は じ め に iii
は じ め に
人類学も進化論も,西洋で起こった学問である.しかし,人間以外の霊長類 を対象にして人類の進化を考える霊長類学は,20世紀の中盤に日本でその中 核が作られたといってよい.その理由の一つは,西洋には人間以外の霊長類が 生息しておらず,日本には列島各地に野生のニホンザルがいたことにある.古 くからニホンザルは,歌に詠まれ,民話の中に顔を出し,日本人の心の中に息 づいてきた.動物と人間の間に越えがたい境界を設ける西洋の考え方とは異な り,日本ではサルと人間を連続したものと見なす思想に大きな抵抗がなかった ことも幸いしたと言ってよい.
日本の霊長類学は動物社会学として出発した.これは,すべての生物に社会 を認め,その一つとして霊長類や人間の社会を位置づけようとした今西錦司の 発想によるところが大きい.第二次世界大戦直後にそれをフィールドワークに よって明らかにしようとした今西は,宮崎県の都井岬で半野生馬の調査を始め,
それに参加した川村俊蔵,伊谷純一郎とともに野生ニホンザルの群れに出会っ たのが,霊長類学の出発点となった.日本の各地でニホンザルの行動が観察さ れ,その社会の実態が次々に明らかにされた.しかし,霊長類学は初めから,
人間以外の動物と人間の社会の間にある進化のミッシングリンクを見つけ出そう という野心をもっていた.そのため,初期の霊長類学者たちは自分たちの発見 を人類学の中で議論しようとした.1956年の日本人類学・日本民族学連合大 会で,川村が「ニホンザルのカルチュア」,伊谷が「ニホンザルのコミュニケーショ ン」を発表したときに起こった混乱は有名である.それまで人類学者は,人間 以外の動物に文化があり,高度な音声伝達機構があるとは考えていなかったか らである.人間だけがもつと見なされていた文化や社会の規則がサルにもある という発見や議論は,日本人類学会や日本モンキーセンターのプリマーテス研 究会,京都大学霊長類研究所のホミニゼーション研究会で毎年繰り返され,次 第に認められるようになった.
iv は じ め に
欧米では
1960
年代から霊長類研究が盛んに行われるようになり,1964年に は早くも国際霊長類学会が設立されている.日本ではずっと後になって1985
年 に霊長類学会が設立された.これは,日本の霊長類学者が霊長類学という狭 い範囲で議論するのを好まなかったためである.サルにも文化や社会があると いう初期の主張が世界的に認められ,やっと国内に霊長類学の裾野を広げよう という機運が生まれたのである.日本から10
年以上遅れて始まった欧米の霊長類学もサルや類人猿を人類へつながる存在として重視していたが,社会学で はなく,行動学や生態学の視点からアジア,アフリカ,南米でフィールドワーク を始めた.そこには欧米のナチュラルヒストリーの伝統が色濃く反映されている.
本書は,この日本と欧米の視点の違いを考慮しながら,これまで霊長類学が 扱ってきた人類進化のテーマと発見をわかりやすく紹介しようという意図で書か れた.多くの内容は,私が京都大学の講義「人類学」で行った話に基づいている.
まず
1
章では霊長類学の発想とは何かを紹介し,日本と欧米の考え方の違いを 解説する.人類学における霊長類学の利点は,古い人類の化石からはわから ない祖先の行動や生態を現生のサルや類人猿の観察によって検討できることに ある.2章では,人類の誕生の舞台になった熱帯雨林と,そこに適応してきた 霊長類の進化史を概観する.3章では,他の哺乳類と異なる生活史を進化させ たサル,類人猿,人類のそれぞれの特徴,4章では性の進化についてこれまで の発見と議論を紹介する.5章では,近年霊長類の社会の進化に大きな影響を 与えていると考えられているオスの子殺しと暴力,6
章では人類社会への架け橋 と見なされる和解行動,分配行動,道具行動や種々のコミュニケーション能力 について言及する.そして最後の7
章では,霊長類学の知見から描いたヒトの 進化について総括し,まだ解明されていない人類進化の謎について述べる.これまでにも霊長類学の本は多数出版されているが,野生霊長類のフィール ドワークの成果に基づいて人類の進化史の解明を試みたのは本書が初めてであ る.霊長類学によって人類の過去を遡り,現在の人間を見つめなおす視線を養 い,その探求の楽しさを味わっていただければ幸いである.
2008
年7
月山 極 寿 一