研究ノート
「共学者」としての教師の姿を探る
― 奈良女子大学附属小学校の実践から ―
創価大学教職大学院
若 井 幸 子
要 約
本学教職大学院では、開設と同時に、国内国外の教育課題実地研究の一コースとし て先進的な研究校である奈良女子大学附属小学校(以下、奈良女附属小)の児童中心 主義、自律的な学習に多くを学び、大学院生が、自らの課題研究に取り組んでくるこ とが出来た。
奈良女附属小で行われている、いわゆる「奈良の学習法」は、大正期新教育運動の 指導理念である児童中心主義に基づいた教育であり、そこには、大正期新教育運動の 中心的人物であった木下竹次先生(以下、木下)の『学習原論』
1に学び、児童理解 の確かな方法論を持つ教師達の存在がある。これまでの研究(「学習を通した児童理 解における教師の視点を探る」
2以下「前稿」とする)で、奈良女附属小の教師達は、
学習指導において、どのように児童理解をし、児童の自律的な学びを支援し、主体的 に学びに取り組ませているのか、代表的な教師の実践事例により児童を指導するとき の教師の視点に注目し考察した。
今回は、前稿で示したように、奈良女附属小の教師達の授業における学習・児童 理解の視点がどこにあるのかに加え、もう一段深く、どのように学びを広げている か、その中で教師はどのような役割を担っているのか、前稿と同様に、大正期以来発 行し続けている「学習研究」や授業記録などの中に現れている教師の実践事例から『学 習原論』で力説されている「共学者」
3としての教師の姿に焦点をあて、探ってみた。
そこから、日記指導や自由研究、ノート指導など児童に「書くこと」を推進すること は当然のこととして、その実践を基盤にして、子どもと共に授業を作り上げ、また、
児童の学びを深めさせている教師の姿が、浮かび上がってきた。
キーワード:共学者としての教師 奈良の学習法 独自・相互・独自学習
すなわち、「学び」に取り組む児童自身を教師がどう理解しているかということだ けではなく、共に学び、学びを深めている「共学者」としての姿、共に刺激しあって いる姿勢が息づいていることが分かってきた。質の高い学びには欠かせない教師の在 り様、そこには、他人に育ててもらうだけではなく、児童も教師も共に学び、学びを 深め、自分自身で自分自身を伸ばそうとする学びを目指す教師の姿勢がある。「教師 は何よりもまず自分の建設を怠らぬことである。由来自己建設を怠るものが教権など を心配することが多い。」
4という木下の持論が、継承されている。
はじめに
木下は、『学習原論』に於いて、学習指導の教師について、以下のように述べている。
「学習は児童生徒がするのであるが、教師の職能はすこぶる重大であって学習にお いても活殺の機は教師が握っているというても差しつかえはない。教師は学習者の活 動を直観しその性能を診断しかれらの立場と方向とを誤りなく指導せねばならぬ。こ れを誤ると学習者がせっかく持っている能力を発揮させることはできない。教師は学 習者に霊感を鼓吹する人であり、鼓舞奨励する人であり、忠告者であり、案内者でな くてはならぬ。また、教師は、実にかれらの共学者であることを要する。実に教師と 児童生徒とは人類永遠の進歩を築き上げる親密なる同行である。あいともに伸びてい こうの態度を取る伴侶である。学習者は学習によって伸びる。教師は学習指導によっ て伸びる。」
5(下線:筆者)
また、同じく『学習原論』自序の中では「教師は学習の指導者でまた共学者である。
環境に順応しさらにこれを創造することは自己の創造発展と同一事実である。学習す れば師弟ともに全自己を活動させてともに伸び、ともに歓ぶことができる。かくのご とく学習のできるように構成組織した自律的学習学は、真剣にこれを実施したならば、
他律的教育学を実施して得た結果よりも頗る有効であって、往々われわれを驚歎させ ることのあるのは、久しい間多くの場所と人とで経験したことである。」
6(下線:筆者)
大正期新教育運動の中で木下自身が、実践しながら培ってきた理念、学習指導主義 は、児童自身の興味関心、生活の上での学びを最大限に価値付け、独自学習を奨励する。
そこには児童自身の学ぶ意欲が溢れ、自分の時間を楽しみ、真実を希求する姿がある と考えている。
そして、その児童自身の学びはさらに「おたずね」や「振り返り」という学び合い である「相互学習」へと進み、さらなる「独自学習」で学びを深める。それを定着さ せることによって「子どもは自分自身で、感覚的・拡散的な活動・思考と論理的な活動・
思考の調和を図り、「拡散と収縮」を自分自身の力として使いこなすようになる。
7こ れが「奈良の学習法」の核心であるといえる。
深い児童理解を前提にしてではあるが、その関係性の中で、教師は児童が自ら学ぼ
うとするよう促し、木下の言うところの「共学者」として、児童を案内し、忠告し、
共に伸びていこうと努力する人でなければならない。
今回の奈良女附属小での教職課題実地研究でも、「共学者」としての教師の実際に 触れる機会を得ることができた。その代表的な実践事例を通し、「共学者」として教 師がどのように関わっているのか述べていきたい。またそれは、教師が授業の中や実 際の生活で、児童といかに交流しているかという姿をたどってみることでもある。
また、児童生徒との交流といえば、忘れられない一場面を思い起こすことがある。
創価大学、創価学園の創立者である池田大作先生(以下、創立者)が、創価学園の 入学式の祝辞を述べられた折(筆者もその場に同席させていただいた一人である)の ことである。ちょうど満開の桜が校舎を飾り、児童生徒の晴れの入学を祝福してくれ ている日であった。
創立者は、講堂に参加した 1000 人ほどの学園生(小・中・高生)に「桜はなぜさ くらというの?」と質問を投げかけられた。すると、何人もの生徒がすぐさま手を挙 げた。いつものことであるが、創立者は何百人の生徒がいようと、一対一の対話をさ れている。その時も、創立者が指名した何人かの生徒が答えると「なるほど、そうか」
と真剣に耳を傾けておられた。当時、その答えが正解なのか、どうなのかということ にのみ捉われていた筆者は、満開の桜を見ながら、「え!その答えは正しい?…ちゃ んと調べたことなの?」「分かっている人が発言すべきでは?」等々、そのやり取り に「正解は?」とこだわっていた自分自身を鮮明に覚えている。
入学式では、生徒の答えにいちいち深くうなずき、感心されつつ「生徒との交流」
を楽しんでいらっしゃる創立者の姿があった。しばらく、創立者と生徒との交流の真 意を分からずにいた筆者は、後日、神奈川新聞への創立者の寄稿「教育の原点は対話」
の記事を読んだ時、はじめて創立者の生徒への応対の真意を知ることができたのであ る。
以下が神奈川新聞の内容である。
「青年は教えられるより、刺激されることを欲する(ゲーテ)。対話の極意『それは、
相手を尊敬することであり、先ず耳を傾けることであり、相手から学ぼうとすること』
『入学式でなぜさくらというのか尋ねてみた。元気良く手を挙げた 3人の生徒が、 『力 強く咲くからです』『爛漫と咲くからです』『冬を耐え抜いて咲くからです』と答えて くれた。『さくら』という名前自体に『咲く』という強い意志が秘められていることを、
伸びゆく詩人たちは鋭敏に直感している。」(神奈川新聞2008年3月31日)
まさに、満開の桜を見つめながら「伸びていこう」とする若き児童生徒の心を理解し、
励ましている創立者の姿であった。木下の言うところの「教師は学習者の活動を直観
しその性能を診断しかれらの立場と方向とを誤りなく指導せねばならぬ。これを誤る
と学習者がせっかく持っている能力を発揮させることはできない。」との言葉を思い
起こしたのである。自分の教える内容のみに汲々として、学習者の持つ優れた可能性
に着目し、「鼓吹する人」「鼓舞奨励する人」、「共学者」としての教師の姿とは程遠い 筆者が、「共学者」としての教師、学ぶものをその道に向かわせる刺激を与えること が教育にとっていかに重要なのかを考え直す機会となったのである。今思うと、創立 者と学園生の交流の場面は、敢えて言えば、創立者の「おたずね」に対して、問いか けられた学園生が、自らの「独自学習」を深め、新たなる学びを自身の内に想起して いたとも言えるのではないだろうか。
学ぶことの意味とは何かを再確認すると共に、児童と共に学びを創造し続ける教師 とはどのような教師なのかを考え、そして、一歩進んで、ただ単に共に学ぶ教師とい う捉え方から、児童の学びを深める刺激や方向性を示していく教師、すなわち、「共 学者」としての教師が、どのように学びを深める役割を担っているか、今回は谷岡義 高先生(元:奈良女附属小副校長 以下:谷岡)堀本三和子先生(現在:奈良女附属 小副校長 以下:堀本)の実践から「共学者」としての姿を探ってみた。
Ⅰ 奈良女附属小の「共学者」としての教師
『学習原論』に、「自律的学習法の真髄は児童が本来具有する所の創作性自律性を発 揚することだ。児童には本来伸びる力がある。教師はあまりに自分の力を過信して余 計な干渉をしてはならぬ。」
8とある。
奈良女附属小の谷岡は、「附小だより」(奈良女子大学附属小学校学校だより 2015 年9月15日10月号)で「木下竹次先生」と題して以下のように述べている。
「木下先生は、大正8年に本校に着任された時、各学級を見て回って『先生方は話し すぎる。もっと、子どもの声を聞くようにしなければいけない』というようなことを 言われました。現在も一緒です。先生が黒板の前に立ち多くを語り、教師の伝えたい 内容を子どもに教えるという教授法が一般的です。私たちはそうではなく、子どもの 疑問、感じ方、分かり方、子ども独自の論の進め方を子どもに辿らせながら、分かる 過程(学びの過程)を試行錯誤しながら追究させる学習です。本校で、子どもが創る 学習を進めていると、子どもは思ったより賢いことが分かり、自ら動き始めた子ども は、多様な資料を持ち込み読み込んで学習に取り組みます。さらに、自分で学習する ことの楽しさに気づいた子どもは、教科書の内容はすぐに乗り越え、学年をはるかに 超えた興味にも挑戦するようになり、社会的な追究へと発展していきます。」
子どもと真剣勝負の学習をしていると、6年生だと、中学、高校の参考書をもとに 独自学習をするので先生も高校レベルの参考書は読み込んでおく必要があるし、授業 では、教師は「そんなにレベルを上げないでください」という係りになりますと、谷 岡が話してくれたことがある。また、教師が情報を与えるとすぐ依存するので「へえ、
そうなん」「すごいね」「先生、知らなかったわ」の 3語でつなぎ、子どもに負けない
ように辞書を引き、「先生の辞書にはこうあるよ」と、ちょっとだけ情報整理をする
程度で学びが進んでいくとも話されていた。
前述のように、奈良の学習法では児童が生活から出発して、生活の向上を図り、自 己の発展を目的とするとし、学習は自己を社会化していく活動であるとする。そして、
その学習は、独自学習から始めて相互学習に、さらに進んだ独自学習へと進み、自 由と協同に富んだ社会化した自己を建設創造するとしている。そして、そのような児 童を育てる「共学者」のあり方について、『学習原論』教師の自己評価の章において、
教師の自己学習として、自らが学習しなければならない観点が 16項目
9にわたり提示 してある。
1 自ら修養してどれほど愛に徹底したか。
2 自ら進んで身体の修練をはかったか。
3 理財に留意し、職務遂行に遺憾なきことをえたか。
4 自然、社会、児童、生徒等の研究に努めたか。
5 職務に関係のある図画・雑誌をどれほど読了したか。
6 一般の図書・雑誌・新聞等をどれほど閲読したか。
7 学習に対する基礎科学・基礎芸術をどれほど研究したか。
8 自己の学習に関係ある種々の会合に出席したか。
9 他の学校または学級を参観して自己学習に役立てたか。
10 他人の暗示した学習法(新教授法)を経験してみたか。
11 自ら新学習法を工夫創作して経験してみたか。
12 自分はどれほど教育文献に貢献したか。
13 歓喜的に職務に励精し、職務によって自己を向上させたか。
14 つねに成功するまで努力したか。
15 自ら学習したことをどれほど活用したか。
16 他人の研究に冷淡な態度をとらなかったか。
概要は、「児童への深い愛情を元に」「研究・研鑽・努力に徹し」「その結果を実践 に役立て」「喜び勇んで自己を向上させて」いく留まることの無い向上、学びの姿を 示しているが、筆頭に児童への「愛に徹する」ことをあげ、最後に他人の研究や授業 に対する教師のありがちな姿勢「冷淡な態度」ではいけないと締めくくっていること に筆者はことのほか深い印象を受けた。教師の境涯論とも言うべき奈良の学習法を作 り上げている教師そのものの在り様、「共学者」の具体的な日々の姿が示してある。
Ⅱ 谷岡の実践に見る共学者としての教師
実際の日々の授業で、谷岡は子どもたちの学びを深めるために、どのように関わっ ているのだろうか。谷岡の実践記録「こぎつね物語」で探ってみた。
「こぎつね物語」とは、平成 22 年度 1 年生の担任として谷岡が一年間の教育実践を
詳細に記録し、「こぎつね物語」(2010年4月9日~ 2011年3月17日:全23巻)として 保護者に配布したものである。内容は、全ての児童の日記、そして、谷岡自身の日々 の授業準備の様子や保護者への思い、奈良の学習法の在り様などを記録したものであ る。各号B5 のノート 20 ページから 30 ページほどになろうか。勿論、40 ページを超 える号もあり、最終号(23 号)は 56 ページの大作である。1 号から 23 号までしばら くお借りして思索する機会を得た。
平成 28 年度「人間教育事例分析研究」の授業の一環として 6 月 11 日(土)に「奈 良の学習法」(奈良女子大附属小学校の自律的な学びについて)講演していただいた折、
院生もその中の 1部を分けて頂いた。
「こぎつね物語」の内容は、谷岡が名づけた、「まなびの森のしょうがっこう」に通 うこぎつね(谷岡の学級の児童)ときつね先生(谷岡)の日々の記録となっている。
谷岡の実践記録「こぎつね物語」を読み解くと、次のことが分かった。
1 児童との温かな交流への努力……毎日の学習の様子、全ての児童の日記を掲載
(1)実習に来ていた大学生が、「まだ、一年生になったばかりなので、みんなの前 で話すことができない子どももいましたが、谷岡先生が『明日は言おうね。一 緒に言うこと考えておこうか。』と優しい言葉をかけていたところ…先生から 答えをめったに出さず、『そうかもしれないね』と言い、と子どもの意見を尊 重していたところもすごくよかったです。」と記していた。第2号 pp.13-14
(2)また、他の学生は「あくまで主体を児童とした上で、踏み込みすぎない程度に 意見やまとめを提示し、困っている子には手を差し伸べ、消極的な子には喚起 を促し、小さなことでも褒めるといった様に、こどもへの深い愛情や思いやり を感じました」と。第6号 p.19
日記の掲載内容には日々の交流の様子が克明に書かれている。前述の『学習原論』
自己評価の筆頭にあげられている「どれほど愛に徹底したか」との教師像があらわれ ている。一人ひとりの子どもに対する細やかな配慮、深い理解があって始めて教育が 成り立つことが分かる。
2 労力を厭わない……きつね先生の日記として教師の日々の準備の様子を掲載
(1)5月6日(木)職員会議で遅くなる。九日分の全員の日記を読むのに 7時間ほど かかる。持ち歩いて、電車の中でも読む。第3号 p.15
(2)6 月 4 日(金)昨日のこぎつね物語を朝の地下鉄と近鉄電車で書く。集会後、
子どもが帰ってから日記、プリントを見る。18 時から奈良県理科の会 30 人近 い人が集まり理科研修の指導をする。第7号 p.32
40人の子ども達の日記を読んでコメントする、そして「こぎつね物語」にまとめる
労作業は容赦なく続いている。さらに、大学の実習生や公立学校からの指導要請にも
こたえる日々は谷岡の人生への挑戦のように見える。前述の自己学習と照らし合わせ て言えば「自ら学習したことをどれほど活用したか」谷岡の徹底した努力・活用には ただただ驚くばかりである。
3 家庭の協力を得る不断の啓蒙……家庭に「こぎつね物語」を届けることによって
日々の子どもの成長の姿を確実に伝え、常に学びを共有する
(1)「朝の発表」は、生き物、調べたこと、興味のある物、作品、本など、家庭か らの持込みのある子どもが、一人ひとり発表する時間であることを詳しく説明 する。第10号 p.23
(2)7 月 9 日(金)夏休みの生活について話す。こぎつね物語第十号を配布。その 後9月の月当番と話す。17時から奈良市教育委員会の理科担当の人が、理科学 習の進め方のヒントを聞きに来る。19 時 30 分に学校をでて、20 時から難波の ドトールで仕事をする。第11号 p.19
家庭への情報提供であるが、学校だけで子ども達は育つのではなく、学校も家庭も、
児童の生活するところ全てが学びの場であるとの奈良の学習法の基本理念から考えれ ば極自然な作業である。また、谷岡の信条は、保護者へのお便りは必須であり、この お便りのレベルで教師の目指しているところが保護者に分かる。この先生はこの程度 ねと見切られると、保護者は本気で動いてくれない。教師は、親も本気になる学習を 示していくことが大切である。日々修行であり、保護者に負けないということは、教 師が保護者より頑張っていることを何か持っていることであるという。
4 自身の実践を振り返り、さらに歩き続ける挑戦……子どもたちと先生が同じ「日
記」という媒体を共有することによって教師自身が「おたずね」や「ふりかえり」
など客観的に見直し、そして、新たな挑戦を開始する
(1)「こぎつね物語」を書いて思うこと
子ども達との日常は、二日前のことも思い出せないほど、めまぐるしく変化 していく日々です。書き留めないと、歩んできたはずの直ぐ後ろの道が、すっ かり消えてしまいそうです。また、書き留めた日記を読み返してみても、一週 間前の出来事が、遠い過去のように思えてしまうことも度々です。…子どもは 日々成長しています。4月の入学の頃と比べると、学習するからだに、徐々に 変わってきています。まず、学級では、話す学習活動を中心に学びの構築を進 めてきました。……発表、おたずね、おこたえという我が校の学習法は、一 年生では耳で聴く、目で確かめる、脳で理解する、口から発信するという知覚 のアンテナの感度を高め、多くの情報を取り扱えるように心がけました。また、
音楽、ダンス、造形、体育、プール、お出かけ、飼育、劇などの多様な活動を
通して、五感をフルに使って、更なる感性を高めてきています。究極的には、 「み
んなと一緒に楽しく過ごせる力の育成」を大切にしました。森の中を通り抜け るすがすがしい風のような気持ちを持ち、せせらぎのような会話と、あたたか な光のようなほほえみが、学級の基盤になると、どんな学びも、共に楽しみな がらすすめられます。一面的な教育の「めあて」は必要ありません。一人ひと りが自分の感性をいかして、さらに、相手を思いやりながらも自分もいきるこ と、それが学びの協同の姿です。第11号 p.20
この一文の中に、 「児童への深い愛情を元に」して、日々の記録を取る「努力に徹し」、
「その結果を更なる実践に役立て」ることが、教師も子どもも学びの道の豊かさを感 じ、「喜び勇んで自己を向上させて」いくことができるという姿が表現されていると 考えた。まさに、谷岡の「共学者」としての教師の在り様を見る思いがした。
(2)一年月組 こぎつね学級 お別れ
学び続けることは、歩き続けることです。自分の足で、自分の目で確かめ、
経験して学びを身につけることが大切です。家にじっとしていて、待っている だけでは、だれも何もしてくれません。自分から行動を起こして、自分で歩く といろいろなことに出合い、それが学びの第一歩となるのです。きつねTも歩 き続けています。第23号 p.55
子ども達と一年間一緒に学び続けてきた意義と、これからも、教師自身が、その挑 戦を続けていくという決意で「こぎつね物語」は締めくくられていた。学びの道は、
児童も教師も共に学び、自分自身で自己を強くすることによって獲得していくもので あるという意志を読み取ることができた。
5 記録を残し教育価値を伝える努力……1 年間の全ての記録を残すこと、そのこと
自体がすでに教育的価値を世に問いかけている
(1)O 君:4月12日の日記(はじめての日記)
「きょうはじめてのがっこうだった。おともだちもいっぱいできそうってお もったよ。らんどせるもはじめてあけてうれしかった。あしたのさんぽたのし み。」
(2)O 君:2月28日の日記(一年の終わりの日記)
「今日は二時間目に体育がありました。大なわとなわとびをしました。なわ
とびの時、前あやをしました。ぼくは、二回とぶことができました。ぼくはな
わとびがきらいです。でも、家で少しだけれんしゅうをしました。学校ではじ
めて、前あやができたので、うれしかったです。大なわは、ゆっくり三回とべ
ました。MくんとNくんはとても早くとべていました。なので、ぼくはすごい
なあと思いました。もっと早くなわとびのれんしゅうをしていたら、もっとは
やくなわとびができていたとぼくは、思います。今どからは、にが手なことで
もがんばると、ぼくはきめました。そうすると、できた時にうれしくなるから
です。明日は海ゆうかんです。ぼくは、ジンベイザメをしらべました。一時間 目に魚調べがありました。ジンベイザメについてでした。ジンベイザメをしら べている人は多かったです。ぼくは、ジンベイザメをしらべていましたが、し らべていなかったことがいくつかあったので、書きます。らんたい生は、ジン ベイザメのほかにホオジロザメなどがいるそうです。明日は、六年生と一しょ になかよくしたり、どんな魚がいるか見て、よくかんさつしたいです。」
「こぎつね物語」には一年間の全てが記録されている。表紙は子ども達の様子を捉 えた写真や絵、時には落ち葉に一人ひとりが感謝の言葉を書いた号もあった。学習の 記録がきちんと残され、谷岡の毎日の仕事の様子講演の要点や来談者も記している。
何よりも圧巻は子ども達一人ひとりの日記である。代表例として、この一年間のひと りの子どもの成長の姿(学びの自己組織化といえるO君の事例)を挙げた。(1)(2)
を読み比べると自己の学びがどのように深化しているかその一分を知ることが出来る。
谷岡が「私たちの学習法は、大正時代から少しずつ発展してきています。」(奈良女 子大学附属小学校学校だより 2015 年9 月15 日10 月号)と記しているように、平成時 代の現在では、学びの基盤となる、 「日記、自由研究、朝の元気調べ」の活動を大切にし、
さらに、「めあて・ふりかえり、おたずね・おこたえ、子どもの進行による学習・生活」
による「学びの自己組織化」を目指している。このように記録をし続ける中で、教師 自身が自分自身の実践の教育的価値を見直し、再発見をし、「奈良の学習法」の更な る進化を目指しているのである。
Ⅲ 堀本の実践に見る共学者としての教師
堀本は、この 4月に副校長に就任、学校全体の管理運営の任にあたられている。前 年度まで、教育課題実地研究で訪問させていただいた折は、「しごと」学習で食糧問 題を扱った「小麦」の授業、そして「税金」の授業などたくさん参観させていただいた。
特に「しごと」「けいこ」「なかよし」という奈良の学習法の中心軸にすえられている
「しごと」学習については、長年研究を重ねて来られている。今回は、四年生しごと
「くらしの中の木を探ろう」、五年生しごと「育てた小麦から世界を広げよう」等を「学 習研究」にまとめた内容から「共学者」としての教師の在り様を探ることとした。
1 質の高い学びの保障……「学習研究」(2013年4月462号 pp.6-9)より
堀本は自身の授業を振り返り、見えてきた次の 5点を質の高い学び合いの要件とし てあげている。
(1)自分の課題を追究する充実した独自学習がなされること
まずは、自分の気になることにこだわり、課題を見つけて自分なりの方法で追究す
ることで、自分と対象とのかかわりを深め、自分のこととして考えられるようになる。
(2)自分の生活と密接にかかわる奥の深い中心問題を定められること
この選び方によって学習が勢いづいたり、勢いがとまったりすることがある。教師 が子どもの独自学習を適切に把握して、ねうちのある問題を設定する。
(3)資料や体験などの根拠をもとにして自分の立場をはっきりさせられること 独自学習によって自分の考えをつくる時、単なる思い付きではなく根拠がはっきり していることが大切である。その拠り所がはっきりしていなければ、論理的に思考す ることができない。さらに、論理的な考えは、学び合いにおいて友達からの納得を得 ることができる。
(4)友だちの考えを受け入れる「おたずね」や「つけたし」ができること
相互学習において、子ども達は、友だちの考えを批判的に聞くことはしない。むしろ、
自分とは違う考えや分かりにくい内容に対しての「おたずね」をすることによって友 だちの考えを受け入れようとする。また、「つけたし」をすることによって友だちの 考えを具体化しようとする。互いの考えを理解し、受け入れた上で意見を述べ合うこ とは、肯定的な学び合いとなる。互いの考えを認め合いながら、よりよい自分自身を 目指すことが、さらなる独自学習へとつながる。
(5)自分に向き合い比較・検討し、自分で自分を伸ばそうとすること
自分の良さも改善点も含めて、今の自分と正面から向き合える子どもを育てたい。
他人に伸ばしてもらおうと考えている子、友だちや周りの大人からの指導を期待して いる子では伸びていけない。ひとりで学習できる自分を意識し、自分で自分を伸ばそ うとする心の強さを身につけさせたい。以上5点である。
このように学びを保障する確かな視点を掲げて授業づくりに取り組んでいる。
一番注目したいのは、「おたずね」や「つけたし」は子ども達にとって肯定的な自 己建設につながっているということである。お互いの独自学習に肯定的な相互学習が 積み重なることによって、子ども達は安心して自分の学びを整理し、修正していくこ とができるのである。何の心配も無く、学びの場で存分に自身の考えを深めていくこ とができる本当の理由を、堀本の授業から感じ取ることが出来た。
2 「 自 分 か ら 」 広 が る 世 界 を 見 つ め る 眼
……「 学 習 研 究 」(2013 年 8 月 464 号 pp.10-15)より、さらに、堀本の授業では、「くらしの中の木を探ろう」において も「東日本震災の被害と復興を考える」でも課題を「私のこと」として捉える子 ども達の姿があった。では、子ども達の学び、課題設定はどのようになされるの だろうか。堀本が育てたい力を課題の設定の仕方から考えてみる。
(1)連続した自由研究における課題設定
一人ひとりが、日常生活の中から興味を持ったことや疑問などをもとに自由研究が
始まる。自分の気づきを相互の「発表」という場に出されることによって、さらに自
身の追究を進める動機付けが生まれる。その追究は、更なる課題を発見することにな
り、世界が広がっていくのである。
(2)共通テーマにもとづいた課題の設定
授業における共通テーマで課題設定した場合においても、 「独自学習」から始まり「相 互学習」に移り、最後は更なる「独自学習」へと進む原理は同じである。
例えば「森林・林業」をテーマとした学習に取り組むとき、自分の興味や関心から 課題を見つけて追究を始める。森林のはたらき、森林と水の関係、日本の森林、天然 林と人工林、林業って何だろう、林業に取り組む人達の一年、今と昔の林業、吉野の 森林、吉野スギのひみつ、家具と吉野杉、祖父母の森、森林と環境、林業と環境問題、
日本の林業の危機と木材輸入、製材所の見学、近畿中国森林管理局の仕事、割り箸と 林業などである。このような一人ひとりの課題追究から学び合うことで、子どもは森 林や林業の概要をつかむ。そのなかで、おたずねが集中した問題や気になっているこ とが学習の中心となり、共通テーマの課題となっていく。独自学習がともに納得した 相互学習へと昇華していく過程がここに示されていた。納得した上での相互学習は、
次の更なる独自学習を生んでいるのである。
3 学びあう子どもに寄り添う教師の役割……「学習研究」(2013 年 4 月 462 号 p.9)
より
「学習は子どもの言葉で始まり、子どもの言葉で終わる。では、教師は何をしてい るのだろうか。ふり返ってみると、私は、子どもが表現した言葉や文章から学習とし て価値のあるものを取り上げ、どんな意味を持つのか、なぜ価値があるのかを示しな がら、よりよい学習を創ろうとする子どもを励ましている。教師が価値づけてやるこ とによって、より質の高い学びを創ろうとする子どもが育つと考えるからである。」
堀本が、子どもの言葉で始まる授業の中で真剣に子ども達の発言を記録し、アンダー ラインを引く姿を筆者は拝見している。そのノートの一部を見ると、税金の授業では
「根拠」「アンケート結果」「実績」「奈良でしか買えないもの」「奈良らしさを捨てな いとだめ」「奈良らしさを捨てたら終わりだ」等々の子どもの発言にアンダーライン が引かれ、堀本も授業の議論に真剣に耳を傾けておられた。その姿は、どのように価 値づけをしたら良いのか次から次へと発言する子ども達の思考、思索に必死で追いつ いていく姿のようにも見えた。子ども達の発表や発言を価値付けていくところに、教 師の本領の発揮があると捉えている。
4 子どもへの信頼……「学習研究」(2013年4月462号 p.9)より
また、学び合いの場面では、教師が、話題が大きく外れそうなときに戻す役目もあ
るが、学年が上がるにつれて自分たちで戻せるようになってくるそうだ。そこには学
習集団としての成長が見られ、そんなときは、教師も一人の学習者として子どもと同
様に意見を述べたり、子どもの考えから気づかされたりし、共に学ばせてもらうこと
も多くなるとのこと。こどもが何を言い出すのか、当たり前ではないことをも楽しみ に思えてくると述べている堀本の教師の姿に、前述の「学習者は学習によって伸びる。
教師は学習指導によって伸びる」との言葉が重なって見えた。真摯に取り組む学習の 雰囲気をつくり、言葉の環境を整えることが大切な役割であるとし、堀本は、授業に おける子ども達の学びの価値づけに楽しみながら挑戦していた。これが堀本の「共学 者」としての教師の姿であると捉えた。
『学習原論』に記された、子ども達への深い信頼に基づく「実に教師と児童生徒と は人類永遠の進歩を築き上げる親密なる同行である。」と自己学習を再現している教 師の姿があった。
Ⅳ 奈良女附属小に学ぶ意義
今秋は、9回目となる奈良女附属小の教育課題実地研究が予定されている。いつも 院生の事前学習の折には、奈良女附属小の歴史や『学習原論』を学び、 「奈良の学習法」
の目指すもの、「独自学習・相互学習・さらなる独自学習」また、教育構造としての「し ごと」「けいこ」「なかよし」はいかなるものか、「児童中心主義の自律的な学びとは 何か」など、大まかに奈良女附属小の全体像を把握し、自身の研究課題を設定する。
それで、だいたいを掴んだ気持ちで院生は実地研究に参加するのだが、あまりにも 子ども達が自律して学んでいるので、「正直、このような授業は見たことが無い」「学 校で学ぶこととは何か分からなくなってしまった」「子ども達の可能性はすごい」「ま だまだ子ども達の可能性を信じることができていなかったことに気づかされた」「ど うしたらあんな授業ができるのか」等々の感想を持つことが多い。このような感想に 基づき、筆者も 5回にわたり、奈良女附属小で学んだことを創大教育研究に投稿して きたが、中でも、一番学んだことは何かと問われれば、それは、成長し続けている教 師の存在であると答えたい。
「奈良の学習法」を学ぶ意義は、様々な点をあげることができると考えるが、まず、
第一に、それを実現しようとする教師の存在を学ぶことにあり、その教師一人ひとり は、『学習原論』に示された教師の自己学習第一項目「自ら修養してどれほど愛に徹 したか」とあるように、 「子どもを心から愛し」「子どもの可能性を信じ」その上で、 「子 どもからの信頼を勝ち取り」、「成長し続ける教師」であるということを挙げたい。成 長し続ける「共学者」としての教師の存在の上に成り立っている奈良の学習法であり、
奈良女附属小だと一歩踏み込んで捉えたときに、はじめて「子どもの可能性」を引き
出し、納得のいく「自律的な学習」をする子どもの存在を認めることができると考え
るのである。今回は「共学者」という視点で教師の姿を追ってみたが、 「共学者」を「共
学者」たらしめるにはどれほどの努力と精進が必要であるか、自律的に学ぶ子どもを
育てることがいかに大変な労作業であるのか、谷岡、堀本の実践で、改めて認識した
次第である。この教師の実践に学ぶことに最大の意義が存在すると考える。
結びにかえて
今年、6月11日、本学教職大学院「人間教育事例分析研究」の授業に特別講師とし て来校された谷岡の院生へのメッセージがここにある。
「本質的なおたずねは、解決できないことが多いものです。世の中でも迷っている ことであり、解決されていないことも多くあるのです。これまでの大人たち以上の議 論をし、新しい発見をすることが学問の進歩です。子どもとの学習の中でも、学問の レベルの探求へと発展していくような瞬間を創ることが望まれます。能力をフルに 使った緊張感がそこには必要です。教師は賢くなくてはならないと、本当に感じる瞬 間です。子どもの議論についていけないと、それで、終わりです。子どもの中には秘 められた天才性が必ずあります。子どもの天才性や、ひらめきを生かす教師でありた いものです。」谷岡の子ども達を見つめる視点に「学びとは何か」を深く考えさせら れた。今回も、一人ひとりの目の前にいる子ども達のことを実際に観察し、一回一回 の授業に労を惜しまず児童中心主義の実践をしている奈良女附属小の教師を見つめる ことができた。奈良女附属小で学んだことを記し、真摯に学び続けることが、院生を 真心で指導し、学びの場を提供してくださっている奈良女附属小の先生方、全ての皆 様に心から感謝することになると考える。
引用文献