生即無生に於ける自証と救済
長 主 尾 町
正 i
瑛 t
願往生義は浄土教教義の中核をなすもので︑源︑阿弥陀の本願︵至心信楽欲生︶に発し釈尊これを願生彼国即得往 生と発遣し給い︑コ一国の七高祖これを伝承して世々に宣布し給うたのであった︒殊に第二祖天親菩薩の浄土論は一心 願生の浄土の信仰を讃歌論述せられているもので︑即ち侮の建めに︑﹁世尊我一心帰命尽十方無碍光如来願生安楽図﹂
と自らの信を表明せられているのは人のよく知るところである︒第三祖曇鷺大師はこの浄土論を註釈して往生論註を 著わし︑殊にこの願往生義については註師力をそそいでこれが解明に当られているのである︒即ち︑註上に二番の間 答を設け︑更に註下に再び之を論じ︑最後に重要なる問題を提起して︑願往生義に於ける凡夫往生の可能を論証して
いる
ので
あっ
た︒
この願往生義に於ける生即無生の釈義は註師が大乗空観の思想に基づいてなされているもので︑浄土教の真仮を問 う重要なる問題を含むものであって︑世に調う為楽願生の欲楽往生の不純性を正し真実の願生精神を問題しようとせ
生即
無生
にお
ける
自証
と救
済
五四
生即
無生
にお
ける
臼証
と救
済
四六
られ
てい
るの
であ
たっ
︒ 我々はともすれば﹁信﹂に重きをおいて︑
﹁願﹂を軽視する風潮を見るのであるが︑願は信の内容であり︑信は願 への確信であって信願は融即しているものでなければならない︒即ち︑本願の欲生と成就の願生とは異質なものでな くその体は一である︒而るに︑本願の欲生を重視するは当然としても機に於ける願生を軽視するが如きは如何なる理 由によるものであろうか︒今之に深入することはさけるが︑真宗教学の中心課題は行信論よりもむしろ信願論にある と思われる︒この意味に於いて願往生義に於ける註師の釈義は重要なる意義を荷うものである︒
己下論註の文に副いつつ註師の意とするところを伺いたい︒
この願往生義に於ける註師の釈義は論註上下に豆つてなされているもので︑
註上
︵五
了左
﹀に
二番
の問
答を
︑
に更
註下
︵十
五丁
右︶
に再
こ度
れを
論じ
て︑
尚一番の問答を設けて釈難釈義せられているものである︒
先ず始めの二番の
問答の中︑初めは願生の義を︑後は往生の義についての究明である︒
ケu a
シ テ シ ト ノ ゾ フ ト
﹁問
日大
乗経
論中
処々
三説
衆生
畢寛
無生
如ニ
虚空
一云
何天
親善
薩言
ニ願
生一
耶答
日説
一−
呆生
無生
如ニ
虚空
一有
一三
一種
キ ノ ノ ノ キ ハ ノ ノ ノ ノ ノ ノ ジ テ キ ヨ ト
一者
如一
一凡
所夫
レ謂
実衆
生一
如一
一凡
夫所
見実
生死
一此
所見
事畢
寛無
ニ所
有一
如ニ
亀毛
一如
ニ虚
空一
二者
謂諸
法因
縁生
故即
ナp
キ ヨ ト シ ノ ハ
ν
ノ ノ 品 タ ト ル キ 品 ハ ノ フ ガ ト
是不
生無
ニ所
有一
如ニ
虚空
一天
親菩
薩所
−一
願生
一是
因縁
義故
仮名
レ生
レ非
如三
凡夫
謂レ
有一
一実
衆生
実生
死一
也﹂
︵註
五上
丁左
﹀
れこ
が最
初の
問答
であ
る︒
大乗経論の中には処々に衆生は畢寛無生にして実体なきこと虚空の如しと説いてあるが︑今論主が願生といってい るのはこの無生の理に背くのではなかいという問の意である︒この無生の理というのは源︑般若の皆空思想に立つ考
え方で︑三論で言う八不の形式による否定の論理である︒無生は詳しくは不生不滅のことで生滅は凡夫の所見で二元
相対
の概
念で
ある
︒但
し︑
不生不減といっても生減流転の事実を曲げるものではなく︑生減に固執する所調実生実減
の実体的見解を否定するところに不生不減がある︒八不もその相対概念の否定である︒
八不
とは
︑生
減︑
去来
︑
一 異 ︑
断常の四対の迷見の否定であって一切の迷見をこれに代表せしめて︑すべての相対的概念を打ち払うのである︒それ
は雲霧が清風に払い去られるとき佼々たる明月が君られるように︑八見の雲霧が晴れたところに中道の明月を見性す
る︒明月が出づればその光に照らされて地上の万物がありのままの姿で浮き出されるように︑中道実相を見証する仏
智見の開けたとき迷悟染浄の諸法の実相が始めて観照さるることで︑衆生畢寛無生ということは仏智見に写った衆生
の相であるというのが三論教学の衆生観である︒そこに願生への疑問が提出されるわけである︒
それに対する註師の答は︑衆生無生なりという意味に二義がある︒一つは凡夫の迷見を否定して無生というのであ
名けているだけで︑生といっても凡夫の実体的迷見による生ではないと正しているのである︒
法説
コ我
是空
一亦
名為
ニ仮
名一
即是
中道
義﹂
の文
が之
を語
って
いる
︒
る︒二つには生というのは因蘇生であって諸法は因縁生なるが故にまた不生というので︑因縁生の義の故に仮に生と
﹁中
論﹂
の﹁
因縁
所生
思うにこの衆生畢克無生ということは衆生の相
対的迷情を以て生きる現実相を否定しているもので衆生の本来相は清浄なる存在であるということを反顕しているの
である︒故に衆生は因縁生であるから仮に空といってはいるが︑実は中道にして無辺無極の存在であるというのであ
る︒これを禅門では見性と言い︑又衆生本来仏なりと言わるるところである︒しかし︑浄土教に於いてはその衆生本
来の相は彼岸の相として浄土に願生するのであって︑この願生というところに即得往生という浄土の生が現成するの
であると説くのである︒故に衆生本来仏なりの自覚も︑それに固執闘定すれば︑その本来性を把握することは出来な
ぃ︒真実は我れ真実なりと執守すれば真実は遠く逃げ去るであろうし︑真実は彼岸のものとして遠くに之を仰げば最も
生即
無生
にお
ける
白一
証と
救済
四 七
生即
無生
にお
ける
自証
と救
済
四 八
近く現成するものであろう︒そこに彼岸の浄土を願生する浄土の信の深い妙趣がある︒
次は第二問答であるが︑これは往生の﹁往﹂の義についての釈義でこれも不去不来の八不の原理に立ちての問難で
ある︒即ち去来は凡夫の所見︒不去不来は達人の智慧である︒しかるに何故に凡夫の所見にも似たる往生を談ずるや
という間である︒これに対して
﹁答
日於
−一
此間
仮名
人中
一修
一一
五念
門一
前念
与一
一後
念一
作レ
因穣
土仮
名人
不レ
得一
一決
定一
一不
レ得
一一
決定
異一
前心
後心
亦
ナ ラ パ タ シ シ ナ ラ パ ズ 孟 ズ ル ヲ ノ 品 ナ
p如レ是何以故若一則無一一因果一若異則非ニ相続一是義観二異一論中委曲﹂
これは如何なる意味かと言えば︑八不は第一義空の所談で︑因縁生は俗諦因果の所談で︑今は因縁生を明かすもので
あるから当然因果の相を示すことになるので︑因果は前後の秩序を保ってい付ければならない︒そこに穣土の修五念
門の因相と浄土の菩薩の果相が立てられるもので︑捨此往彼は真実の因果を示すものであるというのである︒親驚は
これを自覚の因果として﹁信ニ受本願一前念命終︑即得往生後念即生﹂︵愚禿抄︶と示されていることは周知の如くで
ある
巳上簡単に二番の問答の意とするところを要約したのであるが︑要は真諦第一義空と俗諦因果とはその所談を異に ︒
して︑互い融即互顕して﹁生﹂というも無生の生であり﹁往﹂というも不往の往であると釈顕したもうたものである︒
而るに註師は註下︵十五丁右1十七丁右︶に於いて再度願生義について疑問と一番の問容を設けて解明に当てられて
いるのである︒即ち
ソ ヤ 品 セ
y﹁建章言ニ帰命無碍光如来願生安楽国一此中有レ疑疑言生為二有本衆累之元一棄レ生願レ生生何可レ尽為レ釈一一此
品 ズ ノ
r
ヲ ゲ シ ノ ハ ム
r r
ナV
ル 品 ハ
r r
テ ト ナ ヲ
A疑一是故観−一彼浄土荘厳功徳成就一明彼浄土是阿弥陀如来清浄本願無生之生非レ如一二二有虚妄生一也何以言レ之夫
シ テ ナ リ ト ハ ト ハ ナ
9ゾトコP
ア ラ シ グ ル
法性清浄畢寛無生言レ生得生者之情耳生有無生生何所レ尽﹂
とこれが註師の釈疑である︒
先ず疑問の意は︑生は﹁有﹂の本であり︑又衆累の元である︒然るに生を棄てて浄土の生を願うというが︑同じく
生という限り虚妄の生を脱することは出来ないでないか︒と︑ここで﹁有﹂というのは所有のことで︑又存在を主張
してやまない生き方のことを言うので︑諸有衆生といわれる虚妄の生のことである︒衆累の元とは衆累はもろもろの
煩悩
のこ
とで
︑
かかる我執と煩悩を捨てて再び生を願うというのは如何なる意味であるかという疑難である︒
それに答えて︑この疑問を明かにするために︑論主は浄土の荘厳功徳成就を観ずることを励めていられるのである︒
彼の浄土は是れ阿弥陀如来の清浄なる本願によって建立された無生の浄域であって︑それは法性清浄なる無生を体と
して全性修起された清浄仏国土であるから︑一一一口うが如き三有虚妄の生とは次元を異にしているのであるから混乱して
はならない︒とかく世間の人々が往生といっているのは凡夫の情調で言っているので有は生は無生であるから生を尽
くすこともないのである︒迷いの生は既に尽きている︒その上浄土の生まで尽くしてしまえばそれこそ二乗の単空に
堕し︑大悲心を失して永く恥を招くことになると語気鋭く力説しているのである︒ここで得生者の情というのは願生
心のことではなく凡夫実生の迷情を指しているのであるが︑この点でいろいろな説が出されているのであるが今は省
略する︒古く足利義山師並に大谷派の稲葉円成師は共に願生心に非ずと決せられていることを附記して置く︒
四
次に註師は最後の問答を設けて凡夫往生の実際面で無生の理が成立するか否かを論究しているのである︒
生即
無生
にお
ける
自証
と救
済
四九