59
阿
弥陀
仏
の
第十
八
願 中 「
唯
除」
の
意義
に
つい
て
の
一
私 見
〔
附
〕
親
の
在
り
方
医 学博士 藤 岡 隆 男
第
一
章
序
文
大
無量寿
経に、 阿弥陀
仏の 四十八願が説
か れ、 その中
の所
謂第十
八願
が、古来
一
切衆
生 、 すな わ ち か い ち あ らゆ る人々 を救
済 するた めの根 本の誓 願である と考
え ら れてい る。 たと しん ぎょう お も即 ち
、
「設ヒ我 仏ヲ得ン ニ、十
方ノ衆
生、
心 ヲ 至 シ、信楽
シ テ、
我が国
二 生レン ト欲ヒテ、
乃至 十 念セ ン、
若シ 生 レズバ、
正 覚 ヲ取ラ ジ。 唯五逆 と 誹 謗正 法ヲ除ク。 」 Vとの こ文であ り ます。 た だ しい
而 して衆 生 救 済の根 本の誓 願で あるこの 第 十八願に
、
「唯 除 五 逆 誹謗
正 法」
即 ち「
唯 五 逆 ト誹謗
ほ う をそ し る 正 法 ヲ除ク」
とあるにつ い て、
曇 鷲 大 師はその著 『
論 註』
巻 上2}に、
無 量 寿 経 に、
往 生を
願 う者は も ろ も ろ、
皆往
生で きる の に、
唯五逆と正 法を誹謗
するを除
く、
とあ り、
観無
量寿
経に、
五逆・
十悪
諸の 不 善を
具せ る者 も往
生を
得 し める、
と あるが、
一
経には、
五 逆 と誹
謗正
法の 二種
の重 罪 を 具せ るを以 て 往生 を得ること が ない 。併
し他の経 に は、十
悪、 五逆の 罪を作
る と は あ るが、正
法 を 誹 謗 した罪 を 言っ て い ない 。 こ の誹謗
正法の罪 なき 故 に往
生を
得るの で あ る、 と。 即 ち、 謗 法の重 罪 を犯せ ば救 わ れない のだ とい う。仏 蔵 経 巻
中、
浄 法 品 第六 にも、
「怨みを 以て人の命 を奪っ ても
、
た だ一
身
を 失 うだけ である が、 諸仏を誹謗
す る罪は、千
万億劫
に諸の衆
生のた め に大 衰 悩 を 作 し、
仏・
菩 薩の本 心 を覆い、
貪著 ま えん ぷ だい たまた熾
盛にして相 続 不 断 と なるだ ろ う。 若 しこの者 を閻浮
提(
こ の娑婆
世界 )
の衆
生の中
に置け ば、
三 千 大 千 世 界の衆生の命 を奪 うであ ろ う。 され ばこの罪に よっ て大
地 獄に堕
ちるの で あ る。 こ の人は、
むし ろ自 ら利 刀を
以 っ て舌を
切 っ て し まっ て、
謗
法の罪 を作
らない方
が ま だま しで あるql 3,
F と、
謗法の重い 罪を
い ま し めてい ま す。而 し て
善導大
師は、
『観
経 疏 散 善 義』
下 品 下 生 釈に、
四 十八願の中
で謗
法、 五逆 を除
くという
の は、
この 二業
はその障
りが極 重
で あっ て、
衆生 が若 し造 るな ら ば直
ちに阿鼻
地獄
に堕
ちて、
歴劫
周樟
し て出るべ き縁、
て が か りがない。 そ れで如来
は、 こ の二 っ の罪 過を
造ること を 恐 れ るが故に、
方 便 たす け と る し て止 めて、
往 生で きない と仰
せ られ たの で あっ て、
攝 取 しない と云 うの で はない のである。 ま た『
観経
』の下
品下
生の中
に、
五 逆 罪 を犯 した 者 を攝
取して、
謗 法罪 を
犯し た者 を除
く、
と仰
せ ξ、れ てあ るのは、
こ の場合、
五逆 罪 は すで に犯されて しまつ たと はい え、
見捨
て て 生死の苦
し み に流転
せ しむべ き で はない の で、
本 来の大悲
を 発されて、摂
取 し て往生せ しめ るの で あ る。併
し謗法の 罪 お さ え と ド める は未 だ 犯さ れて い ない の で、 抑 止 して、
若し謗法 罪 を 犯せば往 生で きない そと仰
せ られ てい るの で ある。 即 ちこれ は 未 造 業につ い て抑 止 して い るの で、
もし こ の 罪 も犯されて し まっ た時
に於ては、
ま た摂 取 し て往生せ し め るの である。併
しこれ らの罪 を 犯した者は往生 で きて も、
一
つ には仏及び 諸の聖 衆 を見 るこ とが で き ない。
二っ には正 法を
聴 聞す る こ と が で きない 。 三つ に は歴事
供 養 する こと がで きない 。 併し阿 鼻 地獄の 中に陥
ちて長時
永 劫 に諸の苦 痛 を 受けるよ り は ま だ ま し で は ない だ ろうか、
4〕 と云 っ てい る。60
藤 岡 隆 男また 『法
事讃』
巻上に は、
「人 天 善 悪 皆 往生 ヲ得、 彼二
到
リ テ殊
ナル コ ト無シ。斉
同 不退 ナ リ。
何ノ意力然ル トナラ バ、 乃シ弥陀
ノ因
地二、
世饒
王 仏ノ所ニ テ位 ヲ捨
テ、 家 ヲ出
ヅ。 則チ悲
智ノ心 ヲ起シ テ、
広ク四 十八願ヲ弘メ タマ フニ由
テ ナ リ。 仏願 力ヲ以テ五逆 ト十 悪 ト罪滅
シ生ヲ得 シ ム。 せん だい謗
法闡
提、
廻心ス レ バ皆
往クq}
5)とあっ て、
廻心(
懴悔 )
すれば皆往
生で き、浄
土 に到 れ ば弥 陀の 願 力に よっ て皆 同 じさと りの身
となる こ と が説かれてあ る。而し て
覚
如は『
口伝鈔 』
に、
こ の唯 除の抑 止は釈尊
の方 便で あり、
弥 陀の本 願で はない 6}かの如 く記 してい る。易 行 院 法 海 7}は
、
抑 止 は 実 をか くし て説
く方 便説
なり。 実 は 五 逆 謗法 も漏
らさない 本 願で はある が、 その重罪
を 造 らせ まい と して説
い たもので、、
こ れ は方 便で、
方 便 は必ず
の ちに真
実を
顕 す べ き であるか ら、
観 経下下
品では、真
実を
顕 し て五 逆の往 生 を説 くの であ る。 し か る に弥 陀の十八願に、
も し方 便の 抑 止があ れば、 必ず
別に逆 謗 を摂
す る本
願を
たて て真 実 を あ らわ さね ばな らな い 。 し か る に四 十八願の中
、 別に逆謗摂
す る願がない 。’弥陀
の抑止
とする時
は 五 逆 謗 法の者 は 実に除
くこ と になり、逆 謗
の者の往 生 はで き ない ことに なっ て し まう。 こ の 道理を
もっ て推察
する時、
釈 迦の抑 止 とするこ と は 明白
である。 弥 陀の悲 願が重 罪 を抑 止 し た まう意は同じこ とで は あ るが、
こ の唯 除 五 逆 誹 謗 正 法 は 不 取正覚
の後
に出てい る の で、
弥 陀の本 願の抑 止で は な く、 釈 迦の抑 止で あ るこ と が明白
である。 而 し て拾遺古徳伝
に、 弥 陀の本 願にい わく、唯
除五逆 誹 謗 正法と云々と あり、
又、和
語燈録
、 登 山状
(拾 遺 語 燈 録 巻中
8)t
思わ れ るが)
に 、念 仏 を修せ ん者
は余 行 を そ しるべ か らず。そ し ら ば 則 ち弥陀
の悲願
に背
くべ き故 な り。 同二、
七箇条
起請
文 も前の登 山 状 と 同 じ。 これ らの法 然 の お言
葉で は抑 止 を弥陀
の抑止
とする よ うに みえる。 これ は散善義
に四 十 八 願の中に ただ五逆と正
法を誹謗
せん もの を ば 除い て往
生せず
と云う言葉
に依っ た もので、 これ は抑
止の文は弥 陀の本
願の中
に あ るか ら、
文の あ るところをさ して弥 陀の本
願にい わ く と言
っ た もの で、
弥陀
の抑止
である と い う意 味で は ない 、 と 云 っ てい る。而 して彼 は
、
覚 師の 『口伝鈔』
に 「抑止
は釈
尊の方 便 な り。 真宗
の落居
は弥
陀の本 願に き わ ま る」 と、 明 に釈
迦の方 便 と定めてあ り。 しかれ ば 御相承の御釈
明臼 なるこ となれ ば、 今家
の末学
異求
す べ からず
、と 云 っ てい るが、
真 宗の安心 は、 教権
の威
圧によっ て なされ る もので あろう
か。口
伝
鈔は、
親鸞
聖 人が如 信上入に対
し て、
を りをり物 語 られ た お言
葉 を・
覚 如 上 人が聞 き書き さ れた も’
のであ ろう
が、
はたし て 「抑 止 は釈尊
の 方便
なり。真宗
の落居
は弥 陀の本 願にき わ ま る」
の 言葉
が親
鸞の言
葉で あっ た か どう
か。 また、
も し親 鸞の言葉
で あっ た とし て も、言葉
に は相 手が あ ること で、
これを
普 遍の道理 としこれ に固執
すべ き もの かど うか に疑
問を
もっ もの で あります。而 し て易 行 院 は
、
七箇条
起請
文に、
「わ れは 阿
弥陀 を
こそ たのみた れ、 念 仏を
こ そ信じ た れ とて、 諸仏・
菩 薩の悲 願 をか ろ し め た て まっ り、
『法
花
』、
『
般 若』
等のめでた き経ども をわ ろ く おもひ そ しる事
は、 ゆ め ゆめ あ るべ からず
。 よ う つのほ と けた ちを
そ し り、
も ろ も ろの聖 教 を う た がひ そ し り た らんず
るっ み は、
まつ阿 弥 陀の御
心 にかなふ ま じけ れ ば、 念 仏 すとも悲願にもれ ん事
は一
定 也ql 9}とある につ い て、
彼は、唯 除
の こ文 を釈尊
の抑 止と決めなが ら、「
登
山状等
に弥 陀の悲 願に 背くべ き故 なり と仰せ ら れ た る は、
釈 迦の抑 止は弥
陀の抑 止 を伝へ て説き た ま う故に、
余 行をそ し る は弥 陀の悲 願に含
む所 を御 意に由 りて仰せ ら れ た る御 言 な り。
17
乏
云 っ てい て、
これ は結 局、
釈 迦の抑 止は弥陀
の抑 止 を伝へ てい るの だ と云 っ てい るので ある。さ れば何故、 この 「唯 除
」
の こ文 を釈
尊の抑 止と云い の が れ ようとする の か、
私には益々 わ から阿 弥 陀 仏の第 十八願 中 「唯 除」の意義につ い て の
一
私 見 〔附〕親の在 り方61
なくなっ て しま う。 これ は 私の脳動
脈 硬 化 症の せ い のみ であ ろ うか。こ こ に私は
、謗
法の 重 き咎となるや も知 れない ことを 覚 悟の上で、一
私 見を述べ 、 諸 賢の ご懇 篤 なる ご高 兒を仰
ぐ次第
で ありま す。第
二章
五
逆
・謗
法
に対す
る
釈尊
、仏
、菩
薩
の摂取
五 逆 罪 や
謗
法 罪 を犯し た者
とい えど も 弥 陀 は摂 取 する が、
そ の者の罪は重い の で釈
迦が抑 止 した のだとい う。或
る程一
切経には、
五逆、
謗 法の罪 咎の救
わ れざる重 罪で あ ること を説い てある箇 所 は、枚
挙に い と まがない。大般
浬槃
経 巻九、
如 来 性 品 四の六に は、「如
来
も亦爾
な り。 衆生 を化せ んが為に、
制 戒を
示現 す ま さ な ら く。『
応 当に 是 の 如 く受 持 して、
犯 すこ と莫か るべ し。
五 逆 罪 を 作 す と、
正法を誹
謗 すると,
及 び一
闡提
とな り』
IMと ある。ところが同 経 巻 十
、一
切 大 衆 所 問 品 第 五に は、
仏、
純 陀に告 げた まは く、「若 四 重 を犯し
、
及 び五逆 罪 を (造 り)、
正 法を誹謗
する。 是の如き等の人 を 名け て破 戒 と為
す。
1
純陀、
ま た問 は く、
いな「是の 如 き破 戒は抜 済 すべ き や 不 やql
答
へ て言 は く、
「純 陀、
因 縁 有る が 故 に、
則 ち抜 済 すべ しlIv
とある。 ほfさつ ま か さっ而し て同 経 巻
十
五、梵
行品第八の一
には、
「菩薩摩
訶薩 、
若 し貪 窮の衆
生を
見 るこ と を 得ざ れば ど く や 縁じて 慈 を生ず
る無 しeJ’
と云い、
また、譬
へ ば 人有り て身
に毒箭 を被
る が 如 し。 其の人の眷
属は安穏
な臨
めん と欲 し・
毒 を除
か ん鵬
の故 に・
即狼
医
に命
じ て・ 為に箭
を抜 く・ 彼の 人方に言は く、
「且 く 待て、触
る ること莫れ。 我 今 当に観 ずべ し。 是の如 きの毒箭
は何の方よ り か来
れ る。 誰 の射る所 ぞq1 ま た更に念を作
さ く、
「是何の
木
か、 竹か柳
かql 是の如き の癡人 は、意
に未 だ 知 るこ つい と能はず
して尋
で便ち命終
せ ん。 善 男 子、
菩 薩 も亦 爾 なり、若
施を
行ず
る時 、
受 者の持 戒、破
戒 乃至 果 報 を分 別せ ば、 終に施 すこと能は じql IMと。心 まず し き
逆謗
の者 を
見るこ と なし に は菩薩
も慈
心 を起 すことはな く、
そ の慈を施
す とき相 手の 分けへ だて をすること な く、直
ちに施 すべ きこ と を 仰せ られる の で あり ま す 。ま た
梵
行品第
八の六13}に は、耆婆
が阿閣
世 に釈 尊の お徳 を述べ て、
「譬へ ば
一
人に七 子 有 り。 是 の 七 子の中
の一
子、
病に遇はんに、 父 母の心 平 等 な ら ざる に非 ざれ ど も、
然 も 病 子に 於て心則
ち偏
へ に重き が如し、
大 王 如 来 も亦爾
な り 。 諸の衆 生に於て不 平等
に非ず
。 然 も罪 者に於て、 心則ち偏 へ に重し。 放 逸者
に於て 、 仏 は 則 ち 慈 念 を 生じ」と云っ て い て、
こ こで 云 う罪者
とは五逆罪
の如 き もの、
放 逸 者 と は無慚
無愧の謗 法の者を指
してい ると云 っ て過言
で はない で あろ う。 あ じ ゃ せま た
釈尊
が、「我 今 当二 是ノ王
〔
逆 悪の子 阿 閨 世)
ノ為二 世二住
シ、
無 量劫
二 至ル モ涅槃
二 人 ラ ザルベ シel と大 衆に造 げら れ 、 迦 葉の 問に答 えて、
「
善
男 子、
我が言
フ所ノ如キ、 阿 闍 世ノ為に涅槃
二 入 ラズ トハ、
是 ノ如 キノ密 義ヲ、
汝 未 ダ解ス コ ト能ハ ズ 。 何ヲ以テ ノ 故二 我が為 ト言フハ.
一
切 凡 夫ナ リ。 阿閨
世 トハ 普クー
切ノ五 逆ヲ造ル者
二 及ブ」
と云 い 、 ま た 「為 トハ 即チ 是 仏性 ヲ見 ザル ノ衆
生ナ リ」
と云い、
また 「阿 闍 世 ト言フハ 名ケテ不生 ト為
シ、
世 トハ怨
ト名ク。 仏 性ヲ生ゼ ザル ヲ 以 テノ 故二、
則チ煩1
滋ノ怨 生ズ。 煩 悩 ノ怨 生ズル ガ故二、
仏 性 ヲ見 ズq1 とい い、
「是ノ故二 我ハ 、 阿闍世 ノ為二 無 量 億
劫
涅 槃 二 入 ラ ズ ト云フ 。]
と仰せ られ て い る。こ こ で 「仏 性ヲ見 ザル 」と は謗法 の 者
、
「仏性ヲ生ゼ ザ ル
」
と は一
闡提
で あ ろ う 。さ れ ばこ こで
釈尊
が・ 五 逆・
謗 法・一 闡
提の者に、 殊に あ われみを
な して い ること が うか が わ れ62
藤岡
隆
男 よ う。
ま た 涅 槃 経 巻
一
、寿
命 品 第一
の一
には 、「衆 生 を憐 憫 して、
等
しく一
子の如 しej 14)とい い、
同 経 巻三 涛 命 蹠_
の ヨ ・は、
「壌 法の者 を羲
ること、等
しうして一
子の 如 し 」.
15t
あ・ て、
仏 軈 悲は親が そ の一
子 を あわれ むが 如 くで、
た と え五逆 謗 法を
犯す 者が あっ て も、一
子 を あわ れ む ごと く、
等 しく あわ れ ま れ るのである とい う。._ −
bb
ま た巻 四
、
如 来 性品第
四の一
にも、
如来は諸
の衆 生 を視るこ と、釈
尊がその一
子 、羅喉羅
をみる 如 くであ る。 ど うして世 尊は逆悪
の衆 生 をして地獄に 入 らしめ よ うと望ま れ る ことがあ りませ ん か、
.
と云 うの か。 私 は一
人 で も その罪の 故 に阿 鼻 地 獄に墮す る業
を もっ たものが あ るな ら、
こ の人の た め に私はこ の世に一
劫 ながらえ、或
は減
一
劫 住 して済 度 し よ う 。 私 は衆 生に対し て大 慈 悲の心 を持 。 てい る. どう
して一
人 子の よ うに想。 て・賭藩 こ
て、 地 獄に やるこ と が で き よ うか。 16}と ・ 仏 陀は大
慈 悲の心を
もっ て、
その罪 業の故に地 獄に堕
ちるべ き業 を
もっ た 者 を も摂 取 し て みすて ぬ、
と仰せ られ るの でありま す。而し て同 巻 八、 如来
性
品第 四の五恥
こは、
「如 来は実に
憂
悲・
苦
悩 無 し 。 而 も衆
生に於て、
大 慈 悲 を起 し、憂
悲 有るを現じて、諸
の衆
生 を視るこ と羅
喉 羅の如 し。1
と。 ま た、
如 来 は本
来 清 浄 無 染 で憂 悲 苦 悩は ない の だが、
「磐
女喇 よ憂悲
無 しと言はば、
云 何 ぞ能 く一
切衆
生 を利 し、
仏 法 を 弘 広 せん。j
と。 また、 如来は本
来 憂 患はない 。「
憂
愁 有る者 を凡夫人 と名 く。 凡 夫は憂
うるを以 て の故 あ に、
如来
に は憂 無 し 」 とも 「如 来 は 無 量の衆生 の 、常
に諸 有の毒
箭に中
て らる・を
愍念す。
是 の故に名
けて如来に憂 有 りと為 す 」と仰
せ られる が、 こ れ は 世 間 に隨
順して憂悲
を示 現 するの で あ っ て、
「如 来は己に
大
般 涅槃
に入 りた ま ふ。 云 何 ぞ 当に憂 悲 苦悩
有るべ き。 」 と あ り、
本 来 憂悲
苦悩
の ない 如 来が、衆
生を
利益され るた めに憂悲苦
悩され なが ら、 そ れを苦
と さ れ ない こ とを仰せ ら れ る の で あ ります。而 も
、
その者 を
救 う ために、
「そ れ慈 を修 する者は能 く貪 欲 を断 じ、 悲心を
修 する者は能 く瞋 恚 を断 じ、喜
心 を修 する者
は能 く不 楽 を断 じ、捨
心 を修 す る者
は能
く貪・
恚 及 び衆
生相 を断ず
。 是を
以ての故に、 真実の思 惟と名 く。 ま た次に善 男 子、菩
薩 摩 訶薩の四 無 量心 は、
能 く一
切 諸善
の根 本為
り。]
と、
既に煩悩
を断
ち、
ま た、 「善 男 子、
菩薩
摩訶薩の布 施 を行ず
る時、
諸の衆 生に於て、 慈 心の 平 等 なる こ と、 猶 し子想
の 如し。 又施を
行 ず る時、
諸の衆 生に於て、 悲 愍心を
起 すこ と、饕
へ ば父母
の病 子 を瞻 視するが如し。 施 を行 ずる時、
其 の 心歓 喜 するこ と、猶
し父 母の、 子 の病の愈
ゆるを 見るが 如し。 既に施
すの後、
其の心の放 捨 するこ と、 猶 し父 母 の、 子の長 大 し て、 能 く 自在 に活 くるを
見 るが 如しeJ とあっ て、 衆 生と悲喜 を共
に され るこ とを仰
せ ら れるの で あり ます。さらに
、
「善 男 子
、
慈 とは 能 く一
切衆
生の為に父 母 と作
る。
父 母 は即 ち慈、
慈 は即 ち如 来な り。 善 男 子、
慈 と は乃 ち 是 不 可思 議、
諸 仏の 境界
なり、
不 可 思 議、
諸 仏の境 界は 即 ち是 慈 な り。 当に知 るべ し、
慈と は即 ち是如 来 な り。 善 男 子、 慈とは 皀卩ち是衆
生の 仏 性 な り。 是の如 き の仏 性は、 久し く煩 悩に覆 蔽せ らる。 故に衆 生 を して覩 見す るこ とを得 ざ ら し むd
とあり、
慈と はあ ら ゆ る 人々 の 父母の ごと く、 は かり知 るこ とので きない 諸仏如 来の境 界で あ り、
「
そ れがその ま・
衆 生の仏 性で あ り な が ら、
その煩 悩のた め に 見失っ てい るの だ、 とい う。、
ま た巻 十六 、 梵 行品第八の 二 IS には、 慈の抜 苦 を説き、 そ れ は仏の持つ 神通 に よ り自然に受 くる 衆 生の楽で あ る とい う。 そ し て 「譬へ ば 父母の、
子の安 穏 を見 て、
心 大 い に歓喜
する が 如 く」、
極 愛一
子 地に住す る菩
薩は 「衆 生 を視 るこ と、一
子 に同 じ。 善 を修 する者 を見て大 歓 喜 を生ず
e]と。阿弥陀仏の第 十八願 中 「唯 除」の意 義につ い ての
一
私見 〔附〕親の在り方 また 「譬へ ば父母の、
子礁
漣
ふ観 て、 ,b
に苦
悩 を生 じ、
之 を愍みて聴
し、
扮
てreee
するこ と無きが 如 し。
j
菩 薩の是の 地に住 するも 同 様 で 「諸の衆
生の煩 悩の病に纏 切せ らる・を
見て、
心 に愁悩 を
生じ、憂
念す るこ と 子の如 く、身
の諸の毛 孔よ り血 皆流 出
す。」
と あり、
極 愛一
子 地に住
す る 菩 薩 は衆
生 と悲喜 を共
に する とい う。 さ れば 「人の小 さ き時、
土塊 ・
糞 穢、 瓦 石・枯
骨・
木 枝 を拾い 取 りて 口中
に置
くに、 父母
見 己 りて、
其の患
を為
さんこと を恐 れて、
左 手に頭を捉
へ、
右 手 と に桃り出
すが如しcl 菩 薩 も同様
で、「諸の
衆
生の、
法身
未だ増せず、
或 は 身口意の業の不 善 を行ず
るを
見、菩
薩見已 りて、
則 ち智 手 を以て之を抜
き て出
で しめ、
彼 をして生死
に流 転し て諸の苦 悩 を 受け し む るこ とを欲せず。1
と。 即 ち、 あやま ちがあっ た ら直
ちにそれ より救い、
現 在の罪の根 を抜 い て、
将 来にその苦悩
を受 けさせ まい とするので ある。然 るに 「譬へ ば父 母 所 愛の子 の
、
捨て・
終 亡 すれ ば、 父 母 愁悩
して、命
をともに せん と願 うが如 く、
菩 薩 も亦 爾 なり。一
闡提
の地 獄に堕 するを 見て、
亦 と もに地 獄の中
に生ぜ ん と願
う。 何 を以て の故に、
是の一
闡 提に し て、 もし受 苦の時、 或は一
念の改悔
の心 を 生ぜ ば 、 我 即 ち 当に為
に種
々 の 法 を説
き、
彼 をし て一
念 の善 根 を生 ず るこ とを得 し むべ し」と、求
め ら れざる前に衆 生の堕 ち ゆ く ところに応 じてそこ に現わ れ、
決 し て見捨
て るこ とな く、
正 法に帰せ しめ ん とする。 私はこ ・ に摂
取 不捨
の悲
願を
おも うの であ り ます。而 して 「
譬
へ ば父母に唯一
子有り、
其 子の目郵 菩に、
行 住 坐 臥に、
心に常に之を
念じ、 若 罪 咎 有れ ゆ ゆ ば、
善 言 誘 喩して、
其に悪 を 加へ ざ る が 如 し。
菩 薩 摩 訶 薩 も ま た 是の如 し、
諸の衆
生 の、
若地 獄・
すぺ 畜 生・
餓 鬼 或は人 天中
に堕 し、
善 悪 を 造作す るを
見て、
心 に常に之 を念 じ て、
初て放 捨せず。 も し い か り 諸 悪を行
ずるも、
終に瞋 を生じ て、
悪 を以て之に加へず
」 と。 菩薩
もい つ も衆
生 を 念じ て、
逆 悪 を なし て もい か りを
もっ て罰 を
与えない とい う。
また 「善 男 子
、
た とい 十住
の諸の菩薩等 を
して、
四重禁
を犯 し、一
闡 提 と作 り、
正 法 を誹 謗せ し むと も、
如 来は終に諸の衆
生の為に煩悩
の因縁 を作
さ じ。 善 男子、
たとい一
切の 無 量の 衆 生 をし て、
仏 性 を衷滅
せ し め、
如 来 究意
じ て般 涅 槃に入 ると も、
如 来は終に諸の衆
生 の為に煩悩
の因 縁を作
さ じ。 善 男 子、
如 来は真 実に能 く衆
生の 為に煩 悩 を 断 除し、 終 に為に煩悩
の因を作
さざるなり。
]
と あ っ て、
如 来ば真
実に能 く衆 生のために煩 悩 を断 除 し てい る がゆ えに衆 生が如 何 なることをしても 決 して煩
悩 をおこすこ と はない とい う。 而 し て巻二十六、
光明遍 照 高 貴 徳 王 菩 薩 品 第 十の六 には、
善 男 子、
譬へ ば父 母に た “t一
子 有りて、 之 を愛 す ること甚 重 な る如 し。 好 衣 裳、 上 妙の甘 膳 を以て、
時に随い て将 養 して乏 し き所 無か らし む。 其の子若し是の父 母の所
に於て、
軽 慢心 を起 し て悪口罵
辱 す と も、
父母
愛 するが 故に瞋 恨 を生 ぜ ず。亦
我れ 「是 の兒に衣服 、
飲食 を与
う」 と 念言せず。菩
薩摩
訶 薩 も亦
復 是の如 く、
諸の衆 生 を 視ること猶 し一
子の如 し。若
し子 病に遇はば、
父 母 も亦 病 ま ん が為に、
医 薬を
求めて勤
めて之 を療 し か 治す。 菩 薩 も亦 爾な り。 諸の衆生の煩 悩の病に遇 う を見て、
愛 念心 を生 じて、
為 に法 を説 く。 法 を 聞 くを以て の故に、
諸の煩 悩 断 ず。 煩 悩断 じ已るに、
終に 「我衆
生の為に諸の煩 悩 を断ず
」 と念 言 せず
。若
し此
の念 を生ぜば、
終に尚耨多蘿…
鑽讐響窺
を成ず
るこ と を得 じ。 亘9乏
あっ て、菩薩
の慈
心 が、
純 粋 な 親心 がそ れ を意’
識せず、
また 勿論 その子から報 酬 を求めない 愛である ように、
衆 生 を 救 済 しても、
そ れ を意 識 す る よ うなこ と は ない とい う。
ま た巻二 十七
、
師 子 吼 菩 薩 品 第 十の一
20)に は、
如 来は全 く衆 生の た め に慈の神通 をお こ される の で あっ て、
全 く利 養の た め で ない、
と説かれ、
巻二十八 には、
「菩
薩 は 諸の悪 衆 生の為に傷 害せ ら63
64
藤 岡 隆 男 る と雖 も、 恚 碍 を 生せず」 2n と。また 巻 三 十二 に は
、
「
衆
生常に安 楽 を得ん と欲 すれ ども、 安 楽の 因 を修 するを知 らず
。 如来 能 く 教へ て修 習せ し む る、
猶し慈 父の一
子 を愛 するが 如し。 仏衆
生の煩悩
の患 を
見た まい 、 心苦 しむこ と母の病 子 を念 うが如し。常
に病を
離る る諸の方 便 を忠
い た ま う。 是の故に此の身
他に繋属
す。一
切衆
生は諸 苦 を行 じ、
其の 心顛 倒し て以 て楽
と為す。 如来は真の苦 楽 を演 説 し た まう。 是の 故に称 号し て大悲
と為
すeJ 22〕と。 諸 仏如来は衆 生の煩 悩
に苦し む をみ て悲 憫離
れ るこ と が で きず
、 真 実 永 遠の安楽
に至る道 を説かれ るの で大 悲 と称 するの だとい う。ま た巻三十八 に は
、
「先に已に煩 悩の過 を 了知 し
、
示 現 して之に処 して衆 生の為にす。 久し く 世 ね が 問に於て解 脱を
得、 楽 うて 生死 に処 する は慈 悲の 故 な り。 天 身 及 び 人 身 を現 ず と雖 も、
慈悲
の 随 逐 こ うし すること犢
子の如 し。 如 来 は皀卩ち是れ衆 生の母な り。 慈 心は 皀卩ち是 れ 小 犢子 なり。 自ら衆
苦 を 受け て衆
生 を念 じ、 悲 念 する時
心悔
没 せず
、 憐 愍の心盛に して苦
を覚えず、
故 に 我抜 苦 者 を稽 首 す。 如 来は無 量の福
を作
すと 雖 も、 身口意 業 恒に清 浄 なり。 常に衆
生の為に し て己が為に せ ず。 是の 故 に 我清浄
業 を礼 す。 如 来 は苦 を受け て苦を覚
らず 、衆
生の受 苦 を見 るこ とo
が苦
の如し。衆
生の為に 地 獄 に処 す と雖も、
苦 想 及び悔心 を生 ぜず。一
一
・
・
切 衆 生の異苦 を
受 くる は、
悉 く是 れ 如 来一
人の苦
な り。覚
り已りて其の心転た堅 固 なり。
故に能く 無 上 道 を勤
修 す。 仏は一
味の 大 慈心 を具 し 、衆
生 を悲
念 するこ と子 想の如 し。 衆 生は仏の能 く救
い た まう を知 ら ず。
故 に如来
及 び法僧 を謗る。 世間 は 衆の煩 悩 を具し、亦
無 量 の諸の過 悪 有 りと雖 も、
是の 如き衆 結及び 罪 過は、
仏 初 発心 に己に能く壊
す。ll
23) と あっ て、
如来は慈 心のゆ えに、
衆 生の苦 を
如 来一
人の苦と受けてそれ を苦
ともさ れず
、憐
愍の心 さ か んに して、
衆 生の 苦 を抜き、 は か り知 れ ない福
徳 を与
え なが ら、 身口意の 三業つ ねに変 るこ とな く清 浄で、
衆 生のた め地 獄に住 まる こ と が あっ て も苦と し ない どこ ろ か悔い るこ とさえ な い 。 然るに衆 生は その仏の み心 が能 く救い た ま うこ とを
知 ら ない から謗 法の罪 をつ くるのだ。 し か し そ れ す ら 如来は、
すでに発心の時 、
その煩悩
や 罪 を許 さ れ てい たのだ とい うので あ り ます。以 上、 逆
謗
の者
を摂
取して捨てた ま わぬ、
永 遠に し て真
実 なる釈尊
、 諸仏 如来、 諸 菩薩
の慈 悲が説
か れて あるのであ り ま す。 オ モ ン而し て
『
玄 義 分』序
題 門に は、r
仰 イデ准ミレ バ釈
迦ハ 此ノ方ヨ リ発遣
シ、弥
陀ハ 即 チ彼 ノ国
ヨ カ シコ ツ カ ユ リ来 迎ス 。 彼二 喚ビ、 此二 遣ハ ス。 豈二 去カザルベ ケ ンヤ。] 24乏
あ り、 ま た 『定 善 義 』には、
「正 シク娑
婆ノ化 主、
物 ノ為ノ故二 想ヲ西
方二住セ シメ、 安 楽 ノ慈 尊、
情ヲ知ルガ故二則チ東 域二 影 臨 汐 マ フ ・ トヲ明 カス . 斯 レ及チ ニ尊
ノ罫轟
二 異丿レ。 ト無シ.齟
、
隱 顕 殊 有リ. 正 シ ク器朴
噸 エイショウ 万 差ナルニ由
ツ テ互二郢匠
為 ラシムル コ トヲ致ス c]
25 } と ある。これ は釈 迦
・
弥 陀二尊がまっ た く一
致 する という
旨趣を
し め さ れ たもの とい うこと が で き る。し かもその二尊
一
致の妙 趣 を中 国のい わ ゆ る『
荘
子』
の 故事
に ならっ て説明 して い る。 即 ち、
む か し中 国に郢 人 と匠 石 とい う親 友がい た。 あ る時
郢人 の鼻
の 先に蝿が と まっ た ほ どの泥がつ い て非 常に おか しかっ たので、
友 人の 匠 石は斧 をふ りおろ して一
瞬の うちにその 泥 をと りの ぞい た。
その 匠 石の 早 業は、
郢 人の 鼻に少 しの 傷も あ た えず、
し か も そ れ がの ぞか れ るの を、
本人 は 少 し も 知 ら なか っ た ほ ど で あっ た とい う。 その後、
こ の こ とを聞 い た宋の元 君 が、匠
石 をよび、
もう一
度 その 妙 技 を 演 ずるように命 じた が、
匠石 は、
自 分は あの時
は何の 造作
も な く その 技 をやっ た が、
い ま は 相 手の 郢が死んで しまっ て い ない の で、
そ れを演 ずるこ.
と はで き ない、
と答
え た とい う 故事
に よっ たもの で ある。 as)阿 弥 陀 仏の 第十八願 中 「唯 除 」の意 義につ いて の
一
私見 〔附〕親の在 り方65
さ れば抑 止 と摂 取 を 諸 仏 如 来 (釈 尊 を 含む)
・
諸 菩 薩と弥
陀と に区別 し、
固 定 し て考
え るべ きも の で あ ろ う か。第
三章
仏
・菩
薩
の
驫
語
涅 槃経巻 第二
十、梵
行品第八の六 13)に、
「諸仏 は
常
に軟
語 もて衆
の為の故に驫 を説
き たまふ 轟 語 も及 び軟語も皆
第一
義
に帰 す 」と あ り、
諸 仏は常に軟語、
す なわち、
やさし くい た わ りの 言 葉 で衆 生 をお導び きになる が、
時には衆 生 を正 法に安 住せ し めん がた めに驫
語、
即ち あ ら あ ら しい 言 葉で お導 び き下さ る。
併 し驫 語 も軟 語 もみな真
実か ら出
た お言
葉で あ る、
と云わ れ るの で あ りま す。ま た
梵
行品第
八の 二 IS〕には、菩 薩
は 正 法を
護る た めには、
大 乗 経 典 す なわ ち正法を誹
謗す る者
が あ れば鞭
撻 し、苦痛 を
与え て、
即 ち罪 を与 えて ・”
もこ の者の誤
りを正 すの で ある 。 ま た時に は その 命 を奪 っ て ・“
も過 去の過 ち を改 め さ せ、
善法 を遵守修
行せ し め ん とするの である、 命 終の後、
阿 鼻 地獄 に陥
ちた時、
すな わ ち 方等 大 乗 経 典の正 法な るを誹 謗し、 信ぜ ざ るによっ て罪 を 受け てこ こ に 来生 し たこ とを 自 ら知 り、
正 法 を信 奉 恭 敬 す る心 を起せ ば、
甘 露 鼓 如 来の 世界に生れ るこ と が で き、 寿 命 十 劫 を得 し め るので あ る。 さ れば 決してた “罰し た り、 罰の た めに殺 すので はな くて、
反 省 を求
め、
救わ ん が た めに罰す るの で あっ て、
それ は親が一
人 子 を極 愛 するが故 に、時
に罰
して反 省 を 求め るの と同 じで ある とい う。ま た諸 仏 世 尊の お 言 葉は
、
我々 の心 で は かっ て はい け ない 。 時 に応 じ真 実の言 葉 を以っ て語ら れ、
世問の 人に し た し ま れ る が、
時宜 を得ず
理にかなわない で世 問の人の 利 益にならない よ う な言 葉を
決 し て説かれ なV ま た あら あ らしく、
虚 妄で、
時 宜 を得 ず、
理 に かなわ ない で、 世 間に し た[v
ま れず、
ま たそれ らの 人々 の た めにな ら ない よ う な言 葉 を説か ない。併
し若し ま た驫 砿、
す なわ ち、
あ ら あ ら しい 言 葉で あっ た とし ても、
「
真
実に して虚ならず
。 是の時 是の法、
能 く一
切 衆 生の 利 益 か な ら を為 すは、
聞 きて悦 ば ず と雖 も、
我 要 ず之 を
説 く。
]と仰せ られ、
そ れは諸 仏、
如 来は方 便を
知 っ て い るからだ、
とい うQさ れば 「善 男 子
、
我一
時、
彼の砿 野の聚落
の叢樹
に遊びて、
其の林 下
に在る が如 し、一
つ の 鬼 神 む ら 有 り、
即 ち拡 野 と名 く。
純ら肉 血を食
し、
多 く衆
生 を殺 す。復
其の豪に於て、
日に一
人 を 食 す。 善 男 子、
我 その時
に於
て、 彼の鬼
神の ため に、
広 く 法要 を説 く。 然るに彼、
暴悪 ・愚
癡・
無 智に し て、 教法を
受 けず
。 我 即 ち身
を化して大力鬼
とな り、
其の宮 殿 を動
じ て、
所に安ん ぜ ざら しむ。 彼の鬼、
時
に其の眷
属 を将い て其の宮
殿を
出で、 来 りて距て逆はんと欲す。鬼
我 を見 る 時、
即 ち心念 を失ふ。 惶 怖 して地に躄れ、
迷 悶 断絶して、
猶 し死 人の如し。
我 慈 愍 を以 て手 もて其身
を摩
すれば、 即 ち還 っ て起坐 して、 是の 如 きの 言 を作 さく、
『
快
い 哉、 今 日還っ て身 命 を得 たり。 是 の大 神王 は、
大 威 ね ん ぐ ゆ る 徳 を具 し、 慈 愍の心有 りて、
我 が 懲 咎を
赦 し た まう。1
師 ち我が所に於
て、善
信心 を生 ず。 我 即ち如 来の 身 を還 復し て、
復 更に為
に種々 の法 要 を説 き、
彼の鬼 神 をして不殺戒 を 受け しむ 。 善 男子、
如 来は衆
生 を 調 伏せ ん と欲 する が為
の故に、 是の 如き種々 の 方 便を
示 す。 故に彼 をし て怖 畏 を生ぜ し む るに非ざる なり。 善男子、 我は亦木
を以て、
護 法 鬼 を打
て り。 又一
時に於 て、一
つ の山 上に在 り、
羊 頭魅
推 して、
山 下 に堕せ し め た り. 讎 寸頭に於て護
癬 蒐
鹸
ち
護
財 象 をして、
獅 子 を 見せ しめ、
金 剛神 を
して 、 薩遮
尼 健 を怖 れし め、亦針 を
以て箭
毛 鬼の身 を剌せ り。 是 の如 きを作す たtt
ち に と雖 も、
亦 彼の諸の 鬼 神等 をして 、 滅 没 する者 有 ら し めず。 直 彼 をし て正法 に安住せ し め ん と欲 す。 故に是の如 き の種々 の方 便を示す なり。]とある。 こ・
で 云 う方 便 と は神 通のこ とであ り、
時にき び66
藤 岡 隆 男 しく罰し、
神通 を以て おそれを抱かすの も、 すべ て は衆 生を
慈 愍 し、 その者を
して、 正 法に安住
せ しめ んが ためで あ る とお説きになっ てい るの で ある。而し て、 阿 毘 達 磨 倶 舎 論 巻 十六、 分 別 業 品 第 四の 四に は
、
「若 し染 心
(
染 汚の心 ) を以て非 愛の 語 を発 し他 を毀 砦 するとき は、麁悪
語と名
く。]
2n と 云い 、 阿毘達磨
大毘婆沙
論 巻 第 百 十六 2S)には、
麁悪
語に三種類
あっ て、
貪 欲の 心 から 「名 利を
以 っ て他の 有 情 を、若
しくは己のた めに、若
し くは 他のた めに罵詈
し毀 辱 する が 如 し」 と。 また瞋恚
の心で 「他に於て損 悩 心・
怨 嫌・
悪音
楽 心 有 り て 便 ち彼 れ或
は彼 れの親
友 を、
若 しくは 己 の た め に、
若 くは他の た め に罵辱
する が 如 し」 と。 ま た愚 癡の 心 か ら生ず
るもの で、「天 性甚だ卒 暴に して多 く
麁
悪語 を な すに、
彼の諸の弟 子 は 以っ て善 妙 な りとなし、
皆、麁
語 を習 うが 如 」 きもの とがある、
と云 う。 こ れ を以てみ るに、
仏・
菩 薩には、
時
に麁 語があ る と云 うが、
全 く煩 悩 を断 じて おり、
衆 生 を して正 法に安住
せ しめ ん が ためのも
ので あり、
制 戒さ るべ き所
謂 麁悪
語ではな くて、
「お 叱 り」 と受け とらして い た だ くべ きもの で はなか ろ うか。第
四章
弥
陀
の十
八願 文
に関 す
る考察
第
一
節
至心、信楽 、
欲 生と 乃至十
念親 鸞 聖 人はその
著
『教行
信 證 』 教 巻に、大
無 量寿
経の 「如来、 無 蓋 ノ大 悲ヲ モ テ三界ヲ矜 哀シ タ すく マ フ 。世二 出 興ス ル所 以ハ 道 教ヲ光 闡シテ群 萌ヲ拯ヒ、
恵ムニ真
実ノ利ヲモ テセ ム ト欲シ テ ナ リ.]
291 と あ るを
引用、 弥 陀如来は 広大
無 辺の慈 悲を
以て、迷
界の あらゆ る衆
生 を慈愍
さ れ、 こ の世に現わ れ たのである が、
そ れは自 力 聖 道の教 え を もっ て しては救われるこ と が で きない こ とを示さ れて、一
切の衆 生 を救わん とし て、
南 無 阿 弥 陀 仏の名
号 を恵 まれ たこ とを明 らかに し て下
され た。而 して信巻 に は、
「設 我得仏
十
方衆
生至 心信楽
欲 生我国
乃至十
念若不生者
不取 正 覚 唯 除五逆誹
謗 正 法」、
即 ち、
た とい我 れ 仏 を得んに、
十 方の衆
生 が、
至心、
信 楽、
欲生我国
の三 心を
具足 し、 乃 至十念 して、
もし生 れるこ とが なけ れば、
我れも 正 覚 を取 らじ。 唯 五 逆 と誹 謗 正 法の もの を除 く、
と ある第 十八願 文 を ご 引 用になっ て い る。 あら ゆるま た
本
願 成 就の文 を引
用され、『
大
経 』に 「諸 有衆
生 其ノ名 号ヲ聞
キ テ信心歓喜
セ ム コ ト、 乃至一
念セ ム。 至 心二 回 向セ シメ タマ ヘ リ。 彼 国二 生 ト願
ゼバ 、 即往生 ヲ得、
不退転二 住セ ム。 唯五逆 ト誹
謗 正 法 トオバ 除ク 」 30乏
あるを、 『
無 量 寿 如 来 会』
30切
文と比 較 し、 正 依の 『大
経 』には 「乃 至一
念」 と だ け あっ て、称名
の一
念 ともみ られ るの で あ る が、
聖 人は わ ざ わ ざ異 訳の 『如来会
』の 文 を 引 用されて、
その 箇 所が 「一
念浄
信 」と なっ てい ること を指
滴 し、
こ の 「浄 信」、
清 浄の信 心 は 凡 夫 の迷 妄汚濁
の心 か らい ず る筈はな く、 まっ た く如来の清浄
心 で あ るこ とを 明ら か に し て下
さ っ た もの で あ ろ う。ま た 『
散善義
』の文 を引
用 し て、
「経二 云ク。
一
者 至 誠心。 至ハ 真 ナリ、 誠ハ 実 ナ リ、一
切衆 生 も ち あ か さ おも ノ身口意業
ノ所 修ノ解 行、
必 ズ真
実 心ノ中
二作 シタマ ヘ ル ヲ須ヰル コ トヲ明ム ト欲フ。 外二 賢 善 精 げ ん ずる や 進 ノ相ヲ現コ トヲ得ザ レ、内
二虚仮
ヲ懐
イ テ、
貪 瞋邪 偽、
奸 詐 百 端ニ シ テ、 悪 性侵
メ難
シ、事
蛇 蝎 な づ け 二 同ジ。 三業ヲ起ス トイヘ ドモ 名 テ雑 毒ノ善 ト為ス、
亦 虚 仮 ノ行 ト名ク、 真 実 ノ業
トナヅケザル ナ もと リ。 若 此 ノ如キ 安心 起行ヲ作ス者ノ丶 タ トヒ身
心ヲ苦 励シテ、 日夜 十二時二 、 急二 走メ急二 作 シテ 頭 燃痩
。ガ 如 ク。賭
ハ、
菓
テ溝 ・斟 名・. 此・糠 ・行ヲ回シテ彼・仏 ・1
争土二糴
ト欲 ス ル者ハ、
此レ必ズ不 可 ナ リ。 何ヲ以 ノ故二、
正シ ク彼ノ阿 弥 陀 仏因中二菩
薩 ノ行ヲ行ジ タマ フ シ阿 弥 陀 仏の第 十八願中 「唯 除」の意 義につ いて の