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―パイン・リッジ保留地のミッション・スクールの事例から―

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(1)

博士学位論文(東京外国語大学)

Doctoral Thesis (Tokyo University of Foreign Studies)

氏 名 鈴木 泰子 学位の種類 博士(学術)

学位記番号 博甲第230号 学位授与の日付 2017年7月26日 学位授与大学 東京外国語大学

博士学位論文題目 保留地におけるカトリック・ミッションの存在とラコタ・アイデンテ ィティ形成への影響

-パイン・リッジ保留地のミッション・スクールの事例から-

Name Yasuko Suzuki

Name of Degree Doctor of Philosophy (Humanities) Degree Number Ko-no. 230

Date July 26, 2017

Grantor Tokyo University of Foreign Studies, JAPAN Title of Doctoral

Thesis

Missionary Schools to educate the Native American and their influence on the formation of native people’s identity;

-A case study of the Pine Ridge Indian Reservation-

(2)

保留地におけるカトリック・ミッションの存在と ラコタ・アイデンティティ形成への影響

―パイン・リッジ保留地のミッション・スクールの事例から―

鈴木 泰子

(3)

図表一覧

[図表1] 北米先住民文化圏の分布。 13

<http://www.warpaths2peacepipes.com/native-american-indians/native-american- map.htm.>より添付。(2016年5月26日)

[図表2] ラコタ族の関係図。 13 Jan Cerney, Images of America-Lakota Sioux Missions South Dakota, Charleston, South Carolina, Arcadia Publishing, 2005. p.8より作成。

[図表3] 多州に亘っていたグレート・スー保留地。 16 出典)North Dakota Studies, <http://ndstudies.gov/content-great-sioux-reservation>

より添付。(2016年6月14日)

[図表4] 分断された現在のスー保留地。 16 The National Atlas of the United States of America,

<https://nationalmap.gov/small_scale/printable/images/pdf/fedlands/SD.pdf>より添付。

(2016年6月14日)

[図表5-1, 5-2] アメリカ先住民人口の内訳。 18 出典)U.S Census Bureau, ‘’Population by Hispanic or Latino Oregon and by Race for the United States:2000 and 2010’’ Table 1, ‘’Two or More Races Population by number of Races and Selected Combinations for the united States:2010’’ Table 4 より作成。

<https://www.census.gov/> (2016年7月12日)

[図表6] 寄宿学校と通学制学校の学校数、及び在籍者数の推移。 26 Francis Paul Prucha, Great Father, University of Nebraska Press, 2002. p.816より作成。

[図表7] 各キリスト教宗派への先住民管理の割り当て。 67 Francis Paul Prucha, The Great Father, pp.517-519より作成。

(4)

写真一覧

[写真1] アメリカ4大統領の彫像。(2012年9月17日、筆者撮影) 20

[写真2] 制作途中のクレイジー・ホース像。(2012年9月18日、筆者撮影) 20

[写真3] パイン・リッジ保留地の入り口を示す看板。(2012年9月12日、筆者撮影) 22

[写真4] 部族経営カジノの入り口に掲げられた看板。(2012年9月12日、筆者撮影) 22

[写真5] 硫黄島の擂鉢山に星条旗を揚げるアメリカ兵士。 31 出典)<http://www.iwojima.com/>より添付。(2016年4月20日)

[写真6] ナヴァホ暗号部隊。 31 出典)Code Talker Colored, <http://www.ww2incolor.com/us-marines/navajo_ code_

Talkercl.html>より添付。(2016年4月20日)

[写真7] 同じ児童による、入学前と入学後の比較写真。 38 出典)Photos : Before and after Carlisle, <http://www.radiolab.org/story/ photos-before-

and-after-carlisle/>より添付。(2016年7月21日)

[写真8] ガートルード・シモンズ・ボニン(Gertrude Simmons Bonnin、 40

ラコタ名Zitkala-Sa)。小説家、バイオリニスト、音楽教師に加え、

アメリカ・インディアン協会の幹事も務めた。

出典)<https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Zitkala_Sa_1898_with_violin.opg>

より添付。 (2016年7月23日)

[写真9] カーライル・インディアン・スクール・バンド。 40 出典)Indian Boarding Schools, <http://www.californiaindian education.org/ indian_

boarding_schools>より添付。(2016年7月24日)

[写真 10] カーライル実業学校の墓地。 50 出典)Carlisle Indian Industrial School, <http://www.desertramber.com/carlisle-indian-

School.-html>より添付。(2016年8月4日)

[写真11] ピエール・ドュ・スメ神父。 57

(5)

出典)<https://wikipedia.org/wiki/Pieer-Jean_De_Smet>より添付。(2016 年8月14日)

[写真12] 儀式用パイプ。 57 出典)Kicking Wolf Gallery, <http://www.kickinwolf.com/ Peace-Pipes.html>より添付。

(2016年8月14日)

[写真13] 儀式としてパイプを回し吸い合う。 57

出典)The Native American Pipe Ceremony, <http://www.native.americans-online.com/

native-american-pipe-ceremony.html>より添付。(2016年8月14日)

[写真14 ] オーギュスティーヌ・ラヴー神父。 58 出典)<https://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&Grid=6569183>より添付。

(2016年8月16日)

[写真15] マーティン・マーティ神父。 60

出典)<http://www.patheos.com/blohop-Martin-marty-o-s-b-1834-18965.html>より添付。

(2016年8月24日)

[写真16 ] シッティング・ブル。 60 出典)<http://www.gettyimages.com/photos/chief-sittingbull>より添付。

(2016年8月24日)

[写真17 ] クラフト神父。 61 出典)<https://armyatwoundedknee.com/2014/02/14father-francis-m-craft-missionary-

wounded-in battle/>より添付。(2016年9月13日)

[写真18 ] 先住民風な衣装を身に付けたクラフト神父。 62 出典)<https://armyatwoundedknee.com/2014/02/14father-francis-m-craft-missionary-

wounded-in battle/>より添付。(2016年9月13日)

[写真19 ] スポッテッド・テイル。 69 出典)<http://www.legendsofamerica.com/na-spottedtail.html.>より添付。

(2016年10月8日)

[写真20 ] レッド・クラウド。 69

(6)

出典)<https://indiancountrymedianetwork.com/history/events/redcloud-a- life-in- images/>より添付。(2016年10月8日)

[写真21] ホーリー・ロザリー・ミッションの神父とシスターたち。 77 出典)Missionary sisters the Holy Rosary, <https://www.mshr.org/history/>より添付。

(2016年10月24日)

[写真22 ] 毎年9月に行われるセント・ヨセフ・インディアン・スクールの 85

生徒たちによるパウワウ。(2012年9月15日、筆者撮影)

[写真23 ] セント・ヨセフ・インディアン・スクール併設の教会正面に飾られている 85

先住民風なキリストとマリア。(2012年9月14日、筆者撮影)

[写真24] 当時のワイルド・ウェスト・ショーのポスター。 88 出典)<https://www.britannica.com/art/wild-west-show/images-videos>より添付。

(2016年10月30日)

[写真25 ] アメリカン・インディアン・ムーヴメント(AIM)の主要メンバー。 96

前列左側がラコタ族のラッセル・ミーンズ(Russell Means)、 その右隣がオジブエ族のDennis Banks(デニス・バンクス)。

出典)The New York Times, Oct.22.2012, <http://www.nytimes.com/2012/10/10/23/ us/

Russell-means-american-indian-activist-Dies-at-72htm/>より添付。

(2016年11月28日)

[写真26 ] ウンデッド・ニーを武装して占拠した先住民。 99 背後に聖心会教会が写っている。

出典)The Legacy of Wounded Knee, http://www.manataka.org/page1710.htmlより添付。

(2016年11月30日)

[写真27] ウンデッド・ニー墓地の入り口。(2012年9月12日、筆者撮影) 100

[写真28] 職員に見送られて、スクール・バスで家路に向かう、 103 ルルドの聖母小学校の生徒たち。(2012年9月12日、筆者撮影)

[写真29] 学校備品の椅子にもラコタ語での表記がなされている。 105

(7)

(2012年9月12日、筆者撮影)

[写真30] ラコタの伝統文化には存在しなかった電気のスイッチ、 105 他にも階段やトイレの入り口など、

あらゆる場所や備品にラコタ語での表記がなされている。

(2012年9月12日、筆者撮影)

[写真31] ラコタ文化の授業にて、サンダンスの歴史を説明。 103 (2010年10月12日、筆者撮影)

[写真32] 模型を使ってサンダンスを視覚的にわかりやすく説明。 103

(2010年10月12日、筆者撮影)

[写真33] ラコタ・キャンプにて、ティピの建て方を学ぶ。 108 出典)RCIS Home Page<https//www.redcloudschool.org/news/20160621/third-annual-

lakota-language-Summer-camp-continues-to-grow-and-inspire?>より添付。

(2016年12月8日)

[写真34] 年配者から干し肉の作り方を学ぶ。 108 キャンプは実践の中から、学習する場となっている。

出典)RCIS Home Page<https//www.redcloudschool.org/news/20160621/third-annual- lakota-language-Summer-camp-continues-to-grow-and-inspire?>より添付。

(2016年12月8日)

[写真33] 教会内部の正面に飾られている、キリストのステンド・グラス。 110 (2010年10月7日、筆者撮影)

[写真36] メディスン・ホイールと呼ばれる、ラコタ族の伝統的な 110 円形文様を取り入れた、教会内部のステンド・グラス。

(2010年10月7日、筆者撮影)

[写真37] 教会内部の壁に飾られている絵画。 111 キリストを捕えたローマ兵は、騎兵隊を思わせる青い軍服を着ている。

(2010年10月7日、筆者撮影)

[写真38] キリスト、マリアや弟子たちも、先住民の様相をしている。 111

(8)

(2010年10月7日、筆者撮影)

[写真39] ティピの形をした教会。(2007年に聖ルーブル・インディアン・スクールを 112 訪問した際、入手したポスター)

[写真40] 伝承センターでの、先住民の手による作品の展示、及び販売。 120

(2012年9月12日、筆者撮影)

[写真41] ホーリー・ロザリー・ミッション・スクール時代の教室を模した展示。 120

(2012年9月12日、筆者撮影)

[写真42] 学校裏にある聖職者たちの墓地。 121

(2012年9月12日、筆者撮影)

[写真43] 墓地にはレッド・クラウドと、隣には彼の妻が眠る墓もある。 121 (2012年9月12日、筆者撮影)

[写真44] 自宅を改装して、開業しているカフェ。(2012年9月19日、筆者撮影) 133

(9)

目次

序章

第1節:本論文の目的 1

第2節:北米先住民史の先行研究 3

第3節:保留地の成り立ちと現代の先住民 12

第1章:北米における先住民教育 第1節:アメリカ社会と先住民への関心と教育政策 24

第2節:寄宿学校という教育形態 35

第3節:寄宿学校への批判 45

第2章:パイン・リッジ保留地のカトリック・ミッション 第1節:カトリック・ミッションの布教 54

第2節:先住民教育とキリスト教 66

第3節:ホーリー・ロザリー・ミッション・スクール開校 75

第3章:レッド・クラウド・インディアン・スクールへ 第1節:先住民、そして社会の変化 87

第2節:レッド・クラウド・インディアン・スクール の変化と現状 102

第3節:保留地ミッション・スクールの役割 116

終章: 1:先住民研究の位置づけ 136

2:カトリックのラコタへの寄り添い 137

3:先住民の変化と教育の影響 138

4:結びとして 140

関連年表 142

参考文献 144

(10)

1

序章

第1節 本論文の目的

北米先住民はキリスト教信仰を持たない野蛮な民族と軽蔑される一方で、生き残りに困 窮していたピルグリム・ファーザーズ(Pilgrim Fathers)に食糧を与え、食物の栽培方式 を教えてくれた植民者の救世者でもあった。こうした恩義もあったからなのだろうか、北米 では「インディアンは人間なのか、それとも動物なのか」と言った類の論争ではなく、無知 で無教養な彼らにキリスト教を教え教育を施せば、文明化し白人(アメリカ新大陸へ移住し てきたヨーロッパを起源とする非先住民の植民者たちを、本論文では便宜上「白人」と称す る)のようになれるだろうとする考え方が一般化した。後に先住民の為の寄宿学校を設立し たリチャード・ヘンリー・プラット(Richard Henry Pratt)(1章2節を参照)による、「イ ンディアンは殺し、人間を救え」(Kill the Indian and Save the man)の発言は、白人化し たインディアンのみ救う価値のある人間として認めるとする、その考えを顕著に表したも のである1

植民当初は、植民者の生存に先住民の協力が必要だったこともあり、両者との関係は友好 的なものだったが、次第に土地を巡って対立するようになっていった。金が発見されるに至 って、その対立は決定的なものとなり、植民者は金を求めて先住民に保障された土地にまで 進出するようになっていった。植民者と先住民との関係において、土地を巡る問題に対して 様々な政策が講じられた。こうした政策を研究することによって、多くの研究者は合衆国政 府と先住民との関係を明らかにしようとしてきた。土地以外の政策も講じられてきたが、そ の中でも、人的政策として注目すべきものは教育政策である。連邦政府は先住民に英語を習 得させ、キリスト教化することによって文明化させ、彼らをアメリカ市民として合衆国に組 み入れることが、先住民に対する平和的な問題解決となる政策だと考えた。

先住民への教育は、植民地時代から篤志家の白人家庭や学校組織で行われてきたが、19 世紀末になると、先住民の文明化を促進する装置として、保留地外の寄宿学校での教育が一 般化した。親や部族から切り離され、体罰を含めた軍隊式の厳しい躾を伴って行われた寄宿 学校での教育は、先住民児童の心と身体を傷つけ、先住民性を奪った装置として、1960年 代以降の先住民運動の高まりの中で激しく非難された。しかし教育政策によって、連邦政府 が狙ったような文明化が成功したかと言えば、はなはだ疑問である。寄宿学校で強制された 英語は、彼らにとって自らの主張を広く伝える武器となった。また在学中に部族の枠を超え

1 本論文で述べる白人化とは、洋服や靴の着用といった外見的なものも含めて、北米で主 要言語とされていた英語を話し、聖書に基づいたキリスト教の価値観の元で、勤勉な労 働者として、植民地時代初期にヨーロッパから移住してきた植民者たちと同じような生 活を送りアメリカ社会に同化していくことを指す。

(11)

2

て育まれた友情は、先住民としての意識を生み、後の先住民運動の基盤となった。ミッ ション・スクールも同じ寄宿学校制度下で教育を行ってきたため、寄宿学校という枠組みの 中で、同じような文脈で語られてきた。もちろん両者に類似点はあるが、学校の設立過程や ミッションの報告を読むと、一般寄宿学校とミッション・スクールは必ずしも同じとは言え ない点が見えてくる。

本論文で扱うレッド・クラウド・インディアン・スクール(Red Cloud Indian School)

と、その前身であるホーリー・ロザリー・ミッション・スクール(Holy Rosary Mission School)

は、ラコタ族の意向を反映して、プロテスタントに割り当てられたパイン・リッジ保留地の 教育を、カトリック教会の管轄に変更した上で開校されたミッション・スクールである(詳 しくは本章3節を参照)。カトリック教会は白人化を図る教育を行う一方で、ラコタ族の宗 教や文化にも一定の理解を示し、カトリック教会とラコタ族とは、お互いに利害を享受して いた側面も見られる。また従来の寄宿学校制度の中で批判されてきた部族や家族との切り 離しも、当校は保留地内にあったので、部族や家族との関係が完全に途絶えてしまうことも なかった。

その後、ホーリー・ロザリー・ミッション・スクールは、カトリック教会の招聘に尽力し たラコタのチーフ、レッド・クラウド(Red Cloud)の名前を1969年に校名に配し、レッ ド・クラウド・インディアン・スクール(Red Cloud Indian School)と改名することとな る(2章2節を参照)。なお同じようにスポッテッド・テイル(Spotted Tail)もローズ・バ ッド保留地(Rosebud Reservation)にカトリック教会を招聘し、開校された学校名は、フ ランシスコ会に由来するセント・フランシス・インディアン・スクール(St. Francis Indian School)であり、校名は現在もそのままである。この校名の変化は、ホーリー・ロザリー・

ミッションが開校の貢献者であるレッド・クラウドへの敬意と、ラコタ族へのより深い寄り 添い姿勢を示したものだと学校側は語っている。本論文では、パイン・リッジ保留地にある レッド・クラウド・インディアン・スクールを一事例として、過去の歴史を顧みながら、パ イン・リッジ保留地におけるカトリック・ミッション・スクールの役割や可能性を探ってい こうとするものである。

(12)

3

第2節:北米先住民史の先行研究

2-1:消えゆく民族から北米史観へ

アメリカ先住民研究は、社会科学と人文科学を横断する分野であり、現在は政治活動から 経済条件や経済発展モデルの研究に至るまで、幅広い問題を扱う研究とされている2。しか し1950年代には、アメリカ史とはアングロ・アメリカ史、すなわち白人中心史であり、先 住民史はアメリカ史の範疇に入っていなかった。人類学者の中には、個別の部族を深く掘り 下げることによって、白人との接触の記録から部族史を編み出そうとする者もおり、先住民 研究は歴史学者ではなく人類学者の研究分野だった3。先住民は「消えゆく民族」であり、

消滅してしまう前に様々な記録を残すべと、記述・スケッチ・写真・録音・録画といったあ らゆる手段を用いて、先住民の生活の記録を残そうとした。白人は先住民の言語や伝統文化 を奪い白人化を試みたが、後に先住民側が自分たちの言語や伝統文化を復活させようと試 みた際に、これらの記録が資料ともなったことは皮肉である。

このような白人を中心とする一方的な視点に変化が生まれてきたのは、1960年代以降の アメリカ国内の社会変化によるものだった。公民権運動の活発化によって、アメリカ国民を 中心に、アメリカ国内の民族的少数者へ関心が持たれるようになった。またベトナム戦争に 対する反戦運動が活発化する中で、アメリカ政府や軍隊が帝国主義的侵略者ではないかと の疑念が抱かれるようになっていった。そして環境保護への関心は、自然を破壊せずに生き ていくことができるような生活様式を推奨し、ヒッピーたちは伝統や勤勉を重視する支配 層である白人中流階級の保守的な価値観を否定した。こうしたアメリカ社会の変化によっ て、自然と協調しながら生活してきた高貴で平和を愛する先住民が、帝国の征服によって犠 牲となり、歴史的にも抑圧されてきたとする見解が生まれた。その結果、先住民に同情的で 好意的な歴史家、作家、映画製作者、一般大衆が増え、過去の先住民への処遇に関わったヨ ーロッパ人やアメリカ人、そして合衆国政府への批判が高まった。こうした動きを反映して、

現代から過去を見直そうとする、歴史修正主義の主張が高まっていった。

しかし多くの先住民が文字を持っていなかったために、資料となる文書の多くは非先住 民である白人の手によるものだった。従って白人からの視点を反映したものになってしま うのではとも危惧されたが、当時の政府への不信感もあって、従来の白人中心と言うよりは、

中立、もしくは先住民寄りの視点に基づいた歴史観が持たれるようになった。オーラル・ヒ ストーリーの語り手として、先住民自らが語りに参加し、先住民の研究者が現れるように

2 カールA.グラント、グロリア・ラドソン=ビリング編著、(中島智子、太田春雄、倉石

一郎監訳)『多文化教育事典』明石書店、2004年、22-23頁。

3 Martin Calvin (ed.), The American Indian and the Problem of History, London&New York, Oxford University Press, 1987,

pp.35-45.

(13)

4

なったことで、先住民自らの視点で自らの歴史を語ることが可能となった4。先住民研究は、

先住民自身はもちろんのこと、アメリカ国内だけではなく、アメリカ国外にわたる多くの 人々の関心を引く研究分野となっている。日本においても、1960年代の後半から北米先住 民研究が本格化し、多くの研究者によって、様々な部族やテーマが取り扱われるようになっ て き た 。1993 年に 設 定さ れ た 「 世 界 先 住民 年」(International Year of the World’s Indigenous People)を経て、近年では国内のアイヌや近隣の台湾、オーストラリア、ニュ ージーランド、アメリカ大陸として繋がる北中南米、あるいはハワイなど、様々な地域の「先 住民」への関心が高まり、研究も活発化している。

2-2:関係史の中での教育史

このように現在では先住民に関する研究は多岐にわたっているが、基本的な概説書とし て広く認知されている文献として、1980年にスミソニアン研究所から出版された、ウィリ アムC. スタートヴァント(William C. Sturtevant)の編集による『北米アメリカ・インデ ィアン入門書』(Handbook of North American Indian, 1988.)がある。本書は20巻から なるシリーズ本であり、北米大陸を自然環境に従って11の地域に分け、その地の環境の特 徴に沿って生活する先住民について、各巻毎に部族の歴史、文化、言語を扱っている5。第 4巻では『インディアン-白人の関係史』(History of Indian-White Relations)をウィルコ ム・E・ウォッシュバーン(Welcome E. Washburn)が担当し、連邦政府によるインディア ン政策(Indian Policy)を中心に、白人との関係の中から先住民史を考察している。この巻 の中では先住民教育も扱われており、先住民への教育をキリスト教化=文明化、すなわち白 人化を強いた先住民政策の一環として、白人との関係史の中で捉えている。『インディアン 政策の記録』(Documents of Indian Policies, 2000.)や『グレート・ファーザー』(Great

Father, 2002.) において、連邦政府の先住民政策との関係から先住民史を解いたフランシ

ス・ポール・プルーカ(Francis Paul Prucha)も、様々な先住民政策と同様に、連邦政府 が先住民を白人社会へ取り込む目的を持った政策として、先住民教育を捉えてきた6。この ように関係史の中で語られてきた先住民教育であったが、先住民研究が進むにつれ、各部族 や個別の事項の研究が進み、その流れの中で先住民教育自体への関心が生まれるようにな っていった。

先住民への教育に関しては、植民地時代からキリスト教各宗派が先住民への布教を行い、

4 Francis Flavin, Native Americans and American History, Austin, Texas, University of Texas Press, 2007.

5 William C. Sturtevant (ed.), Handbook of North American Indian, Washington, Smithonian Institute, 1988.

6 FrancisPaul Prucha, Documents of Indian Policies, Lincoln&London, University of Nebraska Press, 2000. Great Father, Lincoln&London, University of Nebraska Press, 2002.

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5

布教の一環として教育も行っていたが、研究者の関心は宗派による教育そのものよりもむ しろ、教育をも含めた布教活動の影響にあった。たとえば前出のウィルコム・E・ウォッシ ュバーンは『アメリカのインディアン』(The Indian in America, 1975.)において、布教に 対する先住民の反応や影響を述べている7。人類学的視点が主流であったこともあり、キリ スト教が異文化である先住民伝来の宗教や伝統に、どのような影響や変化を及ぼしたかが、

研究者の関心を引く事象であった。

1879年にカーライル実業学校が開校し、先住民児童の白人化に有効な装置だと見なされ るようになると、カーライル実業学校をモデルとした寄宿学校が多く設立されるようにな った8。政府の意向に沿って、家族や部族の影響が及ばない保留地外で徹底した白人化教育 を行った寄宿学校は、先住民教育と同意語のような印象を持たれる存在となった。

1886年から88年にわたって行われたグランド大統領の「平和政策」(Peace Policy)に よって、先住民教育がキリスト教各宗派に委託されることになると、各宗派は正式に先住民 の学校教育に乗り出すこととなった9。前出のフランシス・ポール・プルーカは、『教会とイ ンディアン学校』(The Churches and the Indian Schools 1888-1912, 1979.)において、各 宗派による連邦政府への働きかけや教育への関わりを述べている10。キリスト教派による学 校も寄宿学校制度をとっており、教育内容や指導方法の類似していたこともあり、同じ「寄 宿学校」の枠組みの中で一括りに扱われてきた。

先住民教育を代表する存在と評された寄宿学校については、カーライル実業学校を始め とする個別の学校に関するものから、寄宿学校全般を扱ったものまで、様々な研究がなされ ている。先住民を対象とした最初の寄宿学校であったカーライル実業学校に関しては多く の文献が出版されているが、リンダ・F・ウィットマー(Linda F. Witmer)による『インデ ィアン実業学校:カーライル、ペンシルバニア1879-1918』(The Indian Industrial School : Carlisle, Pennsylvania 1879-1918, 1993.)には、在学生や教職員、訪問者の氏名が列挙さ れており、この名簿から、兄弟・姉妹で入学している児童が多かったこと、様々な首長が同 校を訪れていたこと、勤務期間が短い教職員が多かったことなどが見て取れる11

またカーライル実業学校の卒業生であるルーサー・スタンディング・ベアー(Luther

Standing Bear)は、自叙伝でもある26章からなる著作、『我が民、スー族』(My People

The Sioux, 1975.)の中で、6章にわたってカーライル実業学校と関わっていた間の生活に

7 Wilcomb E.Washburn, The Indian in America,’’ NY, Harper and Row, 1975.

今津晃、斎藤眞監修、富田虎雄訳『アメリカ・インディアン-その文化と歴史』とし て、1977年に南雲堂から翻訳本が出版されている。

8 元軍人リチャード・ヘンリー・プラット(Richard Henry Pratt)が、先住民教育のため にペンシルバニアに開校した寄宿学校。1章2節にて詳しく述べる。

9 本論文22頁を参照。

10 Francis Paul Prucha, The Churches and the Indian Schools 1888-1912, Lincoln&

London, University of Nebraska Press, 1979.

11 Linda F. Witmer, The Indian Industrial School : Carlisle, Pennsylvania 1879-1918, Carlisle, Pnnsylvania, Cumberland Country Historical Society, 1993.

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6

ついて綴っている12。このように従来の白人側からの一方的な視点ではなく、先住民からの 視点が重視されるようになると、K..ツィアニナ・ロマワイマ(K.Tsianina Lomawaima)

の『チロコ・インディアン学校物語:平原地域の希望の光と称されて』(The Story of Chilocco Indian School-They called it Prairie Light , 1994.)や、マーガレット・L・アーチュレッ タ(Margaret L. Archuleta)、ブレンダ・J・チャイルド(Brenda J. Child)、前出のロマ ワイマの共著による『故郷から遠く離れて-1879年から 2000 年までのアメリカ寄宿学校 体験』(Away From Home : American Boarding School Experiences,1879-2000, 2000.)の ように、寄宿学校に在籍していた先住民から聞き取りを行うことで、寄宿学校の実態を知ろ うとする流れが生まれていった13。こうした体験談の中には楽しかった思い出も語られてお り、辛い経験ばかりが強調されてきた寄宿学校生活の中にも、生徒たちは楽しみや喜びを見 出して生活していたことを知ることができる。

しかしアメリカ・インディアン・ムーブメント(American Indian Movement, 以下AIM と記す)を牽引してきたデニス・バンクス(Dennis Banks)は、日本語版のみで出版され た『聖なる魂-現代アメリカ・インディアン指導者、デニス・バンクスは語る』(1989) や、

リチャード・アードス(Richard Erdoes)との共著による『オジブワ戦士:デニス・バンク スとアメリカ・インディアン・ムーブメントの台頭』(Ojibwa Warrior :Dennis Banks and the Rise of the American IndianMovement, 2005.)といった伝記的著作の中で、寄宿学校 での体験を痛ましい思い出として語っている14。政府への不信感を共有する中で結成された AIM の闘士たちは、寄宿学校での教育も不当な先住民政策の一つとして激しく非難した。

このように先住民自身から寄宿学校非難が多く取り上げられた時代背景の中で、寄宿学校 での教育は否定されるべきものとの認識が高まり、より多くの批判に晒されるようになっ ていった。

一方ミッション・スクールに関しては、一般の寄宿学校ほどの研究は見られず、プロテス タントやカトリックといった宗派にかかわらず、先住民教育や寄宿学校に関する文献の中 で扱われることが多かった。たとえばジョン・レイナー(Jon Reyner)と ジェーン・エデ

12 Luther Standing Bear, My People The Sioux, Lincoln&London, University of Nebraska Press, 1975.

13 K.Tsianina Lomawaima, The Story of Chilocco Indian School-They called it Prairie Light, Lincoln&London, University of Nebraska Press, 1994.Margaret L. Archuleta, Brenda J. Child, K.Tsianina Lomawaima(eds.), Away From Home -American

Boarding School Experiences, 1879-2000, Phenix, Arizona, The Heard Museum, 2000.

14 森田ゆり『聖なる魂-現代アメリカ・インディアン指導者、デニス・バンクスは語る』朝 日新聞社、1989年。Dennis Banks, Richard Erdoes, Ojibwa Warrior:Dennis Banks and the Rise of the American Indian Movement, Norman, University of Oklahoma

Press, 2005. pp.24-31. 同書は石川史江、越川威夫訳によって、『死ぬには良い日だ』の

邦題で、2010年に三五館より翻訳本が出版されている。

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ル(Jeanne Eder)の共著による『アメリカ・インディアン教育』(American Indian Education, 2004.)では、先住民教育の流れを説明する中で、ミッション・スクールを一章にわたって 扱っている15

しかし一般寄宿学校と同様に先住民からの発言が注目されるようになると、ミッション・

スクールに在籍した先住民の体験も語られるようになった。フランシス・ラ・フレッシュ

(Francis La Flesche)は長老派のミッション・スクールでの生活を『5人の仲間と:オマ ハ部族のインディアン学校の日々』(The Middle Five : Indian Schoolboys of Omaha Tribe,

1963.)で語っている16。また先住民ジャーナリストとして社会への影響力を持つティム・

ジアーゴ(Tim Giago)は、当論文で扱ったカトリックのミッション・スクール、ホーリー・

ロザリー・ミッション・スクールでの生活を『置き去りにされた子供たち:インディアン・

ミッション寄宿学校の負の遺産』(Children Left Behind : The Dark Legacy of Indian Mission Boarding Schools, 2006.)で語っている17。語られている内容は一般寄宿学校の生 徒のものと酷似しているが、両者共に親の勧めで入学しており、親側に子弟への教育の意志 があったことがわかる。

またミッション・スクールと言う括りの中では、宗派の違いが示されることも少ないが、

プロテスタントとカトリックでは教義の解釈も異なっており、それに従って先住民への対 応にも相違があった。同じキリスト教にもかかわらず、他宗派を否定する理由を理解できな かった先住民は、細かい教義の相違からではなく、単に着用していたローブの色の違いから、

プロテスタントの牧師たちをホワイト・ローブ(White Robe)、カトリックの神父たちをブ ラック・ローブ(Black Robe)と呼び、両者を見分けていた18

筆者が関心をもっているラコタ族(3 節4項参照)は、「平和政策」でプロテスタントに 割り当てられた学校経営を、チーフであったレッド・クラウド自らがカトリック招致に動い たこともあって、カトリック教会によるホーリー・ロザリー・ミッション・スクールが開校 するに至った。ロス・エノチェス(Ross Enochs)は、当校がレッド・クラウド・インディ アン・スクールと改名するまでを、『ラコタ・スー族へのイエズス会の対応:聖職者の指導 と援助、1886-1945』(The Jesuit Mission to The Lakota Sioux:Pastoral Theology and Ministry, 1886-1945, 1996.)で詳細に述べている19。またカール・マルクス・クライス(Karl

15 Jon Reyner, Jeanne Eder, American Indian Education, Norman, University of Oklahoma Press, 2004.

16 The Middle Five : Indian Schoolboys of Omaha Tribe, Lincoln and London, University of Nerbaska Press, 1963.

17 Tim Giago, Children Left Behind : The Dark Legacy of Indian Mission Boarding Schools, Santa Fe, New Mexico, Clear Light Publishing, 2006.

18 C・ハミルトン著、(和巻耿介訳)『北米インディアン生活誌』社会評論社、1993年、357-

359頁。

19 Ross Enochs, The Jesuit Mission to The Lakota Sioux:Pastoral Theology and Ministry, 1886-1945, Kansas City, Sheed and Ward,1996.

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Markus Kreis)編集による『ラコタ、カトリック神父とシスターたち』(Lakotas, Blackrobes,

and Holy Women, 2000)では、神父やシスターたちの報告から、サウス・ダコタでのイエ

ズス会の活動を明らかにしている20

2000年以降になると、ブレンダ・J・チャイルド(Brenda J. Child)による『寄宿学校 の時期:アメリカ・インディアンの家族たち』(Boading School Seasons : American Indian Families)、クリフォード・E・トラフザー(Clifford E. Trafzer)、ジーン・A・ケラー(Jean

A. Keller)、ローレンス・シスコック(Lorene Sisquoc)編集による『寄宿学校ブルース:ア

メリカ・インディアン教育の経験を振り返って』(Boarding School Blues : Revisiting American Indian Educational Experiences, 2006)でも見られるように、寄宿学校への批 判はあるものの、一部肯定する見解が生まれてきた21。寄宿学校で習得させられた英語が先 住民同士の共通語となり、寄宿学校での生活を通じて部族の枠を超えた友情が生まれたこ とで、後の先住民運動に繋がる「先住民」としての意識が芽生えたとする意見である。確か に卒業生たちの中からは、身に着けた英語を駆使し白人社会へ自己主張する者や、先に挙げ たルーサー・スタンディング・ベアーやデニス・バンクスのように、権利回復運動に関わっ ていった者も多い。寄宿学校での教育には、言語や文化の否定や親や部族からの引き離し、

劣悪な生活環境など、もちろん非難されるべき点は多くある。しかし、その厳しい環境を生 き抜いた先住民たちは、寄宿学校で身に着けた英語と人脈を使って、先住民の置かれた環境 の改善を試みるようになっていった。合衆国において、かつては白人の視点中心だった先住 民研究も、現在では寄宿学校教育を受けた先住民の体験を検証するなど、より客観的な視点 を持ち始めてきている。

2-3:日本における北米先住民研究

日本における北米先住民研究は、アメリカの影響下の元で、1960年代後半から本格化し ていった。歴史学分野では、1960年代後半から北米先住民研究の第一人者である富田虎男 が、北米先住民史の概説、個別研究や研究動向に関する文献や論文を発表する一で、北米先 住民政策がアイヌに及ぼした影響など、日本国内の先住民にも関心を持つようになってい った22。先住民の通史として『米国先住民の歴史-インディアンと呼ばれた人びとの苦難・

抵抗・希望』(1986)を発表した清水知久と共に、民主主義を標榜しながらも人種差別や覇

20 Karl Markus Kreis (ed.), Lakotas, Blackrobes, and Holy Women:German Report from the Indian Mission in South Dakota, Lincoln and London, University of Nebraska Press, 2000.

21 Brenda J. Child, Boading School Seasons : Americ an Indian Families, Lincoln&

London, University of Nebraska Press, 2000. Clifford E. Trafzer, Jean A. Keller, Lorene Sisquoc (eds.) Boarding School Blues : Revisiting American Indian

Educational Experiences, Lincoln&London, University of Nebraska Press, 2006.

22 富田は米国先住民研究の第一人者として、1982年に雄山閣から出版された『アメリ カ・インディアンの歴史』を始め、多くの書籍や論文を発表した。

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権主義を内在しているアメリカに追従する日本人への問題提起を、北米先住民研究の中に 取り込もうと試みた23。このような問題意識から、歴史研究者以外からも先住民への関心が 生まれるようになっていった。ジャーナリストである本田勝一は、アメリカ南西部に住む先 住民の取材を通じて、『アメリカ・インディアン悲史-誇り高いその衰亡』(1972)を発表 し、先住民の視点からアメリカ史を捉え直すことの重要性を説いた24。また化学者の藤永茂 は、『アメリカ・インディアン悲史-誇り高いその衰亡』(1972)において、先住民史をたど った上で、先住民の抱える問題と日本人が抱える問題の関連性を論じた25。なお、これらの 著作は、日本における北米先住民研究の出発点と評されている。

1970 年後半から1980 年代に入ると、先住民の立場から語られた開拓史として、アメリ カ内外で話題を呼んだディー・ブラウンの『わが魂を聖地に埋めよ』(1972)、ジョン・コス ターの『この大地、わが大地-アメリカ・インディアン抵抗史』(1977)、前出のウィルコ ム・E・ウォッシュバーンの『アメリカ・インディアン』(注5参照)、ウィリアム・T・ヘ ーガンの『アメリカ・インディアン史』(1983)などの翻訳本が相次いで発表された26。。前 出の富田による『アメリカ・インディアンの歴史』も出版され、先住民史の入門書的存在と なっている。

また他分野の研究者も先住民に関心を示すようになり、法学者の上田伝明は、チェロキー 憲法やアメリカの法制度下における先住民との関係や土地を巡る問題を扱い、その問題意 識をアイヌ民族にも関連づけている27。フランス文学研究者の加藤恭子は、アメリカ滞在時 に関心をもったフィリップ王戦争について、現地調査に基づいて書籍にまとめた28。他にも 特定の問題を扱った個別研究が発表されるようになっていく中で、前出の富田は日本人と 先住民との関係やアイヌ対策と先住民対策の比較など、独自の視点による先住民研究を発 表した29。従来のアメリカでの先住民研究を紹介する段階から、日本人研究者が個々の問題 意識によって、調査・研究、そして発表する段階へと移行していった時期でもあった。

23 清水知久『米国先住民の歴史-インディアンと呼ばれた人びとの苦難・抵抗・希望』

明石出版、1986年。なお1992年に増補版が出版されている。

24 本多勝一『アメリカ合衆国』朝日新聞社、1970年。

25 藤永茂『アメリカ・インディアン悲史-誇り高いその衰亡』朝日新聞社、1972年。

26 ディー・ブラウン、(鈴木主税訳)『わが魂を聖地に埋めよ』草思社、同書、1972年。

ジョン・コスター、(清水和久訳)『この大地、わが大地-アメリカ・インディアン抵抗史』

三一書房、1977年。ウィリアム・T・ヘーガン、(西村頼男、野田研一、島川雅史訳)『ア メリカ・インディアン史』北海道大学図書刊行会、1983年。

27 上田伝明「アメリカ原住民とアイヌ民族-二つの強制移住をとおして(1)(2)」『椙山 女学園大学研究論集、社会科学編』32号2001年、33号2002年。

28 加藤恭子『大酋長フィリップ-消されたアメリカ・インディアン』春秋社、1991年。

29 アイヌ関連として、富田は「北海道旧土人保護法とドーズ法-比較史研究の試み」を 1989年に、「北海道旧土人保護法とドーズ法-ジョン・バチュラー、白仁武、パタピ タ、サンロッテ」を1990年に、『札幌学院大学人文学会紀要』札幌学院大学人文学会 に発表している。

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1990年代以降になると、研究者も論文の発表も増え、研究の多様化に伴い、研究の細分 化と詳細化も進んだ。特にアメリカ連邦政府による先住民政策史には強い関心が寄せられ、

鵜月裕典は強制移住政策や文明化政策についての研究を数多く発表してきた30。佐藤円はチ ェロキー族を中心とした研究から、先住民とアフリカ系アメリカ人との関係、先住民女性や ポカホンタスについてなど、その研究範囲を広めている31。先住民教育に関しては、岩崎佳 孝と岡本勝が共著において、チカソー族内の文明化学校に関する考察を行っている。また伊 藤聡は言語政策を扱い、先住民への英語教育を論じた32

先住民政策史の他の側面として、教育・文化・土地を巡る先住民の権利を扱った水野由美 子は、「異文化としての学校-ニューディール期の教育改革とナバホ族」において、1930年 代の教育改革の理念が、ナバホ族が直面していた現実と乖離していたことを指摘した。2007 年に出版された『<インディアン>と<市民>のはざまで―合衆国南西部における先住民 社会の再編過程』では、プエブロとナバホの事例を元に、学校教育政策と法的地位や土地制 度の関連性から、インディアンであると同時にアメリカ市民とされたことの意義や解釈の 再検討を行った。また「先住民教育とキリスト教」では、契約学校を事例として、先住民の 教育政策における連邦政府と教会との関係を考察している33

内田綾子は「アメリカ先住民の言語復興と教育-近年の動向から」において、先住民言語 教育の現状について発表し、「ペヨーテ信仰とキリスト教-平原インディアンの文化的複合」

においては、キリスト教が平原インディアンの宗教に及ぼした影響を論じた。2008年に出 版された『アメリカ先住民の現代史―歴史的記憶と文化継承』では、先住民の聖地や史跡に 関する歴史的公的記憶を巡る研究といった、新しい分野の研究にも着手している34

30 鵜月裕典は数々の論文発表の後、強制移住を中心に連邦の先住民政策を考察しまとめた

『不実な父親・抗う子供たち-19世紀アメリカによる強制移住対策とインディアン』

木鐸社を2007年に出版した。

31 「強制移住政策下のチェロキー族-大族長ジョン・ロスのリーダー・シップをめぐっ て」『史苑』1990年。「先住アメリカ人-アフリカ系アメリカ人関係関係史研究の可能 性」『大妻比較文化』大妻女子大学比較文化学部、2007年。「史料が語るポカホンタ ス」『大妻比較文化』大妻女子大学比較文化学部、2015年。他、多くの論文を発表、

書籍における共同執筆に参加している。

32 岩崎佳孝、岡本勝共著「文明化に対するインディアン部族の対応-1820年代における チカソー族文明化学校の事例-」『欧米文化研究』広島大学科学研究科、1997年。

伊藤聡「アメリカ・インディアンと英語教育Ⅰ、Ⅱ」『名古屋短期大学研究紀要』名古 屋短期大学出版部、1983、1984年。

33 水野由美子「異文化としての学校-ニューディール期の教育改革とナバホ族」『アメリ カ史研究』20号、アメリカ史研究会、1997年。『<インディアン>と<市民>のはざ まで―合衆国南西部における先住民社会の再編過程』名古屋大学出版、2007年。「先住 民教育とキリスト教」『歴史評論』707号、2009年。なお「契約学校」とは、グランド 大統領の「平和政策」の下で始まった、アメリカ連邦政府がキリスト教各宗派先住保 留地を割り当て、助成金と引き換えに学校教育を委託した制度。

34 内田綾子「ペヨーテ信仰とキリスト教-平原インディアンの文化的複合」『言語文化論

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宮下敬志は「文明化」ミッションにおける白人「改革」者の利害-十九世紀末アメリカ先 住民契約学校制度の分析」において、教育とミッションとの先住民契約学校制度を巡る改革 者間の利害関係を論じた。「アメリカ先住民居留地の「内国植民地」化政策-フィリッピン 植民地政策との連続性に注目して-」では、保留地を内的植民地と捉え、保留地への統治政 策がアメリカ国外の植民地へ輸出され、行使されていったことを指摘している。また「米国 先住民「文明化」教育-ハンプトン農業師範学校における教育実践とその影響」では、先住 民教育の先駆けとなったハンプトンでの先住民教育について考察した35

当論文で扱ったラコタに関しては、阿部珠理がラコタのローズ・バッド保留地でのフィー ルド調査に基づいて、精神世界から伝統文化に至るまで、様々なテーマを通じて研究を重ね ている。特にラコタを事例として、文化復興によって民族再生が試みられているアメリカ先 住民の現状を提示した『アメリカ先住民-民族再生にむけて』(2004)や、共著である『北 アメリカ先住民の社会経済開発』(2008)におけるラコタの経済開発への言及は、今後の先 住民社会の可能性を示すものとなっている36

このように日本におけるアメリカ先住民研究は、土地を巡るアメリカ連邦政府との法制 度を中心に、教育を巡る先住民政策研究や先住民女性史研究、アメリカ社会での先住民の存 在を問うものなど、多様な部族を対象とした、新たなテーマが扱われるようになってきてい る。しかし筆者が関心をもっているカトリックによるミッション・スクールに関しては、前 出の宮下や水野による契約学校に関するもの以外には見当たらず、日本においてはミッシ ョン・スクール自体についての研究は、なされていないに等しい。しかしキリスト教、特に カトリック教会は、植民地時代から先住民への布教や教育を行っており、契約学校としても 先住民教育に関わってきた。このような背景を踏まえて、本論文ではアメリカ先住民教育の 一端をになってきたカトリック教会と、カトリック教会によるミッション・スクールが、先 住民社会にどのような貢献を果たし、どのような影響を保留地にを及ぼしてきたかについ て考察するものである。

集』20号、名古屋大学、1999年。「平原インディアンのサン・ダンスとキリスト教-ラ コタ族の場合」『言語文化論集』21号、名古屋大学、2000年。「アメリカ先住民の言語 復興と教育-近年の動向から」『言語文化論集』23号、名古屋大学、2001年。『アメリ カ先住民の現代史―歴史的記憶と文化継承』名古屋大学出版会、2008年。

35 宮下敬志「文明化」ミッションにおける白人「改革」者の利害-十九世紀末アメリカ先 住民契約学校制度の分析」『立命館史学』27号、2006年。「アメリカ先住民居留地の

「内国植民地」化政策-フィリッピン植民地政策との連続性に注目して-」『立命館言 語文化研究』19号、立命館大学、2007年。「米国先住民「文明化」教育-ハンプトン 農業師範学校における教育実践とその影響」『立命館文學』604号、立命館大学、2008 年。

36 阿部珠理『アメリカ先住民-民族再生にむけて』角川学芸出版、2004年。岸上伸啓編著

『北アメリカ先住民の社会経済開発』明石書店、2008年、所収。

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第3節:保留地の成り立ちと現代の先住民

アメリカの大地で、居住環境に応じた暮らしをしていた北米先住民だったが、植民者の到 達が増加するに伴って、その生活を変化せざるを得なくなっていった。土地所有と言う概念 さえ持っていなかったアメリカ先住民の土地所有を望んだ植民者に土地を提供し、土地問 題を巡る解決策として生まれたのが保留地制度だった。現在では部族を部族として特徴づ ける故郷として、単なる所有地である以上の意味を持つ重要な土地となっている。ここでは 本論文で扱うラコタ族に関して、ラコタ族の居住地域の変遷と保留地の成立過程、現在の先 住民の居住状況について簡単に述べることとする。

3-1:大平原地域への進出

広大な面積を持つ北米は、北は北極圏から南は砂漠に至る多様な気候風土を有しており、

北米先住民は居住地域や言語によって、北極圏(Arctic)、亜北極圏(Subarctic)、北西海岸 圏(Northwest Coast)、カリフォルニア圏(California)、高原圏(Plateau)、大盆地(Great Basin)、南西圏(Southwest)、大平原圏(Plains)、北東圏(Northeast)、南西圏(Southeast)

に分類されていた[図表1]。彼らは各地域の同じような環境下で、類似した文化、言語、宗 教、習慣、政治形態を形成し生活を営んでいた。

本論文で扱うのは、大平原圏に居住していたスー七部族連合(Seven Fires Council、又は Otchenti Chakowin)と称される、テトン・スー(Teton Sioux)族、別名ラコタ(Lakota)

族である[図表2]。このような部族関係を踏まえて、本論文では、ラコタ族、ナコタ族、ダ コタ族全体を総称する場合にスー族を、ラコタ・スー族のみを示す場合にラコタ族の表記を 用いるとする。

現在のウィスコン州とミネソタ州の南部の森林地帯に居住していたスー族は、狩猟・採集 の傍ら、トウモロコシなどを栽培しながら暮らしていた。しかし早くから白人の毛皮交易商 から鉄砲を手に入れていたチペワ(Chippewa)族との争いによって、追い出されるように 大平原に近いミズーリ川周辺に移住し始める者が現れた。森林地域に残ったサンティ・スー

(Santee Sioux)族や、半農半猟生活を送ったヤンクトン・スー(Yankton Sioux)族もい たが、ミズーリ川周辺に移動した者たちは、そこで馬の存在を知った。馬を乗りこなせるよ うになったことで、バッファロー狩りは各段と能率的に行えるようになり、バッファローの 群れを追って、次第にミズーリ川を越えて大平原地域に進出していくこととなった。スー七 部族のうち、まずオグララ族とシチャング族が、その後かなり遅れて、他の五部族が大平原 地域に移動していった37

37 Gerge E. Hyde, Red Cloud’s Folk-A History of the Oglala Sioux Indians, Norman, University of Oklahoma Press, 1937. pp.1-19. 横須賀孝弘『ハウ・コラ』NHK出版、

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[図表1] 北米先住民文化圏の分布地図。

出 典 )http://www.warpaths2peacepipes.com/native-american-indians/native-american- map.htm.より添付。(2016年5月26日)

ラコタ(Lakota)族 又はテトン(Teton)族

ナコタ(Nakota)族

又はヤンクトン(Yankton)族

ダコタ(Dakota)族 又はサンティ(Santee)族

オグララ(Oglala)族

イタジプチョ(Itazipo)族、又はサンザーク(Sans Arc)族 オーヘヌンパ(Oohenumpa)族、又はツーケトル(Two Kettle)族 シチャング(Sicangu)族、又はブルーレ(Brule)族

シハサパ(Sihasapa)族、又はブラックフット(Blackfeet)族 ハンクパパ(Hunkpapa)族、又はウンクパパ(Uncpapa)族 ミニコンジュー(Miniconjou)族

[図表2] ラコタ族の関係図。

Jan Cernet, Images of America-Lakota Sioux Missions South Dakota, Charleston, South Carolina, Arcadia Publishing, 2005. p.8より作成。

馬を手に入れたことを契機に、20以上の部族が大平原に進出し、馬でバッファローを追

1991年、30-33頁。

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いながら、ティピ(Tepee)と呼ばれる円錐形のテントで移住生活を送る、大平原文化を形 成していった。スー族は白人と物々交換での交易を始めると、銃を始めとする鉄製品や食品、

装飾品といった、様々な白人の文明品を入手するようになっていった。しかしバッファロー の毛皮が白人との交易品となったことで、自分たちの生活に必要とする以上のバッファロ ーを乱獲することとなり、その結果、より豊かな猟場を求めて、他部族を駆逐しながら更に 移動生活を送らなければならなくなった。ノース・プラット川上流に、交易のための砦が 1834 年に新設されると、交易と新しい猟場を求めて、この地に住んでいた宿敵ポーニー

(Pawnee)族を追い出し、スー族は自分たちの領域としていった38

3-2:インディアン保留地の成立

連邦政府はノース・プラット川の砦を交易商から買い取り、1849年にララミー砦と名付 けた。このララミー砦で、大平原先住民部族であるラコタ(Lakota)族、シャイアン

(Cheyenne)族、アラバホ(Arapaho)族、クロー(Crow)族、アシニボイン(Assiniboin)

族、マンダン(Mandan)族、アリカラ(Arikara)族らと、1851年に第1次ララミー砦条 約が結ばれた。この条約では、連邦政府と先住民との友好関係を確立し、部族の領土内に道 路と駐屯地を建設する権利を連邦政府に認めさせると共に、植民者による略奪行為から部 族を保護し、領土内通行に伴う損害賠償金を支払うことや、部族の領土を確定し、部族を代 表するヘッド・チーフを選出する、といった取り決めがなされた。この条約によってスー族 は、現在のサウス・ダコタ州とネブラスカ州、ワイオミング州、ノース・ダコタ州、及びモ ンタナ州の一部を含む土地を、「インディアン・テリトリー」(Indian Territory)として承 認された39。この第一次ララミー条約によって、先住民と植民者の間には一時的な平和が訪 れたが、平原地域の領地を通過する植民者の数が増えるに従って、先住民と植民者との衝突 は避けられないものとなっていった。スー族も他の部族同様、アメリカ軍との報復戦を繰り 返すようになり、白人側に打撃を与えていった。

貴重な狩猟地だったパウダー川流域にボーズマン街道が開通し、植民者たちが流入して くるようになると、自分たちの狩猟地を守るために、スー族はシャイアン族やアラバホと族 と同盟を組み、アメリカ軍に激しい攻撃を加えた。この1865年から始まった「パウダー川 の戦い」と呼ばれる戦闘では、南北戦争が終結したばかりで疲弊していたアメリカ軍兵士た ちの士気も上がらず、この先住民戦争に高額な軍費を費やすことは割に合わないと考えた 連邦政府は、先住民側に和平の提案を申し出た。

38 Hyde, op.cit., pp.20-42. 横須賀、前掲書、80-82頁。

39 Treaty of Fort Laramie (1851),<http://treatiesportal.unl.edu/treatyoffortlaramie 1851/> (2016年6月8日)。 Francis Paul Prucha. Documents of United States Indian Policy, Lincoln&London, University of Nebraska Press, 2000, pp.84-85.

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この和平の提案に対して、レッド・クラウドは軍が完全撤退し、砦を焼却するまでは交渉 に応じないとの態度を貫き、こうした駆け引きの結果、パウダー川流域での狩猟権、ボーズ マ ン 街 道 の 閉 鎖 と 街 道 の 軍 隊 駐 屯 地 の 廃 止 、 グ レ ー ト ・ ス ー 保 留 地 (Great Sioux

Reservation)の設置を明文化した第二次ララミー条約が 1868 年に締結された。この条約

では、まず合衆国と先住民との双方の和平を順守することが謳われ、保留地への白人の侵入、

先住民による白人への攻撃は厳しく禁止された。また市民化の一環として、農業生活への移 行、教育の支援、生活必需品の提供、物品の配給や支給金の配布などが明確化された40。し かし与えられた土地が農耕に不向きだった上に、大地を母と考えていた彼らにとって、土地 を耕すことは聖なる母を傷つけることに他ならなかった。結局、連邦政府が考えていたよう に、狩猟生活から農業生活への移行は容易に進まず、生活に困窮したラコタ族は、連邦政府 からの配給品や支給金の配布に頼らざるを得ない状況に追い込まれていった。なおグレー ト・スー保留地として、サウス・ダコタ州を中心に、北はノース・ダコタ州、西はワイオミ ング州、北はネブラスカ州とコロラド州にわたる土地が確立された[図表3]。

しかし当条約でスー族の領地として保障されたブラック・ヒルズで金が発掘されると、金 を求めて植民者が殺到するようになり、条約はなし崩し的に改訂されていった。生活手段を 失い、生活に困窮し、飢餓状態に陥っていたラコタ族の何人かの人々は、生活物資の支給と 引き換えに、ブラック・ヒルズの譲渡に応じた。しかし第二次ララミー砦条約では、土地割 譲に関しては、成人男子の四分の三以上の同意がない限り成立しないと規定されていたが、

このブラック・ヒルズの譲渡に同意したのは、成人男子の一割に過ぎなかったことから、こ の譲渡は無効であるとして、現在も係争中である41。このように政府との間に条約が締結さ れても、白人側の都合によって、白人に有利になるように一方的に変更されるのが常であり、

ブラック・ヒルズはグレート・スー保留地から譲渡されたものと見なされた。

1887年には、個人所有によって部族制度を解体しようと、土地を個人へ割り当てる一般 土地割当法(General Allotment Act)が制定された42。この法律によって、家長に160エ ーカー、18歳以上の単身者に80エーカー、18歳未満の孤児に80エーカー、割り当ての大 統領命令の発令以前に生まれた18 歳未満の単身者に40エーカーの土地が、それぞれ割り 当てられた。そして余剰地は1エーカー2ドル25セントで連邦政府に買い上げられた後、

入植者に払い下げられた43。この法律によって、1881年に15,600万エーカーあった先住民 の土地は、1890年には10,500万エーカーに、1900年には7,800万エーカーにと段階的に 減少していった。1887年に割り当てられた13,800万エーカーの土地も、売却や不当譲渡

40 Treaty of Fort Laramie (1868),<http://www.pbs.org/weta/thewest/resouces/archives/

Four/ftlaram.htm>(2016年6月8日)。Prucha, op.cit., pp.109-113.

41 Prucha, op.cit., pp.109-113.

42 ドーズ法(Dawes Act)と通称されている。

43 Prucha, op.cit., pp.170-173, 182-184. Daws Act:1887<https://www.ourdocuments.sov/

Doc.php?flash=ture&doc=doc>(2016年6月10日)。

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[図表3] 多州に亘っていたグレート・スー保留地。

出典)North Dakota Studies, <http://ndstudies.gov/content-great-sioux-reservation>

Cassie Theurer, La Zarus, Black Hills, White Justice, p.17より添付。

(2016年6月14日)

[図表4] 分断された現在のスー保留地(黒い部分)。 出典)The National Altas of the United States of America,

<http://nationalmap.gov/small_scale /printable/images/pdf/fedlands/SD.pdf>より添付。

(2016年6月14日)

(26)

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によって、1934年には4,800万エーカーにまで激減した44

スー族も土地割り当ての結果、44,000平方キロの余剰地が発生し、農耕には不向きだが牧 畜には適した土地に、約1万人の植民者が押し掛けた45。その結果、それまで一つにまとま っていたグレート・スー保留地は、この割り当てによって6つの保留地に分断され、現在に 至っている[図表4]。土地所有と言う概念さえ持たず、土地は自由に往来できるものだと考 えていた先住民だったが、他部族との争いで得た境界線もない曖昧で緩やかな土地所有か ら、連邦政府によって定められた領土(Territory)、そして保留地(Reservation)へと居住 空間は狭められ、かつ明文化されていった。

3-3:現在の先住民の状況

このように保留地への移住を強制され、「滅びゆく民族」と称された時期もあったが、現 在は僅かながら、その数を増やしている[図表5-1]。近年、「自分には〇〇族の血が入ってい る」と誇らしげに標榜するハリウッド・スターが増えたように、自身を先住民であるとか、

先祖は先住民であると発言する者が増えた。そこには先住民であることが恥ではなく、むし ろクールであると捉えられるようになり、先住民当人たちからは揶揄の対象となっている が、(アメリカの)先住民になりたがる非先住民のインディアン・ワナビー(Indian Wanabee)

が出現するなど、アメリカ社会の意識変化は先住民アイデンティティの意識に影響を及ぼ している。

植民時代の白人植民者と先住民女性との婚姻から始まり、アメリカ社会内のグローバル化 の影響もあって、先住民と他民族、特に白人、それに次いでアフリカ系との混血化、また白 人・アフリカ系プラス他人種による、多混血化が進んでいる[図表5-1, 5-2]。このように混 血化が進んでいる背景には、先住民が他民族と密に接触することが可能な都市部での移住 が進んでいることを示している。アメリカ先住民は、「インディアン保留地」と呼ばれる土 地に押し込まれて居住している印象を持たれがちであるが、実は都市に移住する「都市イン ディアン」の方が増えている。後の 3 章で「都市インディアン」が生まれた経過を述べる が、第二次世界大戦が開戦した1940年代以降から都市部に居住する先住民が増え、1952年 から始まった自主的移住プログラム(Relocation Program)に後押しされたこともあり、現 在では半数以上の先住民が保留地から離れて都市部に居住している46。このような「都市イ ンディアン」は、1960年代にアメリカ先住民運動が活発化していく中で、先住民文化が残 る保留地を訪問し、伝統儀式へ参加することによって、先住民の精神世界を体験し理解しよ うと努めた。多民族との混血が進む中で、先住民としてのアイデンティティを示す要因とし

44 藤田尚則『アメリカ・インディアン法研究(Ⅰ) インディアン政策史』北樹出版、2012 年。350-357頁。

45 横須賀、前提書、142-143頁。

46「自主的移住プログラム」については、本論文87頁を参照

参照

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