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真宗研究24号全

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真宗連合事曾研究紀要

一一第二十四輯一一

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||源空讃二首の歴史的意味について||

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念仏者の

と否定の精神

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浄土教の宗教的実践の課題は、社会的関係・世俗的関心を超えてひとりひとりが本願念仏の教えによって目覚め、 歴史的現実のただなかに仏者として成就するところにある。それは﹁本願を信じ、念仏をもうさば仏になる﹂という 端的な言葉の中に語られる正教を歴史の中で証していくことに他ならない。そして師教聞信において選びとられたそ の信念に基づいて世俗を尽して人生を仏道に捧げていく、そこに浄土教的実践が目指す方向がある。ここで考察した いことは、このような実践の方向を倫理的実践の課題を視座に入れながら、念仏者の﹁しるし﹂のなかに働らく否定 の精神とは如何ように語られているかということである。 倫理において言われることは、人聞が真に人間になること、或いは自己が真に自己に成るということである。更に 言えば人聞が真に人聞に成ることが義務として要請されるところが倫理の世界である。従って倫理の立場は倫理以前 の 様 々 な 立 場 と 異 な る 。 いわば人間というものを自己の内側から問い、その中で人聞が真に人聞になるという立場を 念 仏 者 の 寸 し る し ﹂ と 否 定 の 精 神

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念 仏 者 の ﹁ じ る し ﹂ と 否 定 の 精 神 徹底していく。そこでは人聞が連続的に生成し、真に人聞になるというのでなく、古い自己を捨てて新しい自己に生 れかわり改新されるというような否定を契機としての飛躍ということが含まれている。 カントが強調したように、道 徳的命令と感じ、不断の行為の中で真の自己を選びとるということがある。そこに﹁義務よ J r ・ − 汝 、 崇 高 偉 大 な る 名 ょ、汝は人に取入って好かれるような点を何一つ含まず、 む し ろ 服 従 を 要 求 す る ﹂ ︵ ﹃ 実 践 理 性 批 判 ﹄ ︶ と 叫 ば し め る の である。真の人間とは人格ということである。義務としての人格である。またティリッヒは、 ﹁ 道 徳 的 命 法 は 、 人 間 が本賃的に、それ故に可能的にあるところのものに現実的になれとの要求である。人格|存在は、本性によって与え られている人間の存在支配力であって、これを時間と空間とのなかで現実化しなければならないのである。人間の真 の存在は現実化されるべきものである。そして彼の真の存在は人格 1 存在であるから、道徳的命法の内容はなにより もまず、人格になることである。道徳的行為はすべて、おのおの自己が人格として確立され、同時に統合を解体する 傾 向 に 抵 抗 す る 行 為 で あ る 。 なぜなら統合された人格のみが人格!存在の可能性を成就するからである﹂ ︵ ﹃ 倫 理 の 宗 教 的 課 題 ﹄ ﹀ と 言 う 。 彼 は ま た 宗 教 を 、 ﹁ 宗 教 と い う 根 本 概 念 は 、 究極的関心事、無限の関心、入が無条件的に真撃に 受けとれるもの、こうしたものによって捉えられる状態である﹂ ︵ 向 上 ︶ と 規 定 し て い る 。 無限の関心、究極的な関心事において人聞が真に人聞に成るということは既に倫理を超えるものの課題である。し かし倫理の立場を通さずしては開かれない課題である。 ﹁散善義﹂における至誠心への方向がそのことを明らかにし ている。至誠なるもの、真実なるものへのひたむきな情熱なくしては宗教的実践に目を聞くことも不可能である。至 誠心への歩みの中でこそ人間存在の構造と本性が明らかになってくる。至誠なるものへの情熱は、倫理と宗教に一貫 するものであるが、倫理的実践における至誠なるものへの方向は、宗教的実践と自覚に転ぜられない限り、常に可能 性の夢から覚めることは出来ない。そして人闘が人格として現実性にまで成就するという倫理の課題も絶望への道で

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しかない。倫理の立場では倫理そのものが死ぬことによってしか自らを睦らせる道はない。 これまで倫理の課題と実践の方向について簡単に触れることができたが、次に浄土教における実践、特に念仏者が その信仰生活と実践においてあらわしてくる﹁しるし﹂と否定の精神という点から考えてみたい。 宗祖においては﹁雑行を棄てて本願に帰す﹂と表白された回心とその念仏者としての実践は真の仏弟子としての金 剛心の行人の歩みに他ならなかった。このような金剛心の行人としての念仏者の宗教的実践は、先にみた如き、倫理 的実践とは全く質を異にするものである。それは倫理以前の立場とは無論のこと、倫理的人間観や実践の立場から連 続的に到達されたものでなく、﹁いづれの行もおよびがたき身﹂として、倫理的自己実現や聖道門的仏道成就の課題の 崩壊を自覚し、もはやそのような立場へと帰ることの出来ない如来の本願において自己の立つべき世界を選び取って いる世界としてある。何故なら、倫理的・聖道門的自力修行による宗教的実践とは、 ﹁ 真 実 功 徳 相 は 、 二 種 の 功 徳 あ り 一 つ に は 、 有 漏 の 心 よ り 生 じ て 法 性 に 順 ぜ ず 。 いわゆる凡夫人天の諸善・人天の果報、もしは因・もしは果、 み な こ れ 顛 倒 す 、 み な こ れ 虚 偽 な り 。 こ の ゆ え に 不 実 の 功 徳 と 名 づ く ﹂ ︵ ﹃ 論 註

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ところのものであり、従って﹁外に賢 普精進の相を現ずるごとを得ざれ、内に虚仮を懐ければなり。貧旗邪偽、好詐百端にして、悪性侵め難し。事蛇蝿に 同じ。コ一業を起すといえども、名けて雑毒の善とす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。もしかく の 如 き 安 心 起 行 を 作 さ ば 、 た と い 身 心 を 昔 励 し て 、 日夜十三時に、急に走め急に作して頭燃を灸うがごとくするもの、 す べ て 雑 毒 の 善 と 名 づ く ﹂ ︵ ﹃ 散 善 義 ﹄ ﹀ と 言 わ れ 、 転して、出離の縁あること無し﹂ ﹁自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、噴却より己来、常に没し常に流 ︵向上﹀、また﹁いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞか 念 仏 者 の ﹁ し る し L と 否 定 の 精 神

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念 仏 者 の ﹁ し る し ﹂ と 否 定 の 精 神 四 し﹂︵﹃歎呉抄﹄﹀と額づれてくるものである。従ってそのような自力の行を以ては﹁これ必ず不可なり﹂として自己の 宗教的救いの行においては捨てられねばならない。人間の自力の立場、倫理的自己実現の方向が、本願に触れること によって絶対的否定されるのである。倫理的実践における否定や絶望ということは、自己の可能性を現実性にまで肯 定し高めようとするところに起るが、宗教における絶対否定は倫理的立場を絶対否定することによって自覚による救 いをひらくものである。人間の自力の立場は純粋否定が不可能であることによって、人間の側からは浄土教的自覚は 聞 か れ る こ と が な い 。 それ故に﹁自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがいて、余の仏号を称念し、余の善根を修行して、 わ カミ み を た の み 、 わがはからいのこころをもって、身・口・意のみだれごころをつくろい、 めでとうなして、浄土へ往生 せんとおもうを、自力と申すなり。::::・:行者のはからいは自力なれば、義というなり。他力は、本願を信楽して 往生必定なるゆえに、さらに義なしとなり。しかれば、 わがみのわるければいかでか如来むかえたまわんとおもうベ からず。凡夫はもとより煩悩具足したるゆえに、 わ る き も の と お も う べ し 。 ま た 、 わがこころのよければ往生すベし と お も う べ か ら ず 。 自力の御はからいにては真実の報土へうまるべからざるなり﹂ ハ ﹃ 親 驚 聖 人 血 脈 文 集 ﹄ 第 一 通 ﹀ と 記 さ れ 、 ま た ﹁ 自 力 作 善 の ひ と は 、 ひとえに他力をたのむこころのかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、 自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、 し づれの行にでも、生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたもう本意、悪人成仏のため なれば、他力をたのみたてまつる悪人、 も っ と も 往 生 の 正 固 な り ﹂ ︵ ﹃ 歎 異 抄 ﹄ 第 三 一 条 ︶ と 語 ら れ 、 更 に は ﹁ み ず か ら の 、 お の お の の 戒 善 、 おのおのの自力の信、自力の善にては、実報土にはうまれずとなり。: j i − − : 自 力 の こ こ ろ を す っ と い う の は 、 ト J h A ト 民 ﹀ つ 、 さまざまの、大小聖人、善悪凡夫の、 みずからが身をよしとおもうこころをすて、 み を

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たのまず、あしきこころをかえりみず、 ひとすじに、具縛の凡愚、屠泊の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智 慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら、無上大浬撲にいたるなり﹂ ︵ ﹃ 唯 信 紗 文 意 ﹄ ﹀ と 語 ら れ る 如 く 、 自 力 の 立 場から念仏往生の本願を信楽する他力金剛の信心の人へ回心せしめられたとき、絶対否定の自覚はそのまま如来の絶 対摂取を確信する正念に住する人として、金剛心をえたる人と呼ばれる。すなわち他力の信心の人は﹁必ず大浬喋を 超証すべき﹂金剛心の行人・真の仏弟子と呼ばれるのである。 正しく念仏者とは内なる金剛心によって自己の人生を尽すことの出来る者として匙えるのである。 五濁の世、無仏 の時という現実のなかで真の仏弟子として自己の人生を仏道に捧げてゆく行人、 それが念仏者の生活実践である。そ の生活は単に世俗を肯定し煩悩の身を肯定することではなく、如来の真実を仰ぐことによって世俗における煩悩の身 を悲しみ、仮なるもの・偽なるものを内に批判していく否定の精神を宿したものである。それ故に﹁真仏弟子と言う は、真の言は偽に対し、仮に対するなり﹂と述べて、 また﹁仮と言うは、すなわちこれ聖道の諸機、浄土の定散の機 な り ﹂ ﹁偽と言うは、すなわち六十二見、九十五種の邪道これなり﹂︵﹁信巻﹂︶と決判されるのも、自らの求道の歴史 の中で定散の自心に迷い、更には邪道に顛落してゆかねばならない末法時の道俗としての在り方を見据えているから であり、金剛の真心の利益によって真の仏弟子とされる浄土の真宗に値遇することが出来たという、深い憤悔をくぐ って与えられる感激を忘れることが出来ないからである。 この慨悔と感激は﹁化身土巻﹂の三願転入の表白にそのまま伝えられている。そしてこの表自に続いて﹁信に知り ぬ、聖道の諸教は、在世正法のためにして、 まったく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に請けるなり。 浄土真宗は、在世・正法・像末・法減、濁悪の群萌、斉しく悲引したまうをや﹂と語り、末代においては浄土真宗・ 本願念仏の教法のみが、その道俗をしてひとしく救い、真の仏弟子・入者を成就する唯一の仏道であることを堂々と 念 仏 者 の ﹁ し る し L と 否 定 の 精 神 五

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念 仏 者 の ﹁ し る し ﹂ と 否 定 の 精 神 ム ノ 、 宣言することが出来るのである q かくして宗祖においては法然との出遇いの出来事を通して、吉水の教団の中に本願が生命となって働く光景を目の 当りにすることが出来たとき、 ﹃ 教 行 信 証 ﹄ ﹁ 後 序 ﹂ に 語 ら れ る 如 く 、 ﹁聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗 は証道いま盛なり﹂と言い切ることが出来た。本願が名もなき人々、群萌のなかに息づき、やがて僚原の火の如く燃 え広がっていく姿は歴史の必然であったと言える。しかし﹁末代の旨際を知らず﹂行証のしるしを得ることの出来な い諸寺の釈門、洛都の儒林が、念仏者の教団、吉水の教団への応える道が弾圧という形をとったとき、自らの本質を かえって露わにすることとなったのである。既に仏教の教団というも、その本質は、本来の使命を見失ない、世俗の 精神に堕落し、外道と何ら変わらない現実があった。それ故、 主濁増のしるしには この世の道俗ことごとく 外儀は仏教のすがたにて 内心外道を帰敬せり かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祇をあがめつつ ト占祭杷つとめとす

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かなしきかなやこのごろの 和国の道俗みなともに 仏教の威儀をもととして 天地の鬼神を尊敬す 五濁邪悪のしるしには 僧ぞ法師という御名を 奴蝉僕使になづけてぞ いやしきものとさだめたる ︵ ﹁ 愚 禿 悲 歎 述 懐 ﹂ ﹀ と悲歎される如く、行証久廃の聖道の諸教が ﹁ 教 に 昏 く し て 真 仮 の 門 戸 を 知 ら ず ﹂ 、 また世俗の倫理を弁えるべき儒 林 も 、 ﹁邪正の道路を弁うることなし﹂という本質から、当然の如く承元の法難という念仏教団への弾圧を加えると いうことが起ったのである。しかしまた、法難ということは信仰が生きたしるしであり、人間の実存を突き動かし、 歴史的現実として働いているときに必ず起ってくる出来事でもある。念仏者にとって法難が一つの危機であることは 言うまでもないが、他方では一層深い危機は、念仏者自身における、或いは念仏者の教団の中にあらわれる異義・邪 義ということである。即ち、念仏者が自己批判の精神や否定の精神を喪失して、専ら自己肯定的な邪見をもって本願 の 教 を 私 化 す る こ と で あ る 。 元久元年の吉水の教団に向けられた攻撃に対して出された﹁七ケ条制誠﹂において記された如く、それは念仏者自 身の信仰の危機が既に現われていたことを物語り、そこに﹁普く予が門人念仏上人等に告げたまわく﹂として、 未 念 仏 者 の ﹁ し る し ﹂ と 否 定 の 精 神 七

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念 仏 者 の ﹁ し る し ﹂ と 否 定 の 精 神 /¥ だ一句の文を窺はず、真言止観を破し余仏・菩薩を諒し奉つることを停止す可き事﹂以下、 ﹁ 自 ら 仏 教 に 非 ざ る 邪 法 を説きて正法と為し、偽りて師範の説と号することを停止すべき事﹂に到る七ケ条の制誠があげられ、 ﹁ 此 十 箇 年 よ り以後、無智不善の輩、時時到来す。 ただ弥陀の浄業を失するのみに非ず、 又釈迦の遣法を汚積す、何ぞ畑誠を加え ざらんや O i −−−此上猶制法を背く輩は、是れ予が門人に非ず、魔の春属なり﹂と厳しく誠めている。無智・煩悩によ って念仏の教えを私し、自らの邪見を誇るが如き念仏者の姿は、念仏弾圧の口実を与えるだけでなく、本来の念仏者 のあるべき姿を見失った危機としてのしるしである。 承元の法難以後においても、このような念仏者の姿は当然の如くあらわれ、そのことが宗祖の帰洛の後はいよいよ 高まった時期があった。関東における教団の動揺や異義・邪義の問題は善驚事件の上に最もよく見られるところであ る。異義・邪義の代表的なものがある逆悪無碍については、宗祖の御消息等にたびたび記されているが、特に﹃末灯 紗﹄第十六・十九・二十通、或いは同様の消息であるものが﹃御消息集︵広木﹂﹄の第一通より第五通にわたって収め られており、そこでは造悪無碍に対して念仏者のあるべき姿、 ﹁しるし﹂を繰り返し強調し、念仏の同朋に諭してい る 四 ﹃ 末 灯 紗 ﹄ 第 十 六 通 を み れ ば 、 まず﹁なにごとよりは、聖教のおしえをもしらず、 また浄土宗のまことのそこをも し ら ず し て 、 不可思議の放逸無断のものどものなかに、悪はおもうさまにふるまうべしと、 おおせられそうろうなる こ そ 、 かえすがえす、あるべくもそうらわず。きたのこおりにありし、善証坊といいしものに、 ついに、あいむつる ることなくてやみにしをばみざりけるにや。凡夫なればとて、 な に ご と も お も う さ ま な ら ば 、 ぬ す み を も し 、 ひ と を

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もころしなんどすべきかは。もと、 ぬすみごころあらんものも、極楽をねがい、念仏もうすほどのことになりなば、 も と ひ ご う だ る こ こ ろ も 、 おもいなおしてこそあるべきに、そのしるしもなからんひとびとに、悪くるしからずとい うこと、ゆめゆめあるべからずそうろう﹂とあり、 また﹁われ往生すベければとて、すさまじきことをもし、 お も う まじきことをもいいなんどすることはあるべくもそうらわず。:::めでたき仏の御ちかいのあればとて、 わざとすま じ き こ と ど も を し 、 おもうまじきことどもをおもいなんどせば、 よくよく、この世のいとわしからず、身のわるきこ とをおもいもしらぬにてそうらえば、念仏にこころざしもなく、仏の御ちかいにもこころざしおわしまさぬにてそう らえば、念仏せさせたまうことも、その御こころざしにては、 順次の往生もかたくやそうろうべからん﹂ ︵ 岡 、 第 十 九 通 ︶ 、 更に﹁煩悩具足の身なれば、 こ こ ろ に も ま か せ 、 身にもすまじきことをもゆるし、 口にもいうまじきことを もゆるし、こころにもおもうまじきことをもゆるして、 いかにもこころのままにあるべしともうしおうてそうろうら ん こ そ 、 かえすがえす不便におぼえそうらえ。えいもさめぬさきに、なおさけをすすめ、毒もきえやらぬものに、 L

よいよ毒をすすめんがごとし。 く す り あ り 毒 を こ の め 、 と そ う ろ う ら ん こ と は 、 あるべくもそうらわずとぞおぼえ そうろう。仏のちかいをもきき、念仏ももうして、 ひさしうなりておわしまさんひとびとは、この世のあしきことを いとうしるし、この身のあしきことをいといすでんとおぼしめすしるしもそうろうべしとこそおぼえそうらえ﹂︵問、 第 二 十 通 ﹀ と 述 べ ら れ て い る 。 本 願 の 教 え を 聞 き 、 念仏申す身となった者においてはいよいよ深くわが身の煩悩を機 悔 し 、 五濁の世をいとい悲しむ身となるべきである。そこに末法における仏弟子のしるしがあり、念仏者として目覚 めた者の聞の関係の厳しさがある。 ﹁としごろ念仏して衆生をねがうしるしには、もとあしかりしわがこころをもお も い か え し て 、 とも同朋にもねんごろのこころのおわしましあわばこそ、世をいううしるしにてもそうらわめとこそ、 お ぼ え そ う ら え ﹂ ︿問、第十九通︶と示されるように、念仏者のしるしは我が身をよしとする心を否定して、どこまで 念 仏 者 の ﹁ し る し ﹂ と 否 定 の 精 神 九

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念 仏 者 の ﹁ し る し ﹂ と 否 定 の 精 神

も友同朋に心を開いてゆく、それは自らのはからいで罪悪をとどめてゆけというよりも、懇なる同朋とともに悲しん でゆけということであろう。人聞は孤立することによって邪見に陥り易いものであり、そこに罪の根源もある。それ 故に﹁としごろ、念仏するするひとなんどの、 ひ と の た め に あ し き こ を も し 、 ま た 、 いいもせんは、世をいとうしる しもなし。されば、善導の御おしえには、悪をこのまんひとをば、うやまいて、とおざかれとこそ、至誠心のなかに は、おしえおかせおわしましてそうらえ﹂ ︵ 問 、 第 十 六 通 ︶ と 誠 め ら れ る 。 念 仏 者 の 信 仰 生 活 ・ 宗 教 的 実 践 の し る し は 、 あくまでも友同朋の中でなりたっていくような否定の精神から現われるものであり、 また自律の精神に支えられたも のである。倫理、道徳等の法の中にも自律と否定の精神が要請されるが念仏者における自律や否定とは異なる。 しかも念仏者の生活や宗教的実践は、宿業の大地に根をおろし、自らの煩悩を宿業という自覚において見据えてい る 所 に あ る 。 罪 悪 の 自 覚 と い う も 、 こ の よ う な 宿 業 と い う 、 共に生きる大地というところで確められており、具縛 の凡愚、屠泊の下類と言われる如き類の生活を、同一に念仏する共なる道において悲しんでいくのである。ここに念 仏者における公なる世界がある。 同一に念仏する道においては、 そこに聞かれる世界ハ教団︶を私有化することは許 さ れ な い 。 ﹁師をそしり、善知識をかろしめ、同行をもあなずりなんどしあわせたもうよしきこえそうろう。あさま しくそうろう。すでに語法のひとりなり、 五逆のひとりなり。なれむつぶべからず﹂ ハ 問 、 第 二 十 通 ﹀ と い う 言 葉 が 示 すように、念仏者のうえに成りたつ共同的世界が、どこまでも三宝帰依の精神に基づき、その共同の世界へと念仏者 の生活、宗教的実践が捧げられねばならないのである。 かくして念仏者のしるしということは、世俗の中に形を現わしながらも、念仏申すことによって共に世を悲しみ、 その悲しみの心をもって念仏者の共なる世界へ捧げていく姿である。それはまた否定の心に貫かれてこそ可能なこと で あ る 。

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阿悶仏国経と無量寿経

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初期の大乗経典が成立する段階において、学者により若干の見解の相違があるとしてもその方向と意義をかなり異 にした二つのグループのあったことは確かなようである。 ところで、阿閑仏国経と初期の無量寿経はほぼ同じ頃成立したと考えられるが、その系統については別であること ① が最近明らかにされてきている。私も、両経典の成立の時期あるいは地域に関する結論は別としても、内容的には別 系統のものであることを、次のような理由によって考えてみたい。 一つは、関説の経典が全く異るということである。すなわち、阿閑仏国経の方は、小品般若経、一大品般若経、維摩 経、首拐厳経であるのに対し、大阿弥陀経が般舟三昧経であるという違いである。しかも、阿閑仏国経に阿弥陀仏が 現われず、無量寿経に阿閑仏の信仰がみられないのである。 二つには、授記思想の有無に関してである。阿閑仏国経には、大目加来が阿閑菩薩に授記したことをのベて、 阿 閑 仏 国 経 と 無 量 寿 経

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阿 関 仏 国 経 と 無 量 寿 経 爾の時、其の大日如来無所著等正覚は、阿閑菩薩に無上正真道の決を授けたまふらく汝は、当来に仏と作り、阿 ② 閑如来無所著等正覚と号し、:::亦提垣掲仏の、我に決を授けたまへるが如くなり という、ここで、ディーバンカラの授記を並記することによって大日如来の授記の意義をより重くしていることが注 意させられる。しかし、無量寿経にはほとんど授記思想がみられない。これは、浄土経典においては授記という観念 が 必 要 で な く な っ た た め で あ ろ う 。 さて、このように、阿閤仏国経と無量寿経は別系統だと考えることができるのであるが、 にもかかわらず両経典成 立の根底には、共通の問題意識が横たわっていたと思われるのである。換言するならば、経典の表現形式は異るけれ ども、経典を編纂した意図、目的には同じものがあったのではなかろうか、ということである。その共通の意識の動 きとは、当時唯一の歴史的存在であった釈迦仏は、数世紀前に入滅してしまっており、この世界が無仏だという歴史 的 現 実 に 立 っ て 、 一般民衆のこころに強く望まれたのは現在仏の出現ということであった。そして、その仏に逢い、 供養をし、その説法を聞きたいという願望をおさえることができなかったであろう。したがって、阿弥陀仏が西方、 阿閑仏が東方と方角に違いがあるが、その発想の根源にある﹁現在性﹂という点においては、共通していたといえる の で あ る 。 また、現在仏が住する浄土が、修行の場所として考えられている点も共通しているのである。大乗仏教においては、 菩薩が六波羅蜜の行を実践し、さとりに至るのであるが、それをこの現実世界ではたすことは容易なことではなく、 そこに往生した先の世界で目的を達しようとする観念が生じてきたのである。したがって、現在仏のまします十方浄 土に往生を楽うことが、時代の要求として切実な問題であったろうと思われる。 かかる現実世界に対する認識には共 通の理解があったように考えられる。

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しかしながら、出発点においてこうした共通した基盤が考えられるにもかかわらず、その浄土観、あるいは本願の 内容に関しても大きな径庭のあることは否定できない。きすれば、そのような違いについていかに理解したらいいの であろうか。もっとも、従来、その浄土がよく対比されてきているように、共通した表現もみられる。 いま、二・三 の例を示すと、阿閤仏国経には、 其の仏利の人民は、食せんと念ずる所に随い、即ち自然に前に在り。:・是の如く、其の利の人民も、何の食を 得んと念欲する所に随いて、即ち自然に前に在り。 といい、大阿弥陀経にも 皆自然万種の物有り、百味の飯食、意に得る所有らんと欲はば、即ち自然に前に在り用いざる所の者は即ち自然 に 去 る 。 と記し、同様の内容が説かれている。また、阿閑仏国経には、 其の地を行くに、足其の上を踏めば即ち陥り、適に足を挙ぐれば、便ち還って復故の如し、 と述べているが、無量寿経にも、 柔師軟なる光沢あり、馨呑は芽烈たり、足その上を履むに、陥下すること四寸、足を挙げおわるに随って、還復す る こ と も と の ご と し 。 といって類似した表現がみられる。 さらにまた、阿閑仏国経の阿閥仏利善快品に、 仏の言はく、阿閤如来の利中には、三悪道有ること無く、何等をか一二とは為すとならば、 一 に 泥 型 、 二 に 禽 獣 、 一 に 醇 蕩 : : : 。 と述べているが、これは、大阿弥陀経に 阿 閥 仏 国 経 と 無 量 寿 経

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阿 閑 仏 国 経 と 無 長 寿 経 四 其の国の七宝之地は皆平正なり。泥型、禽獣、扉高、幅飛嬬動の類、阿須倫諸の龍鬼神も有ること無し。 という丈に対応している。その他にも同じ内容の表現は数多く見出しうるのであるが、逆に、異る内容もしばしば現 われるのである。例えば、同閑仏国経は、浄土を説明するのに第二日利天を引きあいに出すのに対して、大阿弥陀経 では、第六天︵他化自在天︶を引例してくる。極楽を説明するのに、六欲天をもって説くのは、極楽の光景を一般の 人にも理解せしめるために便利であったのであろうか。それにしても、 なぜ他化自在天と、切利天の違いが出てくる の か そ の 理 由 を 知 る 由 し も な い 。 また、阿閑仏国経には、女性に関する描写が多いということである。これは、無量 寿経に比較して大きな特色であるといえる。例えば、 舎利弗、其の仏利の女人は、女人の態我が利中の女人の態の如き有ること無し、舎利弗、我が利の女人の態云何 とならば、我が剰の女人は悪色醜悪の舌あり、法を嫉妬し、意を邪事に著く。 といっている。そして、阿閤仏の浄土は、基本的に現実の反顕の世界として措かれているといいうる。それは、 さ ら に次のような丈において窺うことができるのである。 其 の 刺 中 に は 、 王有ること無くして、但だ法王、仏、天中の天のみ有す。 仏 の 言 は く 、 舎 利 弗 、 睦 言 え ば 、 欝 単 趣 の 天 下 の 人 民 は 、 王の治する有ることなきが如く、是の如く舎利弗、阿閑 如来無所著等正覚の仏利には、 王の有ること無くして、但だ阿閑如来、天中の天、法王のみ有り、 あ る い は 、 ま た 、 其の仏利には、三の病有ること無く何等をか三と為すとならば、 一に風、二に寒、三には気して、其の仏利の人、 一切皆悪色有る者無く、亦醜なる者有ること無し。 と か 、

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阿闘の仏利には、人民の治生の者有ること無く、販売往来の者も有ること無くして、人民は但だ、共に同じく 快楽し、寂静の行に安んず などと述べている。これらは、当時の社会の実状を反映しているとみられるのである。 し た が っ て 、 われわれは、阿 閑仏の浄土が現実の世界とそれほど懸絶したものではなかったと考えることができる。 いいかえるならば、その基本 概念において、この現実世界と全く同質のものと考えられ、決して、 ﹁さとりの世界﹂を意味するものとはいいがた い 点 の あ る こ と は 否 定 で き な い 。 さらに、阿閑仏国の諸々の荘厳を精査していくならば、現実の世界に不足している 不備不満の諸条件を投影したものであることがより明確となるであろう。 ところで、無量寿経のばあい、阿閲仏国経とはかなり内容的に違いがみられるようである。といっても、阿閤仏国 経における現実社会の反映としての浄土観が全くみられないわけではない。無量寿如来会には、 彼の極楽界は、無量の功徳具足荘厳して国土豊念に天人蟻盛なり、 と記し、浄土建立ということに、当時の時代的な背景、政治的な面からの理解も必要だといえるであろう。それは、 ま た 、 荘 厳 経 に は 、 復大国王となりて、富豪にして而も自在に広く諸の財宝を以て、並日く貧苦に施して、 といっている文にもあらわれている。 しかも極楽の描写をみてもきわめて感覚的であることは否定できない。 R

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ヂ ー ナ J 阿閑仏国経と根本的に違う点は、極楽の説明のすぐあとに、 ﹁かの仏国の清浄安穏快楽は無為泥垣の道に次ぐ﹂とか、 あるいは﹁虚無の身、無極の体を受く﹂とか、仏教的な反省が加えられているということである。 ただ、この丈につ チベット訳、無量寿如来会、無量寿荘厳経にも見当らないので、翻訳者自身が中国人に ③ わかりやすいように、道教の観念をとり入れたのではなかろうか、という指摘もある。したがって、ただちに仏教的 い て は 、 サ ン ス ク リ ッ ト 本 、 河 閑 仏 国 経 と 無 量 寿 経 一 五

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阿 閑 仏 国 経 と 無 量 寿 経 一 六 と考えることには問題を残すかもしれないが。また、無量寿経には、極楽が浬繋界であるとされている。 ﹁ わ れ 、 仏 とならんに、国土をして、第一ならしめん、その衆、奇妙にして道場超絶し、国泥垣のごとくして、等しく双ぶもの な か ら し め ん ﹂ と い い 、 サ ン ス ク リ ッ ト 本 に も 、 私の国は広大であり、最高、最上である。この世のもろもろの有為の︵存在の︶うちの最勝である。︵さとりの︶ @ 座である。比類なき浬擦の世界の安楽である。 と明かし、極楽がさとりの世界であるといっている。このような思想は阿閑仏国経にはみられない。また、このよう な無量寿経の立場を傍証する丈が経の終りの方になって 我阿弥陀仏の功徳国土の快善を説かんに昼夜一一劫を尽すとも尚復未だ克ず、我但若曹が為に少しく之を説くのみ。 と記して浄土の超越的な面が説かれているのである。 つぎに、阿閑仏国経、無量寿経の最も中心をなしている願文について両者を対比してみよう。阿閤仏国経の本願に つ い て は 、 そ の 数 に つ い て 、 は っ き り し た 規 定 も な く 、 しかも形が不完全なため、どこからどこまでが本願なのかそ したがって見方によっては、種々に願数がかぞえられるが、ここでは、 ⑤ ておきたい。さて、その阿閑仏国経の願丈の内容については、すでに指摘もなされているが、基本的には、阿閑菩薩 の け じ め が は っ き り し な い 。 一 応 十 一 願 と し が成道していく実践の誓願の形になっているということで、阿閥仏自身の成仏が中心である。しかも、 かかる性格の 願丈が十一願中九願を数えているということは、 とくに注意しなくてはなるまい。 た と え ば 、 第 一 願 に は 、 天中の天、我れ今より己往、無上正真の道意を発し・::一切の人民、高飛嬬動の類に於て、是の膜惑を起し、意

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に若し、弟子緑一覚の意を発し、唯意に姪欲を念じ:::現在説法したまへるをば欺くとは為さん。 と明かし、幅明書、二乗心、姪欲、睡眠、疑惑などの排除が誓われている。そして、第二願から第八願までは、阿閥菩 薩自身の本願として同一の性格といえる。 い い か え れ ば 、 ほとんどが自利の願だといってよいことになる。 一 方 、 無 量寿経においては、諸異本共通して、仏に関する願、国土に関する願、衆生に関する願に分けられるが、因位の実践 にふれたものは一願もない。ここに、両経の本願の基本的な性格の違いがあらわれているといえる。さらに、細かな 点に関してはそれぞれの特徴がみられるが、 われわれが特に留意すべきことは、願文に聞名往生の思想が初期の無量 寿経にでているということである。ところが、阿閑仏国経のばあいは願文以外のところで、聞名に関説して、 諸の菩薩摩詞薩の如く、若しくは善男子、善女人有り、名を聞かんに、阿闘の仏剰に生ずるを得ん、何に況んや、 諸度無極の善本を合会して、持って阿闘の仏刈を願い、衆の善本を合会し己りて、便ち無上正真道の最正覚を成 ぜ ん を や 。 と明かし、聞名往生と善本による往生との関係が示されている。 しかし、前後の関係からすると、関名往生の意は弱 く、したがって、阿閑仏国経では、菩薩が六度の行、 および善本によって往生する意が中心であることは明白である。 さて、聞名思想は、無量寿経でも後期のものにしばしば強調されてくることはよく知られていることであるが、何故 名を聞くということだけで往生ができるというのであろうか。それには、聞名思想の起源、あるいは当時の時代的な 背景などについても考察しなくてはならないであろうが、現在のところはっきりとした結論が出されているわけでは ない。しかし、例えば、名を聞くという思想は、当時の民衆とのつながりをもつために方便的に用いられたので、仏 教の本質的なものではなかった。とか、あるいは、聞名生因の思想は、大乗独特の説であって、大乗教徒が小乗教徒 に対する方便引入するためのものであった、 との主張もある。このような考え方には全面的に賛意を表しかねるが、 阿 関 仏 国 経 と 無 量 寿 経 七

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阿 閑 仏 国 経 と 無 量 寿 経 八 聞名ということはともかく六波羅蜜を実践することに比べれば非常に容易で、誰れにでも行いうることであったとい える。そして、この間名は浄土教の特質をあらわす概念としてきわめて重要であるといえる。そこで、再び、何故名を 聞くということが重視されることになったのか。問うてみたい。現在他方仏である阿弥陀仏は、現在仏であるが、こ の現実世界に出現した仏ではない。すなわち、具体的に世間の型態となって現われた存在ではない。それは、どこま でも報身仏として超越的な側面をもった仏である。だとすれば、 われわれが阿弥陀仏にふれることができるにはいか なる方法が考えられるのであろうか。そこに、名前を通して阿弥陀仏と私がふれる場が聞けるということになる。そ れ以外にはありえないというべきだろう。もちろん、ここで名前といっても、阿弥陀仏と融即関係にあり、仏そのも の を き し て い る こ と は 、 い う ま で も な い 。 し か し 、 われわれ凡夫にとって仏と本質的に変らない名前の徳をたたえた り、知ることはこれもまた不可能なことといわねばならない。そこに、諸仏によって称讃される名号の徳を聞くこと によって、初めて如来とふれる場が聞けてくるということになるのである。ここで、開名の聞は原語のな

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に す で に﹁信ずる﹂という意味もあり、仏の功徳、国土の善について聞くということはそれについて信じていくということ でもある。このような聞名往生の思想は浄土経典の願文でとくに強調されるところである。 以上、阿閤仏国経と無量寿経の浄土と本願について、その相違点を明らかにしてきた。 では、何故、発想基盤を同 一 に し な が ら 経 典 の 内 容 が 、 か く も 異 る の で あ ろ う か 。 まず、阿閑仏国経には、般若経との影響関係が顕著であるということである。もっとも無量寿経においても、大阿 弥陀経には般若経をはじめとする初期大乗経典との関係はみることはできないが、平等覚経になると、わずかながら

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般若経等の影響を認めることができる。 例 え ば 、 平等覚経の往勤備のなかに、 ﹁ 願 我 本 空 嘉 ﹂ 、 ﹁其浄慧本空しと本 空の語が二度みられるからである。 ただ、この本空がいかなる内容を指しているのか明瞭ではないが、もし般若経の 空思想だとするならば、すでにその影響を想起することができるであろう。また、嘆仏備には、 ﹁ 檀 施 調 伏 意 、 戒 忍 及精進如是一二昧定、智慧為上最﹂という丈にも、影響をわずかながら看取することができる。さらに、後期の無量寿 経になると活発な影響関係が認められることは周知のことである。とするならば、阿閑仏国経と無量寿経の思想的な ちがいを、般若経との影響関係で論ずることはできないというべきかもしれない。しかしながら、両経典の般若経と の関係を比較すると決して同一の性格でないことがわかるのである。無量寿経のばあいは般若経の影響をうけている とはいいながら、それは表現方法においてみられるのであって、 やはり基本的な立場はどこまでも浄土経典の立場を 保っているといえるのである。 ところが、それに対して阿閑仏国経の方は基本的な立場が般若経と全く重っているということである。これは、す でに指摘した本願文に明瞭に窺うことができるのであるが、その中に、例えば僧那僧浬︵田

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ロ ロ 包 島 田 ︶ と い うことばがみられる。これは、菩薩が願を立てても、それを完遂することは決して容易なことではない。そこで、自 己の心に精進の鎧を被て修行に対する強固な決意をしなければならない、その決意をあらわす語である。したがって、 ある意味では非常に厳しい内容になっているのである。この僧那僧浬については、般若経にことに重要視され、放光 般若経には僧那僧浬品まであるほどである。その他、六波羅蜜の修行を説いている点も、般若経の思想を前提として い る と い え よ う 。 ただし、般若経との関係がいくら強調されたとしても、阿閤仏の浄土建立の思想や、その仏剰に生 れる功徳を述べたり、願生をすすめる思想は、般若経の思想に直接関係のないことは注意しておきたい。なお、仏教 ⑤ 以外の宗教との関係も考えられるであろうが、 その際注意すべきことは、 わずかな語句の類似によって広汎な結論を 阿 関 仏 国 経 と 無 量 寿 経 九

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阿 閑 仏 国 経 と 無 量 寿 経 二

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下すことは危険があると思われるのである。 つぎに、考えられることは、経典を編纂した人々のちがいがあるのではないかということである。阿閑仏国経の編 者は、誓願や修行が出家の厳しい性格を帯びている点から考えると、出家者であったろうと考えられる。すでに指摘 ⑦ されているように、阿閤仏国経の作者は小口問般若経の作者と同一の系統に属するのではないか、という想像もできる。 そして、阿閑仏国経よりも無量寿経が格段の優れた内容になっているのは、その信仰を生み育てて行った人々の優れ た構想力や豊かな想像力によるものであるといっている。このことは、注意すべき重要な指摘であるように思える。 なぜなら、従来あまり大乗仏教における想像力とか構想力については問題にされなかったが、大乗仏教の展開の歴史 のなかで、大きな意味をもっているように思える。例えば、最初は釈尊一仏であったが、後に二身、三身、 さらに四 身論と仏身論が展開してくるのも、想像力、構想力によるものであるといえないだろうか。あるいは、仏塔とか仏像 が形成されることも、そういったことと関係があるといえないか。 いずれにしても、経典を編纂した人たちがいかな る人であったかを考えることは、浄土教の本質を考える上にもきわめて重要であるが、現在のところ明確にすること は 非 常 に 困 難 で あ る 。 最後に、両者の基本的立場が大きく異っている背景をさぐるために、 われわれは﹁荘厳﹂ということばに注意して み た い の で あ る 。 こ れ は 、 とくに無量寿経において﹁浄土を荘厳する﹂というような場合用いられ、重要な意味をも った語と思われ、大乗仏教の基本的な立場が保たれているともいえるのである。 いま、無量寿経における二、三の用 例 を あ げ て み る と 、 ①大荘厳をもって衆行を具足し、諸の衆生をして功徳を成就せしむ、 : 、 、 、 l t h 旬 、 U ま た 、

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②仏国を荘厳すべき清浄の行を思惟し、摂取せり:::かれ、すでに仏土を荘厳すべき清浄の行を摂取せり、 と述べている。ここで、衆行を具足して、 とは自ら六波羅蜜を行ずることであり、法蔵自ら発願し修行して、それを 衆生に成就することを説くものであって、菩薩行こそ荘厳の内容ということを示している。されば、荘厳の語はどこ までも実践的な概念として把握されなければならない。ところで、阿閑仏国経には、 ﹁阿閑仏は福徳の致すところを もって、仏利を成ずること是の比の如くなり﹂といって、阿閑仏の浄土は、阿閥仏の福徳によって成じられたという のである。その意味では、阿閑仏国経に荘厳の語がなくても、基本的には変らないように思える。しかし、重要なる ⑥ 違いは、荘厳が大悲心に発するいとなみであるといわれるように、また、先の

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の文でも明らかなように、法蔵の荘 厳がそのまま、私においての荘厳であるということであるといえるのである。ここに、無量寿経と阿閑仏国経の本質 的な違いがあるといいうるのである。 ⑤ ④ ③ ② ① 詮 平 川 彰 ﹃ 初 期 大 乗 仏 教 の 研 究 ﹄ 九 八 頁 ﹃ 大 正 蔵 ﹄ 十 一 巻 、 七 五 三 頁 中 頁 藤 田 宏 達 ﹃ 原 始 浄 土 思 想 の 研 究 ﹄ 一 九 七 頁 ﹃ 大 乗 仏 典 ﹄ 六 、 十 八 頁 色 井 秀 譲 ﹁ 阿 閑 仏 の 本 願 と 阿 弥 陀 仏 の 本 願 ﹂ ⑥ 報 ﹄ 八 昭 和 四 十 二 年 ﹀ 芳 岡 良 音 ﹁ 阿 閤 仏 の 浄 土 の 起 源 ﹂ 号 昭 和 三 十 四 年 ︶ 静 谷 正 雄 ﹃ 初 期 大 乗 仏 教 の 成 立 過 程 ﹄ 一 一 二 貝 降 島 旭 雄 ﹁ 在 厳 と 方 便 ﹂ ︵ ﹃ 浄 土 教 の 思 想 と 文 化 ﹄ 所 収 昭 和 四 十 七 年 ﹀ ハ ﹃ 印 仏 研 究 ﹄ 七 巻 二 ③ ⑦ ︵ ﹃ 天 台 学 阿 閑 仏 国 経 と 無 量 寿 経

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高僧和讃二首の解釈

||源空讃二首の歴史的意味について|| 記者 ドコ

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(専修寺蔵) ③ 以下親筆本源空讃二首の解釈に就いて、歴史的背景を探り批判の資とし、親驚が何故此の二首を添加せざるを得な

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かったかその目的、意図を史実の上から探求して見たものである。 親驚は終生師源空を勢至弥陀の化仏と仰がれていた事は建仁元年︵一二

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一﹀正月五日及び同十二月廿八日 ﹁ 棄 雑 業坂本願﹂の文中や﹁恵信尼夢記﹂其他の文書で明かである。 ﹁上皇群臣﹂の上皇に就いて、後白河法皇崩御は親驚 の高僧和讃制作の頃から五・六十年も以前の事で親驚二十歳の頃だった。 従って此の上皇は後鳥羽上皇︵隠岐院︶御 一人を指して居られるのである。次に﹁承久の太上法皇﹂に就いては、御自筆で頭註に﹁後高倉院﹂とあるから問題 はない。後高倉院は後白河法皇の御孫﹁守貞﹂持明院行助法親王で後堀川帝の御父、隠岐院の御兄であられる。 ② 隠岐院御親翰について 後鳥羽院隠岐流遷間もない頃、持明院法皇に贈られた親書と考えられるが、当初に於ける後白河・隠岐・持明院各 法皇の御信仰を端的に示されている貴重な資料である。これを要約して、問題の前提としたい。 文面に﹁わが力にて世をしらせ給わん君﹂ とあるから持明院が太上法皇の尊号を贈られ、 後堀川帝帥︵歳︶の院政 の座に就かれた時の﹁君﹂即ち﹁持名院﹂を指して居られると思うからである。持明院の皇子後堀川帝は身体御不自 由で、怨霊退散祈祷の為仁慶大僧正御夫妻の許で育たれ、持明院も亦同じく中度の身体不自由だった。 君 が 太 上 法 皇 に な ら れ た の は 、 一に善根功徳を積まれ祈祷の験によったもので、我が力に他ならぬ。子孫が帝位を 継承する事は、法華経の教に従い仏道修業を積んだ、自らの徳の賜である。若し此の積善の身を悪道に使う様な事に なれば、身に留まった善根も消えていよいよ深く悪道に陥ち悲しい事である。そうなれば菩提を弔ってくれる人は誰 も居なくなるであろう。祖父後白河法皇は此の様に私に教えられた。万が一自分が世を怨み、人を憎む執情を抱えて 死ぬ様な事になれば、此の世に障をなす事もあろう。 ただ妄念を捨てて生死を出でんと、仏に誓われる様せめて遺言 高 僧 和 讃 二 首 の 解 釈

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高 僧 和 讃 二 首 の 解 釈 二 四 しておく。自分の積んだ善根、即ち東大寺大仏供養、 一切経供養、刷本の法華経、此の三つの功徳は、自分が隠岐島 流鼠の身となっても、永久に我が身に保ち続けるであろう。 こ れ を 縁 と し て 一 旦 魔 縁 ︵ 承 久 の 変 を 指 す ︶ に 沈 む と も 、 空しくはならないだろう。関白︵道家教実﹀以下の人々に私が崇りをなす等と言う事は、夢々思っては下さいますな。 と大要その様に書かれている。 ③ 源空が﹁選釈集﹂を著作された時、隠岐院は十九歳だった。その頃聖覚を招じて﹁一念義と多念義の意味﹂を尋ね られている。それは﹁法華経により生死を出ずるなり﹂と云う遺誠に対する疑問から、此の質問は出たのであろうが、 まだ御理解には若すぎる。その後間もなく栂尾の明恵を招かれ、他力と自力の問題を尋ねて居られる。政治的混迷と 宗教的闘誇のはげしい今、退位を迫られた十九歳、市も身の危険は日常の事、これ等は皆北条氏や藤原兼実の陰謀で あると考えられ、廿一歳の頃から追討の志を抱かれ、秘かに万剣の製作に専念されるのである。爾来廿年間念仏停止 の宣旨は度々下り、多くの念仏僧が流罪・死罪に葬られ、遂に承久の変となる。院四十二歳。院の二品皇子仁和寺の 道助法親王を戒師とされ落飾、法名を﹁良然﹂と云い罪名﹁左馬頭親定﹂となられ隠岐島へ流遷の身となられた。

後高倉院持明院法皇・幼名守貞親王

平家が長門壇の浦で終荒を遂げた折、兄安徳天皇制は海底に崩ぜられたが、守貞親王仰は平知盛の妻治部郷局に抱 かれて軍船にあって済われた。戦後後白河法皇の御妹﹁上西門院﹂の養子となられ、治部郷局は従前通り乳母となり 知盛の邸で育たれた。皇子後堀川帝のお生れになった頃、親子共々栗田口十楽院の仁慶僧正の宅に移られ、ここで専 心物怪の退散と病気平癒の為の御修法を行ぜられた事もある。仁慶は隠岐院護持僧慈円の資だった。 建 暦 二 年 ︵ 一 二 一二﹀三月廿六日東大寺で仁慶を戒師として落飾﹁行助法親王帥と申上げた。 此の年の一月源空は遷化、此の頃親驚

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は流罪赦免報告の為一時版洛されている。従って此の間の事情は悉さに慈円・聖覚・東一条院・藤原信実・範光等か ら聞かれた筈である。又御孫四条帝も極めて御身体がお弱くて居られた。これ等は皆死霊怨念の崇りに結びつけられ、 祈祷によってのみ此不幸から逃れられると考えられて居たのである。然るに後堀川帝帥・四条帝同何れも御若くて世 を去られた。此の御不幸は打続く飢僅・天災地変・戦禍の影響に加えて近親婚の結果だったかも知れない。 四 持 明 院 法 皇 ・ 隠 岐 院 の 廻 心 隠岐院は前掲御親翰にもあった様に、法華経により生死を出で、子孫が帝位に就くのは我が力であると一広うお考え は消えず、流遷の衝撃は大きく、身の危険に怯えられ脱出の期をねらわれていた。勿論怨霊鎮魂の修法は欠かされな かった。然し石見・出雲・隠岐の国々には平家の残党が各所に散在し、近江豪族佐々木家が地頭職にあり、源空の念 仏門信奉者の多い地方であった。又宋と交流もあり文化の程度は高かった。庶民は念仏門を奉じ信仰篤く心優しい島 国である所から、次第に﹁白内所証智﹂の境に目覚められ、諦観の世界が見え始められた。御母七条院や北白河院の 御便りもあったからであろうか、現在の流鼠の苦は弥陀の善巧法便なりと、三心転生して阿弥陀仏を念ぜられる様に なった。都から賛字阿弥陀経が送られて来たのであろう。徒然に之を書写され後世を願われていた。 ③ 丁度其の頃持明院法皇の皇子﹁道深法親王﹂が高野山に寵られた。その折隠岐院から書写の党字阿弥陀経を托され、 四十八日の逆修法要を依頼されて来た。その時偶々聖覚が高野山へ参寵され、廿四座隠岐院の為に願文を読議された。 その三日目の会座で ﹁ 我 朝 に 、 至 っ て 果 報 目 出 度 き は 隠 岐 院 、 至って果報悪き人は持明院﹂ と読まれたので、参詣者は耳を疑った。その後の説法で 高僧和讃二首の解釈 二 五

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高 僧 和 讃 二 首 の 解 釈 一 一 六 世 乱 れ て 遠 国 に 移 さ れ 、 一旦は御歎共あれど、此の歎を普知識として機悔し、我が罪業苦患を恐れ、唯一筋に後 生の一大事を心にかけて逆修も念仏もあらば、往生浄土の素懐も確かと思われ目出度いことである。持明院法皇 行助は一期御心にまかせず、楽しき御思出もなくて空しく祈躍に明け暮れて居られる。此の不幸を仏縁として、 後世の御営みもあらばたのもしかるべきに、御位のことありて今生の一時の楽しみに溺れ、後世の御勤めもなく て二世共に御果報悪き事である。今生は一日一の栄耀、後世の御勤めなくんば何の強みがあろうか と、縁起論と他力本願念仏の真意を二十日余にわたって説法された。 聖覚が高野山へ参寵したのは持明院皇妃北白河院か御母七条院の要請で登山したのではあるまいか。或は又聖覚の 説法の内容から、持明院の病状悪化の為、道深法親王に報告を依頼されたのかも知れない。その後一年余を過ぎて持 明 院 帥 は 崩 ぜ ら れ た 。 ﹁類緊大補任巻五一﹂には五月十四日持明院法皇越後国妙高山獄崩、諸国大疫発﹂と記録され て い る 。 恐らく此の説法後幾許もなく叔父﹁後高野御室﹂道法法親王や其 親驚は此の時五十歳越後巡錫中である。 ⑤ 他の側近者と此の地に移られ、親驚や宜秋門院と落合われ、本願念仏開眼の法悦の中に御往生になったのではなかろ @ うか。隠岐院の皇子雅成親王は飯沼善性一房と云い、越後に居られ、元禅林寺住の同院皇子﹁覚誉﹂は飛騨鳩ケ谷の道 場に居られ嘉念房善俊と云い、何れも親驚の弟子となって巡錫して居られる。むしろ持明院法皇は親驚或はその弟子 を頼り、妙高山巌の庵に入られたのではなかろうか。後人の研究に待ち度い。 一 方 隠 岐 院 は 行 在 所 源 福 寺 に 居 ら れ て 、 御領百姓村上助九郎︵現存﹀或は周囲の庶民と親まれ 念仏三昧の御日常 で あ っ た 事 は 、 地 方 史 家 の 認 め る 所 で あ る 。 喜禎三年三二三七︶八月頃から毎月五日と廿日に源福寺の他にも会所 を設けて﹁無常講﹂を結ばれている。 此の講式文の冠頭に﹁拠第なく法則なく、只無常を念じ、弥陀の名を称せよ。日時なく道場なく、閑居の暁の天、

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旅 宿 の 草 の 枕 、 五道六道の苦を厭うて欣ぶべきは安養の浄利、前仏後仏の聞に生れて愚むべきは弥陀の悲願也。倦ミ 以れば我等衆生の身は朽宅の如し云々﹂と相当な長文である。最後に願くは離苦の眼を得て、安楽園に往生せんと結 んで居られる。最初に掲げた御親翰と比べ、院の信楽開発の跡を窺う事が出来る。即ち此の御二方は生身の源空に版 敬されたのではなく、三心相即三身寂光の浄土に居ます源空に服されたのである。 此の御二方の廻心転生は、親驚自らの転生を語るが如く、念仏の先達として、此の方々と共に源空を讃仰され、極 め て 自 然 に 二 首 の 和 讃 と な っ て 、 ほとばしり出た法悦の記録なのである。 五 釈 門 儒 林 共 に 真 宗 を 悟 っ た こ と 禅林寺静遍僧都は醍醐寺座主﹁勝憲﹂に師事し、後に仁和寺上乗院﹁仁隆﹂に学び、小野流・広沢流両道に精通し た 碩 学 で あ る 。 平頼盛の子で妹は藤原基家︵二三二|二ご四﹀の室となり、 持明院の乳母を勤めていた。 その子 ﹁北白河院﹂は持明院の皇妃となっている。源空の弟子善恵房証空は十四歳まで静遍の資となっていた。持明院は病 悩退散祈祷を修せしめる為宣旨を以って証空を禅林寺に住せしめた。隠岐院皇子覚誉も禅林寺に居た。静遍は源空の 専修念仏の隆盛を嫉み書を著はして源空を弾劾した。所が改めて撰釈集を披見してその高説に服した時源空は彼に撰 釈集を附属した。源空寂後師の墓前に憤悔し、 それより法名を自ら心円坊︵一説に心盟一﹀と称し、高野山明遍︵二 四一!二二三己を訪い蓮華谷聖となった。明遍は聖覚の舎弟である。此の時覚誉は師と行を共にし親驚の門に入られ た事は前にも述べた。静遍の去った跡の禅林寺へは証空︵二七七

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一 二 四 七 ︶ を 住 持 さ せ 、 専 ら 念 仏 の 道 場 と 変 っ た 。 証空は久我内大臣源通親の猶子となり、母の反対をおし切って静遍を師とさせた。所が静遍が念仏門糾弾の先降と なったので、東大寺落慶供養が終った後の四月、証空を静遍の許から、源空の吉水の呑楽寺へ入室させた。証空の父 高 僧 和 讃 二 首 の 解 釈 二 七

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高僧和讃二首の解釈 二 八 は藤原親季入道で法名を証玄と云った。そこで父の法名の証をとり源空の空をもらって﹁証空﹂と言った。証空の諮問 導教学は誠に深い。又禅林寺系譜第十一世に﹁源空﹂と記録されている。此の時源空は既に寂している為、これは静 遍が添加したもので、自らは第十二世に、証空は第十三世となっている。此の事は静遍の源空に対する篤い遺徳顕彰 讃 仰 の 現 わ れ で あ ろ う 。 . 』− J

承明門院と北白河院の場合 承明門院源在子は内大臣久我通親の女で、隠岐院准コ一后にあがった才援である。 ﹁五代帝王物語﹂は院の御本性に ついて﹁土御門帝の御母にて、極めて御心はやくて聖覚法印説教をば、そらにて聞き覚え給う程の上根の人にておわ しませば云々﹂とあり、源空の教学にも通じた頭脳明噺を以てうたわれた方である。父通親も前章の通り当時摂政を しのぐ有力者で財的にも豊かであった。此の時に帝位にあられた四条帝は、後堀川帝と藻壁門院の御子で、持明院法 皇 の 御 孫 に 当 ら れ る 。 四条帝も御父後堀川帝と閉じ様に御身体は一鳳弱で、十七歳で崩御になるのだが、その頃の事で あろう。承明門院は﹁もしゃなど様々にお祈りし給う﹂と増鏡コ二神の山﹂で述べている。これは若しゃ四条帝崩に なれば御孫﹁邦仁親王﹂が帝位に選ばれる様にと、早くから各所の神仏に祈願をこめられていた事を述べたものであ る。処がその通り四条帝は仁治三年︵一二四二︶正月九日に崩でられた。 邦 仁 親 王 は 十 九 日 践 件 、 廿三歳で後嵯峨天 皇となられ盛大な大嘗会が行われた。 承明門院はこれぞ全く神仏の加持力、祈祷の功能と悦ばれ、すっかりこの事に心を奪われ、聖覚の説法等忘れられ た。頭脳明敏な理智にたけた院は、父能円の血を享け、自分が皇妃に昇り得たのも父の加持修法の功力と、深く信じ たのである。尼となった四十一歳までの念仏信仰は何であったのだろう。爾来三十年数々の信仰体験を味われ七十一

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歳の今日、御孫の帝位獲得の執情にひかれ遂に翻信された。 正嘉元年三二五七﹀八十七嘉までひたすら修法祈祷に 専念されたのである。親驚は此の時八十五歳在京中で著述に専念されていた。そして四条帝・御父後堀川帝崩御藻壁 門院嘉去の模様も悉に御承知の筈である。 北白河院平陳子は先の通り平頼盛の女で、親子共に持明院宰相乳母であった。院は衆望を担って持明院の皇妃にあ がり後堀川帝を儲けたのである。御孫は四条帝。前章の静遍は母の弟である。その柔軟な慈悲深い御一生は古風な日 本女性の典型とも云える。勿論境遇の関係もあろう。持明院崩帥の時院は五十一歳、御子後堀川帝崩帥の時は六十二 歳 だ っ た 。 或 時 或 女 房 が 、 ﹁持明院を送られて十年余、今又御子を送り終られて、 ホッと重荷はおりましたね。心安 まる日とではなく﹂と悔みともつかぬ挨拶を受けた時、院は自分にとって御二方は善知識であった。噴勅以来弥陀コ一 尊を悩ませて来た我が姿であった事を陶々と語り、御孫後堀川帝の迷いのままの往生の為、菩提の念仏に明け暮れて おられ、御歳六十六歳で亮ぜられた。曽孫四条帝葬送に遭われなかった事はせめてもの御慰めである。 持明院との聞に産れられた式乾門院は藻壁門院嘉後四条帝の准母になられた。善導教学の深奥を極められた実践面 に高く評価される著書が残っている。又北白河院が証空を招じて五種増上縁及観経の三心、往生の業と撰釈本願念仏 に関する質疑応答の丈は、何れも﹁女院御記上・下巻﹂に納められている。此の頃の宮廷内女性の教学的研究は、命 にかけて求めんとする信仰体験から求められたものだけに、貴重な資料である。同時に親驚や法然其他碩学の書も同 様 な 事 が 言 え る で あ ろ う 。

七後堀川帝と皇妃藻壁門院

藻壁門院は関白藤原道家︵峰殿︶の愛娘である。後堀川帝廿一歳、 院は廿二歳で中宮にあがった。道家は後堀川帝 高 僧 和 讃 二 首 の 解 釈 二 九

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高僧和讃二首の解釈

の御身の不幸は流震の隠岐院の崇りであり、平家死霊の致すところ、如何なる犠牲も鎮魂の為に惜しむべきではない と考えた。実母橘厳子は陰陽宿躍を司る橘家、澄清の娘であり、 又参議菅原為長卿は宿曜ト盆の家系で、士御門、順 徳・後堀川・四条・後嵯峨五代の待読を勤めている。道家がひどく宿曜方位を気にし、祭祈ト占・修法を重んじたの も、此の方々の影響だったのだろう。気弱な御本性であった様である。 で当時最も美人才媛と詠われた娘の増子が卜 占によって中宮に選ばれた。藻壁門院乃び樽子の御名前も厳密な占によって決した。帝は仁慶によって真剣な祈轄を 続けたが、平癒は考えられなかった。続く一二年ばかりの天災飢僅、宗教戦争は何時果てるとも知れない。 ﹁ 天 の 戒 ﹂ だと陰陽師は宮廷内に強く謹慎を命じた。藻壁門院は精神的苦悩に加え、病床勝となり物怪に怯える日が多くなった。 帝も皇妃がいとほしく、晴れやかな日も少い。御子四条帝が三歳、院は二人目懐妊。此度こそ御健康な皇子誕生を願 い、山々寺々鰐側ぃ等目出度く世間は騒いだ。元号も卜盆により﹁天福﹂と改まった。 ︿ す し 九月中旬残暑厳しい清涼殿内で突如産気付かれた。取り敢えず畳を昇風で囲い、祈轄師、陰陽師、薬師を招かれた。 産婦の苦悩は昼夜を分たず遂に悶死された。御年廿五歳。苦悶の叫びに加え狂的な祈龍師の読経、道家の外聞も樟ら ない号泣、女房等の叫びの中で混乱した。院の御命日について明月記には九月廿目、増鏡・皇胤録では十八日、他の 資料では廿三日とまちまちなのは院の苦悶と宿曜師の卜占判断等により決せられたものであろう。後堀川院は﹁御修 法もこちたくて﹂と御食事も採られる日が少く、遂に翌年八月五日皇妃藻壁門院の一周忌を待たずして跡を追われた。 定家の娘﹁民部郷典侍﹂は父の諌も聞かず落飾、前項の承明門院はどの様に考えた事であろう。それより七ヶ月後仲 恭廃帝伺も跡を追われた。廃帝の御母東一条院は草深い九条の里邸に居住、専ら専修念仏行者として噂敬されて居ら れたが、道家は再三再四仲恭の為の祈轄を奨めたが決してお聞き入れにならなかった。 藤原教雅入道﹁弥阿﹂は藻壁門院の御臨終を悉に知って、祈祷僧や神官を暴言罵倒し、その後宮廷内の女房を多数

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