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成立期社会科の一断面 : 北海道第三師範学校附属校の社会科実践(その2)

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(1)Title. 成立期社会科の一断面 : 北海道第三師範学校附属校の社会科実践(その2 ). Author(s). 吉田, 正生. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. C, 教育科学編, 48(1): 245-258. Issue Date. 1997-08. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/2218. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 8巻 第1号 北海道教育大学紀要 (第1部C) 第4. 平成9年8月. fEduca i Sec i I i i t t lo fHokka i do Un t )VO on( onIC J Ver s ourna yo .1 .48 ,No. Au罫1 t S ,1997. 成立期社会科の一断面 - 北海道第三師範学校附属校の社会科実践 (その2) - 吉. 生. 正. 田. 北海道教育大学旭川枝社会科教育研究室. はじめに. 1. =. 旭橋. (以上, 第47巻2号) m. 附属校. (以上, 本号) W. 1. 講堂で. V 屋内運動場. W 家のあかり. 序に代えて 本稿に先行する 「成立期社会科の-断面 - 北海道第三師範学校附属校の社会科実践 (その1) -」 にお. い て, 本論 の 目 的と方 法 を 次 のよう に書 い た。. 敗戦後の日本では, 民主主義の樹立と国家の再建を目指した教育施策が, 現場に戸惑いや不安, 時には 混乱を惹き起しながらも, 実施されていった。 現場の教師たちは, このような状況の下で新教科社会科に ど のように取り組み,どのような実践を残したのだろうか。本論は,そうした取組の一つに照射したものである。 照射の対象となっ たのは, 昭和22年1 0月 3 日に北海道旭川市で行われた公開研究会における千葉大作の社会 科授業である。 その指導案の質やその成立経緯を明らかにすることによって, 新教科社会科の実践化に取り 組 ん だ教 師群 像 の 一 つ を みよう と して いる の であ る。 … … (中 略) ……。 さ て 本 論 が目 的 とする と ころ をも っ と 砕 い て 言う な ら ば, 次のよう になる。. 1‐ 当時の状況の中で, 社会科授業実践者としての千葉が, 自己の教育 (実践) 課題として捉えていたも の は何 であ っ た の か。 そ れ を 明ら か にする こ と。. 2. 指導案から見る限り, それが どんな形で, またどの程度解決されたと考えられるのか。 この点を明ら か にす る こ と。 3‐ 千 葉 の解 決の ため の 努力 のあ とを 記 述 する こ と。. このように設定した課題を解くため に本論では, 次のような手法をとる。 ・ 千葉を全体社会と地域社会, そして学校組織とに属すものとみなし, 千葉がそう した社会との相互作 用を通じて当時の教育諸課題の中から何を自己の社会科実践上の課題としたのか, 千葉の談話と指導案 記述の分析から明らかにする。 指導案記述の分析に当たっ ては, いわゆる後世の目をとらない。 当時の 社会科の理論的指導者等の目に則っ て千葉の指導案を見るようにする。 ・ 当時の全体社会や地域社会の教育 (実践) 課題が何であったのかを教育ジャーナリ ズムの論調によっ て見る。 ここで地域社会とは, 地理的範囲としては最大, 北海道に限局され, 全体社会としては日本国 245.

(3) . 吉. 田 正. 生. という広がりに限局される。 地域社会を構成するものとして, ここでは道教育委員会, 道内の教育ジャーナリ ズム, 道内の他の教 育委員会や師範附属校, 小・中学校を考えている。 第三師範やその他の道内の師範学校も地域社会を構 成するものである。 また生徒の親もこれを構成する。 学校組織を構成するものは, 主事, 教頭も含めた同僚教師, 生徒, そして千葉自身である。 全体社会 を構 成する も の と して ここ で は, 文部省, 教育 ジ ャ ー ナリ ズ ム を考 え ている。. このような目的と方法のもと, 本論文を次のように構成した。 第=章 (旭橋) :ここでは, 昭和21年度において北三師附属校とその一員である千葉が, 何を自らの教育 課題 と して受 け止 め, そ れ に どのよう に取り 組 んでい た か を記述 した。. 0 (前 稿). 第m章 (附属校) :北三師附属校とその一員である千葉の教育 (実践) 課題の質を, 六一三制という新学 制 実施 に即 して 理解 しよう と してい る点にお い て, 前 章 と は異 なる。 新 学制 が実施さ れ たこ と によ っ て, 地 域社 会や 全体 社 会 に どの よう な 教育 (実践) 課題 が生ま れたの か。 こ れを主 と して 教育 ジ ャ ー ナリ ズ ム の 論調 と 赤塚康 雄等 の 研究 に よ っ て把 握 し, そう し た課題 のう ち 附属 校 が自 らの 課題 と したも の は何 だ っ たの か, 千 葉 にお い て は どう だ っ た の か, そ れは指 導案 に どう 反 映さ れて いる の かを明 ら か に しよう と した。 0 (本稿). 第W章 (講堂で) : 「後世の目」 ではない, 当時の目として馬場四郎と勝田守-を選び, その目に寄り添っ て千 葉 実践 の 「実践 史」 的分 析 を行 おう と した。. (次稿に予定). 第V章 (屋内運動場) :分科会記録をもとに当時の実践家たちの教育実践課題と千葉のそれとのずれを明 ら か にす る こ と を目 指す。. 第W章 (家のあかり) :戦前の千葉の教育実践と敗戦頃の千葉の様子を記述し, これによって千葉大作と いう 実践 家 の生 き方の 一 端 を垣 間見 よう と した。. 第ロ章 (旭橋) においてあきらかになったのは, 次の3点であった。 昭和21年度に入ると北三師附属校の教師たちは, ようやく腰を据え, 新教育の在り方を求めて教育実 践を進めていけるようになっ た。 当時の北三師附属校の教師たちの教育実践面における相互作用の中核. ・. には, 形のみを追うということをせず, 新教育とは何かを深く理解しそれを教育実践に形として表わそ うという志向があっ た。 そこで, 戦前の学習形態のまま授業をやろう とする者 (あるいは新機軸を打ち 出せなかっ た者) は, 同僚たちからの手厳しい批判 (例えば, 音楽の授業に対する 「変わっ た授業が見 た かっ た。 今ま で と 大差 がな い。」 ) を覚悟 しな け れ ばな らな か っ たの である。. ・ まだ社会科の誕生していない昭和2 1年段階では戦前の人間形成教科修身に代わって, 民主主義の時代 にふさわしい人間形成教科公民科の在り方が北三師附属校では大きな問題となっていたということであ る。 しかし, 北三師附属校の教員たちは, 新教育の方向を公民科とか社会科という新設の教科において 探るだけでなく自らが担当する教科においても探り, かつその成果を同僚の目にさらすという相互作用 を行 っ て いたの で ある。 ・. 千葉 が行 っ た社 会 科授 業 が どの よう に作 ら れたの か に関 して は, 次 のよう なこ と が明 らか にな っ た。. 社会科の授業はどうあればよいのか。この答えを出すために千葉は,同僚たちとの相互作用のみに頼っ てはいなかった。 自分の授業の中に討議法を取り入れるために, 北海道第一師範学校の藤田喜一に授業 を見 せ ても らい に札 幌ま で出 か けて いる。 246.

(4) . 成立期社会科の一断面. また, 文部省から出された 「新教育の指針」 「公民教育」 「学習指導要領 一般編 (試案)一 等を, 千 葉自身の言葉によれば, 「熟読」 し, そこから新教育の目指すところや新しい学習方法などについで情 報 を得 て いる。. 要するに, 千葉にとって手本とすべき社会科授業は手近なところにはなかった。 したがっ て, 昭和22 年10月 3 日に行われた社会科授業は, 千葉の手作りだったということが明らかになっ たのである。 明かになっ たこととして挙げた2点目及び3点目について若干の補足をしておく。 昭和3 4年3月に梅根悟と岡津守彦が編者となっ て 『社会科教育のあゆみ』 (小学館) という本が出されて ) いる。 これは, 次に見る海後宗臣の発刊の言葉に現われている問題意識の下に刊行されたものである1 。 第二次世界戦争後のわが国における驚くべき変動, 殊に新教育制度が実施されてから後今日に至るまで 十年間における教育変革は, 普通の時代には見ることのできないものであった。 この変革の中にあって教 育を展開した我々は, 先ずその歩みが何であったかを正しく記録しなければならない責任をもっている。 そしてこの記録されたものを検討し, それを足場として, 将来における教育の方途を見通さなければなら . 要するにここでは, 新教育の花形教科であっ た社会科のふりかえりが, 論史的にまた実践史的に行われて いる。 実践史的な振り返りは, 社会科成立期 に創られた著名なプランの実践者とその理論的指導者 (あるい は支援 者) の 双 方 によ っ て行 わ れて いる。. こう した著名な諸ブランと千葉実践とを比べたとき, 千葉実践が千葉個人の手作りであっ たという感を- 層深くする。 例えば, 川口プランには, 川口市内の教師の殆どが関わると同時に東大の海後宗臣等が, 理論 的な指導者として深く関わっている。 北条プランには, 海後勝雄 (当時, 中央教育研究所) が, そして本郷 プランには太田尭 (当時, 東大) がという具合である。 いずれのプランも, 市や町を挙げてのもの そこま , で大規模でなくとも学校を挙げてのものであり, いわゆる 「中央」 の権威ある理論的指導者なり支援者なり がいたのである。 千葉の社会科の場合には, 全校を挙げての社会科プランを授業化したものというよりは , 諸教科担当者が担当の自教科の実践を新教育にふさわしいものにしよう とする努力の一つとして行われたも の に しかす ぎな い の であ る。. つまり, 北三師附属校では, 全校が一丸となっ て社会科のカリキュラム づくりや授業づくりに取り組んだ わけではない。 教員全員が主事の砂洋から新教育の話を聞き (砂洋のいうところ によれば特に社会科関係の 話), 歴史や地理など社会認識教科関係の教員が, 年間計画づくり に関係し 千葉や荻原など公民科担当だっ , ) いわば た者が, 実際に授業を作り実践するという形で, 新教科社会科の在り方を模索していたのである2 。 各教科の壁が厳然と してあり, 教科ごとに新教育 に取り組んでいたのである。 したがって 公民科や修身科 , という しきりに変わっ て社会科という しきりが新たに設けられた そのしきりのなかで努力するのは 社会 , , 認識教科関係の教員たちであるという暗黙の前提があっ たものと 思わ れる。 したがって, 北三師附属校の新教育への取り組みは, 社会科を核にしたものということはできず 各教科 , ごとの取り組みであったというほう が正確であろう。 社会科の授業の具現化はひとえに 千葉たち 旧修身 , , 科担当の肩 にかかっていたのである。. 247.

(5) . . 吉. 田. 正 生. 霊験鰯際議題霞唖 . 上 . - -J. 糞圏粛然稀走鰯朝刈. . --. 」 - -. 第皿一1図 北海道旭川師範学校校舎其他平面図. 皿 附属校 藤井病院の角で, 軌道の走るみずほ通りからそれて, 大有小学校の方向に千葉は向かう。 いまらく行くと 岐線の踏切が見える。 沿線には製材所や木工所が目につく。 この岐線と製材所, そして木工所が今日の授業 の主たる教材なのだ。 千葉が奉職している北海道第三師範学校附属校は, 昭和22年4月1日から制度上は附属小学校と中学校と に分かれた。 しかし, 実質はまだ小・中が完全に分離したとは言えない状態であっ た。 例えば千葉に限って 3年度には小学校6年生の担任になっている。 また, みても, 22年度に中学1年の担任であったものが, 翌2 主事も各校に一人ずついるという形ではなく, 附属国民学校主事であった砂揮喜代次がそのまま一人で 「附 属小, 中学校主事」 と肩書きだけ変えて辞令交付されている。 要するにこと人事に関しては, 教職員の間に はまだ附属国民学校の感覚が残っていたのである。 校舎は, 昭和7年11月1日に落成式が行われたものであったから, 建てられてからもう15年経ったことに なる。 千葉自身, 師範に在学していたときは, ここで教育実習を行ったのである。 5年調査の 「北海道旭川師範学校校舎 附属小学校は, 道をはさんで北三師の向かい側に建てられた。 昭和1 2 00分の1) によってみる と, 附属校の様子は, 第m-1図のようなものであっ た。 其他平面図」 (縮尺1 この図でみると1階に小学校1年生から3年生までが入る。 2階には9教室あるから当面不足の教室数は 『旭川市史』 によれ ば 附属中学は昭和22年5月31日 1 2年生各2学級, 計4学級 1教室のみである ( , , , ) )。 そ こ で, 六 一 三 制 の 実 施 に伴 い 新制 中学 を 附属 校 の な か に置 い た と き に は, 特 別 でス ター ト して いる3. ) これによって北三師附属校は 当面 新制中学のための施設設備の準備に 教室が普通教室に転用された4 。 , , 追われなくともすんだ。 すなわち, 教育課題を新教育の理解やカリキュラム, 授業の検討にしぼることがで き た の であ る。. ) 後年, 砂淳が往時の思い出を綴った文章の次の一節はそれを端的に示すものであろう5 。 248.

(6) . 成立期社会科の一断面. 昭和22年2月1日, 私は 「北海道第三師範学校附属国民学校主事」 の辞令をもらっ た。 満36歳であっ た。 … (中 略) …。. /それから2カ月たっ た4月1日, 私は 「北海道第三師範学校附属小, 中学校主事」 の辞令を受けた。 い よ いよ 6, 3 制 が始 ま っ た。 新 しい制 度, 理 論, 方 法 の研 究 を 附属 の仲 間たち と い っ しょ に始 め たわ けで あ. るが, みんなハチ切れるような意気込みで無我夢中で勉強した。 私も, アメリカの原書の各要点を訳し, そ れら を 次々 と プリ ン ト しても ら っ て, み んな で勉 強 したも の であ る。. 「新教育は真教育 真教育は人間尊重の教育 「 」 , , それは 児童中心主義と教師中心主義を統一する教育」 , ) これは私の信念であり, みんなの共通理解であっ た。 /教育研究, 教育課程研究, 教科研究 (特に社会科)6 がさかんに行われたが, 民主的学校運営についても, みんな大きな関心を払った。 若いエネルギーが職員室 に溢れていた。 職員会議がそのまま研究集会のようであっ た。 /昭和22度の1学期ごろ, とりわけ威勢のい い若い連中 - たしか三浦規, 千葉大作, 塩野谷敏夫などの諸君であったと記憶している - が 私のところ , に来て「この主事室を職員室に明け渡せ」と談判した。私は心中いささかギョッとしたが,表面平静をよそおっ て, 『本校の責任者は主事である。 責任を重んじる気があるなら, 責任者のいる室は重んぜよ。 伝統のある こ の主 事室 は個 人の も の で はなく, み んな の もの 学 校 のもの と して おく べ き で 絶対 譲 らない』 とつ っ ぱ , , ね た。. 主事の砂洋でさえ心を砕いたのは教育内容の研究面であり 建物をどうするか 教室をどうするかという , , ことではなかっ たのである。 当時の附属校の教職員たちの相互作用が 教育に関連する事柄においては何を , 核にして行われていたかが浮かび上がってくるのである。 しか し, 全 国の 多く の 公立 校 では そう はい かな か っ た。 新制 中 学 が どのよう な状 態 であ っ たか いく つ か ,. の視点から, 当時の様子を伝える新聞記事をみてみよう。 先ず, 管理職である校長の動きをみてみよう。 彼等のなかには 何よりも教室不足 設備の不十分さを心 , , 配 しなく て はい けな い 者も い たの であ る。. 断食で校舎新築を請願 宮城県一栗村新制中学の校長さん 宮城県玉造郡-栗村新制 中学校長相棒四郎氏は, 中学校舎がないため現在小学校の一部を借りているの で完全な教育ができないと, 再三村会に対し校舎の新築方を請願したが村当局の熱意のないのに奮起 自 , ら乏しい月給の中から壱千円を校舎新築資金と して寄付するととも に 五日から十五日まで十日間の断食 , をして村当局 に実現方を訴えている。 これは極端な例かもしれない。 日常の教育活動が校長の目にどう映っ ていたかが窺える事例を2つほど挙 ) げよう7 。. 半焼校舎に3校 白墨1本, 紙1枚も買えぬ (豊島区長崎中学校長宇高ラク氏談) 丁度住宅も食料もない東京にどっ と無一物の転入者が押しかけたようなもので--中には恵まれた少数 の学校もありましょう, 私のところは, はじめ三百人の生徒と私だけだっ たのです 大家さんの長崎小学 。 校は半焼 けで, おまけに, 焼け出された二つの小学校が同居している有様です それでもなんとか 五月 。 , 八日に教室をあ げてもらいました。 机や腰かけも五分の三ほど都合がつきましたがさて授業をはじめると 249.

(7) . 吉 田 正. 生. 白墨1本あるわけでなく, ほうきやバケツもありません。 お金がないのです。 い ま だ に予 算 さ え知 らさ れませ ん。 こ れで一 体 どう して 学 校 を や っ てい け ばいい んで しょ う。 や っ と 区. の教育再建協議会から五千円借りまして一時入用なものだけ調達しましたが, ザラ紙1枚5, 60銭もする 世の中です。 自然父兄会や後援会の援助を求めるということになりますが, 義務教育ならあくまで政府が 責任をもつべきものでしょう。 与えられたものは, やっと教室だけです。 私の前任校都立第十高女が近い のでそこの施設を使わせてもらってます。 ですから生徒は月曜日を休みにして日曜日に第十高女の校舎を 借りて勉強させています。 … (後略) … 教科書を写しにいく先生 (区立一ツ橋中学校長 高田善之氏談) もう学校はギリギリーばいです。 区役所では転入児童がふえるから現在の生徒数七百名をもっと追加さ せるという。 そうなれ ば応接室もつぶさねばなりません。 机や椅子はこわれたのをなおしてどうにかやっ ています が, 困る の は 教 科書 で 『物 象』 の ほか な ん にも きてお りま せ ん。 さ い わい文 部省 が近 い の でお り. をみて先生たちが教科書を写しにいきます。 やろう と思えばノートと黒板でも教育はできますよ。 講習そ の他でも情報は入ってくるし新学制の精神にはまちがいないつもりです--がなんとしてもつきあたるの は, 予算の少ないことです。 教員は小, 青, 中学出身者の寄り合い世帯ですがなかよくやっております。 こ の 間み か ね たもの か。 校長用 だと とく べつ いす をつ く っ てく れたの です が, 私 は そ んな の がキライ でま. だ腰かけたことがありません。 併設校の校長さんに譲ろうかと思っています。 組合も職員間で話 しが進め られているようですが, 私も一組合員 としてなら加わりたいと考えています。 先生の定員は後 数名交渉中 ですが, 新しく入れる ときは職員にも計っておりますから問題は何もおこりません。 定員は学級数に対し 0学級にならね ばそれ以下ということになっ ているので□設中 (印刷不鮮明の ため一 て1 ‐8の比率ですが4 字:□部分不明) のようにはなかなかいきません。 それに生徒も義務制で選抜されるわけじゃないのです からレベルはおちるようです がこれも止むを得ないでしょう。 文部省みたいなことをいうわけじゃないで す が, 一 時 にう まく いく わ けはあ りま せ んよ。 ま あ, 長い 目 で み てい て下 さ い。. これらの引用文から伝わってくるのは, 教育用の施設設備を充実させることに先ず心を砕いている 校長た ちの姿であり, また必要な教員数を確保しようと奮闘している校長の姿である。 さらに組合との関係を どう. ‘ つ く っ てい け ばよ い か という こ と にも 気 を遣 っ て いる の であり, 従来の 生 徒 に比 べ て, レベ ルの 落ちる 生 徒. たちをどう指導すべきかも頭の中に引っかかっているのである。 新教育の理念とか理想を具現するにはどう したらよいかという以前のところで頭を悩ましている姿が浮か び上がってくる。 もちろん, 資料の性格 (つ ま り 6 -3制 実施 上 の 問 題 点 につ い てのイ ンタ ビュ ー に答 えたも の) か らする 歪 みはあろう。 した が っ て こ. れらだけが彼等の頭の中を占めていた問題だというつもりはない。 しかし, 多くの校長たちがこういう問題にも留 意しながら, 自校の教職員たちと相互作用を営まなければ ならなかっ たのに対し, 砂樺は相互作用の中核にカリキュラムや授業の問題を置くことができたのであり, 「アメ リ カ の原 書 の 各 要 点 を訳 し そ れらを次々 と プリ ン ト して も ら っ て, み んな で勉 強」 する こ と に専 念 ,. できたのである。 また 「昭和22度の1学期 ごろ, とりわけ威勢のいい若い連中-略 (引用者) -が私のとこ ろに来て 『この主事室を職員室に明け渡せ』 と」 要求を突きつけたときにも 「『本校の責任者は主事である。 責任を重んじる気 があるなら, 責任者のいる室は重んぜよ。 伝統のあるこの主事室は個人のものではなく, み んな の も の, 学校 の もの と しておく べ きで, 絶 対 譲 らな い』 とつ っ ぱね」 る こ と ができ た の であ る。 そ し. て 「威勢のいい」 三浦たちもその言葉を撤回させるだけの必要性を主事に示すことができなかっ た, という のが当時の附属校の姿であっ たのだろう。 250.

(8) . 成立期社会科の一断面. また, 附属校の教員に目を転じてみるなら, 彼等はこれから紹介するような悲惨な状況の中での教育実践 を行 っ てい な か っ た。. ) 新制中学めぐり 横浜鶴見潮田中学8 雨がふると休むほかはない。 机も腰掛けもないので新聞紙を敷いて座っ ている という横浜市鶴見の潮田 新制中学を訪れた。 新学制の夢破れたのは, 生徒だけではない。 新制中学教員の悩みと労苦も, いたいた しいほど深刻だ。 ”どう にかならぬものか” と言うせつせつたろ同校教員松本政安氏の話しは--この間 視察に来た区長はじめ役人も横浜の新制中42校のうちで一番みじめだと折紙をつけたくらいアキれてい た。 この辺りは工場労働者の住宅が多い。 トラックは絶え間なく学校のわきを通るし, 生徒は落ち着いて 勉強ができない。教師が平凡な教育をしていたら生徒は釣かヤミ市へ流れていってしまう。『たのしい学 碗 をつくるのが先決問題だと教員同志話し合っ ている。 生徒と一緒に遊ぶ気持ちでなければ 勤ま らな い。 ◇情けない雨の日 5月のお節句に開校して9クラス450名の生徒を収容したが, 教室は足りず机や椅子も一つもなかっ た の で全部 “座 学” をや っ て いる。 最近 や っ と半 分 ほ ど届 い た が, 残り の百 余名 は いま でも ”寺子 屋” をつ. づけている。 女の子にアグラをかいて座らせるわけにいかず 生徒も足がシビれてほんとの授業は不可能 , だ。 雨がふると傘のない子は休むし, 登校した子も床がぬれて座ることもできない。. ◇処置ない運動場 小学校2, 青年, 新制中と4校3500の生徒がひしめきあっ ている併設校舎なので, 運動場で野球もでき ない。 土 地 が低 い の で雨 がつ づ く と 生徒 のヒ ザま で水 がたま っ て しまう。 予 算 はま だき て いな い 開校 の 。 と き も ら っ た祝 い 金 は一 〆 の 紙 を か つ て オ シマイ と な っ た いま の有 様 では 砂漠 にーて き の水 を た ら して 。 ,. 新学制の花を咲かせようとするような努力だね。 ここの校長は 『教育技術』 のオーソリティ だが この学 , 校でこのままの環境ではとても教育はできぬとサジをなげかけている。 近く街の人たち (労働者が多い) や後援会にもよびかけて“難局”を打開したいと協議中だ。 来年は18学級,900人 完成年度は28学級 1400 , , 人 と予 定 さ れてい る が, どう なる こ と だ ろう。 / … … (後 略) ……. これらは, いわ ば「反体制的立場」をとる「日教組教育新聞」の裡造記事 誇張の入った記事とは言えない 。 , という のは山崎喜与作も, また文部省 にいた馬場四郎も基本的には同じ様なことを書いているからである 。 ) 先 ず 昭和22年11月 1 日発 行 の『社 会 科教育』の 編集 後記 を みて み よう そ こ に 山崎 は 次の よう に書 いて いる9 。 。. w六・三制が実施され, 6ヵ年の義務教育が9ヵ年に延長されるよう になったことは, 国民の教養を高 め, ひいては国民の政治的理解を増進する のに役立つもので民主国家建設の重要な役割を果たすものとい えよう。 しかるに, その実際はどうであろうか, 文部省の予算は削減されて 六三制実施 に伴う教室 校 , , 舎の増築はいうま でもなく, 戦災校舎の再建築すら思うにまかせぬ現状である 本年ぐらいは暫定的に他 。 校に併置することや, 社寺, 役所の一部を借用することが許されても来年度はどうするかが問題である 。 施設/設備の不足, そしてその原因としての文部省の予算削減が指摘されている点で 「日教組教育新聞 」 0 と 同 じなの であ る。 さ ら に 山 崎は 新制 中 学 の 教員 の 問題 に触 れて いる1 )。 ,. w小学校 には在来の師範出の教員がそのまま居座っ ていても新制中学の教師には中学出の代用教員が充 てられている向きが少なくない。父兄からみれば, 中学といえば在来の中学を夢想していたかもしれない 。 251.

(9) . 吉. 田 正. 生. 自分の村に中学ができて, うちの子供も中学生になれるという誇りをもっていたに違いない。 ところが, 出来た中学校はお寺で, 先生は村の中学出の代用 教員であるに至っては異議を申さざるを得まい。 教師の 不足は教室の不足と相僕って民主教育の発達をは ばむ主な条件となっている。 では終戦後, 文部省教科書局にいて中学校, 高等学校の社会科の創設に携わっ た馬場四郎が六三制教育に 1 1 ) 対 して どの よう な こ と をい っ ている の か, そ れをみ てみ よう 。. 地方財政の不如意によって, 校舎, 施設, 教員などあらゆる点で悪い条件に悩み抜いている新制中学校 では, 指導の困難な労の多い社会科が伸 びないのは無理からぬことであろう。 文部省に属していた身であるから, 文部省の予算案が大蔵省によって大幅に削減されたために六三制が暗 礁に乗り上げている とは馬場には書けなかったのであろう。そこで校舎等の不備は「地方財政の不如 意によ」 るものと, あたかも各自治体にのみ責任があるかのように書いている と考えられる。 そのように歪められた 文章ではあるが, 新制中学が 「校舎, 施設, 教員など」 の問題で困っているという認識が馬場にもあったこ とが, 上記の文章から窺えるのであ る。 新制中学のこのような悲惨な教育環境は, 旭川市においても同様のものであっ た。 発足直後の新制旭川 第 一中学校に, 北海道第三師範学校を出たばかりの東野正春は奉職した。 その東野が経験した新制中学での日 2 ) 日と教育環境は次のようなものであった1 。 余りいいことじゃないけどね, できたばかりの新制中学校には働き盛りの先生方はあまり行きたがらな かっ たね。 それで, 私のような若い者とか, あと大陸や樺太から引き揚げてきて, 中等学校の免許を持っ ている人とかね, それから小学校の方にいきたかったんだけれど空きがなかった人とかがね, この新制中 学校の方に集まっ たんだよ。 だから私のいた新制中学なんていうのは若い者と老人の寄り合い所帯みたい な感じだったね。 私なんか, 若いのに師範出 だというので2年生の学年主任になっちゃったんだからね。 第一中学校は, 春光町の今の教育大学の女子寮があるね, あの隣に兵舎があってさ, 進駐軍に初めは接 収されていたんだけ ど, 返してもらってね。 その兵舎を校舎にしてスタートしたんだよ, 新制の2年生と 3年 生 だ け集め て。 新制 中学 の 1年 生 は, 前 の まま, 小 学 校 に特 設 して ね, そ っ ち へい っ て た。 …。. 4学級もあったから。 何しろ市内全域から, 該当する子供たち 50学級ぐらいあっ たかな, 2年生だけで2 を集めたからね。 市内全域 だから, 今の緑が丘なんかはまだ東神楽町だっ たかな, だけどあのすぐ麓の子 どもたち, だから合同酒精なんかの近くの子 どもたちもね, 春光町まで通って来たんだよ。 5, 6キロは あるだろうね。 本当に遠い子たち は1時間以上かけて通っていたよね。 軌道 (=市街電車) に乗っ てくる 子 たち も い た ね。 本当 に何 も なく てさ, 机も 椅子もス タ ー ト した とき にはな か っ た ん だよ。 ガラス は割 れて いる し, 床 は. 汚れて真っ黒だし……。 それでね, 私は2年生を持ったんだけど, 進駐軍が前に使っていたトイレの壁の ベニヤを剥がして来て, それを床 において子 どもたちをそこに座らせるようにしたのさ。 そしてね, 真ん 中の汚れて真っ黒になった部分, ここを黒板代わりに使うことにしてね。 子どもたちをその周りに集めて 「み んなよく 見 て こ れ が黒 板 だよ 」 。 , な んて ね ……, そ んな こ と をや っ たさ。 教 室 に黒 板 が ない ん だから ね。. しばらくは床にじかに座らせて授業をやっていたんだけど, 子どもたちがそのうち床に座っているのは しん どい と いう んで, 古 い 木 を集 め て来 て, そ れで子 ども たち と一緒 に ベ ンチ を作 っ た さ。 だ け ど, な ん 252.

(10) . 成立期社会科の-断面 も 知 らな い新 米先 生 とま だ13歳 かそ こ い らの 子 ども たち が作 っ たも ん だよ ね 授 業 中 にバタ ー ンと壊 れて , し ま っ て さ一--。. 授業の手がかりになるもんていっ たら, 文部省の指導指針だけ。 私は初めは家庭科とか音楽とかを持っ てね。 得意なわけじゃないんだ。 要するに校長が年配の人達から, あなたは何ができますかっていう具合 に割 り 振 っ てい っ た から, 私 にお 余り み たい なも ん が 回 っ て 来 て ね ……。 い とこ が女 学 校 に行 っ て て家 庭. 科の本を持っていたから, そんなのを見て子どもたちに裁縫とか教えたよ……。 そ れでも 9月 ごろ になる と 一 寸 は 落ち 着 い てき た かな あ。 机 と か 椅子 と か がそり ゃ あ 古い も ん だ っ た ,. けど小学校の方から回されてきたしね。 授業担当のほうにしても, それぞれの専門もわかってきたし 女 , の先生も来たんでね,校長(註:寒水市太郎)が私に国史をやれっ て言うのさ。それで国史をやるようになっ たん だ け ど, 国史 は週 1 時 間な ん だね。 とこ ろ がさ っ き 言 っ たよう に2 年 生 だ けで24ク ラス あ る 私 はこ 。 の24ク ラス 全部 を持 っ た んだ ね。 つ ま り24回, 同 じこと を し ゃ べ らなく ち ゃ い けな いの さ テ ー プ レコー , ダだ っ て, 擦 り 切 れち まう よ ね。 そ れに しゃ べ り 慣 れてく る と 初 め は 1 時 間 か か っ て 話 した こ と が15分 , とか20分 でお わ っ ち ゃ う ん だよ ね。. まだ, 誰も, 校長たちだっ て新制中学の教育の教育効果を上げるにはどう したらいいかなんてわからな い ん だ。 そ れで 一 人 ひとり の 教員 に, 授 業 は どう で す かな んて 聞い て ね。 ぼく も 聞 か れた んだ け ど その , と き に 「先 生, 一 人 で 同 じ教 科 を24時 間 持つ と いう の たま り ま せ んよ 」 っ て 答 え た ね … そ の 後 2 年 。 。 ,. 生を3つに分けて国史なんかも分担制 にしたりしたけどね, それまでは大変だっ た…。 でもね, 行政は新制の中学校教育をきちんとしたものにしようと手は打っていたね。 例えば 当時の旭 , 川中学(=現在の旭川東高等学校)の校長先生, 名前はなんていっ たかな 「ふじたてつや」 だっ たかな(聞 , き手註:調べたところでは, 藤田節也である) , この先生を新制 の旭川第二中学校の校長にもっ て来た。 旧制の旭川中学の校長っていっ たらやっ ぱり旭川, 上川管内は言うに及ばず道北の中等教育の重鎮だから ね。 そういう人を登用 して, これからの中等教育はこうあらねばならないという理念と実際の経営を示し ) 3 ても らおう と した ん だねえ。 もちろ ん, 中学 校の方 の 校長 会長 にな っ て も ら っ て だよ ね1 。. こういう, いわば中学と高校との交流人事は暫く続いたね 留辺薬の高校の教頭先生に中学校の校長先 , 生になっ てもらって中等教育はこうあらねばならないという 理念で思いっ きり経営してもらっ て その後 , ま た その 人は高 校 の校 長 にな っ て戻 っ て行 っ たな んていう こ と があ っ た か らね 。. 多くの新制中学の教師たちは, このような劣悪な教育環境 において低学力の生徒たちや学校にさほどの魅 力 を感 じて い ない 生徒 たち と どう や っ てつ きあ っ ていく かとい う レベ ル で相 互作用 を営 んで い た の で あり ,. どのようにすれば戦前の授業実践を超えられるか あるいは初等学校レベルの実践を超えられるかというこ , とにまで踏み込んでいけるような状態ではなかった。 東野は師範出たての新任教師であっ た したがって上 。 にみたような講義式の授業を行っ ていても仕方がないのであろう。 それにしても述懐の次の部分 すなわち , それで国史をやるよう になっ たんだけど, 国史は週1時間なんだね。 ところがさっ き言ったよう に2年 生 だ けで24ク ラス ある。私 はこ の24ク ラス 全部 を持 っ た ん だね つ ま り24回 同 じこ と を しゃ べ らなく ち ゃ 。 , い けな い のさ, テ ー プ レコ ー ダだ っ て 擦 り切 れちまう よ ね そ れ に しゃ べ り慣 れてくる と 初 め は1 時 , 。 , 間か か っ て話 した こ と が15分 とか20分 でお わ っ ち ゃ う ん だよ ね 。. この述懐からは, 生徒と民主的な相互関係を結んでいこうという教育理念や訓育の位相での思いや実践は 別として, 授業実践という位相において新教育を具現化してみようという試みが行われていたとは思えない のである。 授業において新教育を具現化する どころではなく 授業そのものを成立させることあるいは消化 , 253.

(11) . 吉. 田 正. 生. する こ と で精 一 杯 だ っ たので ある。 ) した が て 六 三 制 は 時期 尚早 だ たと いう 論 を 唱 4 こ の よう な 状 況 が 日 本 国中 至 る とこ ろ で み ら れ た1 っ っ 。. える者も出てくる。 『日本近代教育百年史』 には, 当時の六三制実施を郷諭した言葉 として次のようなもの 5 ) が紹 介さ れて いる1 。. 六・三は五三 (誤算) の四三 (予算) で三三 (散々) だ ) 1 6 こ のよう な 世評 に対 し, 北 海道 の 教 育 ジ ャ ー ナリ ズ ム で は 『教育 建設』 が異議 を唱 えて い た 。. 4月1日教育革新に関する2大法令が交付されて,わが国の学制もここに一大方向転換することとなり, まず小学校6年と中学校3年の義務教育が実施された。 中でも中学校3年の教育は, 今後の日本の運命を 決定する最重要な使命をになっている。 しかるにちまたには, 時期尚早論があふれ, 中等学校教師は格下 げの面目にとらわれて転任を喜ばず, と新設の労苦をさけてこれまた有為の土の転任希望が少ないとは, 何 と しても 解せ な い こ と であ る。 … (中 略) …。. 新制中学校は, 職員組織において, 生徒の自治制度について, 保護者会の在り方について, 思い き っ た 新しい教育構想が生まれてほしいものである。 教育史の新しい1ページが書きはじめられるのである。 それなのに, 校舎だとか, 教室の増築だとか, 時間割だとかの些末なことの論議があっても, より根本 的教育の場に関する意見をきくことが稀である。 附属校は, その恵まれた状況から,また地域における教育実践の先進校という伝統的立場からしてこの『教 育建設』 の記事にある 「より根本的教育の場に関する 意見を」 授業実践の形に具現化して世に問うことが期 待されていたであろう。 また附属校の教員 自身, そのことを痛いほど感じていたであろう, もちろん千葉も 含めて。 今一度, 千葉が50年後の今日に語った言葉を噛みしめてみよう: 「私たち, 附属校の教師は, 全道 の教育実践に責任を負っ ていますから…」。 しかし, 新制中学の問題は, 実は校舎な どの施設・設備, 新教育にふさわしい児童・生徒中心の授業の創 出という2つだけに収敏されるものではなかった。 階級や階層に関係なく国民すべてに, 中等教育を受ける 機会を保証するものとして生み出されたのが新制中学であった。 赤塚康雄は, 初等教育と中等教育は教育対象とされている者の年齢だけでは区分できないという。 将来高 等教育を受けいずれは指導的地位につく人間に必要な教育内容を教授する 教育機関が中等教育機関であり, 7 ) そうでない教育機関は初等教育機関である という1 。 中等教育機関が大学への予備門として創設されたように,中等学校それ自体も初等学校を予備門にする。 したがって, 予備門としての初等学校と一般民衆の初等学校とが並存することになるのである。 予備門と しての 「初等学校」 は中等教育であり, 他の初等学校と複線型を構成することになる。 /… (中略) …。 例えばイギリスにおいては,初等教育と中等教育を区分する指標は年齢ではなく,外国語に置かれた。即ち, 初等学校においては自国語が, 中等学校においてはラテン語が使用されたのである。 したがって, 同じ年 齢の生徒を収容する学校であっても, 使用言語いかんによって, 初等学校であっ たり, 中等学校であった りするのである。 /アメリカにおける初期の教育体系も同様である。 したがって, 中等教育といえ ば七歳 か八歳に始まり, 大学に入学する二一歳ごろまでを含んでいた。 /… (中略) …。 /それでは中等教育と 254.

(12) . 成立期社会科の-断面. 初等教育とを分けるものは何であろうか。それは階級差そのものであっ たと考えることができよう。即ち, 中等教育は上流階級の子弟が将来,指導的地位につく準備として必要な教育であり,一般民衆の子弟にとっ ては必要ではなく, 大衆の子弟は初等教育機関で学習すれば, 十分であるということである。 )も したがっ て初等教育機関だっ たのである 1 8 わが国の 「準青年期の民衆の教育を担当した高等小学校」 。 , 高等小学校という初等教育機関をどのようにして新制中学という中等教育機関にふ したがって, 附属校は, さ わ しい も の につ く り かえ ていく か とい う 課 題も 担 っ て い た筈 なの である。. ) 9 赤塚によれば, 戦後教育改革が行われる直前の学校系統は, ほぼ次のようである1 。 学 校 - 高 等 学 校 → 大 学 (1)中 等 2 )中 等 国民学校初等科→(. 学 校 → 専. 門. 学. 校. → 青. 年. 学. 校. ( 3 )国民 学校 高 等 科. 0 ) 更 に赤塚 に した がう な ら, 上 記 3つ の コース のあ い だに は次の よう な不 平 等 が存 在 した2. これらの各系統は他の系統への連絡を欠き,( 1 )の 「系統を追ふて高等学校へ入学した者は当然大学への 進学が許され, 大学卒業後は最高学府を出たものとして他の学校卒業生よりも一層優位に昇り得る機会を 2 与えられ易くなっ ている」 のに対し, 「 ( )の系統を追ふて専門学校へ入学した者は中等学校在学当時の学 業成績及び品性等の如何にかかはらず, 大学 (最高学府) への進学に大なる制限を受け」 , 卒業後の進路 「 は( 1 )の 系統を追ふた者よりも劣位 に立たざるを得ない」 しくみになっ ているのである。 まして( )の系統 3 を進まねばならない青少年は, 社会の最下端を行く層として位置づけられ, その前途に希望を持てなかっ たの である。. 制度的な不平等は教育内容にも反映する。 中学校では外国語の学習は必ず教育課程の中に入れられていた が, 高等小学校にはなかっ た (ところによっ てはあったが)。 これは1906年に公表されたイギリスの教育院 ) の 「高等小学校に関する諮問委員会」 報告書と同じ立場にあるものと 思わ れる21 。. 高等小学校は中等学校ではない。小学校の中から,よくできる者を選んで一二歳から一五歳まで教育して, その後ただちに実務に就かせるのが高等小学校の任務である。 科目は厳重に限定されるべきで外国語な どは 無用である。 外国語を教えると中等教育まがいになって好ましくない。 また高等小学校が中学校と何よりも異なるのは, 後者が教科担任制をとっていたのに対し前者は全教科担 任制をとっ ていたということである。 これらの事実を踏まえて赤塚は 「高等小学校は小学校であり, 中学校 2 )も の であ つ た と 結 論する ので ある より む しろ 尋常小 学 校 に近 い」2 。. 北三師附属校においても全教科担任制とまではいかなくとも音楽, 体育などを除いては学級担任が担当し ており, 教員の意識においては現在の高学年担任程度の感覚で高等科担任をみていたのである。 また, 全市 内からの応募者のうち選抜試験を経て入学して来た高等科在学生の内のおよそ3分の1は就職組, 後の3分 ) したがっ てその教育内容においても 「現行高等小学校の 3 の2が中学, 商業, 師範への進学組であっ た2 。 教科課程は, その全体の構造において, 尋常小学校のそれと異るところはない。 その当然の結果として, 高 )したところとさ 4 等小学校の教育の大部分が, 尋常小学校の反復となるのである」 という阿部重孝の指摘2 ほど変わらなかっ たと思われる。 したがっ て北三師附属校が掲げた研究会の主題, 「6 - 3 制 を どう 実 施 する か」 には, 全 体社 会 レベ ル に 255.

(13) . 吉. 田. 正 生. おける課題を北三師附属校が受け止めているなら, 「初等教育としての実質しかもっ ていなかっ た高等科の 各教科の指導を中等教育のそれとしてふさわしいものにするためにどうしたらよいか」 という意味も込めら れていなければならなかったのである。 しかし少なくとも千葉においては指導案作成に当たってこの点につ ′ 5 ) い て は特 に考慮 さ れて い なか っ た2 。. 高等科が中学になるというので,考慮したことですか。今度はみんなが中学から高校受験することになっ た訳ですから, 進学ということを考えて教育する必要があるとは 思いま した。 でも, この (10月 3 日の) 指導案を作っ ている ときにはそのようなことは考えませんでした。 そういうことよりも社会科としてふさ わしいものを作ろう と考えていました。 2 6 )の昭和22年度の項をみても 中等教育としての実質を追及するといった趣旨 「付属中学校教育研究史」 , ) 7 を 表わす 言 葉 に はぶつ か らな い。 こ の年 度 の研 究 につ い て の記 述 は, 次の 2点 にま と める こ と がで きる2 。. ・皇国民練成の教育から一転して, 個人の自由を尊重した人間教育, 教師中心から児童中心への考え方の 転換, これらの原理に立って具体的方策の発見に努力した年であった。 ・ こ の年 は何 を目 ざし, い か なる 方 途 をと っ た らよ いの かに けんめ い であ っ た といえ よう。 新 教育 の 理想. とあまりにも貧しすぎる現状との谷間にあって, 苦しみ悩んだ年であった。 L点目は, 皇民練成の教育から民主主義の教育への転換をどう図ったらよいかということと児童中心の教 育とはどういうものかが北三師附属校で問題になっ ていたことを窺わせるものであり, 2点目は, 教室不足 にはさほど悩まされなかっ たと思われる附属でもやはり, 施設/設備/教具等の貧しさについての悩みが あ っ た という こ と を 窺 わせる も ので ある。 した が っ て, 砂 運 が「いよ い よ 6,3制が始まっ た。新しい制度, 理論, 方法の研究を附属の仲間たちといっ. しょ に始め た」 といっても, まだ附属校の教員たちの中には初等教育とは質的に異なる中等教育前期の教育 の在り方を研究するという意識は十分に芽生えていなかっ たように思われる。 すなわち, 馬場が全体社会レ ベルにおける新制中学の教員たちの意識の問題点として析出したものと同質のものを, 北三師附属校の教員 たちももっていたと思われるのである。 すなわち, 中等普通教育の担い手としての自覚の不十分さである。 民主主義教育の担い手, 新教育の担い手という意識と義務教育としての中等普通教育の創出者という意識は 決 して 同一 で はなか っ たの である。 8 ) 当 時の新制 中学 の 教員 たち の 自 己規定 意 識 につ い て, 馬 場 は次の よう に書 い ている2 。. 新制中学校で社会科が軌道に乗りにくいのは, 教師の質が悪いからではないかという人もいるが, 筆者 は必ずしもそうだとは思わない。 概して新制中学には有資格の若手で力のある教師が小学校から移っ た場 合が多く, そのために小学校の教師の質が低下したとさえいわれている。 もちろん中等社会科の内容をこ なすには, 従来の師範学校の卒業生の教養や実力では不十分な点があることは認めなければならないが, それすら決定的なものとは思われない。 ただ困ったことには新制中学校の教師の意識が相変わらず 「小学 校の教師」 としての意識しかもてず, 「中等学校の教師」 という自覚に乏しい点である。 研究会や講習会 をやっても, 新制中学の教師は今までの顔なじみの多い小学校教師の側につき, 旧制中学の教師と一緒に なろうとしない。 これでは新制中学はいつまで経っても小学校の高等科の程度を越えることはできないだ ろう。 256.

(14) . 成立期社会科の一断面. 【小結I 以 上見 て きた ところ よ り, 次 の2 点 が明 か にな っ た。. 1. 附属校の課題ば, 新例中学の中等教育機関としての充実でばなく, 各教科の実践 を新教育にふさわしい る の に する こ と であ っ た。. 附属校は, その恵まれた状況から, また地域における教育実践の先進校という伝統的立場から新教育の ありかたについて, 授業実践の形に具現化して世に問うことが期待されていたであろう。 そのことを千葉 も 含 め た 附属 校の 教員 たち は, 痛 い ほ ど感 じてい た であろう。 千 葉 は, 50年 後の 今 日 にお いて も 次 のよう な 言 葉 を 語 っ て く れる の である か ら。. 私たち, 附属校の教師は, 全道の教育実践に責任を負っ ていますから…… しかし, 当時の教育課題の一つである 「高等小学校という初等教育機関をどのよう にして新制中学とい う 中等 教育 機 関 にふ さ わ しいも の につ く り か え ていく か」 につ い て は, 北 三 師 附属 校 の 教員 たち にお いて は, 課題 と して 強く 意 識 さ れて い な か っ たよう に思 わ れる。. 「付属中学校教育研究史」 の昭和22年度の項をみても 中等教育としての実質を追及するといった趣旨 , を 表 わす 言葉 に はぶつ か らな い か らで ある。. 2‐ ヱ0月3月の子葉の社会科授業も, 中等教育にふさわしいるのを創り出すという意識より も新教育にふさ わしい社会科授業を創り出すという意識の下に行われたるのであった。 北三師附属校が掲げた研究会の主 題 「6-3制を どう実施するか」 には, 全体社会レベルにお ける課 題を北三師附属校が受け止めているなら, 「初等教育としての実質しかもっ ていなかっ た高等科の各教科 の指導を中等教育のそれとしてふさわしいものにするために どう したらよいか」 という意味も込められて いなければならなかっ たはずである。 しかし少なくとも千葉においては指導案作成 に当たってこの点につ いては特に考慮されていなかっ た。 千葉はあくまで, 全道の見本となるような社会科授業を展開すること に目 を 向 けて い たの であ る。 そ の こ と を 窺 わせる もの が, 千 葉 の次 のよう な言葉 であ っ た。. 高等科が中学になる という ので,考慮したことですか。今度はみんなが中学から高校受験することになっ た訳ですから, 進学ということを考えて教育する必要があるとは思いました。 でも, この ( 10月 3 日の) 指導案を作っているときにはそのようなことは考えませんでした。 そういうことよりも社会科としてふさ わ しい も の を作 ろう と考 え ていま した。. では, 新教育にふさわしい社会科授業とはどのようなものであると, 千葉は考えたのだろうか。 次稿にお い てそ れを 明 ら か にする。. 註及び引用文献 1) 梅根悟, 岡津守彦編 『社会科教育のあゆみ』 59 ‐ , 小学館, 19 2) 地理の担当だっ た奥村良松は, 昭和22年5月の日付がある北海道第三 師範学校附属小学校 「各教科指導要目」 (昭和22年5月) 中 の 「社会科指導要目」 (社会科の年間計画) の作成担当者になっている。 しかし, 記録で見る限り, 研究会では一度も社会科の授業 をやっ ていないのである。 3) 『旭川市史』, p 390 . . , 1959 4) 平成8年6月 6 日, 千葉大作よりの聞き取りによる。. 257.

(15) . 吉. 田 正. 生. 437-8 6 4 5) 砂濠喜代次 「附属主事から附属校長へ」 『北海道学芸大学旭川分校四十年史』 pp ;ただし, /は改行を表わすもので . , 19 引用者による。 6) 砂揮は, このように書いているが, それはあくまで話し合いの題材として取り上げられることが多かったという意味であろう。 教 育内容の編成や実際の授業が公民担当以外の者によっ て行われたということは, 『四〇年史』 や 「教育計画」 からはうかがえない。 『日教組教育新聞 縮刷版19 28 )。 1 6日 ( 46一1 951 7) 「週間教育新聞」 昭和22年5月2 』 第1巻, p . , 1969 「週間教育新聞」 は 全日本教員組合の機関誌である 昭和21年5月 3 日に ”NIPPON KYOIKUS INBUN” の名前で第1号が発行 。 , “ 1日発行の第11 され, 5月18日に発行された第2号では名称が KYOI KU ‐RODび と改められている。 この名称が, 昭和21年8月2 46一19 51 号まで使われるが, 8月31日発行の第13号 (筆者が参照している 『日教組教育新聞 縮刷版 19 』 第1巻には第12号が欠落 している) からは 「教育労働改題 週間教育新聞」 となる。 「教育労働改題」 がとれるのは, 昭和21年9月21日発行の第16号からで ある。昭和23年12月2 7日発行の第13 6号からは「教育新報」となり昭和24年3月11日の第150号で終刊 となる。 しかし, この「教育新報」 の在り方を反省して昭和2 4年4月1 1日に 「全国50万の組合員のため」 に 「教育新聞」 が創刊される。 当時の日教組中央委員長の荒木 正三郎の創刊の辞 「創刊に際して一 の一部を下に掲げ, 「教育新聞」 創刊の経緯の一端を示す。 「先ごろ廃刊された 『教育新報』 は 奈良大会の決定以来一応我々の機関誌として努めてはきたが変則的な経営或いはその他の事 , 情によって, 遂に新聞をして完全なる組織者たらしめ得なかったのはいかにも残念である。 この原因はいるいるあるであろうが, 最. 『日教組教育新聞 縮刷 大のものはその新聞が組合員の切実な声によって作られていなかったという点にあると思われる。(後略) 」( ) 版 1946一1951』 第1 巻, p 323 . , 1969。. 132 51 8) 『日教組教育新聞 縮刷版 19 46一19 ;昭和22年6月 9日号) 』 第1巻 ( p . , 1969 ) 『社会科教育』 第7号, 昭和22年1 1月1日, 編集後記。 9) , 10 『社会科デモンストレーション』 山海堂 p 4 1948 文部事務官藤森七郎編 ) 馬場四郎 「中等社会科の教育計画」 1 1 . , . , , ) 平成7年1 12 0月21日, 東野正春談話 4年3月に廃校となっ なお, 東野が奉職した旭川市立第一中学校は, 非義務制の中学校であり, 全市から生徒が通っていたが, 昭和2 『 ) ている ( 旭川市史』 3 53 ‐。 ‐ ,p , 1959 2年 ) によっ て記しておく (括弧内は, 昭和3 353 因みに, 一中から八中まであっ た中学校がその後 どうなったか, 『旭川市史』 ( p . 当時の所在地)。 -中:廃校, 二中:北星中 (住吉町四条) , 三中:八中と共に, 明星中 (東5条2丁目) 四中:七中と共に, 光陽中 (東町2丁目), 五中:常盤中 (十条通十丁目) 六中:聖園中 (新町四条六丁目) ) 東野のこの発言を裏付ける記事が 「教育建設」 第14号 (昭和22年4月30日) にある。 以下にそれを掲 げる。 13 「このとき 道庁当局が英断をもって 道内第一級の中等学校長をその建設の衝にあたらせるとともに 新進実力の人々をこれに , , , 配したのは, 国民的性格の育成を目標とする, 新制中学校の前途を明るくするものであり, 続々発表される新校長の職員組織, 学校 運営の方向こそ, 革新時代における教育識見の如何を如実に物語るであろう。 」 2 年3月 ( 1 1 1 9 6 9 昭和 2 31日号) 51 第1巻 3 14 ) 『日教組教育新聞 縮刷版 1946一19 ; 』 p . , 『 17 0 4 ) 国立教育研究所 日本近代教育百年史』 第6巻 (学校教育), p 15 ‐ . , 197 4号 (昭和22年4月30日) 1 7 16 ) 「教育建設」 第1 .. ,p 14 97 8 ) 赤塚康雄 『新制中学校成立史研究』 明治図書, p 17 . . ,1 ) 赤塚, 同前。 p 6 18 1 .‐ 20 19 ) 赤塚, 同前。 p ‐ . 20 2 ) 赤塚, 同前。 p 0 . ‐ 2 ) 赤塚, 同前。 p 5 1 1 ‐. 2 2 ) 赤塚, 同前, p 22 . . ) 2 ) 平成8年6月2 3日( 日 3 , 千葉大作よりの聞き取りによる。 ) 赤塚, 同前, p 2 2 2 4 .‐ 25 ) 平成8年6月 6 日的, 千葉大作よりの聞き取りによる。 96 4 ) 『北海道学芸大学旭川分校四十年 丸 pp 3 33‐370 26 ‐ . ,1 4 3 3 5 1 9 6 27 ) 『北海道学芸大学旭川分校四十年 鬼 p . ‐ , 『 48 28 ) 馬場四郎 「中等社会科の教育計画」 ‐ .5, 19 , 藤森七郎編 社会科デモンス トレーション』 山海堂, p. 258.

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