政 策 と 理 論(2)
−商業政策,『経済政策原理』に関わる若干の問題提起−
川田俊昭
政 策 と 理 論 (2) 211
マックス・ウェーノてー
D i e" O b j e k t i v i t a t " s o z i a l w i s s e n s c h a f t 1 i c h e r und s o z i a l p o 1 i t i s c h e n Erkenntnis
(以下『客観性』と略す)における「客観性O b j e k t i v i t a t J (
或は「没価値性W e r t f r e i h e i t j
,Der Sinn d e r " V v e r t f r e i h e i t "
d e r s o z i o l o g i s c h e n und okonomischen W i s s e n s c h a f t e n )
ーーとは,必ず しも, (社会)科学者が価値(乃至価値判断〉の問題と無縁であるとか,或は,それを問題にしてはならない,ということを志味しない。
先づ,何よりも,科学者が科学的理性,即ち理論理性・論理をもってする 価値(価値判断)の扱い(所謂「論理的批判
J )
は,これは,文字通り「価値 判断の科学的取扱い」として, (勿論,一定の制限においてではあるが,そ の限りにおいて)ウェーパーにあっては,可とされる。ウェーパーの言うO
「……価値判断の科学的取扱い
d i e w i s s e n s c h a f t 1 i c h e Behandlung d e r
Werturte i 1 e
は更に進んで,意欲された目的並びにその根底にある理念を単 に理解せしめ,追体験せしめるだけでなく,何よりも先づ批判的に『評価す る』乙とをも教えるものでありたい。もとより斯かる批判は弁証的な性格を しか持ち得ない。つまりそれのなし得ると乙ろは,歴史的に与えられた価値 判断や理念の中にある材料を形式論理的に評価するととf o r m a l ‑ l o g i s c h e
Beu r t e i 1 u ng
,即ち芯欲されたものの内的無矛盾性の要請に照らして理想を 吟味することに止まるのである口価値判断の科学的取扱いは,乙の目的を立 てることにより芯欲者を援けて,彼の芯欲の内容の根底に存する究極の公 理,即ち彼が無芯識の祖に出発点としもしくは一一矛盾に陥らぬためには 一一出発点とせざるを得なかった究極の価値規準を自省せしめることが出来 る。ところで具体的な価値判断に現れる斯かる究極の規準を芯識せしめるこ とは,確かに科学が思弁の領域に踏み込むことなしになし得る最後のもので ある。……経験科学は何人にも何を為すべきかwase r s o
l1を教える乙と は出来ず,ただ彼が何を為し得るかwase r kann
及び一一事情によって は一一何を芯欲しているかwase r w
i11を教えることが出来るに過ぎなし 、 。 」
2 1 2
次に,科学者が政策を問題にする時,まさに,政策は政策なるが故にこ そ,価値(価値判断)の考慮が不可欠なる乙とは,むしろ, 自明でさえあ るO
政策とは,一般的に言って,
r
所与の目的に向けられた行動を支配する原 理J
(ボウルディング『経済政策の原理~)を芯味するが,斯かる意味では,目的を有するあらゆる人間行為はうちに政策乃至政策決定を含蓄しているこ とになるD
人間行為に目的(一一手段)が不可欠なこと,決定的・究極的条件(要素) たる乙と,ウェーパーは勿論それを理解していた。
ウェーパーの言う。
「怠味をもった人間の行為の究極的要素について行われる思惟的省察は,
何れも先づ『目的』と『手段』との範暗に結び、ついている。我々が具体的に 何かを意欲するのは,
w
そのもの自体の価値のためJ
か,もしくは究極にお いて意欲されたものに役立つ手段としてである。」然して, 乙の場合,我々は更に目的に,或は斯かる決定そのものに,一 歩,二歩と進んで,時に(対象そのものに即して一一,方法としてはとも かく)科学の領域をも超える(科学的)アプローチをなすことが可能である 一一ーというより,むしろ,それが我々の(科学的)義務となる
o
ウェーパーの言う。
r
・h ・..意欲する人聞が斯様な決定をなすことに対して更に我々が提供し得 るものは,意欲されたもの自体の意義の知識であるD 我々は,具体的目的の 根底にあるところの,又はあり得るところの『理念』を先づ開示し且っこ れを論理的に聯関せしめつつ展開することl o g i s c hzusammenhangende
Entwicklung
によって,c
科学的理性(論理的批判)をもって,科学的理性 一一ウェーパーの所謂「経験的真理としての妥当を要求しながら経験的現実 を思惟的に整序する我々の能力と欲求J
,筆者〉彼が意欲し選択する諸目的 をばその聯関と主主義とに従って知らしめることが出来るのであるo
言うまで もなく人間の文化生活に関するあらゆる科学の最も重要な任務の一つは,斯政 策 と 理 論 (2)
2 1 3
かる『理念』ーーとの理念のために時には現実に時には推定上闘われて来た し又現に関われつつあるのだが一一ーを精神的に理解せしめることにあるから である。このことは『経験的実在の思惟的整序
denkende Ordnu ng d e r empirischen
Wirklichkeit~ を追求する科学の限界を超えるものでない O もっとも斯様な精神的価値の解明に用いる手段は普通の意味における『帰納』
ではない。斯様な課題は確かに,少くとも部分的には,これまでの 分業的 に特殊化された専門経済学の坪の外に踏み出るであろうD 問題は社会哲学の 課題に関するのである。だが理念の歴史的な力は社会生活の発展にとって極 めて強大であったし且つ今も尚そうであるから,我々の雑誌はこの課題を決 して避けるものではなく,むしろその考究を最も重大な義務
w i c h t i g s t e n P f 1 i c h t e n
の中に加えるものである。」そして,最後に,ウェーパーの場合,科学者は一人間として価値(価値判 断)そのものと無縁であり得ない,ということの我々における確認が必要で
あるO
ウェーパーとても,一人間が科学者であると共に倫理学者,村
l
学者,或は 一つの信念の所有者であることに反対する理由は宅もなかったO通常の理解におけるが如く,只管,無気力,去勢豚よろしきが科学的態度 なのではなし可。只それらを混同することがウェーパーには我慢出来なかった のであるO
ウェーパーの言う。
「事実の科学的論究と評価的論断との絶えざる混同は,我々の専門的研究 において今尚,極めてありふれた,しかも最も有害な特色の一つである
o
乙 の混同に対して以上の論述は向けられたのであって,自己の主張に対してで ない。信念なき乙とと科学的『客観性」とは何らの内的縁由をももっていな い。」ウェーパーの如上の様な科学批判は,彼の所謂「方法論
J
,特に認識論の 問題としてある。214
そして,それは,彼の場合,彼固有の主張というより,むしろ既成の新カ ント派,殊にパーデン学派(論理主義, リッケノレトにおいて特徴的な)にお ける一般的立場を適用・敷街するものの一つである口
即ち,
u
客観性』に註して日くO「……若干の方法論的観点の挙示に代えるに体系的な研究をもってする試 みも又ここでは全く拘束した。斯かる研究は部分的には尚一回深い認識論的 諸問題を多数に採り入れなければならないだろうO ここでは論理学を取扱う のではなくて,現代論理学の既知の成果を利用せんとするものであり,問題 の解決ではなくて,その意義を専門外の人々に明らかにしようとするのであ るO 現代の論理学者一一私はただヴィンデノレパント, ジムメノレ,及び我々の 目的のために特にハインリッヒ・リッケノレトを挙げるに止める一ーの労作を 知る人は誰でも,我々の論述が本質的な点ではすべて全く乙れらの労作に結 びついている乙とに直ちに気付くであろう。」
いわば,科学批判は, (何より)カント,新カント派における「批判」一一
「批判主義
j
,r
批判哲学j
,[""批判的観念論」……「批判的方法j
,と夫々名付け られるようなーーを媒介として,今日在る,と言ってよい。あらゆる場合にそうであるが,
r
批判c r i t i c i s m
,K r i t i k j
という言葉一つ にしても,決して簡単・単純なものではない。我々の場合,批判ということは, (日常的には勿論)大抵,否定の意とし てしか用いられていない。
たとえば,
u
広辞苑』の「批判」の項にも,次の如くあるo
① 批評し,判定する乙とO 批評すること。ひばん。
② 人物・行為・判断・学説・作品などの価値・能力・正当性・妥当 性などを評価,検討することO 特に否定的意味をこめて用いられる場合
も多い。(傍点筆者)
しかしながら,斯かる立味だけでは, カントの『純粋理性批判.n(を含む 所謂「三批判
j)
,或は又,マノレクスの「経済学批判j
(特に『資本論』のサプ・タイトノレとしての〉……等における「批判」の志は,到底,解され得ない。
政 策 と 理 論 (2)
215
批判の意義を,更に広く深く(換言すれば,哲学的に)考慮することが必 要であるO
よって, [i広辞苑』にも,追記しである。
③ 事物を分析してその各々の意味・価値を認め,全体の志味との関 係を明らかにし,その存在する所以の論理的基礎を闇明すること
o
(平 凡社の『夜刻大辞典~,r
批判」の項には,哲学用語として,こうあるO「或る事実・学説等の要素を分割し,その各々に存する適当なる
g
味・価値を認めて,その全体の意味との関係を明らかにすること
o J
筆者)④ マルクス主義用語としては,イデオロギーの論理的批判に止ま らず,それを生み出す物質的条件・階級的基礎を明らかにすることによ ってそれを克服することD マルクスは『批判的且つ草命的」ということ を自己の方法の特質と考えた。
いわば,そのまま,前者がカントの, 後者がマノレクス(マノレクスの場合 も,一半は前者に関わる)の,夫々,批判の志味するところ, と言ってよ い。(実際への理論の適用としての政策は,③・④を併せもつことになる
o )
斯様に考えるだけでも,我々(日本人)における批判一一志いては,論理
・科学……の把握が(単なる口真似,校倣は別として)如何に好加減なもの であるかが明白になるO
通常のジャーナルな社会事象についての,我々(日本人)一般における,
事実(論理)と価値判断との弁別についての無能(或は不能)は,とりわ け,その最も顕著なものの一つである口彼等によれば,正義なるもの(厳密 に言えば,彼等によって正義と信じられるもの)はすべて真である。一一こ の思味。
(筆者によれば,坐者が平常学生l乙前ずるところでは)
r
批判」には,表哀一体化された二つのな味があるO
一つは,限定づけ(或は,限界づけ)ということであり,他の一つは,基 礎づけということである。いわば,前者が,批判における消極,後者が,そ
2 1 6
の積極である
o
(一応,前者が後者に先行する。)限定づけにあっては,日美味(モヤモヤした)の中に一定(特殊)の獲保・
確認が行われることを,その特徴とする口否定が可成(時には全部否定),こ こでは作用する。
通常,我々における批判というのは,斯様な作用の常識的把握である
o
固有の対象O b j e k t
基礎づけにあっては,
定 の も の が , 他 乃 至 全 体 (はっきりした姿の)との 関り合いにおいて,自己の 位置を見出す。即ち,普遍 (普遍性,一般性)を獲得 する。
先の『広辞苑』の批判③ の 場 合 ( 実 在 論 と し て は
④)が,主として,乙れで あるD
斯かる批判が可能となる前提は何か一一それ乙そ,まさしく,斯かる批判
政 策 と 理 論(2)
2 1 7
の(諸〉前提が明らかになって(そのような努力が行われて)こそ,であ る
o
特に,後者の基礎づけの場合,基礎づけが可能となること自体に,その前 提が同時に明らかになることが,いわば前提になっていること(妙な言い廻
しだが)が,自明となっていなけねばならない。
所謂「固有の理論」は, (それのみでは不可であって)常にその前提として の「基礎的なもの……基礎理論」を(暗黙裡に,或は顕在的に)不可欠とす る。(千種義人,学会発表「資本主義の変容と経済学再建の構想」より,図 とも)
上 層 理 論 (経済学固有の理論)
基 礎 理 論 ( 与 件 三 二 経 済 的 要 因 )
如何なる前提のもとにおいてーーというのが,批判のコトパであるO
「如何なる場合に」という間は, 1"夫々の妥当範囲を明示し得る一般的な基 準
J
(鬼頭仁三郎『ケインズ研究』より)が立てられなければ,到底その答を 得ることは不可能である。マルクスは,
w
ドイツ・イデオロギー』に書いているo
「ドイツ的批判は,その最近の努力に至るまで哲学の地盤を離れなかった。
その一般的哲学的な(諸)前提を調べるどころか,まさにそのあらゆる問題 が一定の哲学体系即ちへーゲソレ体系の地盤の上に成長したのである。
J
(傍点 筆者)即ち,僅かこれだけの援用の中に,我々は知る乙とが出来る一一マルクス は批判が何を志味するかを確実に捉えていたことを。
2 1 8
シュムベーターが,
w
理論経済学の本質と主要内容』で行ったのも,又同 様な意味での批判であった。同著序言に言うO
「……我々は冥塾に各々の理論を理解するととに努めよう。それは特に我 々がその(諸)前提
Voraussetzungen
を定式化することによって果される が,このことは若者自身も稀にしか充分には行わぬところであるD そう すれば多くの場合事態は論理的には抗議の余地なきことが明らかとなり,且つ苦しい論争の多くは白から í9~ 消する。克服をではなく理解を,批判
k r i t i s i e r e n
をではなく習得を,単なる肯定或は否定をではなく分析と各命 題における正しきものの抽出とを我々は欲するo J
(但し,乙乙では「批判」という言葉は否定的意味に限って用いられている
o )
ケインズについても又,同様な乙とが認められる口
『雇用・利子及び貨幣の一般理論』序に,彼は書いているD
「……もし古典派経済学が誤「ているとするならば,その誤謬は,理論的 一貫性に著しく留意して構成された上部構造
s up e r s t r u c t u r e
のうちに見出 さるべきではなく,その(諸〉前提が明確性と一般性とに欠けている点に見 出さるべきであるからである。それ故に,私は経済学者達を,彼等の基礎的 な想定の若干を批判的に再吟味するように説得しようと思うのであるが,私 のそういう目的ば高度に抽象的な議論と,従って又多くの論争をもってする 乙となくしては達成することが出来ない。J
(傍点筆者〉ケインズの「上部構造」に(先の)
i
上層理論J
,i
固有の理論」が,そし て,i
(諸)前提J
(又は「基礎的な想定J )
に「基礎的なもの……基礎理論」が,夫々略一致すること,更に「明確性」が限定づけに,
i
一般性」が基礎づ けに拠る乙とも,比較的容易に認められようO政 策 と 理 論 (2)
2 1 9
上部構造 明確性
通常の所謂「批判j(の大抵)における如く,それが「上部椛造j(のみ〉
に関わっている限り,批判としては無意味と言うほかないであろうO せいぜ い(事実,そうである如く)言葉尻を執るのがオチであるO 批判は前提を問 題にしてこそ,まさに批判なのであるO
カント『純粋理性批判』の科学批判としての対象一一ニュートン力学は,
地上の物体・天体夫々特殊(の説明原理〉としてのガリレー・ケプラーの体 系より, ヨリ前提を究めることによって(ヨリ一般的な「変数」を見出すこ とによって), 数学的法則に統一, ヨリ一般へと歩を進めた。少くとも,ケ インズ自身が『一般理論』で志向したのも,
1
経済学の前提」を問う同様な途 であった。即ち,同署第一章「一般理論j(と言っても原文で僅か
l
頁である)K
言つ 。
「私は古典派理論の
p o s t u l a t e s( 1
仮定j,1
前提j,或は「条件」一一筆者〉が一つの特殊な場合にのみ当依り,一般的な場合に当夜らないということを 論じようと思う。けだし古典派理論の想定している状態は,いくつかの可能 的な均衡状態のうちの一つの極限点に過ぎないからであるO そればかりでな く,古典派理論が想定する特殊な場合の特質は,我々が現に生活している経
2 2 0
済社会の諸特徴とは異っているのであって,その教えるところは,もし我々 がそれを経験的事実に当成めようと企てるならば,人を誤り導き,災害をも たらす結果となるのである。」
いわば,ケインズの批判は,この理論的・経験的両言及によって(と言う より,政策のための「理論」として),先の③・④の批判を,併せもつ体裁 となっている。
斯かる批判一一「経済学の草新j,それは技術的に言えば,変数が常数に,
或は常数が変数にかわるだけの乙とに過ぎない。しかし,実際,それが如何 に独創を要し,且つ困難な作業(我々の一般に想像だにし得ない〉であるか については,ケインズに次の言葉がある。
日く。
「……未知の行路を踏みわけていく本吉のような書物の著者……本書を作 り上げることは,著者にとっては長い間の逃れようとする闘い一一思惟と表 現との習慣的な方式から逃れようとする悶いーーであった。……困難は,新 しい観念にあるのではなく,大部分の我々と同じように教育されて来た人々 の心の隅々にまで拡がっている古い観念からの脱却にある。」
ウェーパーが『客観性』において「問題をヨリ原理的に捉起」したところ も,矢張, (それが「原理的」ということ,方法論的ということによって)
「批判」に直接関わりをもっている。
先づ,何よりも,同著が「社会科学及び社会政策雑誌
Archivf u r S o z i a l ‑ w i s s e n s c h a f t und S o z i a l p o l i t i k jに掲載された(と言うより,ウェーパー
が「この雑誌に拠って学界を指導したj )
ということにより,その志向の一 半は,実際についての科学的批判(批判④に準ずる〉であった。即ち,ウューパーは書いているD
「創刊以来,乙の『雑誌』の標傍した目的は,
w
各国の社会状態』即ち社 会生活の事実の認識を拡大することと並んで,社会生活の実際問題に対する 判断を紋廃すること,従って又実際の社会政策上の仕事を批判し,ひいては政 策 と 理 論
( 2 ) 221
立法的諸要因を批判することであった。一一勿論この種の批判は私的な学究 が行い得る極く限られた程度において行われた。しかしながら,この雑誌は 初めから固く身を守って専ら科学雑誌であろうとして,科学的探究の手段を
もってのみ活動して来た
o J
『客観性』におけるウェーパーは, ~没価値性』における彼と同じく,
I~ 社会政策学会』……単にこの団体にのみ関わるものはすべて出来る限りこ れを取除き,一般的・方法論的考察が拡大された。」
とは言え,如上の様な問題の提起の仕方は,一見した以上に,非常に困難 な(諸)問題を当事者に課すこととなるO
ウェーパー自身,書いているD
「一一そこで先づ問題が生ずる。如何にして上の目的が斯様に子段を制限 することと原理上結びつけられるだろうか。この雑誌がその紙面で立法及び 行政の方策とかこれに対する実際的提案とかの価値を判断する時,それには どんな怠義があるのか。斯かる判断に対する規範は何であるか。評価をする 者が自分で表明するところの,又は実際的提案をする論者がその提案の基礎 に置いているところの価値判断の妥当性はどんなものか口乙の場合如何なる 意味において彼は科学的な論究の地盤に立っているというのか,と言うの は,科学的認識の特徴は認識成果が真理として『客観的に』妥当することの 中に見出されねばならない筈だから。」
換言すれば,ここで問題にされているのは,
I
実際問題に対する判断J
,主 として価値判断のI (
諸)前提」であるO先に使った言葉を用いれば一一「如何なる前提のもとにおいて
J
,或は「如 何なる場合」に価値判断が可能である(問題となる〉か,そのための「制限」と「妥当性」は何かと,ということであるD
ウェーパーが問題にしているのは, (通常,言われているような)前犯を 考慮しない一一単なる価値判断そのものの問題ではない。
通常,如何なる前提のもとにおいてという「批判のコトノイ」を没却して 価値判断を云々するがため,たとえば, (ウェーパーが例として挙げている〉
2 2 2
「価値判断は究極において一定の理想に基くものであり,従って『主観的』
な根源をもつものであるとの故をもって,科学的討論から一般に価値判断が 取りのけられる
J
,といった思劣な価値判断(問題)の扱いが(今だに〉なさ れるのである口(ウェーパーも言う様に)そう「いうことには決してならない。」
「価値判断が取りのけられる」という通常(通俗)の把握は,批判の一面と しての限定づけ, しかも狭隆・姑息極まる斯かる風の否定(侃見はあって も,理解はない)より生ずるO
ウェーパーが問題にしたのは,むしろ批判の要一一基礎づけとしての価値 判断の科学的批判であるO
ウェーパーの言う。
「批判は価値判断の前に立止りはしない。問題はむしろ,理想や価値判断 の科学的批判とは何を怠味し,何を目的とするか,というにある
o J
価値判断について一一「没価値性」ということは,たしかに,ウェーパー における「価値判断の科学的批判」の一面ではあろうO しかし,彼において もヨリ優越した意味をもつのは,むしろ積極的意味での「価値判断の科学的 取扱い
J
,即ち「客観性」というととなのである。r
客観性」を失うことな くして価値判断(実際に不可欠の)の問題に我々は如何に(積極的IC)寄与 し得るかという, (ギリギリの)問であり,解決であるO本稿の頭初,乃至前稿「政策と理論(1)Jでの若干のウェーパーの価値判断 についての取扱い(無論,それ自体に,或は筆者の扱い方自体に,考慮され る余地の多々ある)に,我々は斯かる積極を感知し得るのであるD
ウェーパーの言うD
「乙の問題は今少し立入った考察を必要とする。」
政 策 と 理 論(2)
問題の解決でなく,その提起一一
『客観性』序言に謂うD
223
「我々は以下において解決の提供ではなく,問題の提示をしようと思う ーーその問題とはつまり我々の雑誌がその従来の及び今後の任務に正しく適 応するために注意を向けなければならぬ問題に他ならない。」
周知の如く一一同著は,前半において「価値判断論争j
.
r後半において「方法論争」の問題を,夫々(彼独自のユニークな, しかも卓抜な筆致と構 成で)取扱っている。
後半の問題,それは同序言における言葉をもってすれば.
I
如何なる芯味 で文化生活一般の科学の領域に『客観的に妥当な真理』があるか,という問 題j .
であるO前半に「価値判断の妥当性」が問われている如く,前後一貫するのは,認 識の「客観性」というテーマであるO
にも拘らず,我々は前半に後半の問題(の主要な一部)が,既に予告,設 定されていることに気付くD
以下,本稿は,そのことを問題にしたい。
ウェーパーにおける「価値判断の科学的批判」中,その最たるものは,
(周知の)所謂「技術的批判
t e c h n i s c h eK r i t i k j
である。ウェーパーは古いているD
「……先ず疑いもなく科学的考察の対象となり得るのは,与えられた目的 における手段の迎合性
G e e i g n e t h e i td e r M i t t e l b e i gegebenem Zwecke
という問題である。我々は(その時の我々の知識の限界内でi n n e r h a l bd e r
jewe i 1 i gn Grenzen u n s e r e s W i s s e n s )
如何なる手段が或る考えられた目的 に到達するに適合しているか又は適合していないかを正しくE'{ff定しねるので あるから,これによって,使用され得る一定の手段を以て一般に成る一定の 目的を達成し得べき可能性を考号することが出来,又それ故に間以~ ~こは目的 定立そのものをば,その1 1
寺の歴史的状態jewe i 1 i genh i s t o r i s c h e n S i t u a t i o n
2 2 4
に基づいて実践上有意味だとか,又は与えられた諸事情
Laged e r g e g e ‑ benen V e r h a l t n i s s e
によっては無意味だというように批判する乙とも出来るD 更にもしも或る考えられた目的への到達の可能性が与えられているよう に見えた場合には,勿論いつでもその時の我々の知識の限界内においてでは あるが,必要な手段の使用が,全事象の全聯関
Allzusammenhangesa l l e s Geschehens
に基づいて,所期の目的の達成の他に如何なる諸結果をもたら すであろうかということを確定する乙とが出来る。」然して,この場合,
1
与えられた目的における手段の迎合性」は「その時 の我々の知識の限界内j(この言葉が二度繰返されている乙とに注意せよ〉で「確定
J
し得るのであるが,その場合,目的の達成の「可能性j,更には その「結果」を確定する乙とが出来るのは一一その時の歴史的状態 与えられた諸事'市 全事象の全聯関 によってである。
歴史,与件,
Allzusammenhang
(全体関聯)ーーそれらが志味するの は,事象の「歴史性G e s c h i c ht l i c h k e i t j
或は「全体性G a n z h e i t j
における 把握であるo
換言すれば, (1純粋理論」におけるが如き)拍象的普遍としてではなく,
(へーゲソレの所謂
) 1
具体的普遍d a sKonkret‑Allgemeinej(
有機的統一体,歴史的個性)として,事象を把握せんとするドイツ歴史学派のそれであるO
(もっとも,ウェーパーの場合「その時の我々の知識の限界内」という条件 があるD 尚,
1
具体的普遍」の仔細については,拙稿,1
有機体説と弁証法」( 1 )
,( 2 )
,( 3 )
参)その程度が如何であれー一形式的にも,
Allzusammenhang
(批判③にお ける「各々の志味……全体の志味との関係j )
あってこそ,批判(基礎づけ としての批判)は可能であるo 1
総てを包括する全部的なもの……総全部Allgesamt
, ~全体性』……。 j( ゴットル『民族・国家・経済・法律 j)政 策 と 理 論 (2) 225 ジュムベーターが嘗て,ゴットノレ
(Allzusammenhang
な る 語 を し き り 多用した)を批判した折,……i n d e e d
,i f we t r y t o make t h e " A l l z u
・sammenhang" work
,we q u i c k l y s e e
,t h a t what i s r e a l l y f r u i t f u l i n
it,has l o n g ago been e x p r e s s e d by t h e system o f i n t e r d e p e n d e n t q u a n t i t i e s due t o Leon Walras
と書いている。(TheP r e s e n t S t a t e o f Economics o r On Systems
,S c h o o l s and Methods
,神戸商業大学「国 民経済雑誌」所収)乙の場合,
Allzusammenhang
なる語をシュムベーターは志識的に(その 語の本来の志味を矢口りつつ)改て純粋理論家ワノレラスの場合にも擬せたわけ であるO 然して,それはそのまま批評を目的とするものであって,本来の使 い方でないことは言うまでもないOしかるに,今日,ウェーパーの技術的批判(の論理)が, 純粋理論家, 所 謂「近代経済学者」によって,そのまま利用されているという看過し難い,
許すべからざる違反,倒錯があるO
惹いては,ために,ウェーパーが所謂「ブ、
j
レジョア学者」として遇される (過する方もどうかと思うが)という卑小・プチなやり方が他方にある,と いう現状であるDウェーパーをブノレジョア学者として遇する乙とが如何に誤りであるか(そ れは,単純・短絡な頭の持主だけの侵し得る誤解である)については,ウェ ーパーの盟友ゾムバルトの言葉,
I
マックス・ウェーパーの遺稿『経済史J
に企図された天才的な素拙……この人の者吉の日誌すべき点は,その統一的 な論述であるが,それはマルクスの発展に閃する形式を,基準的理念として 採用したことに基づいているJ
([1近代資本主義』第三巻,序言〉一一ーを,今 更に考尽するまでもない。ゾムパノレト自身,マノレクスに倣うと共に,マルクス御大自身へーゲノレ(リ カアド)にその多くを負うている(時には,へーゲノレの文章をそのまま下敷 に使っている)乙とについては,政て
u
言するまでもないことである。ともあれ,我々は,ここで改めて確認しておく必要があろうO 即ち,ウェ ーパーの「技術的批判」は,方法論論争に際してのメンガーの側ではなく,
2 2 6
ジュモラー,即ちドイツ歴史学派の側の理論(それに更に認識批判を加え精 激化したもの)をその前捉としている,という乙とであるO
「常時変動を続ける複雑な安采から構成されている全体としての現実……。」
「……現実というのはまだ分析されない与件であるから, それは全体的・総 合的な存在である
o
j (加藤冗他『現代経済政策の理論~,同『経済政策教室』併参)一一斯かる現実(としての事象〉を, 1"その時の我々の知識の限界内」
においてではあるが,能う限り,その「全体性」において,更には「歴史性」
において,把握せんとした方法(精微な方法, メンガーの「桁密的方法
exakte Methode J
に対抗し得る程の)が,結局におけるウェーパ一一一一彼 の「理想型l d e a 1 t ypusj
(カント乃至新カント派の方法に倣った)であっ7 こ 。
ゾムバルトはウェーパーを評して, 1"マルクスを越えて高度資本主義の発 展の事情について,多くの日‑主な観察をとげ,これを発表しているj,とし ているが, 1"理想型」も又,そのーっと言うことが出来る。
ウェーパー自身, ~客観性」に苦いている
「我々にとって極めて主要な理想型的構成の例,即ちマノレクス……一切の 特にマルクス主義的な『法則』や発展構成は一一理論的に欠陥なき限り一一 理想型の性格をもっている……実在を理想型と比較するために利用する場合 において理想型のもつ優れた,いな独特の索出的志義……。」
ウェーパーが価値判断の問題と結びつけて考えているのは,むしろ社会 学,即ち我々の場合には経済社会学(歴史学派)又は総合社会学(マルク
ス)なのであるO ここで要求される理論,それは社会的であると共に歴史的 であるもの,ゾムパノレトの所謂「史的(経済〉社会学」である。
そして,斯かる立坊に在る限り,たしかに,我々は次のように言うこと が出来る
o
1"社会学的簡誌をB
て 考 え ら れ な い よ う な 『 純 粋 』 経 済 は 無 意 味であるj,とo
(ソ。ムバルト『三つの経済学~)野尻武敏氏は著「一般経済政策論~ (ドイツ流の
AllgemeineW i r t s c h a f t s ‑
p o l i t i k )
に(珍しくも〉一ーウェーパーの政策原理,殊に「技術的批判」が政 策 と 理 論 (2) 227 (皮肉にも)彼の側の「経済社会学
J=I
質的構造理論q u a l i t a t i v eS t r u k t u r ‑ t h e o r i e J
に よ っ て で は な く 純 粋 理 論 =1
量 的 経 過 理 論q u a n t i t a t i v e A b l a u f s t h e o r i e J ( 1
ドイツ語圏でよく用いられる表現」の由〉 に利用され 来った経緯,について書いているO「……人も知る様に,ウェーパーは,経験科学としての政策論の限界を求 めて,その課題を制限し,こうしてその認識対象を限定した。そして多くの 場合,この立場を一貫して政策論に実際に適用されてきた理論は,ウェーパ ー自身がその流れのうちにあった歴史派経済学の直観理論或は質的桔造理論
というよりも,校型理論的な経過理論であったといっても過言ではない。
…この乙とは理由のないことではない。先ず慣行的に,量的経過理論だけが 屡々正統派理論と呼ばれ,ウェーパーが科学的政策論の対象となした手段の 目的適合性や施策効果の分析なども,多くは一定の秩序や体制を前提とした 呈的機能関聯について考えられてきたからであるO 一定の秩序や休制そのも のに及ぼす所謂『変型効果
Transforma t i o n s e f f e k t
といったものに注目さ れてきたのは比較的新しいことである。……第二に,原理的に見ても呈的経 過理論は,経済諸呈並びにその諸変化の間の機能関聯の分析を関心事とし,思惟構成物である理論校型の設定に出発して現実へのいわば外からの接近と して終*~においてのみ現実説明を目指すもの,従って仮定や前提をもって容 易に科学の限界内に止まり得るように見えるが,
1
1:的椛造理論はこれに対 し,現実形象がその基本構成要素からどのように椛成され特質づけられるか l乙理論関心を寄せ,現実のいわば内からの理解として始めから現実に結びつ けられ,その体系化原理もいきおい現実自体のうちに求めねばならなくなっ て,枝型にたつ呈的経過理論ほどはっきり科学の限界を保持することが難しくなるからであろう
o J
j況かる野尻氏の説明には,多分のもっともらしさがある
o
しかも,この問 題をとりあげたのは(少くとも我国では)氏がおそらく初めてであろうし,極めて貴重である。
とは言え,
C
医者としては〉首肯しかねる点も少くない。先ず,氏が,ウェーパーの科学批判を限定づけ(限界づけ)に,即ち「限
2 2 8
界」・「制限」・「限定」と専ら強調を置いている点,問題がある。
もっとも,それは「人も知るように」とある如く,一般・通俗の見解であ ることも,確かであろう。そして,氏の,更には一般の従来のそのようなウ ェーパ一理解が,ウェーパーの適用を経過理論の方へと脱税せしめたこと も,又事実であろうO
しかし,その乙とが,同時に,
r
手段の目的迎合性や施策効果の分析など」について,
r
一定の秩序や体制を前提としたことJ
は,決して正当化するこ とは出来ない。むしろ,ウェーパ一回有の怠味は,
r
目的迎合性や施策効果の分析」を,それ自体として行わしめることではなく(又,事実上,そのような乙とは不 可能である),ウェーパーの所謂「その時の歴史状態
J C
或は「与えられた諸 事情J
,r
全事象の全聯関J )
に「基づいてJ c rよってJ )
,r
考量すること」
c r
批判することJ
,r
確定することJ )
が出来るのである。決して,その反対 ではないD換言すれば,技術的批判において,
r
秩序や体制」は「一定」とすべく常数 ではなく,変数, しかも一義的な・極立った「独立変数J
,即ち経済社会学 (の方法〉における場合なのである。この点,シュムパーター『経済分析の歴史』における次の言葉は,乙乙で の場合,最も都合のよいものである
o r
一つの巧妙な句を用いて言えばこう であるD 経済分析は,人々が或時に如何に行動するか,そして又,斯く行動 するととによってもたらす経済効果は何であるかという問題を取扱い,経済 社会学は,人々をして斯様な行動をとるに至らしめたものは何であるかという問題を取扱う
o J
更に,野尻氏の「第二」の点については,
c
既述したところで充分で)最早 喋々する必要はない。無論,氏の見解(一般的見解)の反対乙そ,正しいの であるO 政策(原理)が,現実に関わるが故にこそ,却ってAllzusammen‑
hang
の考慮は,乙の場合も,ごく切実且つ重大ならざるを得ないからで あるo C
商業政策の「商業」概念が,r
経済」の概念を遥か超える程に如何に 包括的・複合的になっているかについては,後述予定。)政 策 と 理 論
( 2 ) 2 2 9
最も現実的・対象的(客観的)なるものこそ, 科学的である。 ウェーパー の所謂, ,科学的認識の特徴は認識成果が真理として『客観的に』妥当する ことの中に見出されねばならないからであるo J
一一一渡辺経彦氏の二つの著書,
w
現代の経済政策J], W経済政策』には,極めて 微妙なニュアンスの差異を読みとることが出来る。前著(1
9 6 9
年刊) ,むすびに代えて」に日くo
「現代の経済政策は第ーに,経済理論を基礎とした論理的思考から生れた ものでなければならない。(そしてその論理的整合性の故に,体制を具にす る多くの国々の人達の共通言語ともなり得る。)第二に,それは絶えず現実 とのフィード・パックをもっていることを考えなければならない。(それ故 に,各国の歴史的・風土的条件に合致した政策体系の選択が求められる。〉
この二つを論証しようというのが本書の狙いであった口」
後者(1
9 7 2 )
,序論」に言うO「……本書は,別の視点から言うと,経済政策は個々の国民経済がもって いる政治的・社会的風土条件との関係で絶えず考えられるべきだという乙 と,市i易機桔とマクロ経済政策というシステムは理論的に不完全であるこ と,この二つの基本的思考を展開しようとした書であると言ってよい。」
3
年間の歳月が,この著者に与えたものは,芯味深い。両著の内容が如何 様であれ,前者には,純粋理論が社会学に侵先している口後著は,むしろそ の逆であるOミュノレダーノレが『反主流の経済学
J
においてi C
固有の)経済学を超えて ヨリ広く社会学的・制度的アプローチをとり入れなければならないと考え た」一一如き例は,彼に限らず,現今,内外問わず枚挙l乙暇なき感さえあ る。「市場経済を超えた問題の登場は,夙に指摘されているが……それは現 代の経済問題が制度的条件或は経済体制と深く関り合っているからあるo J
(加JJi1 Z
他『経済政策教室』はしがき)しかも,斯かる事態は,古く(たとえばマーシャルの時代の初めに経済学 無用論が称えられた時)からあったのであるD しかも, ,近代経済学」中,
2 3 0
「マクロ」と呼ばれるケインズ以後の分析さえもが,既に嘗ての純粋理論 (の枠)より大きく外へはみ出したものであることさえ,宕過し難い事実な のである
o
今日では最早,経済政策(原理)を英米流とドイツ流に分つこと自体,無 意味となりつつある。
一つには,確かに,資源問題・公害問題その他一一「近代経済学の分析用 具が急速に発達したにも拘らず,それを超えて現実の経済が次々と新しく且 つ複雑な問題を提起していることも否定し難い事実である。」
近代,
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諸)科学は,一つには「価値自由W e r t f r e i h e i t j
,二つには「特 殊科学j C
社会科学の場合一一社会生活の部分領域に関わる)という特徴づ けをもつことによって,それ自体独立した・自己完了的な分野をっくり上げ たことは,否めない事実であるO経済学については,前者には「価値判断論争
j
,後者には「方法論論争」が,夫々の役割を完遂した,ということが出来ようO
単に形式的にこれを問題とすれば,カントの『純粋理性批判 ~C の出版) こそは,近代の斯かる方向の象徴,推挙すべき出来事であろうO 向者第二版 序言における次の言葉は,斯かる;な味での同若の性格をよく物語っているO
f C
諸)学の限界が混浴されるならば,それは学問を増大するのではなく,不 具にするものである。」推挙すべき出来事‑呆してそうであったか。結果,
C
多くの亜流を介在 せしめたこともあって)少くとも社会科学(経済学)においては,失うべき 以上のものを失ったという感を深めざるを得ない。政策論は,その主体的・総合的性格よりして,殊更に不運・不遇であった。
今一度と言わず,かの両論争を,創造的に再考・検討(一一批判〉し直す 機会を獲保すべき時ではないか。
あした さた
『朝は来る,されど今は尚夜なり。』