経済政策本質論 ︵その一︶
− 人 間 の 自 然 的 規 定 性 に つ い て
−
前 川 忠 良 ま え
が き 社 会 科 学 と は 如 何 な る も の で あ る か と い う こ と に つ い て は
︑ マ ル ク ス が
﹁ 経 済 学 批 判 序 説
﹂ に お い て 明 ら か に し た と こ ろ で
︑ あ り ︑ 資 本 主 義 の 基 本 的 理 論 は ﹁ 資 本 論 ﹂ に お い て 展 開 さ れ た と こ ろ で あ る ︒ し か し な が ら
︑ マ ル ク ス は 経 済 政 策 理 論 に つ い て は 体 系 的 な 叙 述 を 後 世 に 残 さ な か っ た と 判 断 さ れ る
︒ 経 済 政 策 学 は 経 済 学 の な か で も ︑ も っ と も お く れ た 学 問 と い ほ れ て い る が
︑ わ が 国 に お い て も ︑ 経 済 政 策 に 関 す る 種 々 の 研 究 が 行 は れ て い な が ら
︑ 末 だ 信 侍 す べ き 体 系
︑ 少 く と も 全 体 的 な 統 一 的 見 解 さ え も 見 出 し 難 い と い う こ と が で き る ︒ と い う こ と は 経 済 政 策 学 の 対 象 が 極 め て 複 雑
︑ か つ 困 難 な 間 超 を ふ く ん で い る か ら で あ り
︑ そ の 上
︑ 基 本 的 な 唯 物 史 観 そ の も の に
︑ よ り 明 確 化 さ る べ き 問 題 が 残 さ れ て い る か ら と 判 断 さ れ る ︒ 少 く と も 経 済 政 策 学 を 専 攻 し た い と 考 え る 者 に と っ て は ︑ 種 々 の 具 体 的 問 題 を 研 究 し な が ら も
︑ 常
に こ
の 経
済 政
策
本 質
論 に
立 ち
帰 ら
ざ る
を 得
な い
し ︑
む し
ろ 逆
に 政
策 本
質 論
が 明
確 化
ざ れ
な い
限 り
は ︑
具 体
的 現
実 の
真 に
科 学
的 把
握 は
経 営 と 経 済
九 ゐ
四
困難 r といはざるを得ない︒従って︑信侍すべき経済政策学の体系的理論を他に見出し得ないとしても︑われわれは
この問題を回避する乙とは出来ない︒乙︑に罪才を省みず︑経済政策本質論に関する一連の分析を試みる予定である
が︑問題の主たる対象は︑土台と上部構造及び上部構造の相対的独自性の問題である︒乙れに関聯して︑人間の自然
的規定性︑社会的規定性︑イデオロギー諸形態︑生産力理論︑矛盾論等をとりあげたいと考える︒しかしながらこれ
ら諸分析は少くとも統一された理論として志向されたものであるが︑兎角定説化されがちなマルクス主義者の理論と
は相異するものであろう︒少くとも彼らと相異した解釈によって理論を展開する乙とは定説に対する無暴な排戦と見
られるかも知れないが︑同時に単なる既存の定説に対する断片的批判ではなく︑自分なりに理解された理論を背景と
した主張であるならば必ずしも無意味ではなく︑かっ先学の批判を受けることにより誤りをただすことも出来るだろ
う︒問題が複雑であるから理論上の誤りもあるかも知れないが︑試・練を受ける乙となくしては自らの発展も不可能と
判断されるからである︒
ζ ︑にいう一つの解釈とは決して新しいという意味ではない︒マルクスによって展開され︑文は暗示せられたもの
を重要な手掛りとするものであり︑ マルクス以後︑特にスタ l リレ等によって軽視され︑歪められた唯物史観の問題
点を検討する必要があるからである︒
マルクスは経済理論としての﹁資本論﹂を展開するに際して︑如何にして具体的現実から抽象したか︒見方を変え
て言えば︑如何なる側面を捨象したか︒論理的にも︑従ってまた歴史的にも︒文社会科学一般としての唯物史観を確
立する場合に於ても同様である︒
われわれが専攻しようと欲する経済政策学が具体的現実の分析である限り︑与えられた資本の法則乃至は唯物史観
が如何にして具象佑されて適用され得るのか︒一言葉をかえて言えば︑原理論としての確立の過程において︑具体的現
実から捨象されたものを如何に評価するか︒乙の場合もっとも注意すべき点は︑具象化の段階の相異︑従って論理的
次元の相異を︑又分析視角を明らかにすることである︒
又経済政策の問題は上部構造の分析を無視し得ないが︑上部構造の問題については︑ スターリンがその著﹁言語学
の諸問題﹂に於て︑自らの理論の混乱を暴露した︒以後マルクス哲学界に於ける上部構造に関する論争はスターリン
の理論の混乱がそのま︑反映された形で行はれていると考えられる︒
マルクスは﹁経済学批判序説﹂の最後の節第四に於て︑ ﹁乙︑で述べねばならない︑そして忘れてならない︑もろ
もろの点に関する注意﹂として八項目指摘し︑第八項目は﹁出発点は当然に自然的規定性 ll 主体的なおよび客体的
なーーである︒種族︑人種︑等々︒﹂と書かれ︑次いで芸術論が展開されている︒﹁出発点は当然に自然的規定性で
あるよと言う言葉は如何に理解すべきであろうか︒マルクスが﹁忘れてはならない﹂と注意していることを︑マルク
ス学者は忘れてはいないだろうか︒﹁経済学批判序説﹂はあらゆる面から問題にされていながら︑主体及び客体の自
然的規定性は︑﹁当然﹂な乙ととして忘れられているようである︒
マルクスが経済理論の確立の過程に於て︑具体的現実から捨象されたものは︑乙の自然的規定性がその重要な部分
を占めている︒少くともそれは一般化せられるか︑第二義的なもの化してしか取扱はれていない︒にが同時にその自
然的規定性の重要性は︑マルクスが決して忘れることなく指摘したところであった︒人聞の歴史の特殊な一発展段階
たる資本主義生産様式の客観的法則の把握は︑自然的規定性を捨象する乙とによってのみ︑正確を期することが出来
るが︑人聞社会の全歴史を貫く社会発展の法則は逆に自然的規定性を抜きにして真の理解は困難であることをマルク
スは示しているのではなかろうか︒乙︑﹀に旨う自然的規定性は自然的条件の如き狭い概念に理解されてはならない︒
狭義の経済学が資本主義生産様式と言う人類の特定の発展段階の法則把握を目的とすることは︑その段階の生産関係
九 五
経済政策本質論(その一)
経 嘗 と 経 済
九 六
を明確にすることによって把握される︒奴隷制︑封建制︑資本制︑共産制︑何れにしても人類の存在形式の段階的発
展である︒いはば存在形式であり︑人類が一定の形式によってしか存在し得ないとしても︑その内容は発展する同一
物である︒その内容は単なる生産力ではない︒具体的な実存するところの人類である︒それは生き生きとして発展す
る人類である︒しかしながら︑人聞社会の全歴史を貫く社会発展の法則︑すなわち唯物史観の通説はかくの如︑きマル
クスの指摘を充分組み入れているかは甚だ疑問とせねばならない︒ 一つの生産様式の分析に適用せらるべき方法が︑
社会発展の一般的法則にそのま冶適用されていないどろうか︒社会発展の一般的法則の把握にとっては︑土台︑上部
構造の分析はその重要な役割を果す︒乙の土台︑上部構造の概念はより広義に解すべきではなかろうか︒乙の概念を
狭義に解する乙とによって︑上部構造を階級的な観点にのみ限定したり︑国家と解釈したり︑言語を上部構造には含
まれないと曲解したりする誤りを犯す乙とになっていないだろうか︒乙れらの立場はマルクスが拍象の過程に於て重
要視したと乙ろの自然的規定性の分析を殊更に排斥することによって︑階級的ドグマの当然陥らねばならない理論上
の混乱を住む乙とになりはしないだろうか︒
吾々はマルクスの指摘した自然的規定性という︑人間そのもの冶把握と言う迂回した過程を経る乙とによって︑初め
て正しい上部構造の問題を明確ならしめる乙とが出来ると判断されるからである︒マルクスが資本論構成に於て捨象
したところの自然的規定性を如何にしてマルクス体系として理解するかによって解明の錠は与えられるにちがいない
か ら
で あ
る ︒
ー人聞の自然的規定性について
l
人間個体と人類
人間の歴史の二前提
欲望 l 基本的欲望と補足的歓望
五
欲望の主観性と客観性
労働時間と非労働時間
四
...L.‑
〆 、
1性 欲 七
人間の意識と意志
欲望充足の社会的条併
入
人間個体と人類
人間の歴史に於ける自然的規定性の主体的なものとは生きている人間そのものであり︑客体的なものとは人聞を除
く自然であり︑人間主体にとっては自然的諸条件として現はれる︒か﹀る人間主体と︑自然的諸条件としての客体は
統一せられて現実的な実存としての種族︑人種として現はれる︒人間個体としての主体も︑人間個体の客体としての
自然も︑又人間と無縁な自然も︑現実として存在しても︑人間の歴史としての実存ではない︒実存するものは人間主
体と自然的条件としての客体との統一としての種族であり︑人種であり︑生き生きとして発展して来た人類である︒
人間そのものとしての個体も︑自然も︑その限りに於て抽象的な存在にすぎ.ない︒
且って経済学は人間個人の分析から出発したが︑社会は単なる個人の集合ではなかった︒社会の運動法則の発見は
経済政策本質論(その一 v
九
七
経 蛍 と 経 済
人間個人から出発する乙とによっては行詰らざるを得なかったし︑マルクスは階級として把握し︑ケインズも有効需
要に依存した︒へ l ゲルも人間個人から出発する限り観念論の誤謬を抜け出すことは出来なかった︒現代の実存主
義悟学も︑人間個体の実存から出発する限りでは︑人類の生き生きとした発展の歴史は説明し得ないのではなかろう
か︒人間の単なる総体が人類ではない︒実存するものは人間個体ではなくして人類である︒ ζ の点︑マルクスは自然
的規定性││主体的なものとして種族︑
r人種を掲げ︑人間個体としては把握していない乙とは重要である︒特に遺稿
第一ノ i ト﹁疎外された労働﹂等に於て﹁人間は一つの種的実体である︒﹂ことを強調しているととによっても明らか
で あ
る ︒
九 y¥
しかし乍ら︑人間個体の分析は不必要であることにはならない︒寧ろ具体的な人類発展の分析は人間個体の分析を
経なければ正しい把握は困難である︒唯物史観の基本的問題に種々の混乱が現はれ右とすれば︑逆に人間の歴史の自
然的規定性を構成する人間個体の分析の不充分きが原因するのではなかろうか︒
生産力の発展は人類発生以来歴史的事実として︑従って︑生産力の発展は客観的︑必然的法則として認めることが
出来るし︑経済学に於ては︑生産力発展の客観的法則は重要な基本的法則として把握されている︒しかし︑何故生産
力が発展するかと言う点については︑さほどの注意が払はれていないと考えられる︒社会構成員の総体の運動として
把握される︑社会の客観的な生産力の発展 ω 法則も︑社会構成員の夫々の個体の個別具体的な主体的活動の結果であ
る乙とは否定し得ない事実であり︑人間個体の分析を無視することは出来ない︒
人間個体の分析は︑自然科学的な︑乃至は心理学的な対象と考えられがちであり︑又事実直接的には経済学の対象
とはなり得ないピろう︒人間個体の分析は直接的には社会科学の対象とはなり得ないことを知りながら︑尚かっか︑
る廻り道をとらねばならない理由は︑唯物史観の基本的問題に立ち入る必要があると考えるからである σ マルクスは
﹁出発点は当然に自然的規定性である﹂と言い︑その主体的なも φ として積族︑人種を掲げるが︑人間個体と人類と
の関聯を︑総体として把握される実存する人類とそれを構成する一般化せられた人間個体として︑そこに人類存在の
本質も見出せるからである︒マルクスは﹁人間の感覚︑情感等々は単なる人間学的諸規定ではなく︑真に存在論的な
存在(自然)肯定であるよ(マルクス遺稿﹁ノ l ト﹂)といい︑彼白身も︑人類の存在乃至発展の一般的傾向の認識
のみならず︑人間一般としての人間個体の感覚の問題から出発する︒
人間の歴史の二前提
唯物史観の思想の発展にとって重要な意義をもっところの︑ ﹁ドイツ︑イデオロギー﹂に於て次の如く述べられて
ー
' p o ' し 切 ︑
﹁あらゆる人間存在の︑それ故にあらゆる歴史の︑第一の前提を︑すなはち︑人間は﹃歴史を作り﹄うるためには生 ︐
活する乙とが出来ねばならない︑という前提を︑確認することから初めねばならない︒市るに生活する乙との一部分
を成すものは︑何よりもまづ︑食うこと︑飲むこと︑住むこと︑着ること︑およびなおその他二︑三の乙とである︒
従って最初の歴史的行為は︑これらの欲望を充足するための手段の生産であり︑物質的生活そのもの﹀生産である︒
'しかも︑それは歴史的行為であり︑あらゆる歴史の根本条件であり︑人聞が専ら生活を維持するためには︑今日もな
お数千年以前と同様に︑日々刻々に実行されねばならぬものである︒
第二の乙とは︑乙のすでに充足された最初の欲望そのもの││充足の行動およびすでに獲得された充足の道具ーーー
が新なる欲望を生ぜしめるに至ることである︒そしてこの新なる欲望の造出が最初の歴史的行為である︒
第三の関係
1 1
これは本来の歴史においてはその最初から歴史的発展に入り乙む ll は彼ら自身の生活を日々更新
経済政策本質論(その一)
九
九
経 営 と 経 済 一
00
するととろの人聞が他の人聞を造るととを︑増殖するととを︑始めることである︒
1
1 男と女の︑両親と子供等の関
係︑家族
J始めは唯一の社会的関係であると乙ろのこの家族は︑その後︑増加した欲望が新しい社会的諸関係を︑ま
た増加した人口数が新しい諸欲望を造出するに及んで︑第二義的なものとなる︒ーーさらに︑社会的活動のこれら三
側面は︑三つの異った段階としてではなしに︑専ら三側面として︑または
i l
モメントとして解さるべきである︒そ
れらは︑歴史の発端から︑そして最初の人間以来同時的に︑存在したし︑今日もなお歴史においてその勢力を現はし
て い る o
﹂文エンゲルスは﹁家族︑私有財産︑および国家の起源﹂に於て次の如く説明する︒
﹁唯物史観によれば︑歴史において窮極に決定的な要素は︑直接の生産および再生産である︒だが︑乙れ自身がま
たニ種に分れる︒ひとつは︑諸生活手段の造出︑すなはち︑食物︑着物︑住居の諸対象物および︑それに附属する諸
道具の造出であり︑他は︑人間そのものの造出︑種族の繁殖である︒ある一定の国の人聞が︑その下に生活するとこ
ろの社会的な仕組は︑両種の生産によって︑すなはち︑一方では労働の発展段階によって︑他方では家族の発展段階
によって︑条件づけられるよ
以上マルクスとエンゲルスとの叙述は幾分かのニュアンスの差はある︒例えば︑マルクスは人間の欲望の問題にま
で入り込んでいるのに対して︑エンゲルスは生産から出発する︒ピがマルクスもエンゲルスも人間の本質的問題の分
析から出発し︑極めて重要な基本的問題であることを指摘している︒更にマルクスは﹁一定の生産様式︑すなわち産
業の一定の段階は︑つねに一定の様式の協働︑あるいは一定の社会的段階と結合されており︑その協働の様式そのも
のが﹃生産力﹄であるということ︑および人間の入手しうる生産力の量が社会状態を制約する︑それゆえに︑﹃人類
の歴史﹄は産業と交換との歴史との関連において研究され論究されねばならない︑という乙とである︒ーーしたがっ
て﹃人類の歴史﹄は︑欲望と生産様式とによって制約されていて人間そのものと同じだけ古い人間相互間の唯物論的
関連がすでにはじめから現はれて来る o ﹂と説明し根源的な歴史的関係の第四番目の契機として把握するが︑この文を
注意してよむ時︑生産力と生産様式の問題は一般に把握される程簡単には割切られてはいないと理解する︒(傍点引
用者)少くとも欲望を生産様式と同程度に重視していることは明らかであり︑且つ之ら根源的な歴史的関係の把握の
後に︑更めて︑﹁人間は意識をもっているよことを問題として意識する︒吾々は之らの問題を或る程度整理する必要
マルクスをより理解する為に先づ欲望の問題について考えてみる必要があろう︒勿論︑乙れらの問題の分
が あ
る が
︑ 析は︑人間一般︑欲望一般として把握しようとする乙とは兎角誤った方向に走りがちである︒カウツキ l はか冶る側
面を重要視する余り︑種々の誤った結論を導き出したが︑五口々はこの点︑注意を怠れない乙とは事実である︒
ツ キ
l ﹁唯物史観﹂第三書第四篇︑マルクスの序文︑参照)
( カ
ウ
欲望 l
基本的欲望と補足的欲望
人間は何より先づ自然の産物である︒従って︑人聞が生物であることに於ては︑他の凡ゆる生物と何ら異るところ
はない︒人間個々人は︑生れ︑生長し︑繁殖し︑後死亡する︒すなわち︑すべての生物は宇宙に生命がはじめて発生
し︑それぞれの発展の方向と速度を異にしながら︑単細胞から複雑な多数細胞の有機的構成体として発展して来た︒
吾々は︑自然科学的な把握に基いて︑脳髄︑神経系の有無等によって︑植物と動物とを分類することが出来るだろ
う︒吾々は動物一般を観察する時︑彼らが生れ︑成長し︑繁殖し︑後死亡する過程をたどりながら︑種族を今日まで
維持し得たことは︑その本能に基く生活々動に基因する︒又吾々はか冶る動物本能の意識せられたものを欲望と呼ぶ
ことが出来︑特に人間はか冶る動物本能が全一的に意識せられた欲望によって︑人間の永い歴史が築かれたものと判
経 済 政 策 本 質 論 ( そ の 一 ) 一
O 一
経 営 と 経 済
O
断 す
る ︒
吾々は先づ欲望の分析から出発する︒マルクスの掲げた三つの基本的側面は次の如く整理する事が出来る︒
吾々人間は物を食べる乙とによって︑日々の生命を完うし︑種々の生産的活動に従事して来た︒又吾々人聞が男女
夫々の配偶者を求め︑性欲を充す乙とによって︑子供を生み︑人類を存続させて来た︒すなわち︑吾々は人聞の欲望
のうち︑食欲と性欲とを基本的欲望として把握することが出来る︒
又吾々は人間の基本的欲望の充足に伴って︑新なる欲望の発生︑発展を見る乙とが出来る︒例えば︑食欲︑性欲の
内容の充実︑高度化であり︑住む乙と︑着ること︑その他あらゆる︑物質的︑精神的欲望の発生︑発展を把握すると
とが出来る︒五口々はこれらを基本的欲望に対して︑補足的欲望として把握する︒
乙﹀にいう基本的欲望乃至は補足的欲望は︑視角を変えて表現すれば︑人間の動物的欲望と人閣の人間的欲望であ
る︒マルクスは﹁:::人間は単に人間的な欲望をもたなくなっただけではない︒動物的な欲望すらが害在しなくなっ
た ︒
﹂ (
遺 種
第 三
ノ
l ト﹁欲望︑生産及び分業﹂)という表現によって用いて居る︒人間の基本的欲望︑補足的欲望の
概念は︑現時点に於ける人間欲望から把握せられるものであり︑人間の動物的欲望︑人間的欲望の概念は︑人間を歴
史的︑発展的に把握する場合の概念であるといえる︒食べる乙とは必ずしも基本的欲望ではない︒例えば︑現在人聞
が食べるという行為の中には︑生命を維持する為に食べるという目的と︑よりおいしく食べるという目的と含まれて
いる︒単に飢を満すにすぎない動物的な食欲と︑美味を求めてそれを観賞する人間的な食欲とは異なる︒それは単に
発展として歴史的に把握される丈ではなく︑歴史的にさかのぼることによって︑その基本的なものと︑補足的なもの
とを概念として抽出することが出来るのである︒そのととは同時に現時点に於ける人間の食欲に︑歴史的︑地理的な
相 異
を 越
え て
︑
一般的な従って基本的な欲望が認識されると同時に︑現実に於ける食欲の充足は︑特殊的な従って補
足的欲望をその内容に含めているのである︒
こ︑にいう欲望とは通俗的に誤解されやすい言葉であるが︑人間的欲望として︑極めて広い内容を含んでいる︒精
神的な︑従って宗教的な︑又芸術的な︑更に人間の意識的なものが欲望として体化せられたものも当然含まれるもの
である︒人間の欲望は生活水準の向上と共に︑複雑︑多様化して来たことは︑人間社会の歴史を翻ってみれば明らか
であり︑又今後将来にわたって︑生産力の無限の発展は︑ 乙れら人間の欲望に与えられた歴史的必然として把握する
ことが出来る︒あくなき人間欲望の追求乙そ︑生産力の無限な発展を歴史的必然たらしめるところの︑主体的条件と
い え
よ う
︒
四 欲望の主観性と客観性
しかしながら︑吾々はも一度マルクスが指摘した新なる欲望の発生︑発展が如何にして行はれるかを分析せねばな
らない︒乙の為には︑欲望の人関心理的な問題に立入らざるを得ない︒
一般には人間の欲望は︑物質的欲望と精神的欲望とに分類せられて把握される︒しかしながら︑これらの分類は厳
密にいえば間違っていると判断される︒
人間の欲望は人間の肉体的︑精神的な欲求であるが︑それは可能性に対する潜在的なものにすぎない︒人間の欲望
は︑その目的に即応した一定の行為によって充足される乙とによって)人間の満足感︑幸福感を得る事が出来る︒欲
望の充足による満足感︑幸福感とは︑か冶る感覚主体と客体としての感覚動因との結合であり︑従って吾々の欲望充
足の対象乃至手段すなわち感覚動因が︑物質的なものであれ︑非物質的なものであれ︑それは人間の欲望充足の一つ
の契機をなすにすぎない︒その限りに於て︑欲望充足に基く満足感は︑当事者の主観もしくは感受性︑換言すれば心
経 済 政 賞
︑ 本 質 論 ( そ の 一 山
一 O 三
理 、
的 、
要 、
素、位 t 乙
a叫す 営
ど ぎ と 経
。 済
従 っ
て
一 O 四
一般に物質的欲望といい︑精神的欲望と称する分類は︑欲望充足の対象乃至手段に関
する限り適用されうるにすぎず︑寧ろ厳密に言えば︑人間の欲望充足の対象乃至手段は︑物質的なものと︑非物質的
なものと存在するとせねばならない︒
人間の満足感︑幸福感はあくまで︑主体的︑感覚的︑心理的なものにすぎず︑その限りに於て欲望対象については
物質には依存しないと考える乙とが出来た︒即ち︑五口々人間の欲望は充足されて初めて︑満足感︑幸福感を抱くが︑
それは感覚動因による場合もあれば︑感覚主体の条件による場合もあり︑人々によって夫々その度合を異にして受け
とられる︒従って︑人間の欲望が経済学の対象となりうるとすれば︑それは社会的欲望として︑集計化乃至は平準化
せられ︑欲望の対象乃至は手段として︑物質的な表現に換元せられる乙とによってのみである︒すなわち︑財乃至は
サービスに対する需要の形態の下に於てのみである︒(シヤルル・ベ l
ト レ
l ム﹁経済計画の理論﹂参照)
飢えた者の一片のパンから受ける満足度は︑美食に飽きた富者がビフテキの一枚から受ける満足度より遥かに大で
ある事は明らかである︒またパプアの土人よりも︑ワシントン郊外の大邸宅の主人の万が幸福であるとは必ずしも言
えない︒即ち︑人間の幸福は必ずしも物質には左右されない事は明らかであるが︑しかしながら︑何故欲望の発展多
様化︑それに照応する生産力の発展は歴史的必然としてとらえられ得るのか︒欲望乙そ生産力の発展の唯一の動因で
あると言うことは︑欲望の対象乃至は手段としての物質が︑人間の幸福感︑満足感と直接的には比例しないこと冶矛
盾することにはならないだろうか︒
しかし乍ら︑人閣の幸福は物質によっては本質的に規定されないとはいえ︑人聞の感覚や認識が発展すればする程
より多くの満足度を獲得する為に︑欲望充足の障害を克服しようとする意志が働くむそれは人聞が一時点に於ける欲
一定期聞に於ける乃至は人間一生に於ける欲望のより高度の満足を達成しようとする 望の最大充足を求めると共に︑
に違いないからである︒たしかにパプア土人とワシントンのアメリカ人との幸福感︑満足感を比較することは出来な
い︒然し︑パプオ人の前に並べられたタロ芋の一片と︑ビフテキの一片とは︑彼にとってはビフテキ一片を食する乙
とに遥かな満足度を得るだろう︒又彼は現在のタロ芋一片よりも︑将来獲得されうるとすれば︑ビフテキの一片によ
り多くの満足度の可能性を︑その過去の経験によって判断する事は出来るだろう︒彼は現在︑タロ芋とビフテキの何
れかを獲得する機会を与えられるならば︑より大きな満足度を期待出来るビフテキの獲得の為に努力するだろう︒従
って甲なる人物と乙なる隣人との主観的幸福度の比較は客観的な物質的尺度では計り得ないが︑甲なる人物は︑より
秀れた内容の乙なる隣人の食事が︑より多くの満足度を自分に与えるだろう事は判断することは出来る︒即ち︑甲な
る人物にとってはそれが主観的価値判断であろうと同一時点に於て︑欲望対象の与える満足度の相異を︑又異った時
点に於けるより多くの満足度を現在時点に於て期得することは出来るからである︒しかしながら︑より大きな満足を
期待せられた欲望が将来達成せられた暁に︑彼が獲得した満足感は必ずしも大であるとはいえないにろう︒何故なれ
ば︑価値評価の時点の相異によって主観の価値判断は変化するものだからである︒
吾々は欲望の充足による満足感はあくまでも主体的なものであるが︑その満足感の度合は︑感覚動因と感覚主体と
の条件によって左右され︑従って満足感そのものは社会科学の対象とはなり得ないが︑欲望の対象乃至は手段として
物質的表現︑すなわち需要として集計化乃至は平準化されて初めて︑経済学の対象となりうると説明した︒しかし︑
欲望の対象乃至手段の物質的表現とは知何なるものであろうかを検討する必要があろう︒何故なれば︑欲望の対象乃
至手段は必ずしも物質的なものとは限られず︑精神的なものも含まれるからである︒吾々は︑人間の欲望対象の精神
的なものと︑物質としての生産力との関係を考察する必要があろう︒
吾々は﹁物質的な生産力の発展が欲望対象乃至手段としての精神的なもの︑すなわち非物質的なものを規定する二
経済政策本質論(その一) 一 O 五
経 営 と 経 済
と先づ提言することが出来るが︑ これば二つの側面に於て︑ すなわち社会的側面と︑
白 、
然 、
的、
物、一
理、 O
的、六
側 、
面 、
ル 於 て 分 析
することが出来る︒
人間は他の動物と異って︑脳髄及び神経系統の発達に伴って︑欲望は複雑︑多様な発展をして来た︒特に人間の欲 望の特質は︑欲望充足手段としての非物質的な感覚動因︑すなわち精神的欲望の発展である︒天下の景勝を我物顔に とぴ廻る猿はそれを天下の絶景として観賞しているからではない︒彼らがそこに居るのは︑豊かな食物と︑人間族共 の野蛮な襲撃から安全だという理由にすぎない︒猿が天下の絶景を観賞する能力を持たないのは︑彼らの感覚がそれ
丈発達し得なかった乙とに原因があり︑
一般に感覚︑頭脳の発達は生産力の発展に相互依存しているものであり︑生 産力の発展をもたない彼らは︑食うこと¥外敵から種族を守ってゆく乙とにエネルギーの大半を消耗しなければな らない︒人聞が何らかの動機によって︑二本の足で歩行し︑手を自由に使う乙とが出来るようになったという自然的 肉体的条件によって︑生産力の発展の河能性が与えられ︑又生産力の発展は逆に人闘が知能を高め︑教養を高める余 裕を生ぜしめることに他ならない︒かくの知く︑人間が食欲と性欲との基本的欲望の充足と︑種族を外敵から守る基 本的条件が満たされて︑初めてより補足的欲望の無限の発展に逼進することが出来るようになったのであり︑それは 生産力の発展に依存することは明らかである︒芸術は最も精神的欲望として考えられるが︑芸術家は社会の生産力の 総体の発展によってその出現の可能性が与えられ︑文個々人の芸術的感性も︑生産力の発展に伴い︑物質的欲望充足 の為の時間の短縮によって育成されて来た乙とも明らかである︒すなわち︑社会的側面としては︑精神的欲望の充足 は物質的欲望の充足︑すなわち︑生産力の増大に裏づけられてしか存在し得ない乙とは明らかである︒
物質的なものが精神的なものを規定するという︑も一つの意味は自然的物質的な意味に於て
V
ある︒すなわち︑絵
画は絵具やキャンパスの︑音楽は楽器や放送設備等の︑文学は紙や印刷技術等の物質的側面を離れては具体化し得な
.いという意味である︒又人閣の意識も感覚も︑人間の神経を通して感覚細胞の機能によるという意味であり︑か︑る
機能は物質の最高の発展としてとらえられる︒以正吾々は基本的欲望として食欲︑性欲と︑補足的欲望の多種多様な
発展の内容をたどったが︑物質的︑精神的両側面にわたり無限に拡大してゆく欲望を充足する為に︑吾々人聞は積極
的に自然に対して働.きかけ︑又積極的に自然を享受して来た︒五口々人間は自然の客観的運動法則の認識の発展により
自然科学の成果を蓄積し︑その目的意識的実践の過程に於て︑技術学の発達をもたらした︒これら自然科学及び技術
学の発展は︑一方では生産力の増大となり︑他方では生活内容の向上となって現はれた︒従って人閣のあくなき欲望
乙そは︑社会発展の原動力であったし︑文その実現は人間の究極的目的でなければならない︒
マルクスは人間のこのあく乙となき欲望の増大を﹁人聞は︑自然的︑感性的︑対象的存在として︑苦しみをうけ︑
制約され︑制約された存在﹂として説明するが︑現実に於て︑人類の物質的発展は誠に驚異とするが︑吾々人聞の欲
望の発展の無限な拡がりと比較する時︑吾々人類の生活の貧しきはまた甚だしいといはねばならぬだろう︒
五
労働時間と非労働時間
吾々人聞がその欲望を充足する為には物質的生産すなわち労働が行はれねばならない︒かつ欲望の発展と物質的生
産力の発展とは︑その両者の相互作用の賜であった︒マルクス主義では生産力の発展は客観的な歴史的法別であるか
ら︑生産力を真に荷う階級の主張は常に正しいといはれる︒これは確かに一つの真理ではある︒だが︑このことによ
ってマルクス経済学では生産力の発展の目的内容が何ら問題にされずして︑生産力の発展を唯一の価値尺度として把
握される場合がある︒そもそも生産力そのものとしては何ら階級的性格を帯びるものではない︒生産力の発展そのも
のは目的ではなくして︑目的の為の手段にすぎない︒経済学が生産力の量的︑質的発展を把握する乙と¥吾々人間
経済政策本質論(その一) 一 O 七
経 営 と 経 済
一 O 入
の価値基準とは別個なものでなければならない
D生産力の発展の成果を如何に吾々が利用出来るか︑五口々の欲望を如
何なる形態に於て実現するかに価値基準がなければならない︒経済学として人間の欲望が対象化される為には生産力
という範障によらねばならないし︑そのことは原則としで人間の欲望が一般化せられ︑平準化せられたものと社会的
生産力とは一致することを意味していることは正しい︒だがこのことをもって︑人聞の欲望充足が価値基準であるか
ら︑同時に生産力の発展という価値基準が人間歴史の価値基準であるとなすことは出来ないし︑生産力の発展を以っ
て︑唯一の歴史の価値基準とする考えは物神性の一つの表現として警戒すべき内容を含んでいる︒そのことは生産力
が現実の社会的生産力として機能する時︑例えば階級社会に於て機能する時社会的生産力は一部の支配階級の欲望充
足を第一義的に反映するものにすぎないことからも明らかである︒すなわち︑社会の生産力の発展が社会構成員の全
その時には彼らにとっては欲望を犠牲にするにすぎない生産力の発展は主客転倒 員の欲望を反映しない場合も多く︑
といはねばならないからである︒
吾々は物を生産する為に労働する︒という乙とは一日の或る時聞を労働に費すという乙とである︒又吾々は労働に
その他の欲望を果す︒ということは一日の或る時聞を食事に︑読書に︑娯楽に︑睡
眠に費すということである︒前者を労働時間とすれば︑後者は非労働時間乃至閑暇である︒ よって得られた生産物を消費し︑
スポーツが吾々の肉体を爽快ならしめるように︑適当な労働は人間にとっては必ずしも苦痛ではない︒しかし︑労
働が一定の生理的︑心理的な限界を越えた場合には苦痛に転化する︒一般に労働は苦痛と理解されて差支えない︒人
々は労働による苦痛が︑その労働による成果が与える欲望の満足度よりも大となれば労働を中止するだろう︒苦痛と
満足とが異質なものであって比較.し得ないものとすれば︑彼は労働成果による満足度と︑彼の非労働の満足度とを比
較して彼の労働時聞を決定するピろう︒勿論人間の欲望の満足が主観的︑心理的なものである限り︑彼らが知何なる
限界に於て労働よりも閑暇を選ぷかは夫々異るだろう︒すなわち︑人間の主体的条件と︑労働客体の内容によって異
る︒従って︑労働を選ぶか︑閑暇を選ぶかは人聞の主観的心理的なものである限りは︑そのことは社会科学の対象と
はなり得ない︒それが経済学の対象たり得る為には︑労働時間と言う現象形態として表現される限りに於てのみであ
り︑且つ︑それは社会的に集計化され︑平準化される乙とによって生産力として具体化される︒
以上吾々は欲望そのものと︑欲望達成の主体的条件としての労働時間と非労働時間とを分析したが︑欲望の増大が
生産力の発展を要求するかぎり生産力の発展は次の如き性格を帯びて現はれる︒すなわち︑一方に於ては労働成果と
して生産物の増大であり︑他方に於ては非労働時間︑すなわち閑暇の増大という二つの目的内容をもち︑しかも生産
力が乙の二つの矛盾する目的を同時に実現させ得るから乙そ︑生産力の発展が歴史的な客観的法則として把握され得
るのである・︒すなわち︑生産力の発展は二つの内容を持つ︒ 一つは欲望充足の対象を︑単位労働時間当りより多く獲
得すると同時に︑他方同一生産物をより少い労働によって獲得すると乙ろの労働節︑約的機能である︒前者はより多く
の財を与えると共に︑後者はより多くの閑暇を与えるだろう︒
マルクスが指示した︑村︑口の項目は︑基本的には性欲以外の人間の凡ての欲望に基礎づけられ︑且つこれ
らの欲望は︑一方では財として︑他方では労働として︑社会科学としての範時を形成し︑それらの統一として生産力
の発展が具体化される︒勿論生産力は労働力︑労働手段︑労働対象として把握されねばならないが︑こ︑では労働力
として人間︑生産力に於ける人間主体に限って分析したものである︒
以 上
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