典正寺と山科言経
8升
4斗
1斗
一米
一
J
一 利
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川
配 列
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一
一 品 事
A一
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白
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天正14 15 16 17
輿正
寺と
山科
皆同
経
六七
﹃論
註﹄
にお
ける
﹁衆
生﹂
の意
義
六八
﹃論註﹄における﹁衆生﹂の意義
尾 お
畑 E
文 f 正 i
﹃大
無量
寿経
﹄に
は衆
生の
語の
他に
衆生
を現
わす
言葉
とし
て︑
﹁衆
人﹂
︑﹁
庶類
﹂︑
﹁群
生﹂
︑﹁
繋庶
﹂︑
﹁群
萌﹂
︑﹁
恐悟
﹂ 等の語をみることができる︒衆生の衆生たる具体的現実性をおのずと確かめるかのように︑それらは同じく未覚者︑
未度者を現わしていながらも︑その使用される仕方に応じた特別な意味性がその語自体に内包されていると思われる︒
その衆生という言葉を通して大乗仏教の救済の基礎構造を明らかにしたのが曇驚の﹃浄土論註﹄における衆生の理解
であ
る︒
﹃浄土論﹄及び﹃浄土論註﹄には衆生という語が合計一二一六ケ所にわたって使用されている︒その中で特に注意を
払わなければならないのは︑
﹃浄土論﹄の侮同期末尾に位置する︑曇驚によって廻向門として理解された箇所の﹁普共 諸衆生﹂の衆生という言葉と︑浄土の二十九種荘厳を器世間清浄と衆生世間清浄の三種に分けられたうちの衆生世間 清浄といわれる場合の衆生という言葉である︒ここに注意した二つの衆生理解の区別︑関係︑構造を考えることを通
して﹃浄土論註﹄における衆生概念の特別な意味性を明らかにしてみたい︒
先ず最初にこれら﹃浄土論註﹄において使用されている衆生の語をその意味内容から考えて二つに大きく別けて定
義するならば︑次のようになるのではないかと思われる︒ひとつは法性真如に随順する在り方︑つまり法性真如を自
己成立の根拠とする衆生である︒つまり自己成立の根拠を実体視された自己自身
に置くことによって︑それ自身において立とう伸びようとする衆生である︒前者は曇驚が﹃浄土論註﹄浄入願心章に
ふたつには法性真如に背く在り方︑
おいて︑衆生世間清浄の当体を仏︑菩薩と規定する場合の︑その仏︑菩薩としての衆生であり︑後者は八番問答釈に
現わ
され
︑ しかも﹃浄土論註﹄の随処に見ることのできる煩悩成就の凡夫としての衆生である︒このような衆生の概
念の二極的な構造は浄土教における救済の原理に本質的に関る問題を内包するものと思われる︒
﹃浄
土論
註﹄
では
そ れは特に穣土の仮名人と浄土の仮名人との不一不異的関係として直接的に問題にされている︒従ってこの二極的な構
造は凡夫が仏になるという︑いわゆる成仏道としての仏教がどのような原理を基礎として︑浄土往生の仏道として成
就されていかなければならないのかという問題を我々に提起している︒
ところで仏教においては仏と凡夫との関係は︑絶対的な兵次元的関係として両者が実体的に二元化されるものでは
なく
︑ どこまでも﹁仏に成る﹂という方向において二元的であると同時に二克的でなければならない︒従って仏と凡
夫との分位を語るに際しても︑それは﹁覚れる衆生﹂︑﹁迷える衆生﹂というように︑﹁覚と未覚﹂︑
﹁迷
と悟
﹂と
いう
範晴の中で言い表わされてきた︒このことを雄弁に物語るのが﹃観経疏﹄玄義分の釈名門における善導の﹁仏﹂の解
釈である︒それによれば仏という名は︑﹁自覚覚他覚行窮満︑之を名づけて仏と為す﹂ということであり︑その内景
﹃論
註﹄
にお
ける
﹁衆
生﹂
の意
義
六九
﹃論
註﹄
にお
ける
﹁衆
生﹂
の意
義
。
七を﹁自覚というは凡夫に筒異す﹂といい︑さらに﹁覚他というは二乗に筒異す﹂と述べ︑また﹁覚行窮満というは菩
薩に簡異す﹂といわれている︒そのかぎり仏は凡夫としての衆生とは全く異った存在構造をしている︒しかし仏がそ
の特別な存在性を確保している場所は﹁覚﹂という一点である︒先の﹁仏﹂の解釈を逆転して考えれば自覚なきも
のが凡夫であり︑自覚があっても覚他なきものが二乗であり︑自覚覚他があっても覚行窮満なきものが菩薩であると
いう
よう
にな
る︒
つまり仏とは同じ箇所で﹁覚とは是れ人﹂といわれるように﹁覚﹂という一点で凡夫としての衆
生とはっきりと峻別された︑
いわ
ば﹁
覚め
た衆
生﹂
であ
る︒
言い換えれば﹁覚・未覚﹂︑﹁迷・悟﹂という範暗によって決定される仏と凡夫の位相は︑法性真如と衆生との関係︑
構造の問題である︒法性真如とは先きの﹃観経疏﹄玄義分の序題門においては︑
﹁窃
に以
みれ
ば真
如広
大な
り︑
五乗も其の辺を測らず︒法性深高なり︑十聖も其の際を窮むること莫し﹂
とあって︑人間的思惟分別からは決して把握することができない超越的な浬繋界であることを知ることができる︒し
かもその法性真如という人間の思惟と言葉によって包摂することのできない唯仏独明了としての超越的な浬禦界にお
いては︑我々人間の思う想いに先き立って︑従って我々が意識すると否とに関らず︑我々の自己存在そのものの成り
立ちの根底に絶対不可見ではあるけれども︑法性真如との無条件的無制約的な親しい関係が厳存するのである︒それ
を善導は先の言葉に続けて
﹁真如の体量︑量性議議の心を出でず︒法性無辺︑辺体則ち元来不動なり︒無尽の法界凡聖斉しく円かに︑両垢
の如如則ち普く含識を該ねて︑恒沙の功徳寂用湛然なり﹂
といっている︒しかるに我々の現実存在は︑その自己存在に固有な法性真如との根源的関係に暗いがために︑我と我
が世界を徒に貧計して我執我所執することによって︑常没常流転の悪循環を積み重ね自縄自縛の閉鎖された世界を構
築するのである︒それを善導は︑
﹁但垢障覆へること深きを以て︑浄体顕照するに由なし﹂
といっている︒ここで﹁浄体顕照するに由なし﹂といわれた浄体は︑清浄の真体ということで︑親驚の﹃愚禿悲歎述 懐和讃﹄で﹁罪業もとよりかたちなし/妄想顛倒のなせるなり/心性もとよりきよけれど/この世にまことのひとぞ なき﹂といわれている心性ということにちがいないのであるが︑そのような清浄の真体としての浄体を自身において
の二
種清
浄を
一解
釈す
ると
ころ
では
︑
﹃浄土論註﹄でいう衆生世間清浄の仏・菩薩なのである︒
﹁衆生清浄というのは則ち是れ仏と菩薩となり﹂といわれて︑衆生清浄という言 ﹃浄土論註﹄下巻の浄入願心章
実現
して
いる
もの
こそ
が︑
葉がつかわれている︒そしていうところの﹁衆生の心にみちみちたまえる法身︑法性﹂
︵唯
信紗
文意
取意
﹀を
実現
でき
なくしている当体としての﹁垢障覆へること深き﹂ものが︑﹃浄土論註﹄の随処にみることのできる煩悩成就の凡夫
とし
ての
衆生
であ
る︒
先に﹃浄土論註﹄における衆生の概念を二つに分別して︑ひとつは法性真如に随順する在り方︑ふたつは法性真如
に背く在り方としての衆生について述べた︒一応の目安として我々は寸観経疏﹄玄義分から︑それらのふたつの在り
方は決して仏と凡夫という二つの独立した実体があるというような二元論的関係ではなく︑法性真如がそれとして自
らの内に顕照されているか否かという迷悟乃至覚未覚関係であることを知った︒言い換えれば︑
﹁無尽の法界凡聖斉しく円かに︑両垢の如如則ち普く含識を該ねて︑恒沙の功徳寂用湛然なり﹂
といわれるような仏所見の仏凡一体の根源的事実︑議議の心といわれるような蛸飛嬬動たるうごめく虫のひとかけら
﹃論
註﹄
にお
ける
﹁衆
生﹂
の意
義
七
﹃論
註﹄
にお
ける
﹁衆
生﹂
の意
義
七 もそれを離れて在りえない生命の根源処に︑それとして立ち還るか否かによって自ら位置される区別に他ならない︒
従って衆生を課題にするというところには︑我々がどのような衆生として自己自身を生きるかという問いが必然的 に内容とされてくるのである︒その問いに対する一方の応答が法性真如に覚める衆生としての在り方であり︑他方が 法性真如に覚めることのない衆生としての在り方である︒
つまり事柄の本質からいえば︑
一個
相対
有限
の人
聞に
は︑
そもそもの成り立ちにおいて︑当の人聞が意識すると否とに関らず︑従って老少善悪という肉体的精神的な差異に関 りなく︑その存在の事実性においては︑法性真如との関りを離れて一厘一毛も在りえないのである︒それ故に自己自 身の本来性を喪失して︑我と我が世界を私的に所有して我れひとり高きに昇ろうとする人間的諸関心の企だてもまた 間断なく︑法性真如との緊張関係の下に置かれることによって︑その都度法性真如との関係の正疎善悪を垂直的に問 われることになるのである︒そのことをよりダイレクトに表現しているのが︑浄土教における本願論だと思われる︒
﹃浄土論註﹄の真実功徳相釈における不実︑真実の釈においてこのことはより鮮明に現われている︒そういった浄土 教における救済の原理の基礎構造をなすものが︑
﹃浄土論註﹄における衆生の概念の二つの有り様であると思われる︒
﹃浄土論註﹄上巻の衆生世間清浄を解釈するところで曇驚は︑先ずもって衆生世間清浄といわれる場合のその衆生 とはいかなるものであるかを問答を通して確認している︒それによると仏・菩薩の荘厳功徳をさして衆生世間清浄と
いうことに対して問いを設けて︑
﹁問うて日く︒ある論師ひろく衆生の名義を解するに︑其れゴ一有に輪転して衆多の生死を受けるをもっての故に 衆生と名づくと︑今仏・菩薩を名づけて衆生と為する是の義云向ぞや﹂
と問題を確認して︑それに答えるに﹃浬繋経﹄の﹁一法に無量の名有り︑
一名に無量の義有り﹂という文を論拠に衆
生の
概念
を小
乗家
のい
う︑
﹁衆多の生死を受けるをもっての故に衆生﹂という一義に限定することをしないでかえっ