第五高等学校教授長江藤次郎は明治四十二年(一九○二)二月一七日付で「独逸語研究ノ為」文部省より満二年の ドイツ留学を命じられた。これは、独語研究を目的とするゲルマーーストの文部省留学生としては明治三十三年(一九 ○○)の山口小太郎(東京外国語学校教授)、藤代禎輔(一高教授)、同三十六年(一九○一一一)の中村健一郎(三高教 授)、同三十九年(一九○六)の田代光雄(東京外国語学校助教授)、澤井要一(六高教授)に次いで六人目であった。 長江藤次郎は日本における初期ゲルマニストの有力な一人であったが、今では完全に忘れられていると言ってよい。 残された業績が比較的少ないのでそれもやむを得ないと思われるが、ゲルマーーストの留学という観点からは長江は興 味ある存在である。というのは、彼は文部大臣宛に留学生活について逐一詳細に報告しているからである。こういう 例は極めて珍しい。彼の報告書はその几帳面な性格を窺わせるが、同時に初期のゲルマーーストの留学生活を知る貴重 な資料ともなっている。
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最初に、熊本大学の五一白面記念館及び山口大学に保存されている履歴書によって長江藤次郎の経歴を記しておきたい。 ゲルマニスト 長江藤次郎の留学
留学までの経緯 はじめに 上村直己
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その後明治三十二年(一八九九)九月十一日付で、山口高等学校教授に就任した(高等官六等)。独語担当。そし て七年後、明治三十九年(一九○六)七月三十一日依願免本官となった。履歴書(山口大学蔵)には病気のためと書 かれている。退職に際して多年山口高に勤務した慰労として防長教育会より金時計一個と金千三百円を贈られている。 そのほかに文部省からも六年勤めたとの理由で年俸三ヵ月分が下賜があった。 明治四十年(一九○七))一月に至り、今度は熊本の五高教授に就任した(高等官四等)。そしてすぐに第五学科 (独語)主任を命じられた。赴任当時同校のドイツ語の同僚には小島伊佐美、三浦吉兵衛、宇佐美全賢、白川精一等 がおり、彼らはいずれも東大独文科における長江の後輩であった。外国人教師には『大曰本書史』(シ四三・四呂亘 ○m』四宮胃の、の国自己言)編者として知られるヴェンクシュテルンやカール・アーノルド・ハーンがいた。 長江は明治三年(一八七○)七月二十五日大阪市西区北堀江五丁目において生まれた。同市堀江小学校を卒業後、 在阪知新館の藤沢南岳、戸谷濾斎の門に入り専ら漢学を修めた。そして試験の上、大阪府立中学校に入学したが、幾 ばくもなく病気のため退学した。明治十六年(一八八三)正月大阪私立東雲学校に入り英語、数学、漢学を修業。翌 十七年九月大阪私立予備校に入学、英漢数、歴史、物理化学等を修めた。明治十八年三月試験の上大阪の文部省直轄 中学校に入学。同年九月同校が大学分校と改称するに及んで引き続き在学。翌年同校がさらに高等中学校と改称する に及んで引き続き在学。同二十三年同校が京都に移転、第三高等中学校と改称するに及んで引き続き在学。そして明 治二十五年(一八九一一)七月十日、第三高等中学校文科を卒業した。同年九月十日帝国大学文科大学国文科入学。翌 年九月同独逸文学科第一年級に転科。同二十九年七月十日同科卒業即日帝国大学大学院に入学、戯曲論及び独逸戯曲 史を専攻した。独文科在学中はカール・フローレンッと藤代禎輔の薫陶を受けた。その後明治二十九年から三十二年 まで学習院の嘱託教授を務めた外に、本郷元町の私立独逸語学校、大成学館尋常中学独語講師を務めた。この間学習 院『輔仁会雑誌』の第四十九号及び五十号(明治三十一年五月・六月)にテォドール・ケルナーの愛国劇「赤心」を 訳載した。
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『外国語学雑誌』は第二巻第八号(明治三十一年八月)を以て廃刊した。その後その後継誌として明治三十一年十 月に発行された『独逸語学雑誌』(国の旨・冑豈冷員□の三m&のの宮PSの)にも長江はその初期に対訳記事を山口市より 時折寄稿した。特に第二年二号から四回に一旦り発表した、ハンガリァのマゥルス・ヨヵィ作「十六歳のをとめ」e】の 、の。旨の日筈且、の)は「ポスニャー摸の際起こりし軍人の笑話」(の。]」&のご言日・局のの冨自の。①H四畳」ののす。、己の&のロ ン氏の冨己のの)の副題のある珍しい愛国劇だった。同誌第六号(明治三十三年一月)の巻末には大村仁太郎、谷口秀 太郎、高田善次郎、辻高衡、山口小太郎、丸山通一、水野繁太郎、三並良など当時の代表的ドイツ語学者たちと一緒 の謹賀新年の挨拶が見られる。ここで気づくのは東大独文科出身者は長江一人だけで、他は旧東京外語と独逸学協会 学校出身者で占められていることである。これは前述のように長江と大村は学習院以来の旧知であり、他の多くは独 語学者は大村の周辺の人々であったから起きた現象と言えよう。 次に、この時期五高で長江から教わった人々の回想を紹介しよう。 村瀬直養(明治四二年・一部)「当時の高等学校は外国語の習得が中心で、私どものドイツ語の長江藤次郎先生は、 和文独訳に最も力を入れて居られ・それが後年ドイツ語の習得に大変役に立った。唯その和文が誠に古風なもので、 しているのは、その独語の部の+ 授であったことと関係があろう。 ここで再び長江の独語関係の著述を見ておきたい。 長江は博文館の「外国語学雑誌』の独語の部に次のような語学記事を執筆している。その第三号及び第四号(明治 一一一十年九月・十月)に「特別寄書」として愛国詩人テオドール・ケルナーの「シャンダウの旅行」(豆の罰の】、の目・茜 の・言三目)及び第五号から八号まで(同三十一年四月~八月)愛国劇「殺身成仁」eの三m&の曰局のロの)の対訳を寄稿 している。当時はアルント、リュッヶルト、シエンヶンドルフ、ケルナーなどドイツの愛国詩人が持てはやされ、そ の愛国詩がドイツ語学者によって紹介され、漢訳されるということなども見られた。長江が「外国語学雑誌』に寄稿 しているのは、その独語の部の主任は学習院教授の大村仁太郎がであったが、前述のように長江も当時同校の嘱託教
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五高に赴任してから二年後に早くも留学が決定しているが、赴任に際して校長(当時松浦寅三郎)との間に留学に 関して何らかの約束あったのではあるまいか。同時に長江のドイツ語学者の地位が当時相当高かつたことを示してい ると思う。高等学校においては文部省留学生は校長が候補者を文部省に推薦して決定された。長江の場合もそれがな
(4)された}」とが次の資料にてよって分かる。 例えば『代一一一一口人が木の下に眠って居る』というようなもので、それを『CのHシヨ・盲(m・匡口岸冒言のHgのロ、眉目の』 と訳すのであった。それでも先生は奨励の意味で、時々『○二局の堅】gなどと評一一一一口を附けて下さった。余りに厳格なの で、いろいろ不平を云う人もあったが、その中先生はドイツへ留学されることになった。唯、先生の御出発の直前に 奥様がお亡くなりなったのは本当に御気の毒であった。私は御葬式の時に、白川の畔にある火葬場まで御伴をし種」 大内兵衛(明治四一一・|部)「またNというのがドイツ語の先生であったが、この先生がドイツ語の教科書に一一一円 (いまなら三千円ぐらいであろう)もする本をドイツからとりよせて使ったので、われわれのクラスはそれをボイコッ トして、テキストを複写版ですってそれに対抗した。そんなことばかりやっていたおかげで、ドイツ語は進まなかつ
(3)た。」
也 候条来ルー一月十二日午後一時東京帝国医科大学附属病院三浦内科病室へ出頭候様御伝達相成度此段及御依頼候 予テ御推薦ノ貴校教授長江藤次郎へ本省外国留学生可被命旨今般内定相成候処先以テ同人身体検査施行可相成
明治四十二年一一月三日 出発前後
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これによって長江は指定された一一月十一一日に東京医科大学附属病院の三浦[謹之助]内科で身体検査を受け、その五
(5)曰後の一一月十七日に留学が正式に決定した。文部省から五高に送られた辞令は次の通りである。
明治四十二年二月十七日 文部大臣従三位動二等小松原英太郎緊鰍
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次いで長江は五高校長宛に出発届を出している。
此段御届仕也 小官儀来廿九日熊本市新屋敷町三百六拾 九番地出発同日正午門司港解績の熱 田丸にて独国伯林府に向ひ度可仕候間 第五高等学校教授長江藤次郎 独逸語研究ノ為満二箇年間独国 文部省専門学務局長福原鐙二郎 第五高等学校長松浦寅三郎殿 へ留学ヲ命〆
文部省留学生 第五高等学校教授
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留学の目的は独語研究であったが、それは名目であって、出発前にも森鴎外にドイツの劇評家ユリゥス・バープの
(7)住所を尋ねたりしている}」とからも窺われるように彼の本当の関心は演劇にあった。 さて長江はイタリア、スイスを横断してベルリンに到着したのは六月十日で、シャルロッテンプルク地区のウーラ ント街の下宿に落ち着いた。当時曰本からベルリンまでは四○日前後で行けたのに二カ月かかっているので、途中イ タリアとスイスを見物してからベルリン入りしたと思われる。さて長江は、二日後には王立楽劇場(ケーニクリッヘ ス・オペルンハウス)でワーグナーの「神々の黄昏を」を観た。明治四十二年八月号『東亜之光』の「彙報」欄に 「文学士長江藤次郎氏の近況」と題してベルリンから友人某に宛てた書簡が掲載されている。 したことが分かる。 これにより長江は明治四十二年(一九○九)三月一一九日に熊本を発ち同日福岡県の門司港から熱田丸に乗って渡欧
前略去六月十日伊国より瑞西を横断して下記の処に到着致候間乍他事御放念被下度候、ワグネルの「ゲッター デムメルンク」を見物するを得たるは、積年の渇を医したる心地致候、それも最終日にて今一日遅れ候はんには、 第五高等学校長 松浦寅三郎殿 明治四十二年三月十五曰長江藤次郎
福岡市大名町第二十五番地 長江邦光方 留守宅
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さらに井上哲次郎に宛てた書簡「在伯林文学士長江藤次郎氏」(明治四十三年三月号『東亜之光』)によると、長江 はその後シャウシュピールハウスでグッコウの「下げ髪と剣」(四・日巨己の呂言の耳)を観ており、特に当時新進の劇 作家だったゲルハルト・ハウプトマンの朗読会に出かけている。それはベルリン到着後四カ月経った十月十七・十八 両日にベルリン音楽学校(ジングァカデミー)で行われたもので、長江は二日目のを聞いた。聴きに行ったのは、一 つには朗読会とはいかなるものか知りたかったのと、また一つには兎に角有名な劇作家の声を親しく接して聞きたい からであった。長江はハウプトマンの朗読振りを次の様に描写している。
とど「西暦千八百六十二年生れなれば未だ五十に手の達かざる髭無き男萌黄の笠の電灯の輝ける机の前に、常に左に原
たちま本を手にし壇上に立ちて読む様或は緩に或は急に調流るよと見れば諭すが如く弁解するが如く憤りっ怨みっ又乍ちに して呪ふ。其間常に右手は動きて須奥も止まるなく今額に触る凶よと見れば右に展き左に払ひ天を指すよと見れば胸 を打つ。(中略)初見にては詩人らしくも覚えず候。寧ろ商人風に想はれ候。(中略)果たして彼が朗読法の巧妙なる 無台面の実景を書物だけで思い浮べることは不可能だと述べているのは印象的だ。こうしてオペラ鑑賞とともに長 江の留学生活は始まった。 季節はづれとなり、しばらくは見難く候ものゆえ取分け愉快を感じ候・女優エミール、ヘルッオー死男優クラウ ゼが声量の豊なるには驚き入候、舞台装飾中夜景暁景入相の背景は殊に観物と存候、舞台面の実景を書物だけに て脳裡に浮ぶることは不可能の事と存候云々。六月十七日。 (弓・Z四m四のロ匡四ご」の可」』酉I牟○ゲロユ○すの□ず巨円、国の閂」ご)
ベルリン大学時代
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期である。
(9)井上宛の手紙にによるし」、ベルリン大学では長江はドイツ文学の大家エーリッヒ・シュミット教授の「十九世紀ド イツ戯曲史」を聴講するつもりでいたが、丁度同教授が大学総長に選ばれ多忙となりこれは取りやめになったのでがっ かりしたという。それで仕方なく同教授のヘッベルに関するものと、ノイハウスという人のイブセンの講義を聴くこ とにしたようだ。が、そのことは次に述べる「申報書」には書かれていない。 さて現在、熊本大学の五高記念館に長江が当時の文部大臣に宛てた留学生活についての「申報書」が残されている。
まや否やは片一一一一口双句を僅に解し得たる小生風情、況して生得朗読法は日本語にてすら前後只一回文科遠足会の捌口]光山
それにて故外山〔正一〕先生の夫を聴きしに過ぎざること当てロハ受けし印象を其儘書き候に止め候が当然と存候。:.」 当日のプログラムでは『曰の出前」『ハンネレの昇天』など旧作八編が朗読されることになっていて、長江はそれ らを読んでいたので少しは理解できると期待していたが、看板に偽りありで未刊の脚本と杼情詩数編をハウプトマン は朗読した。長江は「朗読の文字は詩の場合に限り適当と存候。」と書いている。ハウプトマンは各朗読が終わるた びに拍手を浴び、立ち上がって軽く頭を下げ謝意を表した。 さらに長江はベルリンの新聞記事によって、ウィーンでもハウプトマンは自作の朗読を行い大喝采を浴びたことを 伝えた後、同年十月二十一日にはベルリンのレッシング座でハウプトマンの『沈鐘』を観たことを伝え、俳優の衣装 に寸評を加えている。またドイツの友人に聞いた話として最後には、ハウプトマンの現在の夫人は三番目であって元 は養女でバイオリンの名手であったこと、第二番目の夫人はさしたる理由もなく離縁されたことなども記している。 このように井上哲次郎宛の書簡はハウプトマン一色であるが、これは当時日本では自然主義文学が勃興し、さらに鴎 外による評伝『ゲルハルト・ハウプトマン」(明治三十九年、春陽堂)が出版されるなど日本の文学者の間でもこの 劇作家に対する関心が高まっていたので、それに応えようとしたもであろう。 長江はベルリン大学には十月七日に入学手続きをし、以後一学期学んでいる。即ち一九○九年から翌年に至る冬学
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通常この種の「申報書」は「復命書」と題する綴に収められているが、なぜか長江のそれは「職員願届」(明治三十 四年起)に綴じられている。長江の最初の「申報書」はベルリン到着後約四カ月経った頃書かれた。
授業料 入学金 科目等 四十二年十月七日伯林大学文科大学(【○日、]】○ヶ句弓号】&‐二号の]曰のロ日『の量ご計自切の1曰)二入 学教授レェテー(切・の芸の)氏ヨリ「独逸文学史一般」ドクトルヘルマン(CH・国日日口目)氏ヨリ 「西暦壱千八百四十八年以降独乙文学史」聴講其他同大学二於テ聴講学科尚選択中 明治四十二年六月十五日ヨリ十月三十一日迄ブルム夫人デグナァ兄弟シュミット夫人四氏二授業料 トシテ独逸貨百拾八馬克ヲ納ム 四十二年十月七日伯林大学文科大学入学金トシテ独逸貨拾八馬克教室費五馬克疾病予備療養費弐馬 克学生積立金五十片ヲ納ム 人エンマ(句田尾○ヶの1の冑の円□円.(国日日のH)の○ケ目&)氏ヨリハウプトマン著戯曲ヲ 出十‐一一圧‐十月一日以盗,砺太 坐十一一年八月十日以鐸九月二十日迄に林叩シャルロ 生‐T二注 阯犯
uコユⅦα宛ヰレ」pHj●トー声ロコヨ乞呈開口
昆箔封鰯壮」ノ謹翠莪乃 乢匝叺ノロ北房以十ハェ子存工 曰N巴碑坪令几RpL-日歩』什糺坪此一別容允立曰巫堅△三評、ヲ、叫炊
。
-
手口」土峠に」叶上へ】子趾 、口汐』司興杣基米酒△面
逸現代戯曲室
g』ロ、9
文起 駆!
自冒=亘鳫電
○房 】」ず
〕巨円、
○二弓
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宿所伯林シャロッテンブルヒ、リュッチョウ第六番シュミット方
第五高等学校教授 文部省留学生 明治四十二年十月三十一日 長江藤次郎
(m)
ケ臼句円ロロ○すの匙の声門臼 文部大臣小松原英太郎殿C鼠の&昌二 、○ず四.旦○寸苛のロヶ屋HmImのHぽ邑
PHp旧弓百○コ② 前諸項ノ外 緊要ノ事項
褒学試
賞位験
この「申報書」の欄外に「十二月四日本紙文部省へ返付」と付記されている。つまり長江の書いた「申報書」の原 本は文部省にあって五高記念館に残っているのは同校の書記が書き写したものであることが分かる。誤記と思われる 箇所があるのもそのためであろう。この最初の「申報書」にはなぜか期間が記されていない。 長江はこの報告書によると、ベルリン到着後すぐ大学に入学せず、先ずブルンというドイツ夫人について一カ月ド イツ語の発音と会話を習っている。ただし同夫人が夏休暇でケルンに行った間は休業。その後はベルリン大学の兄弟 学生からハウプトマンの戯曲の講義と批評を聞き、兼ねて独文を直して貰った。次いで上級教諭シュミットのエンマ 夫人から同じくハウプトマンの戯曲を学んでいる。当時留学生はドイツ語会話などを個人的にドイツ人から学ぶ例が よく見られたが、その際主婦や学生を先生役に雇う場合が多かった。それは月謝が安くて済むからであったと思われ る(四人に授業料として百十八マルクを納めている)。しかも経費節減のためと思われるが、長江は自分が下宿した シャルロッテンブルク地区に住んでいたこれらの夫人や学生を教師に選んでいる。
(皿)ベルリン大学に入学したのは一九○九年十月七日で、つまり同年冬学期で、レーテ教授のドイツ文学史一般、ヘル
(⑫)マン博士の一八四八年以降のドイツ文学史の講義などを聴講した。入学金・授業料欄を見ると、ベルリン大学入学金 十八マルク、教室費五マルク、疾病予備療養費二マルク、学生積立金五十ペニッヒ、自分が受講した分の授業料十マ ルクなど詳細に記している。こうした例は非常に珍しい。 なお、「旅行休業」以下の欄には記載がないが、以下の「申報書」において記載が場合はこれを省略する。 それはともかく、最初のベルリン時代の長江は書簡とこの「申報書」によるとハウプトマンに打ち込んでいること が分かる。
ボン大学時代
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次に紹介する「申報書」』 関するものも含まれている。
入学金 授業料 科目等 教師学 ○のの○亘◎ず汁のこののロの巨富ロケのロロ『pBPm]日]や.』Pケ閂彦ロニロの耳(ご○ロ国の旨H]○ずぐ。ご【]の】、計亘mPpmSの ○の、の目「日←)及「近世独逸文学史Ⅱヘッベル作戯曲断片」(zの巨の円の』の三m・}】の巨寸の『呉日、のm・宮・耳の) ドクトル。フォン。ザリス(CH.ご・ロの巴】の)二就キテ「希臘及羅馬演劇史」(、】の二巴の『mmm・亘・宮の 」の円の且の&のご巨罰○日の局)正教授ドクトル・エンゲレルト(○a・勺『・氏・団長]の昇)二就キテ「基督教 ヨリ見タルゲェテ作フワウスト論」(○・の夢のの句昌、三目口○三の』臼・冑】の三・ケのごSc胃の)聴講 ボン大学入学金拾馬克(但シ客分トシテ外国人トシテ)同大学教室費五馬克同聴講料総計弐拾馬 克 明治四十一一年十一月以降四十三年四月迄シュミット夫人及高等女学校首坐教師マァガレットロオゼ ノビ氏一一授業料総計百四馬克 明治四十一一一年四月一一一十日莱因河畔ボン市ボン大学(豆の河西の言、&の同国の」口&三三ケの]曰□曰くの邑註庁 自国・目)文科大学二客分トシテ(シ}の○mの弓臼閂)入学正教授ドクトル・リッッマン(○a・写・馬・ DH・ロ亘息ユヅニ就キテ「ハインリヒ・フォン・クライスト以後現時二至ル迄ノ独逸戯曲史」豆の 明治、 、狗坐pmコルーーーエ十LIlR
-「‐●可,▲「「『△はボン大学へ転学してから書かれたもので、内容もそれが中心であるが、ベルリン大学に
円同率土工抜必旧兀エー一一一体斗兀|ロ同韮円
当麻国エビエーバ、君。、 匹円
四Pヱ)鮭嘘謹 土‐域祁圭自
敦電
輝と告×山子士
曰①『。、p旬。【白
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前記ベルリン大学のヘルマン教授の独文学史の講義を学期末まで聴いたことが分かる。ベルリンでは前記高等女学 校の上級教師マーガレーテ・ロオゼノ及び、シュミット夫人について引き続きハウプトマン戯曲の講義・批評を聴い た。次いで転学のため明治四十三年二九一○)四月二十一日にベルリンを発ち、シュタンダール、ハノーファー、
}
ミット夫人エンマ両師一一就キテ「ハウプトマン戯曲ノ講義、批評ヲ聴ク ロツテンシュウレ首座教師マァガレテ・ロォゼノ(甸国己の旨三閏、閂の()及首座教師ドクトルシュ 明治四十三年四月迄引続キ(前回ノ申報書参照)伯林附近シャロッテンブルヒ高等女学校ソフヰシャ のロケB&の旨の○戸gの三mg)ヲ聴講中 灘'1 一一就キテ「地名人名孝殊二希臘羅甸独逸固有名二就キテ」(ロのヶの門三・日のP曰のすのm・己の円の○回のO宮 ○○第一欄ノ事項、尚以不尽此処続記ス及正教授ドクトル・ゾルムセン(○a・勺目・虎・宮・の。旨の匹設 市、ケルン市経由同廿五日ボン市着 明治四十三年四月二十一日転学ノ為メ伯林シャロッテンブルヒ出発シュテンダァル、ハンノォバァ
宿所独逸国菜因河畔ボン市ロオゼンタァル第十三号 第五高等学校教授文部省留学生文学士 明治四十三年四月三十日長江藤次郎 弓8吋ozPmPの 因○口ごP目切言曰
_し
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烹丁 学所’
ケルン経由で同二十四に到着。同三十日ボン大学に聴講生として入学し、リッッマン教授のクライスト以後現時に到 るドイツ戯曲史など四つの演劇関係の講義のほかに、ギリシャ・ラテン・独逸の地名人名など固有名詞についての講 義を受けた。聴講生の場合、通常受講した講義題目は大学文書館の資料には記されていないので、この申報書は貴重 だ。ボン大学へは外国人聴講生としての入学金十マルク、教室費五マルク、聴講料二十マルクをそれぞれ納めた。 次の申報書は簡単になっている。
旅|授入|科 業学|目 行|料金|等 七月一日貴族院議員伊藤長次郎京都大学教授谷本富両氏トェッセ ドルフ市ヲ経由同月三曰帰寓 八月廿五日出発和蘭陀国ウットレヒト、アムステルダム、海牙、 大学入学金授業料図画閲覧券等ノ諸費己報付略ス 前記カルポオト氏一一二十一馬克謝礼(一回三馬、割)
ケベェニンゲン、ロッテルダム、三円の○頁数日倫敦市一一週間、巴里二一週間、ブリュッセル、アント ワァプ、ワァタァロー、国目の①]]の、三gの1巨・二八日間ユイラシャペル二日為見学九月一一十九日帰寓
ロJ、シダ呵司ⅢロゴHu「ゴ従明治四十三年五月 至明治同年九月
到引H--lTR臣二」母{適
油六〃刃ハロ『x一二十.vE申報書
】又瑳鋤牛土云聾コユ,毛 已訓由介郛室】
ハアレム、プレエメンダアル、ス ン房の目二赴キ帰路ジュッセル 氏ヨリ作文ノ ヤア氏ト独逸
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ボン大学での約一年間二学期の勉学を終えた長江はさらに今度はミュンヒェン大学に転学した。ミュンヒェンは当 時ベルリンに次いで演劇の盛んな地であったので、演劇研究が留学目的であった長江にしてみればこれは適切な選択 大学ではこの間、前申報書に記された講義を引き続き聴いた。六月以降八月二十日までボン大学東洋言語学受験生 クルト・バイヤーと独語・独文学と日本語の交換教授を週三時間行い、七月以降八月二十日まで同大学受験生カール・ ポートに週一回一時間半独作文の添削を受け、二十一マルクの謝礼を支払った。 七月一日から三日にかけて貴族院議員の伊藤次郎と京大教授谷本富(教育学)と一緒にルールエ業地帯の中心都市 エッセンを訪れているが、これは同市にある有名なクルップ製鉄所を見学するためだったと思われる。当時日本から 政治家や産業界の人々がドイツに来ると、そのためにしばしば同市を訪れた。次いで夏休暇を利用して八月二十五日 から約一カ月かけてオランダの諸都市、ロンドン、パリ、ベルギーを旅行した。これは留学最初の旅行だった。
であった。 休業
ミュンヒェン大学時代 宿所独国菜因河畔ボン市ロオセン町二十号 罰・ロの①ロの言』P因・自/印ずの旨》Cの三mg]P& 明治四十三年九月九日 長江藤次郎 文部大臣小松原英太郎殿
-15-
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-16-
前諸項ノ外 緊要ノ事項 本年二月半当市日本名誉領事シュセル砕盲協巴氏ヲ経テ当市幼稚園男女小学校簡易実科学及高等学 校参観ノ義願上出ヅニ十一日亦学務課長ゲォルグ・ケルシェンシュダイン【g狩屋・盲房・日皀ののP『 CH・○の。蒟民の円の&の己昌の曰の二面会アルフホン街幼稚園、同女生小学男生小学校及エリザベト巷簡 易実科学校ご・岸のの呂已の巨緊困己の円忠耳のロ日ロ号円鈩罵目の可巨三国耳二言長めの&巨后日ロ巴肘 号のニロ四百来観許可ヲ得次デ内務省宣教教育部長シェッ四四己盲目の房国・浮冨の訂面会両種高等 旅行 体業 本年四月二日ヨリ五月五日迄瑞西、伊太 利、 澳太利二旅行ス瑞西四日伊太利三週間澳太利十日間
授人 業学 料金
民顕大学文科大学入学金聴講生トシテ六馬克五十片聴講料総額参拾六馬克 前記ワルタァシュナイデル氏授業料毎時壱馬克ノ割一一テ毎週三時又ハ四時間
科教修 師業
昨年十月以降三月末迄同文科大学生三口言局浮宮の画唾ヨリ独逸語学ヲ学習ス 目学所 扇言・ヲ聴ク Q臼号呉のgg5辱臼昌員gの二・舌胃言昌閂冨及演劇史○の円宜&訂」円、二目・烏の二8訂困 巨三三の鼻の講師クッチェル卑弓四三・【三mg蹄)一一就キテ「第十九世紀独逸文学史」ロの悪の。宮○三の 冨弓「・ロ9口四・円&艶一一就キープ「リヤルドワグナア伝及其著作」□冨司囚・冨己三岳ロの『、忌宮口 吊号の白・号目のごロ目白ロの助教授フラィヘルフォンデンフォルテン氏鈩巨のmの閂・己卑&卑巴‐ 民顕大学文科大学一一テムンケル教授○a・可○二百口呂唾一一就圭ナ「近世戯曲ノ起源」ロの弓←、(の言‐ 至全四十四年四月 報 室曰 申 従明治四十三年十月
べ学校参観については例によってかなり詳しく報告している。幼稚園から高等学校まで熱心に行っているが、特に三 は全然記していない。文部大臣宛の申報書という性質上はばかれたのであろうが、そもそもその欄はない。これに比 ては残念ながら簡単に記しているだけだ。演劇が盛んな地だけに観劇へも度々出掛けたに違いないが、それについて それでも大学生を一層ってのドイツ語学の勉強も続けている。学期休みのスイス、イタリア、オーストリア旅行につい チェルの二つの講義など主に演劇関係の講義を聴いている。ますますこの方面の研鑓を積んでいる様子が伺われる。 長江は今度もやはり聴講生としてミュンヒェン大学独文学正教授ムンヶルの「近世戯曲の起源」をはじめ私講師クッ 「~ ̄ ̄ ト欲スル事ナリ 一窮釧肺側化霊》Ⅷ》震い越謎鱸烟綣一Ⅷ圭一浅糊艫二鑪蕊 以上ノ外シュル街幼稚園【」己の品質←のロ自已の円の。旨」印すPmmのモ参観ハー一月一一十一一日二始り一一一月十八 等学校モ亦盲目P日の房&二属ス 学校【、]・河のロ}四日目の]色目F三四貝(盲目凹已の房○ヶの円)旨」三m空白P参観許可ヲ得ルゥドゥィ高
宿所独逸民顕府アドルッライタァ街十八番地
二口ロ○ケのロシgo]日の】庁の目首・]の国 明治四十四年五月八日第五一局等学校教授外国留学
文部大臣小松原英太郎殿 生文学士 長江藤次郎
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この留学延期願いの以前に、本人から五高当局に私費で留学を延長したい旨の通知が行き、それを受けて学校側 は文部大臣にその取り扱いについて指示を仰いでいる。それに対して文部省からは私費による留学延期については学 校側で判断して差し支えない旨の文書が五高記念館に残されている。 そして明治四十四年三月一一十八日付で一年間の私費留学延期が許可になった。 っの高等学校では語学の授業を興味をもって観察したようだ。一般に、語学教員の留学目的は当該語学と教授法の研 究であった。長江の場合は辞令には独逸語の研究とだけ書かれていたが、いうまでもなく教授法の研究も含まれてい た。各校長は長江の種々の質問に対して親切に説明してくれたと強調しているのは注意してよい。長江はこの後アド
(旧)ルッライター街からヴィクトリア街三番地三階(ご岸什o1Pm胃・四国・)に引っ越した。 長江は私費にて次のような一年間留学延期を申し出た。
一小官儀本年六月五日ヲ以テ帰ノ途二就ク可ノ処研究事項巨匁有之過去二箇年経二徴シ尚一ヶ年引継キ研究ノ必 要ヲ感シ居候独逸語並二第十九世紀独逸文学研究ノ為明年六月五日迄私費独国留学許可御願上候也
文部省外国留学生文学士 明治四十四年二月二十五日 長江藤次郎 独逸国民顕府在住
文部大臣小松原英太郎殿 第五高等学校教授
(釦)御願
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藤 明治四十四年六月十日民顕市庁附属図書館内を参観ス(罰皀冨房亘亘・芸禺)同九月二十二日莱府 旅行 休業 九月朔曰ヨリ九月廿五日迄独逸国内ヲ旅行ス此間瑞西パァゼル及ノイハウゼンS閉2Fzの昌自(ママ)の‐の口)澳都エガァ、プラァグ及カァルスパァド(少憩局卑長【凹邑の富eヲモ
授入 業学 料金
独逸語授業料民顕市宣旨gg--テハ総テ毎時間壱馬克ノ割伯林市田皀冒市一一テハ壱時間弐馬克ノ割 民顕市一一テ仏語授業料壱時間壱馬克弐十五片伯林大学退校金拾弐馬克五十片伯林大学再入学金九馬 克、聴講費弐拾馬克教室費拾馬克、図書閲覧費弐馬克五十片疾病療養費弐馬克、学生基金五十片
冬学期が終わった後もミュンヒェンにあって三人の文科大学生について独逸語を学んでいる。また目的は不明だが フランス女性について仏語も学んでいる。その後ベルリンに移ってからも一人大学生を一雇っている。長江の留学生活 の特徴の一つはこのようにしばしば大学生について独逸語を修めていることだ。これは前述したように月謝が少なく て済んだこともあるが、学生相手の方が比較的自由に学ぶことが出来たろうし、学期間の休暇を有効に過ごすために は大学生に就いて学ぶことは好都合だったということもあろう。ベルリン大学に再入学したのは明治四十四年(一九 二)十月九日で、一九二年から翌年へかけての冬学期を聴講生としてではなく、正式な学生として学ぶことにし た。そして念願のエーリッヒ・シュミット教授(一八五三~一九一一一一)のドイツ演劇史関係の講義を聴いた。エーリッ ヒ・シュミットはW・シェーラーの門下で実証的文献学的方法によりドイツ古典文学を研究したことで有名だが、長 江は彼の講義の印象などは何も書いていない。抑も長江はE・シュミットだけでなく留学中に聴講した教授たちにっ いて語っていない。 なお当時ベルリン大学に留学していた日本人ゲルマニストには長江のほか、武内大造(第七高等学校造士館教授)、
勺馬巴国ケロ司函の『のゴロ、の①、②国 文部大臣長谷場純孝殿三】]白の『のロ・円禺1mの円」ご
(醜)明治四十四年十月十五日文学士長江藤次郎 第五高等学校教授文部省外国留学生 宿所伯林府プフワルッブルガ街六十六号 要ノ事項 緊前 諸項ノ外
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明治四十四年(一九二)十一月~同四十五年(一九一一一)一一一月までの申報書も当然書かれたであろうが、なぜか 五高記念館の関連資料中には欠けている。留学に関する最後の申報書は帰国後に東京で書かれた。 片山正雄(第二高等学校教授)など東大独文科での後輩たちがいた。これらの人々と長江とのベルリンにおける交流 はいかなるものであったか知りたいところだが、それを示す資料がない。
休旅|科教修 目師業
業行|等学所 再びベルルンヘ、そして帰国へ
従明治四十五年四月申報書 至明治四十五年六月
如従前伯林大学在学ノ所五月二十四日同大学退学 伯林市シャロッテンブルク(○ヶ日}・耳のご言温)在住シュミット夫人(句国巨○ヶの局」の旨の局C閂・の呂日 】&)一一就キ独逸語教授ヲ受ヶ居ダル所四月末日ヲ以テ之ヲ止ム毎週三時間一時間 六月朔伯林発マグデブルク、アイスレェベン、ハルッ、漢墜、ブレメン、キイル、リュベック、ロ ストック、丁抹国コペンハーゲン、瑞典国ストックホルム、独国リュゲン島、フランクフルト・ア ン・オーデル、シュレジェン諸市ブレスラウ、ザルップルン、シユライベルハウ、澳国オーダーベ ルヒ、魯国莫斯古及波得塗ヲ巡歴七月八日一一至ル 三四mgのす日、》国の]のすの与国日田》国四目ず貝、】辱の臼のP【』の]》Eずの。【》河・の(○・F【・どの国富、のPの←○・二 。]日切長のP甸円目崖巨1目」の円○』のH》、Hの、]目》の巴国ヶ目目》のo冑の忌日宮P○』のろの局四三・m【○三》
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「旅行」欄にはシベリア経由で帰国の途中で巡歴した諸都市が記されている。明治四十五年六月六日にベルリンを 発ち(後掲の帰校届による)、先ずドイツ国内のマグデブルク、ハルッ、アイスレーベン(ルター生地)、ハンブルク を巡り、ロストックから北欧のコペンハーゲン、ストックホルムを旅行した。そこからリューゲン島経由で一旦ベル リンに戻りそこで学校参観を行った。その後フランクフルト・アン・デァ・オーダーでも学校参観をしながらシレー ジェン諸都市を経てモスクワからペテルスプルクまで行ったがその時は七月八日であっという。だが、ベルリンやフ ランクフルトで学校参観を行ったのは七月二十一日以後のことと長江はこの「申報書」で書いているが、これは六月 緊要ノ室}塵 杣應ニノ帆、|前 しの{の弓⑫奇
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以上の「申報書」から次のようなことが分かる。①各大学で学生または聴講生として、当時の有力な教授や、私講 師たちの演劇・演劇史の講義を中心に聴いた。②大学生や夫人たちに就いてドイツ語の教えを受けた。これは月謝が 安くで済んだからであろう。③学校参観を熱心に行った。これは長江に限らず当時の留学生の多くに見られたことで あって、学術の国ドイツの学校教育に対する関心の深さを示している。④日本からの賓客に同行してルールエ業地帯 の中心地エッセン市を訪れた。これも当時よく見られたことであって政治家や産業人にとってクルップ社のある同市 は関心の的だった。⑤『東亜之光」誌上の友人某と井上哲次郎宛の書簡にも見られるように、演劇に関心のある長江 は留学中に熱心に芝居やオペラを観たと思われるが、それについては申報書には全く記されていない。観劇やオペラ 鑑賞は娯楽であって研修とは見なされなかったことを示している。⑥入学金・授業料・月謝等が具体的に書かれてい るので当時の相場が分かる。 の誤記であろう。というのは、後掲の帰校届によるとシベリア、南満州、朝鮮経由で、門司港についたのは七月二 十三日であったからである。
(鯛)
長江は熊本に戻るとその日のうちに帰校届を山山した。
帰校届 一小官儀明治四十二年四月二十五日門司ヨリ乗船独乙国留学寵在候処去六月六日独乙国出発西比 亜南満州及朝鮮経由昨日門司港着ノ上本日帰校仕候間此段及御届候也 帰国後の活動
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帰国後、長江は再び五高教授に復帰しドイツ語を担当した。 大正三年(一九一四)一月に、顧問・カール・フローレンッ、主筆・青木昌吉、編集主任・大津康として東大独文 科系の雑誌『独逸語』(独逸語発行所)が創刊された。内容が充実した優れた雑誌で、当時の独語雑誌界のもう一方 の雄『独逸語学雑誌』(精華書院)と並びドイツ語の普及と研究に果たした功績は大きい。初期の主な執筆者には前 記青木、大津の外に高木敏雄、三浦吉兵衛、雪山俊夫、上村清延、藤井信吉、長江藤次郎、吹田順助、エミール・ユ ンヶルその他があり、西田幾多郎や末弘厳太郎、櫛田民蔵などの寄稿も見られた。長江はこれに「口の○のm・亘C三の 『・ロ」の白国の&の司口目の&旨P」(浦島の話)「ぐの円の。宮の』のロの鈩昌のロ囚]」の計の」(切符のいろいろ)「シ]]の旨](飛花落葉) などの語学記事を書いている。このうち「切符のいろいろ」と「飛花落葉」は留学時代に集めた資料に基づくものだっ た。前者は大正四年五月号から五回に亘って連載された。「はしがき」で次のように述べている。 「余は三年有余の独逸留学の間に語学の研究に資する為、種々雑多の物を集めて見たが、其中の一つは、色々な切 符類の聚集であった。筍も独逸語を解する人にして、足一度彼地を踏まれた方には、何の珍らしさも無からうが、さ る機会を終生又は未だ有って居られ無い方には、特別の注意を倭る方面に払はれない限り、這般実際的独逸語に逢着 されむ事一寸困難だらうと想ふ。英語ならば第二の国語視され、今日の我邦では牛走馬童の末までが、片言双語は聞 き覚えにでも心得て居らぬは無い位広く行はれ、汽車の切符にしても、公園に於ける高札にしてもが、和英両語で記 されて居る様な訳で、有志者には、随分散策や旅行の中に、優に斯る実用向英語を学習し得るのだが、独逸語となる 第五高等学校 校長 明治四十五年 第五高等学校教授 七月廿四日 長江藤次郎
松浦寅三郎殿
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と流石世界語で無い丈、又日独の関係上、所詮看板や切符などを通して、居ながら生きた独逸語を了得する事の便宜 に乏しいのは、万人の認むる所。其処で余は編輯員よりの請嘱も有る事なり、一番齋し帰った此種材料を種に、教科 書では先づ滅多に遭遇する事の出来ない日用の独逸語を、肌か初学者の為に紹介しやうと決心した。」 さらに、幸い切符に関してはドイツの方が入手し易く、また日本ならば到底切符を出さない所でも出す習慣がある ので、留学中沢山集めることが出来たとしてドイツの切符事情ついて詳しく述べている。さながら切符マニアの観が ある。本文は「交通に関する券」「入場券」「図書閲覧券」「受領証」「雑」の五回に分けて図版入りで紹介し、それに 詳細な注解を施し、穂蓄を傾けている。もう一つの大正四年十月号から三回にわたって執筆した「飛花落葉」は「切 符のいろいろ」の姉妹編ともいうべきもので掲示・広告の類を扱っている。 「然るに独逸では、必要不可欠のは固より随分お世シ介のが、続々眼に触れる。由来独逸帝国中にも普魯西王国は、 教育の普及と高度の発達を自負する国で無いか。夫れで居て首都伯林の郵便函の真正面に、麗々敷「郵便切手忘る凶 勿れ」(因国の怜白凹烏の巳・宣く臼四のmのの己)とか、『上書き忘れまい」(し具の。ご」洋己・亘ぐの缶のの、のロ)など書かれているのを 目撃しては、滑稽が通り過ぎて、何だか愚弄されて居る様な心持ちがせないでも無い。誰やらが、「傾斜地を踏む事 堅く無用』(DPの、の可の←の国旦の局mqm・盲信の己三mすのロぬくのう。←の国)といふ高札に出会し、意地から踏み蹴って見たく 成ったと曰ったのは、肌か奇矯な言の様に聞こえるが、人間誰にも多少反抗心を備へて居る以上、態る感情の如此場 合に突発するのは、蓋し無理からぬ事と恩ふ。(中略)法治国は拙手すると斯る弊風に堕する者だと観念すれば夫迄 だが、何から何迄第何條第何項で追ひ詰められるので、余も独乙国に『掲示国」とか『広告国』とかの尊号を恭しく 奉り度くなる。何しろ公示類の英国に比較して、段違ひに移しいのは、何人も首肯する所だ。」 材料はやはり留学中に汽車を待つ問や、芝居の幕間、温泉場、墓地等を訪れた折りに写し取ったものばかりで、新 聞雑誌から取ったものは無いと述べ、ベルリンの動物園の高札やカールスパートでの公示(【ロ三目PC盲信)等を取 り上げている。だが、これらは長江の几帳面さを示すものではあっても留学の副産物に過ぎなかった。
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料であろう。 成果と見なすことができる。 長江は大正六年(一九壱 の時の報告が「学術研究旅一一 その他論文としては「無何有郷人」の筆名で、五高校友会雑誌『龍南会雑誌』の第百六十四号(大正三年六月)に 「杼情詩叙事詩起源の先後」及び同誌第百六十四号(同六年六月)に「鳥と死」を発表している。前者は杼情詩と叙 事詩はどらが早く発生したかを論じたもので、「大体情情詩を先とせる者は直覚的基礎に其論拠を置き叙事詩を先と なす者は実証的理論を趨ろの傾向が在る」とし、ドイツ文学を例に、少なくとも詩の歴史にから考証すると叙事詩こ そ最も早く起こり、次に杼情詩、最も遅れて戯曲といった順序らしい、と結論している。後者は、ドイツの劇や物語 では鳥がしばしば死など不吉なものの象徴として描かれることを述べたものである。いずれも短いものだが留学の一 余ハ此問到処主トシテ邦人担当ノ独逸作文教授法二注意留心スル所有リシモ、|モ採リテ以テ利用シ得ルノ良法 所見所感 往復日数ヲ加へ日曜弐日ヲ鋏ミ、十日間二四校ヲ委曲二観察シ、皮相二流レズ責任アル報告ヲ為サン事、固り不 可能事ナリト雌モ、這裏強テ新二得ル所有リシャト人ノ問フアラパ、遺憾ナガラ別二無シト答へザル可カラザル 大正六年四月九日出発、十日第六高等学校、十一、十一一(水曜木曜)両日第三高等学校、十四日(土曜)第一高 等学校、十七日(火曜)第八高等学校参観、十九日未明帰熊 ナリ。 ハ年(一九一七)四月九日から一九日まで六高、三高、-高、八高のドイツ語授業を順次参観した。そ
(剛)「学術研究旅行報生□」として残されている。これは当時の高校におけるドイツ語教育の一面を知る好資
旅程
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ヲ発見シ能ハサリシ也。(一)気紛グレー不定期二一学期間二少数ノ時間ヲ之に配スル者、(二)訳読時間二臨機 名目ノミノ作文ヲ課スルモノ、(三)折角訂正ノ上返却シャルモ真面目二読ム者無キナリトノ推測的理由ノ下二 簡単ナル作文ヲ課シ、同一時間内二釦々訂正シ了スル者、(四)一週十八、九時間ヲ受持チナガラ作文ヲ一々自 宅ニテ加筆ノ上返却シ得ルモノニ非ズト断言スル者、(五)露骨二率直二邦人ニシテ作文ヲ完全二訂正シ得ル能 カヲ有スル者ヨモァラジト道破スル者ナド有リテ、何レモ訳読ノ下調ラベニ費消スル丈ノ乃至其以上ノ時間ヲ之 一一割与シ因リテ以テ、鋭意熱心斯道生徒の学カヲ進歩発達セシメント企図セル者無キガ如シ・(六)第八高等学 校某教授ノ如きは同校現行ノ独逸語採点法モテ作文二対スル生徒ノ態度ノ真筆ナラザル一因卜看倣セリ。 具眼ノ士ハ必ズャ以上所載六項中二一一、三真理ノ含蓄サレァルヲ看取セン。参考シ弊ヲ蔓除シ改良ヲ謀ランニハ 幾分ヨリ多クノ効果ヲ挙ゲ得ムハ疑無シト雌モ、而モー面大学二於テ従来ノ如ク独文和訳ノ比較的重要ナルヲ見 テ、之二重キヲ置キ和文独訳ヲ附録視スル間ハ、所詮作文二対スル一般ノ趨勢ヲ転換セシムル事は困難ナル可シ・ 独逸訳読課ナルモノヲ観ルニー余ガ僅少ノ時間内二親ク目撃シタルガ如ク授業常二進行セルモノト仮定シテ- コし亦生徒ノ学カヲ鍛錬シ、其智能ヲ開発セシメント努力スル人ノ少キヲ悲ム。 生徒ヲシテ或区域一般ニ其区域長キー一失シ従テ|時間内二当テ得ル生徒数僅少ナリヲ限り翻訳セシメタル後、受 持教授無雑作二或ハ更二同一箇所を翻シ或ハ誤謬ノ箇所ノミヲ正シ質問アラパ之二応ズルノミニテ、教授ヨリ別 一一誤レル箇所ヲ訳者以外ノ他ノ生徒二質スガ如キ事モ無ク、又文法的説明ヲ加ヘル様子モ無キナリ。余ハ多年ノ 経験上乾燥無味ナル文則ノ到底一文典二依リテノミ習熟セシメ得ベカラザルモノナルヲ固信スルガ故、|年級一一 於テハ勿論、二年級二於テモ、少クモ第二学期末迄位ハ勉メテ訳読卜文法トヲ調和セシメ、訳読ノ為ノ文法、文 法ノ為ノ訳読タルノ観アラシメ、両々相俟テ反復ノ問、健全ナル学カヲ養成セント期待セリ。此見地ヨリシテ如 上ノ教授法ノァマリノ簡単ナルヲ感ゼズンパァラズ。 |般二文学士ニシテ独逸語教授ダル者の発音、音ノ高低抑揚一一一一一巨読ミ方ノ不良ナルハ争上難キ事実ナルーー不関、
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四つの高校における独作文の授業を視察したが、参考になる点は残念ながら無かったという。そしてその現状を箇 条書きにしているが、当時の我が国のドイツ語授業や教師の実態を伝えていて興味深い、貴重な資料となっている。 どこでも独作文はおざなりで独文の訳読に力を入れているのは、大学で独文和訳に重きを置いているからだという。 だが、その力を入れている筈の訳読の授業にも問題があるとし、例えば訳読を生徒に当てる範囲が長すぎて、当たる 生徒が少ないこと、誤訳しても次の生徒に正しい訳を求めることなく、教師が無造作に訳し、文法的説明を加える様 子がないことを指摘している。長江によれば、文法と訳読の調和をはかり、文法のための訳読、訳読のため文法とい うふうにしなければならないという。ドイツ語の発音となると文学士の教師でも不良なものが多いが、これを軽視す
(灘)る傾向があるのは首《に残念なことだ。そうした中で八高の辻善定は発音に巧みで努力の跡が見え、外国人では同じく
(妬)八高のヘルフリッチュは比較的教授法が巧みであるという。最後に第一二、第六、第八の各高校では教授法などを改良 する動きがあるが、ひとり二局では教師間に全くそうした気合いが見られないと断じているのは、長江の自信である
スノ。 だが留学中も熱心に聴講し、最も関心が深かったドイツ演劇に関するものとしては、昭和三年八月から翌年三月ま 独逸人ニシテ比較的教授ニ巧ミナルハ八高ノヘルフイヰチ1氏ナル可シ。生徒ノ興味ヲ覚醒スルーー努メ其注意ヲ 己一身二集中セシムルノ手腕ヲ有ス。 大体ヨリ観察シテ第一一一、第六、第八ノ三高等学校教授法ヲ初メトシ諸方面二語学上ノ改良進歩ヲ画策スルノ意向 ハ明二認メ得ベキモ独第一高等学校教授間二斯ル気見合ヒノ認ム可キ無シ。 異例ナリ。 之ヲ軽視シ之ガ改善ヲ図ル模様の見エザルハ眞二悪傾向卜謂ハザルベカラズ。如此教師ヲ戴ケル生徒ノ読ミ方ノ 向上ヲ希フハ、蓋シ木二縁リテ魚ヲ求ムル一一類セン。八高教授辻文学士ノ如キ読ミ方二巧二努カノ跡著ルシキハ
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で七回に亘り「独逸語学雑誌』(日独書院)にゲーテの『悲劇シュテラ」(第三幕)の対訳を寄稿している以外は、纒 まった翻訳も研究もなされることなく終わったようだ。『シュテラ」の冒頭で長江は、『独逸語学雑誌』が創刊三十周 年になるので、記念のために寄稿を求められたと述べ、同誌との関わりを振り返り最後に「…乞はる凸儘に弦にゲェ テの『シュテラ』第三部を送ることにいたしました。フェルディナンドの性格に非難がありますが、戯曲的技巧に至っ ては、一般的に好評を博してゐる悲劇であります。雑誌の事でありますから、単に第三幕だけにいたしました。」と 大正十四年一一一月一一一十一日付で依願免本官となった。その後は引き続き講師として丑高で教えた(十五年三月まで) が、その後以前勤めた山口高等学校の講師に転じ、昭和八年(’九一一一一一一)一月一一一十一日付で講師嘱託を解かれた。そ して翌昭和九年(一九一一一四)五月二十四日亡くなった。叙勲歴は勲六等瑞宝章(大正元年)、勲五等瑞宝章(大正六 年)、勲四等瑞宝章(大正十年)をそれぞれ授与されている。 最後に、筆者が「ラテルネ』(同学社)六十四号(平成二年九月)に「長江藤次郎という人」題する小論を発表し
(”)た折りに矢儀万喜多氏(故人)から生前頂いた手紙の一節を紹介したい。 「同学社のラテルネに御寄稿の「長江藤次郎という人』を拝読させていただき、深い感謝の思いと二、一一一の記憶を 付記いたして御挨拶といたします。貴稿により長江先生の履歴をかなり詳細に知ることができ仕合せに存じます。 私は旧制山口高校に昭和四’七年と在学、三年つづけて長江先生に習いました。一度一同級生と一緒に御宅(山口市 河原)にお訪ねしました。かなり若い夫人(後妻でしょうか)がいられました。長江先生は藤椅子の前の小机に和綴 の漢書(禅学の本か)を開いたまhにしていました。その後上京しまして、同じ級友と世田谷あたり、上水道の近く にいられた先生を訪問しました。消化器の病気でお茶の水の方へ通院されているとのことでした。(昭和七・八年頃と テの『シュー ては、一般緒 断っている。
(後略)
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ある。 本稿は、平成十五年十二月七曰学士会館において開催された日本独学史学会で口述発表した原稿に加筆したもので
(9) (8) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (1)
実証的文献学報的方法で主としてレッシング、ゲーテ等古典主義文学を研究し、ゲーテ「ウルファウ スブルク、ウィーン各大学教授、ワイマールのゲーテ図書館長を経て,八十七年ベルリン大学教授。 エーリッヒ・シュミット(一八五一一一~一九一一一一)ドイツの文学史家。W・シェーラー門下。シュトラー り、さらに後年チューリッヒ音楽院で教えた。 祭劇場に度々登場、ベルリン宮廷オペラでも活躍した。一九○三年以来ベルリン音楽大学で教鞭を執 エミーリェ・ヘルッォーク(’八五九~一九一一三)スイスの女流歌手。’八八一一一年以来バイロイト祝 と云ふ。」とある。 依り、最近二の自の日]日自口gを検して答へ遣る。長江は独逸に往きて戯曲の技巧及理論を取り調べん 明治四十二年一一月八日の鴎外の日記に「第五高等学校の教員長江藤次郎盲]言国昌の住所を問ふに 同上。 五高記念館蔵「職員願届」(明治三十四年起) 五高記念館蔵「職員進退」(明治四十二年) 同書八十七頁。 『龍南回顧』◇ 『龍南回顧』(五高創立八十周年記念出版委員会編、昭和四十二年)四十二~四十三頁。 ているものと、山口大学庶務部人事課に保管されているものである。 筆者が参照した長江の履歴書は熊本大学五高記念館所蔵の厚冊の『職員履歴』(全二巻)に収められ 注
30
(肥) (妬) (u) (週) (、) (、) スト』の発見者として知られる。 (m)小松原英太郎(一八五二~一九一九)文部大臣。岡山の人。慶應義塾に学ぶ。埼玉、静岡、長崎各県 マックス・ヘルマン(一八六五~一九四二)ベルリン大学で独語独文学を学ぶ。八九年学位取得。九 一年大学教員資格。員外教授を経て一一一○年よりベルリン大学独語独文学正教授。専門は演劇学。一一一三 年解任。テレジェンシュタット強制収容所で死去。 ベルトルト・リッッマン(一八五七~一九二六)ドイツの演劇史家。イェーナ大学の私講師、助教授 を経て一八九二年にボン大学に移り、一九二一年まで正教授の地位にあった。その間一九○二年にボ ン文学史学会を創立。定年退職後ミュンヒェンに移り、トーマス・マンと親交を結んだ。近代ドイツ 文学史を一学問分野として確立するのに貢献した。 フェリックス・ゾルムセン(一八六五~一九一一)言語学者。一八九三年ボン大学で比較言語学の教 授資格を取得。九七年同大学助教授、一九○七年同教授。 フランッ。ムンヶル(一八五五~’九二六)文学史家。一九七九年ミュンヒェン大学で教授資格を得、 翌年同大学助教授、九六年近代ドイツ文学史の正教授。バイエルン科学アカデミー会員。豊富な資料 収集に基づく伝記研究で知られる。 初め化学を修めたが、一九○二年ミュンヒェン大学で哲学を学び、○七年シュトラースブルク大学哲 学私講師などを勤めた作家で哲学者の○耳・厚の岳の国ご・ご」の『国・昌一のロ(一八六一~一九一八)と同 グスタフ・レーテ(一八五九~一九二六)ゲッチンゲン大学教授を経て、一九○二年ベルリン大学教 授となり二年プロイセン科学アカデミー常任書記長を務めた。円門は中世ドイツ文学、ロマン主義、 知事歴任。 ゲーテ。
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五高記念館蔵「職員願届」(明治三十四年起) 五高記念館蔵「復命書」(大正六年) 辻善定(一八八七~一九三七)岐阜県生まれ。熊本の五高を経て京大独文科卒。旧八高、山□高、 静岡高の独語教授を歴任。大正十二年から十四年までドイツに留学し、その間ベルリン東洋語学校の 日本語講師も務めた。『和独辞典』(澤井要一共編、南山堂、初版昭和十年)の編著がある。 長谷場純孝(了 て負傷し、投獄一 文部大臣に就任。 五高記念館蔵「職員願届」(明治三十四年起) ルートヴィッヒ・ガイガー(一八四八~一九一九)文学・文化史家。一八七三年以後ベルリン大学の 私講師・助教授として歴史を教え、○八年枢密参事官に任命された。長年ゲーテ年鑑の発行者を務め た
。設者。 アルッール・クッチェルニ八七八~一九六○)文学史家、演劇学者。’九○七年ベルリンで文芸学 の大学教授資格を得て、同年ミュンヒェン大学私講師、一五年助教授○一九○八年創設のクッチェル・ ゼミナールからは演出家ピスカトールや、ブレヒトなどが輩出した。演劇学の創始者として知られる。 ゲォルク・ケルシェンシュタイナー(一八五四~一九三一一)ミュンヒェンの教育学者。職業学校の創
(住所録)による。 人物か。
(一八五三~一九一四)薩摩の人。西南戦争に際して私学校第一大隊長として官軍に抗し 投獄された。出獄後九州改進党を結成。国会開設と共に衆議院議員となり、明治四十四年
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(〃) (邪) ヘルマン・ヘルフリッチュ(函・囚の」]守冨&)明治大正期の旧八高の独語担当傭外国人教師。経歴不 詳。帰国後はプラウェンに住んだ。 矢儀万喜多。昭和十年東大独文科卒。山口大学独語教授。平成五年(一九九三)十一月七日物故。
(熊本大学)
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