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:ホーリー・ロザリー・ミッション・スクール開校

第 2 章 :パイン・リッジ保留地のカトリック・ミッション

第3節 :ホーリー・ロザリー・ミッション・スクール開校

3-1:レッド・クラウドの存在

第二節で述べてきたように、ローズ・バッド保留地とパイン・リッジ保留地は、保留地に 住むラコタ族からの要請に後押しされて、監督派から譲り受ける形で、カトリック教会によ る契約学校が開校されることとなった。レッド・クラウドと共にカトリック教会の招致活動 を行ってきたスポッテッド・テイル亡き後、1886年にイエズス会によるセント・フランシ ス・ミッション・スクールがローズ・バッド保留地に開校した57。1888 年には同じイエズ ス会によって、パイン・リッジ保留地にホーリー・ロザリー・ミッション・スクールが開校 された。こうして「カトリックの神父やシスターから教えてもらえば、自分の子供たちも英 語の読み書きができるようになり、白人の子供たちと同じように聡明になれるだろう」との 期待を抱いて、カトリック教会による教育を希望したレッド・クラウドの願いは、実現され ることとなった。

レッド・クラウドが教育を必要と感じた背景には、当時のラコタ族を巡る状況の変化と、

レッド・クラウド本人が白人社会と接してきた経験から得た、部族の今後への想いがあった。

まず1876年に保留地での居住を連邦政府によって強いられたことによって、獲物を追って 自由に場所を移動しながら行う、従来の狩猟生活を続けることが不可能となった。それに加 えて、白人の乱獲によってバッファローの数は激減し、生活の基盤をバッファローに依存し ていた、ラコタ族を始めとする大平原文化圏に属する先住民たちの生活様式は、根本から変 容せざるを得なくなった。狩猟・採集を中心とした経済基盤が成立しなくなり、サウス・ダ コタ州で主流であった農耕や畜産などの経済体系へ移行するしか選択肢はなくなっていた。

しかしラコタ族に割り当てられた保留地は農地には向いていない痩せた土地だった上に、

農具の不備や指導者不足なども加わり、ラコタ族を巡る状況は悪化する一方だった。それに 従って、バッファロー狩りと深く関わっていたラコタ族の宗教や文化にも揺らぎが生じ、価 値観に混乱が生ずるようになった結果、アルコール依存症や犯罪、家族の崩壊といった諸問 題が起きるようになった。それら問題の解決に向けて、労働こそが宗教的生活の基盤である と考えるカトリック教会は、狩猟・採集ではない新たな労働体系に価値を見出すように説く など、労働を通じたラコタ社会の立ち直りを試みた58。そしてカトリック教会は学校教育に おいても、英語の読み書きだけではなく、ラコタ族の宗教や文化とカトリック教会の教義と の類似点を生かして、時代に応じた新しい価値観を生徒たちに植え付けることや、経済的自 立を果たせるように「働くこと」を推奨した。ラコタ族がカトリックを選択した背景の一つ には、長年にわたるラコタ族との親交を通じて、ラコタ族の実情や問題を知っているカトリ ック教会の神父たちに、教育に留まらない様々な問題にも関わってもらうことで、問題解決 の道を探ろうとしたこともある。そして急変したアメリカ社会の中で部族が生き残ってい

57 Kreis(ed.), op.cit., p.72, pp.86-87.

58 Enochs, op.cit., p.36.

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くために、次世代への教育に可能性を賭けたのだった。

セント・フランシス・ミッション・スクール(以後、セント・フランシス校と表記)とホ ーリー・ロザリー・ミッション・スクール(以後、ホーリー・ロザリー校と表記)の神父た ちは、同じイエズス会から派遣されていたこともあり、学校建設や運営において協力関係を 結んでいた。ホーリー・ロザリー校は、セント・フランシス校の神父たちの助けやラコタ族 の手を借りて、ラコタ族のパイン・リッジ・エージェンシーから4マイル半(約7キロメー トル)の高台に1887年に建設された。建設にかかわったラコタ族のほとんどは、レッド・

クラウドの要請に従って自ら志願した者で、その労働に対して支払われたのは僅かな金額 で、ほぼボランティアに等しい働きだった。このようなカトリック教会とラコタ族の協力も あって、1888年にホーリー・ロザリー校は開校に至った。ホーリー・ロザリー校の正式の 開校は、イエズス会の創設者であるイグナチオ・デ・ロヨラ(Ignacio Lopez de Loyola)が 亡くなった、7月31日のイエズス会の重要な聖名祝日に合わせて行われ、レッド・クラウ ドも参加して、神父やシスターたちの到着を歓迎した59。今まで数々の戦闘において殊勲を あげ、部族を代表するチーフとして連邦政府との交渉の場に立ち、ワシントンDCやニュー ヨークに招待されたこともあったレッド・クラウドだったが、自分の望みが叶ってカトリッ ク教会による教育が実現されたこの瞬間が、彼にとって最後の活躍の場となった。

3-2:ミッション・スクールの教育体制

カトリック教会の伝道活動は学校と教区とにわたっており、イエズス会の神父とフラン シスコ会のシスターが教鞭を取る一方で、イエズス会の神父は学校や教区を管理し、司祭と して礼拝や秘跡を執り行った。セント・フランシス校は3人の神父、10人の修道士とシス ターによって、またホーリー・ロザリー校は3人の神父、6人の修道士、10人のシスター によって学校業務が始められ、両校の間では人的移動が頻繁に行われていた。また1890年 代の中頃からは、イエズス会で教育を受けラコタ語を学んだ神学生が、寄宿学校の学部長と して学生指導を任されるようになった60。両校では人材や情報が共有され、カトリック信仰 に基づいて、同じような教育が行われていた。

聖職者になる過程で、哲学、神学、人文学といった広範囲の学問を学んでいたイエズス会 の神父たちは、宗教者であると同時に、教師として生徒指導に当たった。そして女子教育の ために、教育学、算数、読み書き、語学といった一般教養に加えて、家政学一般を学んだフ ランシスコ会のシスターたちが招かれ、同じ女性同士の立場で先住民女子の教育に携わっ た [写真19]。一般的な寄宿学校では、教師の質が問題視され定着率も低かったが、ミッシ ョン・スクールでは一定の教育を受け、カトリック信仰に基づいた共通した理念を持つ聖

59 Kreis (ed.), op.cit., p.27. なお聖名祝日とは、キリスト教において聖人に認定(列聖)

された者を記憶する日であり、その多くは聖人とされた者の亡くなった日である。

60 Ibid., pp.27-28.

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[写真21] ホーリー・ロザリー・ミッションの神父とシスターたち。

出典)Missionary sisters the Holy Rosary, <https://www.mshr.org/history/>より添付。

(2016年10月24日)

職者たちによって、長期にわたる教育を行うことが可能であった。一定の教育を受けたイエ ズス会やフランシスコ会の神父やシスターたちが教師を務めるカトリック・ミッション・ス クールは、教育の質が確保されている優れたアメリカの学校として評価されるようになっ ていった61

開校初日には生徒も15 人から20 人程度しか集まらなかったが、最終的に初年度には男 女それぞれ100 人が入学するようになり、翌年には 125~130 人と、その数を増やしてい った。そのうち30~40人はプロテスタント系の連邦政府管轄の寄宿学校からの転校生であ り、これら転校生がカトリック信者へ改宗する可能性も見込まれたことから、カトリック教 会にとって、転校生の存在は歓迎すべきことであった。ミッション・スクールの役割として、

教育を通じてカトリックの教義を教えることも重要であり、入学者のうち 60 人が洗礼を、

30 人が聖餐式を受けたと、信者数の増加が報告されている62。ラコタ族には元々カトリッ ク信仰への理解が多少あったことから、カトリック教会の教義は、生徒を通じても親や親族 へ伝えられていくことによって、部族への布教に貢献することもあった。

ホーリー・ロザリー校は同じカトリックの価値観の下で、先に開校したセント・フランシ

61 Ibid., pp.29-39.

62 Ibid., pp.86-87.

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ス校の教育方針やカリキュラムを踏襲した。基礎教育に加えて職業教育に力が置かれた形 態は、従来の一般寄宿学校と類似していた。基礎教育は英語の読み書きと算数が核となって おり、他に聖書と祈祷、ラコタ語と英語による賛美歌に加え、キリストの生涯を教えるなど、

ミッション・スクールならではのキリスト教に特化した教育も行っていた。イエズス会の聖 職者たちはラコタ族が持っている能力を評価していたが、働く意欲に欠ける傾向もあると して、高学年になると職業教育に重きが置かれるようなっていった63。就労教育によって労 働の価値を教え、労働を日常的に習慣づけることで、かつての生活手段であった狩猟・採集 が不可能となった時代に、自活の道を探らせようとした。

イエズス会は学校に農場を所有しており、生徒に農業を体験させると同時に、収穫物を学 校に供給することで、自給自足を実践した。後に高校と職業訓練学校(Industrial School)

とを併設するようになり、男子学生には教会所有の農場や牧場で、農業・酪農・養鶏飼育な ど方法と、それらの作業に必要なトラクターや脱穀機などの機械の扱い方が教えられた。他 に大工、ブリキ細工、鍛冶、靴製作、電気配電、自動車整備、パン作りといった職人の育成 も図られた。習得した技術によって、木工細工や家具、飼育場のバケツや餌箱の製作、溶接、

生徒たちの靴の修理、電気工事や送電線の設置、自動車の点検や修理など、実践的な作業が 行われた。パン工房では教会所有の農場で収穫した小麦粉でパンが作られ、生徒たちの貴重 な食糧となっていた。このような特殊技能を持った卒業生たちの中には、ブラザーたちの弟 子として教会に仕えながら、校舎や教会、家畜小屋の建設や修繕、備品や家具の製作など、

学校の維持に欠かせない労働に従事した64

また女子生徒には料理、洗濯、アイロンがけ、洋裁、刺繍といった当時の家事一般を、後 に缶詰め製造、バター作りといった製造関係に加えて、タイプ、速記、簿記、経理といった 事務関係の技術も教えられるようになった。女子たちはシスターたちと一緒に政府から支 給された制服を繕い、クリスマス時には洋裁クラブを作り、寄付された織物や布からキルト を製作した。このキルトの出来は学校外でも評判となり、商品として一般に販売されるよう になった65。従来の寄宿学校の女子生徒と同様に、家事一般は先住民女性として身に着ける べき技術と同じだったことから、習得も早く高い技術を獲得するに至った。ラコタ女性はキ ルトのように、洋裁によって金銭的な恩恵を得ることが出来るようになったことから、自主 性も促されるとして洋裁技術を生かすことが奨励された。

このような状況に対して、ハンプトン校に勤務した経験を持ち、スー族の医師で後に作家 となったチャールズ・イーストマン(Charles Eastman)の妻でもあったエレイン・グッデ イル(Elain Goodale)は、学校監督官という立場で、技術の習得による手工芸品の製作や家 政学の学習成果を称賛するも、教えられている一般科目は時代遅れだと批判した66。この指

63 Ibid., pp.44-45.

64 Ibid., pp.45-47.

65 Ibid., p.48.

66 Elain Goodale Eastman, Sister to the Sioux: The Memories of Elain Goodale Eastman