保瞼企業の競争と濁占三二
保 瞼 企 業 の 競 争 と 猫 占
ー 利 潤 よ 釦 の 人 間 開 放 ー 保 瞼 よ h の 人 間 開 放 ー
小 林 北
一郎
帽︑序説
維濟的な競争や猫占が︑現代的意義を獲得したのは︑資本主義肚會が成立した以後のことであつた︒保瞼企業
に於ける競争と猫占が問題となつてきたのは︑現代的保瞼が成立してからである︒そして︑その現代的保瞼こそ
は資本主義杜會の申に初めてその合理的基礎を與へられたのであつた︒現代的保瞼制度はしてみれば資本主義と
は全く不可分な存在である︒それと共に獲生しそれと共に襲展し︑それと共に攣形しそしてそれと共に消えてゆ
く︒資本主義の機能︑原則は︑不可避的に保瞼制度にも具盤化され反映される︒
資本主義肚會に於ける自由競箏は︑それに固有に内在する必然であつた︒そしてそれが濁占へ鱒化してゆくこ
とも亦資本主義肚會のもつ生得的必然性である︒保瞼企業に於ける自由競争と猫占も亦此の資本主義的必然性の
特殊なる一面であるに過ぎない︒私は此の小論に於ては︑保瞼企業の自由競争と猫占とを︑此のようにとり扱つ
てみようと思ふのである︒そして斯の如き問題の扱方こそ︑唯一の科學的方法であると信する︒保瞼企業家達の
翠なる主観的希望から猫占を論明したい︑軍純に保瞼企業そのもの玉表面的便釜の観蕪から︑自由競争そして濁
占を考察したりするのでは︑客観的不可避的な鐡則としての根底を認識することは不能であろう︒資本主義を基
礎とし︑前提とし︑それから生み出されたものとしての保瞼制度を認識し︑從つてその土墓を支配する必然性
は︑當然保瞼制度をも貫徹すること︑而も如何なる具艦的形態をとつて貫徹するかΨ︑充分明瞭にされて始めて
吾々は︑保瞼企業に於ける自由競争と猫占との問題が︑科學的に解答されたものと云ふことが出來るのだと思
ふ︒だから私は本小論を次の様に構成する︒
先づ︑資本主義の成立が︑如何に現代的保瞼の成立を可能にしたかを論じ︑その資本主義肚會に於ける自由競
孚と濁占が︑それに内在する必然性であることをその次に分析し︑この一般的必然性が︑どの様に保瞼制度に反
映して來るかの内的關聯と︑具艘的叢現形態を最後に論述しようとする︒(あらゆる形態をではなく主要な形態
丈けを)
私が此の小論の執筆中に早稻田大學の末高信敏授が︑早稻田商學に︑﹁保瞼に於る集申と結合﹂を稜表されて
ゐることを知つて早遽一護してみた︒之は未だその一丈けが絡つたのみであつて後一回で完結するものであるら
しい︒(註)
保瞼企業の競争と濁占三三
保隙企業の競争と濁占三四
現在の私などが一寸手を出し餓ねてゐる諸外國に於ける保瞼カルテルの實例などが澤山書かれてあるので非常
に利釜されたのであつたが︑研究の方法は全く常識的なものであつて少なからす落謄せしめられたことであつ
た︒それには保瞼忙於ける集中結合が實にいろいろな観黙から煩雑なまで分類されてあるのではあるけれど︑そ
の集中結合が如何に資本主義肚會と内的に結び付いてゐるかの鐵が未だ不充分にしか論明されてゐないと思っ
た︒外國のことは私には殆んど解つてゐないのであるけれど︑日本に於いては︑保瞼に於ける此の問題を此の様
な仕方で設明してゐないのではなからうか︒保瞼學に關する著書を見ても︑何れも語り合はした檬に︑集申結合
の問題を詳細に扱ふことをしてゐない︒小島博士ですら︑此の問題には氏の諸著に於いては鯛れようとさへもし
てゐられない︒不思議なことである︒斯の檬なときに末高歎授が此の問題をとり上げてゐられるのは全く敬服し
なければならないことだと思つてゐる︒保瞼資本の集申結合に就いては多くの人々に依つてもつと亀つと研究さ
れてい玉と思ふ︒
(⁝註)早稽田商學第九雀第二號
二 ︑ 資 本 主 義 と 現 代 的 保 険
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此の一句は︑過去六十有飴年に亙つて恐らくは幾百回幾千同となく引用され來つたものであつたであろう︒誠
に斯の如き諸砒會に於ける富は商品の形態をとり︑債値として観念されてゐる︒商品生産の獲展は︑債値形態の
嚢展であり︑債値形態獲展の極限は貨幣に外ならない︒故に﹁彪大なる商品集積﹂をもつ祉會は︑便値關係を以
て統一結合されてゐる祉會であり︑貨幣によつて統制されてゐる肚倉である︒庭が現代的保瞼制度は實に斯の如
き商品生産の砒會をその成立の物質的基礎としてゐるのである︒私は此の黙に就いでかつて次の檬に書いた︒
﹁世には保瞼制度が合理的基礎を持ち︑飛躍的稜展を爲すに至つたのは︑一つの数學的獲見即ち大敏法則の嚢見
に基くものだと考へてゐる人がないであろうか︒唯軍に︑大数法則が嚢見され亭均観察の方法が實謹されたから
と言つて︑そのことから直ちに︑保瞼制度が突如として合理的になつたり︑飛躍的に獲展したりするものではな
い︒交換経濟が支配的になり︑貨幣維濟が一般化し︑通信交通の獲達が與へられてゐないなら︑保瞼制度の合理
化も︑援大も︑獲展も考へられるものではない︒大歎法則は︑それが適用可能の歌態の下に於て︑獲見されなけれ
ばならない︒だから私は︑非合理的保瞼制度の合理的保瞼制度(現代的保瞼のことを指す)への飛躍の根本原因
を︑数學的獲見には麟せしめないで︑そう云ふ獲見を︑保瞼制度の基準として適用する事を可能ならしめた︑貨
幣経濟の経濟生活への一般的撰充に求むるのである︒﹂﹁貨幣経濟の稜達は︑各個別維濟の共同的均等支出の合理
的手段を齎した︒貨幣は正確に均等配分され︑且つ保存に堪へる共同準備の構成要素として最も要當なものであ
る︒﹂﹁個別輕濟の生活を共同に確保する爲めには︑各個別維濟の均等分憺分の集積が存在しなければならない︒﹂
保瞼企業の競争と猫占三五
保隙企業の競争と濁占三六
﹁貨幣の形態を以てなされる保瞼料が即ち之に該當する︒﹂(註)
してみれば︑現代的保瞼は資本主義と不可分な存在であると言はなければならない︒後者こそ前者の生みの親
であり︑從つて前者は後者の血をうけ︑その魂を宿して此の世に現はれて來たものであつた︒それは︑商晶生産
の産物であり︑從つて又債値關係を前提として初めてその存在が可能になつたのであつた︒それ故にそれは資本
主義が右すれば右へ︑左すれば左しなければならす︑資本主義から遊離してそれ自らの自由な獲展をもつことは
出來なかつた︒それ自らの意志さへもつてゐないのである︒だからこそ現代的保瞼制度を︑徹底的に認識する爲
めには︑それ自らの本質の分析に止つてゐてはならないのである︒それを終局的に規定するものにまで湖りそれ
との必然的な結びつきを明かにしなければならない課である︒
(註[)商學一討 究届弟山ハ巻下冊一拙紺欄
三 ︑ 現 代 的 保 瞼 企 業 の 自 由 主 義
現代的保瞼制度の絶野君主たる資本主義とは︑もつと詳しくは一艦どんなものであつたか︒然し私は今こ﹄で
それの特⁝徴のすべてを︑こまかく読明しようとは思はない︒その必要がないのである︒保瞼企業の自由競孚と猫
占との問題を考察するに就き不可訣の部面丈けの論究に止める︒
封建制杜會に存在した商業資本︑高利貸附資本は︑それ自艦として機能してゐた限り︑封建制肚會を破壌する積
極的力ではあり得なかつた︒﹁高利貸附業も︑商業も豫め與へられてゐる生産方法から搾取するものであつて︑
生産方法を造り出すものではなく︑外部から生産方法に關係してゆくのである︒高利貸附業は生産方法を絶えす
り薪⁝たに搾取し得るものとする爲めに︑直接これを維持しやうとする︒それは保守的なものであつて︑生産方法を
より悲滲ならしむるに過ぎない﹂だから封建制肚會の資本はギルドに結成されてゐ︑自由競争を排し猫占︑特
権︑に立脚し飽くまで封建的な原則に支配されて存績してゐた︒然し人間が優れたる維濟的物質的生産力を獲得
するに及び︑その商業資本は産業に喰ひ込み︑産業資本へと飛躍した︒このことを産業革命と言ふのだと私は思
謄ふ︒杜會に於ける此の檬な攣化は必然的にその杜會の富をして..d旨σq︒訂自︒≦︑舞器蕊騨§目一§σq."の形態をとらしむ
ることになつたのであつた︒封建的な特構は排せられ︑産業の自由は確立された︒資本主義杜會を作り上げたの
は産業資本であり︑そしてその産業資本は資本家的商品を生産するのが絡局の目的であり資本家的商品生産は自
由競孚性の生産である︒それだからこそ産業資本は封建制肚會の申に安佳することが出來なかつたのである︒
個々バラバラな生産者の封立︑自由競争︑これこそが資本主義の獲端の生きた姿であつた︒
そしてこ玉で叉思ひ出さなければならない一事は︑この檬な産業の自由︑企業の自由を欲する資本主義肚會こ
そ︑現代的保瞼制度成立の根本的な條件であつたと言ふことである︒現代的保瞼は生れながらにして自由の子で
あつた︒バラバラな封立の下に生み出された︑職闘的な存在であつた︒存在したその日から職への準備をしなけ
ればならなかつた︒だから現代的保瞼制度の獲達史は職岡の歴史でなければならない︒そして産業資本が先づ封
保陰企業の競孚と濁占三七
保陰企業の競争と猫占三八
建制度と職つた如く︑現代的保瞼制度は原始的保瞼制度克服の仕事から初めなければならなかつた︒斯ふ言ふ保
瞼制度の浬動は根本的には︑一々産業資本の蓮動に規定され支配されたものとして解されたとき︑初めて科學的
な現代的保瞼制度獲展史が可能となるのである︒
四
、
(イ)
自 由 か ら 濁 占 へ の 轄 化
ゾンバルトはその著﹁ブルジョア﹂の申で言つた︒﹁近代人は自分の企業の調革に捲き込まれそれと一緒に同
韓してゐる︒彼の人格的慣値は存在の饒地をもたぬ︒何となれば彼はそれに封して蘇属的地位にあるのだから︒
企業のテムポは彼自身のテムポを決定する︒即ち彼は疲れを知らぬ機械の傍で働いてゐる勢働者のように殆んど
怠けてゐる暇がない︒企業がその人を征服する力とは即ち企業を無限に援大せしむる庭の競孚である︒事業の稜
展にはもうこれでい︑と言ふ頂黙がない︒それは嚢農し掻大するかそれとも退却し死滅するか二つに一つの立揚
に直面してゐる﹂と︒資本家は自己の企業を無限に擾大する爲めに競孚しなければならない︒それを敢てしない
資本家は死滅する外に道がない︒死を賭しての競争それが資本の魂であつた︒
競孚に勝たなければならないことは絶掲的である︒ではその競争に勝つには︒安く費ることが出來なければな
らない︒安く費るには安く生産しなければならない︒安く生産する根本的方法は︑生産規模の損大である︒新技
術の探用である︒資本は斯くして立派に進歩的な役割を歴史に於いて果して來たのである︒然し斯の如き必然的