奈良学ナイトレッスン 第4期 輝ける女帝
~第1夜 「なぜ女帝が登場したのか──推古天皇」~
日時:平成 24 年 4 月 25 日(水) 19:00~20:30 会場:奈良まほろば館 2 階 講師:瀧浪貞子(京都女子大学教授) 内容: 1.江戸時代までは女帝がいた 2.東アジアで初めての女帝 3.天皇暗殺事件と女帝の即位 4.即位の本命は誰だったのか 5.「あめのたりしひこ」その正体は… 6.個人情報は渡しません 7.見えない「倭王」 8.女帝は強し 1.江戸時代までは女帝がいた 今日から3回にわたって古代日本の女帝の話をさせていただきます。私は主に飛鳥、奈良、平安時代とい う古代史の研究をしてまいりましたが、なかでも女帝に関心を持ち、『女性天皇』という本も出版しました。た だし「女性天皇」というのは造語で、史料上に現れる用語は「女帝」です。私たちは近い将来、女性天皇を 認めるかどうかという議論に決着をつけねばなりません。江戸時代までは女帝が認められていましたが、現 在の皇位継承法はたいへん窮屈です。法改正をしない限り、女性が即位する可能性は皆無です。しかし たんに男性の有資格者がいないから女帝を容認しようという安易な考え方は避けるべきだと思っています。 2.東アジアで初めての女帝 我が国の初代の女帝は推古天皇です。その前に邪馬台国の卑弥呼や、朝鮮出兵を企てたと伝えられる 神功皇后を思い浮かべる方もいらっしゃるでしょうが、歴史上で正式に即位したことが確かめられる最初、と いう意味です。いわゆる「飛鳥時代」はこの推古天皇から始まります。彼女は628年に在位のまま亡くなっ ています。二人目の女帝は皇極天皇。蘇我入鹿が暗殺され、蘇我氏本宗家が滅亡した乙巳の変(大化の 改新)が起こりましたね。この人はもう一度皇位に着きました。「重祚(ちょうそ)」といいます。これが斉明天 皇で、飛鳥地方で大きな土木工事の跡が見つかったといえば、だいたい斉明天皇の仕事です。土木工事 と切っても切れない女帝でした。三人目が持統天皇です。夫の天武天皇と壬申の乱を勝ち抜き、都を飛鳥 から藤原京に遷したことで知られます。四人目は元明天皇。710年に都を藤原京から平城京へ遷しました。 『古事記』や『風土記』の完成も彼女の時代です。五人目は元明の娘の元正天皇。このとき『日本書紀』が 完成しました。六人目は孝謙天皇。東大寺の大仏を発願したのは聖武天皇ですが、完成させて開眼供養 を行ったのは、その娘である孝謙であることはあまり知られていません。彼女も重祚して、二度目は称徳天 皇と呼ばれます。これら古代における六人八代の女帝たちは、文化や政治に深い関わりを持っています。たとえば長岡京・ 平安京に遷都した桓武天皇以外は、女帝のときに遷都が行われているのです。『古事記』や『風土記』、 『万葉集』、『日本書紀』などを完成させたのも女帝の時代ですし、重祚というのも、日本の女帝の特徴で す。 しかし、称徳天皇のあとはどうなったのでしょう。女帝はだれ一人登場しなくなります。平安時代に擁立の 動きはありましたが、結局、実現せず、江戸時代になって二人、じつに860年ぶりに登場します。一人は三 代将軍家光のときの明正天皇。もう一人は十代将軍家治のときの後桜町(ごさくらまち)天皇。ただし、この 二人の立場や政治的意味は、古代の女帝と異なるものです。 ちなみに中国、朝鮮半島でも女帝は誕生しています。中国では唐の時代に則天武后(そくてんぶこう)が 現れます。病弱の夫の高宗に代わって即位しましたが、独裁政治を行ったために評判がよくなかった。彼 女は独自の漢字「則天文字」を20ばかり作りました。この文字は中国でも朝鮮半島でも現在は一切使われ ていませんが、日本では現在も使われているものがあります。それは水戸光圀(みつくに)の「圀」です。光 圀が帰依した京都山科の「本圀寺(ほんこくじ)」もこの文字を継承しています。中国の長い歴史のなかで、 女帝はこの武后一人だけでした。 朝鮮では新羅の時代に、善徳女王と真徳女王が、2世紀のちに真聖女王が登場しています。もっとも最初 の女帝善徳は632年に即位、真徳は647年に即位していますから、628年に亡くなった推古のあとに即位 したことになります。しかも中国唯一の女帝武后の即位は690年ですから、東アジアでは592年に即位した 推古がもっとも古く、しかも六人八代が存在するなど、女帝は日本の古代を特徴づけるといえるでしょう。で は、日本で女帝はどうして出現したのでしょうか。 3.天皇暗殺事件と女帝の即位 推古天皇は今から1400年前に登場した女帝です。彼女が登場した背景には、天皇暗殺という大事件が ありました。592年に崇峻(すしゅん)天皇が蘇我馬子に暗殺されたのです。その時の状況を「嗣位(しい)、 すでに空(むな)し」──皇位(王位)が空になった、と『日本書紀』は伝えます。推古天皇が要請されたの は、暗殺によって王位継承者がいなくなったためです。ちなみに暗殺された崇峻天皇は暗殺した馬子の甥 です。これ以前、5世紀半ば、安康(あんこう)天皇が眉輪王(まよわのおおきみ)に殺害されたということは ありましたが、崇峻のように臣下に殺されたという例はありません。そんなときに、なぜ女帝が即位したのか。 なぜ推古だったのか。キーワードは「嗣位、すでに空し」というところにあります。 当時の継承のありかたは父子ではなく、原則として兄から弟へという兄弟継承でした。ところが兄弟が終わ って、次の世代に移るとき、兄弟の子供たちが有資格者として、天皇候補者は一挙に増えます。そのため 世代が変わる最後の天皇が早い時期に皇位継承者(皇太子)を決めておかなければトラブルが避けられま せん。そこで、崇峻を見てみましょう。欽明天皇の子の世代の最後となる崇峻は、まさに移行期にあたるわ けで、即位後皇太子を立てるべきでした。ところが、それを決める前に暗殺されてしまったのです。これが 『日本書紀』の「嗣位、すでに空し」という状況です。 推古が即位して4カ月後、用明天皇の息子である厩戸皇子(うまやどのおうじ)が皇太子に立てられていま す。男帝の場合は早くても即位後1〜2年、場合によっては10年〜20年後に皇太子が定められますから、
推古の場合は異例の早さで厩戸が立太子されたことになります。 時代が下がりますが、天智天皇が晩年に自分の息子大友皇子に位を譲りたいと願ったとき、その気持ちを 知った弟の大海人は「それでは女帝として皇后(倭姫)を即位させ、大友皇子を皇太子とするべきです」と 進言しています。当時、女帝は単独では存在しなかったのです。天智・天武の時代でも女帝と皇太子が一 連のものだったのです。 4.即位の本命は誰だったのか 推古天皇の即位について、もう一つ大事なことは、皇太子は単なる王位の候補者ではないということです。 『日本書紀』には、即位の際に「すべてを皇太子に委ねる」とも、皇太子は「天皇の事したまふ」ともあります。 当時、「皇太子」という称号はまだ定着していませんでしたが、厩戸皇子が天皇の代行権を持つ立場にあっ たのは確かです。便宜上、「皇太子」と言うことにしますが、これは男帝ではまったく見当たらないことで、女 帝は男帝と同じではないという認識があったことがわかります。 推古天皇の即位については、通説では、息子の竹田皇子を即位させるための中継ぎとして即位したが、 即位直後に竹田皇子は亡くなってしまたため、次善の策として厩戸が立てられた、と言われます。「竹田皇 子の墓に葬ってほしい」という推古の言葉が根拠とされています。溺愛している竹田皇子を即位させたかっ たというのです。しかし「譲位」がまだない時代ですから、推古がいったん即位すると、自分が亡くならない 限り竹田は即位できない。だから中継ぎの説は採りません。 人々の本命は厩戸皇子でしょう。ではなぜ厩戸をすぐに即位させなかったのか。残念ながら厩戸は即位で きなかったのです。当時大王(天皇)の即位というのは、少なくとも30歳以上という暗黙の了解がありました。 飛鳥ではたくさんの豪族たちが機会を狙っていますから、彼らを抑えるには最低でも30歳という年齢と経験 が必要でした。厩戸はおそらく20歳前後で、若すぎたのです。そこで馬子は皇太子という立場で政治に携 わらせ、皇位継承者として位置づけることで、皇位継承の筋道をたてようとしたのです。 厩戸と推古は非常に深い関係がありました。厩戸には知られるだけで4人の后がいましたが、一人は馬子 の娘・刀自子郎女(とじこのいらつめ)。もう一人は膳(部)氏(かしわでし)の娘・菩岐々美郎女(ほききみの いらつめ)、それに推古の娘・菟道貝鮹王女(うじのかいだこのひめみこ)と推古の孫・位奈部橘王女(いな べのたちばなのひめみこ)。四人のうち、二人が推古の娘と孫です。推古が擁立された背景は、敏達の皇 后として経済的な基盤や発言力を持っていたことに加えて、本命の厩戸と深い関係にあったことで、極端 にいえば、厩戸の立太子を実現するために要請されたといってもいいのです。 5.「あめのたりしひこ」その正体は… ところで、当時の中国は日本の女帝をどのように見ていたのでしょう。 中国を統一支配していた隋の歴史書『隋書』の倭国伝には、開皇20年(600)に日本から初めての遣隋使 が送られたときの記事があります。その中に倭王について聞かれたときの遣隋使の返事として、「姓は阿毎 (あめ)、字は多利思比孤(たりしひこ)、阿輩雞彌(あへけみ)と号す」とあります。日本では今日にいたるま で天皇には姓がありません。ところが皇帝にも中国では姓と字(通称)があり、苗字がないことは考えられな かった。「あめのたりしひこ」または「あまのたりしひこ」とは、1400年前の日本では、天子、天下を統治する
大王を表す称号、一般名詞でした。そこで隋の筆記者は「あめ」が姓、「たりしひこ」が通称だと考えて記し たのでしょう。それでは「阿輩雞彌(あへけみ)」とはなんでしょう。おそらく日本の遣隋使が「おおきみ(大 王)」あるいは「あめきみ(天君)と言ったのを「あへけみ」と聞いて、筆記者はその音に通じる漢字を当てた のです。つまり遣隋使は「日本の大王はあめのたりしひこ、おおきみと言う」と伝えたのです。 しかしこの遣隋使を派遣したのは女帝推古ですから、「たりしひめ」でなければならないのに、男性を意味 する「たりしひこ」になっている。なぜでしょう。もし女帝であることが知られたらバカにされるため、女帝であ ることを隠そうと「たりしひこ」にしたのではないかといった考え方があります。しかしそうでしょうか。推古から 300年も前に、中国の魏に邪馬台国の女王卑弥呼が使者を送り、多数の鏡をもらっています。『魏志』倭人 伝を見れば、倭には30ばかりの国があって、女王の卑弥呼がうまく治めている、と誉めているのです。いま さら女帝であることを隠す必要はないでしょう。「たりしひこ」はたしかに男性の呼び方ではありますが、推古 は倭王の一般的称号の意味で「あめのたりしひこ」と名のらせたように思います。 6.個人情報は渡しません それよりもっと大きな問題があります。「あめのたりしひこ」は天子ということを意味する称号で、固有名詞で はありません。推古は使者に自分の名前である額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)とか炊屋姫(かしきやひ め)とは名乗らせていません。小野妹子を使者にした二回目の遣隋使にも個人名は名乗らせない。持参し た国書には有名な「日出づる処の天子(・・)、書を日没する処の天子(・・)に致す云々」とあり、個人名を名乗 っていません。しかも隋に対し「天子」という対等の言葉を用いています。推古天皇は意図的に名乗らせな かったのではないでしょうか。おそらく、最初の遣隋使によって百二十数年ぶりに外交を再開させたとき、推 古は対等の関係を目指したのでしょう。と言うのも、外交が途絶える前の倭の五王の時代は、中国とは冊封 関係、つまり倭の国が中国の臣下となって朝貢をするという関係でした。中国に認めてもらうことによって、 倭の王たちはそれぞれ讃、珍、済、興、武と名乗って中国に朝貢を行い、自分の国内における優位性を確 保しました。 しかし推古は外交を再開するにあたって、この冊封を受けず中国と対等に外交を結びたいと考えました。 その意志の表れの一つとして、個人名を名乗らず、皇帝と対等の「天子」という言葉を使ったのでしょう。た いへん強い外交です。 ちなみに同じ『隋書』に、倭国では中国の皇太子のことを「利(和)歌弥多弗利(わかみたふり)」と呼んだと あります。この「わかみたふり」の立場にあったのが厩戸王子であることは間違いありません。 7.見えない「倭王」 日本の女帝に対する認識に関して、もう一つ大事なことがあります。小野妹子が持って行った「日出づる処 の天子……」と書かれた国書を読んだ隋の皇帝(煬帝)は激怒し、中国と日本は対等ではないことを言い聞 かせるために、帰国する妹子に裴世清(はい・せいせい)という中国の使者を同行させ、国書を持参させた。 その内容には、「倭王は海の彼方にあって、国民を慈しみ、国内は平和であり、至誠をもって遠くから朝貢 してきたことを知った」とあります。はっきりと「朝貢」と書いています。そして隋に帰って煬帝に次のように報 告しました。「倭王は私、裴世清と会見して大変喜んで、大国隋の新たなる教化をお聞かせくださいと言っ
た」と。そして、倭の国を教化してきました、と言うのです。 問題は、ここには「倭王」とのみ書かれて、これが推古なのかわからないことです。推古であることは間違い ないのに、「女帝」であるのかも述べられていないのです。この謎の秘密は、当時の宮殿にあります。当時 推古は飛鳥に小治(墾)田宮(おはりだのみや)を営んでいましたが、発掘調査から宮の見取り図を想定す ると、飛鳥に入った裴世清は正面の正門(南門)に待機し、推古の出御(しゅつぎょ)の合図を受けて、正門 を入ります。両脇には豪族たちが勤める役所「庁」(まつりごとどの)があり、豪族たちはこの庁の前の「朝庭」 で裴世清を迎えます。そして準備が整ったあと、裴世清は国書を豪族が立ち並ぶ朝庭の南のあたりで国書 を読み上げます。もちろん推古は出御していましたが、出御した場所はおそらく朝庭の北にある大門の奥 の大殿です。となると、朝庭にいる裴世清との距離は非常に大きい。お互いは見えません。推古の姿を認 識するのはまず無理でしょう。推古のほうも裴世清が国書を読み上げる声を聞き取ることはできなかった。 二人の間には介在人がいたはずです。このとき言葉をそれぞれに伝えた人物は、天皇の代行権を持った 皇太子の厩戸皇子以外には考えられません。裴世清と倭王のやりとりは、実際には厩戸王子との間に交わ されたものと考えるべきでしょう。代弁した厩戸の言葉は推古の言葉そのものだった。だから裴世清は、倭 王が会見をたいへん喜んだと報告したのだと思います。 倭王が女帝であったことが一言も書かれていないのは、どのように考えるべきでしょうか。推古が女帝であ ったことを知らなかったとは思えません。裴世清は妹子と一緒にやってきて、裴世清が帰るときも妹子が送 使として中国に同行していますし、なにより裴世清は5カ月も日本に滞在しています。当然、倭王が推古で 女帝であったことは知っていて、中国に帰って女帝であることを報告したと思います。しかし『隋書』倭国伝 には女帝であることが書かれていない。それは、300年も前に邪馬台国があって女王の卑弥呼がうまく治 めていたため、女帝のイメージがすでにあって、女帝であるということがことさら問題になることはなかったの ではないでしょうか。 推古のあと、厩戸皇子が大王の位を継ぐというのが豪族の共通認識でしたが、19年後に推古に先立って 厩戸は亡くなってしまいます。結局厩戸が即位をすることはありませんでした。 8.女帝は強し これまで見てきたように、推古は「嗣位、すでに空し」という状況のときに要請され、皇太子とセットで後継の 筋道を立てるために即位しました。そのため女帝は日本に誕生したときから、男の天皇とは役割が違うとい う認識があったと思われます。しかし権限が劣るかというと、決してそうではありません。あるとき蘇我馬子が 推古に対し、葛城県(かつらぎのあがた)という大王の領地を譲ってほしいと言いました。推古のお母さんは 蘇我稲目の娘である堅塩媛(きたしひめ)ですから、推古と馬子は叔父と姪、関係は非常に深い。しかし推 古は次のように答えました。「大臣(馬子)は私の叔父ですから、これまでおじさんの言うことを聞いてきまし た。しかし今もし葛城の領地をおじさんに与えたら、きっと後世の人はこう言うでしょう、愚かな婦人が即位を して天下を収めたからこの領地を失ってしまったんだ、と。これは決して私一人の恥ではありません。おじさ んもきっと不忠と言われ、後世に悪名を残すことになるでしょう」。推古は馬子に向かってきっぱり断ったの です。女帝の権限や立場が男帝に劣るというものではないことがよくわかります。対外関係にもそんな推古 の態度が見て取れます。女帝は男帝と同じではない、皇太子と一体の存在であったことから強い権限を持
たなかったというイメージがありますが、男帝に劣らない強さがありました。
推古のあと、二人目の女帝、皇極天皇も皇太子とセットで即位します。しかしそのような女帝のあり方は、 持統天皇のときに大きく変わります。これについては次回にお話ししたいと思います。