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:寄宿学校という教育形態

第 1 章 :北米における先住民教育

第2節 :寄宿学校という教育形態

2-1:寄宿学校の始まり

第 1 節でも述べてきたように、先住民への教育は植民地時代から関心を持たれ、白人家 庭や学校組織など、様々な形での教育が試みられてきた。19 世紀に入って寄宿学校での教 育が取り入れられると、寄宿学校制度は先住民の文明化に効果のある装置として一般化さ れた。先住民教育を特徴づける存在として言及されるようになっていった寄宿学校制度は、

黒人児童を対象としたハンプトン農業師範学校(Hampton Normal and Agricultural Institute)から始まった。初代校長であったサミュエル・C・アームストロング(Samuel

Chapman Armstrong)は、1839年にプロテスタントの宣教師の息子としてハワイで生ま

れ育ち、自身もホノルルの学校に通った。また父親と共にハワイの学校を見学して回り、そ の中でも手仕事も教えていたラハイナルナ学校(Lahainaluna Seminary)と、職業訓練教 育を重視したヒロ寄宿学校(Hilo Boarding School)は彼の関心を引き、後の学校設立の方 針に影響を及ぼした。父親の急死を受け、21 歳の時にハワイを離れると、合衆国マサチュ ーセッツのウィリアム大学(William College)へ入学し、1862年に卒業した後に南北戦争 の北軍に志願した。ゲティスバーグの戦いでの功績が評価され、黒人部隊(Colored Troops)

の指揮官となるが、南北戦争が終結すると、ヴァージニアの解放民管理局(Freedmen’s Bureau)の監督官となった。こうした経験が評価され、解放黒人の為の学校を建設しよう としていたアメリカ伝道協会(American Missionary Association)から請われて、1868年 にヴァージニアで開校した、解放黒人の子弟を対象としたハンプトン(Hampton Normal and Agricultural Institute)の校長に就任した。アームストロングは、ハワイで見学してき たハワイ先住民教育を模範として、そこでハワイ先住民に行われていた教育方法をハンプ トン農業師範学校でも取り入れた。ここでは白人教師よりも経費のかからない黒人教師の 育成と、農業や就業技術の習得といった職業訓練教育が重視された31

このハンプトン農業師範学校(以後、ハンプトン校と表記)の存在に関心を持ったのが、

後に先住民児童を対象とした保留地外寄宿学校の設立に尽力することとなった、リチャー ド・ヘンリー・プラット(Richard Henry Pratt)である。1840年に生まれたプラットは、

父の死を受けて13歳で教育を修了した後、亡き父に代わって母や弟たちを養うために仕事 に就いた。21 歳で南北戦争に志願兵として参戦し、一度は軍を離れたものの、再入隊する と、バッファロー・ソルジャー(Buffalo Soldiers)と呼ばれた黒人部隊や、先住民斥候の 指揮官として活躍した。1875年には、先住民捕虜72人を、彼らの故郷から遠くはなれたフ ロリダのマリオン砦(Fort Marion)へ移送する任務に志願した。砦では捕虜先住民の足枷 をはずし、髪を短く切らせて軍服を支給し、軍隊式の指導の下で、看守や近隣の日雇いとい

31 Donal F. Lindsey, Indian at Hampton Institute 1877-1923, Illinoi, University of Illinoi Press,1995, pp.1-9.

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った労働に従事させた32。また50人ほどの捕虜を4クラスに分け、プラット夫人や地元の 女性の手を借りて、砦内で毎日 2 時間の英語の授業を行った。このような教育で先住民捕 虜たちは確実に文明化に向かっていると、その成果をシャーマン将軍やシェリダン将軍ら に報告している33

このように捕虜収容所で行われた先住民教育を通じて、白人社会に順応した先住民を育 てることができると考えるようになったプラットは、前述したハンプトン校の存在に関心 を持ち、ハンプトン校に先住民生徒の受け入れを打診した。アームストロングは、住民生徒 の受け入れを承諾し、1878年からハンプトン校に先住民も入学することとなった。これを 契機に、ハンプトン校は黒人だけではなく、先住民教育にも関わることとなった。しかし約 半世紀続いたハンプトン校での先住民教育は、1923年の卒業生をもって、その役目を終え ることとなる。なお、ハンプトン校はその後も教員養成を主軸にカリキュラムの充実を図り、

現在はハンプトン大学(Hampton University)として、アフリカ系アメリカ人を中心とし た高等教育の一角を担っている34

ハンプトン校に先住民教育を依頼したプラットだったが、より効果的に先住民の文明化 を推進させる装置として、かつて捕虜収容所で行っていた先住民教育の経験に基づいて、

先住民児童のみを対象とした学校の設立に取りかかった。プラットは内務省や陸軍省への 働きかけ、保留地から離れたペンシルバニアにあった騎兵隊の旧兵舎を再利用する形で、

カーライル実業学校(Carlisle Indian Industrial School)を開校した35。この地域には、

非暴力と平和主義を謳い、先住民への偏見も少ないクエーカー教徒が多く居住していた。

地域住民との良好な関係を希望していたプラットにとって、最良と思われる場所での開校 だった36。地域住民との友好関係は、地域を巻き込んでの先住民の文明化にとって必要不 可欠な要素だとプラットは考えていた。その友好的な関係の中で、カーライル実業学校

(以後、カーライル校と表記)の生徒たちは、地域住民と共に行事へ参加し、白人家庭に 住み込みで働く校外労働の機会を得ることとなった。

プラットはカーライル校への入学者を募るために、自ら保留地に足を運び、先住民児童 へ入学の勧誘を行った。ローズ・バッド保留地では、チーフの一人であるスポッテッド・

テイル(Spotted Tail)を始めとする、ラコタのリーダーたちと面会した37。かつて一方的

32 Linda F. Witmer, The Indian Industrial School, Carlisle, Pensylvania 1879-1993, Pennsylvania, Plank’s Suburban Press, 1993, pp.1-17.

33 Richard Henry Pratt, Robert M. Utley(ed.), Battlefield and Classroom, Norman, University of Oklahoma Press, 2003, pp.167-179.

34 Hampton University:History, <http://www.hamptonu.edu/about/history.cfm>(2016年 7月14日)

35 Witmer, op.cit., p.11.

36 Jon Reyhner and Jeanne Eder, American Indian Education, Norman, University of Oklahoma Press, 2002, p.134.

37 チーフ(Chief)とは、人々の合意によって選ばれた、部族民の意志を調整し代表する 者であり、権力者を意味するものではない。

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に条約を破棄され、ブラック・ヒルズを占拠された経験をもつスポッテッド・テイルは、

白人に、そして白人であるプラットに不信感を抱いていた。それに対してプラットは、白 人の言葉である英語の読み書きが出来るようになれば、連邦政府との交渉や条約の内容も 理解できるようになり、今までのような一方的な条約破棄といった問題も起こらなくなる と、英語習得の必要性を強く説き入学を勧めた。当初は部族児童の入学に反対していたス ポッテッド・テイルだったが、プラットの説得に押し切られ、他のリーダーたちと相談の 末、スポッテッド・テイルの5人の子弟を始め、ローズ・バッド保留地に在住する児童た ちが、カーライル校に入学することとなった。プラットはパイン・リッジ保留地も訪問 し、レッド・クラウド(Red Cloud)らと面会すると、スポッテッド・テイルが子弟の入 学に同意した旨を伝えると共に、同じように英語教育の必要性を説いてカーライル校への 入学を促した。この勧誘活動の結果、両保留地から82人の児童が入学することとなり、

かつて捕虜だった先住民にも勧誘を託したことで、カイオワ族やシャイアン族からの入学 者も確保した38

寄宿学校への批判の一つとして、児童の部族や家族との引き離しがあげられるが、入学 に際しては、学校側が家族から無理やり引き離して入学させていたのではなく、学校側か らの勧誘に応じて、親の同意の上で自らの子供を入学させていたことがわかる。社会の変 化を感じ取っていた親たちは、子供の将来や自分たちの生活の改善にも役立つと考え、寄 宿学校での教育を受けさせることを承諾した。このようにプラットの説得に応じて、親の 期待を担って入学することになった先住民児童に対して、軍人出身のプラットは、捕虜収 容所と同じような軍隊式の厳しい規律の下で白人化教育を行った。徹底した先住民性の排 除と文明的な白人化を目指していたことは、プラット自身の「インディアンは殺せ、人間 は救え(Kill the Indian and Save the Man)」の言葉に表わされている。

2-2:寄宿学校での生活

カーライル校を始めとする寄宿学校に入学した児童は、先住民特有の野蛮な習慣の一つだ と考えられていた長髪を短く切られ、入浴かシャワーを浴びせられた。その上で保留地から 持ってきた荷物は没収され、伝統的な先住民特有の衣装から男子は士官学校生の制服へ、女 子はビクトリア朝の洋服へと着替えさせられた。同じ先住民児童によって、入学前と入学後 を比べた写真が撮影され公表された [写真 7]。こうした入学前後の目に見える明らかな外 見的な変化は、先住民の文明化への成功を強く印象づける宣伝効果をもたらした39。入学す ると断髪だけではなく、本来の部族語による名前も英語風の名前に改名させられた。改名の

38 Witmer, op.cit., pp.13-15.

Carlisle Indian Industrial School History, op.cit.,(2016年7月16日)

39 Molly Fraust, Visual Propaganda at the Carlisle Indian School, <http://chronicles.dic Kinson.edu/studentwork/indian/5_propaganda.htm>(2016年7月 27日)