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−商業政策,『経済政策原理』に関わる若干の問題提起−

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(1)

政策と理論(I) 29

政策と理論(I)

−商業政策,『経済政策原理』に関わる若干の問題提起−

川田俊昭

古く,津村秀松氏の『商業政策』(明治44年,緒論)に謂う。

「商業政策の何たるかを解せむと欲せば,須く先づ経済政策の何たるかを 解せざるべからず。」

° ° ° °

「然らば,経済政策とは何ぞや。日く。『経済政策Wirtschaftspolitik』

°°  °°   °°° ° ° °      ...° °° e

とは,一名,『国民経済政筑 Volkswirtschaftspolitik』とも称せられて,

° °  °  °  °  °  ° ° ° . ° . . . . . . . . . . . . . . ° °  ° ° ° ° °  °

国民経済の完全なる発達を目的とする国家又は国民の一切の施設を総称す。」

更に,同著自序に言う。

「本書の内容に至っては,主として外国貿易政策を論ずるもの」,と○

貿易政策(対外商業政策)についての津村氏の如き立言は,以下における 本稿の如き立場にとって,殊更に,これを問題祝せざるを得なくなる。

ともあれ,この見解においては,経済政策の原理(経済政策原理)が,ヨリ 一般的なものとして,商業政策の原理に先行するわけである。

然して,このことは,現今においても,変らず,連綿としてあり,大抵の 場合,ごく「自明の理」として前提されている。換言すれば,敢て,これを 怪しとし,問題にしようとする人はいない。

しかしながら,事柄は,斯様に決して自明・簡単ではないのである。

我々は,我々における問題解決の順序上,商業政策が,歴史的には勿論,

原理的にも,経済政策に先行する所以を,就中,商業政策のいわば原点(商 業政策=貿易政策となし得る)より提起,考察することとする。(後述予定。

その他,本稿については,別稿,「商業政策学の体系と方法」,長崎大学東

南アジア研究所研究年報 第8集,併参。)

(2)

同肢に,今一つの J;2W~ (敢て言えば,偏見)が,我々の科学を一般的に支 配していることを, f 出向せねばならない。

即ち,それは,経済政策原理が,他迄,経済政策論として,経済学の一分 科,経済学(経済理論)の一応用学科に過ぎないとする見好,乙れである

O

それは,たとえば,野尻武敏氏の『経済政策原担~ (昭和48 年 , ドイツ流 の「一般径済政策論 A l l g e m e i n eW i r t s c h a f t s p o 1 i t i k J を椋拐する〉におい ても,特徴的である。

その初めに言う

D

「経済政策論は……広誌の経済学の一つの分科をなす。……経済政策論は 先ず,狭義の理論とは区別される

O

むしろ, r 1Jl二論の応用の性質をもってい

る o J 

或は,松原政由氏の『経済政策の論JlJl椛浩~ (昭和38 年) I こ言う口

「経済政策を研究の対象とする学問が経済政策論であり,これはいうまで もなく経済学の一分科である o J 

加政 冗氏他『現代径済政策の理論 J (昭和37 年)に至っては,尚一回徹底 している。

「私達は, r 径済政策論』というものは r 応用終済学』であり, r 経済Jffi

;治の応用 J であるという考えから出発している r 経済政策論』の研究対象 については極めて多くの具なった見解があるが,応用経済学であるというこ とは,先ず全んどの人が認めることであろう o J 

経済学が経済理論,経済政策,経済史の三分科に分たれるという前提が,

経済政策(論)を経済学の一分科となす,という弁明は,必ずしも白切とは 言い稚い。人は,決して,経済理論を経済学の一分科とは呼ばない。何故な らば,経済学二経済理論という陪黙の諒仰が,いわば,或 1 3 味 で の 力 閃 係 (経済理論の絶対的支配・侵越一一経済史 , J~(I乙経済政策への差別)が,そ こを,支配しているからである

D

このことは,更に,経済学を経済理論,経済政策,経済史の三分科 l 乙,或

は「経済政策と経済理論」に分つ辺常のやり方自体に,実は,大いなる問題

(3)

政 策 と 理 論 ( 1  )  3 1  

がある一一大いなる疑義がある o (後述)

然して,以上二つの在来の見解(偏見)が,我々にもたらすものは,第一 に,経済政策, そして第二に,商業政策一一就中,商業政策の休系としての 独立,即ち, r 独立の学問」としての商業政策(学)の否定である

O

商業政策,経済政策一ーとりわけ,経済政策(学)が,経済学(経済理論) 同政,体系的・原理的取扱いに耐え得るものであることは,既に,今日, か なりの検証と確認を得ている

D

たとえば, J. ティンパーゲ、ンが, r 経 済 政 策 の 理 論 Ont h e  theory o f   economic p o l i c y   ~ ( 1 9 5 2 ) 序において, r この小冊子は, 経済政策に閃する いくつかの間思を,体系的に取 J 及おうとするものである」と言った 1 1 , ] : , まさ に斯かる :~n;Kにおいてである O

「それは一方において, 経済政策の問題に特有な色々の和郊の変玖〔与 件 d a t a , 日原 t a r g e t s ,  用只 i n strumen t s ,  及 び 局 外 変 数 i r r e l e v a nt  variables‑‑$ 者〕を分類する乙とと, その r l l に合まれる問題の五'!の数学 的定式化を試みることにある

O

……克{こ, i J i r 1 J ] i な日市の決なから社会的・経 済的改草に至るまで,経済政策の租々な型を,体系的に民望してみようと試 みた。」

7 こしかに, そこで用いられた方法一一「経済政策の方法」は,特定の方 法,即ち計百 1 ( 守一一ティンパーゲンの所訂「豆的政策 quant i  t a  t i v e   p o l i c y   J  の方法に J 処るものであるが故に, その休系・理論のもつな I 床は,必ずしも,

f ? j 立的な迎用をもつものではない。

しかし, これは,探知の如く,経済学,所前「間有の経済学」では, ごく 一般的なやり j J である

D

従って,そこに仮に批加があるとすれば それは,似の?玉済政策, 「経

済政策の理論」のみならず,辺Jl;~ のj霊前田市,日rr 訂J I 数日;治」が等しく : u わ

ねばならぬ i ? ; なのである

D

(4)

吏に加えて,彼の J 見合,政策の型が休系的に有 I ' } 想、されていることは,彼の 政策における体系・理論化の;立図が並々ならぬものであったことを,即ち,

その立図自体において既に一つの方法論への果敢な発想があったことを,我 々は宕 J 0 し得ないのである

O

ティンパーゲンにおける「経済政策の理論」が更に方法論的に徹底され た も の , そ れ を , 我 々 は , 彼 の 4 年 後 の 者 r 経済政策,原理及び計画 Economic p o l i c y   p r i n c i p l e s  and d e s i g n j   ( 1 9 5 6 ) に発見し得るのであ

る 。

この若においては,彼の前者がえミだ計五経済学的な:rJ;;の設定に止まってい たのに反し,それを更に一歩踏み越えたところの,抗言すれば, n i j 者で芯図 されたところの「質的政策 q u a l it a  t i v e   p o l i c y   J へ の 発 反 , 又 そ れ に 相 応 すべくヨリ拡充・深化されたフレーム・ワークの設定がなされている o r 我 々は,質的な手段を数量的な子段から区別する

D

前者は更に<(諸〉基礎 foundations > の 変 化 と < i : [ I ] 造 s t r u c t u r e >の変化とに分けられる o J 

ティンパーゲ

F

ンは,前者において,丑的政策と質的政策について,夫々,

次の如く区別,芯義づけていた。「主的政策及び質的政策……質的政策と は,経済構造の一定の質的局面を変えることを志味し,量的政策は一定の構 造の質的な枠の中で……政策パラメーター又は政策用具を変えることであ

る。」

いわば,後者における「枯造の変化」とは,彼にとって,前著における質 的政策の目標として考慮されるものに外ならぬ口 「質的変化の例は次の辺り である o (i)前に競争市場が存在したところに独占を創り出すこと。又は 逆に前に存在していた独占を解体すること o ( i i ) 関税同盟を導入すること

O

( i i i )産業又はいくつかの産業の国有化……。」

人,もし,注芯深くあるならば,そこに ,J.A.シュムベーターの所詞「五 r r

結合の遂行 J (の条件)をそのまま見る乙とが出来よう。或は, (B. ハノレムス

一派の)構造理論の立場からする所謂「杭造変動」を考応することさえ,可

(5)

政 策 と 理 論 ( 1  )  3 3  

能である

O

更に,後者の場合 I 構 造 の 変 化 」 に 加 え て I 基礎の変化」一一「基 礎」という従来の経済学の範曙では到底考えられなかった,新しいヨリ拡充

・深化されたフレームの設定を行ったのである I 基礎は,勿論,人間社会 の組織において,一層基本的な要素,即ち,精神的価値に関連する要素及び 人間聞の不可欠の関係を規定する要素である。前者のタイプの基礎の例に,

信仰の自由,投票権,財産権,教育の機会などがあり,後者のタイプの基礎 の例に,ある集団がもっ特権,分業及び特化の程度,生産及び政策の分権化 の程度,一定の形式の社会保障の有無,産業民主主義がある o J 

尚,ティンパーゲンにあっては I 基礎の変化 J , I 椛造の変化」のいづ れもが I 経済政策の手段」とされていることに注なすべきである o I 与件 の中には,程度の差はあるが,政策担当者によって変えられ何ュるものがあ る D それらを,経済政策の<手段 means> と呼ぶ o J 

と言うことは,彼の場合,政策によって変化することのない,換言すれば 政策担当者にとって文字通りの「与件 d a t a J であるところの克に広筋四の ものをも,前提していることとなる I 政策担当者によって変えられ得ない 与件を,くその他与件 o t h e rdata> と呼ぷ。」

斯くして,ティンパーゲンにおける経済政策(の論理・体系)は, 1 9 5 6 年 当時において,既に,広く且つ深刻なるものであった。 I 経済政策は,一定 の諸目的を達成するために多数の手段を熟応して採作することからなってい る。……用いられる手段の性質に従って,改革 r e forms ,  1 1   O 守政策及び主 的政策の区別がなされる

O

勿論,それらの問の組合せもある

D

改 1 1 ' ; : は,基礎 の変更に相当するものであり, J 口も広何回にわたるタイプの政策である。改 草の一例は,社会保時計画の導入である。 1 1 的政策は, j l i むの変化,即ち,

社会組織の不可欠ではない側而の変更,たとえば,税程の変克をな味する

O

最後に,日的政策とは,経済政策の用兵変 t ! J . の{[lIの如何によってもたらされ る変化をな味する D これは, 1 止も 2 1 みの小さいタイプの政策であり, f はも y J i

紫に用いられ,特に,変化のg:J1皮の多い与件の変到に経済状態を即応させる

(6)

のに用いられる

O

政府支出,租税,割引率,単価率の適応、は,その例であ る

D

……大抵の経済現象の問には,相互依存の関係があるから,一定の時 期における経済政策を,一つの笠合的な全体として考えることが必要であ

る o J 

ティンパーゲンにおける場合,それは最早,経済理論とは独立した経済政 策の理論一一経済理論と併立したというより経済理論(の蚊)を超えた新し き芯味での経済政策の理論一ーの主張,しかも,単なる理論から,理論の理 論,理論の理,即ち「原理 J (その言葉の本来のな味における)への深化・

徹底が, (結果の是非はともあれ, )そこにな忠されている,というべきで ある O

ティンパーゲンの経済政策の理論が I 近代経済学での n f t ‑ の体系的政策 論」と称呼される所似も,又, ~好かる根底的芯味合においてであらねばなら

ぬ 。

然して,ティンパーゲ、ンの経済政策の理論が,まさに斯かる志味合におい である限り,そこにあるのは改早,経済学の l i i なる一分科,一応用としての 経済政策論でなく,それ自体独立した学科としての一一むしろ経済学を援用 するところの,経済学の上位にあって経済学(の成果〉を利用し規制するも のとしての,いわば経済学に佼越する一一経済政策(学)を乙そ,考!日すべ

きである

D

投言すれば,我々が,少くとも,斯かるティンパーゲン(正しくは,ティ ンパーゲ、ンに集約される従来の程々なる努力)を考ほする限りにおいて,我 々は,経済政策論を,経済学の一分科と呼称することは,最早許されないの である O

我国の社会科学一一経済学古において,その序論(特に,方法論〉は,往々 その本論(の内容〉によって哀切られる,即ち前後の一貫性を欠く場合が,

少くない。経済政策論の者において,そのYi:者がティンパーゲ、ンを考出し ている限りにおいて,もし彼が政策論を原論の一分科となすならば,我々は,

そこに矢張,論理(原理)の上における哀切り一一矛応があると五 わねばな

(7)

政 策 と 理 論 ( 1  )  35  らぬであろう

O

もっとも,ティンパーゲ、ン自身において,如上の如き固有の主張があるわ けではない。

しかしながら,彼は書いている D

「経済政策は,一定の諸目的を達成するために多数の手段を熟応して採作 することからなっている

D

……最善の経済政策を見出す際の,即ち,一定の 目標を達成するために一定の手段をどの程度用いるべきかを見つける際の論 理は,ある;古味で,経済学者にはおなじみの論理の逆である。経済分析の諒 題は,与件(経済政策の手段を合む)を,所与又は既知であるとみなし,経 済現象や変数(経済政策の目的を合む)を未知として考えることである o ( そ れに対して, )経済政策の問題は,日原を所与とみなし,手段を未知又は少

くとも一部分未知とみなす。」

即ち,この条において,ティンパーゲンは,少くとも,政策と主Il I T 命とは,

論理が逆であることを,認めている

D

加えて, i E l は , (木 fl"~ の先の主張における如く, )経済政策が経済自治の ; 1 } 1 "

をも超えるところにあることを認める。

「経済分析によって,経済政策の問題を完全に処理する乙とは出来ない。

経済外的な ~i長が合まれるからである。特に,回収の述択,そして,ある程 度は,手段の選択の問題がそれである o J 

と言って,理論(分析)は,政策の立場にとって, 1 r r C 古味であるわけでは ない。むしろ,加めて行な義な役割(但し,政策のための伐としての〉を担 っている o

即ち,ティンノ f ーゲ、ンは;完ける。

「しかし,それにも灼らず,経済分析は主要な宍 l i 氏をなしねる

O

それは,

( a ) 仮定された日松岡の,且つ又,目的と手段の組合せの,出合 ' t d : を 判 定 す るのに役立つことが出来る。……矛盾を凡つけ出すことによって, (b)可ú~

性の何回をせばめ,その仰を求めるのに寄与することが出来る。没後l , 乙

(8)

‑・…それは又, ( c ) 目椋もしくはもっと一般的な目的が充分に規定されて居 り,矛盾が示され得ないような問題の用具変数の位を決定することが出来 る o J 

だからと言って,理論が政策に役立つ機能を過度に誇張することは,強く 戒められねばならぬ o いわば,この場合,理論は所詮,政策の一部の組成,

一部を覆うものだからである

O

にも拘らず,人あって,もし,理論が政策 l 乙果す役割をむしろ政策のすべ てであるとするならば,それは甚しい誤解,理論自らの非常な俗越というよ

りタトないであろう O

近時,斯かる弊(その最たるものは,所謂「純粋理論」を担論のすべてと 考える〉の『経済政策原理 J (の若)の我国に政足すること多いのは,その机 野,見識の狭さと併せ, 1 折かる方面の方法論的反省の完全な欠除に拠る,と 断ずる外ないであろう

O

経済理論が経済政策に果す役割の 1 主要な貢献の J ,ティンパーゲ、ン流 の理解(の淵源〉は,周知の如く,実は,速く,マックス・ウェーパーに遡 る 。

ウェーパーは理論と政策との関係,就中 1 政策における理論の果すむ i 極 的役割 J (筆者, 1 前掲論文 J ,参)について,論文「社会科学的並びに社会政 策的認識の『客観性 JD i e   "Objektivit~i.t" s o z i a l w i s s e n s c h a f t l i c h e r   und  s o z i a l p o l i t i s c h e r  E r k e n n t n i s J   ( 1 9 0 4 ,  1 社会科学及び社会政策雑誌 J ) に , 次の如く,古いている o )以下,その後続の文 Eft‑ 一同論文の前半, 1の部分 一ーをも併せ,主たる参考とする o ) 

1 : 立味をもった人間の究杭的要京について行われる思惟的省察は,何れも

先づ『目的 J と『手段』との範曜に結びついている

D

我々が具体的に何かを

2 3 欲するのは r そのもの臼休の価値のため』か, もしくは,究極におい

て志欲されたものに役立つ手段としてである

O

しかるに,先づ疑いもなく

科学的考察の対象となり得るのは,与えられた目的における手段の迎合性

(9)

政 策 と 理 論 ( 1  )  37 

G e e i g n e t h e i t という問題である。我々は(その時々の我々の知識の限界内で) 如何なる手段が或る考えられた目的に到達するに適合しているか,又は迎合

していないかを正しく確定し得るのであるから,これによって,使用され得る 一定の手段を以って一般に或一定の目的を達成し得べき可能性を考呈するこ とが出来,又それ故に間接には,目的定立そのものをば,その時の歴史的状 態に基づいて実践上有意味だとか,又は与えられた諸事情によっては無志味 だという殺に批判することも出来る

O

更に,もしも,或る考えられた目的へ の到達の可能性が与えられている様に見えた場合には,勿論いつでもその時 の我々の知識の限界内においてではあるが,必要な手段の使用が全事象の全 関 l 院に基づいて,所期の目的の達成のほかに如何なる諸結果をもたらすであ ろうかということをも,確定することが出来る。そこで,我々は,行為者を して,彼の行為から生ずべき芯欲された結果と 1 5 欲されなかった結果とを評 呈することを可能ならしめ,これによって,所朋の目的の達成が予見されね べき他の諸価値の:il 1m という形で何を『犠牲にする』か,の間に答を与える こととなる口大多数の場合に,如何なる目的追求もこの芯味で何かを『犠牲 にする j ,もしくは少くとも犠牲にし得るものだから, Z I 汀壬を以って行為す る人間の白台にして行為の目的と結果との相互秤呈に触れないものはあり符 ない。そして, j 折かる秤日:を可能ならしめることは,これまでゴ j ‑ 察してきた 技術的批判 t e c h n i s c h eK r i  t i k の最も主要な j 投能の一つなのである

O

とこ ろで,今川かる仔主そのものに決右をつけるのは,もとより以早科学のなし 得る任務ではなく, 7 2 欲する人間のなし得る任務である。彼は,自己の良心 とその個人的な!止界初に従って,問題となっている諸価値を秤日し,且つ選 択するのである。利・学は彼を授けて,一切の行.為が,勿:論命又 3 手 ) 下 汁 : シ 司 i ' 伯 i

不行九が,結局は一定の(岡市立への左祖をな味し,従って一一これは今日 l 持に

よく誤解されるところだが一一泊に仙の価 l 1 白こ敵対することになる,という

ことをな識させることは出米る o だが,選択をなすのはな欲する人間の仕事

である o J 

(10)

即ち I 政策学一般における理論のお松的芯義」は,理論が I 与えられ た目的における手段の迎合性」を明らかにしねる点に在る

O

投言すれば,

「目的に応ずる手段を担えるに当ってその迫否の判断となるものが理論であ る o J  (成井茂, u 経済発反と貿易 l 政策 J ,昭和 3 3 年)

ティンパーゲンが I 経済分析は主要な貢献をなし得る D それは, ( a ) 仮定 された目椋間の,且つ又,目的と手段 ω 組合せの,控合性を判定するのに役 立つことが出来る J ,と三った時,又,全く同拡なな~~合においてであるこ

とは言を伎たない。 I ( b ) 可能性の泊四をせばめ,その仰を求めるのに寄与す ることが出米る

O

・・・・・・それは又, ( c ) 目加もしくはもっと一般的な目的が充分

に規定されており,矛盾が示され得ないような問題の,用兵変~の(直を決定

することが出来る。」

政策の坊の知識,即ち担論……それに最も迎当した手段も自ら工夫,)5]択

されるであろう。主体,目的の合理性・ ~!c=.合主Jl性の検証,ある程度のがとえj- づ

けも,可能となる I たとえば,人が目的だと思っている多くのことが,宍 は別のヨリ究極的な目的への子段に氾ぎないと指摘することも山来る。」

(K.E. ボウノレディング, r 経済政策の原田 J ,  1 9 5 8 )  

究位的…・・・ I 我々が,具体的に何かを 2 3 欲するのは『そのもの自体の価 値のため』か,もしくは究極において立欲されたものに役立つ子段としてで

ある o J  (ウェーパー)

判断を誤った無駄な努力や I 松牲」は可能な限りはぷかれ,天下り的な 或は突拍子もない考えのない決定又はその椋な決定を下す政治ヤは斥けられ るであろう o 従って反面,こうも言えるであろう。 I 不可能なことを政策的 考慮から遠ざけてやることは,政策立案者に対する主要なサービスである

O

と言うのは,不可能なことに努 ) J するのは無駄なことだからである。 J (ボウ ノレディング)

ウェーパー……ティンパーゲ

P

ン,ボウノレディングを合む政策原理一般の包

括的扱いの(我々の問題に関わらせての)ー控理として,ここで一寸した守

道をしてみよう O

(11)

政 策 と 理 論 ( 1  )  3 9  

「政策J という概念にストレートに直進する前に,今一寸, (突拍子もな いようであるが) I 椅子」という概念を考応してみよう。

『広辞苑』によれば, I 椅子」とは, I 肢を掛ける具。うしろによりかかり があり,その形は,方形,円形,長方形などで,肢目、ける所には, J ] j ; L 物 又は了t T ; : を 張 る J ,とある

O

「肢を掛ける」ということが,この場合,椅子の<目的>である I 具 」 というととが<手段>となる。椅子は,その目的を(出来得る限り)完壁な らしむるべく, I うしろによりかかりがあり,その形は,ブ 1 ] ] ム 円 形 , 長 方 形などで,腰掛ける所には,膝, ~ì'íZ物又は 1iî を張る o J 

11t~ を張る」もの,必ずしも椅子ではない I 股を掛ける」という目的

が,何より,この場合,条件として不可欠である

O

それによって,たとえ ば , Z E の張り方にも自ら工夫が生ずる

O

従って又 1 1 1 :

f

t を張る」こと,必ず しも「肢を掛ける」という目的を 10096 満足せしめるわけでもない。目的が 手段を制約すると共に,手段は目的を翠fI;!Jする

O

椅子の:lld・合にも,手段は,同時に,対象(客休)としても,ゴ'~.1'立されねる O いわば,狭義の手段(手段)と広誌の手段(対象)という考え方が,そこに 可胞である o I 原,泌物又は l { i J は 1 J i j 者であり, I 只」ー肢は,役者である

O

更に, : i ;, J 子は, J m n lJ的には,人間(主体)の用いるものである

O

斯くて I 附子」という慨念に,我々は,一応,

日 I ' ( ] 子段 主体

対象(容休)

という,四つの安来を凡山すことが山る O 四つの安来が, i な子の概念を形 成しているわけである。

人!日]乃至人間の行為一即ち, I 芯味をもった人間の行為J(ウェーパー) I (   ß~ {/'Gする一切は,又同ぷな巧‑京一一「思 I U d ' I J / i 泌さ」が,山つの以来一一

1 ) ' [ . + 目的喪主」について,可能である。

(12)

言うまでもなく,最も「究極的」なのは,先づ r 目的 J ,そして「手 段 J (の二つ)である r 志味をもった人間の行為の究極的要采について行 われる思惟的省察は,何れも,先づ『目的」と『手段』との結時:に結びつ いている

O

我々が具体的に何かをな欲するのは, r そ の も の 自 体 の 価 値 の ため』か,もしくは究極においてな欲されたものに役立つ手段としてであ る o J 

目的と手段とは日告に相対的である口何故なれば,子段が白的として

1

日時考 応される場合もあるし,又目的が粘局において子段とされる場合もあるから である

O

目的の目的,子段の子段……或は,広義,狭義の目的,手段といっ た考え方も,そこには可能であろう。

真,菩,尖は,我々において究極的な価値とされている

O

斯かる元三味にお いては,たとえば,我々の経済は,それ自体が目的でなく,目的を実現せん がための一手段である r 経済自体の特有の目的があるのではなく,すべて の人間目的はそれが物質的手段を必要とする限りにおいて経済活動にいわば 目的性を負荷する o J  (北野熊喜男, r 経済社会の椛造分析 J ,昭和 22 年)

以上の如く,椅子について巧 1 ぶせられたことは,我々が,政策の概念につ いて考応する場合も全く同様である。何より一一

目的 手段 が,考え方によっては,夫々一一

目的 手段 主体

(13)

政 策 と 理 論 ( 1  ) 

対象(客体,政策の場)

目的 手段 主体 対象

g 休(対象に*ずるもの,或は「与件 J ) が,政策の概念を形成する「究極的要宗」として見出され得る o

4 1  

ウェーパーにおいて・・・・・・ティンパーゲンにおいて, ボウノレディングにおい ても,然りである。

ボウノレディングの言う o

「経済政策とは何か……政策の定義……一般的にいって<政策>とは,特 定目的をもった行劫を支配する諸原理を言う。従って,政策の研究は,次の 三つの事項を係り上げねばならない。即ち,我々の欲するものは何か〈目的 e n d s )   ,我々は如何にしてそれを達成するか(手段 means) ,そして<我 々>とはそもそも誰か,つまり,政策に関わりをもっ人々の組織或は集団 は,如何なる性絡のものか一ーという三つの事項である。」

学文社 f i J , W ポイント経済学⑤ 経済政策 J (昭和 4 4 年)は,同じく,古い ている o

「経済政策とは何か……1 3 義……およそ政策 p o l i c y という時,それは,

ある目的を達成するためにとられる行動を支配するところの原則をな味す る

O

従って,経済政策の研究にあたり,まず『経済政策とは何か』という根 本問題を検討・するに際しては,次の 3 点について考えねばならぬことにな

る。即ち一一

( 1 )   我々が欲している目的は何なのか,

( 2 )   その目的を達成するのに有効な手段は何なのか,

( 3 )   経済政策の主体として,我々という時,それは一休前のことである

のか。」

(14)

叙述の仕方よりして,それが,先のボウルデイング(目的,手段,主体の 三つを考える)をそのまま踏袋していることは,言を{失たない口

ただ,この J 見合, ( 2 ) について1"有効な」の形容が,いわば余計にあるこ とは,主要である

D

手段が「有効 e f f e c t i v e J であることの条件は,何か。

ボウノレディングは在日文として,古いている

O

Our p o l i c y ,  t o  b e  e f f e c t i v e ,  Must chase a s u i t a b l e  o b j e c t i v e ,  So ,  o u r  economy should b e  

Both Growing ,  S t a b l e ,  ] u s t  and F r e e .  

i i l i t i 入安定,正義及び自由は,彼にとって1"社会政策及び経済政策の目 棋における四つの要素」である。

子段の有効性一一手段が1"有効な手段 J ,即ち一定の目 1 1 1 ! に有効である か否かは,手段そのものにあるというより,むしろ, (対象,客 {i!~- 1 " 適 切なJ: s J を合むものとしての)広誌の手段の問題である

O

目的そのものが与えられている限り, J T r か る 考 応 が , 従 っ て 又 そ の l i 7 r 答 が,手段としての有効一一「迎合」を保証するのである O ウェーパーに謂 う1"与えられた目的における手段の迎合性という問題……我々は(その時 々の我々の知識の限界内で)如何なる手段がある考えられた目的に到達す るに迎合しているか,又は迎合していないかを,正しく確定し得るのであ る o J 

允の「ポイント経済学』によれば,こうである1"目的……それを達成す るのに必要な子段を前ずるのが経済政策なのであるから,経済政策学の主安・

な諒題は……第ーに,選択された手段が目的達成上呆して有効なものである かどうかを論ずる乙と……にある o J 

然して,ウェーパーによれば,この間こそ,何より科学的な同一一「先づ疑

いもなく科学的考察の対象となり得る口……そこで,我々は,行為者をして

(15)

政 策 と 理 論 ( 1  )  4 3  

彼の行為から生ずべき志欲された結果と意欲されなかった結果とを秤豆する ことを可能ならしめ,これによって,所期の目的の達成が予見され得べき 他の諸価値の汲損という形で何を『犠牲にする』か,の問に答を与えること になる

0

・・・…そして,斯かる秤止を可能ならしめることは,これまで考察し て来た技術的批判の最も主要な段能の一つなのである o J 

以上の如くして,再び,我々は先に述べた問題(の次元) ~こ立反ることと

なった。

既に述べた女 1 1 く,この次元に我々が消極的にしかもごく辺!日して止まる限 り,理論と政策とは共通の次元にあるとたとえ言い切っても,決して大きな 誤ちを侵したことにはならない。ウェーパーの斯かる方法治(の正当性) が,近代径済学者,放にまた目のそれら亜流によって過度に強引され!日ちであ るのも,これ又処理のないところである D ボウノレディング l こ 訂 j う I 政策と 原理は別個のものではない。経済政策の原理は経済学の原理なのである o J 

しかし,果して,それでよいのであろうか。従来,ウェーパーに閃する大 きな誤 i W (というより,プチな曲師)があるのではないか……(先の取扱い の)ティンパーゲンに閃する限りにおいてでも,克 l こボウノレディングにおい てでも,実際はそれ以上のものが指示されているのではなかったか。

たとえば,波辺径彦氏の『現代の経済政策 j (昭和 44 年)は, I 現代の経済 政策は,第ーに,経済理論を1k l e l i とした治主 I I 的思考・から生れたものでなけれ ばならない(そしてその 1 1 1 な理的主合性の r f えに,や ( 1 i!i‑iJを具にする多くの目々の 人達の共辺言誌ともなりのる) J としている点, (~医者の i点疑 1'i'0-批判的 な)本 j 哲学者の方向の象徴的なものと言って差支えない。

にも拘らず,同者は続けて I 第二に,それは絶えず羽宍とのフィード・

パックをもっていることを考えなければならない(それ故に,各国の庇史的

・風土的条件に合致した政策休系の ) 1 1 択が求められる) J としている

D

はし

(16)

なくも,斯かる方向の無理一一破綻を,白から示している

O

事実,向者には,斯かる方向への反省がある

D

言う I 私は屡々,経済政 策は諸刃のな〔剣?一一筆者〉であって,好況もつくれるし不況もつくれる ということを強調してきた。ということは,経済政策が単に目棋を有効に達 成するための技術的な手段を探すことのみに終始した 1 1 寺の危険が大きいこと を怠味している。この~\味で,賢明な政府の主要性は,経済政策の技術的側 面がいくら改良されようとも,決して失われることはなし」しかし,賢明な 政府が常在するという保証がない以上,経済政策は,その技術的性格以上の ものを追求する必要もあるし,賢明な政府があるとないとに拘らず,経済政 策のもっている論理を充分に貫徹するような社会的制度も必要であろう o . . .  

…現代の経済政策は,技術的性格だけでから判断しではならない多くの側面 をもっている

D

たとえば,政策目椋聞のトレード・オフを考応した政策手段 の選択は,政策目私自身の価値判断に経済論理からの制限を訴すことによっ て,政府のとり得る行動の自由度を制限する可能性がある。又以後の経済 政策の展開がもたらした一つの貴重な成果は, r 大きな失業の発生をもたら すような有効需要の調整はしない』ということであったが,乙の浸透は,た とえ物価安定に多少の犠牲を強いるとしても,技術的手段のあげ得る成果以 上のものをもたらした有力な事例である O 従って,現代の経済政策が単に洗 車 f I された技術に終ってしまわないためには,多くの人々が何よりも先づ,経 済政策のもっている論理的構成,技術的手法及び応用的経験を,充分に理解 することである o J 

換言すれば,向者からのこれだけの援用からしても一一政策(学)は,目 的一一手段の「効果 J ,しかもその算手t~-数量論に局限されるべきはない こと,効果自体, r 制度」一一制度的考察の必要のあること,政策(学)はそ の要件として,その「主体」の,更に又,その「目的」・目的そのもの一一一

「価値判断」の如何をふ考応することの必要を,我々に示唆する o

言わば,迫俗の『経済政策原理』は,その在り方一一ーその問題(論理)の

(17)

政 策 と 理 論 ( 1  )  45 

立て方に,著しい転倒一一倒錯があった,というべきである

O

ボウノレディングが『経済政策の原理』で示した,理論と政策との閃係につ いての考慮は,又それなりに固有のものである

D

しかしながら,彼が政策の場合について,理論の場合におけると同総,

「目的」についての考慮に多分の制限をなしたことも又,事実である o

彼においても,目的一一 1 < 我 々 の 欲 す る も の は 何 か > (目標)の究明 は,社会科学の傾域を越えて倫理学の分野に入ってしまう o 人!日]活問 j の究極 目的を評価することは,社会科学の仕事ではない。……目的に閃する論評,

即ち人々の正しい欲求の対象は何かという議論は,科学者の領分というより は,哲学者或はネ i l l 学者の領分なのである o J 

こういった点,彼はまさしくウェーパーの立坊に等しい。

即ち,ウェーパーに謂う 1 秤呈そのものに決若をつけるのは,もとより 最早,科学のなしねる任務ではなく, ,立欲する人間のなし得る任務である。

彼は白己の良心とその個人的な世界観に従って,問題となっている諸価値を 秤呈し且つ選択するのである o J 

にも拘らず,ボウノレディングは古いている 1 政策の面においては,倫理 なき経済学は,文点なき;廷子に等しい J ,と o 更に,進歩,安定,正義,そ

して自由の四つの目加を,彼自身における自明として取扱っている。

彼は決して,目的一一価値判断にアン・タッチャフツレなわけではない。

成長,安定,平等の三つは, A . C . ピグーの日Fr苛 1 1 厚 生 W e l f a r e J で あ

るから,残るものとしての「自由」が,ボウルディングの j お合,とりわけユ

ニークなものとしてある I j l U l ヌ……安定……公正……吏に,人類の願望の

中には,又,社会;I; I J 1 支なり政治f[ j ‑ I J 度なりを判断する基準の中には,上述した

三つの目加で ! i まい尽されない一つの要京……一一一それを,荘、は< I~I r l 1 > と呼

んだ。 J (政策日以としての「自由 J ,殊に今日時の客 1:)~化された1tITî 1 r L L 判 断

(18)

一一「支配的価値判断 j としての可能については,拙稿1"前担論文」

参。)

勿論,同じく目的に関わる取扱いであっても,その問題(乃至その問題の 処理)が,目的一一子段(の関係、〉の客観性を究める「技術的批判」のカテ ゴリーに(一つの延長,応用として)包容される限りでは,仮令,目的につ いての論議であっても,これを科学一一科学的となすことには,ボウルディ

ングの場合(ウェーパーの場合も),一応,問題はない。

ボウルデイングの言う。

「社会科学者は,目 1 2 ! の論議にも i l l 虫:な貢献を果すことが出来る。たとえ ば,彼は,人が目的だと思っている多くのことが,ヲミは別のヨリ究極的な目 的への手段に過ぎないと指摘し得る

O

又,一見目的に関する議論も,別のヨ リ先 j 霊的な目的への手段の選択の問題に白き扱えれば,解決は容易になるか もしれないと指摘することも出来る

D

人間活劫が 1 1 1 r ーの目的しかもたない坊 合はめったになく,更に,人間活動には多くの目的があって,その中には互 に矛盾するものもあるという有益なお j i 白を行うことも出来る o J 

苅かるボウルディングに対応すべく一一ウェーパーの言う。

「……間接には,目的定立そのものをば,その時の歴史的状態に基づいて 実践上有志味だとか,又は与えられた諸事情によっては無芯味だというよ うに批判することも山来る

O

……科学は彼を扱けて,一切の行為が,勿論又 主的によっては不行為が,結局は一定の価値への左祖をな味し,従って一一 これは今日特によく誤解されるところだが一一常に他の価値に敵対する乙と になる,ということを志散させる乙とは出来る o J 

更に,目的一一価値判断(そのもの〉に関する取扱いであっても, (上述の

援用にも半ば窺れる如く〉それが,我々の理性(理論理性)・論3]l!(訴える限

りにおいては,ウェーパーの坊合1"科学的取扱い」とされる。(所謂「論

理的批判 J ,これである o ) 

(19)

政 策 と 理 論 ( 1  )  4 7  

ウェーパーの百う。

「価値判断の科学的取扱いは,更に進んで,芯欲された目的並びにその根 底にある理念を単に理解せしめ, j s i 木股せしめるだけでなく,何よりも先づ 批判的に『評価する』ことをも教えるものでありたい。もとより斯かる批判 は弁証的な性格をしか持ち得ない。つまり,それのなし得.るところは,歴史 的に与えられた価値判断や理念の中にある材料を形式論理的に評価するこ と,即ち意欲されたものの内的無矛盾性の要訪に照らして理想を吟味するこ とに止まるのである o 価値判断の科学的取扱いは,この目的を立てることに より立欲者を援けて,彼のな欲の内容の根底に存する究極の公理,即ち彼 が無 ; E i 哉の裡に出発点とし,もしくは一一矛盾に陥らぬためには一一出発点

とせざるを得なかった究極の価値規準を自省せしめることが出来る o J 

もっとも1"一つの理忽につき,その内容とその究極の公理とを論担的 l こ に分析し,且っこの理 jd の追求からして論理的及び実践的に生ずる諸帰結を 開示する企てが成功したものとして見られ得るためには,それは支那人に対

しても又妥当しなければならぬ o J 

ボウノレディングにおける「目椋」についてのゴラ出が斯かる限界内に止まる 限り,それは未だ科学的な取扱いである。

ウェーパーの言う

O

「只休的な{団組判 i析に現れる所かる究枢の規 W~ を;立識せしめることは,確 かに科学が思弁のffi' i : ! 1 立に踏み込むことなしになし得る最後のものである

D

・…経!決科学は,何人にも何をなすべきかを教えることは出来ず,ただ彼が { i 百をなしのるか及び一一 ‑ Z I H j ' J によっては一一何をな欲しているかを教えるこ

とが出来るに過ぎない。」

所かるウェーパーと,全く同一トーンにて,ボウノレディングの言う。

「……社会科学は,ある政策がく正しいかどうか>という問に先祁的回答

を与えることは出来ない。社会科学者は,人々が欲しいと言い,成 ! ; : t欲しい

と巧・えているものが何かを克明することは山米るし,人々が<木当に>欲し

がっているものは何かを,その行'~)J から Jftr析することさえ出来るだろう O し

(20)

かし,人が果して正しいことを欲しているかどうかを論ずるのは科学の仕事 ではない。……<我々が欲するものは何か>よりも,くいかにしてそれを達 成するか>を究明する方が, ; f u かに科学'者の性に合っている。……科学的知 識は,<ノウ・ハウ>或は技 W i と全んど等しい。」

尚,ここで,更に,我々が注意すべきことは,ウェーパーの目的一一価値 判断に関する取扱い(技術的t1t4~U ,論理的批判一一「価値判断の科学的批 判 J )が,必ずしも(通例の解釈における如く)消極的に尽きないこと,む しろ積極的にその取扱いが考応され,時 l 乙場合によっては,科学(特に経済 学)の領域内で解決するものとも,考えられていないことである。

即ち,ウェーパーの言う。

「芯欲されたもの自体の芯訟の知識……我々は,具体的目的の根底にある ところの,又はあり得るところの『理念』を先づ開示し且っとれを論型的に 聯関せしめつつ展開することによって,彼がな欲し選択する諸目的をばその I B i ; 閃と芯義とに従って知らしめることが出来のである

O

……このことは,

『経』験的実在の思出的整序 denkende Ordnung d e r  empirischen Wirk‑

l i c h k e i tJ]を追求する科学の限界を超えるものではない。もっとも,斯秘な * i J

神的価値の解明に用いる手段は,普通の芯味における『帰納』ではない。斯 様な課題は確かに,少くとも部分的には,乙れまでの分業的に特殊化された 専門経済学の埼の外に踏み出るであろう。問題は社会哲学 S o z i a l p h i l o s o ‑ p h i eの課題に関するのである o J 

たしかに1"社会哲学」は,いわば形而下に関わるもの(?)である限り において,形而上学とは異る,と考えられる

O

科学的なるものの一程であろ う。それは,半ば,事実一一一「経験的真理の妥当 J (ウェーパー)の問題に 外ならぬからである

D

「文化生活の立味を一義的に規定しようとする試みは,総えず不可避的 l 乙 繰返されているが,確かに我々……はこれを無視するようなことはしないで

あろう o 反対に,斯かる試みは文化生活の最も主要な産物でさえあり,場合

(21)

政 策 と 理 論 ( 1  )  4 9  

によっては,その最も強き原動力でもある O だから,この意味において『社 会哲学的』な諸論究の成行をも,我々は常に心して追跡するであろう o J  倫理的価値判断(たとえば,イデオロギー〉と雌も,それが,かなりの客 観性一一「理想の妥当の『客観性 j J を有する限りにおいて,科学的取扱い に耐え得る,と考えられる。

ウェーパーの言う。

「具体的目的の根底にあるところの,又はあり得るところの『理念』・

この理念のために,時には現実に,時には推定上,関われてきたし又現に関 われつつあるのだが……だが理念の歴史的な力は社会生活の発展にとって極 めて強大であったし且つ今も尚そうであるから,我々……はこの一課 H l I を決し て避けるものではなく,むしろその考究を最も主大な義務の中に加えるもの である。」

或は,言う

D

「経験的所与の思 i 住的整序を超えて世界を形而上学的に解釈しようとする ところの文化生活の考察は,既l 乙 j 折放な性格のために認識に役立つ何らの任 務をも果すことが出来ぬというような偏見は,我々の全く興せざると乙ろで

ある口」

『径済政策原理 j (の者苫:)たりと臨も, (むしろ, r 原理』であるが故に こそ, )斯かる考!岳を他所司王にはなし得ぬ。

とは言え, (ウェーパーの言う, )  1"実践的諮問題の『原理的』な考究,即 ち無反省に行われる価値判断をその理念内容に知回せしめることは,社会科 学において極めて必要であり,又我々の雑誌は特にこの研究にも力を入れる 積りであるが,普1M妥当的な究 1~理忽という形で戎々の問題のために一つの 実践的公分母を創り出すが如きは,確かに我々の……課題でもなければ,又 一般に如何なる経験科学の課題でもありねない。」

渡辺氏の前泊者においては, (特に断りも,援用のための註もないが,その

実 , )ボウルディングの行文(木杭で先に援用)を,そのまま借用,次のよう

にまとめである

O

(22)

「……経済政策の白根……我々人聞が欲するものは何か……乙ういう問題 は,経済学の側面だけでは処理出来ないことも自明の理である D おそらく哲 学や倫理学やその他の色々な分野で,色々の角度からの検討が必要だろう…

…口目標に対する評価は,少くとも経済学の仕事ではないとして,経済政策 の分野からも除いておくより仕様がない。」

「……ただ,目標について次のようなことは言えるだろう o たとえば,多 くの人々が目椋だと思っていることの多くが,夫はもっと究極的な目椋と比 較してみたら,一つの手段に過ぎないといったことは指摘出来る

O

又,単一 の目標の聞に,お互い同志矛盾がないかどうかを検討するといったことは必 要である D ……どの目椋が正しいかという評価は除外してしまうとすると,

経済政策は専ら,如何にして, j ! l !J約条件の下で,目椋を達成するかという手 段なり行動原理なりの探究ということになってくる

O

この芯味では,経済政 策は,国民経済運営のノウ・ハウを求めることだということになり,若しく 技術的だということになる o J 

波辺氏のボウルデイングの利用の仕方は,特 l こ氏独自の蛇足の部分につい ていう時, (本稿の立場からすれば, )ボウノレデインクボの短小化一一改思・

曲解が多分にあるもののようである口

事はいずれにせよ,我々が,理論ではなく政策を問題にする時,その範暗 において「目的」は不可欠である

O

第ーに, (ウェーパーの所謂) 1"社会哲学」……目的一一価値判断が(客観 的に,明確な形で)存在しない政策は,考えられ得ない。政策自体,客観的 事象である。

第二に,問題は,その「目的」が, (ウェーパーにおける如き) 1"与えられ た目的 J ,1"或る考えられた目的 J ,1"一定の目的 J ,乃至「所期の目的」・

であるか否か,換言すれば,目的を所与とし仮設するか否か,ということで ある O

第三に,その目的を,積極的に究明・「分析」して仮設することも, ( ウ

ューパーの立場において)可能ですらあり得る

O

(23)

政 策 と 理 論 ( 1  )  5 1   第四に,更には1"目的定立そのものをば,その時の歴史的状態に基づ いて実践上有意味だとか,……無意味だというように批判することも出来 る。」 即ち,そこでは, (ウェーパーによって) 1"理念の歴史的な力は社会 生活の発展にとって極めて強大であった」という護符すら与えられているの である o

加藤寛氏他「前掲著』は1"ウェーパー以後,政策論を論じようとする なら,ウェーパーに対し何らかの態度を決しなければならない」とし,これ を四つのグループに分類している

D

第一のグループは1"ウェーパーが事実と規笥との峻別をしたのは,経験 科学の対象とはなり得ない価値判断を無断でもちこんだことを批判したので あるから,この二つの領域を区別し,価値判断は社会哲学の問題として究明 し,客観的価値判断を設定しようとするものである。このクゃループは,倫理 的価値判断の客観性を主張する限りにおいて,シュモラーと類以している が,シュモラーの方法論的無反省に対し,その ' l 皮別を芯識し,むしろ価値判 断を明確に提示することにより, 7 8 ; 立的価値判断の混在を防ごうとする点で ウェーパーに即し,シュモラーを越えているといってよい。」

第二のク勺レープは1"目的を所与とし仮説するもので,最もウェーパーの 政策論に近いと考えられる。ウェーパーが価値判断を経験科学の対象たり得 ないとしたところから,価位判断及びそれに基づく目的は,科学の対訟とし て採りあげず,現実の利害対立(価値判断の守 l い)をそのまま採りあげ,そ の価値判断のコンシステンシー,効果, )7&~自を主として分析しようとする立 j 完である o J 

第三のクーループは, 1"政策の実践的性格を I~fm し,究極目的を ìùi目的に究 明して仮説し,政策勧告の合理的基泌をそこに求めようとする立場である

D

究恒目的を究明するに際し,このクやループは,経済そのものを分析し,そこ に]口初から存在するものを形式化するという方法をとる。」

第四のグループは1"歴史的日 J 向から,発反段階に応じてどのような政策

(24)

がとられるかを究明しようとする。従って,乙の立場からすれば,ウェーパ ーの政策論は,政策が直接経済過程に基づいて展開され,政策の目的自身が 与えられた歴史的,社会的関係によって立てられるもので,決して個人の主 観的なものではないということを見落している乙とになる o J 

向者は,

第ーを,社会哲学又は倫理学派(シュモラー) 第二を,仮設目的派(ウェーパー, ミュルダーノレ〉

第三を,分析的目的派(ウィノレフ、、ラント) 第四を,動向分析派(マノレクス学派) と便宜上,名付けている O

甚だ奇妙なことだが,ウェーパー後の以上回つの立場が,本稿において援 用,展開したウェーパー(特にスグ前の援用,考察)について在ること,第 二の立場は当然として,夫々,ウェーパーに合致乃至大きく抵触している乙 とである o (実を言うと,乙れは,本稿の下書中,偶然,そうなったわけで ある o ) 

一体,これは,何を!~味しているのであろうか。ウェーパーには,現代に おいて,尚残された問題,新しい解釈の可能がある一一更に検討を要する,

というべきか。

事実,向者は,斯かる風の問題提起を行っている o 言う r ウェーパー自 身,哲学的科学において価値哲学を展開している O 従って,ウェーパーを根 拠にして没価値性を主張することは正しくなく,価値判断と事実判断との相 互関係についてもう一度検討してみる必要があろう o J 

ただ,本稿(一一一所主,エッセイの域を出ないものであるが)の場合,四 つの分類についての同若における次の結論が,併せて主要である。 r ただ,

このように分類してみると,何れも,政策学が積極的・消極的の差はあって

も,目的(価値判断)を必要としている乙とを示している

O

何の価値判断も

もたない方が実践に有用であるという無性格性は,政策学にはないのであ

る。」

(25)

政 策 と 理 論 (I  )  5 3  

目的一一価値判断……価値判断の判断,価値判断の分析……「担想や価値 判断の科学的批判 J (ウェーパー,それは直ちに価値判断そのものの有力な 資料となり得る)を有するという点において,政策(学〉は理論とは明らか に具なった独自の領域をもっ。

政策は理論とは異なる次元のもの一一少くとも別個の建物としてつくられ た一ーである o (理論と政策とは, )}iJ方向か。)或は,理論は政策に卒仕す る(しかも,最少限に) ,と言ってもよい。

むしろ,社会現象に関わる限り,原理的に言って,政策(学〉は理論に侵 越している,とすら言って差支えないであろう

D

社会科学の始源において,歴史的にも,そうであった

D

ウェーパーの言 う I おそらく政治史を除いて,人類の文化制度や文化現象を対象とするあ らゆる科学がそうであるように,我々の科学が歴史的には先づ宍践的知点 から出発したということは,我々が皆知っているところである。国家の特定 の経済政策的方策についての価値判断を生み出すこと,それがその f えも手近 な又差当って H 住ーの目的であった o J 

然り

O

政策(学)は価値判断と不可分離である。ティンパーゲンやボウノレ ディングにおける政策目標の設定が,その形式に相逃はあろうとも,彼等の 政策論が,経済理論におけるような単なる因果論或は関数閃係の叙述に低 祖,終始し得なかった第一の理由である。(たとえば,ボウノレディングは,

生態学をさえ考‑応している o ) 

然り

O

政策(学)は,現実(歴史,社会,尖政……政治〉を拾象し幻二な い口全体的・綜合的な存在としての現実一一ウェーパーの所前「全事象の全 lB~ 閃 J

ウェーパーが「我々の知識の限界内で」と言った H 寺 , f d L の可 1 ) ] 自の中にあっ たものが,今日 II~: の, y "lに我国学者におけるような毛!と誌の「理論」でなかっ たことは,白切である

O

にも拘らず,所前「近代経済学者」によるウューパーの治芯的な利用,誤

用一一一侃坑な『経済政策原理』が,以前しているのは何故であるか。ウェー

ノてーへの以仰, !!!l)jy- 改てー戸えば立~ì'&(l'~な歪 úi] がある, というべきであ

(26)

令。

経済理論が経済政策(を合む他の諸学科) I 乙優越するという主張は,経済 学説史上, J . S . ミノレにおいて,就中, C メンガーにおいて典型的なもので

あった。

メンガー (Untersuchungenu b e r  d i e   Methode d e r   S o z i a l w i s s e n s c h ‑ a f t e n ,  und d e r  p o l i  t i s c h e n   Oekonomie i n s b e s o n d e r e ,  1 8 8 3 ) が,経済 学を三つの飢 l~ に分類した時,既にそこに偏見があった,というべきである O

「経済学の父」であるスミスにあって,政策は理論・歴史と平等な扱いを 叉けた。が,それも垣間のことであった。

近 1 1 ! j , J.M. ケ イ ン ズ に 至 っ て , 政 策 は 理 論 l 乙伝越するものとしての「平 命」を経た,というべきである

O

ケインズの理論は,むしろ政策の理論である r 一般理論 J I 乙臼く i 我 々の究極の課題は,我々の実際に生活している程類の経済体系において,中 央当局が

J

慎重に統制したり管理したりすることの出来る変数を選び出すこと にある,と言ってよいであろう o J 

ウェーパー……ティンパーゲン,ボウノレディングの理論の示唆するところ も,その基本において,等しいのである

O

我々は, J 況かる考察を,古く遡って,所前「価値判断論争」より更に「方

法論争」を媒介として,仔細に行うことの必要を提唱したい。

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