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「わくわく」の創造 : 滋賀大学教育学部附属幼稚園の実践

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「わ く わ く」 の 創 造

―― 滋賀大学教育学部附属幼稚園の実践 ――

田 中 裕 喜 *

Creation of ʻthe Exciting and Inspiringʼ

―― The Practice of the Attached Kindergarten to

the Faculty of Education, Shiga University ――

Hiroki TANAKA

キーワード:教師との共振・共鳴的かかわり、ものとの対話、他者との対話、じぶんとの対話、対象中心性 は じ め に 滋賀大学教育学部附属幼稚園は、平成 24 年 (2012 年) 度から、「わくわくの創造 ―― 自ら のりだし、人とゆきかう子どもを育てる ――」 を主題とする園内研究に取り組んでいる。この 主題は、与えられることを待っている、相手の 気持ちに寄り添う姿勢が弱い、といったこの園 の子どもたちの姿を踏まえ、教師たちがどの子 にも幼児期にふさわしい豊かな体験をしてもら いたいという願いをこめて設定したものである。 研究の方法は、日々の保育における子どもたち の姿のなかから、自ら身も心も投じて遊び込ん でいる様子や、逆に遊びに入り込めないでいる 様子をエピソードの様式で記録して、それがど のような要因と関係しているのかを考察すると いうものである。これは日本の幼稚園において 伝統的に行われてきた保育実践研究の方法であ るが、子どもが身も心も投企して活動している かどうかという点に焦点を絞って見取ろうとし ているところにこの研究の特徴がある。以下、 本論では、この研究に協力者として参加した者 の立場から、この研究のもつ射程や、この研究 の過程で明らかになったことを論じてみたい。 1 「わくわくの創造」という研究主題について 「わくわくの創造」という研究主題は、幼稚 園の研究主題としてはあまり見かけないもので ある。ここでは、この主題のもつ意味について、 いくつか述べておこう。 第一に、「わくわくの創造」の主語には、子 どもばかりでなく、教師が含まれている。現代 の、親から与えられすぎて、与えられずには動 けなくなってしまった子どもに、自ら身も心も 投じて没頭するような体験をしてほしいと願う のは、教師として当然のことだろう。けれども、 そう願うのであれば、まずは教師である自分自 身が、「わくわくする体験」をしていることが 必要である。つまり、この研究主題を掲げるこ とは、「私たちは、子どもたちとともに日々の 生活を豊かにすることに心を砕きます」と宣言 することでもあるのだ。 第二に、この研究主題は多元的である。「わ くわくする体験」を創造する一般原理や科学的 法則がどこかにあるわけではない。幼稚園にお ける「わくわくする体験」は、それぞれの園、 それぞれのクラスで、教師と子どもとが日々の * 滋賀大学

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コミュニケーションをとおして創り出していく ものである。たとえるなら、めざす頂上は同じ でも、いろいろなルートから登ることができる 山のようなものである。同じ幼稚園でも、4 歳 児クラスと 5 歳児のクラスとでは、「わくわく する体験」のあり様は当然異なってくる。また、 同じ 4 歳児のクラスでも、そのあり方は違って いてよい。したがって、この研究主題では、一 人ひとりの教師が、自分のクラスの事例に基づ いて、「私のクラスにおける『わくわくの創 造』」を、自律的に探究していくことになる。 このことは、教育実践の研究が、真に教師自身 の専門的成長につながるものとなるために必要 不可欠な事柄である。 第三に、この研究主題は、近年の保育・幼児 教育をめぐる世界的な動向と偶然にも一致して いる。これについては詳論しよう。 ベルギー・リューベン大学のフェール・ラー バ ー ス 教 授 (Ferre Laevers) は、長 年 に わ たって園内研究を支援してきた経験から、保育 プロセスの質は子どもの「安心・安定 (well-being)」と「夢中・没頭 (involvement)」の二 つの視点で捉えられるとし、それぞれ「安心 度」と「夢中度」の大まかな基準を示してい る1 ) 。「安心度」とは、子どもがどれだけ居場 所感をもって生活しているかをみる視点であり、 「夢中度」とは、子どもがどれだけ文化的に価 値のある対象に没頭しているかをみる視点であ る。この後者、保育プロセスの質は子どもの 「夢中度」という視点で捉えられるとする点が、 滋賀大学教育学部附属幼稚園の視点ときわめて 類似しているのである。ラーバースの示す「夢 中度」の評定は、以下のものである。 それぞれの評定に関して、もう少し細かな特 徴が記されているが、ここでは、評定 5「特に 高い」の特徴のみ挙げておく(なお、この特徴 は、日本の保育実態に合うように、秋田らに よって若干の変更が加えられている)。 ・子どもは、活動中、中断することなく、焦点 を定めて、集中している。 ・子どもは活動に対して高い意欲を持っており、 活動に魅力を感じていて、辛抱強く取り組ん でいる。 ・何か強い邪魔が入っても、気を散らすことが ない。 ・子どもは注意深く、細部にも注意を払い、几 帳面に活動している。 ・精神的な活動も、実際の経験も高いレベルで ある。 ・子どもは絶えず全力を尽くしている。想像力 も精神的能力も最大限に働かせている。 ・子どもは活動に夢中になることを楽しんでい る。 誤解してはならないのは、ラーバースは、 「夢中度」を数値化すること自体を目的として、 この評定を推奨しているわけではないというこ とである。日々の保育に携わっている教師たち は、子どものその時々の夢中や没頭の程度を直 感的には感じ取っている。しかし、その感じ方 は、たとえ同じ園に勤務する者同士であっても、 個々の教師によって、多かれ少なかれ異なるも のである。園内研修などで、同僚とともに、あ る子どものエピソードの「夢中度」を数字で表 現してみることで、「どうして異なるのか」「一 致したのはなぜなのか」について、それぞれの 判断の根拠や理由を語り合うことが可能になる。 ラーバースは、なぜその値をつけたかについて、 「豊かな環境」「集団の雰囲気」「主体性の発揮」 「保育活動の運営」「大人の関わり方」という 5 つの観点で分析し、それをもとにして、明日か らの保育でできることは何かを具体的に考え合 うことを提唱している。つまり、評定のねらい は、同僚とともに日々の保育の質を高めるため に協同することなのである。 このようなラーバースの提唱している保育プ 2 子どもはいつも忙しそうにしているが、 何かに集中しているようには見えない。 中程度 3 明らかに子どもは活動に参加している 様子が見える。しかし、常に精一杯取 り組んでいるとは見えない。 高い 4 観察中、子どもは絶えず活動に取り組 んでおり、完全に没頭している。 特に高い 5 特に低い 子どもはほとんど何の活動もしていない。 出典:『子どもの経験から振り返る保育プロセス』 1 表 1 「夢中度」の評定 子どもはある程度活動しているが、た びたび中断してしまう。 低い

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ロセスの質尺度は、2009 年現在、ヨーロッパ、 オーストラリア、アフリカなどの世界 25 カ国 で使用されている。滋賀大学教育学部附属幼稚 園の「わくわくの創造」の研究は、この尺度こ そ用いてはいないものの、子どもの「今、こ こ」の姿をエピソード記録する点や、子どもが どれだけ活動に没頭しているかを検討する点、 同僚との話し合いを通じて保育における課題や これからも大切にしていきたいことを明らかに している点において、ラーバースの提唱する保 育プロセスの質の改善の方法と大きく重なって いる。 2 事例に学ぶ「わくわくの創造」 以下では、園内研究の場において教師たちが 報告してくれた「わくわくの創造」に関するエ ピソード2 ) から、私が原理論的に学んだことを 記すことにしよう。 (1) 3 歳児すみれ組の事例 2012 年 9 月 13 日 子どもたちが砂場で穴や道のようなものを掘 り、水を流している。I 児がじょうろで水を流 して、A 児、G 児がつくった水溜まりとつなげ ようとする。 教師「I ちゃん、ここ、つなげようと思ってる ん?」 I 児「うん」 教師「じゃあ、先生はここ掘るの、手伝うね」 A 児、G 児らが何回か水を流しているうちに 道がつながる。 教師「わぁ、I ちゃん、つながったよー」 I 児はにっこりする。 B 児「つながったね、B ちゃんとこもつなげる の。(しばらくして) つながったよー。こっち もつなげる」 B 児が I 児の場の周りに別の道をつなげはじ めると、「手伝おうか」と数人の幼児が集まっ てくる。 3 歳児のこの事例では、教師が I 児の水を流 す行為に共振的・共感的にかかわったことを きっかけにして、他の子どもたちも、教師のと ころに集まってきている。教師が、一人ひとり の子どもとの情動的な交流を放射線状に築いて いれば、その教師の身体を核にして、子ども同 士の間に「場所の共有」が生まれる。ここでは じめて、子どもは、教師の視線をなぞって友達 のやっていることに目を向けるようになる。そ うして、「自分もやってみようかな」と友達の 動きを真似てみることが、自分のやりたいこと を見つけること、友達と一緒にいる楽しさを感 じることへとつながっていくのである。 (2) 4 歳児さくら組の事例 2012 年 9 月 18 日 A 児ら数人が、砂場でさら砂を作ったり、 型抜きをしたりして遊んでいる。教師は、作っ た物を置く机とその場に陰が必要だと思い、 リールの机とパラソルを用意する。すると、A 児がその場にシャベルやボールを持ってきて遊 び始めた。 2012 年 9 月 19 日 教師は、昨日と同じように場のみ用意してお く。A 児、B 児、C 児、D 児がさら砂を作った り、ごちそうを作ったりしている。教師がそれ ぞれの作ったごちそうを食べると、A 児は嬉 しそうにしていた。 2012 年 9 月 20 日 教師がテーブルを出しておく。A 児がいす を 4 つ運んできて並べ、レストランのようにス プーンを一つずつテーブルに置いてから、ごち そうを作りはじめた。B 児、E 児も同じ場にい るが、それぞれが自分のしたいことをしている。 2012 年 9 月 21 日 A 児がさら砂作りを始める。さら砂を砂糖 に見立てているようで、型抜きしたケーキに振 りかけている。E 児、F 児が「入れて」と言って やってくる。A 児は「クリームがいい? チョ コレートがいい?」と二人に尋ねる。F 児も砂 を型抜きに入れ始める。 2012 年 9 月 25 日 A 児、E 児がそれぞれでさら砂を作っている。 網つきの小さな台を取りに行き、近くに来た教 師に「ホットケーキ作ってんねん」と言う。 ボールを台に載せ、ひっくり返すようにボール を振ると、E 児もとなりにボールを載せ、二人 でボールの中をのぞき込んで笑っていた。 2012 年 9 月 28 日 E 児が先に砂場に来ていて、A 児が「入れ

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て」と言って遊びに加わる。さら砂を作り、 「ほら、サラサラ」「ちょっとちょうだい」と 言って、互いにさわって確かめていた。 気に入った遊びを見つけた 4 歳児は、それを 飽きることなく繰り返す。だが、繰り返してい るというのは、正確さを欠いた言い方である。 やっている本人からすると、同じことの単なる 反復ではなく、毎回新たな出会いや気づきや発 見が起きている。だからこそ、夢中になれるの である。この一連のエピソードでも、さら砂作 りが基本になっていることはたしかだが、教師 の環境構成に支えられて、日を追うごとに、さ ら砂をレストランごっこの中に組み込んでいき、 砂糖やホットケーキなど、さまざまなものに見 立てている。砂という「ものとの対話」が、多 様なイメージ、多様な物語を生み出し、そのイ メージや物語を媒介にして、「友達との交流」 が生まれているのである。 (3) 5 歳児あやめ組の事例 2012 年 9 月 7 日 前日に続いて船を作る。C 児がプロペラの船 をストローでぶくぶくする船に改良していた。 それを見ていた A 児もストローを使って同じ ようにしようとするが、うまくいかない。「な んでかなぁ」と独り言。見ていた D 児に「漏 れてるんちゃう?」と言われ、「そっかぁ」と つなぎ目にテープを貼る。それでも、空気が通 らない。「どうしてかなぁ」。教師がつなぎ目に 手を当ててみて空気が漏れていることを知らせ、 もう一度外してつなぎ方をどうすればいいか投 げかけると、「あっ! わかった!」と言ってつ なぎ直す。やっとぶくぶく言うようになり、嬉 しそうに繰り返し遊ぶ。それを見ていた B 児 も同じように作ろうとしているのに気づき、A 児は「テープをとめるとこ、気つけなあかんね んで」と教えてあげる。 2012 年 9 月 13 日 クラスの男児たちが段ボールの基地を作って いるのを見ていた A 児が、E 児とふたりで基 地を作りたいと言い出した。ツリーハウスのよ うにしたいと、「たからの森」から枝や猫じゃ らしを集めてくる。段ボールもほしいと言うの で教師が出すと、「広くしよう」「寝るところも いるね」と言いながら段ボールカッターで切る。 枝で屋根を作りたいという思いがあり、A 児 はどうすれば屋根ができるかを熱心に考え、教 師に相談に来る。 5 歳児では、言語活動の発達に支えられて、 「わくわくする体験」が一層深化する。そのポ イントとなるのは、子どもが自分とは異質な他 者とアイデアを交流し、それを取り入れられる ことである。このエピソードでも、自分の思い を何とかして実現しようと、友達や教師のアイ デアを取り入れ、自分の既有の考えを修正しな がら、試行錯誤しているさまが見て取れる。こ のように、5 歳児は、「ものとの対話」を「他 者との対話」によって深化させていく。他者の ことばを自分の内側に取り込んで「じぶんとの 対話」を行い、自分のやりたいことを実現しよ うとするのである。 以上、滋賀大学教育学部附属幼稚園のそれぞ れの年齢児における「わくわくの創造」の象徴 的な姿を見てきたが、それらを通時的に見てみ ると、それぞれが独立してあるのではなく、積 み重なるようにして質的な高まりを示している ことに気づくことができる。3 年間にわたる 「わくわくの創造」をめざす保育の見通しを図 で表してみたのが以下のものである。この図は、 下の層から上の層に移行していくというように 見るのでなく、「教師との共振・共鳴的かかわ り」を基層にして、新たな層が降り積もり、層 が厚みを増していくというように見てほしい。 「じぶんとの対話」が可能になると、その後は 4 つの層のあいだを自在に往還しながら、「わ くわくの創造」の主体として活動することがで 図 1 「わくわくの創造」保育の見通し

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きる。 3 「わくわく」ということ 「わくわくの創造」は、人間の成長・発達の 全体的なプロセスにおいて、どのような位置を 占めているのだろうか。このことを、作田啓一 の「生成の社会学」3 ) の議論を補助線とするこ とによって明らかにしておこう。作田は、自我 には 4 つの相があるという。その 4 つの相と基 本的な特徴は次のとおりである。 前自我=第 1 次自分中心性 独立我=別離・独立の傾向 社会我=第 2 次自分中心性 超個体我=対象中心性 前自我とは、自己意識の成立以前の自他未分 の状態、自我がまだ潜在的な状態である。ここ では、あらゆる客体が自己の欲求を満たすか否 か、自己に快感を与えるか不快感を与えるかと いう観点だけから位置づけられる。 独立我は、実存的態度としての自己の固有性 の意識を中核にして成立する。人間の個体は母 子一体化のエロスの世界に安住したまま成長す ると、弱くなりすぎてしまうので、種を保存す る必要上、個体をその世界から別離・独立させ る力が働くのである。 社会我は、主客の分化の後に、未知の客体に 対して既成のラベルを貼り、中身を問うことも なく、ラベルどおりのものとして利用し操作す る自我のことである。これは、人間の社会が親、 教師、同輩集団、マス・メディアなどを通して 子どもに育むものである。 超個体我は、客体を自己にとって有益かどう かの観点からのみ捉える道具的・功利主義的な 関心の代わりに、客体への純粋な関心をもつと いう対象中心性 (allocentricity) を特徴とする。 対象中心的な結びつきは、孤立した特定の対象 との結びつきであるよりも、それを超えた何も のかとの結びつきであり、この結びつきにより、 自己は個体の限界を超えるのである。 作田は、自己意識が確立した後の 3 つの相の 自我に関して、社会我を「定着の世界」(自己 と他者の境界が屹立する世界) に、超個体我を 「生成の世界」(自己と他者の境界が溶解する世 界) に、独立我を両世界の中間に位置づけてい る。そして、人間形成には、社会我を拡大する 方向と、超個体我を拡大する方向とがあるとす る。つまり、自己中心性をつうじて未知のもの をすべて既知のものへと還元することに重きを 置くのか、それとも対象中心性をつうじて未知 の世界を探求することに重きを置くのかという 岐路である。近代の文明社会では、思春期を境 にして、社会我へのエネルギーの配分量が増加 しつづけ、逆に超個体我への配分量が低減しつ づける個人が総体的に多いというのが、作田の 見立てである。 さて、以上の作田の理論枠組みを借りて言う ならば、滋賀大学教育学部附属幼稚園が「わく わくの創造」をとおして育もうとしている自我 が超個体我であることは明らかだろう。肝心な のは、「対象中心性」である。対象 (もの、他 者) が自分にとって有益であるかどうか、自分 にとって快であるか不快であるかとは関係なく、 対象全体への純粋で開かれた関心をもつことで ある。その結果、自己と対象とを隔てている境 界が取り払われ、自己が対象にたいして溶けて いくような体験となる。この溶解体験こそが、 「わくわく」の中核にあるものであって、われ われに生命の充溢感をもたらすのである。 このことに関連して、教育学者の矢野智司が 次のように述べている。 「有用性を生活の原理にして目的−手段関係 のみで世界とかかわりつづけると、人や物はい つも手段や道具や材料とみなされ、世界とのか かわりは部分化し断片化してしまう。また現在 の時間は未来の目的を実現させるための手段と みなされてしまう。「いま」はそれ自体では価 値がなく充実したものともならない。こうして、 世界との全体的な生きた交流が妨げられるよう になる。……遊びでは、労働のように有用な関 心によって目的−手段という系列によって切り 取られる部分とかかわるのではなく、何かのた めに役立つという目的−手段の回路から離脱し、 世界そのものへと全身的にかかわる。そのため 遊ぶ人は世界に直に住みこむようになり、世界 との深い連続性を味わうことができる。このと きの世界は、日常生活における世界以上にアク

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チュアルで、奥行きをもったものとして立ち現 れ、生き生きとした現在として体験されるので ある」4 ) 。 ありうべき誤解に対して機先を制しておこう。 その誤解とは、次のようなものである。「ここ で述べられている対象中心的な超個体我の涵養、 自他の境界の溶解をともなう世界との全体的な かかわりは、幼児期の教育の中でこそ、実現可 能かもしれないが、児童期以降の教育では、実 現不可能なのではあるまいか」。 われわれは、今日の幼稚園において、児童期 以降の教育との連続性のない教育方法や教育内 容が意図的に採られるということはあってはな らないと考える。したがって、「わくわくの創 造」をめざす教育実践も、児童期以降の教育と 連続性を有するものとして考えている。それで は、どのような意味で、連続しているというの か。 発達心理学者のベレンキーらは、人間の物事 のわかり方 (knowing) には二通りあるとい う5 ) 。 一つは、「切り離すわかり方 (separated know-ing)」である。これは、自分の考えを話したり 書いたりして主張し、相手の出す命題を批判的 にとらえ、議論しあうことによって、客観的に 外側から「対象について」わかり学んでいく方 法である。近代科学の知は、この様式によって 成立した。 だが、わかり方には、もう一つある。「つな がりあうわかり方 (connected knowing)」で ある。これは、関わる対象である特定の人やも のと学び手との関係性、ケア (相手への専心と 配慮、相互の育み) を核とするわかり方である。 身をもって対象と関わり、「対象とともに」身 を置くことによって、その対象を内側からわか り学んでいく方法である。 滋賀大学教育学部附属幼稚園の「わくわくの 創造」の教育実践において希求されているわか り方は、「つながりあうわかり方」である。そ れは、幼児期であるから必要で、それ以降には 必要がないという性質のものではない。むしろ、 これからの学校においては、近代の社会が要請 してきた「切り離すわかり方」とは異なる「も う一つの知の様式」(秋田喜代美) として、「つ ながりあうわかり方」を創り出していくことが 求められているのではなかろうか。このことは、 今日の学校に生きる一人ひとりの子ども、一人 ひとりの教師が、有用性原理や損得勘定から離 れて、「学ぶことの意味と歓び」を取りもどし、 「学びの主人公」として成長していくために必 要不可欠なことであると思われる。 註 1 ) 「保育プロセスの質」研究プロジェクト『子ど もの経験から振り返る保育プロセス ―― 明日 のより良い保育のために』幼児教育映像制作 委員会、2010 年。 2 ) 平成 24 年度滋賀大学教育学部附属幼稚園公開 研究会発表資料、2012 年 11 月 15 日。 3 ) 作田啓一『生成の社会学をめざして ―― 価値 観と性格』有斐閣、1993 年。 4 ) 矢野智司『意味が躍動する生とは何か ―― 遊 ぶ子どもの人間学』世織書房、2006 年、121 頁。

5 ) Belenky, M. F. et al. Women’s ways of knowing : the development of self, voice and mind. 2nd. Ed. New York : Basic books, 1997. 次の文献を 併せて参照のこと。秋田喜代美『子どもをは ぐくむ授業づくり 知の創造へ』岩波書店、 2000 年。

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