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インド言語思想における<言語=名称論>批判 -- 文をめぐるナーガールジュナとバルトリハリの議論 --

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仏教徒、なかでも中観派のナーガールジュナ

︵爵恩昔目ゞ85?閉eにとって、精綴な言語分析が 現象世界を実在と考える論者を批判する手段となってい るということは、これまで多くの研究者によって指摘さ れてきたところである。般若経によって説かれた空の思 想を理論化し、言葉の分析によって他ならぬその言葉に よる虚構を見極めていこうとするナーガールジュナの立 場は、ものの本体の存在を認める実在論的立場に立つ有 部や、ヴァイシェーシカ学派などの思想に対する鋭い批 判となっている。言葉には必ずその対象となっている事 物がある、と考えてしまう我々の常識的な言語観はそこ

インド一言語思想における︿言語Ⅱ名称論﹀批判

はじめに

1文をめぐるナーガールジュナとバルトリハリの議論I

において崩壊する。 インドの言語思想の文脈において仏教以外の諸思想を 見た場合には、このようなナーガールジュナの態度とは 逆に、言葉の対象を実在と考える立場が中心となるので あるが、言葉の分析を通して現象世界の虚構性を捉えて いこうという姿勢も仏教徒にのみ見られるものではない・ 本稿では、そのような態度を持って言語についての思索

を展開した文法学者バルトリハリ︵團閏目員8

余?臼eの思想を言葉に関する仏教の思想と比較する ことにより、そこに通底する問題意識を浮かび上がらせ ることを試みる。その際、彼らの言語分析の方法、特に、 文、命題に関する彼らの考えに注目することによって、 彼らが基づく思想的背景を反映した言語観の差異につい

ー L r P 首b

也 23

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以下に言葉とその対象の問題を考察するにあたり、ま ず始めに、言葉あるいは観念はすべて実在と対応してい る、あるいは観念や言語表現の根拠としての世界の構成 要素はすべて主観的観念の外に存在するという実在論 ︵吊旦厨昌︺素朴実在論豈巴ぐの吊農切目︶について考えてみよ う。この立場は、唯識説などといった観念論的な考えを すでに曲がりなりにも知ってしまっている我々が思うほ どには根拠の脆弱なものではない。実際、我々の日常生 活における言葉によるコミュニケーションは、このよう な実在論的了解がなければ成立しえない。わたしが ﹁車﹂と呼ぶこのものは、わたしの主観の外に実在して おり、他の人もそれを﹁車﹂と呼ぶ、ということを暗黙 の前提にしているからこそ我々は﹁車でお越し下さい﹂ 察するための一つの視座を探究していくこととしたい。 ことにより、インドの言語思想によって言語と世界を考 かもしれないが、それらに依りつつ両者を比較考察する 今回の考察はそれらに新たな知見を加えるものではない にこれまで多くの優れた研究が積み重ねられてきており、 ても明らかにしたい・彼ら二人の言語観については、既

一名称と実在

などという言葉によって意思を伝達することが可能なの である。つまり、言葉とは客観的に存在する事物・実体 に付けた名称、記号である、というのが我々の常識的な 感覚であろう。これはいわゆる︿言語Ⅱ名称論﹀、ある ① いは言語名称目録観と呼ばれる考え方であるが、先に述 べた実在論は、言葉を名称のリストであると考えるこの ような言語感覚と表裏一体のものである。 このような実在論に対して、仏教徒はしかし名称に対 応する実在としての事物は存在しないと考える。﹁車﹂ とか﹁人﹂とかいう言葉で我々が言い表すものは、諸要 素が仮に集まったものに過ぎず、そのもの自体としての 存在性を持つのではない。時が至れば集合していた諸要 素は離散する。﹁車﹂という名称に対応するような実体 は存在しないのである。このような仏教徒の考えを示す もっとも初期の文献として﹁サンュッタ・ニカーャ﹂有 偶篇の中の比丘尼相応叩に次のような偶がみられる。 たとえば部分の集まりによって﹁車﹂という言葉 ︵ぬ且烏︶があるように、諸々の構成要素︵五穂︶

が存在するときに﹁衆生﹂という一般的理解

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ここに見られる車の瞼えは﹁ミリンダ王の問い﹂におい ても仏教僧ナーガセーナがミリンダ王︵バクトリァ王メ ナンドロス、在位○四号殿山9mgに無我説を説明す るために用いている有名なものであるが、ここでは、実 体と名称の問題としてこの瞼え自身に注目してみよう。 ナーガセーナは、自分の名﹁ナーガセーナ﹂とは単なる 呼称であって、それに対応する人格的な実体が存在しな いことを、次のように﹁車とは何か﹂という問いを逆に ③ 王に問いかける、という形で説明する。 ﹁大王どの、もしやあなたが車でおいででしたのな ら、私に車のなんたるかを述べて下さい。大王どの ながえが車でしょうか﹂ ﹁いや、先生、そうではありません﹂ ﹁車軸が⋮:.車輪が。⋮:車室が⋮⋮車台が。⋮:くび きが⋮⋮くびき綱が:⋮鞭打ち棒が、車ですか﹂ ﹁いや、先生、そうではありません﹂ ﹁それでは大王どの、それらの総体が車でしょう か﹂ ② ︵段日日目︶がある。 このように問いつめられた王は、結局ナーガセーナが述 べようとしていた見解にたどり着く。 ナーガセーナは、この大王の言葉を受け、人間も全くこぁ ﹁いや、先生、そうではありません﹂ ﹁そうでないなら、それらとは別に車があるという わけですか﹂ ﹁いや、先生、そうではありません﹂ ﹁大王どの、私はあなたに問いを重ねつつ、車とい うものを全く理解できません。車とは、大王どの、 単なる言葉︵箇邑四︶なのでしょうか。それにして も、ここで車とは何でしょうか。大王どの、あなた は事実無根の虚言をなしています。﹃車なるものは 存在しなこと﹂ ﹁私は、ナーガセーナ先生、嘘偽りをしゃべっては おりません。というのは、﹃車﹂とは、ながえ、車 軸、車輪、車室、車台に依存することによって、呼 称・名称・仮説・言語表現・名のみのものとして成 ④ 立するのです﹂e弓く措彊目︾F農匡︺自号目o︶

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れと同じように、頭髪、体毛、皮層、肉、骨などに依存 して成立した名のみものであると述べるのである。 さて、ここには、ある多くの構成要素から成るものが、 仮に一つの名称によって呼ばれるだけで、名称に対応す るような実体は何も存在しないという見解が述べられて いる。つまり、﹁名称﹂といっても、いわゆる︿言語I 名称論﹀が前提としているような実在との対応を否定し て、名称のみが存在するに過ぎない、と述べているので ある。ここに述べられているように、仏教説によれば、 部分に分割することができるようなものは何であれ、実 在ではありえず、名称によって仮に措定されるに過ぎな いとされる。ここでの議論の根拠となっている考え方は 構成要素とは別に単一の﹁全体﹂があって、それが言葉 によって指示される、というヴァイシェーシカ学派の見 解とはっきりと対立している。部分として分割可能な全 体というものは、部分をその基盤としているのであるか ら、実在としては認められないのである。この考え方は ⑤ 後代の仏教まで一貫するものである。 初めの﹃サンュッタ・ニカーャ﹂の例でいえば、言葉 とは実在する事物を指し示す記号ではなく、部分に分割 可能な非実在物を一つの実在する対象として措定してし まう﹁一般的理解︵”四目営昌︶﹂Iこの語は後代︽の四曰く日︾ ︵世俗︶という語としてサンスクリット化されるのであ ⑥ るがIに他ならないのである。つまり言葉を中心に考 えれば、現象世界における諸々の事物は、名称によって それぞれの構成要素に﹁依存して︵で呂○8︶﹂立ち現れ ていることになる。 ところで、分割可能であるから実在ではあり得ない、 というこの思考法に対しては一つの疑問が生じてくる。 それは名称を与えられる全体が部分へ分割可能であって 実在しないとしても、その構成要素は実在すると考えら れるのではないのか、というものである。車が実在しな いとしても、それを構成している車輪や車軸は実在する のではないのか?それらも名称のみのもので実在しな いとするならば、それらの構成要素はどうか?このよ うな疑問に対する解答はアビダルマ哲学に見ることがで ⑦ きる。そこでは、彼らは究極的な構成要素︿ダルマ﹀の ﹁有﹂を説くことになる。彼らは言葉によって構想され る﹁全体﹂の虚構性を暴くことはできたが、結局﹁部 分﹂の存在は認めざるを得なかったのである。ヴァイシ ェーシカ的な有の哲学を批判するはずの仏教が、ここに いたってヴァイシェーシヵ的な範晴論、存在の分析の哲 21

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学に逢着したのは、皮肉であるといえる。

ニナーガールジュナによる言語分析

ナーガールジュナの思想は、このような有を説くアビ ダルマの学説に対する批判となっていると言われている。 ナーガールジュナの主著﹃中論﹄︵巨詞ミミs尋蒼蒼尋尋§ざ Ⅱ巨巨巴の議論の大部分は、言葉の対象となり得るよ うな実在がいかなる点でも存しないということを、他な らぬ言葉の分析によって示すことに向けられる。以下に ﹁中論﹂の議論の典型であるとされる第二章での論議か ⑧ らその核心部分を見てみることにしよう。ナーガールジ ュナは﹃中論﹂第二章において、歩くという現象を歩く 人、歩かれるところ、歩く行為という三つの要素に分解 して考察している。その内第七偶から十一偶までは歩く 人と歩く行為とが問題になっているが、特に第八偶以降 には次のように﹁歩く人は歩く﹂という命題、すなわち、 歩く人と歩く行為との関係を問題とする文が考察されて いス話 まず、歩く人は歩かない。 歩かない人は歩かない。 まず、ここに示した第八偶では、歩くという行為をする 可能性を持つ人が、㈲歩く人、⑪歩かない人、仰それ以 外という観点から分割されて考察される。ここでナー ガールジュナが述べているのは、いずれの場合において も歩く行為が成立し得ないということである。 まず㈲の場合には、歩く人と歩かない人を合わせれば、 全ての歩くという行為をする可能性を持つ人の総和とな るので、第三のものにはそもそも存在する可能性が認め られず、従ってこのようなものには歩く行為は認められ ない。右の偶の後半に述べられているのはこのようなこ とである。また、いの場合、すなわち﹁歩かない人は歩 かない﹂という命題は、ある意味当然であって、特に証 明はなされない。最後に㈲の場合、すなわち、﹁歩く人 が歩く﹂という命題についてであるが、これは右の偶に 続く第九偶から十一偶において考察されている。ナー ガールジュナの最終的な目的は、歩く人も歩く行為もと もに否定することにあるのであるが、ここでナーガール ジュナは反論者の立場に立って﹁歩く人が歩く﹂という 歩く人および歩かない人と異なるどんな第三者が歩 ⑨ ノ\のか。︵巨巨︻画聖 FJJ 2

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﹁歩く人が歩く﹂という一つの文を考えた場合、この文 は一つの歩く行為を表しているはずである。文において 命題を仮に認めて議論を進めるのである。 歩く行為︵盟目目“︶という一つの現象を、我々は例え ば行為者を中心に﹁歩く人が歩く︵鴇口国鴨。o冨巳﹂と いう命題として表現する。ナーガールジュナはこの歩く という行為と、命題を構成する﹁歩く人︵闇目︶﹂とい う名訶および﹁歩く︵﹁盟日︶﹂という動詞との関係を捉 え、そこに付随する誤謬を次のように指摘する。 まず、﹁歩く人が歩く﹂とは、いかにしてあり得る だろうか。歩く行為がなければ歩く人は決してあり 得ないのだから。︵巨巨︻陣巴 もし、ある人が、﹁歩く人が歩く﹂と考えるならば、 歩く行為のない﹁歩く﹂人が存することになろう。 歩く人に歩く行為を認める故に。︵巨巨歸曽e もし、歩く人が歩くならば、歩く行為が二つ存する こととなろう。それによって歩く人となるためのも のと、歩く人となった後歩くときのものと︵巨冨耐 ⑩ 四.﹂﹂︶ 行為は動詞によって表されるから、この文においては、 ﹁歩く﹂という動詞が、その歩く行為を指し示している と考えられるのであるが、文の表す歩く行為は一つであ るので、それは名詞である﹁歩く人﹂とは関係しないこ とになる。しかし、歩く行為なしには歩く人は成立し得 ないのだから、﹁歩く人が歩く﹂という文は誤りである ことになるのである︵第九偶︶。逆に﹁歩く人﹂という名 訶が歩く行為を指し示していると考える場合には、歩く 行為のないまま﹁歩く﹂人が成立することになるという ⑪ 誤謬に陥ってしまうことになる︵第十偶︶。このような論 難を避けるために、もし、動訶である﹁歩く﹂もまた歩 く行為を指し示していると考えるならば、第十一偶に述 べられるように、名訶である﹁歩く人﹂を成立させてい る歩く行為と、動詞である﹁歩く﹂が指し示す歩く行為 という二つを認めなければならず、これも誤謬であるこ とになる。このように考えると、先の㈲の歩く人の場合 にも、歩くという行為は認められず、従って、いかなる 場合においても歩く行為は認められないことになる。 ナーガールジュナは、我々が﹁歩く人が歩く﹂という 場合、この文を構成する二つの言葉それぞれに対応する 実在物として、歩く人と歩く行為とが別々に実在するこ 28

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とを前提にしてしまっていることを見抜いているのであ る。実在論的な思考をとってしまう我々は、歩く人であ るデーヴァダッタに歩く行為がある、と考えている。と ころが、歩く人は歩く行為と共にある時にはじめてそれ として存在し得るのであるから、このように歩く人と歩 く行為を別々の二つのものであると考えるのは誤りなの である。 歩く行為︵鴨日画目︶という一つの現象は、その対象を 中心とすれば、﹁歩かれつつあるところは歩かれる﹂と いう文によって表現されるが、ナーガールジュナは上の 議論に先立って、第一偶から六偶までに歩かれる場所と 歩く行為の関係を考察対象としており、特に第三偶以降 ではこの命題が考察される。その議論においても﹁今歩 ⑫ かれつつあるところには二つの歩く行為はあり得ない﹂ として上に見た議論と同様の論法によってこの命題が成 立しないことを証明している。そしてそれは、歩かれつ つあるところと歩く行為を別々の二つの独立するものと して考える我々の実在論的な思考に潜む誤謬を明らかに することなのである。 先に見た﹁サンユッタ・’一カーヤ﹄の偶では、言葉の 対象となっているものは部分に分割可能であり、したが って実在ではないと考えられていた。一方、ナーガール ジュナがここで問題としているのは対象ではなく、まず 言葉自体、すなわち文あるいは命題についてである。上 に見たような方法によりナーガールジュナは文、命題が 究極的には成り立たないことを論証しているのだが、そ れはまた同時に、文を構成するそれぞれの要素が指し示 しているかのように見えるものlすなわち、歩く人、 歩かれるところ、歩く行為という三者lが実在しない ということを証明するものとなっているのである。 ナーガールジュナの主著﹁中論﹂の議論の多くは、こ のように、言葉の対象となり得るような実体がいかなる 点でも存しないということを、言葉の分析によって示す ことに向けられているが、これは、﹃中論﹂においては ﹁プラパンチャ︵官名目8︸戯論︶﹂すなわち﹁言語的展 開﹂の止滅と捉えられる。プラパンチャとは、元来﹁ひ ろがり﹂あるいは﹁多元化﹂を意味し、ナーガールジュ ナにとって、例えば上に見てきたような﹁行為と行為 者﹂あるいは﹁行為とその対象﹂という多元的要素への ⑬ 分裂を有する言語表現のことである。そして、ナーガー ルジュナにとって現象世界はこのようなプラパンチャ、 すなわち文、命題によって表現されるものの総体とみな )Q ユ 』

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五世紀に活動した文法学者バルトリハリは、パーニニ ︵紀元前五世紀?︶以来の伝統を持つサンスクリット文 法学に、ヴェーダーンタ哲学的な形而上学を導入したこ とで知られる。ナーガールジュナは上記のように言葉 ︵特に文、あるいは命題︶の分析を通して、この現象世 界を考察していたが、文法学者であるバルトリハリの考 察対象も当然ながら言葉である。まずは上記のナーガー ルジュナともっとも鋭く対立する点から考察してみよう。 ナーガールジュナが問題としていたのは﹁歩く人が歩 されるc ﹁歩く人が歩く﹂という文はその対象としてそれ自体 として成立しているかのような歩く人と歩く行為との存 在を信じ込ませ、また、実際に我々にとって世界とはそ のようなものとして立ち現れている。ナーガールジュナ はそれをいったん受け入れ、その矛盾を突くという帰謬 法によってその虚構性を暴いていく。我々の言語生活を 構成する命題をひとまず所与の世界として認め、その命 題が究極的な意味では成立しないことを論証しようとし ているのである。

三バルトリハリによる言語分析

バルトリハリがよってたつ文法学の伝統によれば、文に おいては、動訶によって﹁確立されるべき︵鼠号冨︶﹂ 一つの行為が表され、名訶はその﹁確立手段︵出島自画︶﹂ ⑮ として、動訶に従属的に機能するに過ぎないとされるの である。 先に見たように、ナーガールジュナは﹁歩く人が歩く ︵閣員国鴨。o冨巳﹂という文が成立するためには、二つ の﹁歩く﹂という行為が必要になってしまい、これは誤 謬である、と考える。彼の言語分析の方法は、まずある 文をそれを構成する部分へと分割した上で、それぞれが 独立しては存在し得ないことを指摘するというものであ った。バルトリハリは、しかしながら、一つの文をこの くg第二巻において次のように述べている。 ハリは彼の主著﹃ヴァーキャパディーャ﹄︵罰ご§亀§圏Ⅱ く﹂というような文であった。この文についてバルトリ [動詞を]必要とする名詞は、従属要素として、そ こ︵文︶において機能する。行為を表す語︵動訶︶ は︿確立されるべきもの﹀として、[確立のための] ⑭ 諸原因︵名訶︶を必要とする。︵く勺い院︶ 30

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ように分割すること自体に問題があると考えているので ある。例えば、バルトリハリによれば文から取り出した 単語には意味︵対象︶は存在しないとされる。 バルトリハリはここで、文から動訶と切り放して取り出 した﹁歩く人︵唱目︶﹂などという単語︵名詞︶から得 られる意味あるいは表示対象は、例えば単語の意味を教 示するための辞書には項目として存在するかもしれない が、日常の言語表現においては、決して存在しないと考 えているのである。ナーガールジュナのいうように、言 語︵文あるいは命題︶をその部分としての単語に分析し てみれば、確かにその対象となっているものなどどこに も存在しない。しかし全体としての文は何らかの意味・ 対象を表しているのではないか、というのがバルトリハ リの主張である。 バルトリハリが実際にナーガールジュナヘの反論を意 行為と結びつくことなしには、真であろうが偽であ ろうが単語の対象は理解されない。したがって日常 言語活動においては、それ︵単語の対象︶は存在し ⑯ 走谷い0︵くも画心画巴 識して以上のような考えに至ったのかどうかは定かでは ない。部分の存在性を否定して全体の実在を考えるこの 思考法は上の偶だけではなく、﹃ヴァーキャパディーャ﹂

全三巻に繰り返し述べられており、特に﹁文章篇

︵厨ご幽厨且四︶﹂と呼ばれるその第二巻はこの思考法に 基づいて文を考察することを主要テーマとしている。バ ルトリハリの考え方の基本となっているこの考え方は、 バルトリハリにとっては文法家としての自らの生業であ る文法学的な言語分析に対する反省から生まれた確信で ⑰ あったと思われる。そのことは例えばこのような偶に表 されている。 例えば﹁ある﹂、﹁なる﹂という意味を表すサンスクリヅ ト語︽喜四ぐ目︶は、文法的には語根﹁9国、接辞の賭、 活用語尾言用という文法要素︵罫ロ+煙十巳から派生され 諸々の音素︵一つの音素からなる文法要素︶が意味 を持つことについては、[文法学の]教説のための ものにすぎないことが示されている。というのは、 純粋な語根などには、日常言語活動においてはいか ⑬ なる意味も認められないのであるから。宮勺隠ら︶ 31

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ると説明される。バルトリハリが指摘するように、この 〆四︶のような一音だけからなる文法要素や語根言与国︺は 文法学という学問上において便宜的に想定されたものに 過ぎず、全体としての︽gいく目、という単語の説明とい う観点においてのみ、その意義が認められるものである。 そして、全体を離れた部分としての一四ゞや︵﹁匡軋には 意味は存在せず、全体としての︽g画く目・だけが意味を 持つのである。 先に見たように、この関係は部分としての単語と全体 としての文にも当てはまる。文の観点から見れば、全体 を離れた部分としての︽g画く島︾には意味は存在せず、 全体としての文だけが意味を持つのである。文脈なしに は単語の意味が決定できないことに関しては、さしたる 説明も必要ないであろう。辞書には単語の意味として 様々な項目が列挙されるが、そのうちどれがその場合に 相応しい意味であるかは、文なしには決定できない。実 は単語の意味は文の中でしか存在し得ないのである。同 じことは次のようにも説明されている。 たとえば、一つのものである絵が、別々の外見を持 ち、種々に定義される冑など[の色によって]説明 バルトリハリはこのように単語から文法要素を取り出す ことや文から単語の意味を取り出すことを﹁抽出 ⑳ ︵壱○臣厨国︶﹂と呼んでいる。この語の原意が示すよ うに、バルトリハリにとっては、文をその要素に分ける ことは﹁誤って︵幽冨︶、前に︵且︶、提示すること ︵号四国︶﹂に他ならない。しかし、人間はある対象につ いて知識を得ようとするとき、必ずこのような分析的な 手段によってしまう。一つの絵であってもそれを部分部 分に分けなければ説明できないということによっても明 らかなように、我々は分析的手段に頼らざるを得ないの である。そしてバルトリハリにとってはこのような知識 の手段︵官昌菌烏冨︶としての言葉は、﹁仮構されたもの ・・・・・・・⑳ ︵冒鼻印冒厨︶﹂︵妄分別されたもの︶に過ぎないである。 ところで、ここでのバルトリハリの考え方は、部分と される。それと同様に、あらゆる点で、唯一であっ て[他の要素を]必要としていない文に、[お互い に他の要素を]必要とする別の[レヴェルの]言葉 ︵単語︶による説明が認められる。単語において語 基や接辞などが分解されるように、文において単語 ⑲ の抽出が行われるのである。︵くむ閉︲S︶ 句 、 。‘

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して分割可能な全体というものは、部分をその基盤とし ているのであるから、実在としては認められないという 先に見た﹁サンュッタ・’一カーャ﹂の偏に見られた思考 法と著しい対照をなす。バルトリハリにとっては、部分 として立ち現れてくるものは、実在ではあり得ない。実 在としては、全体である文にのみ対象が認められるので ある。人間は言葉によってそこに部分を措定してしまう のであるが、それは、そのような仮構された手段によっ てしか人間が実在を知り得ないからである。 先に見た﹁サンュッタ・ニカーャ﹂の偶においては、 部分と全体に対する考え方は車の職えによって示されて いた。バルトリハリは部分と全体を次のように身体と感 覚器官の瞼えによって示している。 たとえば、諸々の感覚器官は、別々の性質を備え、 別々の対象に働くものであるが、身体がなければい かなる結果をもなすことはない。それと同じように、 すべての単語は別々の対象と関連しているが、文か ら分け出されていれば、意味︵対象︶を持っている ⑳ とは認められない。︵くむ画お甲倫も この比嶮によって部分は全体を基盤としていることが端 的に示されている。例えば、人間は目とか鼻とかいった 感覚器官をその部分としているが、それら諸部分は全体 としての身体がなければ、なんの機能もしない。バルト リハリはここで身体という生物的。有機的に結びついた ものを例としているが、この事情は、実は機械的な結合 によって結びつく先の車の場合も同じであろう。ながえ とか車輪とかいった車の部分は、まず車という全体を前 提としていなければ、なんの意味も持たないことは洲ら かである。だからこそ﹁部分の総体が車なのではない﹂ と言えるのではないだろうか?全体が仮のものであると 仏教徒ナーガセーナは述べていたが、仮のものであるの は部分ではないだろうか? ナーガールジュナがその言語分析を通してこの現象世 界を考察していたのと同様に、バルトリハリのこの思考 法は、言葉だけではなくこの現象世界にも当てはめられ る。文を構成する単語は動訶を中心としてお互いに関係 しあっており、一つの文として不可分なものであるにも 関わらず、我々は文というものをその構成要素としての 単語という部分に分けなければ説明することはできない。 単語もまた文法要素という部分に分けなければ説明する 、 n o。

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ことはできない。このように、そもそも何かを認識する ということは、一つの全体から何かしら部分を﹁抽出﹂ する事に他ならないのである。 我々は世界というものを、車や人や机や牛といった構 成要素から成り立っていると認識する。しかし、このよ うな構成要素は全体としての世界から部分として﹁抽 出﹂したものに過ぎない。この全体、すなわち我々の分 析的な認識を通して部分として分かたれる以前の世界を、 バルトリハリはウパニシャッド以来の伝統に従って﹁ブ ラフマン﹂と呼んでいる。そして、文から抽出した単語 が全体としての文を根拠としているのと同じように、こ の世界の諸々の事物はこのブラフマンという究極唯一の ︿有﹀を根拠としているとされる。文法要素が単語の説 明という観点においてしか意味を持たず、単語が文の中 において初めて意味を持つのと同じように、この現象世 界もこの唯一なる真理を根拠としているという意味にお いてはじめて一定の存在性を認められる仮のものなので 手衲︸フ︵︾0 ここで、我々が日常的に立っている実在論にもう一度 立ち返ってみよう。我々が﹁これは車である﹂という言 葉をつかうとき、我々にとって自明のものとして現前す る︿これ﹀は刻々と流れ行く時間の中においても同一性 を保つ実在物、︿車﹀もまたどんな車でもいかなる場合 でもそれであるような明確な実体として立ち現れている。 そして﹁車﹂はそれに対する名称である。名称がそれら の実在を直接的に指し示していることを我々は無意識的 に受け入れてしまっているのである。ナーガールジュナ とバルトリハリとが言語の分析によってたどり着いたの は、このような対象が実在しない、ということであった。 言葉の働きは名称・記号として対象を指し示すことでは なく、むしろ我々にこのように対象の実在を確信させて しまうことにあるのではないだろうか? このことについて、バルトリハリは次のように述べて いる。 ある言葉が発音されたときに、ある対象が理解され

四ナーガールジュナとバルトリハリの

思想背景l空と有I 34

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つまり、言葉によって理解されるだけのもの、それを 我々は言葉の対象として捉えているのである。言葉は、 何か実在している対象に対する名称ではなく、逆に言葉 によって理解されるだけのものが、﹁定義﹂となって対 象を確定するのである。この﹁定義﹂ということについ ては、次のようにも述べられる。 ここに明言されているように、言葉によって固定される 定義によって我々は対象を理解しているのであるが、そ れは実在に対応するものとは言えないのである。バルト リハリは自注において、職えとして、同一の女性が関係 の差異によって、娘、姉妹、妻、母などとして分け出さ れる、ということを述べている。娘、妻などという区別 る。それをその[言葉の] 対象の定義は他にはない。 単語の対象は定義によって確定される。しかし、 [それは]実在によるものではない。[他に対する] 補助的働きに応じて、同一の対象がどのようにも理 ⑳ 解される。︵く冠隠色︶ 対象というのであって、 ⑳ ︵く勺函四い9 の要因となっているのはその女性が父や夫との関係に応 じていかなる役割を果たすかということであろうが、言 葉の意味・対象も他の要素との関係の中でその働きに応 じて理解されるものなのである。しかしながら我々は言 葉を定義として対象を捉えてしまう。例えば﹁娘﹂とい う言葉は対象そのものである一人の女性のある一面しか 表しておらず、また、娘でしかあり得ないような女性は どこにも対象として存在していないのにも関わらず、 我々にその実在を確信させる働きを担っているのである。 一方、同じ定義ということに関して、ナーガールジュ ナの方は次のように述べている。 ナーガールジュナの最終的な目的は、定義されるものと鋸 空間の定義より前にはいかなる空間も存在しない。 もし定義よりも前にあるとすれば、それは定義され ていないものとなってしまおう。 しかしながら、定義されていないものなどはどこに も存在しない。定義されていないものが存在しない ときに、定義はどこにおいて成立しようか。︵巨巨〆 ⑳ 、.胃1画︶

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⑳ その対象との両者を否定することにあるのだが、ここに ﹁定義されていないものなどはどこにも存在しない﹂と 述べられているように、まず我々に与えられている世界 が言葉によって定義づけられたものであることを確認し た上で、ナーガールジュナはそこにひそむ矛盾を指摘し ていくのである。 それでは、我々に与えられている肚界とはどのように して成り立っているのか?その世俗的な世界を排した 後に現れるはずの真理とはいかなるものか?この問題 について、ナーガールジュナは多くを語らない。しかし ながら、それは実は﹁歩く人は歩く﹂という言語表現を 否定するときに用いた帰謬的な論法によって同時に説明 されているのだと思われる。先に見たように﹁歩く人は 歩く﹂という言語表現を排するとき、その根拠となって いるのは﹁歩く人は歩く行為と共にある時にはじめて存 在し得る﹂という縁起の考え方であった。すなわち、縁 って存在しているからこそ、この世界は言葉の対象とし ては実在しないのであるが、そのように縁って存在する ということは、実はそのまま﹁縁起﹂というナーガール ジュナにとっての最高真理に他ならない。この点に、大 乗仏教徒としてのナーガールジュナの特質が表れている。 彼にとっては世俗と最高真理とは無関係のものではなく、 ⑳ このように重なり合っているものなのである。 この最高真理についてナーガールジュナは﹁中論﹂全 二十七章中ただ一度だけ﹁中道﹂という言葉を使って、 ﹁縁起なるもの、それを空性と呼ぶ。それは依っての仮 ⑳ 説であり、またそれは中道である︵巨巨悶隠品︶﹂と表 明しているが、それを注釈者の一人チャンドラキールテ ィは次のように、かの﹁車の瞼え﹂も用いて説明してい う︵や○ 自性が空性であるもの、﹁それは依っての仮説で ある﹂。その﹁空性﹂こそが、依っての仮説である と確定される。車輪などの車の諸々の部分に依存し て、車は仮説される。それの固有の部分に依存して いる仮説、それは、自性として不生である。また、 自性として不生であるもの、それが空性である。 その自性が不生であることを相とする空性こそが ﹁中道﹂であると確定される。というのは、あるも のに自性として不生があるとき、それには存在性が ないからである。また、自性として不生なものには 減もないから、非存在性もない。従って存在、非存 3 (

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縁起、すなわち縁って生じているこの現象世界︵世俗︶ は、﹁依っての仮説﹂として、車が車輪などの車の諸々 の部分に依存して仮説されるように、存在している。し かしそれは﹁空﹂、すなわち実体的存在としては全く存 ⑪ 在していない。そして、まさにそれは、空であるがゆえ に、存在、非存在という二つから離れた中道という最高 真理であるのである。 先にみた初期仏教の経典においても﹁車﹂によって瞼 えられる﹁全体﹂は縁って存在するものであって実在で はないということは述べられていた。しかし、そこには 積極的な意義は未だ明確な形では表明されていなかった。 ここでは、車はまずその縁って生じている性質の故に、 初期経典と同じく実在としては否定されるべきものとし て、すなわち﹁空﹂なるものの瞼えとして説かれるが、 在というその二つを欠くから、あらゆる自性が不生 であることを相とする空性が、﹁中道﹂すなわち中 の道であると述べられる。 それと同様に、﹁縁起﹂にはこの﹁空性﹂、﹁依っ ての仮説﹂、﹁中道﹂という別名がある。急閉且 ⑳ 巨巨屍画据昂︶ しかし、それは同時に﹁空﹂なるが故に最高の真実を瞼 えるものとして用いられているのである。このような縁 起、空という真理への到達が、ナーガールジュナが言語 の分析を通してその虚構性を明らかにしていく際の目的 となっている。 バルトリハリもナーガールジュナと同じように文にお けるその構成要素の依存関係について注目していた。 ナーガールジュナにとっては言葉によって表される世界 が空虚なものであることこそが、真理の顕現でもあった のであるが、バルトリハリは言葉によって表される現象 世界の虚構性の背後に、それを成り立たせている実在を 想定していた。先に見たように、文法要素は単語の説明 という観点において初めて意味を持ち、単語は文におい て初めてその価値が認められるが、このような構造を考 えた場合、部分としての言語活動を成り立たしめている 言語活動の総体が想定される。これがバルトリハリのい ⑫ う﹁言葉を本質とするブラフマン﹂である。そして、こ の構造を言葉だけではなく現象世界に当てはめれば、こ の世界を構成するものは確かに虚構であるかもしれない が、その全体は真なるものと考えられるのである。 このような﹁全体﹂としてのブラフマンは、部分とし 〉

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以上のようなバルトリハリとナーガールジュナの考え のうち、どちらが優れているか、あるいは、どちらが言 葉というものの真実を言い当てているか、ということを ここで論じるつもりはない。言葉の対象は︿空﹀か ら、いかなる言葉であっても究極的にはその唯一なる れぞれの言葉に独立した対象は認められないのであるか の一つの︿有﹀として捉えることができるであろう。そ をも拒絶するものであるが、さしあたっては全体として ての分割以前の存在であって、いかなる言葉による説明 ⑬ ︿有﹀を指し示していることになる。言葉は、その唯一 なる有を指し示しながら、それを多様なるものとして ﹁抽出﹂する働きを持つのである。日常生活において言 葉を使う我々は、言葉が唯一の有を指向していることを 知らずに、それぞれの言葉が、個々別々な対象を指示し ているかのように考える。しかしそれは、唯一の実在を その部分によって仮に捉えているに過ぎないのである。 バルトリハリの言語論の目的は、究極的にはこのような 唯一の実在としてのブラフマンに至ることにあるのであ う︵︾○

まとめ

︿有﹀か、彼らの見解が分かれるのはこの点であるのだ が、そこで共通に問題となっているのは、我々が言葉に よって行っている分析的な知の限界とそこにひそむ対象 の実体化の問題である。 言葉は実在する対象に対する名称である、と考えるい わゆる︿言語Ⅱ名称論﹀に関する彼らの批判は、実在論 とは異なる世界観を与える。言葉があらかじめ世界に客 観的に独立して存在している個々の事物を指し示すもの ではないということから、この世界とは言葉の使用によ って我々に立ち現れてくるものであるということがまず 導かれるであろう。さらに、上に見てきたナーガールジ ュナとバルトリハリの言語思想はどちらも言葉そのもの を独立した要素からなる実体的なものではなく関係的な ものと見ていたが、このことは、世界の構成要素︵とし て我々に与えられているもの︶が、独立しては存在し得 ない関係的な存在であることを我々に教えているのだと 思われる。 彼ら二人の言語観、特に文、命題に関する彼らの言語 ⑮ 分析は、言語と世界を考察するためのこのような視座を 我々に与えるものなのである。 ユ貝 .』L‘

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註 ①言語学におけるロ。白の︺且四目ロ②日という考え方であり、 言語代用説︵2国○唱巨○巨四房日︶とも呼ばれる。田閏pm 陣弓畠5﹃ら弓︾路︲ち過匡]参照。 ②冨弓画ご自彊、臼号厨国ご犀呂の四&○日吾○筐ごご のぐ四門ご丙冒騨冒旦蓉の切巨めい目庁のの口、、言○ごめ四群○言の囚ロ貝ロロ口、﹃、、 [のz胃︾弔罠幽巴 対応する漢訳は以下の通り。 ﹃雑阿含経﹄[大正脚隠弓] 如和合衆材世名之為車 諸陰因縁合假名為衆生 ﹁別訳雑阿含経﹄[大正脚溢肯] 譽如因衆縁和合有車用 陰界入亦附因縁和合有 ちなみにこの偶は以下に見る﹁ミリンダ王の問い﹂の他、 ﹄唐回呑口苫軋包電、助画[でPい①一望凋﹃園悪口ご凰舜農[℃⑰の一望ヨぷめ胃塾式琴一↓冨画、蝿蚤︹や $四一といったパーリ論典にも引用されている。 ③﹁ミリンダ王の問い﹂のこの部分は大変有名であって、 翻訳や解説も多い。ここでは[服部・上川らg“閏︲と の優れた解説および[大地原ころふお︲鯉とによる訳 を参考にして要約した。以下、テキストは巨甸も閉︲鵲 ︵対応漢訳は大正路ゞ$野︲ロ弓曾︲巴。 ④愚盲目g四日の目盟の①目日匡閏喜目閏冒︾屈自・凹周胃8 四戸穴昏四回0mも口言OOPom弄宍四口﹄○口石山ロ○○四時四庁画印で四口]mHP昼0m で四p○○四R由守宮知旦凹冒旦四丙印剴○口巳、官○O印昌︲四言冒○宮印画口丙豈四 m四日四口邑叫己騨ロロ呉庁再ぐ○百習○巨弾目少冒己画く昌冨口註、宮畠祠︺写 卜 画司] 漢訳は完全には対応しておらず、以下のように述べられ る。 那先言。佛教説。合聚是諸材木。用作車因得車。[大正 いい︾③④①す] 那先言佛教説之如合聚。是諸材木用作車因得車。[大正 い画︶﹃oのす] この後に巨勺は先に見た字ンユッタ・ニヵーャ﹄の偶 を引用するが、相当漢訳には見られない。 ⑤ヴァイシェーシカ学派の全体論およびそれに対する後代 の仏教の批判については、ここで詳しく扱うことができな いが、さしあたって[服部・上山ら弓︾鵠︲g]、[菱田 ら困当︲息]を参照されたい。 ⑥ちなみに↑閏日日且︾という語はブッダゴーサによるパー リ注では︽、昌○口笛己四口目四目異国目のぐ四百氏︵﹁衆生﹂とい う名称による理解︶と解釈扇国もら全される。この語 のサンスクリヅト化が一切四曰く昼︶であること、およびその 語に対する後代の中槻派の理解とその問題点については [梶山・上山ら笥皀臼︲とにまとめられている。 ⑦[服部・上山らg︾程︲己 ⑧以下の議論についての翻訳、解説も多いが、特に[立川 忌認]、[立川己沼]および[立川己震筥目︲属望を 参照した。なお、最後の論文に倣い、以下の﹃中論﹄の偶 の訳に関して、受動形の場合の訳語の日本語での不自然さ を避けるために、﹁盟日に﹁歩く﹂という訳語を当てて おいた。 q Q L J 型

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⑨隠巨国目鴨。島自国ぐ且侭自国巨巴く幽隠CO宮曼 騨国営○四四口目︻四m四国言の○m丙、切庁門司旦○ゴーmmOO冒四ロ囚、[勺﹃屯︾ で、@割] ⑩盟口国国く且鴨。。冨司庁鳥昌冨日のく。冒冒厨冨弄の、 、曾昌印目①邑四く﹄口印、四日言叫埜四Q山口四﹄ぐ○℃四も印Qと四庁①、\ も四戸“○m四口︽酬い口。O写画司口国四のくい庁、切昌煙も門口めい]司騨庁の、 、弾目巨四国の口四く揖口四媚四ご守倒ぬゆロ言巨忌胴四門ご斡冒四口目目○○言四含四面、、 蝿mHpm胃①Qぐ①もH四mm]望の庁①い、口︽画く、匹旦巨庁“ぬ四○○唇脚註、 mmp計のロCOO営四計の国のロ四mm再言倒m四目]回00mぬい。○ず口唇、、 [勺村も︾も@ml里 ⑪第、偶Cパーダの︽噌邑国︸は︲次のチャンドラキールテ ィの注に従い、﹁歩く﹂という動詞と関係づけて理解した。 伽印。Oぼぃ計H行く①庁口吻国山門庁苣の、印口弄のロの四ケ国○mmHごロロの口ゆく閂冒四 m四日里胃呉門四ぐ倒弄胃の、︹もH勺︾壱①巴︵西四日騨口の口四ぐ目四 囲ロ国ゞというこの[C句の]文における噌巨国︾という 言葉は︽臘○目目﹀というこの意味を示している︶ つまり、対応する実在としての︿歩く﹀行為がないのに ﹁歩く﹂という動詞を使川するという誤謬に陥るという意 味である。 ⑬隠日苗冒四目開冒鴨目目血目冨弄冨白冒臼日○冒冒厨冨耐、 、四国垣即日回目①匡く侭四日“目印昌胃四二国口臼ぐ○℃呂四旦肖具のご 戸畠戸︷録画い[もHも︾もやと ︵今歩かれつつあるところに、歩くことがいったいどう してあり得るだろうか。 今歩かれつつあるところには二つの去ることはあり得な いというのに。︶ ⑬[立川己程︾制]。 ⑭唱目与叫ぐの目の倒厨巨富騨日国目目日“己国ぐ肖翼ミ ト m倒匡寄昌里く①ロ四日目料庁国昌宍剖目望叫も四・四日四己①席、胃のべ、ご屯 卜 図令、[ぐむ目︾も.画昌巴 くものテキストは基本的にはくも弓︻に従ったが、カッコの 中にく屯冒の偶番号およびページを付しておく。 ⑮サンスクリット文法において行為︵宮司︶を実現させ るための文法要素は厨国富あるいは“且冨目と呼ばれる。 ⑯冨薗目箇侭の目く旨四目冨計同昏昏冒翼弓呉2 mmご○く印ぐ乞胃創○ぐ画く目印くゆ昏倒罠のpゆめ○︾めご四国写、、くも いい四m奪い心︷ぐむ目。ロ.四○巴 、ト ⑰このようなバルトリハリの基本的思考法および以下に述 べる﹁全体と部分﹂に関する彼の見解については、既に [清島5$]に明快に指摘されており、ここで新たにつ け加えるべきことはないが、論旨の関係上当該論文に多く 依りつつここでの考察を進める。 ⑬勘切目昌冨のく画く胃目邑習豐庁冨く画きぐの胃且冑曾呂、 旦彦国計ぐ倒旦引口画[ご声目の匡旦旦弓四口画Hロ﹂四巨弄﹂犀○︾昌彦○回ゆく﹂gく知計①、、 く く屯いい旨C[ぐむ目︾や画吟里 ⑲。旨騨塁巴百m旨﹃屋己尉く騨菌号叫gの烏冒匡鼠目四号、 口匙倒旦﹄ず犀﹄毎mm[ご画穴廿肖叫冒四口︺宍昌くい汁①ずぽ﹄ppm﹂四斤の、口、]唇、世 ・巴ご 岸四計回]くい﹄戸口切望四く倒添昌四、冒四己貝山穴倒昏戸の画いく四m四曰く凹弄即豈、 上 のmごQ山口計画局知﹄ずの四口]倒炭声冒凶ロロH国⑫叫声倒画穴切凹旨四国岸mmHp]“庁の、、 吋口芹昏倒も四二のく]ず一目四]目釦邑弄の己氏窪丙門言でH但弄昌騨胃倒旦四冒四写、 竺当4 mも○口Q匿習閉国言画く倒丙]ので山口倒冒四巨匡ロ山口mこく臼①ごく勺 膿FL 画。、l﹄○ 1 ()

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⑳この﹁抽出﹂に関しては、バルトリハリはく勺の他の 箇所においてもしばしば論じている。たとえば、ざ三目 くも旨瞳ふ弓国も3−においても、ここで見た議論と同 様に、抽出によって分け出された単語の対象・意味は日常 の言語活動を越え出た形態︵ぐ舌ぐ昌習餅国皀昌忌日︶を 持っており、文法学などの教説︵3m目︶および教説に類 する世間の様々な言語活動︵勘の目く息ぐ囚冨国困号笛目 置屋底百日gの烏ぐ菌ぐゆ颪国日︶に従っているに過ぎないと しうことが述べられている。可 ⑳毎日且くも﹄腱ふにおいて、バルトリハリは先に見た ︽匡四ぐ豊︺を構成する文法要素について次のように述べて いる。 己四9mm望凹○国ロぐ画斥昏望の昌画庁く自己四ヶ冨胃室も四m四Hごとゆず犀ロー︺彦口ご ずぽロ四口行く①く四︻ロ画匹四国いぼのmウニ倒口言mHmm凹貝冒匡匡倒くゆでHmp己口耳揖︲ 唇の云四く凹医己四H﹄弄四]己洋倒豈己同いばご叫旦四戸凶ずい四ケ9画口も叫旦引く四口庁の、 卜 、叫凸己 [ぐむ旨︾ロ巨一 ︵また、単語が[文法的に]説明されるべきことを認め j、ザ目陣昆などのように他の語の集 て、ザ昏軋、ずぽロロ まりを即解する原因として仮椛される︵忌同時四官冨︶の が﹁知識の手段︵目農園烏冨︶としての言葉﹂であ る。︶ 砦 ⑳冒吾g旨く﹄、菌冨牙習四目冒弓凋閏呂習巨冨冒国ロ、 白身ごPpmBく画吾凶〆胃昌四日H5匹の彦倒ppm穴騨巷胃①、、ぐ屯 1ロワ 画嵯函い︵↑﹄④︶ 筆 与四︵写山口、口四口四国戸の口門ぐ①めい罠画己時︽言画伽印﹃弄盲四口﹄ぐの註口画口、 岸 く凶丙旦①弓寄留倒豈℃罠四く胃ずぽ四戸︽画己四吋巨印引弄面印くゆ庁岳叫冒画く﹄g胃四言の、、 ⑳ ⑭ ⑳ ⑳ くもい↑画嵯奪いe[く勺冒︾固いC望 旦四曾旨﹄ロロロ○○四口計のの四ケQの国画旦画]○︾H計画四唇も罠四司望凹言の、 許皿Hp画昏匡汽四再豈、画]︽色めく凹搗ぐ、口凹邑望四・mH言唇四m昌四︸四声の山口四目国、、 くも画いい○命い望[ぐ祠口・や画﹃里 ﹄印戸mmp倒色くくぃくいご切一彦騨口庁の己四匹倒尉寺壱四国印言芦ぐ四の庁巨計画盲、 巨己四穴酬﹃理の弾のく腎昏画豈丙四gm冒○丘四国巨館四曰く里の、、くむ ﹄ 騨仁一つ奪いg[く勺自︶やい冒望 くH己且く石脚瞳○は次のようである。 ぐ胃己目回穴四門の画︵でH割も呉mHpm四二四砂四二く凶﹂四穴⑳四口四口胃も山口画昌彦、︲ くぐいぐ四め許彦叫︲ず①芹ロ琴、弄口gのぐい百一くぃ降巨岸四丙切四口鼬冒、己○︲ 旦旦彦昌望四旦弓望叫閂○も琶勉ぐ画計山岸彦国ご豈昌﹂医H菅、庁①、倒恥国尽少︲ 国︺回ロ○℃四戸画甘いぐ胃切のい、唇の四①ぐ画く四切言ぐ四口目凶戸口冨叫ロ芦旦H画く目山口一︲ 、 の凹舜ロロ四房四旨胃く四℃再四口で、旦劃口弄の、言pQ昌四計昏倒、①斥画、頁H g巨彦詳倒ずぼ四胸骨国日ず盲四門割四月ロ凶弄の片目四己の穴“凶く厨①めい目彦己[い︲ 、 ぐご弓里ぐ臼のご[くも目︼や臼望 L1 ︵間接的に導かれた、実在するあるいは実在しない定義 が単語の対象の決定の原因である。というのは、事物そ れ自体が、定義を抽出されたりあるいは付託されたりし て、そのように表示されるのであるから。[他に対する] 補助的働きの差異に依存しているそれこそが、事物の本 質なのであって、行為や実体などとして同一性があるか のように理解される。たとえば、同一の女性が、娘、姉 妹、妻、母というように[他の要素に対する]依存的関 係の差異によって分け出されるように。︶ ロ画穴胤餌目ぐ匡望胃の置日Q︽己冒く四目副戸別巴四斎四国製、 巴四穴のmpm日官閉印ご罠①いく輿で胃ぐ四日目四日盲屏山口輿ご 41

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四]印丙の四国○国四斤いい。﹄○cmご扉画く四〆切四時ロく﹄こぐ印弄の穴ぐ四○岸、 K 四mm一琶凹岸四添い四旨の丘弓画く①斥片四︻冒煙庁四国︺斥巨写四]四戸切凹目印間口、ヘ 一℃吋勺・ロ昌画①1]四g r 里卜 ﹂ これらの偶は六大のうちの虚空とその定義︵相︶につい て論じるものであるが、[梶川・上山ら笥皀野山皆]が 述べているように言葉と対象の問題として理解することが 秀﹄︽卦ごう︵︾○ ⑳次の偶によって両者が認められないことが明言される。 庁凹の口胃凹口国いく一○胃由言の旨四屍いく四目]包丙m四口四目ロロ凹呂ぐゆく﹄qく四斤①、 崖四声の]四﹄四丙切四国、ロ]国冒匡弄庁○口“﹄ぐぃご声画く○己桿ぐ︼堅冒口庁の、、 巨富門口望む昂も.国二 ︵したがって、定義されるものも存在しないし、定義も 存在しない。定義と定義されるものを離れたいかなる存 在もまた存在しない。︶ ⑳この点に関しては[立川乞置“計︲恩]に詳しく述べ られている。 ⑳冨昏官陣ョ旨の四日匡Bag目ロ富国昌国昌冒四○鼻の日呂の、 切陣でH即]ロ四℃pH官で倒旦倒型即己H四言己四斤⑫脚﹄ぐ皿詞冒凹g旨く四門口山べべ 一℃︻勺︾ロ、○望 ⑳菌・の冒目いく号冨ぐ鼠巨畠四国削冒凹冒9日愚乱倒菌、 、凹澤ぐ四の匡邑旦印︵四戸己山旦四習い己Hど口四でpH胃口ぐ]画く四の計庫倒己昌四庁①、 、 ○口丙門画包目昼望巨で四匹倒望凹罠四庁昏倒画顕山口﹄﹄.四寺豈印彦も﹃四]冒四も胃四行①、 庁囚の冒四函釦のぐ四口ぬいロ冒巨己画・凶冨四℃H画]冒凹己丘ぽい山のぐ四ウ昏凶ぐの︲ ロ四国ロ[己凹詳]底、回倒○四切ぐ四ヶ一︼画くのロ四口匡庁石口耳目︸]の凶のロ曰く四言倒、 の四房く、いく“一︺彦倒くいロロ︵で四詳言﹄四声のmpm的匡旨く皿計四口目印匡ぎぐ四目]四℃H四︲ I、1 K ユ ロで少口呉﹄ぐくゆく四い弄言四℃︺餌庁①、胃四め哲四彦芦 のぐ、ずぼ割く①口叫ロロ庁己回言﹄の計四m目画、曾森ぐ凶ずず四ぐ印毎へ、くいず写画く①ロ四 ○劉曰巨庁で四口二m②旦四ぐ﹄ぬ四口︺画ラゴ山く画口邑倒の弄詳ぐ倒す写画く四詳一、四︽○ ヶ房醐ぐ山丘彦画く山︹庁勉旦匡く口冒、門口写寓画弄く倒斤m卸崗く、いく印︲ J4 pp四ぐ四国ロ言で倒再二四丙m四国割四目ロ望四弄叫冒四二面胃四国]画己Hmpで四国 堂二 門ごPロロくい貝﹄○口目mHmm烏旦宮Oぐ、一①、計四二のく、肖巨 で烏四口庁胃四mmHご巨弄b叫旦四m胃四]く巴︵山ぐ扉のめゆの四目ロー剴劉昏砂口邑くい計山 口で画旦倒国弾む国ヨ弾宮一局冒回堅犀冨四昌叫も時呉甘四口岸昌﹃、[もHも︾印○吟] ちなみに、﹃中論﹄に対するもう一人の注釈者である バーヴァヴィヴェーカは、叩印且巨巨尉屍骨において 同じ車の楡えに言及しているが、これは初期経典と同じよ うに無我を説明するためである。チベット訳、漢訳とも偶 の引用の形にはなっていないが、漢訳はこれがアーガマに 述べられたものであることを明記しており、引川される二 十文字が元来﹃サンュッタ・ニカーャ﹄に見られた偶の訳 であった可能性はある。 QでのHpmm唇宮口岨耳、︺目昌四口旨四m]印ず耳①冒口凹め、声肖口伽再四H ”QいいのでpH︾二○二も四二のご圃臣一口9口、己冒戸口mで○]蝉ご門庁の冒口四m の①日mompQロmgmmの己臼堅○巨匠、︹勺崗勺H︾いい①印︾]贈I皿 ︵たとえば、車の部分に依存することによって車として 仮説される。それと同じように構成要素︵五瓶︶に依存 することによって﹁衆生﹂として仮説されるのである︶ 阿含経中所説﹁依衆分故得名為車我亦如是以陰為因假 説為我﹂。亦如此経。﹃般若灯論﹄大正g、5号] ③空を説明するために車の啼えを用いることは、チャンド ラキールティに始まるわけではなく、ナーガールジュナの 著作﹁廻靜論﹄にも、次のように使われている。 42

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ぐ四詳言凶○四℃H脚。言くい切四門口ロ弄己印ロロロ計く凶︵いく回す壷画く鼬小国ロ茸四mも﹄ 、 HP詳言印己凹一画、写印一画Q画琶四面のぐのmpmぐのい屋丙画尽冒の、巨斥割m一宮四頁︲ 当 口四日Ra丙叫琶四愚冒の巳画﹄ずロ匹四席画も回国閉幽昌匡言胃四口の欝国︲ ぐ四国庁呂四宮]計国唇印冒号耳弄]智く閏冨員の︾のくい日昼四日 目、gご画く四。四口四日目昌引ご画闇冒巨9口ロロ呉ぐ輿巳冨ぐ号昏回ご四目 凹官口唇いく四ケ昏叫ぐ罠くゆ官閉山旦冒四国①ご面画く剛ご画曰く閏厨庁①﹃ [くく︾や、里 ︵さらに、例えば、車、布、壷などは、縁起したもので あるから自性が空であるが、[車が]薪や草や粘土を運 んだり、[壺が]蜜や水を保持したり、[布が]寒さや風 や熱さから保護したりといったように、それぞれ固有の はたらきをするのと同じように、この私の言葉も、縁起 したものであるから無自性であるけれども、諸物が無自 性であることを証明するはたらきをなす。︶ ここでは直接的に言葉が自性を持たないことが述べられて いるが、本稿で扱った文、命題の問題とは異なる視点から の考察が必要であるとも考えられる。今後の課題としたい。 車の嶮えはナーガールジュナ作といわれるもう一つの著作 である﹁大智度論﹂においても繰り返し用いられている。 たとえばいわゆる十八空を説明する巻第三十一初品第四十 八では、そのうちの一つ﹁散空﹂について次のように説明 している。 散空者散名別離相。如諸法和合故有。如車以輻網轤穀衆 合為車。若離散各在一処則失車名。五衆和合因縁故名為 人。若別離五衆人不可得。[大正鵲﹀思旨] 以下同じように車から順に車の部分、色、微塵、というょ うに検討し、最後に﹁和合して有るが故に皆是れ假名なり。 假名なるが故に散ずべし﹂雨侶四]としている。同様のこ とは巻第四十二画震Cl器留]にも述べられ、また、巻第 八十六[急ぎ︲3宙]には、 佛答﹁修諸法壊是修般若。以諸法壊故無相相亦壊。譽如 車分壊故車相亦滅。又如輪分壊故輪相亦滅。如是乃至微 塵﹂ として、このように﹁諸法の壊﹂を修めることが﹁般若を 修す﹂ことであると述べられる。 なお、[中村ら馬&闇︲路巴は、﹃ミリンダ王の問い﹄ に見られる車の嗽えはギリシア人に﹁手つとりばやく﹂無 我を説明するための﹁荒っぽい解説﹂であって、﹁和合有﹂ と﹁仮有﹂を混同しており、それが後肚に影響を与えたと しているが、アーガマ︵ニカーャ︶に説かれ、後代におい てもこのように重視された考え方をそのように評すること はできないと考える。 ⑫これは次のように﹁ヴァーキャパディーャ﹄の冒頭に述 べられており、そこにはこのブラフマンによって壯界の形 成があることも明言される。 煙口叫巨肖ロ︼旦彦印ロ四目冒すHいぼ門口四小四ず匡画︽凹詳ぐぃHごくい旦印穴mmHか︼ロ﹃ 旨く自国房︶局吾ゆず彦倒ぐの口凹官四丙Hご叫司”閏○国四国唇、くも﹄・﹂ [ぐむ目︾ロー ︵始め、終わりのないブラフマンは言葉を本質としてい る。それは煙冨胃四であり、[言葉の]対象として仮現し、 それによって世界の形成がある︶ [赤松ら語四︾隠甲匿○︵補注︶]に述べられるように、 43

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この偶の︽壁︺烏目弓四ゞという語に関して従来学者の解釈 が分かれている。本稿筆者も、この語を﹁コトバそれ自 体﹂と訳す訳者の考えと同様に、究極的に言葉とブラフマ ンを等置するのが、バリトリハリの立場であると考える者 であるが、ブラフマンと言葉とが究極的に同一であるとす れば、この語を所有複合語と解しても、格限定複合語と解 しても、意味の点では大きな違いはないと考えている。 フラフマンは﹁言葉を本質とする﹂とここで訳したのは、 偶の後半に述べられるように、対象、事物︵冑三四︶とし て現象仙界に顕れているブラフマンは、あくまでアルタと して認識されるのであって、言葉としては認識されないが、 その本質としては言葉と側一なのである、ということを表 したつもりである。詳しい考察は稲を改めたい。 ⑬これについては[畝部岳忠]に詳しく論じておいた。 ⑭ただし、バルトリハリは、多くの場合、言葉の対象とし ての現象世界を実在論者と同じようにむしろ実在するもの として扱っている。現象世界の虚構を否定するためには、 それよりも一段メタなしヴェルから議論を進める必要があ るが、バルトリハリがそのような立場に立ってブラフマン 一元論を論じるのは﹃ヴァーキヤパディーヤ﹄冒頭の議論 の他数ヶ所に散見されるに過ぎない。 ⑮今回扱うことができなかったが、インド言語思想におけ る︿言語Ⅱ名称論﹀に関する批判を考える場合、今川のよ うな文、命題という観点からだけではなく、単語レヴェル での議論および言葉の音声面にかかわる議論をも考察する 必要がある。この観点からの議論については[赤松5段 テキスト 巨巨嗣咽夛昏奇苓ミ肇旨弓冨ぎぎ忌函︾め①のもH勺 巨勺亜剴苛豈忌胃詩曾重。︺写§侭ロミー侭蔓湧狩営農§凋冒、 ﹄畠忌鴬討国琶乱罫、国ミミ意思堕侭耐乏瞬間②§鼻の昌頁討包 L 弓胃①po涛口①H︾Fop旦○ロ恥弓ぽのも巴﹄弓①営め○gのご︶ 旨①①画. 勺計も咄弔半農忌ミミ、亀包可営へ重畳野で閏FQ①両くい赤①勺○匡切の旨︺ 団旨]5号の○四団巨匡匡宮の印胃ぐ]の汗.勺酔①局ず○口伝︺﹄①﹄陣 勺門弔再b言︲蒼昌︶,房凰︲言迂狩吻も園

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(23)

くく く用〆昌 大 正 参考文献 出目[耐︾幻○冠四目且目印与旦]目四笹○吋 ﹄④④司伊臼画島己國民め旨旧旨、昌里片目]︺○巨噸言目︺目昏①ごく①輿①胃.ロ 自国旦耳5国奇○ヨの○の]︲罠のの8の聟]の、一員の︾画ご﹂両日庁5P t鋤 J当 FopQo昌江○貝扁Q頂① 赤松明彦 ら患﹁古典インドにおけるコトバ論の展開﹂、一人文学 報﹂g、弓画9画目。 *ここで充分にその成果を生かすことはできなかったが、本 稿校正中にくも﹄、唖に対する次の訳書が出版された。 旨④@,四 ﹃古典インドの言語哲学1ブラフマンとこと 、更2sご具野暮器鳶印ミミ苫負鼻9ミミミ侭苓 尋雷具、忌星ミミロ国員号昏員、ミ享ミ″歸習烏蝉 ①昌一塁︻.シ,の宮百四日四日口唇の岸︲︾ロ巴巨韮戸目○口]堅 固四国g・吻匡凹閉ゞ]の、い 、言︾・耳碁S掛二画置一員も員暑ご画︾シ三国冒巳自国伽の胃皆目日の 尻盧口匡のロ①mシ[○侭①巳騨ロユ①mmg.減間目.少の﹂すぐ 夛己声堅日詞四口︾ご菌の、ウロニのロ“︻○日届の]○口いく臼匿、 司国日圃の訂旨go戸自国国.胃④司司 目冒①惠四︲園呑角ごくaごSi冒冨司旦三四m日]日固笥]吾昏①エロ︲ 吾○H﹀m○○日己の再冨暑︾①巳ず︺両.国]○巨邑里○口四貝﹂少. ︻宮口農﹃①冒目&旨蒔ロミRミミミミミミ ヨ画、園ご匿葛口.ずく︻ゆ目巴①m言ご閏、昏昌国の彦動ご口︶己の房胃 、l 戸昌○口]昌国四国四易匡山脇︺胃④、Ca詩包の9口○巳. 大正新修大城経。 ぱ﹄、東洋文庫棚、平凡社。 旨g淫﹃古典インドの言語哲学2文について﹄、東洋 文庫剛、平凡社。 畝部俊也 ら患﹁バルトリハリのの里国論﹂、﹁南都仏教﹄認、弓 胃’四m? 大地原豊︵訳︶ ら弓﹁ミリンダ王の問い﹂、世界の名著1﹁バラモン教 典・原始仏典﹂、中央公論社、弓血路向圏。 梶山雄一・上山春平 ら弓﹃仏教の思想3空の論理︿中観匡︵角川文庫ソ フィア版︶、角川書府、初版ら$。 渭烏秀樹 ら路﹁バルトリハリの言語哲学﹂、岩波誰座東洋思想第 7巻﹃インド思想﹂3、岩波書店、弓自g﹄ら。 立川武蔵 巳窃﹁月称註﹁川らかな言葉﹂二章和訳・解説日﹂、成 田山仏教文化研究所紀要第u号特別号﹁仏教思想史 論集﹂、成川山新勝寺、弓﹄韻も昂。 5$﹁Ⅱ称註﹃明らかな言葉﹄二章和訳・附説口﹂、藤田 宏達博士還暦記念諭集﹃インド哲学と仏教﹂、平楽 寺書店、弓娼絡吟訊。 巳程﹁中論の思想﹄法蔵館。 中村元 ら患﹁インドとギリシアの思想交流﹂中村元選集蛆、 春秋社。 45

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菱出邦男 骨④④四 服部正明・上山春平 ら亀﹃仏教の思想4認識と超越︿唯識﹀﹂︵角川文庫 ソフィア版︶、角川書店、初版ござ。 *本稿は一九九七年一二月一八日大谷大学における特別研修 員研究発表会の際の口頭発表用原稿に加筆したものである。 ﹃インド自然哲学の研究﹄、山喜房佛耆林。 46

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