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源成信について : 『枕草子』と『栄花物語』を中 心に

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源成信について : 『枕草子』と『栄花物語』を中 心に

著者名(日) 高橋 由記

雑誌名 大妻国文

巻 39

ページ 23‑39

発行年 2008‑03

URL http://id.nii.ac.jp/1114/00001324/

Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja

(2)

源成信について

l l

i ﹃枕草子﹄と﹃栄花物語﹄を中心に||

主主I

はじめに

源成信︵天元二年︵九七九︶1没年未詳︶は︑村上天皇皇子の致平親王︵母は按察更衣藤原正妃︶の男で︑道長猶子と

なった人物である︒﹃枕草子﹄では四章段︵九・二五九・三六0・二七七段︶に名が見える︒清少納言とは家格がまった

く異なる貴顕だが︑致平親王は清少納言の父清原一冗輔には比較的近しい存在だった︒後藤祥子氏は﹃元輔集﹄にみえる人

物について︑﹁元輔は一族の女が左大臣在衡の室となった関係で︑その女按察更衣所生の皇子女と並み並みならぬ縁を持

つ﹂とされたように︑﹃元輔集﹄には﹁兵部卿親王﹂・﹁兵部卿の宮﹂などとして四度記された致平親王だけではなく︑藤

原正妃や在衡そして致平親王の同母妹保子内親王までもが記されている︒その致平親王の子である成信に対して︑清少納

111一方的にかも知れないが||身近に感じていて︑それが﹃枕草子﹄における複数段での登場につながったのかも

しれない︒以下︑﹃枕草子﹄と﹃栄花物語﹄を中心に︑当時︑とくに女房社会において注目されていたと思われる成信に

(3)

まず︑成信の出自などを確認したい︒

成信の生涯については三上啓子氏作成の年譜があり︑詳しくはそちらに譲る︒﹃本朝皇胤紹運録﹄には﹁従四位上︒左

中将︒号照中将︒於三井慶一昨阿闇梨室与重家少将同時出家︒母雅信公女﹂と記されるが︑﹃権記﹄には右中将とあり︑右

中将が正しいと思われる︒母は左大臣源雅信女だが︑﹃栄花物語﹄によると︑源倫子とは異腹という︒父致平親王の出家

は成信が三一歳の時だったから︑その後の成信は母方の祖父源雅信の庇護下にあったと思われる︒後掲するように﹃権記﹄

には﹁故人道左大臣愛孫﹂とあり︑幼くして実父の出家にあった成信を︑祖父雅信は可愛がったらしい︒雅信の愛情は︑

成信が道長・倫子夫妻の猶子となることと関わるであろう︒また︑﹁照中将﹂と号された容姿は︑﹃系図纂要﹄には﹁無双

美男﹂と記され︑﹃枕草子﹄でも﹁容貌いとをかしげ︵二七七段・下145︶﹂とあることから︑実際︑かなり優れていた

と思われる︒出自が高く︑容貌もすぐれた君達である成信は︑女房社会において好感を持って受け入れられていたのでは

O段・上

4

8︶﹂と言い切る清少納言などは︑容貌の優れた成信に対

して︑悪い感情は持っていなかったであろう︒

00

0︶四月七日条には﹁成信人道親王︵致平︶男︑巳是御傍親也︑又故人道左大臣︵源雅信︶

愛孫︑今左大臣猶子︑与皇后又為近親﹂とあるように︑道長猶子と記されるが︑猶子となった時期は定かではない︒道長

と倫子の結婚は永延元年︵九八七︶十二月十六日だから︑それ以降であることは確かである︒また︑後掲する﹃栄花物語﹄

巻四によると︑道長が大納言のときには猶子だったことが記されるが︑道長が権大納言だったのは︑正暦二年︵九九一︶

から長徳元年︵九九五︶であり︑倉田実氏は﹁成信が源氏になり︑養子になったのは確かだが︑その時期は不明﹂とされ

(4)

ながら﹁可能性としては︑元服時に︑臣籍降下して源氏になり︑養子になったと推定されよう﹂とし︑﹁母方祖父源雅信

は︑成信一五歳の正暦四年︵九九三︶に死去しており︑この年あたりが元服﹂と推定される︒一般的に︑親王男は父が親

王であるが故に︑廟堂における父の後見を望むべくもないが︑成信の場合︑祖父左大臣雅信に愛され︑なおかつ道長の猶

子になっており︑政治的にも恵まれていたといえよう︒

﹃権記﹄︵二重傍線部︶によると成信が出家を思ったのは︑昨年病になった道長の看病に明け暮れている頃︑月日が経つ

につれて近侍者の道長への扱いが疎略になり︑人の心の改変をみたことに端を発するという︒ただし︑﹃今鏡﹄や説話に

記される成信の出家の原因は様々であることは述べておく︒

出家前の成信

道長の猶子としての成信のありようについては︑倉田氏の御論にあるので重複は避け︑﹃栄花物語﹄の成信を確認して

源成信について

(5)

一 一 ム

おきたい︒﹃栄花物語﹄において︑成信は五箇所に記されるに過ぎず︑またその描写も簡素である︒出家前︵二箇所︶と

出家後︵三箇所︶とに分けて見ていきたい︒出家前の記事は次の通りである︒

①兵部卿の宮︵H致平親王︶︑この左の大いどの︵H

h外腹の女に住み奉り給て︑男宮達二人おはしましけるを︑

H

殿

日道長︶の御にし奉らせ給て︑少将と聞えしおはす︒今一所︵H永円︶は︑小

うより法師になし奉りて︑宮のおはします同じ所にぞおはしましける︒︵巻四﹁みはてぬゆめ﹂

142

②兼資朝臣の家に中納言︵日藤原隆家︶上り給へれど︑大殿の源中将︿成信﹀おはすとて︑此殿のおはしたるを︑父は更

と聞えしが︑入道して石蔵におはしけるが︑御男子二人おはすなる︑ にによからぬことに思て︑いみじう忍てぞおはしける︒殿の源中将と聞ゆるは︑村上御門の三宮に︑兵部卿宮︿致平﹀

一所は法師にて三井寺におはす︑今一所は殿の

1

にし奉らせ給なりけり︒それ此兼資が婿にておはしけり︒さればこの中納言には︑今一人の女に親

にも知られで通給たりけるが︑かhる事さえ出来て︑いとYうたてげに親共さえいひければ︑今に忍給なりけり︒此源

中将︿成信﹀の母は︑大殿の上の御異腹からの御子也ければ︑御甥にて御子にし奉らせ給なりけり︒︵巻五﹁浦々の別﹂・

191

いずれも道長・倫子夫妻との猶子関係に言及したものである︒①では藤原道長が権大納言のときには猶子だったことが記

される︒なお﹃栄花物語﹄は致平親王男は二人と記すが︑﹃本朝皇胤紹運録﹄には成信・源致信・永円の三人が記される︒

ただし︑致信の官歴が﹁従四上︒右中将﹂とあるのは成信と同じで︑成信と致信には混乱があるのかもしれない︒また

﹃系図纂要﹄は致平親王男として源成信・源致信の二人を挙げ︑成信の法名が永円だとする︒とはいえ︑﹃栄花物語﹄にあ

る﹁小うより法師になし奉り﹂という表現は︑長保三年︵一OO一︶に二十三歳で出家した成信を指すとは思えない︒

(6)

﹃権記﹄には長徳三年︵九九七︶あたりから成信の動静がかなり詳しく記され︑行成と親交のあったことがうかがえるが︑

出家後の成信も﹁入道中将﹂として﹃権記﹄に何度も記されている︒中でも長保四年︵一OO二︶八月十四日条には﹁参

宮御方︑到権僧正︵勝算︶一房相逢之︑制蛍︶於円建師雨時総威信w封否﹂とあることによれば︑行成は出家した成信の

安否を永円に尋ねており︑成信と永円は明らかに別人となる︒また︑出家後の成信を﹃栄花物語﹄は﹁入道中将﹂と記し

ており︑﹁一二井僧都﹂と記される永円と書き分けていることも付け加えておく︒

②は長徳の政変で出雲権守に左達された藤原隆家が百還されて︑室の源兼資女のところに戻ったとする記事である︒別

の兼資女には成信が通っていたために︑兼資は︑隆家が邸に通うのを嫌ったという︒隆家帰京という話題から外れてはい

るが︑兼資女との関わりの中で︑成信に触れ︑倫子の異母姉妹が成信の母だったために︑倫子が成信を子としたという経

なお︑兼資女は﹃赤染衛門集﹄にも名が見える︒

殿の上︵H源倫子︶の春日にまいらせたまひしみちにて︑伊与守兼資がむすめの花ををりて

山手もたゆく折てこきつる梅花物みしれらばともにみむとて

山山がくれにほへる花の色よりもをりける人のこ﹀ろをぞみる

﹃赤染衛門集全釈﹄によると︑倫子の春日詣は長保元年︵九九九︶二月二十七日のことで︑道長に同道したものとされる︒

道長・倫子と共に春日詣をした源兼資女は︑源成信室以外にはない︒倫子にしてみれば︑猶子である成信の室︵源兼資女︶

(7)

の成信

﹃枕草子﹄に成信が登場するのは四章段で︑いずれも長徳四年︵九九八︶から長保二年︵一

00

0

つまり︑道長猶子となって以降のものであるが︑

O段に﹁大殿︵H

の新中将︵下

118

︶﹂とあるように︑成

信が藤原道長の猶子であることは︑当然︑清少納言も知っていた︒

長徳四年︵九九八︶の中関白家にはすでに昔日の面影はなく︑長保一冗年︵九九九︶十一月一日に道長長女彰子︵十二歳︶

が入内し︑定子が一条天皇第一皇子敦康親王を出産した十一月七日に彰子は女御となった︒また翌長保二年︵一

00

0

一一月二十五日に彰子は中宮となり︑定子は皇后となっている︒林和比古氏は﹁成信も倫子方の姻戚として道長の秘書的存

在として在俗中活躍﹂とするが︑成信は﹁その君︵H源成信︶︑常に居て︑もの言ひ︵二七七段・下

145

に︑定子のところに常に顔を見せ︑清少納言とも親しかったらしい︒関口力氏は﹁成信が定子サロンの常連であったこと

は︑﹃枕草子﹄の随所に親愛をこめて彼の逸話が語られていることからも推察できよう﹂︑﹁宮廷内においては︑養父道長

一層の居心地の悪さを強いられたであろう成信にとって︑唯一のオアシスとなったのが定子のサロンであっ

たと考えられる﹂とされたように︑成信と定子後宮との関係は︑血縁的な近さと後宮に対する近さとを同一視出来ない好

さて︑清少納言との直接会話が記されるのは︑九段﹁今内裏の東をば︑北の陣といふしのみだが︑これは一条院︵今内

裏︶が舞台である︒ならの木を定澄の枝扇にしたいという成信の発言を覚えていた清少納言は︑定澄が山階寺の別当になっ

その枝扇をば持たせたまはぬ

︵ 上 29

﹀﹂と語った︒成信は﹁もの忘れせぬ﹂と笑ったという︒

いとをかし︵一五六段・下

53

(8)

りけるは︑なほただ人にてだに︑をかしかべしつ一六二段・下122︶﹂と︑物忘れしない人を高く評価する清少納言に してみれば︑自身が成信に物忘れしないと評価されたことは︑記すに値することだったと恩われる︒定澄が山階寺︵

H輿

福寺﹀の別当になったのは長保二年︵一

00

0︶三月十七日で︑当該章段︵後半︶の史実年時は明らかだが︑定子が一条

院に在したこの折こそが︑彰子立后に際した退出の隙をぬった定子の入内であった︒︽中宮︾彰子を擁する道長方と︑︽皇 后︾定子方の関係が良好であるはずもなく︑にもかかわらず︑道長猶子の源成信は定子女房の清少納言と親しく会話して

﹃枕草子﹄に描かれた清少納言との直接交渉は九段だけだが︑他章段からも清少納言との親しい交友はうかがえる︒二 五九段﹁成信の中将こそ﹂は︑人の声を聞き分ける能力に優れていたという成信に対して︑﹁かしこう聞き分きたまひし

こそ︵下118

︶﹂と高く認めている︒短い章段ながら︑ほぼ成信のことだけを記しており︑清少納言の成信に対する関

心の高さをうかがわせる︒また二六O

段﹁大蔵卿︵H正光︶ばかり耳とき人はなし﹂では︑﹁職の御曹司の西面に住みし

ころ︑大殿の新中将︵H成信︶︑宿直にて︑ものなど言ひしに︵下118

︶﹂と︑職の御曹司に成信が宿直したことが書か れている︒﹁そばにある人︵

H清少納言の同僚女房︶の︑﹁この中将︵

U源成信︶に︑扇の絵のこと言へ﹂と︑ささめけば﹂

とあり︑清少納言の同僚女房は扇の絵を自分で直接成信に言うのではなく︑清少納言に仲介を頼んでいる︒清少納言は成 信とかなり親しかったのだろう︒

さらに︑長保二年︵一

00

0︶二月から三月︑あるいは同八月とする説もあるこ七七段﹁成信の中将は﹂にも成信は登 場する︒﹁伊予の守兼資が女忘れて︑親の伊予へ率て下りしほど︑いかにあはれなりけむとこそ︑おぼえしか︒暁に行く

とて︑今宵おはして︑有明の月に帰りたまひけむ直衣姿などよ︵下

145

︶﹂と記された兼資女との別れの場面は︑もち

ろん清少納言自身が見聞きしたわけではない︒﹁照中将﹂・﹁無双美男﹂と称される貴公子成信とかつての恋人との暁の別 れは︑当時の女性たちの話題となっていたのだろう︒月夜における直衣姿の貴公子の美しさは︑二九七段﹁大納言殿まゐ

(9)

りたまひて﹂での伊周の姿を警察とさせ︑清少納言の好んだ取り合わせだったと思われる︒

なお︑二七七段で清少納言は﹁心ばへもをかしうおはす﹂と評したが︑﹃権記﹄には﹁才学雄乏︑情操可取﹂と記され

ている︒男性貴族の日記にみる人物評は︑たとえば﹃小右記﹄の道綱評など︑筆録者個人の感情に左右されるところもあ

るが︑行成は成信と親しかったから︑行成の成信評は貴族社会における正しい成信評と考えて良いだろう︒女房社会の評

価基準と男性貴族社会の評価基準とのズレを感じさせる︒女房社会の評価は︑出自や容貌が大きな要因となったのだろう︒

ほぼ讃美の対象といえる成信だが︑一箇所だけ非難されているところがある︒それは二七七段のご条の院﹂以降の文

且 阜 で ︑

一条院が今内裏であった頃︑成信が兵部という女房と一晩中語り明かしたので︑清少納言は﹁この君︑いとゆゆし

かりけり︒さらに︑寄りおはせむに︑もの言はじ﹂と酷評している︒成信の身分かりすれば︑兵部は取るに足らぬ女であ

り︑そのような兵部と親しく会話したことが︑清少納言にとっては口惜しく︑批判の対象となったと考えられる︒清少納

言の評価基準は︑男性貴族の出自や美質といったものが大きな割合を占めていたと思われるが︑それだけではなく︑どの

ような女性を相手にするのかというものも含まれていたことになる︒あれほどすばらしい成信が兵部を相手にしたことが︑

清少納言には許し難いものだったのだろう︒実際︑下衆女が君達の話題をすることは︑清少納言にとっては許し難いこと

だったようで︑二九五段には︑次のようにある︒

よろしき男を︑下衆女などのほめて︑﹁いみじうなつかしうおはします﹂など言へば︑やがて思ひおとされぬべし︒

そしらるるは︑なかなかよし︒下衆にほめらるるは︑女だにいとわろし︒また︑ほむるままに言ひそこなひつるもの

160

﹁よろしき男を︑下衆女などのほめて︑﹁いみじうなつかしうおはします﹂など言へば︑やがて思ひおとされぬべし︵身

分の良い君達を︑下衆女が誉めるのを聞くと︑その君達まで株が下がった気がするとと清少納言は断言する︒そもそも︑

女の口の端にのぼるということは︑女がその男を対等に見ているからであって︑そうしたことを忌むことは当時の認識と

(10)

いってもおそらく過言ではない︒同様のことは︑源宣方にもいえる︒清少納言が宣方をもっとも指弾したのが︑弘徽殿女

御の女房左京︵うち臥しの娘︶と陀懇だという噂が流れたからであった︵一五七段︶︒二七七段の成信と︑

宣方は︑まさに︑下衆女を相手にしたことによって︑清少納言に酷評された君達である︒

ところで︑清少納言と成信の親しい関係は︑流布本﹃清少納言集﹄によっても確かめられる︒ 一五七段の源

石橋ある所にて︑殿上人ともの物いひける前を入道この中将成信のもとに君のわたりたまひけるを︑入道この中

将成信は︑君達のねずなきて︑このいしましに歌よみかけたまへと責められければ

28 

し、にと ま

か しひ い

け ば

で した ば

〉定か ま主り つ ね

け ゆり て

る か

に ん

ひさしかりければ︑簾の中を君達おそしノ\といひければ︑あなかまたまへと︑

みつねもおぼえずといひつ\猶ひさしかりければ︑Uい叫梢州内まちやすらひほどに︑側嗣叫召しありとて︑主殿

司の来たれば

mb

草の枕につゅは置くとも

といひすて﹀いりにけるを︑みな人も中将もあやしと思ひければ︑こや人に伝へ語りけんはとなんまことにや

﹃清少納言集﹄は歌数が少ないうえに︑定子後宮での出来事に関連すると思われる歌はあまり残っていない︒しかし当歌

は調書︵二重傍線部︶に﹁おまへ︵御前︶﹂とあり︑明らかに出仕中の一コマである︒清少納言個人の贈答というよりは︑

定子後宮に関わる贈答といえようが︑源成信が定子後宮や清少納言と近しかったことをうかがわせる︒﹃枕草子﹄に記さ

れた清少納言との交友は︑実際のものと考えて良いだろう︒

(11)

ところで︑成信は定子の死からわずか一月余り後の︑長保三年︵一OO

見え︑成信に劣らぬ美男であったらしい︒さらに成信は左大臣道長猶子︵実父母は致平親王と左大臣源雅信女︶︑重家は

右大臣顕光嫡子︵母は村上天皇皇女盛子内親王︶と出自も申し分なく︑当代きつての美男二人がそろって出家してしまっ

たことは︑貴族社会・女房社会において大きな衝撃であったと思われる︒

乙三寸﹃続古事談﹄第二ノ五九︑﹃発心集﹄にも記される︒成信の出家の原因は﹃権記﹄によれば︑昨年病になった道長

の看病に明け暮れている頃︑近侍者の道長への扱いがだんだんと疎略になり︑人の心の改変をみたことに端を発するとい

うが︑加藤静子氏は﹁道長の病いは︑すでに癒えて半年の時聞を経過している﹂ことから︑﹁この出家は︑前年十二月十

六日の皇后定子崩御が引き金になっていたと思う﹂と述べられた︒定子没後に出家を志したのは源成信や藤原重家だけで

はなく︑成信や重家の出家以前︑定子が没した直後には︑少将成房が出家を志しながら︑父義懐︵H飯室入道︶に止めら

れている︒中将︵成信︶・少将︵重家・成房︶といった将来有望な若い殿上人がこの時期に相次いで出家を思い立ったこ

とについて︑関口力氏が﹁三人の出家志向は︑定子崩御に直結するもの﹂とされたように︑定子の死は若い殿上人に強い

衝撃をあたえたことは想像に難くない︒源経房や源成信など︑道長に近いと思われる人々でさえも定子の女房とは親しかっ

たから︑﹃枕草子﹄に記されていなくとも︑重家や成房が定子後宮に出入りしていた可能性は充分に考えられる︒若い殿

上人たちは︑定子の死に大きな衝撃を受け︑その喪失感から︑中には出家を思い立つ者もいたのだろう︒行成にも同様の

気持ちがあったようで︑定子の死から四日後の長保二年︵一

00

0︶十二月十九日条の﹃権記﹄には︑自詠を書き留めて

いる︒現存する﹃権記﹄で自詠が記されているのは︑この一度だけで︑﹁世中乎知何為猿と思管起臥程然明骨漬仮名︿世

の中をいかにせましと思ひつつ起き臥すほどに明け暮らすかなどというものだった︒先ほど名の出た少将藤原成房に贈っ

(12)

たものである︒同十六日条には行成の妻子の病悩も記されているから︑行成が無常を感じたのは︑定子の死のみが原因で

はないかもしれないが︑それでも︑行成・成房の二人がそろって﹁世間無常︵﹁権記﹄同十九日条とを感じた背景には︑

定子の死があったとみてよいだろう︒三田村雅子氏が﹁藤原行成の日記に中宮定子の崩御の記事以降厭世的な記述が激増

してくることも︑定子の悲運の死の︑貴族社会における衝撃の大きさを物語っている﹂と述べられたように︑頭の弁とし

て定子後宮に頻繁に出入りしていた行成も︑出家こそしかなったものの︑定子の死に強い衝撃を受けた一人だった︒三一田

村雅子氏は二七七段について﹁執筆の契機は︑高貴な出自を持つ美男子が青春の盛りの姿から一転して出家に至る︑

直前の美を描こうとする﹂とされるが︑成信は二七七段で酷評されながらも︑全体としては好意的に描かれており︑清少

納言にとって主人である定子が没し︑aついて交友のあった成信が出家するという一連の出来事に伴う一種の喪失感が︑

成信登場章段の執筆のきっかけになった可能性は充分ある︒

出家後の成信

説話類に多く記されたように︑若い成信・重家の突然の出家は︑その出自の高さや美貌も相まって︑貴族社会・女房社

会にとっては話題になったものと思われる︒しかし︑﹃栄花物語﹄は成信の出家そのものは記さない︒それどころか︑巻

四と五で道長・倫子との猶子関係がわずかに記された後︑成信は﹃栄花物語﹄から消え︑次に記されるのは巻二十七であ

を確認したい︒③は出家した公任に成信が手紙を送ったときのものだが︑公任の出家は万寿三一年︵一O

る︒当然︑成信出家後のことである︒以下︑﹃栄花物語﹄で出家後の成信が記される③i⑤︵①・②は︑出家前の記事︶

︵ 加

から︑成信出家の長保三年︵一OOつまり︑﹃栄花物語﹄では︑隆家が召還された巻五の

長徳三年︵九九七︶からおよそ三十年間︑成信に関する記事がないのである︒

一 一

(13)

③か﹀る程に︑二一井寺より入道の中将の君︵H

まだなれぬ深山隠れに住みそむる谷の嵐はいかV吹くらん

とあれば長谷︵H

谷風に馴れずといかY思ふらん心ははやくすみにしものを︵巻二十七﹁ころものたま﹂・下

258

H

Vの折こそあらめ︑かh

殿

H源倫子︶せちに聞えさせ給へ

ば︑参り給て︑御枕上にて念仏絶えず勧め奉らせ給︒︵巻三十﹁つるのはやし﹂・下

326

⑤三位の入道︵中将︶︿成信﹀の念仏を切に勧めきこゆ︒﹁みぶつからもせしに眠りたりしかば︑いと心地よげなる御けしき

にて︑﹃下品といふともたむぬべし﹄といふ事を︑返々宣ふと見しかば︑功徳の相なめりと思ひて︑人にも聞えでやみ

にしを︑この御夢にき﹀合するになん︑いと頼しうなりぬべき﹂とぞ聞え給ける︒︵巻三十﹁つるのはやし﹂・下

333

③に記された成信の公任への贈歌は︑出家して日が浅い公任に対して︑﹁まだなれぬ深山隠れ﹂の生活を思いやったも

それに対する公任の答歌は﹁心ははやくすみ︵住み・澄み︶にし﹂と︑ずっと以前から出家者同然の心構えであっ

たことを述べたものである︒二人の親しい贈答からは公任と成信の交友が︑成信の出家以前からのものだったことが読み

取れる︒﹃公任集﹄には次のような贈答が残っている︒

寺に入道の中将︑紅葉見にまうで給ひて帰るさに︑松が崎のこうきう阿闇梨のもとにより給ふたりけるに

きこえたまふける

問見そめてはとくかへらめや紅のやしほの岡の紅葉葉の色

(14)

主の阿闇梨に譲り給ふければ

同紅葉葉にとめし心は松の葉の緑も共に変はる世もあらじ

またかれより

附落つる葉のつねならぬ世にいかでかは松の緑に心そむらん

阿闇梨

間君が世をながたにの松露の世に心をかくる梢なればぞ

これより

間松の雪消えかへりつ﹄君がため千年を経ても我をつかへん

阿闇梨

間法の玉いとV深くぞ思ほゆる水も心もすめるながたに

成信の中将出家してのつとめて︑左大弁行成の︑世のはかなきこと聞え給へりけるに

山恩ひ知る人も有りける世の中にいつをいっとて過ぐるなるらん︶

雪降るに入道成信の中将のもとにmふればまづ君がすみかを恩ふ哉雪は山辺のしるし成けり

いずれも︑成信が出家した後の公任との贈答だが︑特に二二六番歌は成信が出家した翌朝︑世の無常を行成が公任に訴え

た際の詠である︒行成にとって︑成信出家の無常を訴える相手として公任が相応しかったのだから︑成信・行成・公任の

三人は親交があったはずである︒﹃栄花物語﹄に記された成信と公任との贈答も︑かつて親交のあった公任が︑数十年を

ニ 五

(15)

一 」 ノ\

経て自分と同じく出家者になったことに対する︑成信の思いが込められたものなのだろう︒

また︑行成・成信との親交は︑﹃権記﹄によって確かめられる︒成信の出家前や出家に関してのもっとも詳しい資料は

﹃権記﹄であり︑出家後の成信に対する記述も寛弘四年︵一OO七︶までみられる︒なお︑成信の動静は﹃左経記﹄によっ

O三五︶六月二十五日まで確認できるが︑それ以降は不明である︒

1一五二番歌は︑公任と出家後の成信との親交を一不す︒﹁やしほの岡﹂は﹃公任集﹄

番歌詞書に﹁長谷に紅の岡といふは︑例の草木にもあらず︑人の名も知らぬ木どもの林にであるが︑いみじうめでたう紅

葉するなりけり︑やしほの岡と付けたまへりける﹂とある紅の岡のことで︑紅の岡の紅葉を見ながら︑急いで帰ってしまっ

た成信を非難したのが一四七番歌といえよう︒贈答は成信の出家後しか残っていないが︑出家前からの交友があったから

④・⑤は道長の死に関わるものである︒そもそも︑﹃栄花物語﹄巻一二十は一巻を通して道長の死を描いているが︑④は

重篤の道長を成信が見舞ったというものである︒﹁たYの折こそあらめ﹂という倫子のことばから︑成信は通常時は道長・

倫子の側に来ることを遠慮していたらしい︒おそらく実際に︑出家後は︑道長夫妻とは距離を置いていたのだろう︒⑤は

中宮威子が︑道長の往生が下品下生という夢を見て︑上品上生を期待していただけに︑思いがけないことだと嘆いていた

が︑成信もかつて道長が下品往生する夢を見たことを語ったものである︒道長の近親で出家した者といえば︑道長男顕信

︵ 幻

その死は万寿四年︵一O二七︶五月十四日で︑同年十二月四日に没した道長よりも早かった︒また︑顕信は高

松殿明子所生で倫子とは関係がない︒倫子の甥であり︑猶子でもあり︑道長の身内の中での唯一の出家者だった成信が道

長臨終に関して︑突如︑﹃栄花物語﹄に記されるのも︑そうした事情によるものと思われる︒

(16)

おわりに

るように︑容貌すぐれた貴公子であったらしい︒母が源倫子の異母姉妹という関係から︑道長の猶子になったというが︑

OO

成信出家は説話の格好の題材であり︑なおかつ道長猶子でもあったが︑﹃栄花物語﹄における成信の扱いは軽い︒出家

前に二度︑道長・倫子夫妻の猶子であることが紹介されて以来︑﹃栄花物語﹄から成信は消え︑およそ三十年を経て︑突

如︑公任出家と道長臨終に際して姿を現す︒出自が高く︑容貌すぐれた源成信と藤原重家の出家は︑貴族社会・女房社会

において︑かなりの話題になったと思われるが︑﹃栄花物語﹄や﹃大鏡﹄にそれが記されることはない︒成信の姿を記し

成信が﹃枕草子﹄に登場するのは︑史実年時が長徳四年︵九九八︶から長保二年︵一

00

0の章段だから︑中関白家

没落後︑定子最晩年の章段ばかりである︒にもかかわらず︑成信は定子後宮に常侍し︑宿直もしていたという︒成信は中

関自家とは血縁関係はないが︑定子後宮は近しい存在だったということだろう︒元輔と関わりがある致平親王の男で︑な

おかつ容貌もすぐれていた成信に対する清少納言の関心の高さが︑﹃枕草子﹄における記述に繋がったと思われる︒

1︶ 

00

0

OO

(17)

2︶ 

﹃枕草子﹄の章段数・本文は︑石田穣二氏訳注角川ソフィア文庫︵角川書店

数字はページ数︒人物は私に注をつけた︒

後藤祥子氏﹃元輔集注釈﹄︵貴重本刊行会二

00

0

o

三上啓子氏﹁源成信・藤原成一房年譜公任集の基礎的考察︵二︶﹂︵﹃国文鶴見﹄二五﹃群書類従﹄五輯所収︒

﹃権記﹄の本文は史料纂集︵続群書類従完成会一九七八・一二1一九九六・五︶による︒波線・二重傍線は筆者︑以下同じ︒

O二九︶九月二十日条﹁永延元年十二月十六日金︹火︺平甲辰大歳対月殺︑︿云々納財吉︑﹀左京大夫

六日に道長と倫子が結婚したことが記される︒

倉田実氏﹁藤原道長の養子源成信について﹃権記﹄から﹂︵﹃むらさき﹄四二二OO五・二一︶︒また︑道長と成信につい

ては﹁源経房と藤原道長|﹃栄花物語﹄の記述をめぐって|﹂︵﹃栄花物語の新研究﹄新典社二OO

﹃栄花物語﹄の本文は︑松村博司・山中裕氏校注目本古典文学大系﹃栄花物語﹄上下岩波書店一九六四・一一︑一九六

Oによる︒︿﹀内は︑勘物︒人物は私に注をつけた︒

私家集の本文は︑私家集大成中古IE︵明治書院一九八二・一一︑一二︶による︒本文が複数ある場合は︑原則としてI﹂にあたる本文を採用した︒私に漢字をあて︑濁点・句読点を付した︒以下︑同じ︒関根慶子・阿部俊子・林マリヤ・北村杏子・田中恭子氏﹃赤染衛門集全釈﹄︵風間書房一九八六・九︶︒

関口力氏﹁藤原成房・源成信﹂︵﹃摂関時代文化史研究﹄思文閣二OO七・三所収︑初出﹃古代文化﹄三五ノ六

00

0

藤本一恵氏﹁枕草子における日記的章段の考察﹂︵﹃女子大国文﹄七八一九七五・一二︶︒加藤静子氏﹁枕草子の背景中関自家と斉信・成信﹂︵﹃東京成徳短期大学紀要﹄一四一九八一・一二︶︒

00

0︶十二月十九日条︑二十日条︑長保三年︵一OO

0・四︶による︒算用

3︶ 

4︶ 

5︶ 

6︶ 

7︶ 

0

8︶ 

9︶ 

︵ 叩

︵ 日

︵ ロ

︵ 日

HH︶ 

︵ 日

︵日山︶

(18)

︵ 同

三田村雅子氏﹁︿意味﹀の解体l﹁成信の中将は﹂段の位置﹂︵﹃枕草子

三田村雅子氏﹁枕草子の沈黙|﹁あはれ﹂と﹁をかし﹂|﹂︵﹃枕草子表現の論理﹄有精堂と批評﹄四ノ三一九七四・一一︶︒

寿

O

寿

O 表現の論理﹄有精堂

所収︑初出

︵ 日

所収︑初出﹃文芸

参照

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