政治の継続であり、民主主義国家が司法国家に 変貌し、憲法裁判所の裁判官が政治的・社会的先入観のとりこであるとい う。基本法は、ヴァイマールおよびヴァイマール以前のあらゆる異議を克 服して、明確に連邦憲法裁判所の設立を決定した。近・現代の法理論や国 家論の疑義は、現実によって引き倒される。理論的に不可能なものは、匹 (2) 138
東洋 法 学
敵するもののないサクセス・ストーリーにおいて現実となる。文化的革命 の反制度的感情も、連邦憲法裁判所という制度にあたって砕ける。権威に 懐疑的な社会においては、真の権威が展開される。 基本法において、ドイツ共同体は、法の支配に服する。しかしながら、 法は解釈においてのみ支配する。解釈権は誰にあるのか。規範の解釈者に 関するホッブスのこの最初の問いは、その内容に関する問いに重なり、そ の結果を先取りする。憲法の性格は、紛争において解釈する審級の在り方 によって大幅に規定される。基本法は、最終決定権を議会に与えるイギリ スの伝統、また、それを国家元首に与えるフランスの伝統の解決を受け入 れなかった。基本法は、立法者に対しても、行政部に対しても、同様に不 審を抱き、行動する両権力がその支配にしたがうべき憲法の基準をみずか らがかかわる問題において左右させることを認めていない。第3権力は、 統制すべき行動に対して制度的に距離をおき、当該権力が民主主義的ルー ルおよび法治国家的限界を規定すべき政治上の権力争いの外にあり、決定 すべき紛争に巻き込まれていない。憲法の信頼は、この第3の権力に向け られる。 連邦憲法裁判所による解釈の中で、真の法規範としての基本法は、実際 的効力を有するようにと発展する。すべての市民は誰でも、基本法のいう ことを言葉通り受け取ってもよい。基本法は、国家権力のあらゆる行為に 対する優位を主張する。法の支配が現実となる。連邦共和国は、司法国家 の特徴を発揮し始める。一般的な理解において、憲法は、連邦憲法裁判所 による解釈と一致するとみなされる。この解釈の中で、憲法条項という些 細なカラシの種子は、絶え間なく枝を張りだし続け、より生い茂って枝を だし、国家的空間のすべてを覆う繁茂した樹木になる。 連邦憲法裁判所は、その機能において、基本法の立憲国家の装飾ではな くて、死活にかかわる、かつかけがえのない機関である。その機能障害は、 全国家に損害をおよぼす。それは、連邦憲法裁判所の存在自体を問題にし、 時代遅れの根本的な異議を再び引き起こすことの弁明の理由にはならない。連邦憲法裁判所よ、いずこへ(1) 連邦憲法裁判所は、国家行為と法律行為のすべてに対して責任をもって いる。外交政策や対ヨーロッパ政策など、行政の典型的な専属分野は、そ の統制に服する。憲法改正権を有する立法者さえも、憲法条項の憲法違反 というカールスルーヘの判定を恐れなければならない。しかし、連邦憲法 裁判所は、国家組織上のいかなる敵も恐れない。もともとの学問上の使命 に反して、松明で憲法裁判の前方の足元を照らすのではなくて、(カント の翻案によると)甘んじてその後塵を排するような憲法裁判の下女として 振る舞う国法学をも恐れない。 連邦憲法裁判所に与えられた権限は、歴史的には例がない。権限という のは、法律学が力をさす言葉である。より厳密にいえば、それは、法的に 規定された力の一区分である。それゆえに、権限の大量に鑑みて、これを 裁判官の力といっても差し支えないであろう。裁判官の選挙は、議会の選 挙よりは長期的に連邦共和国の姿により深い影響をおよぼしうる。それに も拘わらず、モンテスキュー時代同様、裁判官の力は、今日でもなお「あ る意味ではゼロ」である。というのは、他の国家機関が有するような命令 権、発議権および執行権が、連邦憲法裁判所にはない。連邦憲法裁判所は、 みずから強制することができない公職についた人や市民の法服従に頼らざ るをえない。最高の決定権限があらゆる機関のうちでもっとも弱いもの、 もっとももろいものにあるというところに、まさに基本法上の権力分立の パラドックスがある。その手段は、言葉、論証、判決である。力があると いえば、その力は公衆の信頼にある。そうであるならやはり力である。連 邦憲法裁判所は、選挙民に法的に依存しているわけではないにせよ、信頼 という日々住民の決定の中でその地位を確保しなければならない。その際、 自己のための宣伝方法としては、その裁判の法律的説得力しかない。連邦 憲法裁判所は、何十年にもわたって十分に説得力を獲得した。しかしなが ら、その説得力を当然のこととして受け止めるわけにはいかない。 (4) 136
東 洋 法 学 1” 何十年にもわたって築き上げてきた信頼は、短期間に急落し、同意が拒 否に、尊敬が軽蔑に、感嘆が叱責に転換した。「殺人」事件決定とキリス ト十字架像事件決定1)に対して起こった批判は、他の裁判に対しても行 われ、ついには連邦憲法裁判所そのものの構成や存立に波及した。その批 判を行うのは、政治に関与する者だけでもなければ、主としてそこから発 生するわけでもない。専門裁判所は困惑している。かつてない頻度と程度 で、市民の心に抗議が芽生える。センセーショナルな裁判は、ツキュディ デスの意味での原因ではなくて、火の粉を長い間轡積した不満と嫌悪の火 薬樽へという誘因にすぎない。憲法を当然のこととして最高の職権解釈と 同一視する従来の態度は衰退する。両者の間に矛盾が現われてくる。連邦 憲法裁判所は、一夜にして宗教改革勃発の時代の教皇制と同じ状況にある ようにもみえる。 最近の裁判の反対者も支持者も、連邦憲法裁判所がその正当性の危機に 陥ったと意見が一致している。 しかし、主張と現実は、一致するのであろうか。その危機は、思い込み にすぎず、または風聞がもたらした結果にすぎないのであろうか。この危 機は、連邦憲法裁判所がその創設以来、たびたび耐えなければならなかっ たような、しかもその都度、より強力になって克服した軋礫ではないだろ うか。立憲国家が存在し、絶えず再生する整合性のある、かつ有益な対立 関係ではないだろうか。この危機 それが本当に危機であるとすれば は、当該憲法裁判所の危機よりはむしろ批判者の危機ではないだろ うか。連邦憲法裁判所は、妨害者ではなく、犠牲者ではないだろうか。 「ババリアよ、いずこへ」、われわれのテーマの矛先を裏返すべきではない だろうか。 全体にみて、連邦憲法裁判所は、以前として機能的である。判決の大部 分には、異議がない。当該憲法裁判所を収容能力窮地に陥れるおびただし
連邦憲法裁判所よ、いずこへ(1) い数の憲法訴願は、減ることがない。しかも、この市民訴訟において、相 変わらず信頼の現われが、当該憲法裁判所に殺到する。その正当性の源は 枯渇していない。収容力の危機は正当性の危機の診断を相対化するが、そ れを否定はしない。この収容力の危機はまた、その正当性の危機から注意 を逸らしてはならない。 今日になって、批判と弁護は陣営を交換し、ヤギと庭師「猫とかつおぶ しの番人」がその役割を取り替え、つい昨日まで品位に関して躊躇し、堕 胎事件判決や原子力事件判決を論駁し、今日もなお、庇護権事件の譲歩に 関する判決をも攻撃する者が、「殺人」事件決定およびキリスト十字架像 事件決定の批判者に節度とスタイルを促すことに対して、昨日まで他者か ら法への服従を要求した者が今日になって相手から同じことが要求される ことになった。新しいものというのは、こういうことに限るのであろうか。 二極化させる裁判は、いいことをももたらす。つまり、法への服従がす べてのものにとって不可欠であり、それが官権国家の遺物(r権威主義的な 法律尊重主義」)ではなくて、法的安寧の条件であるということが各方面で 認識されることになる。基本権的自由、民主主義への参加および法治国家 的保護の保障は法への服従の必要を弱め、その適用を遅らせるが、その必 然性を解消しない。遅くとも、最終審の段階で、それを痛感させられる。 立憲国家は、心意ではなく外的行動だけを基準とすることによって、その 自由を身のあるものにする。市民がしたがう規範を内心受け入れるか、そ れとも拒否するかは、個々の市民に任されている。 立憲国家の正常状態において、正当な不服従を認める余地はない。抵抗 権は、法侵害の程度が法的安寧の価値を著しく上回る重大で、明白な不法 行為の極端な場合においてだけ発生する。この極端な場合は、連邦憲法裁 判所のいうことを言葉通りにとるならば、当該憲法裁判所の行為にとって も起こりうる2)。最高の裁判所は誤りを犯しうるが、その批判者もである。 裁判権は誰にあるのか。立憲国家の平和的秩序では、裁判官が決定する。 しかし、それは、無制限の裁量も与えない。連邦憲法裁判所は、同意をう
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東 洋 法 学 るために服従義務をあてにするべきではなく、判断力と論証力を大いに働 かせなければならない。政治に関するイギリスの格言は、次のように途を 教える。すなわち、公職についた者は、抵抗権があるごとく行動すべきで あり、市民はそれがないがごとく行動すべきである、と。
V
ー 連邦憲法裁判所は、法律上専門的な批判からも、政治的な批判からも逃 れられない。連邦憲法裁判所は、批判を必要とし、それに耐える。批判は 自由な共同体の生命の仙液であり、公共の役に立ち、国家の支えであると いうことを連邦憲法裁判所が未熟なドイツ民主主義に与えた教えの一つで ある。それは、とくに連邦憲法裁判所自体に対する批判にもあてはまる。 連邦憲法裁判所は、国家機関の制度的統制下にないので、社会からの公然 たる統制が必要なバランスを創らなければならない。 連邦憲法裁判所は、意見表明の自由と芸術の自由に関する裁判で、誰も 政治的論争に加わることを妨げられないように3)、この論争を緩和しえた 法的原則を無視した。今や総動員の国民が、連邦憲法裁判所自体に向けら れる。市民の怒りと抑制のきかない爆発が、当該憲法裁判所に意外な念を 起こさせているはずではない。 スタイルの堕落は、正当性の危機とは違う。もっとも、私人が発言する か、それとも公職についた者が発言するかの間には違いがある。基本条約 に関する手続の間、政府の陣営からカールスルーへの裁判官達に投げかけ られた排泄物関係の侮辱を超えたものはない。連邦憲法裁判所がはなはだ しく法の途からそれたという初代の連邦法務大臣の侮辱以来、当該憲法裁 判所は、鍛え上げられている。ついでにいうと、このことで、トーマス・ デーラーは、職を失うようなことになった。その後、彼の運命が連邦共和 国の公職についた者の間で二度と起こらなかったということは、礼儀作法 が改善されたことを意味しない。しかし、上級地方裁判所がカールスルー へからの基準にしたがう敬遠した皮肉な調子は新しい4)。奇異ではある力乳連邦憲法裁判所よ、いずこへ(1) 危機の兆しではない。 それに対して、連邦憲法裁判所がその内部から受ける批判は、憂慮すべ きである。劣勢な裁判官は、その少数意見を「部会多数」、または「部会」、 要するに、連邦憲法裁判所を批判するために悪用する。だが、少数意見た る意味は、異なった意見を表明することだけでありえ、決定の酷評、まし てやその一方的な解釈のし直しにあるわけではない。反対意見の描写は、 論駁なしでも可能であるということをいくつかの少数意見(例えば、r森で の乗馬」事件に関するもの)が5)証明している。近頃、少数意見は、ます ます激しい判決の非難に陥っている。それらの少数意見は、連邦憲法裁判 所が論理の最低限度に違反し(それだけ「一貫性がない」〉6)、「実体がなく、 かつ説得力なく」論証し7)、裁判を「曲解」し8)、憲法原則を避け、それ を「まさに取り替え」9)、憲法機関の忠誠を空文化し10)、「基本法によって 定められた立法者と憲法裁判所間の権力を分立する関係の変更をさらに助 長」し11)、立法者に対して「権威主義的な命令者」の態度をとり12)、当該 憲法裁判所によってはっきりと示された「決定の根拠となる理由」が実際 には争訟の対象外にある13)と、部会、つまり、当該憲法裁判所を非難す る。最終的には、連邦憲法裁判所の行動が、権限を越えたゆえに、注目に 値しないと吹き込まれる。このように正当性が否定された判決は、いかに して一般的な容認をえることができるのであろうか。意見の相違者に対す る安易な賛同、つまり、デュレバマン効果は、制度の負担で与えられる。 文献上であるなら正当で、かつさっぱりした威勢のいい非難が公式に発表 された裁判官の少数意見に含まれているならば、職務の忠誠の取り消し、 法廷上の自己破壊を意味する。法律学上の専門雑誌における批評家のよう な低い生物にとりふさわしいことが、カールスルーヘのオリュンポス山の 神々にとっては許されていない。
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信頼の危機のより深い理由を追求したい者は、状況を分野別にみなけれ(8) 132
東 洋 法 学 ばならない。大雑把にみて、憲法裁判に三つの緊張の領域を取りだせる。 つまり、 一政治過程について、 市民の法意識について、 専門裁判について、である。 ここでは、健全な通常状態、ドラマティックな爆発、表にでてこない構 造の歪みという違ったイメージが現われる。 Vl 連邦憲法裁判所と議会および政府のような政治過程の諸要素、加えて権 力エリートおよび社会分野において影響を主張する者との間、要するに、 障害がもっとも起こりそうなところでは、今日実際問題として正常は支障 でなく作用している。ここでは、自由と法の実現のために解消されるべきで はなくて、我慢すべき本来の緊張関係が存在する。政治的な力がしばしば 連邦憲法裁判所の統制に反発することは、当然である。憲法の優位は、連 邦憲法裁判所がその統制権を放棄しない場合に保障される。しかしながら、 この条件は、政治的諸権力と距離を保たなければならず、それらと依存関 係に陥ってはならないので、永久に困難である。連邦憲法裁判所の上にあ る警告のしるしは、「政治的司法」である。 ドイツの政治は、あくまで国家共同体の頼りになる、かつコンセンサス の淵源である憲法を必要とする。屈折していない自信を有する国々におい て、歴史的・文化的・民族的要因が内部的結束に貢献するものの代わりは、 ドイツでは基本法である。政治的な力は、しばしばカールスルーへの裁判 による教訓、刺激および負担の軽減を待ち望む。政党間には、その時その 時の好ましいカールスルーへの判決を選択的に実行する競争が行われる。 その目的実現および権力拡大を目指して、憲法の権威をもたせるために、 諸政党も、憲法上問題のないやり方で憲法解釈を行う。政治的紛争が憲法 紛争としても行われ、かつ憲法的に解明される場合には、裁判上の論証が
連邦憲法裁判所よ、いずこへ(1) 政治的なものの後に続き、よって結果がどうなろうと、対立平定の機会が 余分に開かれることは、憲法的理性の策略であろう。労働争議における中 立性、経過措置、連邦国防軍の出動、庇護権の妥協のような厄介な問題が 示すように、連邦憲法裁判所は、とくにこの数年間において何度も対立平 定に成功した。 政治的に動機づけられた訴訟の提起は、危険を伴うわけではない。しか しながら、場合によって、マーストリヒト条約の批准のごとく、政府与党 と野党の議会上の対立が実際問題としてなくなり、国民の不安に対して議 会の代弁者がえられない場合や、連邦と州が権限を越えて、また、財政体 制を無視して憲法を素通りした厄介な問題にあらゆる政治的勢力が申し合 わせる場合に、憲法上の微妙な問題において、憲法的に解明しないときは 危険が起こりうる。マーストリヒトの場合、憲法訴願は、少なくとも、公 然な論証を開いたし、また、立憲国家的合理性の注入によって、国内的な 平定をもたらし、かつ(あらゆるヨーロッパ法的抗議にも拘わらず)超国家 的発展過程に限度を設けた14)。しかしながら、憲法的に難しい問題に関し て政治的階級が共同して振る舞う場合に、憲法訴願は、(それがいくら寛大 に受理されたとしても)統制の欠陥を補うことはできない。 政治的階級の憐欄からみて、議院内閣制は、ガリバーのごとく、司法部 という小人の島で、ますますきちきちのより糸によって縛りつけられるよ うにみえる。しかしながら、政治的階級は、苦しむことなく不平をいう。 このガリバーは、その判例法上の戒めを延ばし、張り詰めさせ、必要とあ れば、その戒めから抜けでることを覚え、あるいはそれがないところで戒 めを装うことを覚えた。 ドイツ外交が域外問題において、その憲法論証の救いようのない有り様 で自縄自縛に陥ったとき、連邦憲法裁判所は、ドイツ外交を解放し、また、 それに外交上の余裕と責任を返還した。一旦救難者として呼ばれれば、そ れで顕著な憲法上の欠陥を埋め、かつ憲法改正権者もこれ以上機能的に規 定できないように不文の議会留保を確立する15)。実にソロモン王のような
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東 洋 法 学 賢明な思慮であった。ただし、司法的に検討すべきではない。 確かに、カールスルーヘからの基準が増えている。庇護権妥協の複雑な 文言が示しているように、今日、3分の2を占める憲法改正権者にとって でさえ、新たな憲法によって憲法判例法に交代させるのは難しい。しかし ながら、ドイツの政治が身動きできないところで、それを麻痺させるのは 判例法ではない。政治的力は、それを先例の実行に限定するにはあまりに もあらっぽく、原始的で、活動的でありすぎる。他面では、連邦憲法裁判 所は、規範の再可決の禁止を硬直的に固執するわけではないということに よって、みずから法律上の拘束力の範囲を切りつめる16)。 連邦憲法裁判所は、倫理的な基本的不合意を超えて、堕胎問題を憲法に 適合する形で規定させるよう立法者に妥協の余地を残している。助言制に 関する厳格な基準は、未出生に対する基本権上の保護義務のありうる取り 下げの極端な制限に関係するにすぎず、また、立法者は、まさにその遂行 において、これまで基本権的政策的に最大限に活用することについての熱 意をほとんど示さなかったという17)経験に基づく以上、政治に負担をか けざるをえないわけではなかった。その慎重さは、連邦の立法者がこれら の基準をも一つの重要な点において、裏をかくということを妨げなかった。 一方、これらの基準を実現しようとするバイエルンの立法者は、連邦立法 者の意図と衝突する。この茶番狂言において、誰が憲法に忠実であるのか。 立法者が怠惰、または内気から、厄介な憲法の立法委託を果たさないと ころで、連邦憲法裁判所は、立法者に有益な圧力を加える。息切れのする 財政政策的、または支持母体の優遇政策的措置によって、常に拡大される 租税法の規範的混沌さを首尾一貫した透明で、公正な租税法に切り替わる という不文の委託が、その例の一つである。ここで、負担の公正さの憲法 上の制度的考えを明らかにし、かつ租税高権に対して基本権的自由の保障 のこれまでの無防備な側面を閉めるのは、有権者の恩恵に頬る必要のない 連邦憲法裁判所である18)。自由権および平等権を基にする憲法上の基準の 解明が、大胆な制度的展望を必要とすることは容易にわかる。
連邦憲法裁判所よ、いずこへ(1) 全体として、40年間を超えて、為政者と連邦憲法裁判所は、息が合って いる。行動する機関と統制する機関との間の権力分立は、正常である。 V” 麻薬19)、座り込み封鎖20)、名誉保護21)、キリスト十字架像22)に関する司 法の領域において、政治的階級とまったく違った反応を示すのは市民であ る。これらの判決の内容的分析は、いくら自分の考えを正直にいっても、 ここではテーマではない。しかし、これらの判決がなぜ連邦憲法裁判所の 評価にこんなに大きな打撃を与えたのかが、追求されるべきである。 抗議は、それぞれの立場に応じて受け入れ、または対抗する政治的階級 からではなく、われわれの高度に発達した抗議文化の習慣的、かっ専門的 担い手からでもなくて、下から、つまり、声無き大多数の大衆=国家的忠 誠および憲法的忠誠が、そのことを語る必要がないほどに一般的に自明で ある住民の階層からである。 堕胎を巡る訴訟とは違って、ここでは判決に先行する立法手続や各界の 議論が事前にない。議会がこれらのテーマのどれをも取り上げて、同じよ うに決定しようとしたとは、どうみても考えられない。これらの決定は、 奇襲の印象を与える。連邦憲法裁判所は、基本的な法原則の防護者として ではなく、独断的な発動家として振る舞う。まさに、それゆえに、連邦憲 法裁判所は、激しい異議を招く。 しかしながら、抗議する数多くの者は、はたして彼らが批判する複雑な 判決を理解したであろうか。抗議の波は、単に誤解から生じるわけではな いのか。正当性の危機は、結局のところ、認識の危機に帰するのか。 実際に、分極化した判決は、荒っぽく、歪められたし、また、選択的に 理解された。複雑な文章に鑑みて、それは不思議なことではない。もっと 一般的にいえば、ますます洗練されてきた、留保や衡量を伴う基本権裁判 ははたしてその生存に関係ある市民にとってまだ理解可能であるのか、ま たは内部的公表の欠陥にかかっていないのであろうか、という疑問が投げ
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東 洋 法 学 かけられる。より玄人らしいピーアール活動や裁判官のインタビュー活動 の増加、欲をいえば、判決の作成におけるもっと慎重な編集上の注意によっ て解決できるような問題ではない。 それでもなお、あらゆる統覚の難しさを超越して、世論は、その時その 時に正しい核心を把握した。それは、まさに「兵士は殺人者だ」事件の決 定についてあてはまる。その決定において、兵士に対する名誉保護は基本 的には保持されてはいるが、さまざまな留保によって著しく遮られる。そ の諸断言のごたまぜをもったキリスト十字架像事件の決定において、法倫 理的なとげが、はっきりと認識できる.裁判のうち、「伝わった」部分は、 これまで基本法がその法意識と一致すると思い込んだ素朴な市民の心情が なぜ荘然とするかを十分に説明している。この市民の心情は、基本権を不 道徳な法に対する保護として、また、それにとり神聖であるものへの国家 的干渉に対する防護として理解したところ、基本権の名において、兵士が この上ない中傷に晒され、また、キリスト教のシンボル、ヨーロッパの文 化的アイデンティティー、その倫理的理想である十字架が、学校から遠ざ けられるということを今や知る。ドイツ人は、何十年も繰り返し繰り返し 不道徳な法がもともと拘束力をもたないということを聞かされていなかっ たのか。それは、連邦憲法裁判所によって宣告される法にもあてはまらな いのか。 1962年に、創設10周年の祝典に際して、ルドルフ・スメントがその記 念講演で、察するところ列席裁判官の沈黙の賛同下で述べたように、連邦 憲法裁判所を道徳的な審級と考える者は、ここで当該憲法裁判所に絶望し そうになる。スメント曰く、「連邦憲法裁判所は、明示的に正義と善をそ の決定の基礎にすることによって、これらの最高級の価値の支配を求めて 戦う」23)。スメントのテーゼは、今日ナイーブに聞こえるかもしれない。 それとも過度に、まさに記念講演のお世辞のごとく。妄想をもたない日常 の法律学者は、ここで「正義と善」が今日もはや自明のものではないとい うさめた反応をする。多元的社会においては、それに関する相違は正当の
連邦憲法裁判所よ、いずこへ(1) ものである。連邦憲法裁判所の判決は、「正義と善」から正当化するので はなくて、権限と手続から正当化する。すなわち、真実ではなくて、権威 が判決を下す。 憲法実証主義者は、この反批判に甘んじるかもしれない。しかし、残る のは、実質的な基本的意見に関する相違と同時に、法意識の悲惨な負傷お よび何故という質問である。 1)β『V6麗,Kammerbeschluβv.19.9.1994=NJW1994,2943f。,und v 10.10.1995,EV6斑E93,266ff.二JZ1996,360修%o沌)(,,Soldaten sind Mδ rder“);Beschluβv.16.5.1995=B『V6耀E93,1ff.=JZ1995,942(dazu ノレ∫銘Zl6処1/ol66h7,S.996) (Kruzifix). 2)VgL Leitgedanken in B76麗E3,225(232f。)15,85(377f.) 3)B『V6耀E54,129(139)185,1(22f.). 4)OL(}Bα%z66堰,Beschluβv11.1.!994二DRiZ1994,423(424ff。). 5)β『V6糊80,137,164ff.一Sondervotum. 6)B’V勿GE94,166(223)一Sondervotum,abgedr.in:”Die Urteile des Bundesverfassungsgerichts vom14.Mai1996zum neuen Asylrecht“, JZ−Sonderheft1996,55(57f.). 7)β7勿GE93,121,149(155)=JZ1996,31,36(38)一Sondervotum 8)Sondervotum,in:JZ−Sonderheft(Fn.6),S.57 9)Sondervotum,in:JZ−Sonderheft(Fn.6),S。58. 10)Sondervotum,in;JZ−Sonderheft(Fn.6),S.58。 11)βy6耀E93,121,149(151)=JZ1996,31.36−Sondervotum。 12)B『V6耀E93,121,149(152)二JZ1996,31,36(37)一Sondervotum。 13)B『V6麗E93,121,149(150,151)=JZ1996,31,36−Sondervotum. 14)BIV6η℃E89,155ff.=JZ1993,1100(dazu O詑z,S.1081). 15)8V6縄90,286(381ff.)二JZ1994,1062,1071(m.Anm.∬6%%)。 16)By6耀E77,84(103f£)in Abweichung von By6耀E1,14(37),69, 112(115ff.). 17)B76縄88,203(251ff.)二JZ1993,Anhang nach S.1172,S。16(dazu S如κh,S.816). 18)BIV6フフ℃E93,121(133ff)=JZ1996,31(1Vog61);93,165(172f五)二J’Z (14) 126
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(233) ; 67, 290 (297) ; 68, 143 (152f.) ; 82, 60 (83ff.) ; 84, 239 (268ff.) ; 87,
153 (169ff.) .
19) BVerfGE 90, 145 (17lff.) =JZ 1994, 852 (Gusy).
20) BVerfGE 92, I (1lf.) =JZ 1995, 778 (Gusy, dazu auch Hruschka, S.737) . 21) BVerfG, Kammerbeschlu v. 19. 9. 1994=NJW 1994, 2943f. ;BVerfGE
93, 266 (289ff.) - ,,Soldaten sind Mdrder". Zuvor BVerfGE 86, I (1lf.) =JZ 1992, 974 ,,geb. Mdrder". Weit. Nachw. zur Ehrenschutzjudikatur u. Fn. 33.
22) VerfGE 93, I (15ff.) =JZ 1995, 942 (943)
23) Rudolf Smend, Das Bundesverfassungsgericht (1962), in : ders. Staats-rechtliche Abhandlungen, 31994, S. 581 (593) .